2018年12月アーカイブ

 

おはようございます。昨日は急遽お休みをいただき、大変失礼しました。今年も残すところあとわずか、少しは年の瀬らしくなった感じがしないわけでもありません。長いようで短かった1年、何かと波乱がありましたが、実り多き年でもありました。来年辺りからこれまでの努力の結果が現れ始めるのではないかと期待が高まっているところです。

 

さて、本日は「明暦の大火」その②として、諸説ある失火の原因について紹介したいと思います。

 

明暦の大火が、別名「振袖火事」と呼ばれていることは有名です。諸説ある失火原因の中で、庶民の間に最も広く信じられているもので、本郷丸山にある本妙寺の振袖供養の火が燃え広がったという説です。

 

明暦の大火の4年前の承応3年(1654年)3月、麻布の質屋・遠州屋彦右衛門の一人娘・梅乃が母に連れられて菩提寺である本妙寺に参詣したついでに、浅草観音に廻るつもりで上野山下を通り過ぎた際に、寺小姓風の美少年に一目ぼれしてしまいます。梅乃はその美少年のことが忘れられず、恋煩いの病でしょうか、食欲もなくなり寝込んでしまいます。両親はせめてもと、美少年が着ていた服と同じ荒磯と菊柄の振袖を作り梅乃に与えますが、翌承応4年〔明暦元年〕(1655年)1月16日に17歳の若さで亡くなってしまいました。

 

両親は葬礼にあたり、せめてもの供養にと娘の棺桶に形見の振袖をかけて弔いました。棺桶にかけられた振袖は、葬儀の後、寺男たちによって古着屋へと売り払われます。当時、こうした遺品を売った代金は、寺男たちの清めの酒代としてされていました。

 

さて、古着屋にわたったその振袖ですが、今度は上野の紙商・大松屋又蔵の娘・きののものとなります。ところが、きのもしばらくの後に病に倒れ、明暦2年(1656年)に17歳で亡くなります。葬儀は梅乃が亡くなった1月16日に本妙寺で行われ、再びその振袖が本妙寺に納められ、またしても売り払われます。

 

そして今度は、その振袖が本郷元町の麹商・喜右衛門の娘・いくのものとなります。いくもまた病によって翌明暦3年(1657年)に17歳で亡くなり、またもや、この振袖が1月16日に本妙寺に持ち込まれました。

 

3度も同じことが重なると、さすがに住職も古着屋に払い下げることをためらいます。そこで、亡くなった娘3人の親が施主となって、同年1月18日に本妙寺境内で大施餓鬼会(おおせがきえ)の法要を行い、振袖を火に投じて供養することにしました。

 

この日、住職が読経を始め、護摩の火の中に振袖を投じると、にわかに一陣の北風が起こりました。その風によって、火のついた振袖が人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、本堂をはじめ寺の軒先などに火が移り、次第に町へと燃え広がりました。

 

この振袖にまつわる失火原因説は伝説の域を出ず、誰がいつ頃言い出したのかもはっきりしていません。後に起こる「八百屋お七」の大火の影響もあり、何らかの話題性を添えたいという江戸庶民の心理だったのかもしれません。

 

我が職場も本日で仕事納め、明暦の大火の紹介も途中になってしまいましたが、瓦版もお休みさせていただき、年明けにその続きをお話ししたいと思います。新年は1月7日(月)から再開致します。皆様、よいお年をお迎えください。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日のニューヨーク市場での株価暴落を受け、昨日の日経平均株価は1,010円安で取引を終えています。昨日はクリスマスでニューヨーク市場はお休み、本日の日本の株式市場の動向がどうなるのか、気になるところです。世銀もIMFも来年度の経済見通しは、今年の景気回復の流れを受けて、概ね堅調に推移するとの見方ですが、一方で米中貿易摩擦やイラン情勢など地政学的リスクによる世界経済への影響が懸念されるところで、状況如何によっては景気が一気に冷え込む恐れも否定できません。

 

さて、本日は江戸最大の被害を出したとされる「明暦の大火」について紹介したいと思います。明暦の大火は、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から翌々日の1月20日(3月4日)に起きた大火で、これにより江戸の大半が被災し、江戸城天守までも焼失する大災害となったものです。この年の十干十二支にちなんで「丁酉火事(ひのととりかじ)」、火元の地名から「丸山火事(まるやまかじ)」、更には出火の原因の一つとされる「振袖火事(ふりそでかじ)」などとも呼ばれています。被害の大きさからも、江戸三大火事の筆頭に位置付けられています。

 

明暦3年1月18日の未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺から出火した火は、同日辰の刻から吹き始めた強い北西の風にあおられて、神田、京橋方面へと燃え広がり、湯島天神、神田明神、東本願寺を焼いて、隅田川対岸にも及びました。このとき、日本橋の埋立地にあった霊巌寺(後に現在の江東区白河に移転)に逃げ込んだ避難民約1万人が火に囲まれて焼死、更に小伝馬町の牢獄が燃え出したことから、町奉行の判断で一時解放された囚人が、脱走と勘違いした浅草橋の役人によって門が閉ざされたために、逃げ場を失った2万3,000人が犠牲となったとされています。この火災は翌19日の深夜2時頃には鎮火しました。

 

19日になっても強風は止まず、同日巳の刻(午前10時頃)、今度は小石川伝通院表門下、新鷹匠(しんたかじょう)町の大番与力の宿舎から火災が発生、小石川、北神田、そして飯田橋から九段へと延焼し、江戸城は西の丸は焼失を免れたものの、本丸、二の丸、三の丸、天守を含む大半が焼けてしまいました。

 

更に19日申の刻(16時頃)、今度は麹町5丁目の在家から出火した火が南東方向の桜田一帯から西の丸下、そして新橋の海岸まで達し、江戸湾沿岸の多くの船を焼いた後、鎮火しました。

 

明暦の大火は、この立て続けに起きた火元3カ所の火事を指します。この火事により焼失した町の数は500800、町民の住宅ばかりでなく、大名屋敷、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数が焼け、死者は諸説ありますが3万とも10万とも記録されています。被害がここまで広がった原因として、前年11月から80日にわたって雨が降っておらず、乾燥しきっていたことに加え、運悪く北西の激しい風が止まなかったことが考えられます。

 

次回は、明暦の大火の失火原因について紹介します。

 

高見澤

 

おはようございます。インドネシアのスンダ海峡に面するジャワ島及びスマトラ島の沿岸で起きた津波による犠牲者は373人に達し、その数はさらに増えるものとみられています。スンダ海峡にあるアナク・クラカタウ火山の噴火による海底の地滑りが原因とのことで、大規模な地震があったわけでなく、突然の津波に住民たちも非難する術がなかったのでしょう。イスラム教徒が多いインドネシアでは、クリスマスを祝うことに反対する勢力もあるようですが、クリスマスが商業活動の活性化を促すこともあって、一般市民の間ではクリスマスムードが高まっていたようです。新たな年を迎えるにあたり、現地の人たちの心情を察するに、何ともいたたまれない気持ちになります。一日も早い復興を願うばかりです。

 

さて、本日は「承応事件(じょうおうじけん)」について紹介したいと思います。承応事件は「承応の変」とも呼ばれる増加する浪人の不満が爆発した事件の一つです。

 

慶安5年9月(165210月)、軍学者を名乗る浪人・別木(戸次)庄左衛門(べつきしょうざえもん)をはじめ、林戸右衛門(はやしとうえもん)、土岐与左衛門(ときよざえもん)、三宅平六、藤江又十郎ら数名が、2代将軍秀忠の正室・崇源院の27回忌が芝の増上寺で営まれるのに乗じて、江戸の町に火を放って騒動を起こして、27回忌の香典を奪い、駆けつけた老中を鉄砲で暗殺する計画を立てていることが発覚しました。

 

計画が発覚したのは、土岐の弟を養子としていた永嶋刑部左衛門嘉林(よしもと)にその計画が漏れ、永嶋が老中・松平信綱に密告したことによるもので、一味は町奉行により捕えられ、江戸市中引き廻しのうえ磔、一族も連座で死刑となりました。また、一味には加わらなかったものの、計画を打ち明けられながら幕府に知らせなかったとして、備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も磔に処せられ、別木と交際があった老中・阿部忠秋の家臣・山本兵部も切腹を命じられています。幕府としては、この事件に対し、厳しい処分が下されています。

 

一方、計画を訴え出た永嶋刑部は、もともとは旗本の家来でしたが、恩賞として500石が与えられ、直参となっています。

 

承応事件は、前年の慶安4年(1651年)に起きた由井正雪の「慶安の変」とともに、それまでの武断政治による浪人増加の結果として生じた事件として受け止められ、以後、幕府は文治政治へと方針を変えるきっかかとなりました。承応事件自体、実際には火事にはならなかったものの、放火や幕府転覆を狙った極悪犯として厳しい処分が科せられた事例として、火事のシリーズで取り上げました。

 

尚、慶安5年に発生したにもかかわらず本事件が「承応事件」とされているのは、「慶安の変」と区別するためという理由もあるかと思いますが、事件発生後の5日後に元号が慶安から「承応」に改元されており、承応元年になってから事件が解決したことから、承応事件と名付けられました。

 

高見澤

 

おはようございます。こう毎日忙しい日が続くと、ゆっくりと季節の移り変わりを堪能する余裕もなく、ただただ時間が過ぎていく虚しさを感じてしまいます。年の瀬が押し迫り、世間では忘年会やらカレンダー配りなどで年末を感じている人もいるでしょうが、そんな世界とは無縁の私です。世間では明日から3連休、クリスマスイブを迎えます...

 

さて、本日からは「江戸の主な大火」について紹介していきたいと思います。先般、江戸では火事が1,798回発生し、そのうち大火と呼ばれるものが49回と紹介しましたが、実際のところ厳密な記録はなく、正確な数は不明というのが正直なところです。それでも、江戸三大大火と呼ばれる「明暦の大火」、「明和の大火」、「文化の大火」については少し詳細にお話ししたいこともあり、本シリーズは数回に分け、時代に沿って紹介していきたいと思います。

 

江戸で記録された最初の大火は、慶長6年閏11月(160112月)におきた火災です。日本橋駿河町より出火し、江戸全域が延焼したということですが、詳細な被災状況は不明です。

 

寛永16年8月(1639年9月)に江戸城本丸が焼ける火事が発生しています。このとき、二の丸、天守、城櫓は罹災せず、残っていました。

 

寛永18年1月(1641年3月)、京橋桶町(八重洲二丁目付近)から出火し、烈風により通四町(日本橋一丁目~三丁目)、箔屋町(日本橋三丁目)、檜物町(八重洲一丁目、日本橋三丁目)、大工町(八重洲一丁目、日本橋二丁目)、油町(日本橋大伝馬町)などに延焼した火災が発生しました。焼失した町の数は97町、家屋1,924戸(うち武家屋敷121、同心屋敷56)、死者400人以上というこの大火は「桶町火事」と呼ばれています。消防の陣頭指揮を執っていたいた大目付・加賀爪忠澄(かがつめただすみ)が煙に巻かれて殉職、消火活動にあたっていた相馬藩主・相馬義胤が重傷を負ったのも、この火事でした。江戸の防火体制の見直しが行われ、大名火消が設置されるきっかけになりました。

 

正保2年(1645年)12月には、日本橋富沢町から出火し、吉原(元吉原)が全焼する火災が発生しています。

 

慶安元年(1648年)7月、新番・木造俊次の家臣・六右衛門が、主人の屋敷に放火して、主人及び妻子など11人を鑓で突き殺して逐電するという痛ましい事件が発生します。その後、六右衛門は自殺未遂しますが、捕えられて磔刑となりました。

 

以下、次回に続きます。

 

高見澤
 

おはようございます。今年も残すところあと10日余り。とにかく仕事に追われ、慌ただしく過ぎた1年でした。この1年、自分自身成長があったのかはよく分かりませんが、何かと矛盾が多いこの社会で、真面目にこつこつと生きてきたものだと、褒めてやりたい気持ちにもなります。結果は結果として受け止めるつもりではいますが、この不条理な社会の仕組みが変わらない限り、この世界の発展は望めないのではないでしょうか?

 

さて、本日は、「火事による江戸経済への影響」について紹介したいと思います。

 

江戸時代、たびたび発生した大火ですが、大火によって江戸城を含む江戸の町が焼失すると、その再建には莫大な費用と資材、労力が必要となりました。復興に伴う江戸幕府の支出、負担は尋常なものではなく、これが幕府財政窮乏の主な要因の一つであったことはうなずけます。もちろん、町人の負担も少なくなく、町入用経費でも、消防・防火対策関連費用が最も多かったと言われています。しかし、その一方で、火事によって新たな都市計画による町造りが可能となるなど、経済成長のきっかけになったことも事実です。

 

大火によって家屋ばかりでなく、蓄えらていた食料品の大半が焼けてなくなります。食料不足によって食品の価格が高騰、家屋再建のための木材等の建築資材に至っては何倍にも価格が高くなったようです。復興にあたってはインフラ建設が基本になりますから、増加する仕事量に伴って職人不足が生じ、各分野で賃金が高騰していきました。また、家屋不足による借家の賃料や橋梁の焼失による渡し船の賃料まで上昇する始末です。

 

武士や町人の生活への影響を踏まえ、幕府は物価の値上げを禁じる通達を出し、地方での米の幕府買い上げや、農民による米の直接販売を認めるなどの措置を講じました。このため、大火の後には、江戸から各地方への膨大な買い付けが増加するので、日本全国で経済的に大きな影響が及ぶことになります。また、いつの時代にも需要の増加に伴う便乗値上げをする者もいますが、江戸時代もその例外ではなかったようです。

 

江戸城天守閣や本丸までが焼失した明暦の大火の後の復興では、天守は再建されなかったものの、本丸御殿再建の費用が全部で93万両であったとの記録があるようです。また、幕府による救済も行われ、大名には下賜金や恩貸金が与えられ、旗本や御家人には禄高に応じた拝領金を与え、給米の前借も認めていたようです。一方、町人に対しては、大名に命じて粥などの炊き出しを行い、焼け出された米蔵の米を無料で町人に供出していました。

 

このように、大火の度に幕府が救済を続けていたのですが、幕府財政の悪化に伴い、救済の規模は次第に縮小されていきました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、北京出張から帰国しました。今回の出張の目的は、一昨日北京で開催された「日中スマート製造セミナー」への参加で、今後のスマート製造分野における日中協力の方策を検討するための材料集めでした。本日、夕方から経済産業省とその件も含めて、来年度事業を一緒に協議することになっています。今回参加して感じたのは、政府の考え方と民間の意向との間に、かなりの温度差が生じていることです。それぞれ目的が違うので当然といえば当然なのですが...

 

さて、本日は江戸の火事の際の「失火の処分」について紹介したいと思います。前回説明したように、放火に対しては火罪や死罪などの厳罰をもって対処することで、その抑制を図っていましたが、失火については、それほど厳しい処分が下されることはありませんでした。

 

武家屋敷の場合、火元であっても屋敷内で消し止めることができれば、一切の罪に問われることはありませんでした。火事が屋敷内か屋敷外かの判断は、門が焼け残っているか否かが分かれ目だったようです。ですから、武家屋敷では門の防火を特に重視し、延焼しそうな場合には、門の扉を取り外して避難することもあり、また、火事が発生したにもかかわらず、門を閉じて駆けつけた町火消を屋敷内に入れず、自分たちだけで消火して、焚火であったと誤魔化す事例もありました。

 

武家屋敷において失火した場合、大目付に「屋敷換えの差控え」を伺い出なければならず、屋敷外に延焼した際には「進退伺い」を提出することになっていました。通例として失火3回に至ると江戸の外縁部である「朱引外」への屋敷換えになったと言われていますが、明確な規定はありませんでした。

 

町人の失火についても、武家同様に厳しい処分はされませんでした。小さな火災であれば罪に問われることはなく、火災の規模が大きくなれば、それに応じて罪が科せられました。享保2年(1717年)の『御定書百箇条』によると、小間10間(約18メートル)以上が焼失した場合、その火元は10日、20日、30日の「押込(おしこめ)」と呼ばれる禁固刑に定められていました。