2018年12月アーカイブ

 

おはようございます。昨日は急遽お休みをいただき、大変失礼しました。今年も残すところあとわずか、少しは年の瀬らしくなった感じがしないわけでもありません。長いようで短かった1年、何かと波乱がありましたが、実り多き年でもありました。来年辺りからこれまでの努力の結果が現れ始めるのではないかと期待が高まっているところです。

 

さて、本日は「明暦の大火」その②として、諸説ある失火の原因について紹介したいと思います。

 

明暦の大火が、別名「振袖火事」と呼ばれていることは有名です。諸説ある失火原因の中で、庶民の間に最も広く信じられているもので、本郷丸山にある本妙寺の振袖供養の火が燃え広がったという説です。

 

明暦の大火の4年前の承応3年(1654年)3月、麻布の質屋・遠州屋彦右衛門の一人娘・梅乃が母に連れられて菩提寺である本妙寺に参詣したついでに、浅草観音に廻るつもりで上野山下を通り過ぎた際に、寺小姓風の美少年に一目ぼれしてしまいます。梅乃はその美少年のことが忘れられず、恋煩いの病でしょうか、食欲もなくなり寝込んでしまいます。両親はせめてもと、美少年が着ていた服と同じ荒磯と菊柄の振袖を作り梅乃に与えますが、翌承応4年〔明暦元年〕(1655年)1月16日に17歳の若さで亡くなってしまいました。

 

両親は葬礼にあたり、せめてもの供養にと娘の棺桶に形見の振袖をかけて弔いました。棺桶にかけられた振袖は、葬儀の後、寺男たちによって古着屋へと売り払われます。当時、こうした遺品を売った代金は、寺男たちの清めの酒代としてされていました。

 

さて、古着屋にわたったその振袖ですが、今度は上野の紙商・大松屋又蔵の娘・きののものとなります。ところが、きのもしばらくの後に病に倒れ、明暦2年(1656年)に17歳で亡くなります。葬儀は梅乃が亡くなった1月16日に本妙寺で行われ、再びその振袖が本妙寺に納められ、またしても売り払われます。

 

そして今度は、その振袖が本郷元町の麹商・喜右衛門の娘・いくのものとなります。いくもまた病によって翌明暦3年(1657年)に17歳で亡くなり、またもや、この振袖が1月16日に本妙寺に持ち込まれました。

 

3度も同じことが重なると、さすがに住職も古着屋に払い下げることをためらいます。そこで、亡くなった娘3人の親が施主となって、同年1月18日に本妙寺境内で大施餓鬼会(おおせがきえ)の法要を行い、振袖を火に投じて供養することにしました。

 

この日、住職が読経を始め、護摩の火の中に振袖を投じると、にわかに一陣の北風が起こりました。その風によって、火のついた振袖が人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、本堂をはじめ寺の軒先などに火が移り、次第に町へと燃え広がりました。

 

この振袖にまつわる失火原因説は伝説の域を出ず、誰がいつ頃言い出したのかもはっきりしていません。後に起こる「八百屋お七」の大火の影響もあり、何らかの話題性を添えたいという江戸庶民の心理だったのかもしれません。

 

我が職場も本日で仕事納め、明暦の大火の紹介も途中になってしまいましたが、瓦版もお休みさせていただき、年明けにその続きをお話ししたいと思います。新年は1月7日(月)から再開致します。皆様、よいお年をお迎えください。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日のニューヨーク市場での株価暴落を受け、昨日の日経平均株価は1,010円安で取引を終えています。昨日はクリスマスでニューヨーク市場はお休み、本日の日本の株式市場の動向がどうなるのか、気になるところです。世銀もIMFも来年度の経済見通しは、今年の景気回復の流れを受けて、概ね堅調に推移するとの見方ですが、一方で米中貿易摩擦やイラン情勢など地政学的リスクによる世界経済への影響が懸念されるところで、状況如何によっては景気が一気に冷え込む恐れも否定できません。

 

さて、本日は江戸最大の被害を出したとされる「明暦の大火」について紹介したいと思います。明暦の大火は、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から翌々日の1月20日(3月4日)に起きた大火で、これにより江戸の大半が被災し、江戸城天守までも焼失する大災害となったものです。この年の十干十二支にちなんで「丁酉火事(ひのととりかじ)」、火元の地名から「丸山火事(まるやまかじ)」、更には出火の原因の一つとされる「振袖火事(ふりそでかじ)」などとも呼ばれています。被害の大きさからも、江戸三大火事の筆頭に位置付けられています。

 

明暦3年1月18日の未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺から出火した火は、同日辰の刻から吹き始めた強い北西の風にあおられて、神田、京橋方面へと燃え広がり、湯島天神、神田明神、東本願寺を焼いて、隅田川対岸にも及びました。このとき、日本橋の埋立地にあった霊巌寺(後に現在の江東区白河に移転)に逃げ込んだ避難民約1万人が火に囲まれて焼死、更に小伝馬町の牢獄が燃え出したことから、町奉行の判断で一時解放された囚人が、脱走と勘違いした浅草橋の役人によって門が閉ざされたために、逃げ場を失った2万3,000人が犠牲となったとされています。この火災は翌19日の深夜2時頃には鎮火しました。

 

19日になっても強風は止まず、同日巳の刻(午前10時頃)、今度は小石川伝通院表門下、新鷹匠(しんたかじょう)町の大番与力の宿舎から火災が発生、小石川、北神田、そして飯田橋から九段へと延焼し、江戸城は西の丸は焼失を免れたものの、本丸、二の丸、三の丸、天守を含む大半が焼けてしまいました。

 

更に19日申の刻(16時頃)、今度は麹町5丁目の在家から出火した火が南東方向の桜田一帯から西の丸下、そして新橋の海岸まで達し、江戸湾沿岸の多くの船を焼いた後、鎮火しました。

 

明暦の大火は、この立て続けに起きた火元3カ所の火事を指します。この火事により焼失した町の数は500800、町民の住宅ばかりでなく、大名屋敷、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数が焼け、死者は諸説ありますが3万とも10万とも記録されています。被害がここまで広がった原因として、前年11月から80日にわたって雨が降っておらず、乾燥しきっていたことに加え、運悪く北西の激しい風が止まなかったことが考えられます。

 

次回は、明暦の大火の失火原因について紹介します。

 

高見澤

 

おはようございます。インドネシアのスンダ海峡に面するジャワ島及びスマトラ島の沿岸で起きた津波による犠牲者は373人に達し、その数はさらに増えるものとみられています。スンダ海峡にあるアナク・クラカタウ火山の噴火による海底の地滑りが原因とのことで、大規模な地震があったわけでなく、突然の津波に住民たちも非難する術がなかったのでしょう。イスラム教徒が多いインドネシアでは、クリスマスを祝うことに反対する勢力もあるようですが、クリスマスが商業活動の活性化を促すこともあって、一般市民の間ではクリスマスムードが高まっていたようです。新たな年を迎えるにあたり、現地の人たちの心情を察するに、何ともいたたまれない気持ちになります。一日も早い復興を願うばかりです。

 

さて、本日は「承応事件(じょうおうじけん)」について紹介したいと思います。承応事件は「承応の変」とも呼ばれる増加する浪人の不満が爆発した事件の一つです。

 

慶安5年9月(165210月)、軍学者を名乗る浪人・別木(戸次)庄左衛門(べつきしょうざえもん)をはじめ、林戸右衛門(はやしとうえもん)、土岐与左衛門(ときよざえもん)、三宅平六、藤江又十郎ら数名が、2代将軍秀忠の正室・崇源院の27回忌が芝の増上寺で営まれるのに乗じて、江戸の町に火を放って騒動を起こして、27回忌の香典を奪い、駆けつけた老中を鉄砲で暗殺する計画を立てていることが発覚しました。

 

計画が発覚したのは、土岐の弟を養子としていた永嶋刑部左衛門嘉林(よしもと)にその計画が漏れ、永嶋が老中・松平信綱に密告したことによるもので、一味は町奉行により捕えられ、江戸市中引き廻しのうえ磔、一族も連座で死刑となりました。また、一味には加わらなかったものの、計画を打ち明けられながら幕府に知らせなかったとして、備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も磔に処せられ、別木と交際があった老中・阿部忠秋の家臣・山本兵部も切腹を命じられています。幕府としては、この事件に対し、厳しい処分が下されています。

 

一方、計画を訴え出た永嶋刑部は、もともとは旗本の家来でしたが、恩賞として500石が与えられ、直参となっています。

 

承応事件は、前年の慶安4年(1651年)に起きた由井正雪の「慶安の変」とともに、それまでの武断政治による浪人増加の結果として生じた事件として受け止められ、以後、幕府は文治政治へと方針を変えるきっかかとなりました。承応事件自体、実際には火事にはならなかったものの、放火や幕府転覆を狙った極悪犯として厳しい処分が科せられた事例として、火事のシリーズで取り上げました。

 

尚、慶安5年に発生したにもかかわらず本事件が「承応事件」とされているのは、「慶安の変」と区別するためという理由もあるかと思いますが、事件発生後の5日後に元号が慶安から「承応」に改元されており、承応元年になってから事件が解決したことから、承応事件と名付けられました。

 

高見澤

 

おはようございます。こう毎日忙しい日が続くと、ゆっくりと季節の移り変わりを堪能する余裕もなく、ただただ時間が過ぎていく虚しさを感じてしまいます。年の瀬が押し迫り、世間では忘年会やらカレンダー配りなどで年末を感じている人もいるでしょうが、そんな世界とは無縁の私です。世間では明日から3連休、クリスマスイブを迎えます...

 

さて、本日からは「江戸の主な大火」について紹介していきたいと思います。先般、江戸では火事が1,798回発生し、そのうち大火と呼ばれるものが49回と紹介しましたが、実際のところ厳密な記録はなく、正確な数は不明というのが正直なところです。それでも、江戸三大大火と呼ばれる「明暦の大火」、「明和の大火」、「文化の大火」については少し詳細にお話ししたいこともあり、本シリーズは数回に分け、時代に沿って紹介していきたいと思います。

 

江戸で記録された最初の大火は、慶長6年閏11月(160112月)におきた火災です。日本橋駿河町より出火し、江戸全域が延焼したということですが、詳細な被災状況は不明です。

 

寛永16年8月(1639年9月)に江戸城本丸が焼ける火事が発生しています。このとき、二の丸、天守、城櫓は罹災せず、残っていました。

 

寛永18年1月(1641年3月)、京橋桶町(八重洲二丁目付近)から出火し、烈風により通四町(日本橋一丁目~三丁目)、箔屋町(日本橋三丁目)、檜物町(八重洲一丁目、日本橋三丁目)、大工町(八重洲一丁目、日本橋二丁目)、油町(日本橋大伝馬町)などに延焼した火災が発生しました。焼失した町の数は97町、家屋1,924戸(うち武家屋敷121、同心屋敷56)、死者400人以上というこの大火は「桶町火事」と呼ばれています。消防の陣頭指揮を執っていたいた大目付・加賀爪忠澄(かがつめただすみ)が煙に巻かれて殉職、消火活動にあたっていた相馬藩主・相馬義胤が重傷を負ったのも、この火事でした。江戸の防火体制の見直しが行われ、大名火消が設置されるきっかけになりました。

 

正保2年(1645年)12月には、日本橋富沢町から出火し、吉原(元吉原)が全焼する火災が発生しています。

 

慶安元年(1648年)7月、新番・木造俊次の家臣・六右衛門が、主人の屋敷に放火して、主人及び妻子など11人を鑓で突き殺して逐電するという痛ましい事件が発生します。その後、六右衛門は自殺未遂しますが、捕えられて磔刑となりました。

 

以下、次回に続きます。

 

高見澤
 

おはようございます。今年も残すところあと10日余り。とにかく仕事に追われ、慌ただしく過ぎた1年でした。この1年、自分自身成長があったのかはよく分かりませんが、何かと矛盾が多いこの社会で、真面目にこつこつと生きてきたものだと、褒めてやりたい気持ちにもなります。結果は結果として受け止めるつもりではいますが、この不条理な社会の仕組みが変わらない限り、この世界の発展は望めないのではないでしょうか?

 

さて、本日は、「火事による江戸経済への影響」について紹介したいと思います。

 

江戸時代、たびたび発生した大火ですが、大火によって江戸城を含む江戸の町が焼失すると、その再建には莫大な費用と資材、労力が必要となりました。復興に伴う江戸幕府の支出、負担は尋常なものではなく、これが幕府財政窮乏の主な要因の一つであったことはうなずけます。もちろん、町人の負担も少なくなく、町入用経費でも、消防・防火対策関連費用が最も多かったと言われています。しかし、その一方で、火事によって新たな都市計画による町造りが可能となるなど、経済成長のきっかけになったことも事実です。

 

大火によって家屋ばかりでなく、蓄えらていた食料品の大半が焼けてなくなります。食料不足によって食品の価格が高騰、家屋再建のための木材等の建築資材に至っては何倍にも価格が高くなったようです。復興にあたってはインフラ建設が基本になりますから、増加する仕事量に伴って職人不足が生じ、各分野で賃金が高騰していきました。また、家屋不足による借家の賃料や橋梁の焼失による渡し船の賃料まで上昇する始末です。

 

武士や町人の生活への影響を踏まえ、幕府は物価の値上げを禁じる通達を出し、地方での米の幕府買い上げや、農民による米の直接販売を認めるなどの措置を講じました。このため、大火の後には、江戸から各地方への膨大な買い付けが増加するので、日本全国で経済的に大きな影響が及ぶことになります。また、いつの時代にも需要の増加に伴う便乗値上げをする者もいますが、江戸時代もその例外ではなかったようです。

 

江戸城天守閣や本丸までが焼失した明暦の大火の後の復興では、天守は再建されなかったものの、本丸御殿再建の費用が全部で93万両であったとの記録があるようです。また、幕府による救済も行われ、大名には下賜金や恩貸金が与えられ、旗本や御家人には禄高に応じた拝領金を与え、給米の前借も認めていたようです。一方、町人に対しては、大名に命じて粥などの炊き出しを行い、焼け出された米蔵の米を無料で町人に供出していました。

 

このように、大火の度に幕府が救済を続けていたのですが、幕府財政の悪化に伴い、救済の規模は次第に縮小されていきました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、北京出張から帰国しました。今回の出張の目的は、一昨日北京で開催された「日中スマート製造セミナー」への参加で、今後のスマート製造分野における日中協力の方策を検討するための材料集めでした。本日、夕方から経済産業省とその件も含めて、来年度事業を一緒に協議することになっています。今回参加して感じたのは、政府の考え方と民間の意向との間に、かなりの温度差が生じていることです。それぞれ目的が違うので当然といえば当然なのですが...

 

さて、本日は江戸の火事の際の「失火の処分」について紹介したいと思います。前回説明したように、放火に対しては火罪や死罪などの厳罰をもって対処することで、その抑制を図っていましたが、失火については、それほど厳しい処分が下されることはありませんでした。

 

武家屋敷の場合、火元であっても屋敷内で消し止めることができれば、一切の罪に問われることはありませんでした。火事が屋敷内か屋敷外かの判断は、門が焼け残っているか否かが分かれ目だったようです。ですから、武家屋敷では門の防火を特に重視し、延焼しそうな場合には、門の扉を取り外して避難することもあり、また、火事が発生したにもかかわらず、門を閉じて駆けつけた町火消を屋敷内に入れず、自分たちだけで消火して、焚火であったと誤魔化す事例もありました。

 

武家屋敷において失火した場合、大目付に「屋敷換えの差控え」を伺い出なければならず、屋敷外に延焼した際には「進退伺い」を提出することになっていました。通例として失火3回に至ると江戸の外縁部である「朱引外」への屋敷換えになったと言われていますが、明確な規定はありませんでした。

 

町人の失火についても、武家同様に厳しい処分はされませんでした。小さな火災であれば罪に問われることはなく、火災の規模が大きくなれば、それに応じて罪が科せられました。享保2年(1717年)の『御定書百箇条』によると、小間10間(約18メートル)以上が焼失した場合、その火元は10日、20日、30日の「押込(おしこめ)」と呼ばれる禁固刑に定められていました。

 

将軍の外出日である「将軍御成日」の失火は罪が重くなり、小間10間以上の焼失の場合、火元は手鎖50日で、平日であっても火災による被害が3町(約327メートル)以上の場合、火元ばかりでなく、火元の家主や地主、月行事(がちぎょうじ)は押込30日、五人組が押込20日、更に火元からみて風上の2町と風脇の左右2町、計6町の月行事も押込30日と、定められるなど、火元以外にも罪が及びました。

 

他方、寺社からの失火については、幕府としてもかなり配慮していたようです。火元となった場合は「遠慮」7日のみであり、僧侶に対して最も軽い刑が科せられました。遠慮とは、いわゆる軟禁状態のことを指します。将軍御成日や大火に至った場合でも遠慮10日で済まされています。

 

また、寺社の門前町での町人による失火の場合では、小間10日以上の焼失で押込3日で、他の町人に比べ比較的軽い処分となっていました。

 

高見澤

 

おはようございます。明後日、1216日(日)から北京出張です。経済産業省からの受託事業、中国内外一体化調査事業の一環として、17日(月)に北京で開催される「第2回日中スマート製造セミナー」に参加し、製造分野での日中スマート化協力に向けた政府への提言をまとめるものです。第四次産業革命の到来が叫ばれて大分経ちますが、依然として新たなビジネスモデルの構築に苦慮している状態です。次回の瓦版の発信は、来週水曜日19日になりますこと、ご了承ください。

 

さて、本日は「江戸の防火対策」について紹介したいと思います。前回、江戸の火事とその原因について説明しましたが、原因が分かれば、当然それに対する備えが可能となります。江戸幕府が主に講じた防火対策として挙げられるのは、消防組織である火消の制度化、放火を抑制するための厳罰化、大名屋敷や寺社の移転による「火除地(ひよけち)」或いは「広小路」の確保、そして瓦葺や土蔵造りの採用による不燃化の推進などです。このうち、火消の制度化についてはすでに詳細に紹介してきているので、ここで説明の必要はないでしょう。

 

先ずは、放火を抑制するための厳罰化です。放火は、江戸の火事の主な原因の一つになっていたことは、前回述べた通りです。幕府が放火犯の取締りに力を入れたことは当然のことで、江戸幕府の役職シリーズでも紹介した「火付改」、後に「火付盗賊改」が幕府によって設置され、犯人の捜査・捕縛を行っていたほか、町人に対しても放火犯の捕縛を奨励し、捕えた者には褒美が与えられました。

 

放火はもちろん重罪であり、原則として見せしめを目的として市中引き回しの上、公開での火罪(火焙り)でした。放火犯に家族がいる場合は縁座(家族・親族に対する連座)として、妻や娘が婢として下げ渡されたり、遠島となったりしたこともあったようです。放火が依頼に寄るものであった場合、依頼者は火罪、実行者が死罪で、放火犯が武士の場合は最高刑で獄門でした。とはいえ、こうした刑罰はあくまでも原則であって、特段の事情がある場合には減刑されることもあり、放火犯が15歳未満の幼年の場合には死罪にはならず、遠島や預置(あずけおき)となりました。

 

明暦の大火によって、江戸城天守や本丸を含む江戸市中の大半が焼失したことで、江戸の再建計画では防火対策を重視し、延焼を防ぐための火除地や広小路などの空間が設けられるようになりました。江戸城内にあった御三家の屋敷を城外に移転、他の大名や旗本の屋敷も移転することで、江戸市中の過密状態が次第に緩和されていきます。移転先の多くは江戸城から離れた場所で、元禄年間(1688年~1704年)以降、大名には中屋敷・下屋敷の用地が与えられました。築地や本所等の新たな埋立地が出来上がると、そこにも武家屋敷が設けられるようになり、町屋の移転も進みました。寺社の多くも浅草、駒込、小石川など外堀の外側に移され、吉原遊郭も今の人形町から浅草の北側に移転しました。

 

江戸市中再建にあたり、屋敷と屋敷の間に広場や空地を設け火除地としたほか、従来の街路を拡幅して広小路として、これもまた延焼防止の役に立ちました。こうした防火を前提とした都市計画の遂行により、江戸の市街地は次第に拡大していきました。

 

慶長6年(1601年)の大火をきっかけに、江戸では屋根を茅葺から板葺にするよう幕府が命じると同時に、大名屋敷をはじめとして瓦葺が流行ります。しかし、明暦の大火では火災の時には瓦の落下により怪我人が続出したことから、瓦葺が禁じられました。その代りに、延焼防止のために茅葺・藁葺の屋根に土を塗ったり、板葺が用いられたりしました。瓦葺の使用が本格的に命じられるようになったのは、8代将軍・吉宗の治世に入ってからでした。享保5年(1720年)に瓦葺の禁令を解き、享保7年(1722年)には、瓦葺、土蔵造り、塗り屋を命じるようになります。塗り屋とは、外側に土を塗った建物のことです。

 

非難の際に持ち出せないものを焼失から守るために、裕福な家では土蔵が造られ、庶民の間では、比較的費用の安い穴蔵が使われていました。土蔵は外側の壁を土で厚く塗り固め、漆喰などで仕上げたもので、屋根は瓦葺であったことから、火災のときでも焼失を免れることも少なくありませんでした。土蔵の一種で、「文庫蔵(ぶんごぐら)」と呼ばれる極めて火に強い構造もありましたが、建築費が普通の蔵の数倍にもなり、あまり普及しませんでした。また、「見世蔵」という店舗や住居そのものを蔵造りにした例もあります。穴蔵とは、読んで字の如く、地面に穴を掘って設けられた地下倉庫のことを指します。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は、また一段と風が冷たく感じます。次の日曜日から火曜日まで、北京出張となりますが、北京はまた一段と冷え込んでいることでしょう。今度のフライトも全日空を利用しますが、北京直行便なのでまずロストバゲージはないと思います。全日空からは、荷物は帰国後に一応出てきたものの、臨時で購入した代金の半分ほどが補償の対象として支払われるようです。本来、買わなくてよかったものまで購入したわけですが、それでも購入したモノは残るので、それで納得するしかないのでしょうか。

 

さて、前回までは江戸の火消について紹介してきましたので、そのついでに本日からは「江戸の火事」について紹介していきたいと思います。そこで、先ずは江戸の火事とその原因について、前置き的に解説してみましょう。

 

以前、火消のところでも紹介しましたが、江戸で発生した火事の回数は、他の都市に比べて圧倒的に多かったという研究成果があります。関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)から、大政奉還の行われた慶応3年(1867年)までの267年間に、江戸では「大火(たいか)」と呼ばれる大きな火災が49回、大火以外の火災も含めれば何と1,798回もの火事が発生しています。

 

他の都市について大火の発生回数を見てみると、京都が9回、大坂が6回、金沢が3回と、ケタそのものがまったく違います。

 

また、1,798回を数える江戸の火事を時代別にみると、慶長6年から元禄13年(1700年)までの100年間では269回、元禄14年(1701年)から寛政12年(1800年)までの100年間では541回、寛政13年・享和元年(1801年)から慶応3年までの67年間では986回と、時が過ぎるとともに火事の回数が極端に増加していることが分かります。

 

では、なぜこれだけ江戸に火事が多く、時代とともに増えていったのでしょうか? その原因として挙げられるのは、一口に言えば、人口の増加とそれに伴う建物の密集化が進んだからです。江戸の町が作られて以降、江戸で暮らす人が次第に増えていき、人口が100万人に達する世界最大の都市になったことは、皆さんご存知の通りです。人が増えれば、それに伴って都市も拡大するのですが、新たな都市が建設するまでは、町人は窮屈な思いをしながら密集した建物に住まわざるを得なかったのです。

 

元々、江戸時代には電気などありませんので、調理や照明に火を使うことは当たり前のことです。そのため、火の取り扱いや始末の不備による失火で火が燃え上がると、木造家屋、茅葺・藁葺の屋根、紙を使った障子などはあっという間に焼失してしまい、家屋が密集していれば、それだけ被害も広がってしまうというわけです。

 

また、江戸の気候条件も被害が広がる要因の一つになります。日本海から日本に流れ込む北、又は北西の風である冬の季節風は、中央にそびえる山脈によって湿気が遮られ、乾燥した「空っ風」とよばれる強風が江戸に流れ込みます。さらに春から秋にかけては、日本海を通過する低気圧によってフェーン現象が起こり、高温で乾燥した南又は南西の風が吹きます。こうした乾燥した風が、火の燃え広がりを酷くする役目を果たしてしまうのです。

 

もう一つ、「火付(放火)」による火事も少なくなかったようです。「火附」、「火を付候者」、「火賊」などと記され、放火犯の多くは生活に困窮した者でした。享保8年(1723年)から翌享保9年(1724年)までの2年間で捕えられた放火犯は102名で、その中には無宿者など下層民が多く含まれていたと言われています。放火の動機としては、火事騒ぎの紛れて盗みを働く「火事場泥棒」で、恋愛や怨恨など人間関係に起因する放火もあったようです。放火犯に対する処罰は厳しく、見せしめとして、市中引き回しのうえ、火あぶりが原則でした。これについては、また詳細に紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。12月も中盤を迎え、朝晩に限らず日中も風の冷たさが身に沁みる季節となりました。東京は今日の夕方頃から雨が降り始め、明日の明け方には止むとの予報です。日一日と寒くなりますので、体調など崩さないようお気を付けてお過ごしください。尚、明日は朝食懇談会のため、瓦版をお休みさせていただきます。

 

さて、本日は「江戸時代の消火道具」について紹介してみたいと思います。これまでも、何度も紹介してきたように、江戸の消火方法の主体は、火災の間近のまだ燃えていない建物から壊して延焼を防ぐ「破壊消防」でした。そのため、町火消では一般の町人よりも鳶職人が重んじられたことも、すでに紹介してきた通りです。

 

火災の早期発見のために、江戸の町には「火の見櫓」や「火の見梯子」が所々に設置されていました。火事を知らせたり、町火消の出動の合図として「半鐘」や「板木」が用いられ、叩き方によって火事場の遠近などが分かるように決められていたそうです。

 

火災が発生したことが分かると、先ず現場に最初に駆けつけた組の「纏持(まといもち)」が火事場に近い家の屋根に上り、そこを目安に取り壊しを行います。この「纏(まとい)」が江戸消火のシンボルとして、先ずはみられるようになります。当初この纏は、幟(のぼり)型の纏が使われていたようですが、その後に「陀志(だび)」と呼ばれる大きな頭部分と、「馬簾(ばれん)」と呼ばれる細長い厚紙や革を垂れ流したものに変わり、いろは組などそれぞれの組を象徴する纏となっていきます。

 

高い屋根に上るには「梯子」が必要です。梯子は、梯子持と呼ばれる平の鳶人足よりも上位の者が扱うことになっていて、水を運び上げる足場としても利用されました。梯子の材料は燃えにくいように、水を含んだ新しい青竹で造られていました。

 

破壊活動に必要な道具としては、「鳶口(とびぐち)」と呼ばれる棒の先に鳶の嘴の形に似た鉄製の鉤をつけた道具、捕物でも使われる「刺又(さすまた)」、鋸などが使われていました。

 

火消道具には、もちろん消火のための道具もありました。江戸の町中の各所には消火用の水桶が常設されていたほか、「竜吐水(りゅうどすい)」や「独竜水(どくりゅうすい)」と呼ばれる木製の手押しポンプ、「玄蕃桶(げんばおけ)」と呼ばれる二人で担ぐ大桶などは、直接火元や火消人足に水をかけることに使われていました。竜吐水は文字通り、龍が水を吐くように空気の圧力を使って口から水が勢いよく放出され、15メートルほど飛ばすことができましたが、継続的に水を補給できないのが難点でした。これは宝暦4年(1754年)に、オランダ人の指導を受けて長崎で作られたのが最初であったと言われています。

 

このほかにも、火の粉を吹き払って延焼を防ぐための「大団扇」や、水に浸して使う海草で作られた「水筵(みずむしろ)」、水筵を濡らすための「水箱」なども火事場で用いられていました。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日は、早朝からホテルニューオータニで朝食会を兼ねた会合があり、それに出席していたため、瓦版をお送りすることができませんでした。今週水曜日12日にも朝食懇談会が同じくホテルニューオータニで開催されることから、瓦版もお休みさせていただきます。年末も押し迫り、忘年会など会合が増えていきます。来週は出張もあり、年末年始も何かと仕事に追われそうです。

 

さて、本日はこれまで紹介してきた「江戸の火消の変遷」をまとめる形で説明してみたいと思います。江戸時代初期の火消は、武家、町人共に火災が起きた時の自衛組織であり、素人の集まりによる消防でした。

 

消防体制が江戸幕府によって最初に制度化されたのは、大名による武家火消で、これはあくまでも江戸城と武家屋敷を対象に消防が行われており、町人地は相変わらず町人の自衛組織による消防が行われていました。この町人地をも対象として消防活動が行われるようになったのが、明暦の大火をきっかけに、万治元年(1658年)に制度化された幕府直轄の定火消です。

 

しかし、度重なる江戸市中の火事と、その復興に伴う財政負担の大きさに耐えかねた8代将軍・徳川吉宗は、享保の改革の一環として町人主体の町火消を設置することになります。これ以降幕末にかけて、江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へとシフトしていきます。

 

享保3年(1718年)に設置された町火消は、享保5年(1720年)にいろは組47組及び本所深川16組として整備が進みます。設置当初、町火消の出動範囲は町人地に限定され、武家地への出動は行っていませんでした。しかし、この頃から町人地に隣接する武家地で火災が発生し、消し止められそうにない場合は消火活動が行われるようになりました。享保7年(1722年)には、2町(約218メートル)以内の武家屋敷での火事の際には消火活動が命じられ、各地の米蔵、金座、神社、橋梁等の重要地の消防も町火消が行うようになります。そして延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災では、初めて町火消が江戸城内まで出動して消火活動を行うことになりました。

 

一方、武家火消の一つである方角火消は、元文元年(1736年)以降、江戸城風上の火事か大火の場合以外は出動しないことになり、文政2年(1819年)には、定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定されてしまいます。このため、郭外は武家地、町人地に関係なく町火消が消火活動を行うことになりました。

 

江戸城での町火消による消火活動としては、天保9年(1838年)の西の丸火災、天保15年(1844年)の本丸火災などがあり、いずれも町火消が目覚ましい活躍をみせたことにより、幕府から褒美が賜われたとされています。

 

安政2年(1855年)になると、定火消が10組から2組削減されて8組となり、文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止、所々火消も担当箇所が11カ所から3カ所へと大幅に削減されました。また、慶応2年(1866年)には定火消が8組から半減して4組に、翌慶応3年(1867年)には1組128人のみが定火消として残されました。こうして幕末の江戸市中の消火活動は、町火消に完全に依存するようになったのです。

 

明治元年(1868年)に武家火消はすべて廃止、江戸城の消防担当として兵部省に所属する火災防衛隊が設けられ(翌年廃止)、市中の消火活動は町火消のみとなり、やがて現在の消防団へとつながっていくのです。

 

高見澤

 

おはようございます。この間の日曜日から酷い腰痛に悩まされ、月曜日は休暇をとり、火曜日は少し遅めに出勤、そして昨日は免許証更新のため休みをとっていました。そのため、瓦版がお送りできなく恐縮です。月曜日に比べれは少し楽になったものの、まだ痛みは続き、立ち上がるのに一苦労です。溜まった疲れがここにきて症状として腰痛に出たのではないかと思われます。何度か経験しましたが、腰の痛みはつらいです。

 

さて、本日は「橋火消(はしびけし)」について紹介したいと思います。この橋火消も町人によって組織された町火消の一つです。

 

江戸時代、理髪業に従事する人のことを「髪結い(かみゆい)」と呼んでおり、その髪結いの仕事場を「髪結い床(かみゆいどこ)」と称し、特に男の髪を手掛ける髪結いで自分の髪結い床を構える人のことを「床屋」と呼んでいました。この髪結い床の多くは橋台(きょうだい)に髪結い床を構えており、比較的粗末な造りであったことから、火事の際には飛び火の危険性が高かったようです。

 

そのため、江戸幕府は髪結いたちに店を撤去するか、地代を徴収して橋の防火対策の費用に充てるかの検討を行っていたところ、髪結いたちは、自分たちの手で消火道具を揃え、橋の防火をしたいと申し出ます。当時、南町奉行であった大岡忠相はこの申し出を承認、享保7年(1722年)に髪結い床による橋火消が成立しました。

 

一方、店の近くに橋がない山の手の髪結い床は、火事が発生した場合には南北の町奉行所に駆けつけることが義務付けられました。

 

享保20年(1735年)に、各橋の防火は町火消が担当することになり、橋火消は消滅します。以降、髪結い床の職人は火災が発生するとすべて町奉行所に駆けつけることになりました。その後、天保13年(1842年)には、天保の改革に伴って髪結い床組合が解散し、火災の際の町奉行所への駆けつけは各町の名主たちに命じられることになりました。

 

高見澤

 

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このアーカイブについて

このページには、2018年12月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2018年11月です。

次のアーカイブは2019年1月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ