2019年11月アーカイブ

 

おはようございます。11月も明日で終わり、来週は師走に入ります。今年も残すところ1カ月となり、令和2年を迎えることになります。周りを見渡せば、何事においても外見を繕うことばかりに終始し、本質を求めて根本的に問題を解決しようとか、中身を理解して世の中や事業を少しでも良い方向に向かわせようとかといった信念みたいなものは一切感じられません。この先、いったいどのような世の中になっていくのか、不安の種はつきません。

 

さて、本日は「渡良瀬川(わたらせがわ)」について紹介しようと思います。渡良瀬川は利根川水系の一級河川で、栃木県西部から群馬県東部を経て、茨城県と埼玉県の県境を流れて、利根川に注いでいます。その流域面積は2,621平方キロメートルと利根川支流最大で、流路延長は107.6キロメートルと鬼怒川、小貝川に次いで第3位となっています。

 

栃木県日光市にある標高2,144メートルの皇海山(すかいさん)の登録に源を発し、足尾(あしお)山地山麓にある草木ダムを経て西南に巡り、関東平野に出てからは南東へと向きを変え、その後は群馬県と栃木県の県境を東南東へと進みます。栃木県栃木市に設けられた渡良瀬遊水地に入った後は巴波川(うずまがわ)、思川(おもいがわ)を合わせ更に南下し、茨城県古河市と埼玉県加須市(かぞし)の境で利根川に合流します。

 

一般的には、日光市足尾地区の神子内川(みこうちがわ)との合流部から上流は「松木川(まつきがわ)」と呼ばれ、その下流からが渡良瀬川と呼ばれているそうです。渡良瀬川の名称の元となった日光市足尾地区「渡良瀬」の地名は、日光を開山した奈良時代から平安時代初期にかけて活躍した勝道上人(しょうどうしょうにん)が、川を渡ろうとした際に、ちょうど渡ることができる浅瀬があったことからその場所を渡良瀬と名付けたとされています。

 

もともと渡良瀬川は現在の矢場川が本流であり、上野国と下野国の国境となっており、蛇行しながら東へ流れていき、洪積台地である藤岡台地に当たって向きを南側に変えて南下、現在の加須市付近で旧会の川と合流した後は下野国と武蔵国の国境を流れ思川と合流して、下総国葛飾郡を貫流して江戸湾に注いでいました。下流部は現在の江戸川の流路に近く、「太日川(ふといがわ)」と呼ばれていたことは、以前紹介した通りです。江戸時代初期までは、利根川もほぼ平行して流れ、江戸湾に流れ込んでいました。

 

戦国時代後期、矢場川から渡良瀬川の河道を分離する工事が行われ、現在の渡良瀬川がその本流となります。元和7年(1621年)、利根川東遷事業により新たな利根川本流河道として新川通りを開削、利根川が渡良瀬川に接続されると、その後渡良瀬川は利根川の支流となりました。寛文4年(1664年)、矢場川を現在の群馬県館林市木戸から下早川田まで開削して渡良瀬川と合流させます。これにより、上野国と下野国の国境も移動となったようです。

 

江戸時代、渡良瀬川もまた河川舟運が発展し、両岸には河岸が置かれていたほか、サケ漁なども行われていました。また、灌漑なども行われていましたが、関東の他の河川と同様に洪水などの被害にも頻繁に見舞われていたようです。

 

更に渡良瀬川上流には、慶長年間(1596年~1615年)以来開発されてきた足尾銅山があります。足尾銅山は明治以降に大規模な銅の採鉱や精錬が行われ、「日本の公害の原点」と言われるほどの大気汚染、水質汚染が生じました。上流地域一帯は森林が枯死、広い範囲にわたって草木がまったくみられない裸地となりました。

 

こうした洪水対策や鉱毒沈殿による除毒を目的として栃木県谷中地域(栃木市)に設けられたのが渡良瀬遊水地です。現在、面積33平方キロメートル、貯水容量約2億立法メートルの渡良瀬遊水地は、サムサール条約の登録湿地となっており、洪水防止のほか東京、栃木、群馬、茨城、埼玉の各都県に都市用水を供給する役割も果たしています。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ数日の東京は雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気が続いています。寒さも大分増して気候の大きな変わり目であるせいか、体調を崩す人も少なくありません。それがまた、殺伐とした精神構造を生み出すのか、空いている早朝の電車や駅の構内でトラブルを起こしている人もいます。このような低レベルな気に触れると、心身ともに負担が大きく圧し掛かり、朝から疲労困憊の状態に陥ります。少しでも精神的に負担の少ない出退勤ルートを求め、早朝出勤をしているにもかかわらずです。

 

さて、 本日は「中川(なかがわ)」について紹介したいと思います。中川は埼玉県及び東京都を流れる利根川水系の一級河川で、埼玉県内で多くの河川を集めて南下し、江戸川区で東京湾に注ぎ込む利根川水系の支流とされています。上流は天神堀や島川、中流は庄内古川(しょうないふるかわ)と呼ばれる場合もあります。

 

埼玉県羽生市の住宅地にある農業排水路の「宮田落伏せ越し(みやたおとしふせこし)」を水源として、源流付近では排水路からつながる細い流れが田園地帯を通り、小川や小さな農業用排水路を集めて徐々に川幅が広がります。埼玉県幸手市で江戸川につながる幸手放水路(中川上流放水路)が分岐し、川幅を狭めた中川は江戸川と平行してその西側を南に向かって流れ、その後、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)、元荒川(もとあらかわ)〔古荒川〕、新方川(にいがたがわ)〔千間堀〕、大場川(おおばがわ)などを合わせて東京都に入ります。葛飾区では旧江戸川につながる新中川〔中川放水路〕を分け、綾瀬川を合わせた後は荒川と接しながら並流して、江戸川区で東京湾に流れ込みます。全長83.7キロメートル、流域面積は286.2平方キロメートルとされています。

 

中川の支流が古利根川、元荒川と呼ばれることからも分かるように、中川は江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川東遷事業や荒川の瀬替えなどの工事によって本流と切り離され、旧流路は主に用水路や排水路として使われるようになりました。特に支川の大落古利根川は「葛西用水(かさいようすい)」の一部となっており、享保13年(1728年)に普請された「見沼代用水(みぬまだいようすい)」等の整備によって、新田の開発が可能となり、中川流域は「江戸の米倉」と言われるほどの一大農産物供給地となって、江戸100万人の生活を支えることになりました。農業用水路については、あらためて紹介する機会を設けたいと思います。

 

また中川流域は、中川の豊富な水を使って大正期以降は染色工業や製紙工業が盛んになり、今でも「江戸小紋」の伝統が受け継がれているところもあります。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日、昨日と所用のため瓦版をお休みさせていただきました。明日もお休みさせていただくかもしれませんので、その旨ご容赦ください。一昨日1124日は私の誕生日で、満58歳となりました。定年退職まであと2年ですが、再雇用制度があり、65歳までは本人が望めば勤めることができます。この先どうするかは、その時の状況をみて判断していくことになりますが、正直静かな生活を送りたいというのが本音です。一昨日は上野の森美術館で開催中のゴッホ展に家族総出で行ってきました。印象派と呼ばれる前と後との画風が大きく変わるのがよく分かりますが、強く浮世絵の影響を受けたとの記述がないことに、主催者側の日本人としての意識の低さを残念に思った次第です。

 

さて、本日は江「綾瀬川(あやせがわ)」について紹介してみたいと思います。綾瀬川は利根川一級水系に属する一級河川で、埼玉県と東京都を流れており、同じ利根川水系の中川(なかがわ)の支流でもあります。

 

綾瀬川の水源は、埼玉県桶川市小針領家(こばりりょうけ)にある田園の排水より始まり、東から南東に向きを変えるなかで原市沼川(はらいちぬまがわ)、深作川、末田用水などの支流や農業用水等の水を合わせて次第に流量を増していきます。草加市で綾瀬川放水路を東に分け流量を一気に減らしますが、その後は古綾瀬川(ふるあやせがわ)、伝右川(でんうがわ)、毛長川(けながかわ)などを合わせて東京都に入り、葛飾区で中川に合流します。葛飾区に至る前の足立区では、綾瀬川と中川を結ぶ「花畑運河(はなはたうんが)」も整備されています。全長47.6キロメートル、うち埼玉県部分が39キロメートル、東京都部分が8.6キロメートルで、流域面積は176平方キロメートルです。

 

綾瀬川は水質汚染が深刻な河川としても知られており、流域の市街化の進展とともに昭和40年代(1965年頃から1975年頃)に汚濁が進み、昭和55年(1980年)から15年連続で全国の一級河川ワースト1の不名誉な記録を残しています。最近では水質改善が進んでいますが、まだまだ改善の余地があるようです。

 

戦国時代には、綾瀬川は利根川と荒川の本流にあたり、当時の利根川・荒川は現在の綾瀬川源流の近くの元荒川の流路をたどり、現在の綾瀬川の流れに入っていたものと思われます。元荒川の下流は、戦国時代は星川でしたが、その際に荒川を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東側に流れるようになり、更に江戸時代・慶長年間(1596年~1615年)に伊奈忠次らによて備前堤が築かれて綾瀬川が分離しました。綾瀬川の川筋は、長い間、武蔵国内の埼玉郡と足立郡の境とされてきました。

 

綾瀬川中下流域は標高10メートル以下の低地であり、江戸時代初めまでは湿地帯で通行が難しく、大雨が降るたびに川筋が変わり一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、これが後に綾瀬川と変化していったと伝えられています。洪水防止のために備前堤が築かれるとともに、忠次の後を継いだ伊奈忠治らによって綾瀬川に並行して新綾瀬川が開削され流量の調整が図られます。これが今の綾瀬川の流路になっています。

 

備前堤によって綾瀬川が独立した流路をたどることで、綾瀬川流域の低湿地の開発、更には綾瀬川流域の用水源化が行われます。また、江戸時代初期の街道整備に伴って寛永7年(1630年)には草加宿が日光街道の宿駅となり、河川舟運を含めた河川整備及び街道整備も行われました。天和3年(1683年)、綾瀬川の直線化の工事が行われ、日光街道も一部綾瀬川沿いを通るようになります。草加市内に今も残っている「草加松原」或いは「千本松原」と呼ばれる1.5キロメートルほどの旧街道がそれです。

 

高見澤

 

おはようございます。最近、企業の間でも江戸時代に対する見方が大分変ってきています。三井不動産が手掛ける日本橋界隈の再開発、日立製作所が進めるサスティナブルな社会を創り出す社会イノベーションなど、活気ある江戸庶民の生き方や環境に最大限配慮した循環型社会システムから学ぼうとする姿勢がみてとれます。もちろん、そんなことはこれまで我々が学んできて、当たり前だと思ってきたのですが、社会的にはほとんど受け入れられてきませんでした。それがここにきて一気に認められるようになったので、それ自体は嬉しいことなのですが、その反面、そうした運動を続けてきた我々のような存在に焦点が当てられないのが寂しいところです。もちろん、そうした評価を目的としているわけではなく、期待もしているわけではありませんが、何となく世の中の不条理を感じざるを得ません。

 

https://social-innovation.hitachi/ja-jp/sustainability?WT.mc_id=19JpJpHq-sustainability-MarketOne_Aone_EX_300x250

 

https://www.nihonbashi-tokyo.jp/revitalization/

 

さて、本日は「入間川(いるまがわ)」について紹介したいと思います。先月、台風19号の影響により氾濫した入間川ですが、現在の土木工学をもってしても自然の驚異を抑えることはできないことが、よく分かった事例ともなりました。

 

入間川は荒川水系の一級河川で、埼玉県秩父地方にある大持山(おおもちやま)〔標高1,294メートル〕の南東斜面、妻坂峠(つまさかとうげ)〔標高約800メートル〕辺りを水源とする全長67.3キロメートルの荒川最大の支流です。現在は、埼玉県飯能市、入間市、狭山市を流れ、成木川、霞川、越辺川などの支流を合わせて川越市で荒川に合流しています。飯能から上流部は「名栗川(なぐりがわ)」とも呼ばれています。

 

江戸時代、寛永6年(1629年)の荒川の瀬替え以前は、入間川は単独で現在の荒川の流路をとっており、下流の隅田川から江戸湾に流れ込んでいたことは、以前にも紹介した通りです。また、荒川も現在の東寄りの元荒川を流れて利根川に合流していたこともすでに述べた通りです。

 

江戸では火災が頻繁に起きていたことも以前紹介しましたが、その火災によって江戸では大量の木材の需要が生まれました。その際、この入間川を使って木材を秩父地方から運んでおり、入間川は江戸物流に重要な役割を果たしていたのです。入間川の上流部にあたる秩父山地の谷間は、杉やヒノキを中心とする「西川材(にしかわざい)」の産地であり、それらの植林、伐採、そして筏による飯能への流送は名栗や原市場(はらいちば)の集落が畑作の傍ら営んできました。西川材の名は、江戸の西の川から運んだことから自然にそう呼ばれるようになったそうです。

 

「入間川」と題する狂言があります。入間川に差し掛かったある大名が、土地の者が話す「入間詞(いるまことば)」と呼ばれる「逆言葉(さかことば)」を面白がって持ち物をすべて与えてしまいますが、最後にはそれを逆用して持ち物をすべて取り返すという話です。

 

高見澤

 

東藝術倶楽部会員各位

 

おはようございます。東京都心も大分風が冷たくなりました。つい先日、立冬を迎えたかと思っていたら、明後日1122日(金)は小雪です。今月は出張はなかったものの、来月12月8日(日)に開催する「日中省エネ・環境総合フォーラム」に向けた準備やら月刊誌の校正、委託調査の方針検討及び外部との調整、経済産業省やマスコミからの問い合わせ対応などで、結局十分に休める状態ではなく、時間が過ぎ去ってしまいました。とはいえ、こうした仕事も楽しんで進めるよう日々努力の毎日です。

 

さて、本日は「六堰(ろくぜき)」について紹介したいと思います。六堰とは、現在の埼玉県深谷市を流れる荒川沿いに作られた6箇所の堰の総称です。荒川の河口から約87キロメートル付近の場所にあり、もともとは江戸時代初期に作られたものですが、昭和時代にこの六堰を一つにまとめた「六堰頭首工(ろくせきとうしゅこう)」〔旧六堰頭首工〕が完成し、平成になってから更に改修工事が行われ、現在では「新六堰頭首工」と呼ばれています。

 

古来、荒川が暴れ川としてたびたび洪水被害を出していたことは以前にも紹介した通りです。洪水のみならず、渇水にみまわれることも少なくなく、そのたびに水をめぐって農民同士の諍いが起きていました。江戸時代初期、この荒川の水を取水し、用水路を確保して新たな田畑を拓くために6つの堰を設けることとなりました。

 

慶長7年(1602年)、現在の埼玉県熊谷市と深川市の境界付近の荒川に「奈良堰(ならせき)」を作ったのが六堰の始まりと言われており、十数年で約5キロメートルの間に6つの堰が相次いで作られます。6堰のうち最も上流にあるのがこの奈良堰で、下流に向かって「御正堰(みしょうせき)」、「玉井堰(たまいせき)」、「大麻生堰(おおあそうせき)」、「吉見堰(よしみせき)〔万吉堰(まんきちせき)〕」、「成田堰(なりたせき)」と続きます。これらの堰は、位置だけでなく、取り入れ口の幅や深さなどが細かく決められていました。詳細は以下の通りです。

 

奈良堰:下流に向かって左側(荒川北岸)、幅1.4メートル、水深27センチメートル

御正堰:下流に向かって右側(荒川南岸)、幅10.8メートル、水深42センチメートル

玉井堰:下流に向かって左側(荒川北岸)、幅11.7メートル、水深30センチメートル

大麻生堰:下流に向かって左側(荒川北岸)、幅21.6メートル、水深36センチメートル

吉見堰:下流に向かって右側(荒川南岸)、幅18メートル、水深23センチメートル

成田堰:下流に向かって左側(荒川北岸)、幅8.1メートル、水深63センチメートル

 

簡素に作られていた六堰は、荒川の氾濫により何度も流され、作り直さなければならなかったようです。これが現在の六堰頭首工への建設へとつながっていくのです。現在、六堰から取水する用水は総称して「大里用水」、或いは「六堰用水」と呼ばれています。

 

高見澤 

 

おはようございます。先日、東京で開かれた2019年東京モーターショーでは、数々の次世代自動車が展示されていたようです。私も日本自動車工業会(自工会:JAMA)から招待券を何枚かいただいたのですが、教育のために部下に渡してしまい、自分は行かずじまいでした。展示されていた車の中で、特に目を引いたのがボンネットやバックウインドなどボディーの一部を「木」を原料にした「セルロースナノファイバー」という素材であつらえた車です。木材をチップにしてセルロース(繊維)を取り出し、それを特殊な薬剤を使ってほぐし、ナノレベルで密度を上げることで、強度が鉄の5倍、軽さは5分の1になるという優れものです。車の軽さが燃費向上につながることは周知の通り。電動化だけが環境対策ではありません。日本古来の木の文化を継承する意味でも、この取り組みは重要だと思います。

 

さて、本日は「荒川の瀬替え(あらかわのせがえ)」ついて紹介しようと思います。荒川の瀬替えは「荒川の西遷(あらかわのせいせん)」とも呼ばれ、これもまた、江戸時代を代表する大きな土木工事の一つです。

 

荒川は「荒ぶる川」が語源とされるほど、大雨の後にはたびたび洪水が発生し、流域に大きな被害をもたらしてきたことは、すでに紹介した通りです。特に熊谷付近から下流は低湿地帯であったため、氾濫のたびに流路が変わるほどでした。今ではかなり消滅しているようですが、小針沼(こばりぬま)〔埼玉県行田市〕、笠原沼〔宮代町〕、小林沼〔菖蒲町〕、栢間沼(かやまぬま)〔久喜市〕、柴山沼〔白岡町〕などはいずれも荒川が氾濫してできた沼と言われています。

 

江戸時代以前は荒川が綾瀬川に流入して大きな被害が起きていたことから、慶長年(1596年~1615年)に、伊奈忠次が備前堤を築いて荒川から綾瀬川が切り離され、綾瀬川流域の水害防止や新田開発が進んだことは、これまでも瓦版で紹介してきました。しかし、この備前堤が逆に上流側に湛水被害をもたらすことになります。このため、上流側の村と下流側の村との間で堤防の高さに対する争いが起き、その調停のために「御定杭(おさだめくい)」が設けられるようになりました。

 

こうした中、寛永6年(1629年)に、伊奈忠治によって久下村(くげむら)〔埼玉県熊谷市〕で荒川を締切り、新たな荒川の河道を開削して、当時は入間川の支川であった和田吉野川及び市野川に荒川が導かれることになります。これ以降、入間川の流路が荒川の本流になり、ほぼ現在の河道を経て江戸湾に注ぐようになりました。これが荒川の瀬替えです。切り離された荒川の旧下流路は「元荒川」となって現在に至っています。

 

荒川流域の水害対策のために行った瀬替えですが、その一方で入間川、市野川、和田吉野川との合流付近では逆流による氾濫が頻繁に起きるようになります。このため、これら支川の付替工事を行うとともに、上流域では川島領大囲堤(おおいづつみ)〔埼玉県川島町〕や吉見領荒川大囲堤〔吉見町〕など各所に大囲堤を築造するなど、洪水に備えました。

 

利根川東遷事業も含め、こうした利根川や荒川の河道変更により、埼玉東南部から江戸近郊にかけての低湿地開発が可能となりました。

 

高見澤

 

おはようございます。芸能界については興味がなく、主だったタレントもほとんど知らないのですが、それでも芸能界に薬物汚染が広がっているとのニュースに関しては無関心ではいられません。人間崩壊へと導く違法薬物の類は、国や民族をも滅ぼす結果になることは、1840年に中国と英国との間で起きたアヘン戦争の歴史をたどればよく分かることです。英国が如何に卑劣な手段を使って中国・清朝が滅ぶきっかけを作り、中国という巨大国家がその後の屈辱的な歴史を歩むことになったのか。その歴史的事実を、もう一度おさらいしてみる必要があるでしょう。

 

さて、本日は江戸時代最大の土木工事の一つとされる「利根川東遷事業」について紹介したいと思います。以前、江戸の河川舟運に重要な役割を果たした「内川廻し」を説明した際に、簡単に説明しましたが、ここでは少し詳細に紹介していきましょう。

 

慶長3年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いて以降、三河譜代の家臣・伊奈忠次を祖とする伊奈氏が江戸の河川事業の中心的役割を果たしていくことになります。当時、利根川の下流域であった江戸は、荒川などの河川交通と江戸湾の湾内交通である程度は栄えていたものの、その多くは湿地帯で河川の氾濫も少なくなく、江戸の街づくりに治水は必要不可欠な問題でした。また、人口の増加に伴って増大する江戸の街の人々の消費需要を賄うためには、物流路としての水運ルートの確保が必須となっていきました。

 

家康は伊奈忠次を関東代官職に任じ、関東周辺の河川事業に当たらせます。慶長15年(1610年)に61歳で忠次が没すると、嫡男・忠政が後を継ぎますが、忠政も元和4年(1618年)に34歳の若さで世を去ります。その後、忠次の次男・忠治が関東代官職を務めることになりました。

 

元和7年(1621年)、伊奈忠治の指揮の下、佐波(ざわ)から旗井(はたい)〔埼玉県加須(かぞ)市〕までの「新川通(しんかわどおり)」と、中田〔茨城県古河市〕及び川妻〔茨城県五霞(ごか)町〕の間から境町〔茨城県境町〕までの赤堀川の開削が始まります。これが利根川東遷事業の始まりとなりました。新川通の開削に当たっては、先ず浅間川の締切りと権現堂川の拡張が行われ、これによって利根川と渡良瀬川が合流することになりました。これによって権現堂川とその下流の太日川(ふといがわ)が利根川の下流になります。この太日川が現在の江戸川の基本的な川筋となりました。

 

一方、赤堀川の掘削は台地を掘削するために、難工事となって忠治の前に立ちはだかります。赤堀川の掘削の主要な目的は、利根川から太平洋への分水嶺を越える水路を開削することで、利根川の水を香取海へ注ぐ常陸川へ流し、太平洋に注ぐ銚子河口までつながる水運路を整備することにありました。この工事は元和7年、寛永12年(1635年)と2回に渡り失敗していますが、承応3年(1654年)の3度目の掘削工事により渇水期においても常時通水ができるようになり、これによって利根川東遷事業が完成しました。ただ、この時の赤堀川の川幅は10間(約18メートル)程度と狭く、利根川の洪水を流下させる機能はなかったようです。とはいえ、これで太平洋から銚子河口を通じて江戸につながる水運のルートが確立したことは大きな成果でした。

 

利根川東遷事業の成果として、以下の点が挙げられています。

①江戸及び利根川流域の水害対策としての治水

②利根川流域の新田開発

③水運整備と街道整備による物流ルートの確保

④仙台伊達藩を仮想敵国とした江戸防衛ラインの構築

 

江戸の河川事業はまだまだ続きます。

 

高見澤
 

おはようございます。今朝の東京は幾分か温かく感じます。昨夜は少し雨が降ったようで、道路が濡れていましたが、今は雨も降っていません。都心でもそろそろ木の葉の色が黄色くなり始め、植物も冬に向かって準備を整えつつあるところでしょうか。明日は所用により瓦版がお送りできません。ご了承ください。

 

さて、本日は江戸時代初期のもう一つの河川事業である「備前堤(びぜんづつみ)」の整備について紹介してみたいと思います。備前堤は慶長年間(1596年~1615年)に、関東郡代の伊奈備前守忠次によって築かれた堤防で、その目的は綾瀬川下流域で頻発していた水害を抑えるためであったと言われています。

 

綾瀬川は埼玉県中東部にある桶川市小針領家(こばりりょうけ)付近の田園から集まる落水が源流となり、埼玉県内を南流して東京都葛飾区内で中川と合流し、東京湾に注ぐ一級河川です。川の長さは47.6キロメートル、流域面積は176平方キロメートルです。もともとは利根川と荒川の本流を成して江戸湾に注いでおり、当時の利根川と荒川は現在の元荒川の川筋をたどり綾瀬川に流れ込んでいました。

 

備前堤が築かれたのは高虫村(埼玉県蓮田市高虫)と小針領家村(埼玉県桶川市小針領家)の間で、その長さは500間(900メートル余)、底部幅6間(約11メートル)、上部幅2間(約3.6メートル)です。この堤により赤堀川を締め切ることで荒川(元荒川)と綾瀬川が切り離され、綾瀬川中下流域の水害が抑えられ、低湿地の開発と綾瀬川流域の用水源の確保が可能になりました。

 

こうした部分的な河川整備の積み重ねが、利根川東遷事業という一大プロジェクトの下地になっていくのです。

 

高見澤
 





おはようございます。中国に行くたび、どうして中国人は誰もが先を争って前に行こうとするのかと感じます。中国には「疾不必生、徐不必死」という古い言い回しがあります。「急いだからといって生きられるわけではないし、ゆっくりしたからといって死ぬわけではない」という意味です。紀元前500年頃、春秋時代の斉の国の宰相・晏嬰(晏子)の言葉ですが、2500年前の教訓が全く活かされていないことに人間の愚かさを感じざるを得ません。最近の日本人も街を歩く時や電車の乗り降りにも、そうした傾向が頻繁にみられるようになり、理解に苦しむ行動を見ることが多くなりました。モラルを重んじていると世界から評価が高かった日本人はどこに行ったのでしょうか?


 


さて、これまで江戸の川として隅田川、利根川、荒川、江戸川と江戸に大きな役割を果たしてきた代表的な川を紹介してきました。これで基本的な江戸時代のこれらの川の流れはご理解いただけたかと思います。そこで、本日からは江戸時代に行われた大規模な河川事業について紹介していきたいと思います。先ずは、徳川家康が江戸入府後に、最初に行った「会の川締切(あいのかわしめきり)」についてです。


 


「会の川(あいのかわ)」は、埼玉県北東部に位置する羽生市(はにゅうし)と加須市(かぞし)を流れる川で、もともとは羽生市で利根川から南側に分流し、加須市辺りで同じく利根川の旧流路であった「浅間川(あさまがわ)」〔現在は廃川〕と合流して利根川の本流となっていました。江戸時代初期までは、利根川が大落古利根川の流路を通り、荒川(元荒川)などを合わせて江戸湾に注いでいたことは、これまでにも紹介してきた通りです。



文禄3年(1594年)、忍城主であった家康の四男・松平忠吉が小笠原三郎左衛門に命じて、当時利根川の本流を形成していた会の川を締切り、利根川本流を東に導いて浅間川筋とし、更に島川から権現堂川へと導きます。これにより、利根川が東方向に流路が一本化され、渡良瀬川(太日川)に連結するようになります。この工事を「利根川東遷事業」の始まり、第一次改修とする説もありますが、近年の研究では、この会の川締切は忍領の水害対策が目的であり、元和7年(1621年)以降に行われた利根川の河川整備と切り離して考えるべきとの見方もあります。


 


しかし、会の川締切だけでは、利根川の下流部の水害は依然として解決していなかったようです。文禄4年(1595年)に徳川四天王の一人で上野舘林城主・榊原康政が利根川左岸に総延長33キロメートル、高さ4.5~6メートル、天端(てんば)幅5.59.1メートルの堤防が作られます。これが「文禄堤(ぶんろくてい)」と呼ばれるもので、利根川で最初の本格的な大規模堤防でした。また、同時期には利根川と福川の合流点の2.5キロメートル上流には、「中条堤(ちゅうじょうてい)」と呼ばれる堤防も築かれ、これらにより、増水時に利根川や荒川の水を意図的に熊谷や深谷一帯に氾濫させることで、最下流である江戸を水害から守る役割を果たしていました。


 


その後、利根川流域の河川整備は、元和7年以降の利根川東遷事業へと引き継がれていきますが、その目的は単に水害対策だけではありませんでした。


 


高見澤





 

おはようございます。昨日の東京は雨が降ったり止んだりの天気でしたが、今日は一転して好天に恵まれています。立冬も過ぎ、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒へと次第に寒さが増していきます。風も冷たくなったとはいえ、まだ小春日和のような温かさを感じるときもあり、気候変動による季節感のズレが今後どうなっていくのか、気になるところです。

 

さて、本日は前回の荒川に続き、「江戸川(えどがわ)」について紹介したいと思います。現在の江戸川は、千葉県の北西端に位置する野田市関宿(せきやど)の分岐点で、利根川の本流から分かれて千葉県と埼玉県、東京都の境を南に向かう利根川の支流としての一級河川です。水系はもちろん利根川水系に属し、延長は約60キロメートル、流域面積は200平方キロメートルで、千葉県市川市で本流の江戸川(江戸川放水路)と旧流路である旧江戸川に分かれ、東京湾に注いでいます。

 

江戸川は、古くは渡良瀬川の下流部で、「太日川(ふとひがわ)」と呼ばれ、今は行幸湖(みゆきこ)となっている権現堂川の河道を通り、下総国葛飾郡の真ん中を南流して江戸湾に注いでいました。また、太日川の西側には江戸湾に注ぐ利根川の旧河道が並行して流れていました。

 

元和7年(1621年)に、「利根川東遷事業」の一環として伊奈忠治によって行われた浅間川の締切りや新川通の開削などによって利根川と渡良瀬川が合流、権現堂川・太日川が利根川の下流となり、ほぼ現在の江戸川の河道となります。寛永12年(1635年)から正保元年(1644年)にかけて、現在の江戸川上流部が開削されて関宿から分流する現在の江戸川の姿が形成されました。

 

承応3年(1654年)に赤堀川の掘削により利根川東遷事業が完成すると、利根川の水が香取海へと注がれ利根川の本流となり、銚子河口までつながる水運の航路が確保されることになります。東北地方や北関東からの物資は、銚子や涸沼(ひぬま)、霞ケ浦を経由して利根川を遡り、江戸川を下って江戸へと運ばれるようになりました。江戸川周辺からも野田の醤油や流山のみりんなどが江戸に運ばれていました。江戸川沿いは多くの河岸が作られ、賑わいます。江戸川は「内川廻り」の重要な大動脈であったのです。

 

江戸川を利用する利根川水運は、明治末年までは栄えていましたが、鉄道の開通によって徐々に衰退していきます。江戸川は、現在では江戸川低地の幹線排水路、千葉県東南部・江東地区の上水道、農業用水などとして利用されています。

 

大正8年(1919年)、洪水対策の一環として江戸川の河口部に長さ2.8キロメートル、幅300メートルの江戸川放水路が開削されます。昭和18年(1943年)には放水路との分岐点に江戸川水門を建設し、水害対策は更に強化されました。昭和40年(1965年)に江戸川放水路が江戸川の本流とされ、従来の流路は「旧江戸川」と呼ばれるようになりました。旧江戸川は、東京都江戸川区で新中川と合流し、東京ディズニーランドの西側で東京湾に注いでおり、全区間に渡って東京都と千葉県の境界となっています。

 

高見澤
 

おはようございます。昨日の東京は天皇陛下即位に伴う「祝賀御列の儀」一色で、皇居周辺は大変な賑わいを見せていたようです。平成から令和へと元号が変わり、2カ月も経たないうちに新しい年を迎えることになります。黒木代表からご案内があったように、12月6日(金)は東藝術倶楽部の忘年会も行われ、年越しの雰囲気も本格化していくことでしょう。先週金曜日11月8日は立冬、暦の上ではすでに冬となり、季節が相も変わらず移り過ぎて行く時間の不可思議さを感じるばかりです。

 

さて、前回お話しした「利根川」に関連して、江戸時代の治水・利水事業として欠かすことのできない「利根川東遷事業」を少し詳細に説明しようと思いますが、その前に利根川と非常に関係の深い「荒川(あらかわ)」と「江戸川(えどがわ)」について紹介しておこうと思います。本日は、荒川についてです。

 

東京23区に荒川区や江戸川区があるように、東京という都市が形成されるにあたり、この二つの川は重要な役割を果たしてきました。荒川は、埼玉県西部の関東山地にある甲武信ケ岳(こぶしがたけ)に源を発し、関東平野を南東流して東京湾に注ぐ一級河川です。一級水系である荒川水系の本流を成し、流路延長は173キロメートル、流域面積は2,940平方キロメートル、埼玉県鴻巣市・吉身町の御成橋付近で2,537メートルの日本最大の川幅を誇ります。

 

荒川は、古くは利根川の支流で、現在の埼玉県熊谷市近辺で利根川と合流していたようです。荒川の名前も「暴れ川」を意味しているように、利根川と同様に河道が安定せず、次第に並行した流路をとるようになり、合流点は次第に下流に移動していきました。荒川の本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあったようですが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流します。慶長年間(1596年~1615年)に築造された「備前堤」がその重要な役割を果たしたと言われています。江戸時代初期の荒川は、現在の元荒川の川筋を通って埼玉県越谷市・吉川市付近で利根川と合流していました。

 

寛永6年(1629年)、時の関東郡代・伊奈忠治らが久下(埼玉県熊谷市)で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて、入間川筋を本流とする流れに変えます。これにより、従来の荒川の河道は「元荒川」として今の中川に合流するようになりました。これが世に言う「荒川の瀬替え」です。当時、同じ時期に行われていた「利根川東遷事業」によって利根川は古利根川の流路から江戸川の流路を流れるようになっていました。

 

こうして付け替えられた後の荒川の流れは、下流で現在の隅田川の河道を通るようになります。当時の荒川の流れは流速が遅く、台風など大雨の際にはしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにし、家屋や農作物へ深刻な被害をもたらしていました。こうした被害を覚悟してでも荒川の瀬替えを行った理由は、荒川の水量を増やすことで実現した河川舟運による物資の大量輸送、交通路としての重要性を高めることに狙いがあったからです。江戸時代の荒川流域には、30カ所を超える河岸場や68カ所を数える渡船場があったとされています。

 

大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけての17年に及ぶ難工事によって設けられた「荒川放水路」は、東京都北区岩淵にある岩淵水門から江東区・江戸川区の区境にある中川河口までの全長22キロメートル、幅約500メートルの人工河川です。途中、足立区、墨田区・葛飾区の区境を通ります。これが現在の荒川の本流となっており、岩淵水門から分かれる旧荒川部分が隅田川となっています。荒川放水路の建設により、東京が洪水に見舞われることはなくなりました。

 

高見澤
 

おはようございます。昨日は失礼しました。朝食懇談会に出席のため、瓦版をお送りすることができませんでした。今月は出張の予定はありませんが、外部での活動が多く入っており、また急遽用事が入ることもあります。予告なしに瓦版がお送りできない場合もありますので、その旨ご了承ください。明日もまた、朝から経済産業省で会議があり、瓦版がお送りできません。ご理解の程、よろしくお願い致します。

 

さて、江戸の川について話をする場合、やはり「利根川(とねがわ)」を抜きにして語ることはできません。利根川は群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つである「大水上山(おおみなかみやま)〔標高1,834メートル〕」を水源として、関東平野を流れ太平洋に注ぐ河川です。延長322キロメートルで信濃川に次ぐ日本第2位の長さ、流域面積16,840平方キロメートルは日本最大を誇ります。河川法に基づく政令により、一級水系である利根川水系の本流で、一級河川に指定されています。

 

「坂東太郎(ばんどうたろう)」の異名は、九州の筑後川「筑紫次郎(つくしじろう)」、四国の吉野川「四国三郎(しこくさぶろう)」とともに、「日本三大暴れ川」の一つとして命名されたものです。「坂東(ばんどう)」とは、足柄峠(東海道)と碓氷峠(中山道)より東の諸国を総称した言葉で、そこを流れる最大の河川ということで坂東太郎と名付けられました。支流の数は815河川と淀川水系、信濃川水系に次ぐ日本第3位、流域の自治体は東京、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、長野の1都6県211市区町村に跨っています。

 

現在の利根川の本流は群馬県、埼玉県から茨城県と千葉県の県境を通って鹿島灘(太平洋)へと注いでいますが、江戸時代以前は大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)が本流の下流路となっていて江戸湾(東京湾)に注いでいました。江戸時代に、「利根川東遷(とねがわとうせん)事業」と呼ばれる度重なる河川改修により現在の流路となりました。利根川東遷事業については、以前も簡単に紹介しましたが、追って少し詳細に話をしてみたいと思います。

 

利根川の上流は水源の大水上山から群馬県伊勢崎市八斗島(やったじま)まで、中流はその八斗島から千葉県野田市関宿の江戸川分流点まで、下流は江戸川分流点から河口までと、それぞれ区分されています。中流域にある利根大堰(とねおおぜき)で河水は武蔵水路などによって荒川に分流、その後、渡良瀬川を合流します。荒川は、江戸時代初期頃までは現在の埼玉県越谷市、吉川市付近で利根川と合流し江戸湾に注いでいましたが、現在は独立した荒川水系を形成しています。利根川の下流域では江戸川、利根運河を分流する一方、鬼怒川や小貝川(こかいがわ)を合流します。

 

「利根川(刀祢河泊)の川瀬も知らずただ渡り、波にあふのす逢へる君かも」。『万葉集』巻十四、東歌「上野国の歌」で、利根川の名称が最初に出てくる文献です。利根川の名称については諸説あるようで、「利根(刀祢)」とは水源地の辺りに見られる尖った峰「尖き峰(ときみね)」が簡略転化したという説、大水上山の別称「刀嶺岳」・「刀祢岳」・「刀根岳」・「大刀嶺岳」に由来したという説、「等禰直(とねのあたい)」或いは「椎根津彦(しいねつひこ、とねつひこ)」という神の名に由来するという説などがあります。

 

暴れ川として流域に幾度となく大きな災害を与えた利根川ですが、その一方で関東地方の母なる大河として多くの恵みを人々にもたらしました。利根川による災害を抑え、恵みを更にもたらすべく、時の為政者が治水・利水に苦労してきたわけですが、それを成功させたのが江戸時代に行われた利根川東遷事業です。

 

高見澤
 

おはようございます。3連休もアッという間に過ぎてしまい、また新たな一週間が始まりました。今週の出勤日は4日間ですが、会議・打ち合わせ、セミナー、来客などスケジュールが詰まっており、外出も少なくなく、落ち着いて作業ができない状態です。今年度事業も佳境に入っているのに、そろそろ来年度事業の企画・計画・予算策定などの準備も進めなければならなくなっています。調査部としてのプレーヤーの仕事に加え、調査部長としてマネージメントもこなさなければならない立場はかなりのプレッシャーです。日々、部下からの相談や質問・疑問にも対応するなど、組織をまとめる責任も重く圧し掛かってきます。それをどう楽しんで行うか、それを考えるのもまた「楽しからずや」です。

 

さて、本日は隅田川に架けられた江戸時代最後の橋「吾妻橋(あづまばし)」について紹介しようと思います。現在の吾妻橋は昭和6年(1931年)に完成した3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋という構造形式の鉄橋で、道路橋では言問橋と駒形橋の間、鉄道橋を含めると東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の隅田川橋梁の間に架けられています。吾妻橋の西岸の交差点は浅草一丁目、雷門など浅草中心街につながっており、東岸にはアサヒビール本社の屋根に奇妙なモニュメントが見えます。この橋の北側が桜の名所として知られる隅田公園になっています。

 

吾妻橋が初めて架けられたのは安永3年(1774年)10月のことです。明和6年(1769年)4月、浅草花川戸の町人・伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が江戸幕府によって認められ、着工後5年間の歳月をかけて完成したものです。隅田川に架けられたこれまでの4本の橋が、幕府によって建設された「公儀橋」であったのに対し、この吾妻橋は唯一民間によって架橋された橋としても知られています。

 

吾妻橋は長さ84間(約150メートル)、幅3間半(約6.5メートル)で、武士以外のすべての通行者から2文の通行料をとっていたことが記録に残っているそうです。この橋が架けられる前から橋の下流に「竹町(たけちょう)の渡し」と呼ばれた渡し船があり、この船は明治9年まで運航されていました。

 

架橋当初、この橋は「大川橋」と呼ばれており、この近辺で隅田川を大川と呼称していたことからきています。その後、江戸の東にあることから町人の間では「東橋」と呼ぶようになり、後に吾妻橋へと改称されるようになります。その理由として、東岸の向島にある「吾嬬神社」へ通じる道であったことからそれが転じて「吾妻」になったという説、そして慶賀名として同じ音である「吾妻」とされた説があります。いずれせよ、明治9年(1876年)に最後の木橋として架け替えられた際に、正式に吾妻橋と命名されました。

 

天明6年(1786年)7月、江戸の町始まって以来の大水害が関東地方を襲います。7月18日には大洪水により隅田川に架かっていた永代橋や新大橋が流失、両国橋も大被害を受ける中、この吾妻橋だけは無傷で残り、架橋に携わった奉行や大工が褒章を賜ったという記録が残っています。その後、吾妻橋は何度かの架け替えを経て、現在に至るわけですが、最後の木橋としては、明治18年7月の大洪水で流出した上流の千住大橋の橋桁が流されてきて吾妻橋の橋脚に衝突し、一緒に流出する事故が起こります。このため明治20年(1887年)に隅田川最初の鉄橋として再架橋されます。そして大正12年(1923年)の関東大震災を経て、昭和6年の現在の橋へと架け替えられたのです。

 

高見澤

 

おはようございます。今日から11月、今年も残すところ2カ月となりました。今年もまた知らず知らずのうちに時間が過ぎてしまったという感じで、時間というものの不可思議さを改めて噛みしめているところです。日本には国の始まりとして「伊弉諾(いざなぎ)」と「伊弉冉(いざなみ)」にまつわる神話がありますが、中国では「盤古(ばんこ)」という旧約聖書の天地創造と同じような神話が残されています。とはいえ、この話はその後の「三皇五帝(さんこうごてい)」が現れる神話よりも後代の文献に記されているというのですから、その話の真偽はさておき、新しい発見による古き歴史の見直しという作業が生じます。これもまた時間のからくりというものなのでしょうか。

 

さて、本日は隅田川に架橋された4番目の橋、「永代橋(えいたいばし)」について紹介したいと思います。永代橋が最初に架橋されたのは元禄11年(1698年)8月のことで、徳川第5代将軍・綱吉の生誕50周年を祝う記念行事として行われたものです。この橋も千住大橋、両国橋、新大橋と同様に公儀入用橋です。

 

この架橋の指揮を執ったのは関東郡代の伊奈忠順(いなただのぶ)で、架橋には上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされています。架橋の場所は、新大橋より更に下流で、もともとは「深川の渡し」と呼ばれる大渡しがあり、現在の永代橋より100メートルほど上流(北側)のところです。当時の隅田川の最下流河口で、ほぼ江戸湊の外港とも言える場所で、多数の廻船が通過して、その付近には船手番所が置かれていました。

 

橋の長さは110間(約200メートル)、幅3間余(約6メートル)、船の航行を可能とするよう橋脚の高さは満潮時でも水面から3メートル以上と、当時としては最大規模の大橋として造られていました。「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしがよかったそうです。

 

永代橋の名称は、架橋された江戸対岸にもともとあった中洲が「永代島」と呼ばれていたことに因むという説と、江戸幕府が末永く代々続くようにとの慶賀名という説があります。元禄15年(1702年)12月、赤穂浪士が吉良上野介屋敷への討ち入りを果たした後、上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向かった話は有名です。

 

江戸幕府の財政が窮乏していた享保4年(1719年)、幕府は永代橋の維持管理が難しいことを理由に廃橋を決めます。しかし、江戸町民の嘆願により、橋梁維持に係る諸経費をすべて町方が負担することを条件に橋の存続が許されました。町方としては、橋の通行料の徴収、橋詰での市場開設による収益などにより費用を集めていました。

 

「永代とかけたる橋は落ちにけり、きょうは祭礼あすは葬礼」。文化4年8月19日(1807年9月20日)、12年ぶりに開催された深川富岡八幡宮で祭礼の「深川祭」に多くの江戸市民が永代橋を渡って深川に押し寄せました。ところが、その群衆の重みに橋が耐え切れず橋の東側が崩れ落ち、西側から押し寄せる群衆が次々と転落し、1,400名を超える死傷者・行方不明者を出す史上最悪の落橋事故が起きました。先の狂歌は大田南畝(おおたなんぽ)が記したものです。また、曲亭馬琴(きょくていばきん)はその時の様子を『兎園小説(とえんしょうせつ)』に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いています。

 

落橋事故の後も、江戸幕府は交通の要衝としての永代橋の役割を重視し、再び架橋されます。明治30年(1897年)、老朽化のために道路橋としては初の鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋され、それまでの旧い永代橋は廃止されます。大正12年(1923年)の関東大震災にも耐え抜き避難路として機能したこの橋も、大正15年(1926年)に震災復興事業の一つとして再架橋され、「帝都復興の門」と称される現在の永代橋となっています。

 

高見澤

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