2019年11月アーカイブ

 

おはようございます。11月も明日で終わり、来週は師走に入ります。今年も残すところ1カ月となり、令和2年を迎えることになります。周りを見渡せば、何事においても外見を繕うことばかりに終始し、本質を求めて根本的に問題を解決しようとか、中身を理解して世の中や事業を少しでも良い方向に向かわせようとかといった信念みたいなものは一切感じられません。この先、いったいどのような世の中になっていくのか、不安の種はつきません。

 

さて、本日は「渡良瀬川(わたらせがわ)」について紹介しようと思います。渡良瀬川は利根川水系の一級河川で、栃木県西部から群馬県東部を経て、茨城県と埼玉県の県境を流れて、利根川に注いでいます。その流域面積は2,621平方キロメートルと利根川支流最大で、流路延長は107.6キロメートルと鬼怒川、小貝川に次いで第3位となっています。

 

栃木県日光市にある標高2,144メートルの皇海山(すかいさん)の登録に源を発し、足尾(あしお)山地山麓にある草木ダムを経て西南に巡り、関東平野に出てからは南東へと向きを変え、その後は群馬県と栃木県の県境を東南東へと進みます。栃木県栃木市に設けられた渡良瀬遊水地に入った後は巴波川(うずまがわ)、思川(おもいがわ)を合わせ更に南下し、茨城県古河市と埼玉県加須市(かぞし)の境で利根川に合流します。

 

一般的には、日光市足尾地区の神子内川(みこうちがわ)との合流部から上流は「松木川(まつきがわ)」と呼ばれ、その下流からが渡良瀬川と呼ばれているそうです。渡良瀬川の名称の元となった日光市足尾地区「渡良瀬」の地名は、日光を開山した奈良時代から平安時代初期にかけて活躍した勝道上人(しょうどうしょうにん)が、川を渡ろうとした際に、ちょうど渡ることができる浅瀬があったことからその場所を渡良瀬と名付けたとされています。

 

もともと渡良瀬川は現在の矢場川が本流であり、上野国と下野国の国境となっており、蛇行しながら東へ流れていき、洪積台地である藤岡台地に当たって向きを南側に変えて南下、現在の加須市付近で旧会の川と合流した後は下野国と武蔵国の国境を流れ思川と合流して、下総国葛飾郡を貫流して江戸湾に注いでいました。下流部は現在の江戸川の流路に近く、「太日川(ふといがわ)」と呼ばれていたことは、以前紹介した通りです。江戸時代初期までは、利根川もほぼ平行して流れ、江戸湾に流れ込んでいました。

 

戦国時代後期、矢場川から渡良瀬川の河道を分離する工事が行われ、現在の渡良瀬川がその本流となります。元和7年(1621年)、利根川東遷事業により新たな利根川本流河道として新川通りを開削、利根川が渡良瀬川に接続されると、その後渡良瀬川は利根川の支流となりました。寛文4年(1664年)、矢場川を現在の群馬県館林市木戸から下早川田まで開削して渡良瀬川と合流させます。これにより、上野国と下野国の国境も移動となったようです。

 

江戸時代、渡良瀬川もまた河川舟運が発展し、両岸には河岸が置かれていたほか、サケ漁なども行われていました。また、灌漑なども行われていましたが、関東の他の河川と同様に洪水などの被害にも頻繁に見舞われていたようです。

 

更に渡良瀬川上流には、慶長年間(1596年~1615年)以来開発されてきた足尾銅山があります。足尾銅山は明治以降に大規模な銅の採鉱や精錬が行われ、「日本の公害の原点」と言われるほどの大気汚染、水質汚染が生じました。上流地域一帯は森林が枯死、広い範囲にわたって草木がまったくみられない裸地となりました。

 

こうした洪水対策や鉱毒沈殿による除毒を目的として栃木県谷中地域(栃木市)に設けられたのが渡良瀬遊水地です。現在、面積33平方キロメートル、貯水容量約2億立法メートルの渡良瀬遊水地は、サムサール条約の登録湿地となっており、洪水防止のほか東京、栃木、群馬、茨城、埼玉の各都県に都市用水を供給する役割も果たしています。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ数日の東京は雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気が続いています。寒さも大分増して気候の大きな変わり目であるせいか、体調を崩す人も少なくありません。それがまた、殺伐とした精神構造を生み出すのか、空いている早朝の電車や駅の構内でトラブルを起こしている人もいます。このような低レベルな気に触れると、心身ともに負担が大きく圧し掛かり、朝から疲労困憊の状態に陥ります。少しでも精神的に負担の少ない出退勤ルートを求め、早朝出勤をしているにもかかわらずです。

 

さて、 本日は「中川(なかがわ)」について紹介したいと思います。中川は埼玉県及び東京都を流れる利根川水系の一級河川で、埼玉県内で多くの河川を集めて南下し、江戸川区で東京湾に注ぎ込む利根川水系の支流とされています。上流は天神堀や島川、中流は庄内古川(しょうないふるかわ)と呼ばれる場合もあります。

 

埼玉県羽生市の住宅地にある農業排水路の「宮田落伏せ越し(みやたおとしふせこし)」を水源として、源流付近では排水路からつながる細い流れが田園地帯を通り、小川や小さな農業用排水路を集めて徐々に川幅が広がります。埼玉県幸手市で江戸川につながる幸手放水路(中川上流放水路)が分岐し、川幅を狭めた中川は江戸川と平行してその西側を南に向かって流れ、その後、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)、元荒川(もとあらかわ)〔古荒川〕、新方川(にいがたがわ)〔千間堀〕、大場川(おおばがわ)などを合わせて東京都に入ります。葛飾区では旧江戸川につながる新中川〔中川放水路〕を分け、綾瀬川を合わせた後は荒川と接しながら並流して、江戸川区で東京湾に流れ込みます。全長83.7キロメートル、流域面積は286.2平方キロメートルとされています。

 

中川の支流が古利根川、元荒川と呼ばれることからも分かるように、中川は江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川東遷事業や荒川の瀬替えなどの工事によって本流と切り離され、旧流路は主に用水路や排水路として使われるようになりました。特に支川の大落古利根川は「葛西用水(かさいようすい)」の一部となっており、享保13年(1728年)に普請された「見沼代用水(みぬまだいようすい)」等の整備によって、新田の開発が可能となり、中川流域は「江戸の米倉」と言われるほどの一大農産物供給地となって、江戸100万人の生活を支えることになりました。農業用水路については、あらためて紹介する機会を設けたいと思います。

 

また中川流域は、中川の豊富な水を使って大正期以降は染色工業や製紙工業が盛んになり、今でも「江戸小紋」の伝統が受け継がれているところもあります。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日、昨日と所用のため瓦版をお休みさせていただきました。明日もお休みさせていただくかもしれませんので、その旨ご容赦ください。一昨日1124日は私の誕生日で、満58歳となりました。定年退職まであと2年ですが、再雇用制度があり、65歳までは本人が望めば勤めることができます。この先どうするかは、その時の状況をみて判断していくことになりますが、正直静かな生活を送りたいというのが本音です。一昨日は上野の森美術館で開催中のゴッホ展に家族総出で行ってきました。印象派と呼ばれる前と後との画風が大きく変わるのがよく分かりますが、強く浮世絵の影響を受けたとの記述がないことに、主催者側の日本人としての意識の低さを残念に思った次第です。

 

さて、本日は江「綾瀬川(あやせがわ)」について紹介してみたいと思います。綾瀬川は利根川一級水系に属する一級河川で、埼玉県と東京都を流れており、同じ利根川水系の中川(なかがわ)の支流でもあります。

 

綾瀬川の水源は、埼玉県桶川市小針領家(こばりりょうけ)にある田園の排水より始まり、東から南東に向きを変えるなかで原市沼川(はらいちぬまがわ)、深作川、末田用水などの支流や農業用水等の水を合わせて次第に流量を増していきます。草加市で綾瀬川放水路を東に分け流量を一気に減らしますが、その後は古綾瀬川(ふるあやせがわ)、伝右川(でんうがわ)、毛長川(けながかわ)などを合わせて東京都に入り、葛飾区で中川に合流します。葛飾区に至る前の足立区では、綾瀬川と中川を結ぶ「花畑運河(はなはたうんが)」も整備されています。全長47.6キロメートル、うち埼玉県部分が39キロメートル、東京都部分が8.6キロメートルで、流域面積は176平方キロメートルです。

 

綾瀬川は水質汚染が深刻な河川としても知られており、流域の市街化の進展とともに昭和40年代(1965年頃から1975年頃)に汚濁が進み、昭和55年(1980年)から15年連続で全国の一級河川ワースト1の不名誉な記録を残しています。最近では水質改善が進んでいますが、まだまだ改善の余地があるようです。

 

戦国時代には、綾瀬川は利根川と荒川の本流にあたり、当時の利根川・荒川は現在の綾瀬川源流の近くの元荒川の流路をたどり、現在の綾瀬川の流れに入っていたものと思われます。元荒川の下流は、戦国時代は星川でしたが、その際に荒川を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東側に流れるようになり、更に江戸時代・慶長年間(1596年~1615年)に伊奈忠次らによて備前堤が築かれて綾瀬川が分離しました。綾瀬川の川筋は、長い間、武蔵国内の埼玉郡と足立郡の境とされてきました。

 

綾瀬川中下流域は標高10メートル以下の低地であり、江戸時代初めまでは湿地帯で通行が難しく、大雨が降るたびに川筋が変わり一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、これが後に綾瀬川と変化していったと伝えられています。洪水防止のために備前堤が築かれるとともに、忠次の後を継いだ伊奈忠治らによって綾瀬川に並行して新綾瀬川が開削され流量の調整が図られます。これが今の綾瀬川の流路になっています。

 

備前堤によって綾瀬川が独立した流路をたどることで、綾瀬川流域の低湿地の開発、更には綾瀬川流域の用水源化が行われます。また、江戸時代初期の街道整備に伴って寛永7年(1630年)には草加宿が日光街道の宿駅となり、河川舟運を含めた河川整備及び街道整備も行われました。天和3年(1683年)、綾瀬川の直線化の工事が行われ、日光街道も一部綾瀬川沿いを通るようになります。草加市内に今も残っている「草加松原」或いは「千本松原」と呼ばれる1.5キロメートルほどの旧街道がそれです。

 

高見澤

 

おはようございます。最近、企業の間でも江戸時代に対する見方が大分変ってきています。三井不動産が手掛ける日本橋界隈の再開発、日立製作所が進めるサスティナブルな社会を創り出す社会イノベーションなど、活気ある江戸庶民の生き方や環境に最大限配慮した循環型社会システムから学ぼうとする姿勢がみてとれます。もちろん、そんなことはこれまで我々が学んできて、当たり前だと思ってきたのですが、社会的にはほとんど受け入れられてきませんでした。それがここにきて一気に認められるようになったので、それ自体は嬉しいことなのですが、その反面、そうした運動を続けてきた我々のような存在に焦点が当てられないのが寂しいところです。もちろん、そうした評価を目的としているわけではなく、期待もしているわけではありませんが、何となく世の中の不条理を感じざるを得ません。

 

https://social-innovation.hitachi/ja-jp/sustainability?WT.mc_id=19JpJpHq-sustainability-MarketOne_Aone_EX_300x250

 

https://www.nihonbashi-tokyo.jp/revitalization/

 

さて、本日は「入間川(いるまがわ)」について紹介したいと思います。先月、台風19号の影響により氾濫した入間川ですが、現在の土木工学をもってしても自然の驚異を抑えることはできないことが、よく分かった事例ともなりました。

 

入間川は荒川水系の一級河川で、埼玉県秩父地方にある大持山(おおもちやま)〔標高1,294メートル〕の南東斜面、妻坂峠(つまさかとうげ)〔標高約800メートル〕辺りを水源とする全長67.3キロメートルの荒川最大の支流です。現在は、埼玉県飯能市、入間市、狭山市を流れ、成木川、霞川、越辺川などの支流を合わせて川越市で荒川に合流しています。飯能から上流部は「名栗川(なぐりがわ)」とも呼ばれています。

 

江戸時代、寛永6年(1629年)の荒川の瀬替え以前は、入間川は単独で現在の荒川の流路をとっており、下流の隅田川から江戸湾に流れ込んでいたことは、以前にも紹介した通りです。また、荒川も現在の東寄りの元荒川を流れて利根川に合流していたこともすでに述べた通りです。

 

江戸では火災が頻繁に起きていたことも以前紹介しましたが、その火災によって江戸では大量の木材の需要が生まれました。その際、この入間川を使って木材を秩父地方から運んでおり、入間川は江戸物流に重要な役割を果たしていたのです。入間川の上流部にあたる秩父山地の谷間は、杉やヒノキを中心とする「西川材(にしかわざい)」の産地であり、それらの植林、伐採、そして筏による飯能への流送は名栗や原市場(はらいちば)の集落が畑作の傍ら営んできました。西川材の名は、江戸の西の川から運んだことから自然にそう呼ばれるようになったそうです。

 

「入間川」と題する狂言があります。入間川に差し掛かったある大名が、土地の者が話す「入間詞(いるまことば)」と呼ばれる「逆言葉(さかことば)」を面白がって持ち物をすべて与えてしまいますが、最後にはそれを逆用して持ち物をすべて取り返すという話です。

 

高見澤

 

東藝術倶楽部会員各位

 

おはようございます。東京都心も大分風が冷たくなりました。つい先日、立冬を迎えたかと思っていたら、明後日1122日(金)は小雪です。今月は出張はなかったものの、来月12月8日(日)に開催する「日中省エネ・環境総合フォーラム」に向けた準備やら月刊誌の校正、委託調査の方針検討及び外部との調整、経済産業省やマスコミからの問い合わせ対応などで、結局十分に休める状態ではなく、時間が過ぎ去ってしまいました。とはいえ、こうした仕事も楽しんで進めるよう日々努力の毎日です。

 

さて、本日は「六堰(ろくぜき)」について紹介したいと思います。六堰とは、現在の埼玉県深谷市を流れる荒川沿いに作られた6箇所の堰の総称です。荒川の河口から約87キロメートル付近の場所にあり、もともとは江戸時代初期に作られたものですが、昭和時代にこの六堰を一つにまとめた「六堰頭首工(ろくせきとうしゅこう)」〔旧六堰頭首工〕が完成し、平成になってから更に改修工事が行われ、現在では「新六堰頭首工」と呼ばれています。

 

古来、荒川が暴れ川としてたびたび洪水被害を出していたことは以前にも紹介した通りです。洪水のみならず、渇水にみまわれることも少なくなく、そのたびに水をめぐって農民同士の諍いが起きていました。江戸時代初期、この荒川の水を取水し、用水路を確保して新たな田畑を拓くために6つの堰を設けることとなりました。

 

慶長7年(1602年)、現在の埼玉県熊谷市と深川市の境界付近の荒川に「奈良堰(ならせき)」を作ったのが六堰の始まりと言われており、十数年で約5キロメートルの間に6つの堰が相次いで作られます。6堰のうち最も上流にあるのがこの奈良堰で、下流に向かって「御正堰(みしょうせき)」、「玉井堰(たまいせき)」、「大麻生堰(おおあそうせき)」、「吉見堰(よしみせき)〔万吉堰(まんきちせき)〕」、「成田堰(なりたせき)」と続きます。これらの堰は、位置だけでなく、取り入れ口の幅や深さなどが細かく決められていました。詳細は以下の通りです。

 

奈良堰:下流に向かって左側(荒川北岸)、幅1.4メートル、水深27センチメートル

御正堰:下流に向かって右側(荒川南岸)、幅10.8メートル、水深42センチメートル

玉井堰:下流に向かって左側(荒川北岸)、幅11.7メートル、水深30センチメートル

大麻生堰:下流に向かって左側(荒川北岸)、幅21.6メートル、水深36センチメートル

吉見堰:下流に向かって右側(荒川南岸)、幅18メートル、水深23センチメートル

成田堰:下流に向かって左側(荒川北岸)、幅8.1メートル、水深63センチメートル