2019年9月アーカイブ

 

おはようございます。今日で9月も終わり、明日から10月です。今年も残すところ3カ月となったわけですが、庶民にとってやはり気になるところは明日からの消費税増税に伴う生活や仕事に対する影響でしょう。単純に考えれば、生活費が2%アップというところでしょう。しかし、家計のやりくりなど出費を抑える工夫をすることで生活費自体を切り詰める方向に進むでしょうから、純粋な経済自体は縮小せざるを得ません。国の財政が非常に厳しい中で、増税という措置は分からないわけではありませんが、これが正しい選択かという疑問は残ります。日本経済の更なる疲弊が進まないよう祈るだけです。

 

さて、本日は河川舟運で使われていた大型の「五大力船(ごだいりきせん、ごだいりきぶね)」について紹介しようと思います。五大力船とは、江戸時代から昭和初期にかけて、関東近辺の海運に用いられた海川両用の廻船のことを指します。

 

五大力船の用途は、江戸を中心に武蔵、伊豆、安房、上総、下総の海辺などで穀物や干鰯(ほしか)、薪炭等の物資を輸送したほか、旅客の輸送にも使われていました。なかでも、特に江戸日本橋本船町の河岸と上総国木更津村との間で貨客輸送を行っていた船は「木更津船(きさらづぶね)」と呼ばれていました。

 

五大力船の構造は、基本的には海船造りですが、船体の幅を狭く、喫水を浅くして河川をも航行できるようにしていました。小型のものは全長31尺(9.4メートル)、幅8尺(2.4メートル)、積載重量は50石(7.5トン)で、大型のものは全長64尺(19.4メートル)、幅17尺(5.2メートル)、積載重量は500石(75トン)にもなりました。

 

海から直接河川に入り、市中の河岸に横付けすることができたので、他の廻船のように港の沖に停泊して、「瀬取船(せどりぶね)」で荷役する必要はありませんでした。海では帆を立てて帆走し、河川では棹が使えるよう舷側に長い棹走りが設置されていました。

 

五大力船の名称は、「五大力菩薩」に由来するとの説が有力です。五大力菩薩は、三宝と国土を守護するとされる大力を持つ5人の菩薩です。すなわち、中央の「金剛吼(こんごうく)」、南方の「竜王吼(りゅうおうく)」、東方の「無畏十力吼(むいじゅうりきく)」、北方の「雷電吼(らいでんく)」、そして西方の「無量力吼(むりょうりきく)」のことです。五大力菩薩については、改めて紹介する機会を設けたいと思います。

 

高見澤
 

おはようございます。最近、中国に出張に行き、一番困ることは何かというと、タクシーがなかなかつかまらず、タクシー代の支払いにも困ることです。中国で急速に広まったスマホによる配車サービス、そしてスマホによるキャッシュレス決済が、出張者など外国人は対応できずに困ることが少なくありません。中国国内に銀行口座があれば外国人でもスマホ決済はできますが、駐在でもしない限りわざわざ口座を作る人は少ないでしょう。外国人が少なかった30年前には、外国人を「外賓(Waibin)」と呼んで、二重価格による高額支払いを求められたものの、何かと優遇されていましたが、現在では二重価格はなくなりましたが、不便さを感じることが多くなってきました。経済成長や国民所得の向上によって国や人の考えが大きく変わる現実を実感できる典型例だと言えるでしょう。

 

さて、本日は前回の「高瀬舟」と類似した川舟の一つ「平田舟(ひらたぶね)」について紹介したいと思います。平田舟も和船の一つで、高瀬舟と同様に内水を航行するできるよう喫水が浅く、船縁を低くし、船底を平たく、全体に細長く作られていました。古くは上代から江戸時代、更には大正時代(1912年~1926年)まで多く使われていました。

 

「艜船」、「平田船」、「平駄船」、「比良太船」などとも表記され、時代や地域によって大きさ、船型が様々なものがありましたが、一般に高瀬舟よりは大きく、次回紹介する「五大力船」よりは小さいものを平田舟と呼んでいました。平均的には積載量は14石程度で、平田舟の小さいものは「小平田(こひらた)」、大きいものは「大平田(おおひらた)」に分けられていました。

 

長さは約1524メートル、横幅は3~4メートルで、船首に水押し(みおし)があり、船腹に根棚(ねだな)と上棚(うわだな)の二枚棚、船尾にモギと袖艫(そでとも)を持つセイジ(船室)がありました。大きな帆柱があり、主には帆走でしたが、流れの速い上りの場合には曳船によって運航することもありました。

 

日本全国の河川等で、荷物や旅客の輸送に使われていました。北上川流域等では米などの輸送、関東では利根川上中流域や荒川・新河岸川(しんがしがわ)等で使われ、諸河川では海産物を市場に水揚げする際の艀(はしけ)として利用されることもありました。また吉野川では、下りは薪炭や煙草、藍玉を、上りは塩、米、麦、雑貨等を運んでいました。利根川上中流域で使われていた平田舟を「上州艜(じょうしゅうひらた)」、荒川流域の平田舟は「川越艜(かわごえひらた)」と呼んでいました。

 

高見澤

 

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さて、本日からは江戸時代の河川舟運で使われていた「船/舟」について紹介していきたいと思います。最初は「高瀬舟(たかせぶね)」です。ところで、「船」と「舟」の違いですが、一般的に「船」はすべてのものに使い、使い分ける場合に大型のもの或いは動力がついたものを船、小型で手漕ぎのものを舟としています。

 

そういう意味では、高瀬舟は小型の船を指します。高瀬舟は日本各地で使われていた川舟の一種で、中世以前に使われていた舟と、江戸時代以降に普及した舟に大別されます。中世以前のものは、船体は小さく、背が高く船底が深いもので、江戸時代以降に使われていたものは、船体は比較的大きくなりましたが、船底は平たく浅くなっていました。高瀬舟の名称は、すでに平安時代前期の記録にはみられ、河川、湖沼、海辺などで渡船や輸送船として使われ、平安貴族の間では遊び船としても利用されていました。高瀬舟の名称は、この時代の背が高い船、すなわち「高背」からきたものと思われますが、ここでは江戸時代以降に使われた高瀬舟について紹介します。

 

室町時代末期、主に備中・美作国(岡山県)の「岡山三大河川(吉井川、高梁川、旭川)」で使われ始めた高瀬舟ですが、江戸時代に入ると、山城国の高瀬川、駿河国の富士川、下総国の利根川など、全国各地の河川でも使われるようになります。京都の豪商である角倉了以(すみのくらりょうい)・素庵(そあん)親子が開削して京都と伏見との間を繋いだ高瀬川は、高瀬舟の運航にちなんで名付けられた川です。

 

江戸時代に一般に使われていた高瀬舟は5石程度(約750キログラム)のものでしたが、利根川水系で使われていた舟は大型化していたようです。

 

高瀬船は帆走、もしくは人馬が曳くことによって運航され、主に物資の輸送に利用されていました。川を下る際には、船頭が舳先の立板に立って、棹で岩を避けつつ流れに従って舟を操作していました。反対に川を上る際には、帆を張って風の力で進んだり、人力で綱を引っ張り上げたりしていました。主な輸送物資は、川上からは年貢米、薪炭、木材、野菜等の農産物などで、川下からは塩、海産物、醤油、酒、畳表などの生活必需品でした。また、京都から大坂に流人を移す際にもこの高瀬舟が使われていたとのことです。

 

高瀬舟の船乗りは、基本的には船上で寝起きしており、陸上の宿に泊まることはほとんどありませんでした。船に釜や瓦竈(かわらくど)等の炊事道具や寝具を積み込み、川水を飲料水に使っていました。高瀬舟は、土足で入ると縁起が悪いとされ、水できれいに洗った「足半(あしなか)」と呼ばれる藁草履を履いて舟に乗っていました。

 

『高瀬舟』という森鴎外の小説があります。高瀬川を下る舟の中で、弟殺しの罪で遠島の刑を受けた罪人と、それを護送する同心との話を通じて、安楽死と知足について考える内容になっています。当時、舟は今よりもずっと生活に密着した身近な乗り物だったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。朝晩は大分涼しくなってきましたが、日中はまだまだ暑さが続く東京です。先日の台風17号は、その前に関東を襲った15号の爪痕に追い打ちをかけた形となり、停電で苦労された人も少なくありませんでした。電気に依存した生活が当たり前の現代社会において、電気がなくなった時の生活ほど過酷なものはありません。もちろん江戸時代には電気などありませんでした。当たり前であったものが当たり前でなくなった時、皆さんはどう対応しますか?

 

さて本日からは、江戸時代の「河川舟運(かせんしゅううん)」について紹介していきたいと思います。江戸時代に人や物資の安価な大量輸送手段として、海運が発達したことは、これまで紹介してきた通りですが、それと合わせて日本全国で河川を使った舟による輸送が行われていたことも当然のことです。これを河川舟運、或いは「河川水運」、「内陸水運」と呼びます。

 

河川舟運の発展は日本に限ったことでなく、日本においても古代から行われてきており、人や物資の輸送のほか、文化や習慣の伝播、河岸や津といった船着場・港湾都市の形成をも促すことになったのです。特に江戸時代においては、江戸防衛の観点から街道には関所が設けられ、車の利用が禁止され、大きな川には橋が架けられず、陸路の往来には何かと制限が設けられていたことから、河川舟運が大きく発展することになりました。江戸経済を支える重要な物流システムとして確立されていたのです。

 

江戸時代に河川舟運が発展した政治的背景として、第1に年貢米による徴税制度が確立したことで、各地から江戸に大量の年貢米が河川を通じて送られたこと、第2に参勤交代で商人の物資輸送に対する街道の利用が制限され、河川を利用せざるを得なかったこと、第3に社会の安定化に伴い江戸幕府や諸藩による河川舟運の管理がしやすくなったことが挙げられます。また、経済的背景としては、第1に江戸の人口が大幅に増加したことで、急速に物資の需要が増えたこと、第2に度重なる江戸の大火によって、常に木材の調達する必要があったこと、第3に輸送だけでなく商品取引を行う物流・流通業者の「河岸問屋」が出現したことです。

 

江戸時代の海運の発展については、すでに紹介してきた通りですが、全国の内陸の各地から海に面した港までは河川を使って物資が輸送され、関東各地から江戸までも河川を利用することは少なくありませんでした。江戸初期には、諸大名など地元領主が船主となって運営していましたが、次第に地元有力農民を中心に河川問屋が形成してきます。関東郡代・伊奈忠次が行った利根川東遷による江戸の河川整備も河川舟運の発展に大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。

 

河川舟運は日本全国の河川で行われていました。東北の北上川、最上川、阿武隈川、関東の那珂川、利根川、荒川、上信越の阿賀野川、信濃川、東海の富士川、天竜川、木曽川、北陸の神通川、近畿の熊野川、由良川、淀川、中国の高瀬川、旭川、江の川、四国の吉野川、仁淀川、四万十川、九州の遠賀側、筑後川、大淀川などです。内陸から海側へは米、雑穀、木材、竹、薪炭、絹、綿、石材、石灰など、逆に海側から内陸へは塩、海産物、酒、醤油などが双方向で運ばれていました。