2019年9月アーカイブ

 

おはようございます。今日で9月も終わり、明日から10月です。今年も残すところ3カ月となったわけですが、庶民にとってやはり気になるところは明日からの消費税増税に伴う生活や仕事に対する影響でしょう。単純に考えれば、生活費が2%アップというところでしょう。しかし、家計のやりくりなど出費を抑える工夫をすることで生活費自体を切り詰める方向に進むでしょうから、純粋な経済自体は縮小せざるを得ません。国の財政が非常に厳しい中で、増税という措置は分からないわけではありませんが、これが正しい選択かという疑問は残ります。日本経済の更なる疲弊が進まないよう祈るだけです。

 

さて、本日は河川舟運で使われていた大型の「五大力船(ごだいりきせん、ごだいりきぶね)」について紹介しようと思います。五大力船とは、江戸時代から昭和初期にかけて、関東近辺の海運に用いられた海川両用の廻船のことを指します。

 

五大力船の用途は、江戸を中心に武蔵、伊豆、安房、上総、下総の海辺などで穀物や干鰯(ほしか)、薪炭等の物資を輸送したほか、旅客の輸送にも使われていました。なかでも、特に江戸日本橋本船町の河岸と上総国木更津村との間で貨客輸送を行っていた船は「木更津船(きさらづぶね)」と呼ばれていました。

 

五大力船の構造は、基本的には海船造りですが、船体の幅を狭く、喫水を浅くして河川をも航行できるようにしていました。小型のものは全長31尺(9.4メートル)、幅8尺(2.4メートル)、積載重量は50石(7.5トン)で、大型のものは全長64尺(19.4メートル)、幅17尺(5.2メートル)、積載重量は500石(75トン)にもなりました。

 

海から直接河川に入り、市中の河岸に横付けすることができたので、他の廻船のように港の沖に停泊して、「瀬取船(せどりぶね)」で荷役する必要はありませんでした。海では帆を立てて帆走し、河川では棹が使えるよう舷側に長い棹走りが設置されていました。

 

五大力船の名称は、「五大力菩薩」に由来するとの説が有力です。五大力菩薩は、三宝と国土を守護するとされる大力を持つ5人の菩薩です。すなわち、中央の「金剛吼(こんごうく)」、南方の「竜王吼(りゅうおうく)」、東方の「無畏十力吼(むいじゅうりきく)」、北方の「雷電吼(らいでんく)」、そして西方の「無量力吼(むりょうりきく)」のことです。五大力菩薩については、改めて紹介する機会を設けたいと思います。

 

高見澤
 

おはようございます。最近、中国に出張に行き、一番困ることは何かというと、タクシーがなかなかつかまらず、タクシー代の支払いにも困ることです。中国で急速に広まったスマホによる配車サービス、そしてスマホによるキャッシュレス決済が、出張者など外国人は対応できずに困ることが少なくありません。中国国内に銀行口座があれば外国人でもスマホ決済はできますが、駐在でもしない限りわざわざ口座を作る人は少ないでしょう。外国人が少なかった30年前には、外国人を「外賓(Waibin)」と呼んで、二重価格による高額支払いを求められたものの、何かと優遇されていましたが、現在では二重価格はなくなりましたが、不便さを感じることが多くなってきました。経済成長や国民所得の向上によって国や人の考えが大きく変わる現実を実感できる典型例だと言えるでしょう。

 

さて、本日は前回の「高瀬舟」と類似した川舟の一つ「平田舟(ひらたぶね)」について紹介したいと思います。平田舟も和船の一つで、高瀬舟と同様に内水を航行するできるよう喫水が浅く、船縁を低くし、船底を平たく、全体に細長く作られていました。古くは上代から江戸時代、更には大正時代(1912年~1926年)まで多く使われていました。

 

「艜船」、「平田船」、「平駄船」、「比良太船」などとも表記され、時代や地域によって大きさ、船型が様々なものがありましたが、一般に高瀬舟よりは大きく、次回紹介する「五大力船」よりは小さいものを平田舟と呼んでいました。平均的には積載量は14石程度で、平田舟の小さいものは「小平田(こひらた)」、大きいものは「大平田(おおひらた)」に分けられていました。

 

長さは約1524メートル、横幅は3~4メートルで、船首に水押し(みおし)があり、船腹に根棚(ねだな)と上棚(うわだな)の二枚棚、船尾にモギと袖艫(そでとも)を持つセイジ(船室)がありました。大きな帆柱があり、主には帆走でしたが、流れの速い上りの場合には曳船によって運航することもありました。

 

日本全国の河川等で、荷物や旅客の輸送に使われていました。北上川流域等では米などの輸送、関東では利根川上中流域や荒川・新河岸川(しんがしがわ)等で使われ、諸河川では海産物を市場に水揚げする際の艀(はしけ)として利用されることもありました。また吉野川では、下りは薪炭や煙草、藍玉を、上りは塩、米、麦、雑貨等を運んでいました。利根川上中流域で使われていた平田舟を「上州艜(じょうしゅうひらた)」、荒川流域の平田舟は「川越艜(かわごえひらた)」と呼んでいました。

 

高見澤

 

専門家がズバリ!中日関係(40)日中ICV協力から見た新中国成立70年の経済発展_中国網_日本語 - japanese.china.org.cn

「光陰矢の如し」-月日が経つのは速い。新中国成立70周年を迎える間に、日中両国を取り巻く環境は大きく変化した。そして世の中の変化は日 ...

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さて、本日からは江戸時代の河川舟運で使われていた「船/舟」について紹介していきたいと思います。最初は「高瀬舟(たかせぶね)」です。ところで、「船」と「舟」の違いですが、一般的に「船」はすべてのものに使い、使い分ける場合に大型のもの或いは動力がついたものを船、小型で手漕ぎのものを舟としています。

 

そういう意味では、高瀬舟は小型の船を指します。高瀬舟は日本各地で使われていた川舟の一種で、中世以前に使われていた舟と、江戸時代以降に普及した舟に大別されます。中世以前のものは、船体は小さく、背が高く船底が深いもので、江戸時代以降に使われていたものは、船体は比較的大きくなりましたが、船底は平たく浅くなっていました。高瀬舟の名称は、すでに平安時代前期の記録にはみられ、河川、湖沼、海辺などで渡船や輸送船として使われ、平安貴族の間では遊び船としても利用されていました。高瀬舟の名称は、この時代の背が高い船、すなわち「高背」からきたものと思われますが、ここでは江戸時代以降に使われた高瀬舟について紹介します。

 

室町時代末期、主に備中・美作国(岡山県)の「岡山三大河川(吉井川、高梁川、旭川)」で使われ始めた高瀬舟ですが、江戸時代に入ると、山城国の高瀬川、駿河国の富士川、下総国の利根川など、全国各地の河川でも使われるようになります。京都の豪商である角倉了以(すみのくらりょうい)・素庵(そあん)親子が開削して京都と伏見との間を繋いだ高瀬川は、高瀬舟の運航にちなんで名付けられた川です。

 

江戸時代に一般に使われていた高瀬舟は5石程度(約750キログラム)のものでしたが、利根川水系で使われていた舟は大型化していたようです。

 

高瀬船は帆走、もしくは人馬が曳くことによって運航され、主に物資の輸送に利用されていました。川を下る際には、船頭が舳先の立板に立って、棹で岩を避けつつ流れに従って舟を操作していました。反対に川を上る際には、帆を張って風の力で進んだり、人力で綱を引っ張り上げたりしていました。主な輸送物資は、川上からは年貢米、薪炭、木材、野菜等の農産物などで、川下からは塩、海産物、醤油、酒、畳表などの生活必需品でした。また、京都から大坂に流人を移す際にもこの高瀬舟が使われていたとのことです。

 

高瀬舟の船乗りは、基本的には船上で寝起きしており、陸上の宿に泊まることはほとんどありませんでした。船に釜や瓦竈(かわらくど)等の炊事道具や寝具を積み込み、川水を飲料水に使っていました。高瀬舟は、土足で入ると縁起が悪いとされ、水できれいに洗った「足半(あしなか)」と呼ばれる藁草履を履いて舟に乗っていました。

 

『高瀬舟』という森鴎外の小説があります。高瀬川を下る舟の中で、弟殺しの罪で遠島の刑を受けた罪人と、それを護送する同心との話を通じて、安楽死と知足について考える内容になっています。当時、舟は今よりもずっと生活に密着した身近な乗り物だったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。朝晩は大分涼しくなってきましたが、日中はまだまだ暑さが続く東京です。先日の台風17号は、その前に関東を襲った15号の爪痕に追い打ちをかけた形となり、停電で苦労された人も少なくありませんでした。電気に依存した生活が当たり前の現代社会において、電気がなくなった時の生活ほど過酷なものはありません。もちろん江戸時代には電気などありませんでした。当たり前であったものが当たり前でなくなった時、皆さんはどう対応しますか?

 

さて本日からは、江戸時代の「河川舟運(かせんしゅううん)」について紹介していきたいと思います。江戸時代に人や物資の安価な大量輸送手段として、海運が発達したことは、これまで紹介してきた通りですが、それと合わせて日本全国で河川を使った舟による輸送が行われていたことも当然のことです。これを河川舟運、或いは「河川水運」、「内陸水運」と呼びます。

 

河川舟運の発展は日本に限ったことでなく、日本においても古代から行われてきており、人や物資の輸送のほか、文化や習慣の伝播、河岸や津といった船着場・港湾都市の形成をも促すことになったのです。特に江戸時代においては、江戸防衛の観点から街道には関所が設けられ、車の利用が禁止され、大きな川には橋が架けられず、陸路の往来には何かと制限が設けられていたことから、河川舟運が大きく発展することになりました。江戸経済を支える重要な物流システムとして確立されていたのです。

 

江戸時代に河川舟運が発展した政治的背景として、第1に年貢米による徴税制度が確立したことで、各地から江戸に大量の年貢米が河川を通じて送られたこと、第2に参勤交代で商人の物資輸送に対する街道の利用が制限され、河川を利用せざるを得なかったこと、第3に社会の安定化に伴い江戸幕府や諸藩による河川舟運の管理がしやすくなったことが挙げられます。また、経済的背景としては、第1に江戸の人口が大幅に増加したことで、急速に物資の需要が増えたこと、第2に度重なる江戸の大火によって、常に木材の調達する必要があったこと、第3に輸送だけでなく商品取引を行う物流・流通業者の「河岸問屋」が出現したことです。

 

江戸時代の海運の発展については、すでに紹介してきた通りですが、全国の内陸の各地から海に面した港までは河川を使って物資が輸送され、関東各地から江戸までも河川を利用することは少なくありませんでした。江戸初期には、諸大名など地元領主が船主となって運営していましたが、次第に地元有力農民を中心に河川問屋が形成してきます。関東郡代・伊奈忠次が行った利根川東遷による江戸の河川整備も河川舟運の発展に大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。

 

河川舟運は日本全国の河川で行われていました。東北の北上川、最上川、阿武隈川、関東の那珂川、利根川、荒川、上信越の阿賀野川、信濃川、東海の富士川、天竜川、木曽川、北陸の神通川、近畿の熊野川、由良川、淀川、中国の高瀬川、旭川、江の川、四国の吉野川、仁淀川、四万十川、九州の遠賀側、筑後川、大淀川などです。内陸から海側へは米、雑穀、木材、竹、薪炭、絹、綿、石材、石灰など、逆に海側から内陸へは塩、海産物、酒、醤油などが双方向で運ばれていました。

 

河川舟運に使われた船は、後日紹介していきますが、動力について、下りは川の流れを利用して船頭が竿を使って船をコントロールしながら荷を運び、上りは帆を張って風を利用したり、人馬が曳いて川を遡っていきました。蒸気機関や内燃機関などない時代ですから、それは大変な労力が必要だったのです。河川舟運によって、河岸には荷物の積み下ろしする船着場や物資を貯蔵する蔵、更に市場などが立ち並ぶ港町が整備されていきました。こうした河岸のことを、信濃川流域では「河戸」、木曽川や長良川などでは「湊」、淀川では「浜」、遠賀川では「船場」などと呼んでいたそうです。

 

高見澤
 

おはようございます。ご無沙汰しておりました。久ぶりの瓦版です。先々週、経済界の大型訪中代表団で北京を訪れた後、週末を挟んで、今度は自動運転セミナーに参加するために再度北京を訪問しました。出張中はほとんど眠る暇もない日々が続き、週末も資料準備などで追われ、一昨日、昨日とようやく睡眠がとれたような状態でした。そうした中、新しい一週間が始まりました。今週も忙しくなりそうです。

 

さて、本日は前回ご紹介した「安宅丸」に代わる徳川将軍家の「御座船」となった「天地丸(てんちまる)」についてお話ししたいと思います。この天地丸は、安宅丸と異なり「関船」をベースに建造されたもので、安宅丸に比べその規模は小さなものでした。

 

これまでも度々出て、きた慶長14年(1609年)の「大船建造の禁」によって諸大名が大型軍船である安宅船を保有することができなくなり、関船が諸藩の水軍の主力になっていったことは、すでに先日の瓦版で説明した通りです。江戸幕府においても、御座船として利用していた安宅丸が実用的でなく維持費もばかにならないことから、建造からわずか48年で廃船、解体となったわけですが、それに代わる御座船として使用されたのが天地丸です。

 

この天地丸の建造にあたったのが、安宅丸の建造を手掛けた船手頭の向井忠勝(将監)です。3代将軍・徳川家光によって、安宅丸完成の4年前の寛永7年(1630年)6月に試乗が行われ、その性能の良さが評価されたとのことです。天地丸の構造は16反帆、小艪76挺立てで、上口長93尺(28.2メートル)、肩幅23.72尺(7.2メートル)、深さ6.3尺(1.9メートル)、500石積みの典型的な大型関船でした。推定排水量は約100トン、巡行速力は3.1ノット(毎時約5.7キロメートル)、最大速度は6.8ノット(毎時約12.6キロメートル)とみられています。

 

当時、幕府の艦船格納庫である「御船蔵(みふなくら)」が隅田川に面した沿いの本所・深川辺り(東京都江東区新大橋一丁目)にあったことから、隅田川の推進を考慮して浅い喫水の設計になっていました。上部構造は船体の全長にわたって屋根風の甲板が張られた総矢倉造りで、中央には2階建ての屋形がありましたが、通常の関船に設けられている船尾の艪矢倉はありませんでした。朱塗りに金メッキが施された豪華な造りになっていたようです。

 

天地丸は大規模な修繕を重ねながら、幕末に至るまで使用されていました。江戸時代後期には幕府が保有する最大の軍船でしたが、黒船来航以降は西洋式の幕府海軍の整備が行われるなかで、文政2年(1862年)に船手組は西洋式の軍艦組に編入され、天地丸をはじめとする関船や小早は全廃となります。天地丸はその後も船蔵で保管されますが、明治7年(1874年)に解体されることになりました。一般に木造船の寿命は長くとも20年といわれるなかで、230年以上にわたって使われた天地丸、江戸時代のメンテナンス技術の高さを伺い知ることができます。

 

高見澤
 


おはようございます。いよいよ来週月曜日から日本経済界の大型訪中代表団が中国北京に派遣されます。毎日残業続きで準備を行ってきたわけですが、現地ではさらに過酷な日が続きます。今回、私は北京のみの参加で、地方視察先である内モンゴルまでは行きません。その理由は、再来週にまた北京で自動運転に関する官民合同セミナーに再び出張があるからです。2週連続での中国出張とそれまでの準備、帰国後の出張報告とその間に溜まったルーチンの業務。考えるだけでも疲れてしまいそうな毎日です。ということで、来週、再来週と瓦版をお休みさせていただきます。


 


さて、前回説明した「御座船」ですが、本日はそのなかでも、江戸幕府が建造した御座船、「安宅丸(あたけまる)」について紹介していきましょう。安宅丸は、徳川将軍の御座船として軍用船である安宅船をベースに建造したもので、別名「天下丸(てんかまる)」と呼ばれていました。


江戸時代初期の寛永8年(1631年)、大御所となっていた2代将軍・秀忠が向井水軍の総帥・向井将監(忠勝) に命じ、3年後の寛永11年(1634年)に伊豆国伊東で安宅丸が完成します。完成後、安宅丸は江戸湾に回航され、翌寛永12年(1635年)6月に品川沖で3代将軍・家光が試乗します。そして、その後安宅丸は江戸深川の「御船蔵」に係留されました。


 


江戸時代の記録によると、和洋折衷の船型をしていたようで、船首に長さ3間(約5.5メートル)の竜頭を置き、長さ125尺(約38メートル)の竜骨に45本の肋骨の周りに外板が張られていました。竜骨があったことで一般の安宅船とは異なり、船体の丈夫さが伺えます。全長は156.5尺(約47メートル)や30尋(じん)〔約55メートル〕など諸説あり、幅が53.6尺(約20メートル)、深さ11尺(約3.3メートル)で、推定排水量は1,500トンから1,700トンとみられています。艪の数は2人掛けの100挺、すなわち水夫200人です。


 


上部は安宅船に準じた和式の軍船艤装を施しており、2層の総矢倉で船首側に2層の天守を備えていました。外板の厚みは1尺、船体・上構すべてを銅板で包み防火力や船喰虫対策を強化していました。また、大筒5、小筒30、鉄砲80丁が装備されていたほか、絢爛豪華な装飾が施されていました。これだけの巨大船ですから、当時の関船を主力とした諸大名の水軍力では対抗することは不可能で、「日本一の御舟」として江戸の名物の一つにもなっていたそようです。


 


とはいえ、巨体過ぎることから実用性は乏しく、維持費用も嵩んでいたため、奢侈引締め政策の影響もあって、天和2年(1682年)に安宅丸は幕府によって解体されることになりました。これ以降は、関船系の「天地丸」が幕府の御座船として使われることになります。


 


尚、安宅丸の建造については、北条氏直建造説、豊臣秀吉建造説などの異説もありますが、その信憑性は薄いとされています。


 


現在、東京の日の出桟橋を発着地とする遊覧船「御座船安宅丸」が観光クルーズを行っています。その外観は江戸時代の安宅丸を模した形となっています。排水量は486トン、全長約50メートルで、排水量は別としても大きさとしては当時と同じくらいでしょうか。


 


高見澤



 

おはようございます。連日の残業続きで、寝不足が深刻化しています。来週の日本経済界の訪中代表団派遣を控え、準備作業も大詰めを迎えています。中国側に渡す記念品として、昨年、江戸時代の本物の浮世絵が好評だったことから、今年も浮世絵を手渡すことしました。2年連続で同じ種類の記念品を選ぶことは異例のことです。自国の長い歴史・文化・伝統を誇りとし、派手な色彩を好む中国人だからこそ、本物の良さが分かるのかもしれません。

 

さて、本日は「御座船(ござぶね)」について紹介したいと思います。御座船には、江戸時代に裕福な町の人たちが川遊びに用いた屋形船を指すこともありますが、ここでは天王や公家、将軍、大名などの貴人が乗る船、いわゆる「御召船(おめしぶね)」を説明します。

 

御座船は、貴人が使うだけに、その造りは豪華絢爛に仕立てられていました。とはいっても、その型は時代や用途によって大きな違いがあったようです。上部構造である屋形にも数種類あるようですが、総じて屋形は中倉(上段、床几)、次之間、後倉〔舳屋根(へさきやね)、出屋根〕から成っていて、その上に太鼓楼が設置されていました。中倉の前には表出屋根、その下には小床几、左右に旅屋根があります。

 

天皇の御座船は茅葺きで千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)がのせられ、将軍の御座船は檜皮葺きで鯱がのせられていました。栃葺きで箱棟(はこむね)鬼板(おにいた)、唐破風(からはふ)、てり破風、むくり破風、入母屋造(いりもやづくり)や横棟造で上屋形または左右の高欄胴舟梁まであるのが普通だったようです。

 

従来、安宅船をベースに仕立てられていた御座船ですが、一般に慶長14年(1609年)の「大船建造の禁」が出されてから、中型の軍船であった「関船」を華麗に飾り立てて御座船として使用することが多くなりました。御座船は、大名の参勤交代に用いられたほか、琉球使節の江戸上り、朝鮮通信使の送迎にも使われていました。特に送迎役となる九州、四国、瀬戸内海から伏見に至るまでの諸大名はもちろんのこと、徳川将軍家も大坂に4隻の御座船を常備していたとのことです。

 

海洋で使う御座船は「海御座船」、河川用のものは「川御座船」と呼ばれており、瀬が浅くて御座船が通せない場合には、河川用の「御召替船(おめしがわりぶね)」、「中御座船」、「小御座船」などが使用されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。連日の豪雨で、特に西日本では被害拡大に警戒が必要となっています。長崎県では1時間に約120ミリという記録的短時間の大雨が降り、浸水ばかりか土砂災害への警戒が必要になっています。昨日は関東でも局地的に急激な大雨に見舞われたところもあり、横浜駅が一時浸水する事態となったようです。今日は、太平洋側を中心に晴れるところが多いものの、大気が不安定となるため、急な落雷や雷雨に警戒が必要とのことです。

 

さて、 本日は小型の軍用船「小早(こはや)」について紹介したいと思います。この小早も「安宅船」や「関船」と同じように、戦国時代から江戸時代にかけて使われた軍船の一つです。「小型の早船(関船)」との意味合いから小早と呼ばれるようになり、「小早船(こばやぶね)」とも称されています。

 

規模の大きさから例えれば、安宅船が戦艦、関船が巡洋艦、小早が駆逐艦といった感じにはなりますが、これはあくまでも規模から想像した例えで、その役割は現代の軍船とは異なります。艪の数は概ね40挺以下で、船体は小さくそれを覆う総矢倉は設置されていません。そのため、搭乗できる戦闘員は少なく、矢倉上の高い位置から射撃することはできません。また、楯板による装甲もなく、「半垣造り」と呼ばれる足を隠す程度の低い垣立(側壁)があるだけで、防御力はほとんどありません。

 

つまり、戦闘力としてはほとんど期待できるものではなく、軽快な機動力を活かして偵察や伝令、援護、輸送、護衛など、戦闘での補助的な役割を担っていました。ただ、焙烙火矢(ほうろくひや)や投げ焙烙などの飛び道具を主要武器とする場合や奇襲攻撃には、小型で快速の小早が主力艦になる場合もあったようです。

 

小早は、平時には警察任務を行うのに適していました。防水や腐食防止、装飾のために船体を漆で華麗に塗り上げられた「塗小早」と呼ばれる小早も見られるようになります。江戸時代には海運にも用いられるようになり、喫水線が低いために河川の奥まで進入が可能で、陸路の輸送にも使われていました。積載量は、通常は300石積以下、渡海船では500石積になることもあったようです。船足が速いことから、「物見船」、「飛脚船」と呼ばれることもありました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日フィリピン沖で発生した台風13号が発達しながら北上して、一両日には先島諸島に接近、週末には九州地方に近づく恐れがあるようです。先日の豪雨で大きな被害を受けた地方もあり、今後の台風の進路が気になるところです。また、今朝発生した台風14号は、南シナ海を東寄りに進むとみられており、日本への影響はないと思われますが、中国南部や東南アジア諸国への影響が懸念されます。一方、バハマに上陸したハリケーン「ドリアン」は各地に大きな被害をもたらしているようです。地球全体に広がる異常気象、この先ますます酷くなるのではないかと、不安は尽きません。

 

さて、本日は中型の軍用船「関船(せきぶね)」について紹介したいと思います。関船は、戦国時代から江戸時代にかけて日本の水軍で用いられていました。前回紹介した「安宅船」に比べ船体は小さく、攻撃力や防御力は劣りますが、その分小回りは利き、速力が出るために機動力に優るのが大きな特徴です。船体の規模で例えるなら、安宅船が現代の戦艦、関船は現代の巡洋艦といったところでしょうか。

 

関船は、室町時代に大名や寺社、海賊などが瀬戸内海や豊後水道に設けていた関所に配備されていた監視用の船のことを指していました。海路の要衝を抑え、航行する一般の船舶から「関銭(せきせん)」と呼ばれる通行料を徴収することで、航路の安全と住民の保護の任務にあたっていたのです。このため、関船という名称が使われるようになったようです。

 

関船の構造をみると、安宅船と同じように船体のほぼ全長に渡り矢倉と呼ばれる甲板を張った上部構造物を有する「総矢倉」の形態となっており、艪の数は40挺から80挺ほどとなっています。ただ、安宅船と異なるのは船首が箱型ではなく、一本水押しの尖った形となっているところです。総矢倉の周囲は楯板と呼ばれる木製の装甲が設置され、戦闘員や艪の漕ぎ手を保護するようになってはいますが、安宅船よりも楯板は薄く防弾性能は劣っていました。巡航の際には帆走しますが、戦闘時には帆柱を倒して艪による走行に移行します。

 

関船も安宅船と同様に竜骨を使っていないことから軽量かつ頑丈ではあるものの、衝突による破損には弱く、体当たり戦には適していません。楯板に設けられた狭間から火縄銃や弓矢による攻撃と、敵船に接舷して移乗攻撃が主な攻撃方法です。慶長14年(1609年)の「大船建造の禁」以降は、この関船が諸大名の水軍の主力船となっていました。

 

関船の大きさは、通常は40挺から50挺の艪を装備する全長18メートルから23メートルのものが多く、「中関(なかぜき)」と称されていました。また、諸大名の「御座船(ござぶね)」としては70挺から80挺立ての全長32メートルから36メートルの大型のものが建造されていました。徳川家光が建造した76挺立ての「天地丸」は、その代表的なものです。九州、四国、中国の諸大名は、参勤交代の際に、領国から大坂までは御座船と多数の関船による大船団を組んで、海路を往来していました。

 

関船は、またの名を「早船(はやぶね)」とも呼び、その小型のものが「小関船」、または「小早(こはや)」といわれるもので、これについては改めて紹介します。

 

高見澤

 

おはようございます。9月になったというのに、まだまだ暑い日が続きます。真夏の暑さに比べればまだ気温は低いものの、湿気の多い蒸し暑さは、また一段と不快感を高めます。そんななかで、如何に少しでも快適に過ごすよう工夫するのもまた、人の智恵というべきものなのでしょうか。

 

さて本日は、和船の中でも特に軍用に使われた「安宅船(あたけぶね)」について紹介したいと思います。安宅船は室町時代の終わり頃から江戸時代初めにかけて建造、使用された大型の軍船です。大きいものでは長さ50メートル以上、幅10メートル以上にわたる巨体を誇り、「大安宅(おおあたけ)」とも呼ばれていました。

 

巨体で重厚な造りの安宅船は、これまで紹介した「伊勢船」や「二形船」などの大型和船を軍用に艤装したもので、小さいものでは500石積、大きくなると1,000石積以上の規模となりました。戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進され、これとは別に数十人から百数十人の戦闘要員が乗り組むことができました。このため、小回りは利くものの、速度はあまり出なかったようです。速度を重視する軍用船としては、「関船(せきぶね)」や「小早(こはや)」という船がありますが、これについては後日紹介することにします。安宅船は、規模的には現代の戦艦に相当することになるのでしょうか。

 

古代日本には水軍専用に建造された軍船はなく、「諸手船(もろたぶね)」と呼ばれる小型の手漕ぎ船が軍用に使われることがあったようで、漁船や商船を陸戦で用いられる楯板等で武装していました。これが安宅船の起源となったといわれています。船首の下部は中国船や西洋船のような骨格としての竜骨がない箱型であることから、衝突や座礁等の衝撃に弱く、体当たり攻撃には向いていません。推進時には帆を使うこともありますが、戦闘時にはマストを倒して艪だけで航行していました。

 

船首上部は角ばった形状をしていて、甲板上には「矢倉(やぐら)」と呼ばれる箱型の構造物が設置されています。船体全長近くに及ぶことから「総矢倉(そうやぐら)」とも呼ばれ、この形状によって確保された広い艦上に木製の楯板が張られ、矢玉から乗員を保護する仕組みになっています。総矢倉の上部には屋形が重なり、特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣が設置され、外見上は城郭施設にも見えることから、「海上の城」に例えられることもありした。後に楯板に鉄板が張られ、大鉄砲や大砲などの重火器が配備されるなど、重武装化が大きく進みます。

 

戦国時代には、毛利氏、武田氏、御北条氏などの戦国大名による水軍の組織化が進み、同時に軍船である安宅船の建造も行われるようになります。織田信長が「鉄甲船」と呼ばれる鉄張りの軍船を建造したことは有名です。こうして、戦国時代後期から江戸初期までが、安宅船建造のピークを迎えるわけですが、慶長14年(1609年)の江戸幕府による「大船建造の禁」によって、諸国大名による大型軍船の時代は幕を閉じることになります。

 

江戸幕府は、西国大名の水軍力抑止を目的に500石積を超える軍船を没収し、寛永12年(1635年)の「武家諸法度」により全国の大名が500石積を超える軍船の保有が禁じられます。これ以降、諸般の船手組(水軍)の主力は安宅船から関船へと移っていくのです。

 

ちなみに、安宅船の語源は諸説あり、定まったものはありません。戦国時代に淡路近辺を本拠地にしていた「安宅氏」から名付けられたという説、「暴れる」からくる「あたける」説、北陸道の地名「安宅(あたか)〔石川県小松市〕」説、陸奥国阿武隈川流域の地名「阿武」説などです。

 

高見澤

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