東藝術倶楽部瓦版 20190902:【江戸の乗り物その15】和船の戦艦-「安宅船」

 

おはようございます。9月になったというのに、まだまだ暑い日が続きます。真夏の暑さに比べればまだ気温は低いものの、湿気の多い蒸し暑さは、また一段と不快感を高めます。そんななかで、如何に少しでも快適に過ごすよう工夫するのもまた、人の智恵というべきものなのでしょうか。

 

さて本日は、和船の中でも特に軍用に使われた「安宅船(あたけぶね)」について紹介したいと思います。安宅船は室町時代の終わり頃から江戸時代初めにかけて建造、使用された大型の軍船です。大きいものでは長さ50メートル以上、幅10メートル以上にわたる巨体を誇り、「大安宅(おおあたけ)」とも呼ばれていました。

 

巨体で重厚な造りの安宅船は、これまで紹介した「伊勢船」や「二形船」などの大型和船を軍用に艤装したもので、小さいものでは500石積、大きくなると1,000石積以上の規模となりました。戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進され、これとは別に数十人から百数十人の戦闘要員が乗り組むことができました。このため、小回りは利くものの、速度はあまり出なかったようです。速度を重視する軍用船としては、「関船(せきぶね)」や「小早(こはや)」という船がありますが、これについては後日紹介することにします。安宅船は、規模的には現代の戦艦に相当することになるのでしょうか。

 

古代日本には水軍専用に建造された軍船はなく、「諸手船(もろたぶね)」と呼ばれる小型の手漕ぎ船が軍用に使われることがあったようで、漁船や商船を陸戦で用いられる楯板等で武装していました。これが安宅船の起源となったといわれています。船首の下部は中国船や西洋船のような骨格としての竜骨がない箱型であることから、衝突や座礁等の衝撃に弱く、体当たり攻撃には向いていません。推進時には帆を使うこともありますが、戦闘時にはマストを倒して艪だけで航行していました。

 

船首上部は角ばった形状をしていて、甲板上には「矢倉(やぐら)」と呼ばれる箱型の構造物が設置されています。船体全長近くに及ぶことから「総矢倉(そうやぐら)」とも呼ばれ、この形状によって確保された広い艦上に木製の楯板が張られ、矢玉から乗員を保護する仕組みになっています。総矢倉の上部には屋形が重なり、特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣が設置され、外見上は城郭施設にも見えることから、「海上の城」に例えられることもありした。後に楯板に鉄板が張られ、大鉄砲や大砲などの重火器が配備されるなど、重武装化が大きく進みます。

 

戦国時代には、毛利氏、武田氏、御北条氏などの戦国大名による水軍の組織化が進み、同時に軍船である安宅船の建造も行われるようになります。織田信長が「鉄甲船」と呼ばれる鉄張りの軍船を建造したことは有名です。こうして、戦国時代後期から江戸初期までが、安宅船建造のピークを迎えるわけですが、慶長14年(1609年)の江戸幕府による「大船建造の禁」によって、諸国大名による大型軍船の時代は幕を閉じることになります。

 

江戸幕府は、西国大名の水軍力抑止を目的に500石積を超える軍船を没収し、寛永12年(1635年)の「武家諸法度」により全国の大名が500石積を超える軍船の保有が禁じられます。これ以降、諸般の船手組(水軍)の主力は安宅船から関船へと移っていくのです。

 

ちなみに、安宅船の語源は諸説あり、定まったものはありません。戦国時代に淡路近辺を本拠地にしていた「安宅氏」から名付けられたという説、「暴れる」からくる「あたける」説、北陸道の地名「安宅(あたか)〔石川県小松市〕」説、陸奥国阿武隈川流域の地名「阿武」説などです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年9月 2日 12:36に書いたブログ記事です。

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