2018年11月アーカイブ

 

おはようございます。昨日は急遽お休みをもらうことになり、瓦版も休刊とさせていただきました。前回、香港空港でのロストバゲージについてお話ししましたが、その後、香港空港よりスーツケースが見付かったとの連絡があり、昨日午前9時過ぎに自宅に届きました。スーツケース自体に破損なく、中のモノも揃っていました。それにしても、原因や経緯など詳細が知りたいところです。

 

さて、本日は前回の町火消に関連して、「いろは四十八組」について紹介したいと思います。享保3年(1718年)に、南町奉行であった大岡忠相が町火消設置令を出し、享保5年(1720年)に「いろは四十七組」と、深川・本所に16組の町火消が設けられ、その後、いろは四十七組に「本組」が加わっていろは四十八組になったことは、前回説明した通りです。

 

このいろは四十八組は、「い組」、「ろ組」などと、いろは文字をそれぞれの町の町火消の組名としたものです。いろは文字のうち、「へ」は「屁」に通じることから「百」に、「ら」は「摩羅」に通じることから「千」に、「ひ」は「火」に通じることから「万」に、「ん」は「終わり」に通じることから「本」の文字にそれぞれ置き換えられました。

 

 

この町火消の主役は、前回紹介した通り「鳶人足」です。鳶人足は、平時は遊惰に時を過ごし、時には粗暴なふるまいをしたり、任侠風を吹かしたりなど、一種独特な気風を醸し出していました。そのため、火事場のみならず、火事場以外でも喧嘩が絶えなかったようです。

 

当時、火事が発生すると、各組の火消が火事場に向かいます。最初に到着した組の火消が、自分の組の名前を書いた「消札(けしふだ)」と呼ばれる木札を火事場の近所の軒先に掲げ、纏持を屋根に登らせて集合の合図の目印とし、どの組が活動しているかを世間に知らしめていました。なぜならば、この消札が消火に対する褒美を受ける時の証拠になっていたからです。

 

ところが、後から駆け付けた者が自分の組の札と勝手に差し替えたり、纏持を無理やり屋根から引きずり降ろして火事場での活動を乗っ取ろうとしたりしたため、肝心の消火活動そっちのけで、喧嘩が発生することも少なくなかったようです。こうした火消人足同士による消火活動時の巧妙争いを「消口争い(けしくちあらそい)」と呼んでいました。

 

火事とは無関係な争いとして、文久2年(1805年)に芝神宮境内で行われていた勧進相撲の見物で鳶人足の入場を巡って始まった「め組の喧嘩」が有名です。力士十数人とめ組の火消人足100人以上が喧嘩となり、最終的には寺社奉行、町奉行、勘定奉行をも巻き込む大騒ぎとなりました。この話は後に芝居にもなりました。鳶人足の気性の激しさを表す事件でした。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、北京から戻ってきました。今回の出張は災難続きで、22日に香港経由で深圳に入る際に、何と全日空便に預けた荷物がロストバゲージ!着替え5日分、スーツ1式、替えズボン1本、ネクタイ2本、ジャンバー、マフラー、手袋、傘、関連資料がなくなってしまいました。深圳では着替えを買う時間もなく、2日間同じものを着たきり雀で、さすがに2日目の夜に1着しかない下着と靴下、シャツを洗濯して、一糸まとわずの状態で、一晩中アイロンで乾かす始末。翌朝、やっと手に入れた着替えは間に合わせであったものの、それなりの値段。更に北京に着いてからは時間もない中で、急ごしらえでズボン1着、ネクタイ1本、ハーフコート、スーツケースを購入しました。時間が限られた中で、かき集めたこともあり、大したモノも買っていないのに10万円ほどかかってしまいました。昨日、羽田空港に到着した時点でスーツケースはまだ見つかっていません。誰がこれを保障してくれるのか、これから航空会社と交渉です。

 

さて、本日は制度化された「町火消(まちびけし)」について紹介していきたいと思います。町火消が本格的に制度化されたのは、8代将軍・吉宗のときです。火事によって焼失した町の復興のための幕府の財政負担は大きく、幕府財政安定化のためにも、出火への即時対応が喫緊の課題となっていました。

 

享保2年(1717年)に南町奉行に就任した大岡忠相は、翌年の享保3年(1718年)に名主たちの意見を取り入れ、火消組合(店火消のところで説明済み)の組織化を目的とした「町火消設置令」を出します。これにより、町火消が組織されるのと同時に、町火消は町奉行所の指揮下(火消人足改掛方)に置かれることになりました。とはいえ、その維持費用はそれぞれの町が負担することになってました。

 

1町につき30人ずつ動員することになり、火事が発生すると火元からみて風上の2町と風脇の左右2町、合計6町180人体制で消火活動にあたることとされました。しかし、町火消設置当初は、町の広さや人口が一様でなく、地図上で地域割りを行ったもののうまく機能しませんでした。

 

そこで、享保5年(1720年)に地域割りを修正し、20町ほどを1組として、隅田川から西を「いろは組」47組が担当し、東の本所、深川を16組の町火消が担当する組織作りが行われました。時代劇でお馴染みの町火消の誕生です。混乱する火事場でそれぞれ何組かが分かるように、各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)を作らせましたが、これが次第に各組を象徴するものとなっていきました。

 

享保15年(1730年)、いろは47組を一番組から十番組までの10大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるようにしました。その一方で、各町ごとの火消人足の数は30人から15人へと負担を軽くし、町火消全体の数は1万7,596人から9,378人になりました。

 

その後、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わって、いろは48組となり、本所、深川の16組は北組、中組、南組の3組に分けて統括されました。

 

元文3年(1738年)、10大組のうち組の名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に併合されて大組は8組となり、この時の定員は1万642人とされています。

 

町火消の構成は、町火消を統率する「頭取(とうどり)〔人足頭取〕」、各組を統率する「頭(かしら)〔組頭〕」、「纏持・梯子持(道具持)」、「平人(ひらびと)〔鳶人足〕」、「土手組(どてぐみ)〔下人足〕」から成っていました。このうち、土手組は消火の数には含まれていませんでした。頭取は江戸全体で270人ほどいたようで、一老、二老、御職の階級があり、御職は「顔役」とも呼ばれて、江戸市中でもよく知られる存在でした。

 

人足には「店人足」と呼ばれる一般の町人と、「鳶人足」と呼ばれる鳶職人による人足がいました。江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐための「破壊消防」が主であったことから、身体能力の高い鳶人足が消火活動の主役だったことが分かります。元文3年の大組改正の際の店人足と鳶人足の数は、それぞれ6,565人と4,077人とのことです。

 

町火消は毎年正月4日に、各組の町内で梯子乗り木遣り歌(きやりうた)を披露する初出(はつで)を行いました。これは定火消が行っていた出初に倣って始められたものです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。明日からいよいよ中国広東省深圳、及び北京への出張です。深圳では、中国のベンチャー企業と自動車企業を視察し、自動運転に向けた取り組みを調査してきます。24日に北京に入り、25日の第12回日中省エネ・環境総合フォーラムに出席します。昨日、フォーラムでの主催者側代表としての発言内容について、当協会会長と最終確認しました。まだ未定のことや不確定要素はあるものの、一応できるだけの準備は整えたといったところでしょうか。ということで、帰国が来週火曜日27日ですので、次回瓦版は28日とさせていただきます。

 

さて、これまでは大名や旗本によって組織された武家火消について説明してきましたが、今回からは町人によって組織された「町火消」について紹介したいと思います。町火消といっても、時代によっていくつかの変遷がありますので、それを時代ごとにおっていきましょう。

 

江戸時代初期、度重なる江戸の町人地の火災に対応するために、慶安元年(1648年)、江戸幕府は各町に10人ずつの人足を備え、消火に参加した者には褒美を出し、参加しなかった者には罰を与えるとの御触れをだしました。これによって、江戸の町人地で火事が発生した場合、消火に動員された町火消を「店火消(たなびけし)」、又は「駆付火消(かけつけびけし)」と呼んでいました。

 

とはいえ、この時代の店火消は武家火消のように制度化されたものではなく、あくまでも自衛的な消防組織であり、主に若者によって構成されていたようです。

 

こうした自衛的組織でしたが、明暦の大火後の万治元年(1658年)に次第に制度化が進み始めます。南伝馬町など23町が火消人足として167人を集め、共同で消火にあたる「火消組合」の設置を取り決めます。この火消人足は町名と印のついた羽織を着用していたそうで、これが後の制度化された「町火消」の原型となったようです。

 

江戸幕府もこの火消組合を認め、他の地域にも同様に火消組合を設けるよう促しましたが、火消人足を常時雇うには負担が大きいことから、23町以外には広がりをみせなかったようです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨晩から降っていた雨も、明け方には止んで、少し湿り気のある朝の澄んだ空気の中を歩いてきました。寒さを感じることもありますが、私にとっては比較的過ごしやすい季節です。

 

さて、本日は「火事場見廻役(かじばみまわりやく)」について紹介したいと思います。火事場見廻役は、本来は幕府の役職で紹介すべきところでしたが、実際の消火活動の指揮や監察をしていたこともあり、ここで取り上げたいと思います。

 

火事場見廻役が設置されたのは享保7年(1722年)で、寄合席の旗本から任命されていました。当初10名であったのが、その後、本所深川の2名が追加され、12名でその任にあたっていました。その任務は、江戸に火災が発生した時に、風下の万石以上の邸宅の巡視と警戒、消防の指揮と監察、鎮火後の視察や報告などでした。今でいう、火事場の現場検証なども火事場見廻役の重要な任務でした。

 

火災が発生すると、火事場見廻役は、繰り出す人員や火消の増強を決め、直接、消口の指揮にあたり、火消たちの進退を左右するほどの権限を与えられていたといわれています。しかし、その役高は持高であったことから、御役ではなく御奉公であった感が強かったと思われます。

 

高見澤

 

おはようございます。週末もあっという間に過ぎ、また新たな一週間が始まりました。これまでの無理が祟ったのか、あまり体調がすぐれず、ついウトウトっとしてしまうことが多いこの頃です。最近、車の運転はほとんど息子に任せているので、運転の機会はなくなりましたが、一昨日の土曜日に、娘の歯医者の見送りをするために、久しぶりにハンドルを握りました。何十年と運転してきましたが、それなりに緊張感をもついい機会になったかと思います。

 

さて、本日は「各自火消(かくじびけし)」について紹介したいと思います。明暦の大火がきっかけとなって、江戸市中の消防体制が整備されるようになったことは、前回の方角火消のところで紹介した通りですが、武家火消として幕府直轄の旗本を中心に編成された消防隊「定火消(じょうびけし)」が設置されたのは、明暦の大火の翌年、万治元年(1658年)のことです。この定火消については、すでに幕府の役職で詳しく説明(瓦版20180801)しているので、本シリーズでは省略します。

 

http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-search.cgi?search=%E5%AE%9A%E7%81%AB%E6%B6%88&IncludeBlogs=4&limit=20

 

各自火消とは、諸大名がそれぞれ自身で組織した消防隊のことを指します。各自火消もまた大名火消の一つで、諸大名は、それぞれの大名屋敷や近辺で火災が発生した際に、あくまでも自らの大名屋敷を火災から守るために組織したもので、比較的早い時期から存在していたと思われます。

 

天和元年(1681年)、幕府から各大名に対して、近所で火災が発生した場合に、家来に消火にあたるよう指示が出されます。これが享保2年(1717年)に、各大名の近隣火災に対する消火活動への参加が義務付けられることになりました。このため、こうした火消のことを「近所火消(きんじょびけし)」とも呼ばれていました。近所火消は、各大名の上屋敷のほか、中屋敷や下屋敷からも消火活動への出動が命じられています。この定められた出動範囲により、「三町火消」、「五町火消」、「八町火消」などの別称もあったようです。また、縁戚の屋敷や菩提寺など、近隣の範囲を越えて消火に駆けつける場合には、「見舞火消(みまいびけし)」とも呼ばれていました。

 

各自火消の中で特に有名なのが、加賀前田藩が組織した「加賀鳶(かがとび)」です。加賀鳶は3組から成り、その派手な装束と比類なき働きぶりで評価されていたものの、あまりの威勢の激しさに喧嘩になることも少なくなく、別称「喧嘩鳶」とも呼ばれていました。

 

旗本に対しては、享保7年(1722年)に、「飛火防組合(とびひふせぎくみあい)」として65組が編制され、組合内での火災の際に出動するよう命じられていました。

 

以上みてきたように、江戸の消防体制については、明暦の大火とともに、実は8代将軍・吉宗によって行われた享保の改革の際にも、所々火消や方角火消の再編が行われるなど整備が進んだことが分かります。また、この頃の大岡忠相が主導して制度化された「町火消」など、町人による消防組織が次第に江戸の消火活動に大きな役割を担っていくことになります。

 

高見澤

 

おはようございます。北方領土返還に向けた日ロ交渉が動き始めました。アセアン首脳会議出席のためシンガポールを訪れている安倍首相がロシアのプーチン大統領と会談しました。1956年の日ソ共同宣言に基づいて、歯舞群島と色丹島の2島返還を軸にした交渉になるのか、或いは国後島、択捉島も含めた4島返還を前提にするのか、年明けとされる安倍首相のロシア訪問が気になるところです。

 

さて、本日は、「方角火消(ほうがくびけし)」について紹介したいと思います。この方角火消も大名火消の一つで、担当区域を分けて消火に当たることになっていたものです。

 

江戸幕府によって、重要地に配された所々火消や火元に近い大名が担当した大名火消が制度的に設置された江戸の武家火消でしたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で江戸城天守が焼失し、江戸市中で最大107,000人の犠牲者を出したことから、従来の火消制度では、まったく対応できないことが痛感されられました。このため、幕府はこの明暦の大火以降、きちっとした形で消防制度の確立に努めるようになります。

 

先ずは、明暦の大火で焼失した江戸市中を再建する際、大名や旗本の屋敷、更には寺社の一部を江戸の郊外に移転させて、延焼を防ぐための「火除地」を設け、また耐火建築として瓦葺屋根や土蔵造りを奨励するなどして、火災に強い町づくりを目指しました。

 

その一方で、新たな消防体制を構築していきます。明暦の大火以降、幕府によって最初に設置されたのが方角火消です。明暦の大火直後に、先ずは大名12名が選ばれ、桜田筋、山手筋、下谷筋の3組の火消役が編制されます。江戸市中で火事が発生すると、地域担当の大名が現場に駆けつけて消火に当たることになっていました。

 

これが元禄年間(1688年~1704年)になると、東西南北の4組に改編され、この頃から方角火消と呼ばれるようになりました。その後、正徳2年(1712年)に5方角5組となり、享保元年(1716年)には大手組、桜田組の2組になりました。

 

大手組、桜田組には、それぞれ4名、計8名の大名があてられました。火事の際には、それぞれ大手門、桜田門に集結し、消防活動の主な目的は江戸城への延焼防止で、江戸城内の火災の際には、老中の指示を受けてから出動していました。一般的に、この方角火消は消火活動の主力ではなく、火元から離れた場所で防火するのが役目だったので、「防大名(ふせだいみょう)」とも呼ばれていました。

 

方角火消は、参勤交代で江戸に滞在中の大名から選ばれ、屋敷には通常より高い火の見櫓の建築が許されていたようです。方角火消の定員は、任命された大名の石高によって異なり、1万石以上では騎馬3~4騎、足軽20人、中間・人足30人。10万石以上では騎馬10騎、足軽80人、中間・人足140150人。20万石以上となると、騎馬1520騎、足軽120130人、中間・人足250300人とされていました。

 

高見澤

 

おはようございます。東京に住むようになって特に感じるのは、人々にまったくと言っていいほど、マナーや配慮といったものがないことです。街や駅を歩いているときでも、周りのことを一切気に掛けることもなく、平気でぶつかってくる輩の何と多いことか。昨日驚いたのは、地下鉄の電車に乗った途端、後から乗客が乗って来るにもかかわらず、一人のオバサンがドアの入り口のところで大き目なズタ袋をドカッと床に置いて、大きく広げて何かを探している様子。その異常さと言ったら空前絶後!それが一人、二人ではありません。東京の9割がそんなのばかり...と感じてしまうほど常時目にする状況です。

 

さて、本日は、「大名火消(だいみょうびけし)」について紹介したいと思います。前回紹介した所々火消は、この大名火消に数えられますが、大名火消が形と成立するのは所々火消が設置された後のことです。

 

寛永18年1月29日(1641年3月10日)、京橋桶町から出火した火災は、烈風により延焼が拡大し、97の町と123カ所の武家屋敷を焼失し、死者400人以上、さらに消火の陣頭指揮にあたっていた大目付の加賀爪忠澄(かがつめ ただすみ)が煙にまかれて殉職、所々火消に任じられていた陸奥国相馬藩主の相馬義胤(そうまよしたね)が消火活動中に落馬して重傷を負うなど、大きな被害を出しました。この火事を通称「桶町火事」と呼んでいます。

 

この桶町火事をきっかけに、幕府は制度的な消防体制を検討し、桶町火事の2年後の寛永20年(1643年)に、大名による新たな火消役を設けることになります。これが大名火消といわれる体制です。

 

大名火消は、6万石以下の大名から16家を選び、それを4組に編制、1万石当たり30人ずつの定員420人を1組として、1組は10日交代で消火活動を行うといものです。火災が発生すると、火元に近い大名が出動し、大名自らが指揮をとって、武家地・町人地の区別なく消火活動を行いました。この制度は、奉書火消を制度化したものとされ、大火の場合には従来通り老中から奉書を送り、正式に招集して消化活動にあたらせていました。この制度化された大名火消をそれまでの奉書火消と区別して「増火消(ましびけし)」と呼んでいました。

 

こうして制度化された大名火消ですが、火災の際には大名自ら出陣することから、華麗な火事装束に身を包んだ家臣に隊列を組ませ、現場まで行進して消火活動にあたるようになり、その装束も次第に派手になっていったと言われています。このような状態ですから、どこまで真剣な消火活動が行えたのかは疑問が残るところです。とはいえ、江戸幕府が市中の防火防災・消防の制度化に取り組み始めたことは、町造り、都市化に向けた制度整備の一環として称賛すべきことだと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。日が昇るのも随分と遅くなり、日が暮れるのも大分早くなりました。冬至に向けて日がだんだんと短くなっていくのを、身体で感じる今日この頃です。江戸の暦でも紹介したように、江戸時代は季節によって物理的な時間の長さが異なっていました。これはこれで、合理的な考え方だったのかもしれません。季節や人々の体調に合わせて概念を変えていくことも、時には必要だと思います。

 

さて、本日は「所々火消(しょしょびけし、ところどころびけし)」について紹介したいと思います。この所々火消もまた武家火消の一つで、大名火消に分類されます。

 

寛永16年(1639年)、江戸城内本丸が火災に見舞われたました。それをきっかけに、江戸城内にある紅葉山霊廟に対する消防役を、譜代大名の下総生実(おゆみ)藩二代藩主・森川重政に命じたことが所々火消の始まりといわれています。

 

所々火消は、各大名にそれぞれの担当する場所が定められていたことからその名前が付けられたものでした。江戸幕府にとって、重要な場所を火災から守るために設けられた初めての専門の火消役といえるでしょう。

 

元禄年間(1688年~1704年)に、所々火消が定められた場所が増え、江戸城各所をはじめ寛永寺や増上寺等の寺社、両国橋や永代橋等の橋梁、本所御米蔵等の蔵を36名の大名が担当するようになりました。その後、享保7年(1722年)に第8代将軍の徳川吉宗が重要地として11カ所を定め、それぞれ大名1名に担当させる方式に改編しました。その11カ所は以下の通りです。

 

江戸城内5カ所:紅葉山霊廟、大手方、桜田方、二の丸、吹上

城外の蔵3カ所:浅草御米蔵、本所御米蔵、本所猿江材木蔵

寺社3カ所:上野寛永寺、芝増上寺、湯島聖堂

 

江戸城内の5カ所は譜代大名が所々火消として命じられ、江戸城外の蔵などの施設は外様大名が受け持っていました。

 

高見澤

 

 

おはようございます。朝晩はめっきり冷えるようになった東京ですが、それでも早朝に歩いてくると少し汗ばむ感じがします。江戸城田安門前の銀杏の葉の色が変わり始めているのを見ると、騒然とした人間社会とは関係なく、静かに過ぎていく時の雄大さを感じざるを得ません。

 

さて、本日は「奉書火消(ほうしょびけし)」について紹介したいと思います。

「奉書(ほうしょ)」とは、古文書の様式の一つで、近侍者が上位者の意を奉じて下達する文書のことを指します。

 

江戸時代初期は、江戸では火消の制度が定められていなかったことは、前回説明した通りですが、実際に江戸城が火事となった場合には、老中や若年寄が大番組、書院番組、鉄砲組等の旗本に命じて消化活動を行っていました。江戸市中において、大名や旗本の屋敷などの武家地で火災が発生した場合、大名や旗本自身で対応し、町人地では町人自身が消化活動を行うのが通例でした。武家地と町人地は明確に区分されており、慶長18年(1613年)に出された禁令では、町人地の火事に武家奉公人が駆けつけることは禁じられていました。

 

そうしたなか、寛永6年(1629年)に奉書火消の制度が定められます。これは、火事が発生すると、老中の名で奉書を諸大名に送り、諸大名を招集して消化にあたらせる制度です。しかし、このやり方では、火災発生から奉書を用意して、大名に使いを出し、その奉書を受けて大名が家臣を引き連れて火災現場に向かうという手間のかかるもので、緊急を要する火事に対しての効果はほとんど期待できるものではありませんでした。しかも、大名やその家臣は平時から消火訓練など行っていなかったものですから、消火活動も形ばかりのものであったと思われます。

 

高見澤

 

おはようございます。今月25日、北京で「日中省エネ・環境総合フォーラム」が開催されます。私の所属する組織もその主催者の一人になっており、これまた総動員体制でこの大イベントに臨んでいます。私自身、そのイベントの前に自動運転の調査事業で深圳に入り、その足で北京に赴き、フォーラムに参加することになります。日数的には5泊6日ですが、香港経由ということもあって移動距離は思っているほど短くはないようです。

 

さて、本日からしばらくの間は江戸の消防組織、「火消(ひけし)」について紹介していきたいと思います。江戸時代において、火消というのは、江戸の消防組織とそれに加わる構成員のことを指していました。

 

「火事と喧嘩は江戸の華(花)」ともいわれるように、とにかく江戸では頻繁に火事が起きていました。江戸幕府開幕当初の慶長6年(1601年)から幕府最後の慶応3年(1867年)までの267年間で、大火事だけで49回、小さなものも含めると1798回の火事が発生したとの研究報告もあります。

 

江戸時代初期には、まだ火消の制度が確立されていませんでしたが、度重なる出火を契機に、先ずは大名を中心とした「武家火消(ぶけびけし)」が制度化され発展していきました。江戸時代中期には、享保の改革によって「町火消(まちびけし)」が制度化され、江戸時代後期以降はこの町火消が江戸の消防活動の中核を担うようになります。

 

江戸時代の消防組織としては、武士によって組織された武家火消、町人によって組織された町火消の二つに大きく分かれますが、武家火消には大名に課役として命じられた「大名火消(だいみょうびけし)」と、幕府直轄で旗本が担っていた「定火消」に分けられます。定火消については、すでに江戸幕府の役職で詳細に説明したので、本シリーズでは特に説明しませんが、次回以降、それぞれの消防組織について紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は小雨が降っていました。11月もそろそろ中盤に差し掛かるかという時期で、寒さも少しずつ身体に感じるようになりました。季節の変わり目ということもあって、我が職場では体調を崩す人が若手を中心に続出しています。若い人ほど、身体の抵抗力が低下しているのが分かります。そういえば、最近は著名人の訃報のニュースが増えているように感じるのも気になります。

 

さて、江戸町奉行所の重要な組織として、もう一つ「江戸町火消」がありますが、これは江戸の消防シリーズでまとめて説明したいので、江戸町奉行所シリーズは取り敢えずここで一旦終了させていただきます。

 

そこで本日は、江戸時代にあったとされる身分制度、「士農工商(武士、農民、職人、商人)」について説明したいと思います。士農工商という言葉は、元々は古代中国から用いられてきたもので、身分制度というよりは、社会の構成要素である官吏、農民、職人、商人を指す概念で、「四民」とも呼ばれていました。紀元前7世紀に活躍した斉国の宰相・管仲の作とされる『管子』には「士農工商四民、国の礎(士農工商四民者、国之石民也)」と記されています。

 

古代中国における身分制度の考え方として、「士」は都市国家社会においては支配階層である族長や貴族を、官僚社会成立以降は国家統治に携わる官吏や知識人を指していました。中国では伝統的に、土地に基づかずに利を求める「工」や「商」よりも、土地に根付いて食糧を生み出す「農」が重要視されてきたことは言うまでもありません。この概念や考え方が日本に取り入れられるようになったのは、奈良時代以前とされています。

 

日本でも戦国時代以前は、徒歩や足軽の多くは戦時に農民が駆り出されたもので、「士」と「農」との区別はかなり曖昧なものでした。それが、豊臣秀吉によって行われた天正9年(1582年)の太閤検地や天正16年(1588年)の刀狩などによって、次第に武士と農民が分離、それぞれの役割が固定化され、職業となっていきました。

 

こうした兵農分離政策による職業の固定化は、江戸時代に入って更に強化され、職業自体が世襲制となりました。武士の次に江戸の経済の本となる米を生産する農民が尊ばれ、次にモノづくりの工人(職人)、そして一番下層に生産物を生み出さない商人という順番で身分が決められた士農工商の身分制度となった...、というのが、これまでの教科書に書かれていた定説でした。

 

しかし、その後の研究によって、江戸時代の士農工商は身分制度というよりも、職業を表す概念だったというものです。身分制度としては、「士」を支配者層として他の「三民(農、工、商)」より上位に置かれ、三民についての上位・下位は存在していなかったということです。身分としては、支配階層の「士」の下に、農村にいる「百姓」と町にいる「町人」が同列に存在していたというのが、本当のところのようです。

 

「百姓」といのは決して農民のみを表すものではなく、農村に住む職人は百姓、同じ職人でも町に住めば「町人」と呼ばれていたようです。つまり、百姓や町人というのが身分であって、彼らは「平人(へいじん)」としてくくられていました。

 

江戸時代の職業は原則的には世襲されていましたが、百姓・町人間の職業の移動は比較的容易であり、下層武士(徒歩)と上層百姓との間にもある程度の流動性があったようです。とはいえ、中上層武士の身分移動はほとんどなく、武士と百姓・町人との間の身分制度自体は強固なものであり、こうした身分移動は個別事例として一程度の柔軟性を有していたというのが実際のところでしょう。

 

江戸時代には、武士と平人(百姓・町人)の間には身分的に大きな格差があり、更に加えて「穢多」、「非人」という下の階層があったとされています。これについては、江戸町奉行所の役職、「穢多頭」、「非人頭」で少し触れましたが、これらは平人と比べて下の存在とされていたものが、明治以降、平民(一般民衆)とは別個の存在として扱われ社会的差別を受けたとの説があります。

 

しかし、こうした差別が発生した原因は、当時の江戸幕府の政策のみあるのではなく、江戸時代以前の中世から存在していた血や死などの「ケガレ」に従事する職業に対する畏怖や畏敬などの感覚が、民衆の間で徐々にマイナスに働いていったという説もあります。

 

高見澤

 

おはようございます。米国の中間選挙も終わり、上院は共和党、下院は民主党が過半数を占めるねじれ現象となりました。閣僚の人事権や条約批准等の外交政策に強い権限を持つ上院が過半数を占めたことで、トランプ大統領としては一安心といったところでしょうか。とはいえ、残された2年間の政治運営は困難が続くものと思われます。

 

さて、本日は江戸町奉行所の配下にあった「穢多頭」、「非人頭」について紹介したいと思います。「穢多」、「非人」については、江戸時代以前の身分制度における被差別階層としてのイメージが強く、今でも一部の地方では選挙対策として被差別部落問題への対応が重視されることも少なくありません。また、差別用語として、放送禁止用語にもなっており、過去発言や表現をめぐり問題になったことも1回や2回ではありません。このため、少し慎重過ぎる面もあるかもしれませんが、本稿は公式ブログには掲載しない方が宜しいかもしれません。とはいえ、事実としてこうした職制があったことは、会員の皆様にもご承知いただければと思うので、敢えて紹介していきます。

 

最近では、江戸時代の身分制度についてはかなり研究が進み、従来我々が教科書で習ってきたことと大分異なっていたことが分かってきていますが、それについてはまた別の機会を設けて説明します。ここでは、あくまでも江戸町奉行所配下の職務としての穢多頭、非人頭について説明していきます。

 

江戸幕府の庇護の下、水戸藩・喜連川藩・日光神領等を除く関八州、伊豆全域及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統括していたのが「弾左衛門」という頭領でした。穢多頭というのは、あくまでも幕府側の呼称であり、自らは「長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門」と称していたそうです。

 

また、浅草を本拠としていたので「浅草弾左衛門」とも呼ばれていました。弾左衛門は代々世襲で、幕府から様々な特権を与えられ、生活はかなり豊かでした。弾左衛門の屋敷は浅草の山谷堀の今戸橋と山谷橋の間に位置し、かなり広い敷地だったようで、屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか、300400人の役人家族が暮らしていました。

 

こうした穢多階層の主な仕事は皮革加工や燈芯・竹細工の製造販売で、特に皮革産業は武具の製造には欠かせない軍需産業に携わる者として、差別をうけつつも幕府の保護を受けていました。一方、江戸幕府の役職としては、町奉行所の支配を受け、江戸市中の警備・警察、刑場と刑の執行管理を務めていました。また、斃牛馬の処理なども行っていました。

 

この穢多頭の支配を受け、刑罰執行の処理の下役を行ったのが非人頭で、その非人頭の下で多くの非人が実際の処理を行っていました。非人といっても大きく分けて「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」に区別されます。代々非人素性の者や刑罰によって非人となった「非人手下(ひにんてか)」と呼ばれる者が抱非人で、非人頭の下で非人小屋に属し、非人頭と呼ばれる小屋主の配下に置かれていました。一方の野非人は「無宿非人」と呼ばれ、非人小屋に属さない浮浪者を指します。

 

穢多頭の支配を受けて、町奉行所管轄の仕事をしていのは言わずもがな抱非人です。江戸には約3,000人、或いは4,0005,000人いたという説もあり、これら非人については浅草を拠点としていた非人頭代表の「車善七」が統括し、その下にいた各地の非人頭の支配下にありました。車善七は享保7年(1722年)に穢多頭の弾左衛門の支配下に入ったとされています。

 

代表的な非人は以下の通りです。

・車善七:江戸非人の統括、浅草溜支配

・松右衛門:車善七に次ぐ勢力、品川溜支配、品川仕置場(鈴ヶ森刑場)雑事

・次郎兵衛:中橋(京橋川)在、南町奉行所仮牢雑事

・新四郎:四日市(日本橋)在、北町奉行所仮牢雑事

・長兵衛:谷在、伝馬町牢屋敷雑事

・善三郎:深川(富岡八幡宮門前)在、引き廻し晒しの棒突き

・惣左衛門:浅茅ケ原在、処刑死骸片付け

・久兵衛:代々木在、その他雑事

このうち、非人頭とされるのは、善七、松右衛門、善三郎、久兵衛の4人で、総代表は善七、善七は主に江戸の北半分、善七に次ぐ勢力の松右衛門が江戸の南半分を支配していました。善三郎は善七に、久兵衛は松右衛門に属していました。こうした非人頭の下に3040の小屋があり、それぞれに小屋頭があり、小頭、小屋者を支配していました。彼らの活動費用は、主に「勧進」と呼ばれる寺社再建のための浄財の寄付を求める募金によって賄われていました。

 

江戸の町の治安が維持され、衛生な環境が整備されていた裏には、こうした人の嫌がる雑務を処理していた人たちの存在があったことを忘れてはなりません。現在では、こうした役割は地方自治体の公務員に引き継がれています。

 

高見澤
 

おはようございます。米国では、いよいよ中間選挙が始まりました。米国大統領の任期は4年、2期8年までしか大統領を務めることができますが、中間選挙は大統領の任期の2年目に行われる連邦議会の議員を選ぶ選挙のことを指します。今回の中間選挙では上院の三分の一、下院のすべての議席の改選が行われ、トランプ大統領が所属する共和党が過半数を維持できるか否かが焦点です。早ければ、本日の午後にでも大勢が判明するとのことですが、結果はどうでしょうか?

 

さて、本日は「江戸町地割役(じわりやく)」について紹介したいと思います。江戸町地割役とは、江戸の町の「地割」や「地渡し」の際の測量を担当する町役人のことを指します。

 

江戸の町方の測量については、当初は江戸町奉行所の依頼によって、大工頭の「木原内匠(たくみ)」が担当していましたが、依頼件数が急増したことから、木原内匠の下で働いていた町役人たちを町方で引き取ることになりました。木原内匠からその役割を引き継いだのが、内匠の親戚筋にあたる木原勘右衛門でしたが、宝永7年(1710年)に三代目の与右衛門が不行跡により解任されてしまいます。

 

木原与右衛門に代わって地割役を務めることになったのが、日本橋の名主であった樽屋三右衛門(たるやさえもん)です。樽屋といえば、以前紹介した町年寄の一家ですが、三右衛門の先祖は町年寄樽屋の先祖である樽三四郎の次男・惣兵衛だとのことです。三右衛門は日本橋南通一丁目新道にあった木原の居宅を拝領して業務にあたりました。木原の居宅も実は幕府から与えられたものでした。江戸町地割役は、これ以降、樽屋の分家として当主は代々三右衛門を名乗って、名主役の樽屋とは分離していき、明治2年(1869年)に廃止されることになります。

 

江戸町地割役は、拝領された屋敷地を経営して、その地代収入によって職務遂行の経費を賄っていました。樽屋の屋敷は、日本橋の拝領屋敷のほかに、須田町二丁目代地にもあって、地代収入は年200両(明治2年)にものぼっていたそうです。ただ、検分のための出張者の派遣、役人の給金、筆墨紙などの諸経費はかなりの額になっていたとの報告がみられます。

 

江戸町地割役の主な職務は、地面の区画調査・測量、屋敷の受け取り・受け渡し業務(町奉行所の役人や町年寄とともに立ち会い)のほか、出火場の検分なども担当していました。

 

高見澤

 

おはようございます。先日、中国のメディア"China Net"の記者から、昨日上海で始まった「第1回中国国際貿易博覧会」をテーマに、開幕式での習近平国家主席の演説を踏まえた上で、中国の貿易自由化政策についてレポートを書いて欲しいとの依頼がありました。その後、一昨日になって、更に習主席の演説を聞いて、その感想を"We Chat"で音声で送って欲しいとの追加要望があり、むちゃくちゃな要求だと思いつつも、日本語でよいというので、二つ返事で承諾してしまいました。昨日は、午前中は朝から会議の連続で、習主席の演説をライブで聞くことはできず、昼過ぎに中国メディアが発表した中国語の演説稿にざっと目を通し、コメントの内容をまとめて音声にして送付。この後このコメントをベースに原稿をおこすことになりますが、メディアの記者も上司からの突然の要求に困っていたのだろうと思い、つい情け心から対応してしまった次第です。

 

さて、前回、前々回と自身番、木戸番ときましたので、本日は「辻番(つじばん)」について紹介していきましょう。「辻」とは、十字路のことを指します。私の自宅の近所に「札の辻」という場所がありますが、江戸時代初期にそこに高札場が設けられ、法令布告などが掲げられたことから、その地名が付けられたそうです。確かに大きな十字路になっています。

 

この「辻」という字ですが、日本で独自に造られた漢字で、中国語にはありません。「辻さん」という姓の方がいますが、その漢字に使われている「十」の字と意味から、「十」と同じ"shi"という発音で読まれることが一般的です。

 

話を辻番に戻しますと、辻番は江戸時代に、主に城下町に設けられた治安維持のための警備隊、またはその詰所のことを指します。その詰所が武家屋敷周辺の辻々に置かれたことから辻番と呼ばれるようになりました。

 

江戸城下において、最初に辻番が置かれたのは寛永6年(1629年)のことです。当時、江戸市中では「辻斬り」と呼ばれる刀の試し切り事件が横行しており、江戸幕府はそれを防止するために、武家屋敷周辺に辻番所の設置を義務付けたことが、その始まりとされています。

 

この辻番は、自身番と異なり江戸町奉行所の支配下にはなく、江戸幕府が直接支配した「公儀辻番(公儀御給金辻番)」、それぞれの大名が支配した「一手持辻番(大名辻番)」、そして何人かの大名や旗本が共同で設置した「組合辻番(寄合辻番)」の3種類がありました。江戸城下にあった辻番所の数は、元文年間(1736年~1741年)に約930カ所、そのうち650カ所余りが組合辻番であったと言われています。この組合辻番の運営は、後に町人が請け負うようになり、寛政5年(1793年)に「辻番請負人組合」が成立しています。

 

辻番所は、間口二間(約3.6メートル)、奥行き九尺(約2.7メートル)の大きさで、一般的には武家屋敷の塀を切り開いて建てていました。中には捕物三つ道具を備え、昼夜4、5名が詰めていましたが、辻番の数は、それを設置した武家の石高に応じて定められていたようです。

 

辻番の主な役目は、それぞれの担当地域の巡回、狼藉者(辻斬り)の捕縛のほか、捨て子、変死、喧嘩などの処理にもあたり、幕府御目付に上申してその指示を受けていました。対象が町人である場合には、江戸町奉行に引き渡していました。

 

こうして設置された辻番でしたが、泰平の世が続くと事件も減少し、定められた通りの職務を遂行しない辻番が増えていったといわれています。

 

高見澤

 

おはようございます。いよいよ明日(米国時間)に迫った米大統領の中間選挙、共和党、民主党共に最後の熱戦を繰り返しているところですが、米国民によるトランプ大統領への支持は根強いものがあるように思えます。最近、「Q Anon」を名乗る陰謀論者の主張が全米で話題となり、トランプ支持層の間で広がりをみせているようです。こうした現象が一体何を意味しているのか、世界を大きく変える流れになるのかもしれません。

 

さて、前回、自身番について紹介したので、本日は、そのついでに「木戸番」について説明しておきたいと思います。江戸市中の自治機能として、町年寄、町名主、自身番が組織的に町奉行所の所属下に置かれていたのに対し、木戸番はそのような位置づけではありませんでした。とはいえ、町人地の自治機能の一つですから、当然江戸町奉行の管轄下にあったのは間違いありません。

 

木戸番は、自身番と同じように町ごとに設置された「木戸」の番人のことを指します。江戸のみならず、江戸や大坂など大都市の町々には木戸が設けられていました。江戸においては、木戸の脇には番小屋があり、「番太郎」、「番太」と呼ばれる木戸番が2人、その番小屋に居住していました。木戸番は、老人が多かったようです。

 

番小屋の大きさは梁間6尺(約182センチメートル)、桁行(けたゆき)9尺(約273センチメートル)、軒高1丈(約3メートル)で、棟高はこれに相応する高さと定められていました。

 

木戸番の役割は、その木戸の管理と町内の治安維持、防災などでした。木戸は、町と町の境目の道路に設置された中央2間半(3メートル弱)の木の扉で、昼間は開けてあって、人々は町から町への出入りが自由にできましたが、毎日夜の四ツ時(午後10時ごろ)から朝六ツ時(午前6時頃)までの夜間は閉じられていました。これは、犯罪者の逃亡防止や打ちこわしなどの他地域への波及の食い止めなど、江戸市中の治安維持に大きな役割を果たしました。この木戸が江戸の町に設置されたのは、明暦4年(1658年)のことで、当初は夜九ツ時(午前零時)以後の往来を監視していたようです。

 

四ツ時以降、通行人が木戸を通る用事がある場合、木戸番に改められた上で、木戸の左右にある潜り戸から通る決まりになっていて、その際、木戸番は必ず拍子木を打って、その次の木戸番に通行人がいることを知らせました。これを「送り拍子木」といいます。拍子木は通行する人の人数分を打ち鳴らすことが慣わしでした。

 

木戸番の報酬は、それぞれの町内から支払われていました。晦日ごとに、1軒につき20文から100文の銭を家主が集め、その月の月行事(がちぎょうじ、月ごとの幹事役)が集計してその中から支給されていました。とはいえ、その報酬は微々たるものであったことから、番屋で駄菓子、蝋燭、荒物(日用雑貨)、金魚(夏)、焼き芋(冬)などを売って副収入を得ていました。このため、木戸番屋は「商い番屋」とも呼ばれていたそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。朝晩、大分冷え込むようになりました。背広もそろそろ冬服を出そうかと思っているところですが、周りをみると既にジャンバーを羽織って通勤する人もいます。上の娘はかなりの寒がりで、私とは気温に対する感覚がまるで違うので、リビングにいてもすぐに「寒い」といって自分の部屋にこもってしまいます。気温に対する感じ方も人それぞれです。

 

さて、本日は「自身番」について紹介したいと思います。自身番は、江戸時代、江戸や大坂などの町人地に設けられた「番所」、またはそこに詰めていた「番人」のことを指し、いわば一種の自警団組織です。現代の派出所や交番、或いは区役所支部・出張所、町内会、消防団等の役割も兼ねていました。番所は「番屋(自身番屋)」、番人は「番太」とも呼ばれていました。

 

番屋は、一般的には町の東西を突き抜ける大通りに面した四ツ辻の南側角に設置されていました。戸口の腰障子には、右側に「自身番」、左側に町名が記されています。町内の雑多事務の執務場所、町方役人の取り調べ所として使われていました。

 

享保年間(1716年~1736年)に、町人地の各町ごとに設けられましたが、町の規模によっては2、3カ町共同で設置されており、これを「最合(もあい)」と呼んでいました。嘉永3年(1850年)には994カ所の番屋があったと伝えられています。各町は、日本橋を起点として江戸城を取り囲む形で、時計回りに21組に区分けされていました。

 

番屋の運営費用は、自身番の給金も含めて各町が負担しており、江戸時代初期には町の地主自身が番屋で警備にあたっていたため、自身番と呼ばれるようになりました。後に、「町代」や「書役」と呼ばれる下男を雇って番太としていました。

 

自身番の主な職務は、町内の見廻り、不審者の捕縛及び町奉行所への通告、火の番、町奉行所からの町触・差紙(呼出状)の通知・送達、出生・死亡届等の人別帳管理、迷子や行き倒れの世話などです。天保年間(1831年~1845年)の制度では、夜になると「五人番」または「三人番」というメンバーで番屋に詰め、毎夜警備にあたることになっていました。

 

自身番屋には、火事に備えて火の見櫓や半鐘、火消道具が備えられ、不審者や事件に備えて捕物道具等も準備されていました。町中で不審者を捕えた場合には、最寄りの自身番屋に連行し、取り調べが行われ、怪しいと判断された場合には、留置施設のある「大番屋」に連れていかれ収監されました。

 

尚、自身番とは別に「木戸番」がいますが、これについては改めて説明の機会を設けたいと思います。

 

江戸町奉行所の三廻り同心が少なかったにもかかわらず、江戸市中の治安が保たれていたのは、こうした町内組織による自治制度がしっかりと機能していから実現できたものと思われます。

 

高見澤

 

おはようございます。「光陰矢のごとし」。時の経つのは速いもので、今日から11月、今年も残すところあと2カ月となりました。昨日は、母校の筑波大学で3時限の講義を行い、そのうち2時限は中国人留学生の大学院生相手に中国語で話をするという、過酷な授業でした。省エネ・環境の話でしたから、浮世絵の話も交えて、江戸の町の循環型社会についても紹介したところ、学生たちは日本の江戸時代についてかなり興味をもったようです。

 

さて、本日は町役人の一つ、「町名主」について紹介してみたいと思います。町名主は、町年寄の下で町年寄を補佐し、各町の自治にあたっていました。身分は、あくまでも町人であり、町の代表者という位置付けでした。

 

江戸の町では、数町かた十数町に一人の町名主が置かれていて、二町~四町を支配する名主を「小名主」、十数町を支配する名主を「大名主」と呼んでいました。名主といっても一様ではなく、それぞれに格があったようです。

 

最も古く、格上であったのが「草創(くさわけ)名主」です。草創名主は、慶長年間(1596年~1615年)に江戸の町が町割りによって町になった際に、徳川家康に従って三河国から江戸入りした名主、或いは天正年間(1573年~1593年)以前から江戸にあった村が御町に編入された際に、家康入府以前からそこに住んでいた名主のことを指します。

 

次に格が上だったのが「古町名主」です。古町名主は、3代将軍・家光の寛永年間(1624年~1645年)までにできた300余りの町を支配していた名主で、一人あたり平均で6、7町を支配していました。正徳3年(1713年)までに移管によって代官支配から町奉行支配に変わった町の名主でもあります。

 

正徳3年以降、移管によって代官支配から町奉行所支配になった新市街の名主を「平名主」と呼んでいます。これら新市街をそれ以前の町に対して「新町」と呼んでいました。また、寺社奉行から町奉行へ移管した町の名主を「門前名主」といいました。

 

町名主の主な職務は、町年寄から伝えられた触書の町民への完全伝達、人別改め、町の防火管理(火の元取締り、火消人足の手配など)、訴状の奥書(おくがき)、家屋敷の買受・譲渡・証文の閲覧など、住民統治のすべての事務作業でした。

 

大岡越前守忠相がこれら名主を17組に分けた時には、名主の総数は264人だったようで、江戸時代には時期によって違いはありますが、一般的には二百数十人の名主がおり、世襲制をとっていました。名主の役料(給与)は、支配町の町内会費から賄われており、支配する町の大きさなどから違いがあったようです。記録によると、弘化2年(1845年)の町名主232人の年間平均役料は53.8両だったとのことです。

 

(左:濱、馬込)(右:米良、村田)

ちなみに、浮世絵等を出版する際に、「改掛名主(あらためかかりなぬし)」による検閲が行われるようになりましたが、この改掛名主は当番制で、町名主の中から選出されていました。出版物の検閲は、町奉行の下部組織としての重要な職務の一つであったわけです。名主印に記されている名主として、米良、吉村、衣笠、濱、村田、村松、渡邊、馬込、村田などの名前の略称が刻印されています。

 

高見澤

 

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