2018年11月アーカイブ

 

おはようございます。昨日は急遽お休みをもらうことになり、瓦版も休刊とさせていただきました。前回、香港空港でのロストバゲージについてお話ししましたが、その後、香港空港よりスーツケースが見付かったとの連絡があり、昨日午前9時過ぎに自宅に届きました。スーツケース自体に破損なく、中のモノも揃っていました。それにしても、原因や経緯など詳細が知りたいところです。

 

さて、本日は前回の町火消に関連して、「いろは四十八組」について紹介したいと思います。享保3年(1718年)に、南町奉行であった大岡忠相が町火消設置令を出し、享保5年(1720年)に「いろは四十七組」と、深川・本所に16組の町火消が設けられ、その後、いろは四十七組に「本組」が加わっていろは四十八組になったことは、前回説明した通りです。

 

このいろは四十八組は、「い組」、「ろ組」などと、いろは文字をそれぞれの町の町火消の組名としたものです。いろは文字のうち、「へ」は「屁」に通じることから「百」に、「ら」は「摩羅」に通じることから「千」に、「ひ」は「火」に通じることから「万」に、「ん」は「終わり」に通じることから「本」の文字にそれぞれ置き換えられました。

 

 

この町火消の主役は、前回紹介した通り「鳶人足」です。鳶人足は、平時は遊惰に時を過ごし、時には粗暴なふるまいをしたり、任侠風を吹かしたりなど、一種独特な気風を醸し出していました。そのため、火事場のみならず、火事場以外でも喧嘩が絶えなかったようです。

 

当時、火事が発生すると、各組の火消が火事場に向かいます。最初に到着した組の火消が、自分の組の名前を書いた「消札(けしふだ)」と呼ばれる木札を火事場の近所の軒先に掲げ、纏持を屋根に登らせて集合の合図の目印とし、どの組が活動しているかを世間に知らしめていました。なぜならば、この消札が消火に対する褒美を受ける時の証拠になっていたからです。

 

ところが、後から駆け付けた者が自分の組の札と勝手に差し替えたり、纏持を無理やり屋根から引きずり降ろして火事場での活動を乗っ取ろうとしたりしたため、肝心の消火活動そっちのけで、喧嘩が発生することも少なくなかったようです。こうした火消人足同士による消火活動時の巧妙争いを「消口争い(けしくちあらそい)」と呼んでいました。

 

火事とは無関係な争いとして、文久2年(1805年)に芝神宮境内で行われていた勧進相撲の見物で鳶人足の入場を巡って始まった「め組の喧嘩」が有名です。力士十数人とめ組の火消人足100人以上が喧嘩となり、最終的には寺社奉行、町奉行、勘定奉行をも巻き込む大騒ぎとなりました。この話は後に芝居にもなりました。鳶人足の気性の激しさを表す事件でした。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、北京から戻ってきました。今回の出張は災難続きで、22日に香港経由で深圳に入る際に、何と全日空便に預けた荷物がロストバゲージ!着替え5日分、スーツ1式、替えズボン1本、ネクタイ2本、ジャンバー、マフラー、手袋、傘、関連資料がなくなってしまいました。深圳では着替えを買う時間もなく、2日間同じものを着たきり雀で、さすがに2日目の夜に1着しかない下着と靴下、シャツを洗濯して、一糸まとわずの状態で、一晩中アイロンで乾かす始末。翌朝、やっと手に入れた着替えは間に合わせであったものの、それなりの値段。更に北京に着いてからは時間もない中で、急ごしらえでズボン1着、ネクタイ1本、ハーフコート、スーツケースを購入しました。時間が限られた中で、かき集めたこともあり、大したモノも買っていないのに10万円ほどかかってしまいました。昨日、羽田空港に到着した時点でスーツケースはまだ見つかっていません。誰がこれを保障してくれるのか、これから航空会社と交渉です。

 

さて、本日は制度化された「町火消(まちびけし)」について紹介していきたいと思います。町火消が本格的に制度化されたのは、8代将軍・吉宗のときです。火事によって焼失した町の復興のための幕府の財政負担は大きく、幕府財政安定化のためにも、出火への即時対応が喫緊の課題となっていました。

 

享保2年(1717年)に南町奉行に就任した大岡忠相は、翌年の享保3年(1718年)に名主たちの意見を取り入れ、火消組合(店火消のところで説明済み)の組織化を目的とした「町火消設置令」を出します。これにより、町火消が組織されるのと同時に、町火消は町奉行所の指揮下(火消人足改掛方)に置かれることになりました。とはいえ、その維持費用はそれぞれの町が負担することになってました。

 

1町につき30人ずつ動員することになり、火事が発生すると火元からみて風上の2町と風脇の左右2町、合計6町180人体制で消火活動にあたることとされました。しかし、町火消設置当初は、町の広さや人口が一様でなく、地図上で地域割りを行ったもののうまく機能しませんでした。

 

そこで、享保5年(1720年)に地域割りを修正し、20町ほどを1組として、隅田川から西を「いろは組」47組が担当し、東の本所、深川を16組の町火消が担当する組織作りが行われました。時代劇でお馴染みの町火消の誕生です。混乱する火事場でそれぞれ何組かが分かるように、各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)を作らせましたが、これが次第に各組を象徴するものとなっていきました。

 

享保15年(1730年)、いろは47組を一番組から十番組までの10大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるようにしました。その一方で、各町ごとの火消人足の数は30人から15人へと負担を軽くし、町火消全体の数は1万7,596人から9,378人になりました。

 

その後、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わって、いろは48組となり、本所、深川の16組は北組、中組、南組の3組に分けて統括されました。

 

元文3年(1738年)、10大組のうち組の名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に併合されて大組は8組となり、この時の定員は1万642人とされています。

 

町火消の構成は、町火消を統率する「頭取(とうどり)〔人足頭取〕」、各組を統率する「頭(かしら)〔組頭〕」、「纏持・梯子持(道具持)」、「平人(ひらびと)〔鳶人足〕」、「土手組(どてぐみ)〔下人足〕」から成っていました。このうち、土手組は消火の数には含まれていませんでした。頭取は江戸全体で270人ほどいたようで、一老、二老、御職の階級があり、御職は「顔役」とも呼ばれて、江戸市中でもよく知られる存在でした。

 

人足には「店人足」と呼ばれる一般の町人と、「鳶人足」と呼ばれる鳶職人による人足がいました。江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐための「破壊消防」が主であったことから、身体能力の高い鳶人足が消火活動の主役だったことが分かります。元文3年の大組改正の際の店人足と鳶人足の数は、それぞれ6,565人と4,077人とのことです。

 

町火消は毎年正月4日に、各組の町内で梯子乗り木遣り歌(きやりうた)を披露する初出(はつで)を行いました。これは定火消が行っていた出初に倣って始められたものです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。明日からいよいよ中国広東省深圳、及び北京への出張です。深圳では、中国のベンチャー企業と自動車企業を視察し、自動運転に向けた取り組みを調査してきます。24日に北京に入り、25日の第12回日中省エネ・環境総合フォーラムに出席します。昨日、フォーラムでの主催者側代表としての発言内容について、当協会会長と最終確認しました。まだ未定のことや不確定要素はあるものの、一応できるだけの準備は整えたといったところでしょうか。ということで、帰国が来週火曜日27日ですので、次回瓦版は28日とさせていただきます。

 

さて、これまでは大名や旗本によって組織された武家火消について説明してきましたが、今回からは町人によって組織された「町火消」について紹介したいと思います。町火消といっても、時代によっていくつかの変遷がありますので、それを時代ごとにおっていきましょう。

 

江戸時代初期、度重なる江戸の町人地の火災に対応するために、慶安元年(1648年)、江戸幕府は各町に10人ずつの人足を備え、消火に参加した者には褒美を出し、参加しなかった者には罰を与えるとの御触れをだしました。これによって、江戸の町人地で火事が発生した場合、消火に動員された町火消を「店火消(たなびけし)」、又は「駆付火消(かけつけびけし)」と呼んでいました。

 

とはいえ、この時代の店火消は武家火消のように制度化されたものではなく、あくまでも自衛的な消防組織であり、主に若者によって構成されていたようです。

 

こうした自衛的組織でしたが、明暦の大火後の万治元年(1658年)に次第に制度化が進み始めます。南伝馬町など23町が火消人足として167人を集め、共同で消火にあたる「火消組合」の設置を取り決めます。この火消人足は町名と印のついた羽織を着用していたそうで、これが後の制度化された「町火消」の原型となったようです。

 

江戸幕府もこの火消組合を認め、他の地域にも同様に火消組合を設けるよう促しましたが、火消人足を常時雇うには負担が大きいことから、23町以外には広がりをみせなかったようです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨晩から降っていた雨も、明け方には止んで、少し湿り気のある朝の澄んだ空気の中を歩いてきました。寒さを感じることもありますが、私にとっては比較的過ごしやすい季節です。

 

さて、本日は「火事場見廻役(かじばみまわりやく)」について紹介したいと思います。火事場見廻役は、本来は幕府の役職で紹介すべきところでしたが、実際の消火活動の指揮や監察をしていたこともあり、ここで取り上げたいと思います。

 

火事場見廻役が設置されたのは享保7年(1722年)で、寄合席の旗本から任命されていました。当初10名であったのが、その後、本所深川の2名が追加され、12名でその任にあたっていました。その任務は、江戸に火災が発生した時に、風下の万石以上の邸宅の巡視と警戒、消防の指揮と監察、鎮火後の視察や報告などでした。今でいう、火事場の現場検証なども火事場見廻役の重要な任務でした。

 

火災が発生すると、火事場見廻役は、繰り出す人員や火消の増強を決め、直接、消口の指揮にあたり、火消たちの進退を左右するほどの権限を与えられていたといわれています。しかし、その役高は持高であったことから、御役ではなく御奉公であった感が強かったと思われます。

 

高見澤

 

おはようございます。週末もあっという間に過ぎ、また新たな一週間が始まりました。これまでの無理が祟ったのか、あまり体調がすぐれず、ついウトウトっとしてしまうことが多いこの頃です。最近、車の運転はほとんど息子に任せているので、運転の機会はなくなりましたが、一昨日の土曜日に、娘の歯医者の見送りをするために、久しぶりにハンドルを握りました。何十年と運転してきましたが、それなりに緊張感をもついい機会になったかと思います。

 

さて、本日は「各自火消(かくじびけし)」について紹介したいと思います。明暦の大火がきっかけとなって、江戸市中の消防体制が整備されるようになったことは、前回の方角火消のところで紹介した通りですが、武家火消として幕府直轄の旗本を中心に編成された消防隊「定火消(じょうびけし)」が設置されたのは、明暦の大火の翌年、万治元年(1658年)のことです。この定火消については、すでに幕府の役職で詳しく説明(瓦版20180801)しているので、本シリーズでは省略します。

 

http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-search.cgi?search=%E5%AE%9A%E7%81%AB%E6%B6%88&IncludeBlogs=4&limit=20

 

各自火消とは、諸大名がそれぞれ自身で組織した消防隊のことを指します。各自火消もまた大名火消の一つで、諸大名は、それぞれの大名屋敷や近辺で火災が発生した際に、あくまでも自らの大名屋敷を火災から守るために組織したもので、比較的早い時期から存在していたと思われます。

 

天和元年(1681年)、幕府から各大名に対して、近所で火災が発生した場合に、家来に消火にあたるよう指示が出されます。これが享保2年(1717年)に、各大名の近隣火災に対する消火活動への参加が義務付けられることになりました。このため、こうした火消のことを「近所火消(きんじょびけし)」とも呼ばれていました。近所火消は、各大名の上屋敷のほか、中屋敷や下屋敷からも消火活動への出動が命じられています。この定められた出動範囲により、「三町火消」、「五町火消」、「八町火消」などの別称もあったようです。また、縁戚の屋敷や菩提寺など、近隣の範囲を越えて消火に駆けつける場合には、「見舞火消(みまいびけし)」とも呼ばれていました。

 

各自火消の中で特に有名なのが、加賀前田藩が組織した「加賀鳶(かがとび)」です。加賀鳶は3組から成り、その派手な装束と比類なき働きぶりで評価されていたものの、あまりの威勢の激しさに喧嘩になることも少なくなく、別称「喧嘩鳶」とも呼ばれていました。

 

旗本に対しては、享保7年(1722年)に、「飛火防組合(とびひふせぎくみあい)」として65組が編制され、組合内での火災の際に出動するよう命じられていました。

 

以上みてきたように、江戸の消防体制については、明暦の大火とともに、実は8代将軍・吉宗によって行われた享保の改革の際にも、所々火消や方角火消の再編が行われるなど整備が進んだことが分かります。また、この頃の大岡忠相が主導して制度化された「町火消」など、町人による消防組織が次第に江戸の消火活動に大きな役割を担っていくことになります。

 

高見澤

 

おはようございます。北方領土返還に向けた日ロ交渉が動き始めました。アセアン首脳会議出席のためシンガポールを訪れている安倍首相がロシアのプーチン大統領と会談しました。1956年の日ソ共同宣言に基づいて、歯舞群島と色丹島の2島返還を軸にした交渉になるのか、或いは国後島、択捉島も含めた4島返還を前提にするのか、年明けとされる安倍首相のロシア訪問が気になるところです。

 

さて、本日は、「方角火消(ほうがくびけし)」について紹介したいと思います。この方角火消も大名火消の一つで、担当区域を分けて消火に当たることになっていたものです。

 

江戸幕府によって、重要地に配された所々火消や火元に近い大名が担当した大名火消が制度的に設置された江戸の武家火消でしたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で江戸城天守が焼失し、江戸市中で最大107,000人の犠牲者を出したことから、従来の火消制度では、まったく対応できないことが痛感されられました。このため、幕府はこの明暦の大火以降、きちっとした形で消防制度の確立に努めるようになります。

 

先ずは、明暦の大火で焼失した江戸市中を再建する際、大名や旗本の屋敷、更には寺社の一部を江戸の郊外に移転させて、延焼を防ぐための「火除地」を設け、また耐火建築として瓦葺屋根や土蔵造りを奨励するなどして、火災に強い町づくりを目指しました。

 

その一方で、新たな消防体制を構築していきます。明暦の大火以降、幕府によって最初に設置されたのが方角火消です。明暦の大火直後に、先ずは大名12名が選ばれ、桜田筋、山手筋、下谷筋の3組の火消役が編制されます。江戸市中で火事が発生すると、地域担当の大名が現場に駆けつけて消火に当たることになっていました。

 

これが元禄年間(1688年~1704年)になると、東西南北の4組に改編され、この頃から方角火消と呼ばれるようになりました。その後、正徳2年(1712年)に5方角5組となり、享保元年(1716年)には大手組、桜田組の2組になりました。