2018年5月アーカイブ

 

おはようございます。昨日から降っていた雨も上がり、今朝の東京都心は比較的空気が澄んでいます。とはいえ、やはり東京ですから、何かと問題のある大気環境であることは間違いありません。今日で5月も終わり、明日からは6月。いよいよ梅雨も近づいている気配を感じるこの頃です。

 

さて、本日は「下三奉行(したさんぶぎょう)」についてお話ししてきたいと思います。下三奉行とは、「作事奉行(さくじぶぎょう)」、「普請奉行(ふしんぶぎょう」、「小普請奉行(こぶしんぶぎょう)」の三つの奉行を指します。江戸時代においては、いずれも江戸城をはじめとする幕府の施設の建築・修繕を担当する役職でした。今でいえば、国土交通省の旧建設省にあたる部門でしょうか。以下、それぞれについて紹介していきましょう。

 

先ずは作事奉行です。作事奉行は鎌倉時代や室町時代にもその職名がみられ、殿舎の造営や修理、土木事業などを司っていました。元々は常設の職制ではなく、工事の都度任命されていたようです。江戸幕府においては、寛永9年(1632年)に佐久間実勝(さくまさねかつ)、神尾元勝(かみおもとかつ)、酒井忠知(さかいただとも)の3名を任じて諸職人をその管下に置いて以降、常置の職位となりました。作事奉行は老中支配の旗本役、役高は2,000石で、定員は2~3名です。うち1名は宗門改、もう1人は一時期鉄砲改を兼帯していました。作事奉行を無事に務めあげると、大目付・町奉行・勘定奉行への昇進の道もあったようです。

 

作事奉行の主な担当は殿舎や社寺等の築造・修繕の中でも特に木工工事が専門で、大工・細工・畳・植木などを統括、下役として大工頭、京都大工頭、作事下奉行、畳奉行、細工所頭、勘定役頭取、作事方被官、瓦奉行、植木奉行、作事方庭作などの役がありました。作事奉行設置の当初は、幕府に係る土木・建築のすべてがその管掌下でしたが、普請奉行・小普請奉行の設置後は三者で分掌するようになり、作事奉行は専ら殿屋の建築のみを担当するようになります。

 

正徳2年(1712年)に小普請奉行が解任されると、しばらくはその職務を兼帯していましたが、享保2年(1717年)に小普請奉行が再び配置されると職務を小普請奉行と再度分割します。作事奉行は江戸城本丸・西の丸、櫓、内郭・外郭の門塀、寛永寺諸堂・社を管掌するようになりました。文久2年(1862年)、普請・小普請の両奉行廃止後は両方とも作事奉行の配下に属しました。

 

次に普請奉行です。普請奉行の職名は室町時代にもみられ、当時は御所、城壁、堤防などの修築と庭中掃除の役を兼ねており、「庭奉行」とも呼ばれていました。「普請」とは、元々仏教用語で、広く大衆に労役に従事してもらうとの意味があったようです。江戸時代においては「御普請奉行」とも呼ばれ、定員は概ね2名、老中支配の旗本役で役高は2,000石でした。

 

普請奉行が創設されるのは寛永9年(1632年)ですが、定役となるのは承応元年(1652年)のことです。主な職務は城の石垣、堀普請、地形(じぎょう)、縄張(なわばり)、屋敷割などの土木関連事業ほか、明和5年(1768年)以降は上水方・道方御用も管掌するようになりました。属僚として普請方下奉行、普請方改役、普請方、普請方同心、普請方定小屋門番人などがありました。文久2年(1862年)に普請奉行は廃止され、その職責は作事奉行に引き継がれました。

 

最後に小普請奉行です。小普請奉行は若年寄支配の旗本役で、定員は2名、役高は2,000石でした。小普請奉行は、貞享2年(1685年)に「御破損奉行(小普請奉行)」の組頭として小菅伊右衛門(こすげいえもん)を「小普請方頭」に任じたのが始まりで、元禄14年(1701年)に小普請方頭を小普請奉行とし、御破損奉行を小普請方と改称して、名実ともに小普請奉行が誕生しました。

 

小普請奉行の職務は江戸城内外、御内府の幕府管下の建造物や寺社等の営繕の管掌です。配下には小普請方、小普請改役、小普請吟味役などが設けられていました。正徳2年(1712年)に小普請奉行2名が解任され、享保2年(1717年)に再置されると、作事方と小普請方とのでそれぞれの担当箇所が決められます。本丸・西の丸の大奥、二の丸、三の丸、浜御殿、紅葉山東照宮、紅葉山御霊屋、寛永寺、増上寺、品川東海寺、池上本門寺、伝奏屋敷などの普請・修復でした。また、所要物品の調達にあたる「元方(もとかた)」と、調達品の受け取り・配分にあたる「払方(はらいかた)」とに分かれていました。小普請奉行も普請奉行同様に文久2年(1862年)に廃止、その職責は作事奉行に引き継がれました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、湿度は高くジメジメした感じを受けます。6月も近づき、梅雨の気配が感じられるところです。今日は我が職場の決算理事会と臨時評議会がホテルニューオータニで開催されます。昨年度1年間の実績・会計報告を審議、承認されることになっており、経済界のお歴々が集まる重要な会議です。日本を代表する大手企業のトップが集まるだけに、事前の理事会資料の作成には相当に気を配ってきました。本日は本番、私自身説明する訳ではありませんが、何かご下問があった際には、すぐに対応できるようスタンバイ席(俗称「離れ小島」)に座らせられます。

 

さて、本日は「大目付」と「目付」について紹介していきたいと思います。この二つの役職は、いわゆる幕府の監査役といえるものかもしれません。

 

先ず大目付ですが、江戸幕府での職制上は老中支配の旗本役、役高は3,000石〔享保8年(1723年)に確定〕です。石高3,000石から5,000石級の旗本から選ばれ、定員は4名~5名、主に朝廷、大名、寄合、高家の監視と一切の幕政の監察、江戸中期以降は幕府の命令を諸大名に伝える伝令や殿中での儀礼官の役割が重要任務となっていました。また、評定所への陪席、全国法令の布告、軍役も担当していました。

 

寛永9年(1632年)、秋山正重、水野守信、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)、井上政重の4名が「惣目付」に任じられたのが大目付の始まりとされています。大目付は、旗本の役職としては江戸城留守居や御三卿家老、大番頭に準ずる最高位と位置付けられ、大名を監視することから、在任中は大名と同等の万石級の禄高が与えられ、相応の官位が叙任されていました。

 

また、道中奉行、(切支丹)宗門改役、(江戸十里四方)鉄砲改役、分限帳改などの役職を兼帯し、特に大目付の筆頭格が道中奉行を兼帯していました。江戸時代中期になり、監察官としての色彩が弱まってくると名誉職・閑職とのイメージが強まります。

 

次に目付ですが、こちらは元々室町時代初期に、幕府侍所(さむらいどころ)の所司代の被官として置かれたのが始まりで、「横目」とも呼ばれ盗賊追捕になどに従っていましたが、戦国時代には戦時における観察や敵の内情を探るなどの任務にあたっていました。

 

江戸時代の目付は、元和3年(1617年)に設けられた若年寄支配の旗本役で、定員については、当初は十数名から二十数名に及びましたが、享保17年(1732年)以降10名に固定されました。役高は、寛文5年(1665年)に500俵が支給され、天和2年(1682年)に家禄に加えられ、享保8年(1723年)に1,000石となりました。江戸城の本丸のほか、西の丸にも置かれていましたが、西の丸の目付は、当初は臨時の職、享保9年(1724年)以降常置となりました。

 

目付の下に徒目付や小人目付などが置かれ、主な任務は旗本や御家人の監視、諸役人の勤怠等政務全般の観察、江戸城内外の査察、殿中礼法の指揮、評定所立ち会い、万石以下急養子の判元見届け、御成(おなり)行列の監督などでした。常時、本番・加番の2人の目付が城内に宿直し、非常時に備えていました。幕末には増員され、外国掛や海防掛などの職務も分掌することになります。

 

目付には有能な人物が任命されることが多く、後に遠国奉行や町奉行を経て勘定奉行に昇進する者もありました。また、町奉行に就任するには目付の経験が必須であったと言われています。老中が政策を実行する際には目付の同意が必要で、不同意の場合はその理由を将軍や老中に述べることができました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心の天気は雲が広がり、あまりすっきりした感じではありません。梅雨の時期も近づいているような趣きで、しばらくはこういった日が続くのでしょうか。昨日の講演も無事終了しましたが、準備にそれなりに時間と労力がとられますので、その分、普段の仕事の処理が滞ってしまい、落ち着く暇もありません。

 

さて、本日は以前、旗本のところでも若干紹介した「高家」について、少し詳しく紹介していきたいと思います。

 

高家は、高家という役職に就くことのできる家格の旗本を指すと同時に、江戸幕府での儀式や典礼を司る老中支配の旗本役の役職でもありました。その主な職務は伊勢神宮・日光東照宮・久能山東照宮・寛永寺・鳳来山東照宮への将軍の代参、幕府から朝廷への使者、京からの勅使・院使の接待、更には接待に当たる勅院使(饗応役の大名)への儀典指導など、朝廷と幕府との間の諸礼でした。

 

元々高家というのは、格式が高く、由緒正しい家柄、いわゆる名門・名家を指す言葉でした。ですから、家康が室町時代以前から続く名門の子孫を臣下に従え、対朝廷政策として活用することは、朝廷や公家に対して幕府の権威を示す意味でも大きなインパクトがあったものと考えられます。

 

この役職に就くことができるのは高家の家格を持つ「高家旗本」で安永9年(1780年)に26家がその家格となり幕末までその数は変わっていませんが、実際に高家職に就いている人員数は年代によって異なります。延宝年間(1673年~1681年)には9人、安政5年(1858年)には17人が就いていました。高家旗本のうち、高家職に就いている家を「奥高家」、非役の家を「表高家」と呼んでいました。また、高家の当主は原則として高家職以外の幕府の役職に就くことはできませんでした。

 

高家職は朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があることから官位は高く、奥高家に就任すると従五位下侍従(じじゅう)の位が与えられます。しかし、表高家は昇殿の必要がないので叙任されることはありません。一般に奥高家を務める者の官位は従五位下から従四位下の侍従で、後で説明する「高家肝煎」になると従四位上左衛権少将にまで昇る者もいました。ちなみに、大名の大半は従五位下です。

 

江戸幕府の典礼に関する職制は段階的に整備されていきました。慶長8年(1603年)に、家康が征夷大将軍宣下の式典作法を大沢基宿(おおさわもといえ)に管掌させたのが高家の始まりといわれていますが、その当時はまだ高家とは称してはいません。その後、慶長13年(1608年)に吉良義弥(きらよしみつ)が基宿とともに典礼・伝奏の御用に加わります。元和2年(1616年)には、一色範勝(いっしきのりかつ)が大御所・家康の下で幕府饗応役に任じられます。範勝は、晩年には従五位下式部少輔に任じられますが、就任当時は官位はありませんでした。この高家という名称や慣行が定着したのは、秀忠の元和(1615年~1624年)・寛永年間(1624年~1645年)だと考えられています。

 

天和3年(1683年)、奥高家の中から特に有職故実や礼儀作法に精通していた大沢基恒、畠山義里、吉良義央の3名が高家肝煎に選出されます。俗に「三高」といわれますが、高家肝煎の家は固定されたわけではありません。高家肝煎は、通常選ばれた3名が月番で職務を主宰していました。

 

高家の家格をもっていた26家は以下の通りです。

〔藤原北家〕

1.大沢家:藤原北家中御門家頼宗流、3,550

2.上杉家:藤原北家勧修寺流、1,490

3.大友家:藤原北家近藤氏流、1,000

4.長澤家:藤原北家日野流、1,400

5.中条家:藤原北家長良流、1,000

6.日野家:藤原北家日野流、1,530

7.(藤原)前田家:藤原北家閑院流、1,400

8.六角家:藤原北家日野流、2,000

〔清和源氏〕

9.(三河)吉良家:清和源氏足利流、4,200

10.(武蔵)吉良家:清和源氏足利流、1,420

11.今川家:清和源氏足利流、1,000

12.品川家:清和源氏今川家傍流、1,500石→300

13.畠山家:清和源氏足利流

  ①河内半国紀伊守護畠山氏 5,000

  ②能登守護畠山氏 3,120

14.武田家:清和源氏義光流、500

15.土岐家:清和源氏頼光流

  ①美濃守護土岐氏 700

  ②土岐頼元子孫 700

16.宮原家:清和源氏足利流、1,040

17.最上家:清和源氏足利流、5,000

18.由良家:清和源氏新田流、1,000

19.横瀬家:清和源氏新田流、1,000

20.(富江)五島家:清和源氏貞純親王を祖、1,420

〔村上源氏〕

21.戸田家:村上源氏久我流、2,000

22.有馬家:村上源氏久我流、500

〔宇多源氏〕

23.京極家:宇多源氏佐々木流、1,500

〔桓武平氏〕

24.織田家:桓武平氏

  ①織田信長七男・信高子孫 2,000

  ②織田信長九男(一説に十男)・信貞子孫 700

  ③織田信長次男・信雄子孫 2,700

〔その他〕

25.一色家:公家唐橋在数の末裔、一色氏養子、1,000

26.(菅原)前田家:公家高辻長量の子孫、1,000

 

高家として有名なところでは、元禄10年(1697年)に遊郭での度重なる失態や乱行が問題視され蟄居を命じられた六角広治(ろっかくひろはる)、元禄15年(1702年)に浅野長矩の遺臣一団によって打ち取られた赤穂事件で有名な吉良義央(きらよしひさ)などがいます。高家肝煎の義央と勅使饗応役を拝命していた浅野長矩との関係。こうした目で改めて忠臣蔵をみると、また新鮮な思いがします。

 

高見澤

 

おはようございます。本日は、午後からセメント用耐火物研究会で、中国の環境政策と日本企業の中国ビジネスへの影響について講演してきます。環境規制を強く求める一方、実情をよく理解していない規制当局の担当者による過度な規制により、生産に影響が出ている企業も少なくありません。中国の環境規制の実情を紹介するとともに、日本企業として如何に対応していくべきか、何らかの示唆を示すことができればと思います。

 

さて、本日からは中奥から離れて表に戻り、旗本役の役職について紹介していきたいと思います。今回は「留守居(るすい)」です。

 

留守居は、江戸幕府以外の諸藩にも置かれていた職制で、諸藩では「江戸留守居役」、「御城使(ごじょうし)」とも呼ばれ、江戸に常駐して幕府と藩の公務連絡や幕府公認の留守居組合を作って他藩との情報交換をすることが主な任務とされていました。今でいうところの外交官といったところでしょう。

 

一方、江戸幕府においては、老中支配の旗本役で、大奥の取り締まり、奥向き女中の諸門の出入り、諸国関所の女通行手形の管理、将軍不在時の江戸城の留守を守ることが主な役割でした。旗本役としては最高の職位の一つであったことから、万石以上の城主格の待遇を受けていました。例えば次男まで御目見えが許されたり、下屋敷を与えられたりしたことです。