2018年5月アーカイブ

 

おはようございます。昨日から降っていた雨も上がり、今朝の東京都心は比較的空気が澄んでいます。とはいえ、やはり東京ですから、何かと問題のある大気環境であることは間違いありません。今日で5月も終わり、明日からは6月。いよいよ梅雨も近づいている気配を感じるこの頃です。

 

さて、本日は「下三奉行(したさんぶぎょう)」についてお話ししてきたいと思います。下三奉行とは、「作事奉行(さくじぶぎょう)」、「普請奉行(ふしんぶぎょう」、「小普請奉行(こぶしんぶぎょう)」の三つの奉行を指します。江戸時代においては、いずれも江戸城をはじめとする幕府の施設の建築・修繕を担当する役職でした。今でいえば、国土交通省の旧建設省にあたる部門でしょうか。以下、それぞれについて紹介していきましょう。

 

先ずは作事奉行です。作事奉行は鎌倉時代や室町時代にもその職名がみられ、殿舎の造営や修理、土木事業などを司っていました。元々は常設の職制ではなく、工事の都度任命されていたようです。江戸幕府においては、寛永9年(1632年)に佐久間実勝(さくまさねかつ)、神尾元勝(かみおもとかつ)、酒井忠知(さかいただとも)の3名を任じて諸職人をその管下に置いて以降、常置の職位となりました。作事奉行は老中支配の旗本役、役高は2,000石で、定員は2~3名です。うち1名は宗門改、もう1人は一時期鉄砲改を兼帯していました。作事奉行を無事に務めあげると、大目付・町奉行・勘定奉行への昇進の道もあったようです。

 

作事奉行の主な担当は殿舎や社寺等の築造・修繕の中でも特に木工工事が専門で、大工・細工・畳・植木などを統括、下役として大工頭、京都大工頭、作事下奉行、畳奉行、細工所頭、勘定役頭取、作事方被官、瓦奉行、植木奉行、作事方庭作などの役がありました。作事奉行設置の当初は、幕府に係る土木・建築のすべてがその管掌下でしたが、普請奉行・小普請奉行の設置後は三者で分掌するようになり、作事奉行は専ら殿屋の建築のみを担当するようになります。

 

正徳2年(1712年)に小普請奉行が解任されると、しばらくはその職務を兼帯していましたが、享保2年(1717年)に小普請奉行が再び配置されると職務を小普請奉行と再度分割します。作事奉行は江戸城本丸・西の丸、櫓、内郭・外郭の門塀、寛永寺諸堂・社を管掌するようになりました。文久2年(1862年)、普請・小普請の両奉行廃止後は両方とも作事奉行の配下に属しました。

 

次に普請奉行です。普請奉行の職名は室町時代にもみられ、当時は御所、城壁、堤防などの修築と庭中掃除の役を兼ねており、「庭奉行」とも呼ばれていました。「普請」とは、元々仏教用語で、広く大衆に労役に従事してもらうとの意味があったようです。江戸時代においては「御普請奉行」とも呼ばれ、定員は概ね2名、老中支配の旗本役で役高は2,000石でした。

 

普請奉行が創設されるのは寛永9年(1632年)ですが、定役となるのは承応元年(1652年)のことです。主な職務は城の石垣、堀普請、地形(じぎょう)、縄張(なわばり)、屋敷割などの土木関連事業ほか、明和5年(1768年)以降は上水方・道方御用も管掌するようになりました。属僚として普請方下奉行、普請方改役、普請方、普請方同心、普請方定小屋門番人などがありました。文久2年(1862年)に普請奉行は廃止され、その職責は作事奉行に引き継がれました。

 

最後に小普請奉行です。小普請奉行は若年寄支配の旗本役で、定員は2名、役高は2,000石でした。小普請奉行は、貞享2年(1685年)に「御破損奉行(小普請奉行)」の組頭として小菅伊右衛門(こすげいえもん)を「小普請方頭」に任じたのが始まりで、元禄14年(1701年)に小普請方頭を小普請奉行とし、御破損奉行を小普請方と改称して、名実ともに小普請奉行が誕生しました。

 

小普請奉行の職務は江戸城内外、御内府の幕府管下の建造物や寺社等の営繕の管掌です。配下には小普請方、小普請改役、小普請吟味役などが設けられていました。正徳2年(1712年)に小普請奉行2名が解任され、享保2年(1717年)に再置されると、作事方と小普請方とのでそれぞれの担当箇所が決められます。本丸・西の丸の大奥、二の丸、三の丸、浜御殿、紅葉山東照宮、紅葉山御霊屋、寛永寺、増上寺、品川東海寺、池上本門寺、伝奏屋敷などの普請・修復でした。また、所要物品の調達にあたる「元方(もとかた)」と、調達品の受け取り・配分にあたる「払方(はらいかた)」とに分かれていました。小普請奉行も普請奉行同様に文久2年(1862年)に廃止、その職責は作事奉行に引き継がれました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、湿度は高くジメジメした感じを受けます。6月も近づき、梅雨の気配が感じられるところです。今日は我が職場の決算理事会と臨時評議会がホテルニューオータニで開催されます。昨年度1年間の実績・会計報告を審議、承認されることになっており、経済界のお歴々が集まる重要な会議です。日本を代表する大手企業のトップが集まるだけに、事前の理事会資料の作成には相当に気を配ってきました。本日は本番、私自身説明する訳ではありませんが、何かご下問があった際には、すぐに対応できるようスタンバイ席(俗称「離れ小島」)に座らせられます。

 

さて、本日は「大目付」と「目付」について紹介していきたいと思います。この二つの役職は、いわゆる幕府の監査役といえるものかもしれません。

 

先ず大目付ですが、江戸幕府での職制上は老中支配の旗本役、役高は3,000石〔享保8年(1723年)に確定〕です。石高3,000石から5,000石級の旗本から選ばれ、定員は4名~5名、主に朝廷、大名、寄合、高家の監視と一切の幕政の監察、江戸中期以降は幕府の命令を諸大名に伝える伝令や殿中での儀礼官の役割が重要任務となっていました。また、評定所への陪席、全国法令の布告、軍役も担当していました。

 

寛永9年(1632年)、秋山正重、水野守信、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)、井上政重の4名が「惣目付」に任じられたのが大目付の始まりとされています。大目付は、旗本の役職としては江戸城留守居や御三卿家老、大番頭に準ずる最高位と位置付けられ、大名を監視することから、在任中は大名と同等の万石級の禄高が与えられ、相応の官位が叙任されていました。

 

また、道中奉行、(切支丹)宗門改役、(江戸十里四方)鉄砲改役、分限帳改などの役職を兼帯し、特に大目付の筆頭格が道中奉行を兼帯していました。江戸時代中期になり、監察官としての色彩が弱まってくると名誉職・閑職とのイメージが強まります。

 

次に目付ですが、こちらは元々室町時代初期に、幕府侍所(さむらいどころ)の所司代の被官として置かれたのが始まりで、「横目」とも呼ばれ盗賊追捕になどに従っていましたが、戦国時代には戦時における観察や敵の内情を探るなどの任務にあたっていました。

 

江戸時代の目付は、元和3年(1617年)に設けられた若年寄支配の旗本役で、定員については、当初は十数名から二十数名に及びましたが、享保17年(1732年)以降10名に固定されました。役高は、寛文5年(1665年)に500俵が支給され、天和2年(1682年)に家禄に加えられ、享保8年(1723年)に1,000石となりました。江戸城の本丸のほか、西の丸にも置かれていましたが、西の丸の目付は、当初は臨時の職、享保9年(1724年)以降常置となりました。

 

目付の下に徒目付や小人目付などが置かれ、主な任務は旗本や御家人の監視、諸役人の勤怠等政務全般の観察、江戸城内外の査察、殿中礼法の指揮、評定所立ち会い、万石以下急養子の判元見届け、御成(おなり)行列の監督などでした。常時、本番・加番の2人の目付が城内に宿直し、非常時に備えていました。幕末には増員され、外国掛や海防掛などの職務も分掌することになります。

 

目付には有能な人物が任命されることが多く、後に遠国奉行や町奉行を経て勘定奉行に昇進する者もありました。また、町奉行に就任するには目付の経験が必須であったと言われています。老中が政策を実行する際には目付の同意が必要で、不同意の場合はその理由を将軍や老中に述べることができました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心の天気は雲が広がり、あまりすっきりした感じではありません。梅雨の時期も近づいているような趣きで、しばらくはこういった日が続くのでしょうか。昨日の講演も無事終了しましたが、準備にそれなりに時間と労力がとられますので、その分、普段の仕事の処理が滞ってしまい、落ち着く暇もありません。

 

さて、本日は以前、旗本のところでも若干紹介した「高家」について、少し詳しく紹介していきたいと思います。

 

高家は、高家という役職に就くことのできる家格の旗本を指すと同時に、江戸幕府での儀式や典礼を司る老中支配の旗本役の役職でもありました。その主な職務は伊勢神宮・日光東照宮・久能山東照宮・寛永寺・鳳来山東照宮への将軍の代参、幕府から朝廷への使者、京からの勅使・院使の接待、更には接待に当たる勅院使(饗応役の大名)への儀典指導など、朝廷と幕府との間の諸礼でした。

 

元々高家というのは、格式が高く、由緒正しい家柄、いわゆる名門・名家を指す言葉でした。ですから、家康が室町時代以前から続く名門の子孫を臣下に従え、対朝廷政策として活用することは、朝廷や公家に対して幕府の権威を示す意味でも大きなインパクトがあったものと考えられます。

 

この役職に就くことができるのは高家の家格を持つ「高家旗本」で安永9年(1780年)に26家がその家格となり幕末までその数は変わっていませんが、実際に高家職に就いている人員数は年代によって異なります。延宝年間(1673年~1681年)には9人、安政5年(1858年)には17人が就いていました。高家旗本のうち、高家職に就いている家を「奥高家」、非役の家を「表高家」と呼んでいました。また、高家の当主は原則として高家職以外の幕府の役職に就くことはできませんでした。

 

高家職は朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があることから官位は高く、奥高家に就任すると従五位下侍従(じじゅう)の位が与えられます。しかし、表高家は昇殿の必要がないので叙任されることはありません。一般に奥高家を務める者の官位は従五位下から従四位下の侍従で、後で説明する「高家肝煎」になると従四位上左衛権少将にまで昇る者もいました。ちなみに、大名の大半は従五位下です。

 

江戸幕府の典礼に関する職制は段階的に整備されていきました。慶長8年(1603年)に、家康が征夷大将軍宣下の式典作法を大沢基宿(おおさわもといえ)に管掌させたのが高家の始まりといわれていますが、その当時はまだ高家とは称してはいません。その後、慶長13年(1608年)に吉良義弥(きらよしみつ)が基宿とともに典礼・伝奏の御用に加わります。元和2年(1616年)には、一色範勝(いっしきのりかつ)が大御所・家康の下で幕府饗応役に任じられます。範勝は、晩年には従五位下式部少輔に任じられますが、就任当時は官位はありませんでした。この高家という名称や慣行が定着したのは、秀忠の元和(1615年~1624年)・寛永年間(1624年~1645年)だと考えられています。

 

天和3年(1683年)、奥高家の中から特に有職故実や礼儀作法に精通していた大沢基恒、畠山義里、吉良義央の3名が高家肝煎に選出されます。俗に「三高」といわれますが、高家肝煎の家は固定されたわけではありません。高家肝煎は、通常選ばれた3名が月番で職務を主宰していました。

 

高家の家格をもっていた26家は以下の通りです。

〔藤原北家〕

1.大沢家:藤原北家中御門家頼宗流、3,550

2.上杉家:藤原北家勧修寺流、1,490

3.大友家:藤原北家近藤氏流、1,000

4.長澤家:藤原北家日野流、1,400

5.中条家:藤原北家長良流、1,000

6.日野家:藤原北家日野流、1,530

7.(藤原)前田家:藤原北家閑院流、1,400

8.六角家:藤原北家日野流、2,000

〔清和源氏〕

9.(三河)吉良家:清和源氏足利流、4,200

10.(武蔵)吉良家:清和源氏足利流、1,420

11.今川家:清和源氏足利流、1,000

12.品川家:清和源氏今川家傍流、1,500石→300

13.畠山家:清和源氏足利流

  ①河内半国紀伊守護畠山氏 5,000

  ②能登守護畠山氏 3,120

14.武田家:清和源氏義光流、500

15.土岐家:清和源氏頼光流

  ①美濃守護土岐氏 700

  ②土岐頼元子孫 700

16.宮原家:清和源氏足利流、1,040

17.最上家:清和源氏足利流、5,000

18.由良家:清和源氏新田流、1,000

19.横瀬家:清和源氏新田流、1,000

20.(富江)五島家:清和源氏貞純親王を祖、1,420

〔村上源氏〕

21.戸田家:村上源氏久我流、2,000

22.有馬家:村上源氏久我流、500

〔宇多源氏〕

23.京極家:宇多源氏佐々木流、1,500

〔桓武平氏〕

24.織田家:桓武平氏

  ①織田信長七男・信高子孫 2,000

  ②織田信長九男(一説に十男)・信貞子孫 700

  ③織田信長次男・信雄子孫 2,700

〔その他〕

25.一色家:公家唐橋在数の末裔、一色氏養子、1,000

26.(菅原)前田家:公家高辻長量の子孫、1,000

 

高家として有名なところでは、元禄10年(1697年)に遊郭での度重なる失態や乱行が問題視され蟄居を命じられた六角広治(ろっかくひろはる)、元禄15年(1702年)に浅野長矩の遺臣一団によって打ち取られた赤穂事件で有名な吉良義央(きらよしひさ)などがいます。高家肝煎の義央と勅使饗応役を拝命していた浅野長矩との関係。こうした目で改めて忠臣蔵をみると、また新鮮な思いがします。

 

高見澤

 

おはようございます。本日は、午後からセメント用耐火物研究会で、中国の環境政策と日本企業の中国ビジネスへの影響について講演してきます。環境規制を強く求める一方、実情をよく理解していない規制当局の担当者による過度な規制により、生産に影響が出ている企業も少なくありません。中国の環境規制の実情を紹介するとともに、日本企業として如何に対応していくべきか、何らかの示唆を示すことができればと思います。

 

さて、本日からは中奥から離れて表に戻り、旗本役の役職について紹介していきたいと思います。今回は「留守居(るすい)」です。

 

留守居は、江戸幕府以外の諸藩にも置かれていた職制で、諸藩では「江戸留守居役」、「御城使(ごじょうし)」とも呼ばれ、江戸に常駐して幕府と藩の公務連絡や幕府公認の留守居組合を作って他藩との情報交換をすることが主な任務とされていました。今でいうところの外交官といったところでしょう。

 

一方、江戸幕府においては、老中支配の旗本役で、大奥の取り締まり、奥向き女中の諸門の出入り、諸国関所の女通行手形の管理、将軍不在時の江戸城の留守を守ることが主な役割でした。旗本役としては最高の職位の一つであったことから、万石以上の城主格の待遇を受けていました。例えば次男まで御目見えが許されたり、下屋敷を与えられたりしたことです。

 

留守居には「大留守居(おおるすい)」、「留守居」、「留守居番」があり、大留守居は常設していたわけではなく、時に門閥の譜代大名が任じられていましたが、元禄14年(1701年)に稲葉正道が老中に転出した後廃止となりました。留守居は「留守居年寄」とも呼ばれ、定員は4~6名で、役高は5,000石、各位に与力10騎、同心50人が付属していました。一時期、小普請組を支配したこともありましたが、宝暦3年(1753年)以降は小普請組は小普請支配に移ります。留守居番は定員5~6人で、役高は1,000石、各位に与力6騎、同心20人が付属し、主に江戸城内の警衛や奥向きのことを管掌していました。留守居と留守居番とは家格は違っていますが、直接的な上下関係はなかったようです。

 

江戸城本丸のほか、二の丸、西の丸にも留守居、留守居番が置かれていました。西の丸留守居は若年寄支配で役高2,000石、二の丸留守居は若年寄支配で役高700石でした。二の丸留守居、西の丸留守居とも長年勤仕を果たした旗本に対する名所職である反面、本丸留守居とは異なり左遷の意味合いもあったようです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝、家を出た時には曇り気味の天気でしたが、職場に到着するころには日差しが差し込み、今日も日中は気温が上がりそうな雰囲気が漂っています。一方、世界に眼を向ければ、6月に予定されていた米朝会談が中止、水面下で何が起きているのか、一般人には知り得ない駆け引きが行われています。

 

さて、前回は側衆ということで、中奥勤めの話をしましたので、本日はそのついでに「小姓(こしょう)」、「小納戸(こなんど)」、「奥医師(おくいし)」、「奥儒者(おくじゅしゃ)」について紹介していきましょう。

 

小姓については、その語源は「扈従(こしょう)」からきているとされ、戦国時代や安土桃山時代において、一般に平時には主君の側にいて秘書の役割を、そして戦時には主君の盾として命を捨てて守る役目を負う若年者のことを指していました。そのため、幅広い知識・教養と一流の作法・武芸を身につけていなければなりませんでした。時には主君の男色の相手をした例もありました。豊臣秀吉や徳川家康は大名家の子弟を小姓という名目で、事実上の人質としてたこともありました。

 

江戸幕府において、いわゆる秘書的な役割は御側御用人、御側御用取次、側衆などが担っていたことは、すでに説明した通りです。では小姓は何をしていのかというと、将軍に近侍しての雑務や日常生活に必要な取次をすることが主な職務となっていましたが、建前上の最大の役目は将軍の殿中における警護でした。小姓には、「表小姓(中奥小姓ともいう)」と「奥小姓」とがあり、いずれも若年寄支配の旗本役、その数は2030人ほどで中奥勤めで、その中に「肝煎役(きもいりやく)」と呼ばれる数人の小姓組頭がいました。小姓が設置されたのは江戸幕府草創期で、役高は500石、家禄1,000石以下の小身は役料300俵でした。将軍に常に近侍することから、その人選は厳しく、人品第一、5代将軍・綱吉のときには1万石以上の者が任じられることもあったようで、中奥で一勢力を成したとも言われています。

 

この小姓の下で日常の細務を行うのが小納戸です。小姓と同じく中奥勤めで、若年寄支配、御目見え以上の者がこの任に当たっていました。小納戸の人数は、4代将軍・家綱のときには20人前後でしたが、幕末には100人超であったといわれています。旗本や譜代大名の子弟から選ばれ、職掌は多岐にわたり、御場掛(ごばがかり、鷹場の管理)、御膳番(ごぜんばん、毒見役・健康管理)、奥之番(おくのばん、大奥への送迎役)、肝煎(きもいり、世話役)、御髪月代(おぐしさかやき、月代・顔剃り・洗顔・歯磨き)、御庭方(おにわかた、庭掃除)、御馬方(おんまかた、江戸市中の火災状況報告役)、御鷹方(おたかかた、鷹匠頭)などがあって各人の性格と特技によって担当が命じられていました。この職が設置されたのは、寛永年間(1624年~1644年)だと言われています。納戸方には、小納戸に対して「大納戸(おおなんど)」という役職があり、「御納戸」とも呼ばれています。将軍の納戸を管理して、衣服や器物の出納をしていました。

 

続いて「奥医師」ですが、これは読んで字の如く江戸幕府の医官です。若年寄支配で、中奥、大奥に住んでいる将軍とその家族の診察を行っていました。「近習医師」、「御近習医師」、「御側医師」などとも呼ばれ、ほとんどが世襲でしたが、中には諸大名の藩医や町医者から登用されることもあったそうです。奥医師には、奥医師の上席である「典薬頭(てんやくのかみ)」、将軍とその家族の診察を行う「奥医師」、殿中で不時の病人や怪我人を診察する「番医師」、平時には登城せず不時の時に備えた「寄合医師」、武士や町人の治療を行う「小普請医師」、小石川養生所に常勤する「養生所医師」などがいました。江戸の医師については、また改めて紹介していきたいと思います。

 

そして最後に「奥儒者」です。奥儒者は、将軍の侍講(じこう)を務めた儒者で、こちらは林羅山〔天正11年(1583年)~明暦3年(1657年)〕を祖とする林家が世襲していました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は急遽朝から経済産業省に業務打合せで向かうことになり、瓦版が送付できずに失礼しました。本日も、これから同じく経済産業省に向かうことになります。ところで、今テレビで大きな話題として騒がれているのが日大アメフト部の悪質タックル問題ですが、他の重要な問題を差し置いて大きく取り上げられ過ぎているのが気になります。もちろん、指導者と呼ばれる人たちの責任感の欠如、能力の不足は今に始まった話ではなく、日本大学ばかりか日本全体に蔓延している悪弊であることは間違いありません。私自身、業務の上で責任のある立場に立っている以上、部下への適切な指導や配慮に心掛け、不測事態が生じた場合への対処や責任については自ら担う覚悟をもって対応している次第です。

 

さて、本日は「側衆(そばしゅう)」について紹介したいと思います。以前、御側御用人・御側御用取次のところでも少し紹介しましたが、今回は側衆そのものについてお話しします。

 

一般の江戸幕府の役人は江戸城本丸の「表(おもて、今でいうところの首相官邸に相当)」で勤務していたことは、すでに江戸城本丸のところで紹介済みのことですが、この側衆は「中奥(今でいうところの首相公邸に相当)が詰所となっていました。

 

側衆は「御側衆(おそばしゅう)」とも呼ばれ、いわゆる将軍の側近であり、3日に1度の宿直勤務があり、将軍の警護や就寝中の当番(将軍の就寝中に老中などから持ち込まれた案件の取り次ぎなど)が主な職務でした。将軍の信任を受けて御側御用人や御側御用取次に取り立てられる場合もありましたが、それ以外の一般の「平側衆」は家禄2,0003,000石の上級旗本が番方系の役職を進んで最後に務めるポストであったことは、前回紹介した通りです。

 

老中支配に属し、役高は5,000石、定員は5~6名、あるいは7~8名とされ、このうち3名が将軍と老中との取次の任に当たる御側御用取次(前回説明済み)となっていました。日常、将軍に近侍して、主な職務は将軍と表方役人との用件の取次のほか、奥向きの諸事、小姓(こしょう)、小納戸(こなんど)、医師などの進退を支配し、交替で宿直して、老中退出後は老中に代わって殿中のことを処理していました。大番頭(おおばんがしら)や留守居(るすい)と並び、旗本に補任される最高の役職の一つとされ、将軍の側近の立場から政務に関与し、権勢を誇った者もいました。

 

〔4代将軍・家綱〕

 

側衆の始まりは、承応2年(1653年)に4代将軍・家綱が寝所を大奥から中奥に移したのに伴い、久世広之、佐野親成、内藤忠由、土屋数直の4人が昼勤し、夜の交代宿直を命ぜられたことが始まりとされていますが、実態としては3代将軍・家光の時代に中根正盛が幕閣との取次役として「御側」を務めたのが最初〔寛永12年(1635年)〕だとも言われています。呼び名も当初は一定せず、「御座之間詰」、「御側御奉公」、「御近習之御奉公」、「御側」などと呼ばれていましたが、5代将軍・綱吉の時代〔寛文2年(1662年)初見〕になって御側衆が定着したようです。当初は大目付など正規の監察機構とは別に監察権限が与えられいたようですが、時代を経るに従って御側御用人などの役職が設けられると、次第に側衆の権限も限られたものになりました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は、昨日よりは少し涼しい感じがしますが、日中は昨日と同じくらいまで上がりそうです。ところで、今の日本のスポーツ界は一体どうなっているのでしょうか? 相撲界のゴタゴタが鳴りを潜めたかと思うと、今度は大学アメフト界での問題が浮上。確かに日大というマンモス大学の経営の在り方については何かと問題が大きく、今回のスポーツの指導についても大いに改善の余地はあろうかと思います。しかし、それにしてもニュースとしては大きく取り上げ過ぎではないかと、不自然さを感じざるを得ません。

 

さて、本日は三奉行のうちの最後の1役、「勘定奉行」について紹介したいと思います。勘定奉行、或いは「勘定頭」の名称はすでに鎌倉・室町時代にみられました。鎌倉時代は、公事奉公人のうちで諸国年貢の受け取り、勘定をする者を「勘定の奉公人」と称し、室町時代には大名の家に常設されるようになった職名で、領内の年貢収納などを所管していました。

 

これが江戸時代には、江戸幕府や諸藩の常設の職制の一つになります。江戸幕府における勘定奉行は、勘定方の最高責任者で幕府の財政事務統括、幕府直轄領の支配(訴訟検断や年貢徴収)、関八州の大名・旗本などの私領の訴訟受理などを主な職務としていました。今でいえば財務省といったところでしょうか。

 

勘定奉行の成立の経緯はあまり定かではありませんが、慶長14年(1609年)に家康の側近であった松平正綱が会計総括を命じられ、元和元年(1615年)に勘定方を兼務することになりました。寛永12年(1635年)、幕府は老中以下主要役職の管掌事項を定めた際に、関東幕僚と農民の訴訟は正綱、伊丹康勝、伊奈忠治、大河内久綱、曽根吉次の月番勤務としたことが、後の勘定奉行の職掌となったと考えられています。寛永19年(1642年)に「金銀納め方」を職務の一つとしていた「留守居(るすい)」のうち酒井忠吉、杉浦正友が国用査検、吉次、忠吉、正友、康勝が租税財殻出納を命じられ、忠治は勘定頭を免じられます。この時点で農政部門と財政経理部門が一緒になり勘定頭制が成立しました。

 

勘定奉行は老中の管轄に属し、郡代・代官・蔵奉行などを統括し、寺社奉行、江戸町奉行とともに三奉行として評定所一座を構成していました。江戸時代初期、元禄年間(1688年~1704年)までは勘定頭と称し、宝永年間(1704年~1711年)頃から勘定奉行と呼ばれるようになりました。元禄11年以降、松平重良の道中奉行兼帯移行、勘定奉行のうちの1人(後に公事方勘定奉行)が大目付とともに道中奉行を兼務しました。

 

勘定奉行の定員は4名で、3名や5名の時もあり、旗本から選任されました。役高は3,000石、役料700俵、手当金300両が供されるのを例としていました。享保6年(1721年)、勘定奉行が執務を行う「勘定所」が財政・民政を扱う「勝手方」と訴訟などを扱う「公事方」に分かれ、翌享保7年(1722年)に勘定奉行と勘定吟味役も上記二つの職に分かれました。この二つの職務は隔年交代、月番制で執務するようになり、勘定奉行と勘定所の職制がほぼ確立しました。

 

勘定奉行の下には「勘定組頭」、「評定所留役(ひょうじょうしょとめやく)」、「金奉行」、「蔵奉行」、「油漆奉行」、「切手手形改役」、「川船改役」、「金座」、「銀座」、「郡代」、「代官」などの役職が設けられていました。

 

高見澤

 

おはようございます。先週の暑さに対し週末はかなり気温が低下、そして今週はまた気温が上がるという気温の乱高下。この異常な状態はいつまで続くのでしょうか? そして今夏は猛暑か冷夏か? 野菜は一時期に比べ大分安くなりましたが、今後の食料品の価格も気になるところです。

 

さて、本日は「町奉行」についてお話ししてきたいと思います。町奉行とは、江戸を含む江戸幕府直轄下の主要都市に置かれていた老中支配の行政官のことですが、単に町奉行といった場合には、一般的には江戸の町奉行、通称「江戸町奉行」のことを指しています。前回の評定所のところでも少し紹介しましたが、寺社奉行、勘定奉行とともに「三奉行」と呼ばれ、評定所一座の構成員として、幕政に参加する中央官職の性格も合わせもっていました。

 

江戸町奉行の定員は、時代とともに若干の変化はありますが、制度が確立してからは2名、江戸の約20%を占める町地(武家地、寺社地を除く地域)と江戸町民の行政、司法、警察、消防のほか、府内の土木工事など、あらゆる役割を担っていました。町奉行所は、今でいえば東京都庁、地方・高等裁判所、地方・高等検察庁、警視庁、東京消防庁などの機能を兼ねていたといえます。大江戸八百八町の行政と治安維持を担う重要な役所であったわけです。町奉行の職務は相当な激務のため、在職中の死亡率は他の役職に比べて格段に高かったようです。

 

天正18年(1590年)の徳川家康の江戸入府以来、家康の家臣の板倉勝重や彦坂元正らが江戸の「御代官」として町方の支配を担当、同時に村方の支配も兼ねていました。慶長6年(1601年)、2代将軍・秀忠の側近である青山忠成(あおやまただしげ)と内藤清成(ないとうきよしげ)が町方支配を担当しますが、こちらも「関東総奉行」と呼ばれた広域行政官でした。江戸の町方支配の専門行政官、江戸町奉行が正式に設置されるのは寛永8年(1631年)の加々爪忠澄(かがづめただすみ)と堀直之である説、寛永15年(1638年)の酒井忠知(さかいただとも)と寛永17年(1640年)の神尾元勝とする説の二つが有力です。

 

職制確立後の定員は2名ですが、元禄15年(1702年)から享保4年(1719年)の17年間は3名となった時期がありました。江戸町奉行の職には、原則として旗本が就くことになっていましたが、時には万石以上の大名格の者が就くこともありました。役料は、寛文6年(1666年)頃は1,000俵であったものが、享保8年(1723年)には役高3,000石となり、幕末の慶応3年(1867年)には役金2,500両となります。名奉行として有名なところでは、享保2年(1717年)から元文元年(1736年)まで南町奉行を務めた「大岡越前守忠相」、天保11年(1840年)から天保14年(1843年)まで北町奉行と弘化2年(1845年)から嘉永5年(1852年)まで南町奉行を務めた「遠山左衛門尉景元」がいます。テレビの時代劇でもお馴染みですね。

 

寛永8年に幕府が町奉行所を建てるまでは、町奉行に任じられた者がその邸宅に白州を作って職務にあたっていました。奉行所が出来てからは、町奉行の役宅は奉行所内に置かれるようになります。町奉行所は、町人からは「御番所(ごばんしょ)」、或いは「御役所」と呼ばれ、「南町奉行所(南番所)」と「北町奉行所(北番所)」の2カ所が置かれていました。町奉行が3名の時には、それに加えて「中町奉行所」が南北両奉行所の補完的役割として置かれていました。南町奉行所、北町奉行所、更には中町奉行所は火事による類焼などで移転し、時には南北の名称が逆転することもありましたが、最終的には南町奉行所は数寄屋橋門内(有楽町駅中央口付近)、北町奉行所は呉服橋門内(東京駅八重洲北口付近)に置かれました。

 

当初、町奉行の管轄する江戸市中の範囲は曖昧でしたが、文化15年(1818年)に江戸の範囲が「朱引」(赤い線)で正式に定められると、同時に「墨引」(黒い線)で町奉行の管轄範囲も示されました。町奉行所の執務は、民事訴訟については南町と北町が月番交代制で行い、非番の月には表門は閉ざされていました。しかし、月番の時に受理した継続案件や内寄合(ないよりあい)と呼ばれる相互協議、更に一方、奉行が職権で行う刑事事件の処理などは月番に限らず常に行われていました。一方、商業に係ることは南北で窓口が分かれており、呉服・木綿・薬種問屋の案件は南町、書物・酒・廻船・木材問屋の案件は北町といったように異なる業種を受け持っていました。

〔墨引(黒い線)が江戸町奉行の管轄範囲とされた〕

 

町奉行所には、南北各奉行所にそれぞれ与力(足軽大将等の中級武士)25名、同心(下級武士)100名がついていました。当時、南北合わせて250名程度で町人人口50万の行政や治安維持・防災を担うということは、現在のシステムから考えれば想像もできないほどの少人数であったことが分かります。特に犯罪捜査などの警察業務にあたる「三廻(さんまわり)」は、南北それぞれ「定廻(じょうまわり)」6名、「隠密廻(おんみつまわり)」6名、「臨時廻(りんじまわり)」2名と、南北合わせて28名と非常に少ない人数で江戸の治安維持にあたっていたというのですから驚きです。三廻1人で約18,000人という数になります。ちなみに、今の東京都1,270万人に対して警察官の数は4,300人ほどですから、警察官1人で約300人という計算になります。このため、定廻は自腹で「目明し(岡っ引き)」を雇っていたほか、放火や盗賊については武官の先手組が加役の火付盗賊改方として取り締まりに当たっていました。臨時廻は定廻の補佐、隠密廻は奉行直属の偵察役です。この三廻は同心のみで構成されていました。

 

町奉行所の組織には、警察業務を担当する三廻のほか、奉行の秘書役である「内与力(町奉行直接の家臣)」、人事・出納・奉行所全体の管理を担当する「年番方(与力の筆頭役)」、訴訟の審理や刑の執行を行う「吟味方」、小石川養生所の管理を行う「養生所見廻」、伝馬町牢屋敷の取り締まりを行う「牢屋敷見廻」、橋の維持・管理を行う「定橋掛(じょうばしがかり)」、町会所(まちかいしょ)の事務管理を行う「町会所見廻」、防火のために河岸の荷の監視する「高積改(たかつみあらため)」、町火消の消火活動を指揮する「町火消人足改」などがあり、いずれも与力-同心で体制が組まれていました。町奉行所については、別の機会に詳細に説明してみたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。朝から暑い日差しが身に沁みます。少し歩いただけでも全身から汗がにじみ出てきます。そういえば、西城秀樹が63歳の若さで亡くなりましたね。野口五郎、郷ひろみとともに新御三家などと呼ばれ、一世を風靡した歌手で、実は『七次元よりの使者』の愛読者でもあったと聞いています。最近、老いも若きも亡くなる芸能人・有名人の多さが気になるところです。

 

さて、江戸幕府役職の大名役の説明が一通り終わったところで、本日からは「旗本役」の役職についてお話ししていきたいと思います。旗本役については、その役職の数が多すぎるので、主なものに絞って説明していきます。

 

旗本役で最も重要な役目を果たしていたものの一つが「江戸町奉行」です。この江戸町奉行と、先に大名役で説明した寺社奉行、そして後日説明する「勘定奉行」を合わせて「三奉行」と呼び、江戸幕府の最高司法決裁機関である「評定所」を形成していました。ということで、本日は、先ずこの評定所について解説していきたいと思います。

 

評定所は、元々鎌倉幕府の下では嘉禄元年(1225)年に創設された評定衆(執権の下で政務を合議で司る有力御家人から成る組織)の会議所を指し、執権や連署列席の下に立法・行政・司法上の重要事項を審理、決裁していました。建長元年(1249年)に評定所の下で裁判の審理にあたる機関として「引付衆(ひきつけしゅう)」が設置されます。室町幕府でもこの体制が踏襲されています。

 

江戸幕府において、この評定所が制度的に整備されたのは3代将軍・家光時代、寛永12年(1635年)ですが、2代将軍・秀忠の頃からこの仕組みがあったとも考えられています。評定所の構成メンバーは、寺社奉行4人、町奉行2人、公事方(司法担当)の勘定奉行2人から成る「評定所一座」と老中1名でしたが、これに「大目付」、「目付」が審理に加わり、実際の実務は勘定組頭など三奉行所から派遣される「評定所留役(ひょうじょうしょとめやく)」が行っていました。

 

評定所において審理されるのは、幕政の重要事項、大名や旗本に係る訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題(原告と被告で身分や所轄が違う場合等)などで、時には政策の立案や審議、老中への司法上の諮問に応えることもありました。このため、審理される問題によっては大目付、目付、側用人などの将軍の側近が臨席したほか、江戸出府中の所司代、遠国奉行が参列することもありました。ただ評議権は評定所一座しかなく、議決は多数決、決着がつかない場合はそれぞれの意見を書いて老中の採決に委ねられました。

 

評定にかかる事件としては、「出入物(でいりもの)」と呼ばれる民事訴訟では原告と被告を管轄する奉行が異なる場合、「詮議物(せんぎもの)」と呼ばれる刑事訴訟では重要事件と上級武士が被疑者である場合です。

 

寛文年間(1661年~1673年)の4代将軍・家綱の時代、「寄合(よりあい)」と呼ばれる評定は、「式日(しきじつ)」、「立合(たちあい)」、「内座寄合(ないざよりあい)」に分かれていました。このうち内座寄合は奉行宅で行われる三奉行による協議で、評定所の範囲に入れられないこともあります。式日は幕政の重要事項の諮問を行う日で、毎月2、1121日に行われ、老中、大目付、目付、側用人も出席〔享保5年(1720年)以降、老中は月一度に〕、立会は裁判が行われる日で、毎月4、1325日に行われ、側用人、在府中の京都所司代、大坂城代、遠国奉行などが列席することがありました。

 

江戸幕府の評定所は、江戸城和田倉門外の辰ノ口(竜ノ口)、現在の千代田区丸の内1-4-1、丸の内永楽ビルの場所にありました。

 

高見澤

 

おはようございます。今週に入り、東京ばかりではなく、日本全国で気温の高い日が続いています。今朝の東京は曇りで、昨日に比べれば1℃ほど最高気温は下がるものの、湿度が高く、蒸し暑くなるとの予報です。

 

さて、本日は「京都所司代」と「大坂城代」について紹介したいと思います。これもまた、大名役の役職です。

 

先ずは京都所司代からです。京都所司代は、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛し、京都を支配下に置いた際に、京都の治安維持のために家臣の村井貞勝を任じたのが始まりのようです。貞勝の死後、豊臣秀吉がそれを踏襲、江戸時代へと引き継がれます。「所司代」の名称は、室町時代の「侍所所司代」に由来しますが、元々はこの侍所の長官を「所司」といい、その代理が「所司代」と呼んでいました。江戸幕府は侍所を設けず、鎌倉幕府時代の「六波羅探題」や室町幕府の所司代にならって設置されたものと考えられています。

 

関ヶ原の戦い後、徳川家康は奥平信昌を京都所司代に任じますが、慶長6年(1601年)に板倉勝重、元和6年(1620年)にその子重宗、承応3年(1654年)に牧野親成が後を継ぎ、京都市中の治安が固まるのと同時に、畿内近国における幕政が大きく前進しました。このため、寛文8年(1668年)に京都支配など民政上の権限を「京都町奉行」に譲り、京都周辺部やそこにある皇室領・公家領を管理するのは「京都代官」が担うことになりました。

 

以後、京都所司代は老中への出世の通過点にもなったことから、地位は高かったものの、幕政上の政治力は急激に低下していきました。このため、幕末の動乱期には京都所司代の力の無さが露呈し、その上位機関として「京都守護職」が設けられています。

 

京都所司代の主な任務は、京都の治安維持のほか、朝廷や公家の監察、京都・伏見・奈良の三奉行の支配、西日本諸大名の監視、五畿内(摂津、山城、大和、河内、和泉)及び近江、丹波、播磨の8カ国の民政の総括でした。京都の市政を預かる京都町奉行や宮中・御所の監督にあたる「禁裏付」などの役職は、平時は所司代の指揮に従っていましたが、本来は老中の所管となっていました。

 

京都所司代の定員は1名、3万石以上の譜代大名から任じられ、役料として1万石が給され、与力30騎(後に50騎)、同心100人が付属していました。所司代の役所や住居は二条城の北に隣接した場所に設けられていました。慶応3年(1867年)、江戸幕府の終焉とともに京都所司代もその役割を終えました。

 

次に大坂城代です。松平忠明 慶長20年(1615年)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、家康は功績のあった松平忠明を摂津大坂藩10万石の藩主として、戦災復興の任にあたらせます。忠明は復興の手腕を高く評価され、元和5年(1619年)に大和郡山藩12万石に加増・移封されます。それ以降、大坂は江戸幕府直轄地となり、大坂城に城代が置かれるようになりました。

 

大坂城代の主な任務は、大坂城下の諸役人の統率と大坂城の防備、西国大名の動静の監視です。5、6万石以上の譜代大名から任命され、大坂城に駐在、幕末まで述べ70名が就任しています。役知1万石が加増される重職で、奏者番、寺社奉行から大坂城代、京都所司代を経て老中になった者も少なくありませんでした。かつては、西国に変事が起きた際には、大坂城代は江戸の許可を得ずに独断で行動が許されており、そのために白紙の将軍の印判状を有していたといわれていますが、真偽の程は定かではありません。

 

 

おはようございます。今朝の東京都心は5月とは思えないほどの日差しの強さで、今日も気温がかなり上昇する兆しが見えています。寒暖の激しさに加え、最近の地震・火山噴火の活発化などの現象を鑑みると、地球の磁場に何らかの異常が生じ、人間の精神にもかなりの影響を及ぼしているのかもしれません。特異な犯罪の多発もうなずけるところです。

 

さて、本日も江戸時代の役職で大名役の続きです。今回は「寺社奉行(じしゃぶぎょう)」と「奏者番(そうじゃばん)」について紹介したいと思います。

 

先ず寺社奉行ですが、読んで字の如く、寺や社の土地、建物、僧侶、神官など宗教に係る一切を担当した行政機関です。一般に、江戸時代に寺社奉行があったことは知られていますが、実は鎌倉時代から室町時代にかけてもこの機関が設置されていました。鎌倉時代には主として幕府直轄領の寺社を管理監督、室町時代は基本的に鎌倉時代の制度を踏襲したものの、仏寺を担当する「寺奉行」と神社を担当する「社家奉行(しゃけぶぎょう)」が設置され、さらには特定の宗派や寺社を担当する「別奉行(べつぶぎょう)」なるものが配置されていました。

 

江戸幕府において寺社奉行が正式に設置されたのは3代将軍・家光の時代で、寛永12年(1635年)に寺社や遠国における訴訟担当の「諸職(しょしき)」として創設されたのがその始まりです。それまでは、僧侶の以心崇伝(いしんすうでん)と京都所司代を務めていた板倉勝重に寺社に関する職務に当たらせて〔慶長17年(1612年)~寛永10年(1633年)〕おり、勝重、崇伝の死去により寺社の担当者が不在となっていました。

 

寺社奉行は、初めは将軍直轄でしたが、寛永15年(1638年)に老中制度の確立とともに老中の所管となりますが、その後4代将軍・家綱の時代、寛文2年(1662年)に将軍直属に戻りました。町奉行、勘定奉行の両奉行とともに「三奉行」と呼ばれ、評定所を構成し、両奉行が旗本役であるのに対し、寺社奉行が大名役であることから、三奉行の筆頭格として位置付けられています。定員は3名~5名で一般的には4名とされ、原則として1万石以上の譜代大名から任命され、奏者番を兼務していました。月番制で、自宅を役宅としていました。

 

寺社奉行の主な任務は、全国の寺社や僧職・神職の統制のほか、門前町民や寺社領民、修験者や陰陽師等の宗教者、更には楽人(がくにん)や連歌師等の芸能民、古筆見(こひつみ)、碁将棋師(ごしょうぎし)なども担当していました。更に、関八州、五畿内、近江、丹波、播磨を除いた諸国私領の訴訟を聴取したほか、寺請制度の下、宗門人別改帳(庶民の戸籍)は寺社が管理していたことから、婚姻・移住の管理や通行手形の発行なども担っていました。寺社奉行を務めた後、大坂城代や京都所司代などの重役に就くこともあり、最終的には老中にまで上り詰める者もいました。

 

次に奏者番ですが、略して「奏者」とも呼ばれ、こちらは大名や旗本が年始、五節句、朔望などに将軍に謁見するとき、或いは在国の大名が献上品を使者に持たせて江戸城に派遣した際に、その姓名や進物を披露し、将軍の下賜品を伝達することが主な役目でした。また、大名の転封などの重要な決定や大名家の不幸に際して「上使」として使わされたり、将軍家や御三家の法要において将軍が参列できない場合の代参、将軍の御前で元服を行う大名・世子に礼儀作法を教えるなど、幕府の典礼を司っていました。ちなみに、対朝廷関係の典礼は、旗本のところで紹介した「高家」が担当していました。

 

慶長8年(1603年)に家康が、室町幕府の礼法に詳しかった奉公衆出身の本郷信富をこの役に任命したことが始まりとされていますが、それ以前にあったとする説もあるようです。その後、奏者番の役職は制度化され、定員は特に定めはありませんが一般に2030名で、原則として1万石以上の家格の譜代大名から任じられていました。当番、助番(すけばん)、非番などがあり、交替で勤めていました。

 

多くの場合、大名としては初任の役職となるため、出世の登竜門的な役職となっており、大名や旗本と将軍との連絡役であることから、大目付や目付と並ぶ枢要な役職でもありました。万治元年(1658年)以降、奏者番のうち4人は寺社奉行を兼任するようになり、寺社奉行を経て若年寄、大坂城代、京都所司代、老中へと出世する者もいました。文久2年(1862年)閏8月に文久の改革により一旦廃止されますが、翌文久3年(1863年)10月に再置されています。

 

尚、奏者番とは別に、将軍世子に対して同じ職務を行う「西の丸奏者番」という役職がありました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、朝方は比較的涼しかったのですが、日中は暑くなりそうな兆しです。そういえば、昨晩、新潟市の女児殺人事件の容疑者が逮捕されたとのニュースが入ってきました。礼儀正しく、優しいと評判の人物だったようですが、精神的には何らかの闇があったのかもしれません。魑魅魍魎が跋扈するこの世界、自分が加害者や被害者にならないよう自分を見失うことなく、意識をもって行動することが大切です。

 

さて、本日は江戸幕府の役職の大名役である「御側御用人(おそばごようにん)〔側用人(そばようにん)〕と「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」について、紹介していきたいと思います。

 

江戸時代、征夷大将軍の側近として、「側衆(そばしゅう)」、或いは「御側衆(おそばしゅう)」と呼ばれる役職がありました。幕閣をはじめとする幕府の役人の勤める場所が江戸城本丸の「表」であるのに対し、側衆の勤めるところは本丸の「中奥」、すなわち将軍の公邸になります。3日に一度の宿直勤務があり、将軍の就寝中の当番を務め、主に将軍の警護や就寝中の将軍への取り次ぎなどの役を担っていました。3代将軍・家光、或いは4代将軍・家綱の時代に始まったとされる側衆の起源ですが、名実ともに定着したのは5代将軍・綱吉の時代だったようです。将軍の信任を受けて、御側御用人や御側御用取次に取り立てられることもあっりましたが、一般には2,000石から3,000石の上級旗本が番方系の役職を務めた後のアガリの役職とされていました。

 

この側衆とは別に、将軍の側近職として設けられていたのが、この御側御用人と御側御用取次です。先ず御側御用人ですが、定員は1名で、将軍の命令等重要事項を老中に伝達し、老中よりの上申など重要問題を将軍に取り次ぐことが主な役目で、側近として意見の具申を行わせることもありました。貞享元年(1684年)、大老・堀田正俊が若年寄の堀田正休に刺殺されて以降、将軍の居室が大老や老中の御用部屋から遠ざけられ、その取次をする御側御用人の役割が特に重要となりました。

 

この役職が設けられたのは、綱吉が将軍就任の翌年・天和元年(1681年)に館林藩主時代の家老・牧野成貞を登用したことが始まりです。成貞はその後従四位下侍従の官位を受け、石高も逐次加増されて下総関宿藩7.3万石の藩主になり、老中と同等の待遇を受けるなど、近侍の地位は著しく高まることになりました。以来、5,000石級の旗本で将軍の側衆として枢機に与える者の中から選任されるようになります。

 

御側御用人は、家柄よりも才能を重んじて登用されたこともあり、将軍の恩寵を背景に往々権勢を振って幕政を左右する者もありました。柳沢吉保、間部詮房(まなべあきふさ)、田沼意次などはやがて老中、老中格へと出世していきます。天和元年以降幕末まで、この職に就いた者は30名ほどですが、必ずしも常置されていたわけではありません。

 

次に御側御用取次ですが、こちらは8代将軍・吉宗が将軍に就任した際に、紀州藩年寄・小笠原胤次、御用役・有馬氏倫、同・加納久通の紀州藩士3名を江戸幕府の側衆に採用し、申次役に任じたことから始まりました。定員は側衆から特に将軍が任命した3名(実際には1~5名)とされていました。側衆が宿直勤務を原則とするのに対し、御側御用取次は日勤とされ江戸城中奥の談事部屋を詰所としていました。もともとこの御側御用取次は高級旗本の役職でしたが、拝命後にある程度の時を経てから大名に取り立てられる場合が多かったので、ここでは大名役として取り扱うこととします。

 

御側御用取次の職務は中奥の取り仕切りで、将軍と老中以下の諸役人との取次役、将軍の政策・人事面での相談役、目安箱の取り扱い、御庭番の管理などでした。普通の側衆は決定事項の事務処理に当りますが、御側御用取次は未決事項の立案・審議に参画していました。御側御用人が今の総理秘書官に相当するとすれば、御側御用取次は総理補佐官といったところでしょうか。もちろん、その業務内容は今と昔ではまったく異なりますが、位置付けということであれば、そのような感じでしょう。

 

こちらも家禄2,000石以上の中・下級幕臣が御側御用人として就任しますが、側近としての信任の厚さから加増されることが少なくなく、就任した46人中の2割にあたる9名(有馬氏倫、大岡忠光、田沼意次、稲葉正明、水野忠友、加納久周、林忠英、本郷泰固、平岡道弘)が1万石以上の大名となり、そのうち6名(大岡忠光、水野忠友、加納久周、林忠英、本郷泰固、平岡道弘)が若年寄、3名が側用人(大岡忠光、田沼意次、水野忠友)、2名(田沼意次、水野忠友)が老中に昇進しています。


〔田沼意次は御側御用取次から老中まで上り詰めた。〕

 

高見澤

 

おはようございます。東京都心では、昨日午後から降り始めた雨も今朝はすっかり上がり、しばらくしたら晴れ間も見え、気温が上昇するようです。最近の気温の寒暖差に、身体が付いていくのも少し時間がかかりそうです。こうした最近の異常な天候は、人間の精神にも何らかの影響を及ぼすのでしょうか? 先週の新潟や昨晩の千葉では、いずれも幼い女児が殺される痛ましい事件が起きています。常に気の休まらない事件が続きます。

 

さて、本日は「若年寄」について紹介したいと思います。江戸幕府における若年寄は、老中に次ぐ幕府の重職であり、老中が全国支配を担当していることに対し、若年寄は主に旗本や御家人の支配を中心に将軍家の家政を担当していました。

 

若年寄の始まりは、寛永10年(1633年)に3代将軍・家光が側近6人を日常の雑務を行わせる「六人衆」としたことにあると言われています。その6人は以下の通りです。藩名と石高は六人衆に就任した時期に最も近い前後の時期のものです。

松平信綱 武蔵忍藩3万石 老中を兼務

堀田正盛 武蔵川越藩3.5万石 後に老中

三浦正次 下総矢作(やはぎ)藩1万石

阿部忠秋 下野壬生(みぶ)藩2.5万石 後に老中

太田資宗 下野山川藩1.56万石

阿部重次 武蔵岩槻藩5.9万石 後に老中

 

このうち、信綱、正盛、忠秋、重次の4人が老中となり、六人衆の意義がなくなり一旦は廃止され、その職務は老中に吸収されます。しかし、その後寛文2年(1662)年に若年寄として復活しました。

 

若年寄の定員は原則として4人、小禄の譜代大名から任命され、老中、老中格、側用人に出世するための経験職でもありました。とはいえ、江戸時代に若年寄を務めた161名のうち、老中まで出世できたのはその5分の1程度と言われていますので、狭き門だったといえるでしょう。こちらも老中と同じく月番制でした。若年寄の出勤時間は朝五つ(午前8時)と老中よりも早く、退勤時間は老中が帰宅した後とされていました。

 

若年寄が所管する役職も多岐にわたりますが、そのうち旗本役の職位は以下の通りです。

西の丸留守居、鉄砲百人組頭、新番頭、持弓頭・持筒頭、定火消役(じょうびけしやく)、小姓、中奥小姓、先手頭・弓頭・鉄砲頭、目付、使番、書院番組頭、小姓組組頭、鉄砲方、西丸裏門番之頭、徒頭、小十人頭、小納戸、船手、二の丸留守居、納戸頭、腰物奉行、鷹匠頭、奥祐筆組頭

 

この他にも、江戸城内の馬、台所、歌、医薬・治療、天文、保安、物資調達等の役職が若年寄の管轄下にありました。

〔天文方も若年寄の管轄下にあった。〕

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京都心は清々しい朝を迎えています。昨日の昼に、日本の経済団体と日中友好7団体による李克強総理歓迎レセプションが開催され、参加してきました。中国の首相としては7年ぶりとなったことから、その歓迎ムードもひときわだったように思えました。これによって日中関係、更には東アジアの関係改善の進展が期待されるところです。

 

さて、本日は幕閣の中の「老中」について紹介したいと思います。老中は、当初は「年寄衆」とも呼ばれ、また「宿老」ともいわれていました。三河時代の徳川家で家政を司っていた宿老の年寄を「老」の文字で表し、仲間を表す「中」の字と合わせて老中としたのが、その由来であると言われています。

 

老中の任に就くことができるのは、当初は家禄が2万5,000石以上の譜代大名とされていましたが、後に譜代大名であれば家禄に関係なく才能次第で同等の役職である「老中格」に登用される道が開かれました。老中格は、老中に比べ地位は一段下がりますが、職掌や職責は老中と同等に扱われていたようです。

 

幕政において、老中は実質的な責任者として位置付けられており、老中ら幕閣が評議で決めた判断を形式的に将軍が認可することになるので、実質的に老中の決定が幕府の決定となることが一般的でした。その業務範囲は朝廷関係、外交、知行割り、大規模普請、大名からの届出や願い事への対応、司法、財政など多岐に渡っていました。老中の管轄下にある役職は「老中支配」と呼ばれ、概ね以下の通りです。

〔江戸城回り〕

御側用人、留守居役、高家、御三卿家老、大番頭

〔江戸市中取り締まり〕

江戸町奉行

〔大坂関連〕

大坂定番、大坂加番、大坂城目付、大坂船手、大坂町奉行

〔専門奉行〕

勘定奉行、勘定吟味役、作業奉行、普請奉行、小普請支配、旗奉行、槍奉行、留守居番、大目付、交代寄合

〔駿府関連〕

駿府城代、駿府加番、駿府町奉行

〔朝廷関連、京都関連〕

禁裏付、仙洞付、京都町奉行

〔遠国奉行〕

伏見奉行、長崎奉行、奈良奉行、伊勢山田奉行、日光奉行、堺奉行、浦賀奉行、新潟奉行、佐渡奉行、箱館奉行、羽田奉行、甲府勤番支配

〔御用絵師〕

表絵師、奥絵師

 

老中は、一般に4~5名がその職位にあり、通常業務は月番制でそのうちの1人が政務を行っていました。江戸城本丸御殿表にある御用部屋を詰所とし、重要案件は老中一同の連署(合議)によって決定していました。老中の中でも、先任者や家門など特別な家柄の者から選ばれる「老中首座」が全体を統括していました。また、延宝8年(1680年)に5代将軍綱吉が農政・財政等の経済部門を専管する「勝手掛老中(かってがかりろうじゅう)」を設置します。時に空席の機関もありましたが、在任者がいる際には月番に関わりなく財政問題に当たっていたとのことです。



 

老中の屋敷は西の丸下にあり、在任中はそこで暮らしていました。老中の勤務時間は朝四つ(午前10時頃)から昼八つ(午後2時頃)までの4時間です。しかし、屋敷には請願や陳情で各藩の使者や旗本が訪れることも少なくなく、実際の仕事の時間は相応に長かったようです。



江戸時代に老中を務めた大名は数多くいますが、有名どころとしては8代将軍・吉宗の享保の改革を支えた水野忠之(三河岡崎藩5万石)、10代将軍・家治の下で幕政改革を行った田沼意次(遠江相良藩5.7万石)、11代将軍・家斉の下で寛政の改革を行った松平定信(陸奥白河藩11万石)、12代将軍・家慶の時代に天保の改革を行った水野忠邦(遠江浜松藩6万石)、幕末の動乱期、13代将軍・家定の時代に安政の改革を断行した阿部正弘(備前福山藩10万石)などがいます。

〔寛政の改革では美人画に遊女以外の名前を記すことが禁じられた。〕



尚、諸藩において、幕府の老中に相当する役職は一般に「家老」と呼ばれていますが、藩によっては老中という言葉も使っていたようです。

 

高見澤
 

おはようございます。昨日、ホテルニューオータニの中庭の見える部屋で、次の会見を待っているときに、日中韓首脳会議を終えた中国の李克強総理が、程永華駐日大使と並んで中庭を歩いている姿を見かけました。王毅国務委員(副総理級)兼外交部長(大臣)がその後ろに従い、周りには多くのSPが取り囲んでいました。ホテルの周りも厳戒態勢で、雨の中、多くの警察官が濡れながら警備を行っていました。ホテルの敷地内ばかりか、周辺の道路を通るのにも一瞬の緊張感が走ります。

 

さて、これまで江戸幕府の幕藩体制の根幹を成す徳川将軍家、大名、旗本、御家人等について説明をしてきましたので、本日からは「幕府の役職」について紹介していきたいと思います。江戸幕府において、最高権力者は征夷大将軍であることは言わずもがなです。その将軍をトップに、「大名役」という上位の役職、「旗本役」と呼ばれる中位の役職、そして「御家人職」という下部組織が存在していました。

 

大名役には、幕府首脳で「幕閣」と呼ばれる「大老(大老格を含む)」、「老中(老中格を含む)」、「若年寄」の三役があり、将軍の側近である「御側御用人(おそばごようにん)」と「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」、城中における武家の礼式を管理する「奏者番(そうじゃばん)」、宗教を管轄する「寺社奉行」、地方行政機関としての「京都所司代」、「大坂城代」がありました。

 

先ず大老ですが、広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指していました(豊臣政権下における「五大老」など)が、江戸時代の大老は将軍の補佐役として、臨時に老中の上に置かれた最高職を指し、定員は原則として1名、重要な政策決定のみに関与し、日常業務は免除されていました。この大老職に就けるのは徳川将軍家と縁の深い10万石以上の譜代大名で、「大老四家」、すなわち井伊、酒井(雅楽頭流)、土井、堀田の4家に限定されていました。江戸幕府約260年のうちで、就任したのは12名(⑧井伊直興と⑨井伊直は改名して再任しており、一人物)しかいませんでした。この4家以外にも、譜代10万石以上の大名が同じ任務に任命されることもありましたが、これは大老ではなく「大老格」と呼ばれていました。

 

大老を務めた大名は以下の通りです。

① 井伊掃部助直孝 近江彦根藩30万石 従四位上行 寛永9年(1632年)頃~不明

② 酒井雅楽頭忠世 上野厩橋藩12万石 従四位下行 寛永13年(1636年)

③ 土井大炊頭利勝 下総古河藩16万石 従四位下行 寛永15年(1638年)~寛永21年(1644年)

④ 酒井讃岐守忠勝 若狭小浜藩11万石 従四位上行 寛永15年(1638年)~明暦2年(1656年)

⑤ 酒井雅楽頭忠清 上野厩橋藩15万石 従四位下行 寛文6年(1666年)~延宝8年(1681年)

⑥ 井伊掃部頭直澄 近江彦根藩30万石 従四位下行 寛文8年(1668年)~延宝4年(1676年)

 堀田筑前守正俊 下総古河藩13万石 従四位下行 天和元年(1682年)~貞享元年(1684年)

井伊掃部頭直興 近江彦根藩30万石 従四位下行 元禄10年(1697年)~元禄13年(1700年)

⑨ 井伊掃部頭直 近江彦根藩30万石 従四位上行 宝永8年(1711年)~正徳4年(1714年)

井伊掃部頭直幸 近江彦根藩30万石 従四位上行 天明4年(1785年)~天明7年(1787年)

井伊掃部頭直亮 近江彦根藩30万石 従四位上行 天保6年(1836年)~天保12年(1841年)

井伊掃部頭直弼 近江彦根藩30万石 従四位上行 安政5年(1858年)~安政7年(1860年)

⑬ 酒井雅楽頭忠績 播磨姫路藩15万石 従四位下行 元治2年(1865年)~慶応元年(1865年)

 

そして大老格を務めたのは下記の通りです。

① 柳沢美濃守吉保 甲斐甲府藩15万石 従四位下行 宝永3年(1706年)~宝永6年(1709年)

 

当初は譜代大名の名誉職的な意味合いが強かった大老職ですが、中には権力を自らに集中させる大老もいました。幕政に大きな影響を与えることができた役職だけに、反対派から恨みをかうことも少なくありませんでした。在職中に殺害される大老もあり、堀田正俊は従叔父で若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休(いなばまさやす)に江戸城内で刺殺され、また井伊直弼は江戸城桜田門外で尊王攘夷派の水戸脱藩浪士ら18名に暗殺されています。

 

高見澤

 

おはようございます。東京都心では、昨日から降り続いている雨がときに激しくなっており、また高台では風が強いことから、足元が濡れてしまう状態です。今朝は、四川省長や中国国際貿易促進委員会会長と日本経済界との懇談があり、これからホテルニューオータニに向かうことになっています。李克強総理の訪日に合わせて多くの要人が来ており、ホテルも厳戒態勢となっていることでしょう。

 

さて、本日は「御家人」について紹介していきたいと思います。御家人は、元々平安時代に貴族や武家の棟梁に仕える人たちを「家人」と呼んでいたのを、鎌倉時代以降、鎌倉殿(将軍)と主従関係を結び従者となった人たちを称して「御家人」と呼ぶようになったということです。家人に「御」を付けたのは、鎌倉殿への敬意を表しているとのことです。

 

鎌倉時代において、鎌倉殿と御家人との間は、「御恩」と「奉公」の関係によって結び付けられていたことは、日本史の教科書にも書かれている通りです。御家人が鎌倉殿から受ける御恩には、「安堵」と「新恩給与(しんおんきゅうよ)」があります。安堵には、鎌倉殿から直接所領を安堵される「所領安堵」、在地領主の本宅を安堵する「本宅安堵」があり、これらを合わせて「本領安堵」とも呼んでいます。これに対して新恩給与は、勲功のあった御家人に対し、幕府が新たに所領を与えることを指します。こうした御恩を受ける見返りとして、御家人は鎌倉殿に対して奉公を行うことになります。この奉公には、戦時の従軍参加や平時の京都・鎌倉での大番役・異国警護役などの「軍役」、そして幕府から御家人に賦課された米銭の納入という「公事(くじ)」がありました。この御恩と奉公という主君と御家人との関係は、基本的には江戸時代に通じるものもありますが、江戸時代には、この御家人という立場はかなり明確な存在として位置付けられます。

 

江戸時代の御家人は、知行が1万石未満の徳川将軍家直参の家臣団(直臣)で、そのうち将軍に直接謁見できない御目見未満の家格の家臣を指します。御目見以上の家格の家臣は、前回説明した直参の旗本です。御家人の多くは、戦場においては徒歩の武士、平時には勘定所勤務や普請方勤務、番士、町奉行所の与力・同心といった下級官僚としての職務や警備を務めていました。

 

御家人は、原則として扉のある籠などの乗り物や馬に乗ることはできず、家に玄関を設けることも許されてはいませんでした。例外として、奉行所の与力は馬上が許されることもあったようです。有能な御家人には、本来であれば旗本が就くはずの上位の役職に登用されることもあり、「布衣(ほい)」と呼ばれる制服を着ることができる役職以上の役職に就くか、或いは3代続旗本の役職に就任すれば、旗本の家格になりうる資格が得られたとのことです。

 

御家人には、「譜代」、「二半場(にはんば)」、「抱席(かかえせき)」の3つの家格に分かれていました。家康から4代将軍・家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫を譜代、それ以降新たに御家人として登用された者を抱席、その中間の家格にあるものを二半場としていました。譜代の中で特に由緒ある御家人は「譜代席」と呼ばれ、江戸城内に自分の席を持つことができたようです。譜代と二半場は、無役であっても幕府から俸禄の支給を受け、家督を惣領に相続させて身分と俸禄を伝えることができました。これに対し抱席は、基本的に「一代限りの奉公」だったようです。とはいえ、時代とともにこの原則は次第に曖昧となり、最終的には裕福な町民や農民が御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って御家人の身分を得る、といったことも行われていました。

 

御家人の大半は、知行地を持たない30俵以上80俵未満の蔵米取りで占められ、知行地を持つ者でも200石取り程度の小身ではありましたが、家禄の高低は家格の決定に関係なく行われていたようです。江戸中期以降、多くの御家人の生活は非常に窮乏し、内職を公然と行って家計を支えることが一般的でした。

 

高見澤

 

おはようございます。本日から中国の李克強首相が日本を公式訪問します。明日、開かれる日中韓首脳会談に出席するためです。今回の李首相の訪日については、あくまでも外交日程ということで、官邸や外務省など日本政府が取り仕切っているので、我々経済界としては明後日(10日)昼の歓迎レセプションに参加するのみで特段大きな業務はありません。ただ、李首相の訪日に伴って来日する各省の省長(知事)や経済関連機関との交流イベントが目白押しで、その準備で追われているところです。10日午後、李首相が北海道に向かえば東京サイドは少し落ち着くことでしょう。

 

さて、前回で大名の紹介が終わったところで、本日と次回は江戸時代の「旗本」、「御家人」についてお話ししたいと思います。先ずは「旗本」について紹介しましょう。

 

旗本とは、中世から近世にかけての武士の身分の一つとして、元々は戦場にあって主君を護衛する直属の武士団を指していました。いわゆる「近衛兵」といったところでしょうか。これが江戸時代になると、徳川将軍家直属の家臣団(直参)として、そのうち石高が1万石未満で、儀式など将軍がお出ましする際には席に参列できる「御目見え(おめみえ)」以上の家格をもつ者を指すようになりました。旗本は、一般に将軍から土地、或いは蔵米(くらまい)〔将軍の米蔵から俸禄として支給される米〕が給与されていました。旗本が領有する土地を「知行所(ちぎょうしょ)」と呼んでいました。徳川将軍家直参の旗本は、三河時代から徳川氏に仕えてきた家臣が基本を成していましたが、その他にも北条、武田、今川の遺臣、大名の一族、改易大名の名跡を継ぐ者、大名になれなかった地方の豪族などから旗本になったケースも少なくありません。

 

旗本は諸藩の家臣と違い、「地方知行」といって実際に土地を与えられることが多かったようです。知行地の石高が高い者は特に「大身(たいしん)旗本」と呼ばれ、3,000石以上の「寄合(よりあい)〔旗本寄合席〕」、または2,000石以上で「守名乗り(かみなのり)」ができた者を指していました。寄合とは、3,000石以上の上級旗本無役者・布衣(六位)以上の退職者の家格を指します。また、旗本の中には「交代寄合」と呼ばれる参勤交代を特に認められた家があり、一般的には石高の高い家が多かったようです。

 

旗本の家格には、これとは別に「高家(こうけ)」というものがあります。これは江戸幕府における儀礼や典礼を司る役職を担うことが認められた家格の家で、当初は石橋、吉良、今川の3家で、後に26家〔有馬、一色、今川、上杉、大沢、大伴、織田、京極、三河吉良、武蔵吉良、五島、品川、武田、長澤、土岐、戸田、中条、畠山、日野、前田(藤原)、前田(菅原)、宮原、最上、由良、横瀬、六角〕まで増えています。この高家は1,000石級の者が多く、家柄や官位に比して家禄は少なかったようです。高家の中でも高家諸氏の采配に月番で当たる3名は「高家肝煎(こうけきもいり)」と呼ばれ、10万石級の大名と同じ従四位から正四位の官位を与えられることもありましたが、石高は最高でも5,000石未満だったとのことです。また高家は、他の幕府役職に就くこともできず、寄合にも入りませんでした。

 

旗本は次回ご紹介する「御家人」と同じく、「武家諸法度」によって統制され、高家や交代寄合を除いて若年寄の支配下に置かれていました。原則は江戸集住でしたが、知行所支配に関しては大名と同じく行政権や司法権を有していました。旗本は、俗に「旗本八幡騎」と呼ばれていますが、享保7年(1722年)の調査によれば、旗本の総数は約5,000人、御目見え以下の御家人を含めても約1万7,000人だったといわれています。ただ、旗本と御家人の家臣を含めると8万人であったようです。旗本で5,000石以上の者は交代寄合を含め約100人、3,000石以上は約300人で、その9割は500石以下であったといわれています。しかし、石高が低い割には軍役負担が大きく、旗本の窮乏化が大きな問題となり、寛政の改革での「棄捐令(きえんれい)」にもつながっていったようです。

 

旗本の江戸幕府での役職ですが、江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う武官の「番方(ばんかた)」、行政・司法・財政などを担当する文官の「役方(やくかた)」に就き、無役の旗本は3,000石以上は寄合、それ以下は「小普請支配(こぶしんしはい」に編入されていました。番方には大番組、書院番組、小姓組番、新番組、小十人組の五番方(大番、書院番、小姓組を「番方三役」という)のほか、徒士(かち)組、百人組、先手組などがあり、常備軍として殿中や城門の守衛、城番、主君出行時の供奉(ぐぶ)などが主な職務でした。それら組織は「番頭」、「組頭」、「番士」や「頭」、「与力」、「同心」などの役職で構成されていました。一方、役方としては「町奉行」、「勘定奉行」、「大目付」、「目付」などの役職がありました。

 

旗本としての最高位の役職は「江戸城留守居」でしたが、御三卿創設以降はその家老職も江戸城留守居に準ずる地位とされていたようです。このほか、5,000以上の大身旗本は「将軍側衆」、「御側御用取次」、「大番頭」、「書院番頭」、「小姓組番頭」、「駿府城代」に就任することができました。1,000石級の旗本としては、地方の重要都市に置かれていた「遠国奉行」に就くことが多かったようですが、「伏見奉行」は譜代大名からも任じられることがある別格のポストとして位置付けられていました。100石から200石の小禄の旗本は小十人組の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、蔵奉行、金奉行、普請下奉行、具足奉行、書物奉行、寺社奉行吟味薬調役、勘定吟味改役などの諸役に就き、その下位の役職には御家人が就任していました。それぞれの役職については、追ってご紹介していきたいと思います。

 

江戸時代の著名な旗本としては、青木昆陽、新井白石、大岡忠相、大久保忠教(彦左衛門)、吉良義央(上野介)、遠山景元などがいます。

 

高見澤

 

おはようございます。このゴールデンウイーク、皆さんはどのようにお過ごしでしたでしょうか。天気にも恵まれ、旅行や娯楽、買い物など各地にお出掛けになった方も多かったのではないかと思います。結局のところ、当方はどこへも出かけることなく、唯一3日の晩に義母の世話をしつつ食事に出たぐらいで、後は家でパソコンや資料とにらめっこの毎日でした。テレビのニュースで高速道路の渋滞状況を見て、巻き込まれずに良かったと思う反面、少し寂しい気にもなります。

 

さて、本日は「外様大名」について紹介していきたいと思います。元々「外様(とざま)」とは、封建社会において、主君の親族や一門、譜第(譜代)に対して、繋がりが比較的疎遠にある家臣を指していました。例えば、鎌倉時代の執権北条氏得宗家においては、直臣を「身内人(みうちびと、みうちにん)」と呼んだのに対し、将軍と主従関係にある一般の御家人を「外様」と称していました。また、室町時代には、足利将軍家と元々関係が希薄であった守護大名を「外様衆」と言っていたそうです。この時代において、外様衆は幕政に関わることはほとんどなく、軍事動員などに応じる場合が多かったようです。

 

これが江戸時代になると、関ヶ原の戦いの前後に、徳川氏に臣従した大名を指すようになります。外様大名は、譜代大名と比べ大領を治めることが多いことが分かります。豊臣政権下においては、家康も秀吉の家臣という立場であり、一大名に過ぎなかったわけで、譜代ともなればその一大名の家臣でしかなかったわけです。つまり、外様大名は豊臣政権下では家康と同じ立場にあり、秀吉から各地にそれなりの規模の知行を与えられていたのです。徳川幕府が如何に大きな力を有しようと、広い国土を無難に治めていくには、やはりそれぞれの地に基盤を有していた大大名の力を借りる必要があったわけです。

 

とはいえ、江戸を囲む関東、天皇・公家がいる京、経済の中心地大坂、駿府や尾張など東海道沿いなどの戦略的な要衝に外様を配置することはしませんでした。関ヶ原の戦いで東軍(家康側)についた大名で、要衝の地を治めていた大名は「加増」という恩賞の名の下、僻地へと転封されるなど、大領を治めるきっかけとなったわけです。当初は加増され優遇された外様大名ですが、江戸幕府に警戒され、江戸初期には些細な不備を咎められて改易となる大名も少なくありませんでした。

 

石高の多い順にトップ10〔文久3年(1863年)時点〕の外様大名を挙げてみると、以下のようになります。

①前田家(加賀 金沢藩)  120万石

②島津家(薩摩 鹿児島藩)  72.8万石

③伊達家(陸奥 仙台藩)   62万石

④細川家(肥後 熊本藩)   54万石

⑤黒田家(筑前 福岡藩)   47.3万石

⑥浅野家(安芸 広島藩)   42.6万石

⑦毛利家(長門 萩藩)    36万石

⑧鍋島家(肥前 佐賀藩)   35.7万石

⑨藤堂家(伊勢 津藩)    32.39万石

⑩池田家(因幡 鳥取藩)   32万石

 

江戸幕府の幕政運営に当たり、多少の例外はありますが、原則として外様大名は幕閣の要職には就けませんでした。また、血縁関係や功績により、譜代に準ずる扱いを受けることが許された外様大名がいました。こうした外様大名は幕府に願い出て認められることから、「願い譜代(ねがいふだい)」、或いは「準譜代大名」と呼ばれています。なかには、前回説明した「十八松平」にも名を連ねるような「松平」の名字を授与された大名もありました。主な願い譜代は以下の通りです。

相馬氏 陸奥中村藩 6万石

脇坂氏 播磨龍野藩 5.1万石

加藤氏 近江水口藩 2.5万石

秋田氏 陸奥三春藩 5万石

諏訪氏 信濃高島藩 3万石

戸田氏 出羽新庄藩 6.8万石余

藤堂氏 伊勢津藩  32.3万石

真田氏 信濃松代藩 10万石

 

高見澤

 

おはようございます。連休の谷間のこの2日間、いつものラッシュ時間は普段より空いているようですが、どいうわけか早朝の時間は普段より人が多いように感じます。リックを片手に、器用にスマホをいじくる姿をみると、どうやら登山かハイキングか、朝早くから郊外の山を目指して電車に乗り込んでいるのかもしれません。もちろん座席には余裕をもって座ることができるのですが、混んでいる電車が特に苦手な私としては、普段より混んでいるというだけで、疲れが増してしまいます。

 

さて、本日は前回予告したように、「十八松平」について紹介していきたいと思います。十八松平とは、一般的には徳川家康の出自である「松平氏」の一族のうち、家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の総称のことを指します。一方、江戸時代に、徳川将軍家から公的な文章などで「松平姓」の称号を用いることが許された大名のうち、特に選ばれた18家を指す場合もあり、こちらは「江戸十八松平」と呼んでいます。

 

十八松平の「十八」というのは、「松」の字が「十」、「八」、「公」から構成されていることから「十八公」という意味で付けられた数字で、実際の家の数ではないとする考えもあります。江戸幕府が寛政年間(17891801年)に編纂〔完成は文化9年(1812年)〕した大名や旗本の家譜集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には、江戸時代に存続した14家として「松平庶流十四家」が記されています。

 

十八松平は「三河十八松平」とも称されるます。家康の出自である松平家の始祖とされるのが、室町時代初期の三河国の武将・松平親氏です。その孫である三代当主・信光の三男・親忠が四代当主であると同時に、三河国安祥(あんじょう)城の城主となったことから初代「安祥松平家」当主ともなります。この安祥松平家の流れが徳川家宗家になっていくわけです。

初代:親氏(ちかうじ)

二代:泰親(やすちか)、親氏の子

三代:信光(のぶみつ)、泰親(親氏とも)の嫡男

四代(安祥初代):親忠(ちかただ)、信光の三男

五代(安祥二代):長親(ながちか)、親忠の三男

六代(安祥三代):信忠(のぶただ)、長親の嫡男、家康の高祖父

七代(安祥四代):清康(きよやす)、信忠の嫡男、家康の祖父

八代(安祥五代):広忠(ひろただ)、清康の嫡男、家康の父

九代(安祥六代):家康

 

十八松平には、徳川宗家を含む場合もありますが、先ずここでは家康の祖父・松平清康までの庶家に限定した14家(「十四松平」)について紹介していきましょう。

【三代・信光時代の分家】

①竹谷(たけのや)松平家:信光の長男・守家の流れ。三河吉田藩、後に交代寄合(旗本)

②形原(かたのはら)松平家:信光の四男・与副の流れ。丹波亀山藩

③大草(おおくさ)松平家:信光の五男・光重の流れ。旗本、後に断絶

④五井(ごい)松平家:信光の七男・忠景の流れ。旗本

⑤深溝(ふこうず)松平家:忠景の次男・忠定の流れ。肥前島原藩

⑥能見(のみ)松平家:信光の八男・光親の流れ。豊後杵築藩

⑦長沢(ながさわ)松平家:信光の十一男・親則の流れ。越後高田藩、後に改易

【四代・親忠時代の分家】

⑧大給(おぎゅう)松平家:親忠の次男・乗元の流れ。三河西尾藩

⑨滝脇(たきわき)松平家:親忠の九男・乗清の流れ。旗本、後に駿河小島藩

【五代・長親時代の分家】

⑩福釜(ふかま)松平家:長親の次男・親盛の流れ。旗本、後に断絶

⑪桜井(さくらい)松平家:長親の三男・信定の流れ。摂津尼崎藩

⑫東条(とうじょう)〔青野〕松平家:長親の四男・義春の流れ。尾張清洲藩、後に断絶

⑬藤井(ふじい)松平家:長親の五男・利長の流れ。常陸土浦藩、後に出羽上山藩

【六代・信忠時代の分家】

⑭三木(みつぎ)松平家:信忠の次男・信孝の流れ。旗本、後に断絶

 

上記14家のほかに、親忠の長男・親長の流れを汲む「岩津(いわつ)松平家」、同じく親忠の七男・親光の流れを汲む「西福釜(にちふかま)松平家〔鴛鴨(おしかも)松平家〕」、信忠の三男・康孝の流れを汲む「鵜殿(うどの)松平家」などがありますが、いずれも江戸時代に入る前に断絶していることから、これらの家は十八松下に入っていません。一方、大給松平乗元の三男・乗次の流れを汲む「宮石(みやいし)松平家」や家康の生母・伝通院が久松氏の後妻に入った久松家の流れを汲む「久松(ひさまつ)松平家」は十八松平家に入れる場合もあります。こうした十八松平家は譜代大名、または旗本として扱われています。

 

次に江戸十八松平ですが、こちらは譜代大名8家、外様大名10家が次の通り名を連ねています。

【譜代大名8家】

①奥平松平家(武蔵忍藩-美濃加納藩)、②松井松平家(武蔵川越藩)、③戸田松平家(信濃松本藩)、④久松松平家(伊予松山藩-伊予松山新田藩)、⑤鷹司松平家(上野吉井藩)、⑥本庄松平家(丹後宮津藩-越前高森藩)、⑦越智松平家(上野舘林藩-岩見浜田藩)、⑧松平美濃守家(大和郡山藩、柳沢家)

【外様大名10家】

⑨松平加賀守家(前田藩、加賀藩)、⑩松平陸奥守家(伊達家、陸奥仙台藩)、⑪松平薩摩守家(島津家、薩摩藩)、⑫松平長門守家(毛利家、長州藩)、⑬松平官兵衛(筑前守・甲斐守)家(黒田家、筑前福岡藩)、⑭松平安芸守家(浅野家、安芸広島藩)、⑮松平肥前守家(鍋島家、肥前佐賀藩)、⑯松平因幡守家・松平備前守家(池田家、因幡鳥取藩・備前岡山藩)、⑰松平阿波守家(蜂須賀家、阿波徳島藩)、⑱松平土佐守家(山内家、土佐藩)

 

高見澤
 

おはようございます。時が過ぎるのも速いもので、今日から5月、暦の上では今年は5月5日が立夏で、もう夏の到来といった陽気になっているような気がします。そういえば、このゴールデンウイークは、皆さんどうお過ごしですか? 私はといえば、相変わらず仕事に追われ、連休前半は天気のよい中、家でパソコンや資料とにらめっこでした。連休後半は、家内の母を一時預からなければならず、そのケアもあり、遠出するような時間はなさそうです。時間があれば、江戸散歩にも出かけたいところです。

 

さて、今回のテーマは「譜代大名」です。「譜代」とは、もともとは「譜第」と表記されていたもので、系統正しく継承してきた者という意味で、それが転じて代々世襲的に主人に奉公する者を指していました。奈良時代にはすでに「譜第」という概念があったようで、これが鎌倉時代以降、武士の間で世襲的に主従関係をもつ家臣を「譜第」としていました。

 

江戸時代以降、徳川家臣団の中から特に大名に取り立てられた者を「譜代大名」と称しています。徳川家康が豊臣秀吉から関東に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格として、徳川家を支えとする藩屏としたことが始まりとされています。それ以外の家臣については、徳川家直轄軍に編成され、それが後の「旗本」、「御家人」となっていきます。

 

一般に譜代大名は、関ヶ原の戦い以前に徳川家に臣従して取り立てられた大名を指していますが、旗本から加増されて大名(大岡氏など)になった者、或いは陪臣が新たに取り立てられて大名になった者(堀田氏、稲葉氏、柳沢氏、摂津有馬氏、田沼氏など)もいます。また、本来は譜代大名に定義されるべき家柄であっても、徳川家との血縁を考慮されて親藩扱いされる家(鷹司松平家)、或いは本来は外様大名である家でも血縁関係や功績から譜代扱いされていた「願い譜代(譜代格、準譜代)」と呼ばれる者(真田氏、脇坂氏、苗木遠山氏、戸沢氏、肥前有馬氏、堀氏、相馬氏、加藤氏、秋田氏、藤堂氏など)もいました。

 

譜代と一言でいっても、徳川家に仕えた時期を根拠に分類されています。寛保3年(1743年)に江戸幕府について書かれた『柳営秘鑑(りゅうえいひかん)』では、安祥譜代7家、岡崎譜代16家、駿河譜代のほか、後世追加された家の4種類に分別しています。また、寛永年間(1624年~1645年)に旗本・大久保忠教(ただたか)〔彦左衛門〕によって書かれた家訓書『三河物語』では、安祥譜代、山中譜代、岡崎譜代の3種類に分けられています。最古参とされる安祥譜代は、松平宗家(家康は9代当主)4代・親忠から始まる安祥松平家(家康は6代当主)と親忠の父・信光に仕えた家臣を指しています。山中譜代及び岡崎譜代は、松平宗家7第当主(安祥松平家4代当主)・清康が山中・岡崎を攻略して本領とした時代からの家臣を指します。以下の分類は『柳営秘鑑』によるものです。

 

安祥譜代:酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、上村

岡崎譜代:井伊、榊原、鳥居、戸田、永井、水野、内藤、安藤、久世、三河井上、安倍、秋元、渡辺、伊丹、屋代、平岩

駿河譜代:板倉、太田、西尾、土屋、森川、稲葉、藤堂、高木、堀田、三河牧野、奥平、岡部、小笠原、朽木、諏訪、保科、土岐、稲垣、一色丹羽、三浦、遠山、加賀、内田、小堀、三河西郷、奥田、毛利、山口、柳生、蜂須賀、増山

後世追加譜代:水谷、本庄、加納、有馬、脇坂

松平一門:大給松平、形原松平、桜井松平、滝脇松平、竹谷松平、長沢松平(大河内松平)、能見松平、久松松平、深溝松平、藤井松平

その他:田沼、間部、三河松井、柳沢

 

こうした譜代大名の役割として、最も重要なことは、老中・若年寄をはじめとする幕閣の要職に就くことです。江戸幕府は将軍家の家政機関であるという建前上、こうした要職には、一部例外はあるものの、原則として譜代大名以外からは登用しない不文律の慣行として厳格に守られていました。これは外様だけでなく、親藩についても同様に幕政に参加させることはありませんでした。譜代大名のもう一つの重要な役割は、外様大名の監視です。譜代大名と同じ国内に外様大名が置かれている場合、外様大名が参勤交代で江戸にいるとき、譜代大名は必ず国許に残るようにしていたようです。外様大名が1カ国を知行としている場合は、近隣の譜代や親藩がその役割を果たしていました。ですから、譜代大名は、京・大坂の近辺や外様大大名に隣接した場所など全国の要地とされるところ配置されていました。とはいえ、石高はそれほど大きくはなく、井伊彦根藩35万石を筆頭に5万石以下の小大名がほとんどでした。

 

次回は、「外様大名」に入る前に、譜代と関係のある「十八松平」について紹介しておきたいと思います。

 

高見澤

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