2017年5月アーカイブ

 

おはようございます。今朝の東京は朝からムシムシしており、昨日よりは湿度が高くなっている感じを受けます。5月も今日で終わり、明日からはいよいよ6月ですが、今からこんな暑さだと、本格的な夏到来の時期にはどうなっているのでしょうか?地球規模での異常気象に、現代科学の無力さを実感する今日この頃です。

 

さて、今日も如月の年中行事についてご紹介したいと思います。本日のテーマは「旧正月」です。江戸時代以前の太陰太陽暦が使われていたころの正月と言えば、今でいうこの旧正月のことを指していました。二十四節気の「雨水」直前の朔日を1月1日として、グレゴリオ暦の1月下旬から2月中旬までの間を毎年移動します。ちなみに2017年は1月28日、2018年は2月16日になります。

 

地方も含め、今の日本ではこの旧正月を祝うことはほとんどなくなりましたが、台湾や香港・マカオも含めた中国、韓国、ベトナムなどでは盛大に旧正月を祝っています。中国では「春節(しゅんせつ)」と呼び、年越しの際には家族が集まり、盛大に爆竹や花火を鳴らし、豪勢な食事をしながら過ごします。公式な休日は旧暦1月1日から3日間ですが、前後の土日を振り替えて大晦日から7連休とするのが習わしです。とはいえ、実際に多くの中国人は大晦日の2、3日前から休暇をとり、田舎に帰り、正月の「望の日」である「元宵節(げんしょうせつ)」を過ぎてから職場に復帰するので、春節前後の3週間ほどはほとんど仕事になりません。そして、その時には中国国内で民族大移動が起きるので、空港やターミナル駅は大混雑、飛行機や電車の切符はものすごく手に入り難くなります。

 

江戸の人々がどのように正月を過ごしたかは、すでに睦月の年中行事のところでご紹介したので、ここで改めて説明はしませんが、江戸時代の人たちの正月というのは、この旧正月でした。日本では既に誰も旧正月を気にしなくなりましたが、中国や韓国では今でも独自の文化や風習を大切にしていることの証です。こうした姿勢は、現代の日本人としても学ぶべきではないでしょうか。

 

高見澤

 

おはようございます。暑い日が続きます。身体がまだ夏の暑さに慣れていないので、体調を崩さないよう、こまめに水分補給するなどの体調管理が大切です。それでなくとも、放射能や化学製品によって抵抗力が極端に低下していますので、ご注意ください。

 

さて、本日も如月の年中行事についてご紹介したいと思います。テーマは「年内立春」です。「立春(正月節気)」については、本メルマガで何度も登場しているので、細かくは説明しませんが、旧暦の1日は必ず朔(新月)に当る一方、立春は朔に関係なく定められるため、ほとんどの年は立春と元日が重なりません。それでも約30年に一度は重なる年があり、それを「朔旦立春(さくたんりっしゅん)」と呼びます。

 

以前、既に説明したかもしれませんが、旧暦において「正月」とは二十四節気の「雨水(正月中気)」を含む月とされています。二十四節気と暦は毎年少しずつずれていくため、雨水の前の立春が前年の12月になってしまうことがしばしばあります。これを「年内立春」と言います。『古今和歌集』に、「年の内に春は来にけり、一年を去年(こぞ)とやいはむ、今年とやいはむ」と在原元方(ありわらのもとかた)の歌がありますが、これは年内立春の戸惑いを詠んだものとされています。

 

こうなると、年によっては立春が2回あることがあり、逆に立春がない年も発生します。立春がない年を「盲年」と呼び、結婚を忌み嫌う風習があります。逆に朔旦立春の年は非常に縁起の良い年とされています。近いところでは、盲年は2019年、2021年で、朔旦立春は2038年頃とのことです。

 

年内立春は決して珍しい現象ではありません。いずれも旧暦ですが(新暦ではいずれも2月4日)、2017年は1219日、2018年は1230日がそれぞれ年内立春になり、2017年は1月8日も立春であったため、年2回立春がある年になります。20181230日の後は2020年1月11日ですから、2019年は盲年になるわけです。

 

「春や来し年や行きけん小晦日(こつごもり)」と芭蕉の句があります。旧暦において月末(みそか)は月が籠もる日ということで、「晦(つごもり)」と呼ばれていました。年末は特に「大晦日(おおつごもり)」と言われ、その前日が「小晦日」でした。この句が作成された寛文2年(1662年)は1229日が立春でした。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京都心は朝から雨、梅雨入りも間近といったところでしょうか。昨日は日比谷にある帝国ホテルで勉強会があり、昼を挟んで外出したのですが、湿度が高く汗だくになって事務所に戻ってきました。相変わらず忙しい毎日を過ごしています。

 

さて、如月の年中行事と言えば、何と言っても「節分」を取り上げないわけにはいきません。節分とは、本来であれば季節の変わり目である「立春」、「立夏」、「立秋」、「立冬」の前日を指しますが、一般には立春の前日に節分の行事を行うのが通例です。

 

立春が二十四節気の一つ、「正月節」であることは以前お話しした通りですが、少し詳細に説明しておきましょう。天文学的に言えば、定気法では太陽黄経315度、すなわちグレゴリオ暦では2月4日頃になります。年によっては2月3日や5日になることもありますが稀です。この日から次の節気の「雨水」の前日までが立春になるわけです。この立春は「八十八夜」や「二百十日」、「二百二十日」などの「雑節」の起算日であり、また「春一番」も立春から春分の間に吹く南寄りの強い風を指すなど、季節の節目になる重要な日なので、覚えていても損はありません。

 

節分には、鰯の頭を刺したヒイラギの枝を戸口に立て、煎った豆を撒いて悪鬼や疫病を退散させる習慣があることはご存知のことでしょう。豆まきの風習もまた中国から伝わってきたものと言われており、日本ではもともと宮中行事になったようです。10世紀に書かれた『蜉蝣日記』には、「十二月のつごもりがたに、...儺(な)などいふもの、こころみるを」というくだりがあります。「儺」とは悪鬼のことで、昔は節分の行事を「追儺(ついな)」、「儺やらひ」、「鬼やらひ」とも呼んでいました。「十二月のつごもりがた」は大晦日のことで、立春正月を基本とする旧暦では、豆まきは大晦日に行われるものだったのです。

 

この風習が次第に庶民の間にも広まってきます。年男が「福は内、鬼は外」と言って、煎った豆を撒く厄払い行事は中国の明朝時代の風習で、これが室町時代に伝わったと言われています。ただ、奈良時代にはすでに宮中行事になっていたとの説もあり、どちらが正しいのかは分かりませんが、いずれにせよ宮中行事が庶民の間に広まっていったことは間違いありません。

 

江戸後期の板本『東都歳事記』(天保9年:1838年、須原屋茂兵衛・伊八)によれば、「今夜尊卑の家にていり豆をうち、ひいらぎ鰯の頭を戸外に挿す。豆をまく男を年おとこといふ。今夜の豆を貯へて、初雷の日、合家是を服してまじなひとす。また今夜いり豆を己が年の数に一ツ多く数へて是を服す。世俗今夜を年越しといふ」とあります。今でも節分に豆を撒き、自分の歳より一つ多く食べる習慣は残っています。また、鰯の頭を刺したヒイラギの枝を軒下に吊るした風習があることも、アニメの「サザエさん」などを見ていると出てきますよね。ただ「節分の豆が雷よけのおまじないになる」との話は初めて聞きました。


『東都歳事記』に浅草寺の節分会、亀戸天満宮や雑司が谷鬼子母神の追儺のことなども記されているように、江戸時代には多くの神社仏閣でこうした行事が盛んに行われていたようです。これもまた江戸庶民の生活の楽しみの一つでもあったのでしょう。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ数日は夏を思わせるような暑い日が続いています。もっとも暦の上では既に夏ですが、それにしても5月にしてこの暑さは異常かもしれません。

 

さて、本日は二月の和風月名、「如月(きさらぎ)」についてご紹介したいと思います。如月の語源については、実のところよく分かっていません。中国最古の字書とされる紀元前2世紀頃に成立された『爾雅(じが)』の「釈天(しゃくてん)」編に「二月を如となす」とあり、これが中国での二月の異称であることに由来しているとも考えられます。しかし、「如月(じげつ)」と「キサラギ」の呼び名がどう結び付くのかはまったくもって分からないのです。

 

如月は「衣更着」とも書きます。『竹取物語』に「きさらぎ十日頃...」とあるようですが、「キサラギ」が古代においては極めて用例が少なく、その意味するところもほとんど分かっていません。また、『日本書紀』では、「二月」と書いて「キサラギ」と訓ませているので、「如月」や「衣更着」などの当て字は、かなり後世になってからだと考えれます。

 

このキサラギという呼び名の由来には諸説あります。二月はまだ寒さが残っているので衣(きぬ)を更に重ね着するので「きぬさらにき月」といったのが短くなり「衣更着」になったという説。草木の芽の張り出す月、すなわち「草木張月(くさきはりづき)」が「きはりづき」→「きさらづき」→「きさらぎ」となったという説。旧暦二月はツバメが来る季節なので、前の年の雁に続いてツバメが来たという意味で「来更来(きさらぎ)」という説。陽気が発達する時期だから「気更来」など、ここまで来ると言いたい放題、とったところです。

 

ちなみに、「草木張月」は江戸中期の国学者である賀茂真淵の主張です。次回からは二月の年中行事について紹介していきたいと思います。

 

 

おはようございます。今朝の東京は薄曇りながら日の光が差し込んで、比較的気持ちの良い朝になっています。

 

さて、今日のテーマは「小正月」です。旧暦1月1日を「大正月(おおしょうがつ)」というのに対し、正月15日を「小正月(こしょうがつ)」と呼んでいます。大正月は男性中心の行事が続き、「松の内」は女性が休む暇もないほど忙しく働かなければなりません。そこで、松の内が過ぎた15日に女性が年賀に出向いたり、この日に女性だけが集まって飲食や娯楽に興じる風習があったので、別名「女正月(おんなしょうがつ)」とも呼ばれています。

 

1月1日というのは暦の上での年初です。古来日本では、中国から伝来した立春正月思想が一般的で、その立春が1月1日になるとは限りません。また、日本には「望」、すなわち満月の日(旧暦15日)を正月として祝う風習があり、小正月はその名残だとも言われています。

 

中国では今でも旧暦1月1日を「春節」として盛大に祝います。現在の公休は3日間で前後の土日を調整して7日間の連休にしていますが、元来正月が終わるのは15日の「元宵節」で、それまでの間はゆっくり休むが一般的な習慣です。15日には「団圓」や「元宵」と呼ばれるお団子のような食べ物を食べて正月最後の日を祝います。

 

江戸時代は、年神様や先祖を迎えるのが大正月、家庭的な行事を行うのが小正月として、夏の盆と同様に大切な節目になっていたようです。また、大正月に門松を飾るのに対し、小正月には餅や団子を小さくまるめて柳などの木の枝につけた「餅花(もちばな)〔繭玉(まゆだま)〕」などを飾りました。これは豊作の「予祝(よしゅく)」の大切な行事でもあったので、「花正月」とも言われています。

 

日本では、小正月の麻には「小豆粥」を食べる習慣があります。また、「どんど焼き」と呼ばれる正月飾りや古いお札などを燃やす行事が神社などで行われます。江戸時代の農民は、大正月よりも小正月の方を本来の正月として祝っていたようです。

 

高見澤

 

おはようございます。今日は金曜日、あっという間に時間が過ぎてしまうことに、哀しみを感じる歳になってしまいましたが、それでも気力は十分、色々なことに挑戦していきたい気持ちだけが先行し、中々身体がそれに着いていけないのが残念なところです。

 

さて、本日もまた睦月の年中行事のお話をしたいと思います。テーマは「恵方詣(えほうまいり)」です。以前、本メルマガでも「暦注」の「八将神」のところで、移動する方位神として「歳徳神(としとくじん)〔恵方〕」が尊ばれることを紹介したことがあるかと思います。この歳徳神は正月の神とされ、その年の福徳を司ると言われています。この神がいる方角を「恵方」といい、江戸時代までは年初に居住地からみてその方角にある寺社に参詣するのが一般的な恵方詣でした。今では方角に関係なく詣でる習慣が定着し、「初詣(はつもうで)」とされているので、恵方を気に掛ける風習はほとんどみられません。

 

この恵方は、十干に従って毎年変わります。陰陽道では、方位に十干を配当し、その十干は陽干(甲、丙、戊、庚、壬)と陰干(己、辛、癸、乙、丁)に分けられます。そして、徳は陽干、すなわち「兄(え)」に生じ、陰干、すなわち「弟(と)」には徳がないとされていました。この十干について、甲と己、乙と庚、丙と辛、丁と壬、戊と癸の5組が組み合わせられ、それぞれ2つの干の間には密接な関係があり、それが出会うと合して一体となるとされています。これを「干合」といいます。この干合の関係からその年の「徳神」、すなわち恵方が決められます。ですから陽干の年であれば自らの方角が徳神であり、陰干の年であれば干合する相手の方角が徳神となります。つまり「兄」の方角である「兄方」が縁起をかついで「恵方」となったとも考えれます。

 

今年2017年は十干十二支でいえば「丁酉(ひのととり)」ですから、陰干の年です。その干合する相手は「壬(みずのえ)」ですから、その方角は「北北西やや北」、「亥子(いのこ)」の方角が恵方になります。

 

今年はもう既に正月が過ぎてしまいましたので、今さら恵方詣というわけにもいきません。普段初詣に行っている寺社がその年の恵方にない場合、一旦別の方角に行ってから恵方に向かって目指す寺社に詣でるという「方違え(ほうたがえ)」という方法もあります。信じる信じないは別として、このような風習が江戸時代までは行われていたことを知っておくことも一興ではないでしょうか?

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は、昨日とうって変わって良い天気です。さすがに朝方はまだ冷えますが、日が昇ってくるともう夏という感じです。そろそろ半袖にしようかなとも思ってしまいます。

 

さて、本日のテーマは「松の内」です。これも睦月の年中行事の一つです。門松などの正月の松飾は三が日を過ぎてもしばらくは飾っておきます。この元日から松飾を取り除く日までを「松の内」と言うことは皆さんご存知かと思います。毎年正月になると、豊作や幸福をもたらすとされる年神様が各家にやって来るので、迷うことなく来られるよう目印となる門松が飾られます。やってきた年神様は鏡餅に宿ると言われるので、松の内の間、鏡餅を飾っておくのがしきたりです。

 

この松の内の期間ですが、もともと日本全国では1月15日まで、鏡餅を食べる鏡開きは1月20日とされていたようです。しかし実際には、松の内は地域によって異なり、関東では1月7日、関西では1月15日までとなっています。では、なぜ関東では松の内の期間が短くなったのでしょうか?

 

慶安4年(1651年)420日に、徳川三代将軍・家光が亡くなります。これ以降、毎月20日は家光の月命日となりました。そのため、徳川幕府のお膝元の関東では、「月命日の鏡開き」を忌み嫌い、120日ではなく111日に鏡開きを行うようになりました。もちろん111日は松の内に当りますので、年神様が宿る間に鏡開きを行うことは失礼なので、寛文2年(1662年)に徳川幕府が、17日をもって飾り納めとする通達を出します。これ以降、関東では松の内が17日までとなり、関西では従来通り115日までとなった、という説があります。

 

もう一つの説は、明暦の大火に由来するものです。明暦3年(1657年)11820日までの3日間、江戸の街がほとんど消失するほどの大火災が起きます。これが明暦の大火です。このため、大火災の発生を恐れた幕府が、松飾りなど燃えやすいものは早く片づけるようにとの御触れを出し、それ以降、松の内の期間が短くなったという説もあります。

 

松の内の「マツ」というのは、本来は植物の「松」ではなく、正月の到来を指折り数えて「待つ」という意味だとも言われています。「もういくつ寝るとお正月...」という童謡にもあるように、昔の人もお正月が来るのが待ち遠しかったのでしょうか。

 

この松飾ですが、地方によってはツバキやシキミを飾るところもあるようです。門松は明治以降、東京を中心に広がった比較的新しい風習のようですが、松飾ではなく注連飾り(しめかざり)を付け、松の内を「注連の内(しめのうち)」という地方もあるそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心の天気は小雨がパラパラとした状態です。ここ2、3日は気候の急変による災害も起きていますので、注意が必要です。意識を持った行動に心がけましょう。

 

さて、本日も睦月の年中行事の一つである「人日(じんじつ)」についてご紹介したいと思います。この人日は先般お話しした「五節句」の一つでもあります。旧暦の正月七日を人日としており、文字通り「人の日」を意味しています。

 

この由来を調べてみると、中国の前漢時代(BC206AD8年)の文人である東方朔(BC154BC92)によって書かれた『占書』に、正月一日から六日までを獣畜を占い、七日に人を占う風習があったことが記されており、古来中国では、正月一日を鶏の日、二日を狗(いぬ)の日、三日を猪(ぶた)の日、四日を羊の日、五日を牛の日、六日を午の日、そして七日を人の日としていました。そして、それぞれの日には、その日に該当する動物を殺さないようにしていました。ですから、七日には犯罪者に対する刑罰も行わないようにしていたそうです。この風習が平安時代に日本に伝わってきました。

 

一方、古来日本では、年の初めに雪の間から芽を出した若菜を摘む「若菜摘み」という風習がありました。「君がため、春の野に出でて若菜摘む、わが衣手に雪はふりつつ」という、百人一首でお馴染みの光孝天皇の歌にもありますが、これが、中国から伝来した人日の風習と融合して日本独特の風趣が生まれます。それが人日の日に食べる「七草粥」です。

 

当時、中国では人日の日に7種類の食材が入ったスープである「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」を作って食べる習慣がありました。この影響を受け、日本でも7種類の穀物を塩で味付けした七種粥が食べられるようになりました。それが「若菜摘み」と結びついて七草粥になったと言われています。皆さんの中には七草粥の材料となる春の七草を言える方もいるかと思います。「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」ですよね。

 

先般もご紹介した通り、江戸時代にこの人日が式日として定められました。これによって、七草粥を食べる習慣が庶民の間に定着していきます。旧暦正月七日は、今では2月初旬から中旬です。雪解け間近の雪の間から新たな生命力を持った植物が芽生え、それを旬のものとして食することが人の心身の健康につながっていくと考えられていたのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。ご無沙汰しており、大変失礼致しました。4月中旬から出張が続き、昨年度の事業報告、新年度の事業計画や予算取りなど、朝早くから夜遅くまで、ゴールデンウイークの休日も満足に休めない日々が続きました。瓦版の発信ができず、ご理解の程、よろしくお願い致します。

 

さて、季節もアッという間に「立夏」もすぎて、暦の上では既に夏到来となっていますが、実際の気候も昨日の気温をみてみると関東各地で真夏日となっています。ここ数年、日本でも一年の気温の差が極端に大きくなってきているように感じるところです。これも何か地球規模での大きな変化が起きる予兆なのかもしれません。

 

さて、今日は睦月(1月)の年中行事についてご紹介したいと思います。

1月といえば年初、何といっても「元旦」を迎えるのが、日本人にとって最初の大きな年中行事です。日本では、今は西洋暦(グレゴリオ暦)による1月1日を元日として祝いますが、江戸時代は当然旧暦の1月1日が元日であったことは想像に難くありません。

 

そもそも「元旦」というのは、年初の日「元日」の朝のことを指します。元日は1月1日のことですから、「1月元旦」という必要はありませんし、「旦」は朝のことですから、「元旦の夜」という言い方も変です。言うならば「元日の夜」という言い方でしょうね。

 

新年は「新春」とも言います。年賀状には、「賀春」、「迎春」、「頌春」といった言葉が使われますよね。これは、旧暦においては、新年を迎えることは「春を迎える」ことという説明で、何となく分かったような気になります。しかし、旧暦の元旦といっても新暦の1月中旬から2月初旬の頃ですから、まだまだ寒さは厳しく、「春」というにはまだ程遠い感じがします。それでは、なぜ新年を春というのでしょうか?

 

それは、日本が中国の暦法である「儀鳳暦」を施行したことが始まりと言われています。この「儀鳳暦」は唐の「麟徳暦」のことで、当時、唐では「立春正月思想」とされており、その考え方も暦法と一緒に渡来したということなのです。「立春」は二十四節気のうちの一つであることは、以前この瓦版でご紹介した通りです。

 

江戸時代、庶民は大晦日の晩は寝なかったようです。寝ないから「除夜」という説もあるようですが、有力なのは「古い年を押しのけて、新年を迎える夜」という説だそうです。除夜の鐘とともに年越し蕎麦を食べ、初日の出を拝むのが庶民の元旦の楽しみの一つであったようです。初日の出を拝む場所としては、深川洲先(須州)、芝高輪、築地等の海岸や駿河台、お茶の水、日本橋周辺が有名だったとのことです。

 

一晩寝ないと、さすがに元日はもっぱら寝ることになります。そして正月二日から正月行事が始まります。江戸時代中期には「初夢は二日の晩の夢」とされていたようですが、今の初夢は元日から翌二日に見る夢を指しています。

 

一方、公家や武家では除夜を行わず、元旦から何かと儀式があって休めなかったようです。天皇は四方拝を行うことになっており、元日節会で宮中や殿中に出仕していたとのこと。何となく自分の生活を顧みているような気にもなります...

 

今ではもう廃れたというか、物理的にできなくなりましたが、元旦の水汲みである「若水迎え」という習慣もありました。元日の早朝に、なるべく遠くへ水を汲みに出かけ、途中で人に会っても口を聞いてはならず、汲んできた水、即ち「若水」を年神様に備え、雑煮やお茶に使って邪気を祓っていたとのことです。今でも地方によっては残っているところもあるようですが、水道が普及した現代ではなかなか考えられない風習です。

 

高見澤

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