2018年1月アーカイブ

 

おはようございます。先週は水曜日から北京に出張しており、一昨日の土曜日の夕方の便で帰国しました。お知らせもせず、瓦版をお休みしてしまい、失礼しました。明日、明後日と午前中に立ち寄りがあり、直接事務所には来ませんので、瓦版もお休みさせていただきます。

 

さて、本日のテーマは「人生儀礼」の中でも、まず生まれる前に行われる「安産祈願」について紹介していきたいと思います。安産祈願は、「着帯祝い」とも呼ばれ、妊娠5カ月目(1619週目頃)の「戌の日」に、安産を祈って腹帯を神前に供え祈祷を受ける儀式のことです。この日から妊婦は腹帯を巻き始めることになります。

 

戌の日に行うのは、犬はお産が軽く、多産であることにあやかる意味があります。戌の日に腹帯を締め、赤ちゃんの健やかな成長と無事な出産を願って安産祈願を受けるというわけです。お腹に巻くこの腹帯のことを「岩田帯(いわたおび)」と言います。岩田帯の語源は、穢れや災いから身を守る「斎肌(いはだ)帯」からきていると言われ、岩のような頑丈で強い子供になるという願いが込められています。また、結んだ帯を肌に着けた「結肌(ゆいはだ)帯」が語源だという説もあります。

 

この安産祈願の歴史は古く、『古事記』には、神功皇后が三韓征伐に赴いた際に懐妊中であったために、途中で産気づくことがないよう、また帰国して無事出産できるようにとの願いから腹帯を巻いたと記されていて、これが腹帯を巻く始まりと考えられています。平安時代にはすでに宗教儀式となっていました。皇室では8世紀奈良時代にはすでに記録が見られ、現在でも「着帯の儀」の名称で行われていて、5カ月目の戌の日の「内着帯」と9カ月目の戌の日の正式な「着帯の儀」からなります。

 

一般庶民にこの着帯が広がったのは江戸時代で、その頃までは今のような妊娠検査もなく、妊娠を知らずに流産してしまうことも少なくなかったようです。そのため、江戸時代の庶民は胎児が着帯するまでに無事育ったことを大いに喜んだのです。妊婦の家では着帯の日に赤飯を炊いて近所の村人を集め、お腹の子供を村落の一員として認めてもらい、村の有力者や本家の家長、妊婦の実家などから帯が贈られました。江戸時代には、一人の人の人生はこの安産祈願、着帯祝いから始まっていたのです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。それにしても東京都心でも昨日はよく雪が降りました。昼過ぎから外出したのですが、最初みぞれ交じりの雨だったのが、帰る頃には大きな雪粒で一面真っ白、地下鉄も早期退社のサラリーマンやOLで混み始めていました。ニュースやツイッター情報で混み具合を確認しつつ、夜7時半頃に地下鉄で返りましたが、電車は遅れているものの帰宅ラッシュは一段落したようで、電車内は比較的すいていました。今朝はまだ雪が残っていますので、車の運転や歩行には注意が必要です。

 

さて、本日からは「人生(家庭)儀礼」なるものに焦点を当ててご紹介してきましょう。人生儀礼は「通過儀礼」とも言い、出生、成人、結婚、死など、人が生まれてから死ぬまでの成長過程における節目に、神々への感謝や祈願、家庭でのお祝いを行うなどの儀式を指します。

 

こうした儀礼はいずれの世界でも行われており、形や方式は違えども人類共通の儀式として行われています。古来、日本でも伝統行事の一つとして、それぞれの節目に過程で祝い、これまでの無事を感謝して氏神や崇敬する神社で祈願を行ってきました。

 

この人生儀礼の中には、年中行事のところでご紹介したテーマもありますのでそれは省きますが、江戸時代との関係を念頭に置きながら(といっても自然と江戸時代につながってしまうのですが...)解説していきたいと思いますので、暫くお付き合いください。

 

高見澤
 

おはようございます。先週土曜日、家内と長女を引き連れて江戸城の門めぐりをしてきました。江戸時代にはたくさんあった門も、いまでは11カ所を残すのみで、地名として残ってはいても実際の門はすでにありません。11カ所の門のうち、公開されて一般的に中に入ることができるのは6つの門です。皇居をぐるりと一周することになり、2時間弱の行程てすが、いろいろと楽しむことができました。その際使った資料を添付しておきますので、興味のある方はご覧ください。

 

さて、本日は、前回お知らせした通り、定気法が生み出す矛盾、すなわち「旧暦2033年問題」について説明していきたいと思います。

 

前回、定気法は実際の太陽黄経に基づいて節気を決めていることから、平気法によるすべての中気が太陰太陽暦における月と対応し、中気を含まない月を必ず閏月とする」というこの対応関係が崩れ、「定気法では、いくつかの月が中気を含めばよいと定義することで、中気を含まない月であっても閏月とならない場合が認められることになります」と説明しました。つまり、原則となる何カ所かの中気を定めることで、中気を含まない月でも閏月とならずに月が定められたり、ひと月に中気が2回あっても同様に月がどちらかに対応するよう決めたりすることができるようになります。



ご存知の通り、月は地球の周囲を公転しています。地球から見て太陽と同じ黄経の瞬間を「朔(さく)」といって「新月」になることは、以前にも紹介した通りです。朔を含む日をその月の1日とし、朔からその次の朔までの時間を「朔望月(さくぼうづき)」と言って、その時間は29.531日になります。このことから、旧暦の1カ月は29日または30日になります。夜間照明が月しかない時代、月の形を見て日付を知る太陰暦に方が太陽暦よりも便利だったのです。そこで、旧暦(天保暦)の月名を決める法則として、以下の条件が定められました。



①1カ月は月の満ち欠け(朔望月)によって29日または30日とする。

②1年は12カ月または13カ月である。13カ月ある月は閏月がある。

③二十四節気を中気と節にし、交互に配置する。

④中気のない月を閏月とする。

⑤春分を含む月は2月、秋分を含む月は8月、夏至を含む月は5月、冬至を含む月は11月とする。



朔望月である月の公転周期が29.531日であるのに対し、中気と中気の間は365.2422日÷12カ月→30.437日となり、朔望月より長くなります。つまり、1朔望月の間に中気を含まない月ができるので、その月が閏月となるわけです。メトン周期によると、19年に7回の閏月が入る計算になります。



これだけだと、時間分割する平気法では問題は起きないのですが、定気法では中気と中気の間が一定ではなく、1朔望月より短くなることがあり、天保暦では常に30.437日間隔で中気がやってくるわけではなく、多少の増減が生じます。つまり、1カ月の間に2回中気が入る月が出て来るのです。



そこで、定気法に従って2033年の朔の瞬間の日付・時刻を示してみます。それぞれの月名を仮にAHとし、先の①~⑤までの法則で具体的な月を配置してみましょう。



 月   朔の時刻       含まれる中気とその時刻(グレゴリオ暦)

A  2033/05/28 20:39   夏至  06/21 10:03

B  2033/06/27 06:09   大暑  07/22 21:55

C  2033/07/26 17:14   処暑  08/23 04:04

D  2033/08/25 06:41   (無し)

E  2033/09/23 22:41   秋分  09/23 01:53

F  2033/10/23 16:30   霜降  10/23 11:27

G  2033/11/22 10:40   小雪  11/22 09:15、冬至  12/21 22:44

H  2033/12/22 03:48   大寒  2034/01/20 09:25

 

以上のAH月を先の条件①~⑤に従って配置すると以下の通りになります。

A月は中気である夏至を含むので5月(⑤)

B月は次の中気である大暑を含むので6月(元々の決まり)

C月はその次の中気である処暑を含むので7月(元々の決まり)

D月は中気がないので閏7月(④)

E月は初日の午前中に秋分があるので8月(⑤)

F月はその次の中気がある霜降を含むので9月(元々のきまり)

G月は元々の決まりに従えばその次の中気である小雪を含むので10月ですが、⑤に従うと中気である冬至を含むので11月にしなければなりません。

H月は冬至の次の中気ですから⑤に従えば12月となります。

 

つまり、G月には小雪から冬至までの間隔が1朔望月より短くなるので2つの中気が含まれることになってしまうのです。本来、1年が12カ月なのに中気のない閏月が入るために、存在できない月名が生じてしまいます。これが旧暦2033年問題と言われるものです。この解決方法として、同じ定気法を採用している中国の時憲暦での方法、すなわち冬至を含む月から次の冬至を含む月までの間に13カ月ある場合、中気が入らない最初のつきを閏月とする決まりに従う方法があります。また、冬至を優先するか、或いは秋分を優先するかによっても閏月の入り方に違いが出てきます。まあ、これは決めの問題であって、一つ決まりを追加すれば解決する問題でもあり、そう深刻になる必要はないかもしれません。

 

ちなみに、平気法では中気と中気の間が1朔望月より短くなることはないので、順番通り中気を置いていくと次のようになります。

A月→5月(夏至)

B月→6月(大暑)

C月→7月(処暑)

D月→8月(秋分)

E月→9月(霜降)

F月→10月(小雪)

G月→11月(冬至)

H月→閏11月(無し)

高見澤 
 

おはようございます。相変わらず寒い日が続きます。私の喉の調子も大分良くなりましたが、まだ完全に治ったわけではありません。今冬の風邪はかなりしつこいので、気をつけてください。私などからすれば、むしろ一気に高熱を出してデドックスしてしまった方が良いのではないかと思うくらいです。

 

さて、暦の話も、長らく年中行事についてお話してきましたが、年中行事はここに紹介したものに限らず、各地方で江戸の昔から伝わる独特の祭祀や風習がたくさん行われています。それぞれに何らかの意味があり、長く続けられてきているものと思いますが、最近では生活スタイルの変化で衰退していくものも少なくありません。また、せっかく伝統を伝えているにもかかわらず、人々の意識の低さによって不祥事が起きている現実も嘆かわしいと思わざるを得ません。今こそ原点に返って、人間の存在というものをもう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか。

 

さて、説教じみた話はこれまでとして、しばらくは暦に関する補足説明をしていきたいと思います。

 

本日のテーマは「平気法(へいきほう)」と「定気法(ていきほう)」です。これは何かというと、旧暦における二十四節気の配置方法で、平気法が節気間の時間を均等に24分割するのに対し、定気法は黄道を24分割して節気を配置するものです。

 

先ず平気法ですが、これは「恒気法(こうきほう)」とも呼ばれ、時間を分けることから「時間分割法」という言い方もされます。冬至から翌年の冬至までの時間(1太陽年、365.2422日)を24等分すると、二十四節気の時間間隔は15.218日となります。基点として冬至を11月に固定し、15.218日ごとの分点に節気と中気を交互に配置し、各月には必ず中気が含まれるようにします。しかし、太陽年による1年と月齢による旧暦12カ月との間に差が生じているので、中気が含まれない月が出てきます。旧暦では、これを「閏月(うるうづき)」としています。

 

これに対して定気法というのは、太陽の天球上の通り道である黄道と天の赤道の交差点である春分点を基点として24等分して導き出された15度ごとの黄経上の特定の点を太陽が通過する日に、節気と中気を交互に配置していく方法で、「空間分割法」とも呼ばれています。この方法では、太陽を回る地球の軌道が楕円形であるため、節気間の日数が不均等になります。冬至のころは地球が公転軌道上の近日点に位置するため、太陽が黄経上の15度を移動する速度が速くなり節気間の日数は14日余り、逆に夏至のころは移動速度が遅くなり16日余りとなります。日数が不均等になる不便さはありますが、太陽の実際の位置を反映するため、それによるメリットも少なくありません。

 

平気法では、すべての中気が太陰太陽暦による月と対応し、中気を含まない月を必ず閏月として設定することができますが、定気法ではこのルールが崩れます。節気間の日数が不均衡になるため、ひと月の中に中気が2回含まれることや、逆に中気を含まない月が増えてしまうこともあります。そこで、定気法では、いくつかの月が中気を含めばよいと定義することで、中気を含まない月であっても閏月とならない場合が認められることになります。

 

昔の暦は平気法が一般的でしたが、日本では江戸時代の天保暦〔弘化元年(1844年)〕から定気法が採用されましたが、中国では清の時憲暦(1644年)から定気法が取り入れられています。現在でも二十四節気はこの定気法に基づいて決められています。

 

次回は、この定気法が生み出す矛盾、「旧暦2033年問題」についてお話ししたいと思います。

高見澤

 

おはようございます。昨日の雨も上がり、今日の日中はかなり暖かくなるとの天気予報でした。いつになく寒暖の変化が激しいような今期の冬なので、体調管理には十分お気を付けください。

 

さて、本日は師走の最後のテーマとして、「除夜の鐘」について紹介していきたいと思います。前回のテーマである「大晦日と年越しそば」のところで、「除夜」について少し触れましたが、旧年1231日の夜と新年1月1日の境の時間が「除夜」です。大晦日は朝から正月を迎える準備で大忙しですが、夜になると準備も整い家族そろって年越し蕎麦を食べながら除夜の鐘を聞き、新しい年を迎えるというのが、日本の年中行事の締め括りとなっています。

 

この除夜という考え方ですが、これもまた中国から伝わってきたもので、古来中国では、除夜はもともと収穫感謝の祭りの日である冬至の前夜のことでした。日本では、藤原北家魚名流の嫡流である四条家の『四条家年中行事』に、除夜に「追儺(ついな)」が行われたことが記されていることから、古くは宮中、貴族の間で悪鬼を祓う行事が行われていたことが分かります。これが次第に庶民の間にも年越しの行事として広がっていったのではないかと思われますが、定かではありません。

 

この除夜の鐘ですが、何時頃から始まったのでしょうか? 元々、鐘というのは人々に時を知らせたり、集合の合図を告げつために鳴らされたものです。除夜の鐘といえば、108回つくものとされていますが、この108の鐘は中国の唐代(618907年)の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい、720814年)が制定したものと言われています。ただ、除夜の鐘については宋代(9601279年)頃に起源があるとされ、これが日本に伝わってきたのは鎌倉時代(11851333年)のようです。

 

この除夜の鐘は、確かに108ということで一般的には知られているところです。しかし、108の鐘は除夜だけとは限らず、寺院では朝夕108回鐘を鳴らすのが原則としているとのことで、普段は略して18回に留めるのが通例だそうです。暁に鳴らすのは眠りを戒め、暮に打つのは目のくらんだ迷いを覚ますためだと言われています。

 

鐘を108回も打つとなると、それを数えるだけでも大変な作業になります。そこで、鐘を数えるのに数珠を使ったり、108個の豆を用意したりします。数珠は108個の木槵子(もくげんじ)の実を貫き通して作られます。

 

鐘をつく前後には必ず鐘に向かい、合掌礼拝してから撞木(しゅもく)を握ります。そして107声までは旧年中に、残りの最後の1声は新年につき、1声は最後の宣命、新年を迎える最初の警策となります。庶民はこの108声の除夜の鐘を聞きながら、煩悩解脱、罪業消滅を祈ります。

 

ところで、108回という数ですが、一説には新しい年の無病息災と豊作を祈念する中国の儒教思想から来たものという見解もありますが、一般的には仏教の教えに基づいていると考えられています。仏教では、そもそも人間の心身を苦悩させる煩悩は108種あるとされています。6つの感覚である六根「眼、耳、鼻、舌、身、意」が識別の対象である六塵(ろくじん)「色、声、香、味、触、法」と関係するときに、それぞれ平(苦楽)、不苦(好)、不楽(悪)の3種類の状態があって、18種の煩悩になり、これを染(汚い)と浄(きれい)の2種類に分けて36種、さらにこれを過去、現在、未来という時間軸に分けると108種になるという計算です。この他にも、1年の月数である12と、二十四節気の24、七十二候の72を合計したものとする説もあります。

 

除夜の鐘は、この108種の煩悩を除く意味を込めて108回つくとされ、凡夫の罪業消滅の意を込めるので『般若心経』や『観音経』などの経を唱えながら、心清らかに撞木を打つことになっています。

 

ちなみに鐘には、梵鐘(ぼんしょう)と喚鐘(かんしょう)の二種類があります。梵鐘は「大鐘」、「釣鐘」、「鯨鐘(げいしょう)」などとも呼ばれ、銅と少量の錫・亜鉛などで鋳造され、一般的には高さ150200センチ、直径は6090センチのものが多いようです。一方、喚鐘は梵鐘を小型にしたもので、「半鐘」とも呼ばれ、高さ5060センチ、直径30センチくらいのものが多く、仏堂内に吊り、法会や座禅の開始などに用いられます。

 

日本に初めて鐘がもたらされたのは、欽明天皇23年(562年)8月に、大将軍大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が高麗に遠征した折、多くの品々とともに、三口の銅鋳鐘を戦利品として持ち帰ったときとされています。日本で鋳造された鐘で、現存する最古のものは文武天皇2年(698年)のもので、京都妙心寺にあります。

 

大晦日の夜に長く起きていれば長生きできるとの言い伝えもあり、また、除夜には人間ばかりでなく、牛や馬、道具にまで仏心を及ぼして休ませ、年取りをさせる風習もあります。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京の天気予報は昼前頃から雨とのことで、今のところはまだ降り出してはいません。特に冬は乾燥していますので、少しはお湿りがあった方が喉の調子には良いかもしれません。

 

さて、1年の最後の「晦日(みそか)」、1231日のことを「大晦日」ということは、皆さんご存知のことと思います。もっとも天保暦以前の旧暦では1230日、または29日であったわけですが、新暦では12月が大の月として固定されたので、1231日となりました。毎月の晦日を「つごもり」とも呼び、大晦日は「おおつごもり」とも称しています。

 

大晦日は1年最後の日であることから、一般家庭では、大掃除や正月用商品の購入、門松、注連縄(しめなわ)や鏡餅など正月飾りの準備が行われ、商店街も慌ただしくなります。江戸時代の大晦日の日は街中の人通りも多く、朝早くから夜遅くまで活気にあふれていたようです。あちらこちらに歳の市が立ち、商家では新しい暖簾がかけ替えられ、暗くなると軒提灯や高張提灯が掲げられるなど、夜遅くまで賑わいをみせ、街中を借金取りが駆け回っていました。また、宮中では、大晦日には「節折(よおり)」の式、大祓、除夜祭が執り行われ、神社では大祓の神事が行われていました。

 

大晦日から元旦までの間に行われるのが「年越し」です。年越しの境目が「除夜」となります。除夜については、次回詳しく紹介したいと思いますが、この年越しは、昔は年が一つ増えることから、「都取り」とも言いました。また、1年の変わり目であることから「大歳(おおとし)」、「年の夜」とも言われます。

 

年越しの際に、家族が寄り集まって蕎麦を食べながら年を越す習慣があります。これが「年越し蕎麦」です。蕎麦粉で作った麺は、本来は「蕎麦切り」と言っていました。この年越し蕎麦の習慣は、江戸中期の元禄年間(16881704年)と言われていますが、定かではありません。もともとそれ以前には、月末に蕎麦切りを食べる風習があったようで、1年の最後に食べる風習だけが年越し蕎麦として残ったものとして考えられています。

 

蕎麦を食べるのは、蕎麦が細く長い食べ物であることから、「細く長く」ということで、家運や寿命が長くなることに通じるためとも言われています。また、蕎麦が五臓の汚れを取り除くとされ、無病息災を祈るところからきたという説もあります。蕎麦には粘着力があって、江戸の職人たちは大晦日の大掃除のときに、蕎麦を練った団子を持って、部屋の隅々の小さなゴミや埃を取っていました。特に金銀細工を生業としている職人にとってはこの方法が珍重され、大晦日に限らず金粉銀粉をかき集め、それを七輪や火鉢の上で焼いて灰にすると、金や銀の粉だけが残るという訳です。「蕎麦は金を集める」といった諺もあるそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日から、日本の国技とされる大相撲の初場所が始まりました。横綱日馬富士の暴力事件や立行司式守伊之助のセクハラ事件など、ネガティブな話題で大荒れの相撲界でしたが、何とか無事に初場所を迎えることができました。神社での宮司殺害事件など、日本の伝統を守るべき世界でのこうしたトラブルは、まさに今の日本を象徴しているのかもしれません。

 

さて、本日のテーマは秋田県男鹿半島の村々に伝わる奇習、「男鹿のナマハゲ」を取り上げたいと思います。毎年1231日の大晦日の晩になると、男鹿半島周辺地域では、それぞれの集落の青年たちが「ナマハゲ」と呼ばれる鬼に扮して、「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」、「ここの家の嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら家々を巡る風習があります。この風習は昭和53年(1978年)に「男鹿のナマハゲ」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 

このナマハゲは、本来は鬼ではなく、怠け心を戒め、無病息災や田畑の実り・山の幸・海の幸をもたらす来訪神であるとされています。片手に包丁、もう一方の手に手桶などをもって家々を訪ね、ウォーウォーと奇声をあげると、正装した家の主人がナマハゲを迎え入れます。家に入ったナマハゲは、先ず神棚に礼拝した後、家の中の子供や嫁を諌めながら躍り上がって歩き回り、酒と餅が供されると、酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家に向かいます。

 

男鹿市内のナマハゲの行事は、江戸時代には旧暦の小正月、1月15日に行われていましたが、明治の改暦で新暦1月15日に実施されるようになり、戦時中は一時中断され、戦後になって2週間ほど前倒しされ大晦日に行われるようになりました。

 

ナマハゲの語源ですが、冬、仕事もせずに囲炉裏で長く火にあたってばかりいる怠け者には、手足に火斑(ひだこ)がつくと言われ、この火斑のことを男鹿の方言で「モナミ」と呼んでいます。怠け心を戒めるための「モナミ剥ぎ」が「ナマハゲ」になったと言われています。ナマハゲの持つ包丁は、このモナミを剥ぐための道具というわけです。

 

このナマハゲの起源については「漢の武帝説」、「修験者説」、「山の神説」、「漂流異邦人説」など諸説が語り伝えられています。漢の武帝説というのは、中国の漢の時代、武帝が不老不死の薬草を求めて男鹿にやってきた際に、従えていた5匹のコウモリが鬼に変身し、正月15日だけ休みをもらい村里に降りてきて作物、家畜、娘をさらい、暴れ回っていたのを、村人が知恵を使って追い返したという話が基になったものです。修験者説は、修験道の霊場として有名な男鹿の本山・真山で修行していた修験者の凄まじい姿をナマハゲとして考えたというものです。山の神説は、遠く海上から男鹿を望むと、日本海に浮かぶ山のように見え、その山に村人の生活を守る山の神が鎮座するところとして畏怖され、山神の使者がナマハゲであるというものです。漂流異邦人説は、男鹿の海岸に漂流してきた異国の人の姿・言語に驚きナマハゲとした説です。

 

ナマハゲに関する記録で最古のものは江戸時代の紀行家、菅江真澄〔宝暦4年(1754年)~文政12年(1829年)〕が文政5年(1822年)に秋田藩の藩校・明徳館に献納した『菅江真澄遊覧記』の「牡鹿之家かぜ」で、そこには文化8年(1811年)1月15日に男鹿の宮沢で行われた小正月行事としてナマハゲのモナミハギの様子が絵とともに詳細な解説が記されています。

 

このナマハゲの行事も、少子高齢化や生活スタイルの変化などによって後継者が不足し、年々行う地域も減ってきているようですが、地元自治体などではナマハゲを観光化するなど、保存に向けた動きもみられます。

高見澤

 

 

おはようございます。時の経つのも速いもので、年が明けてからすでに半月が過ぎようとしています。瓦版のテーマもいよいよ年末の話題になってきました。師走の話題も残すところあとわずかです。

 

さて、年末ともなると、我が故郷の佐久ではどこの家庭でも正月用の「餅つき」が年中行事の一つとして行われていました。私の実家でも大きな木の臼と杵があり、昨年亡くなった父が杵を振り上げて餅をついていたのを思い起こします。もちろん糯米(もちごめ)も自分の家の田んぼで植えており、育ってくると粳米(うるちまい)の稲とは一目で違いが分かるように一角を成していました。その餅つきが、子供にとってはまた一段と楽しい年末の行事でもありました。

 

この餅つきの起源は定かではありませんが、日本で稲作が興ったのは弥生時代といわれており、これもまた中国から伝来したものです。6世紀頃の遺跡からは蒸し器のような道具も見付かっていることから、すでに古墳時代には餅をつく風習があったものと思われます。古来日本では、餅はハレの日の食べ物として尊ばれており、「餅信仰」ともいうべき餅にまつわる昔話や伝統行事がたくさんあります。

 

江戸時代、師走も押し迫ると、江戸では町々で餅つきの光景が見られました。武家や大店(おおだな)、農家では昔から臼と杵で自分の家で餅をついていましたが、庶民の間では「餅つき屋」に頼んでついてもらうことが多かったようです。餅つき屋は臼、釜、蒸篭、杵、薪などの道具を担いで餅つきをして歩く業者で、一般的には4~5人でチームを組み、注文のあった家の前で威勢よく餅をついていました。これを「引き摺り餅(ひきずりもち)」と呼びます。この商売は明治時代まで続いていました。また、糯米を餅屋に渡してついてもらう「貸餅」というのもあったようです。

今では、自分の家で餅をつくことがほとんどなくなりました。正月用の餅もスーパーで買い求めることが主流になっています。佐久の我が実家でも、母が元気だった四、五年前までは自分の家で餅をついていましたが、今ではそれを受け継ぐ人もいなくなりました。秋田市周辺では、包みに入った平べったい大きな餅が毎年年末になると登場してきます。「のし餅」と呼ばれる餅ですが、秋田ではお汁粉としてたくさん食べる習慣があるそうで、切り餅ではなく、こうした巨大なのし餅が必要になるとのことです。

 

うどん屋のメニューとして、餅入りのうどんを「力うどん」として食べさせてくれるところがあります。餅は高カロリーなことから、昔から力の出る食べ物の代表格として、力仕事をする際にはよく食されていました。江戸時代の峠の茶屋でも「峠の力餅」なるものがあり、山越えをする旅人にも提供されていました。また、産後の滋養食や夏バテ対策の「土用餅」としても食されていました。

 

子供が満1歳を迎えた誕生日に一升餅を背中に背負わせ、部屋を一回りさせる風習が残っている地域がありますが、これはそうすることで、幼児の足腰が鍛えられ、しっかりと成長するようにとの願いを込めて行われる「力餅信仰」の一種とも考えられます。かつて、餅をつくこと自体が神様を招く行為であり、ひと臼目で神への供え餅を作るのが習わしでした。正月に飾るお供え餅として、その風習が受け継がれています。

 

ところで、昔から1229日だけは餅をつくこと、買うことを避ける風習があります。これを「苦餅」というそうで、「九」と「苦」の音が同じことから、一種の神事として捉えられていた餅つきも29日を忌み嫌うようになったのかもしれません。先ほどの秋田ののし餅のスーパーでの売れ行きも29日は若干落ちると言われています。

 

高見澤

 

おはようございます。相変わらず寒い日が続きます。仕事の量も相変わらず減りません。今年度事業もある程度目途がついたと思うと、もう来年度に向けて新たな事業計画と予算取りに走り始めなければならない時期になっています。

 

さて、本日は「冬至」について紹介していきたいと思います。 ご存知の通り、冬至は二十四節気のうちの第22番目、11月の中気に当り、天文学的には太陽黄経270度のときを指します。新暦では122123日頃になります。1年で最も南にある日で、夏至とは反対に日照時間が最短で、夜が最も長くなる日です。

 

冬至は太陽の力が一番弱まった日と考えられ、この日を境に再び力が甦ってくることから、太陽が生まれ変わる日と捉え、昔から世界各地で冬至の祝祭が行われていました。太陰太陽暦では、冬至が暦の起点ともなっています。中国や日本では、冬至が「陰」の極みとなる日で、翌日から再び「陽」に転じると考えられ、これを「一陽来復(いちようらいふく)」と表現しています。つまり、運が上向く日というわけです。

 

中国でも昔から「冬至節」として、これを祝う風習があります。暦の起点である冬至ですから、中国の歴代の皇帝も天を祀る儀式を行う大切な日であったのです。北京にある天壇公園は、明朝、清朝の皇帝が正月と冬至に天を祀る儀式を行った場所です。皇帝は「天子」であり、天命として天の動きを司る能力を持つ者とされ、暦作りは天子が天子たることを人民、並びに周辺諸国に示す必要がありました。こうした中華と周辺隣国との関係を「冊封(さくほう)」という言葉で表します。元々「冊」とは「本」、すなわち「暦の本」のことで、中国の周辺隣国は「冬至使」と称する使者に貢物を持たせ、天子のところに出向させ、天子への謁見が叶うと、貢物の返礼としてそれに勝る下賜物と「冊」を受け取っていました。

 

日本でも暦の作成は重要視され、江戸時代も朝廷と幕府でそれぞれ暦を編纂していたことは、以前にもご紹介した通りです。日本では、冬至の日には粥を作り、コンニャクやカボチャを食べたり、冷酒を飲んだりするなど、特定の食べ物を食する習慣が残されています。冬至に食べる粥のことを「冬至粥」と言い、小豆を入れたお粥で、小豆の赤が太陽を意味する魔除けの色で、厄払いの意味が込められているとのことですが、中国や韓国でも小豆入りの団子汁を食べることから、本格化する冬に備えて栄養価の高い小豆などの食べ物をとり、風邪などひかないようにする薬喰の風習とも考えられます。カボチャはカロチンやビタミンなどの栄養が豊富で、長期保存がきくことから、緑黄色野菜の少ない冬にはうってつけの食べ物です。これを冬至に食べると、風邪や中風(脳血管疾患)に罹らないとも言われています。

 

冬至のもう一つの習慣として、風呂に柚を入れて入浴する「柚子湯」があります。お風呂の湯に、柚子の実の輪切りや皮を浮かせて入浴するもので、柚子湯に入れば、柚子の香りがして心が静まり、身体が温まって風邪を引かないとか、霜焼けにならないとか、無病息災の効果があると信じられていました。柚子はミカン科の常緑樹で、初夏に白い花が咲き、冬に黄色い実がなります。酸味が強すぎて生食にはしませんが、皮が芳香があるので、鍋物などにはよく使われます。この強い香りが邪気を祓うとの考えもあり、また柚子(ゆず)→「融通」がきく、冬至→「湯治」に通じて縁起も良いとされていました。確かに、柚子には血行を促進して身体を温め冷え性を緩和したり、果皮に含まれるクエン酸やビタミンCによる美肌効果もあるようです。お風呂好きな日本人にとっては、もってこいの年中行事ともいえるでしょう。

 

高見澤

 

 

 

 

 

 

 

 

おはようございます。今朝の東京は晴れてはいますが、冷え込んでいます。年末に引いた風邪も咳が中々治らず、マスクが欠かせない日が続いています。身体自体は丈夫なようで、熱も出ないことから満足に休みを取ろうという気もおきません。

 

さて、本日は年末恒例、歌舞伎の「顔見世興行」について、紹介したいと思います。この顔見世興行は、歌舞伎で年1回行われる年中行事の一つで、古くは「顔見世芝居」とも言われています。その起源は明らかではありませんが、17世紀中頃から始まったようで、京、江戸、大坂ともに万治(16581660年)、寛文(16611672年)の頃にはこの顔見世が確立されていたとのことです。

 

江戸時代の歌舞伎興行は、役者、作者、囃子方などの座員の雇用期間が、いずれも満1カ年と定まっていて、その1年の興行は11月に始まり、翌年の10月には終わっていました〔上方では宝暦期(17511763年)より12月に始まり、翌年11月に終わるようになった〕。つまり、新規契約による新たな役者の顔ぶれを披露する第1回目の11月の興行を「顔見世」と呼んだのです。


 

現在、京都南座では12月、東京歌舞伎座では11月に、それぞれ顔見世興行が行われています。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は朝晩は冷えたものの、昼間はかなり気温が上がった東京ですが、今日はさほど暖かくはならず、週末にはまた寒くなるようです。季節の変わり目でもないのに、なぜこうも気温の差が激しくなるのでしょうか?非常に気になるところです。

 

さて、年の暮に正月の飾り物や雑貨品などを売るために、昔から各地で市が立つのは皆さんもご存知のことと思います。これを「年の市(としのいち)」と言い、現在ではデパートや商店街などでは歳末の大売り出しなども、この年の市として数えられています。

 

年の市として古くから有名なものとして、「羽子板市(はごいたいち)」というのがあります。羽子板市でもっとも知られているのは、毎年121719日に行われる東京都台東区の浅草観音(浅草寺)の羽子板市でしょう。毎月18日は観世音菩薩の縁日で、なかでも1218日は「納めの観音」と呼ばれ、特に参拝者が多くなります。江戸時代、121718日の観音の縁日の人出を見越して、境内に正月用の品や縁起物の品を売る露店が集まり、これが「年の市」と呼ばれるようになりました。もちろん年の市は他の寺社周辺でも催されていましたが、浅草観音の市の規模が江戸随一で、浅草橋から上野に至るまで店が並び、大いに賑わったそうです。

 

浅草観音の年の市では、貞享年間(16831687年)の頃には既に羽子板が売られていたようですが、多く売られるようになったのは江戸末期頃と言われています。この年の市は、やがて羽子板市と呼ばれるようになり、現在では年末恒例の風物詩となっていて、境内に数十軒の羽子板を売る店が立ち並んでいます。市で大きな羽子板が売れると、「お手を拝借」の勇ましい掛け声に合わせてシャンシャンシャンと手締めが行われます。

 

羽子板は、「無患子(むくろじ)」という黒く堅い木の実に彩色した鳥の羽を付けた羽子(はね)を、柄のついた長方形の杉や桐の板で突いて遊ぶ正月遊戯の道具のことです。もともと羽突きは宮中の遊びであったものが、江戸時代に庶民の間にも普及しました。羽突きの羽子が虫を食べるトンボに似ていることから、悪い虫(病気)を食べる、あるいは羽子の先に付いている「豆」から、「まめに暮らすことができる」など、羽子板も含め縁起物として扱われていました。やがて、これが女の子が生まれた家に羽子板を贈る風習が盛んになり、羽子板を売る店が立ち並ぶようになったと言われています。

 

羽子板は、古くは「こぎ板」と呼ばれ、簡素なものであったようですが、これた文化文政年間(18041830年)頃から片面に役者の押絵などを貼り付けたり、金箔などを押した豪華な羽子板が作りだされ、流行るようになりました。

 

この羽子板市ですが、浅草観音のほかにも、東京都中央区日本橋の薬研堀不動尊(122728日)や京都新京極でも市が立っています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は、昨日降っていた雨も上がり、比較的暖かい朝を迎えています。今日、東京では昼間の気温が17℃ぐらいまで上がるそうですが、今週後半にはまた冷え込むようです。

 

さて、本日は「春日若宮おんまつり」についてご紹介したいと思います。このお祭りは、奈良にある春日大社の摂社(本社に縁故の深い神を祀った小さな神社)である若宮神社の祭礼で、奈良の年中行事で、最も豪華で大規模なものとして有名です。また、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。

 

この祭りは、もとは藤原氏の私祭として行われていたものでしたが、それが若宮神社の祭りとなったのは、平安末期の保延2年(1136年)9月17日(旧暦)に、当時流行っていた疫病や飢饉の災厄を祓い、五穀豊穣と難民救済を祈願するために、時の関白・藤原忠道が勅許を得て春日野に御旅所(おたびしょ)を造営し、若宮神社の御神体をお迎えして祭礼を行ったことに由来しています。それ以来、一度として途切れることなく、連綿と守り継がれている伝統行事となっています。

 

祭りの次第は、毎年1215日が大宿所祭(おおしゅくしょさい)、16日が宵宮祭(よいみやさい)、17日午前零時から若宮様が参道脇の御旅所にお遷りになる「遷幸の儀」が行われ、それからが本祭りとなります。本祭りの見どころは、神霊の「御渡り式」です。17日正午から、平安より江戸時代に至る古式ゆかしい時代行列である「御渡り式(おわたりしき)」が奈良市街を練り歩きます。束帯姿の春日の使いを先頭に、巫女、細男(せいのお)、田楽法師、競馬騎士、大名行列などです。午後2時半からは御旅所で国の平安を祈念する祭典が厳粛に行われ、夕刻からは、御旅所に篝火を焚き、深夜まで数多くの神事芸能が奉納されます。午後11時、若宮様が御旅所から本殿にお帰りいただく「還幸の儀」が行われます。さらに18日には、後宴の能が金春一座によって演じられます。

 

奈良では、この祭りが終わると本格的な冬になると言われています。

 

ところで、若宮神社の御祭神ですが、春日大社大宮(本社)の第三殿天児屋根命(あめのこやねのみこと)と第四殿比売神(ひめがみ)の御子神であり、その御名を天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)と申し上げるそうです。平安時代の中頃、長保5年(1003年)3月3日(旧暦)、第四殿に神秘な御姿で御出現になり、当初は母神の御殿内に、その後は暫く第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と仰がれていたということです。

 

高見澤

 

おはようございます。年も明け、昨日は初出勤であったにもかかわらず、いきなりの残業で、昨晩家に着いたのは10時半を過ぎていました。初日から全力疾走です。

 

さて、皆さんは「古暦」と書いて、何と読みますか? おそらく「これき」と読む方と、「ふるごよみ」と読む方がおられるかと思います。「これき」と読むと、それは室町時代末期から江戸時代初期にかけての暦書、つまり昔の暦のことを指します。一方、「ふるごよみ」と読むと、年末の残り少なくなったその年の暦のことを指します。それに対して、翌年用の暦を「新暦(しんごよみ)」と呼びます。

 

「板壁や親の世からの古暦」

 

ご存知、小林一茶の句です。1年間の思い出が詰まっているだけに、古暦は捨てるにしのびない味わいがあるというのが、昔の人の思いだったのかもしれません。余裕のない現代では、「日めくり」はあまり人気がありません。以前、私も使っていたことがありましたが、毎日めくるのが面倒で、数日まとめてめくることも多く、それでは日めくりの意味がなくなってしまいます。ただ、新たな年の始まりを実感するのは、その日めくりの表紙を破るときだという人もあり、いまだに使っている人も少なくないようです。ことわざや英会話を印刷するなど、いろいろな趣向やアイデアをこらした日めくりもあります。

 

上の絵暦は天保15年(1844年)に出版された弘化2年(1845年)の「盛岡絵暦」です。盛岡絵暦は、絵で示す事物の発音をもって季節を表現するのが特徴で、例えば、荷を担いだ盗賊は「入梅(荷奪い)」、塔と琴柱(ことじ)は「冬至」をそれぞれ示しています。江戸時代にも、その時代なりのアイデアや工夫を凝らした暦があったことが分かります。

 

昔から、企業や地元の商店が年末の挨拶を兼ねて、得意先にカレンダーを配り歩く習慣があります。俳句ではこれを「暦配り(こよみくばり)」と表現します。これもまた、師走の年中行事として、庶民の間で親しまれています。

高見澤

 

新年明けましておめでとうございます。皆さん、年始年末は如何お過ごしだったでしょうか? 私はといえば、年越しは佐久の実家で過ごしましたが、年末は中国のメディアから頼まれた原稿を仕上げ、東京に戻ってからは多少は映画観賞をしたものの、月刊誌の校正作業と、中々仕事から脱することができませんでした。今日は初出勤日、気持ちも新たにして、仕事も生活も楽しんでいきたいと思います。

 

さて、今年最初のテーマは「世田谷ボロ市」です。年も明けましたが、まだまだ師走の話題が尽きませんので、しばしお付き合いいただければと思います。

 

世田谷ボロ市は、毎年121516日と年明けの1月1516日の年2回、東京世田谷の旧大山街道(元代官屋敷付近、現在の世田谷1丁目)に開催される大イベントです。700店以上の露店が並び、1日に約20万人もの人出で賑わいます。

 

このボロ市ですが、始まりはかなり古く、安土桃山時代まで遡ることができるそうです。当時、この地域を含む関東を支配していたのは小田原城主の北条氏政〔天文7年(1538年)~天正18年(1590年)〕です。天正6年(1578年)、氏政は世田谷新宿に「楽市」を開きました。楽市というのは、「楽座」とともに、戦国時代から近世初期にかけて、各地の戦国大名が城下町など支配地の市場で、そこを繁栄させるためにとった商業政策の一つで、特権や市場税を廃止して、自由な行商活動を認める場のことです。毎月1日と6日の月6回開いたので、「六斎日(ろくさいにち)」とも呼ばれていました。その後、北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされます。江戸時代に入り、世田谷城が廃止され、世田谷新宿は城下町としての存在意義が薄れ、次第に衰えて六斎日は自然消滅していったそうですが、それでも細々と市は続いていたようです。

 

寛永10年(1633年)、世田谷領二十ヶ村は彦根藩・井伊家の所領となります。世田谷領代官に大場盛長が任命されると、盛長は領内の住民が無事正月を越せるようにと、物々交換の市を立て、不要な物を売って年越しの資金を捻出できるようにさせました。それが先の六斎日と重なり、これがこのボロ市の原型として、その名前の由来にもなっているようです。記録によれば、ボロ市に並べられたのは古布、古下駄、古道具の類だったと言われています。

 

今は、昔に比べ規模は小さくなったと言われていますが、それでも日用品、衣料品、植木などの店が軒を連ね、大いに賑わいをみせています。

 

高見澤

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