2017年4月アーカイブ

 

おはようございます。昨日の東京はとても暑い1日でした。朝方は雨がぱらつき、風も強かったのですが、その後は一気に気温が上昇し、夏を思わせるような陽気になりました。

ところで、今回の池田顧問が発信されたメルマガですが、非常に興味を持って読ませていただきました。戦争をする際に最も大事なのは「兵站」にあることを、改めて感じさせる内容の文章でした。圧倒的な戦闘力で秦帝国を倒した項羽が劉邦に敗れたのも「兵站」に原因があり、諸葛孔明が北伐で常に苦しんでいたのが「兵站」にあったことは、歴史を学べばよく分かることです。こうした知恵を生活や仕事に活かすことができれば、人生もまた楽しくなるかもしれません。

 

さて、本日は「和風月名」の「睦月(むつき)」について紹介したいと思います。和風月名については、前々回のメルマガで説明した通りで、睦月は旧暦1月を指します。『万葉集』に、「武都紀(むつき)立ち春の来らば...」や「牟都奇(むつき)立つ春の初めに...」といった歌が載っています。この二つの言葉に「睦月」の字が当てはめられたのは中世以降のことだと言われています。とはいえ、この語源については諸説あり、実際のところは定かではありません。

 

室町時代に成立した『節用集(せつようしゅう)』や鎌倉時代末期の『二中歴(にちゅうれき)』には、正月には身分の上下や老若も関係なく、お互いに往来して拝賀し、親族一同集まって娯楽遊宴するという「睦び月(むつびつき)」の意味であるとして、この「むつびつき」が訛って「むつき」となったという説が書かれています。平安後期の歌人・藤原清輔(『奥義抄』)、室町後期の学者・一条冬良(『世諺問答』)、江戸中期の学者・新井白石(『東雅』)などはこの説をとっています。国語辞典などでもこの説を採用していることが多く、現在これが最も有力な説となっています。

 

その他にも、江戸中期の国学者・賀茂真淵(かものまぶち)の「元つ月(もとつつき)」が略されて「むつき」となったという説(『語意考』)、江戸後期の国学者・平田篤胤(ひらたあつたね)の草木の萌きざす「萌月(もゆつき)」が約されたという説(『古今要覧稿』)、江戸中期の国学者・谷川士清(たにがわことすが)の春陽発生の初めである「生月(うむつき)」であるとする説(『和訓栞』)などがあります。

 

また、明治から昭和初めまで活躍した国語学者の大槻文彦は、彼の編纂した『大言海』で「実月の義。稲の実を初めて水に浸す月なりという。十二カ月の名はすべて稲禾生熟の次第を逐いて名づけしなり。一説に相睦び月の意というはいかが」と論じています。

 

本日午後から島根県松江市に出張です。今週はメルマガが発信できませんので、ご了承ください。

 

高見澤

 

 

おはようございます。東京では、先週末の雨風で桜も大分散ったように思えたのですが、それでもまだまだそれなりに花見を楽しめます。草花も夏に向けてエネルギーを放出し始めたといったところでしょうか。

 

さて、本日は年中行事の中でも、皆さんに馴染の深い「五節句」について、少し解説しておきたいと思います。五節句それぞれの説明は、各月ごとの紹介の際に行いますので、ここでは五節句に係る全体的なお話しをします。

 

五節句とは、いずれも旧暦に基づきますが、1月7日の「人日(じんじつ)」、3月3日の「上巳(じょうし)」、5月5日の「端午(たんご)」、7月7日の「七夕(しちせき)」、9月9日の「重陽(ちょうよう)」の5つの式日を指します。この五節句は、江戸時代に定められた式日で、明治初期に編纂された江戸幕府の法令集『徳川禁令考』に収められている『年始嘉節大小名諸士参賀式統令』によると、幕府が制定した式日はこの五節句のほか、1月1日の「年始」と8月1日の「八朔(はっさく)」があります。

 

そもそも「節句」というのは、年中行事を行う日の中でも特に重要とされた日〔節日(せつにち)〕を指し、昔は「節供」と書かれていました。「節日」自体は奈良時代から定められていましたが、それらは主に宮中儀礼としての宴(うたげ)であり、「節会(せちえ)」と記されることもありました。

 

「節供」ですから、元々は稲作を中心とした日本の農耕儀礼において、それぞれの節目の日に神前に供えられる供物を意味します。「節」は折り目、「供」は供物を指すことから、五節句にまつわる飲食物には特別な意味合いが込められていることが分かります。これが江戸時代になると「供」に替わって「句」の字が使われるようになり、「くぎり」という意味に変わってきます。こうして五節句が江戸の庶民の間に「節句」として浸透していくことになります。

 

一般に節日は奇数を重ねた月日に定められていますが、これは中国における陰陽思想から考えられたもので、奇数を重ねた月日に「陽」が極まると「陰」が生じると考えられており、この日は不吉な日として邪気を祓う行事が行われたことに由来していると言われています。そして、中国において邪気を祓う際に使われていたのが特定の植物等です。日本においてもそうした風習が一緒に伝わり、無病息災を祈りつつ独自の文化を育んできました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の雨もすっかり上がり、今朝の東京は明るい日差しが窓を通して差し込んできます。天気予報によれば、気温も大分上がるようです。

 

さて、具体的な年中行事の話に入る前に、「和風月名(わふうげつめい)」について少しお話をしておいた方が宜しいかと思います。一般には旧暦において使われていた各月の日本風の名称のことです。時々、現在でも使われたりしていますが、季節に合わせて名づけられた和風月名は、現在の時期と多少のズレがあることを感じざるを得ません。それぞれの月名の由来は諸説ありますので、本メルマガでは各月の行事を説明する際に、ご紹介していければと思います。

 

1月ー睦月(むつき)

2月ー如月・衣更着(きさらぎ)

3月ー弥生(やよい)

4月ー卯月(うづき)

5月ー皐月・早月(さつき)

6月ー水無月(みなづき、みなつき)

7月ー文月(ふみづき、ふづき)

8月ー葉月(はづき、はつき)

9月ー長月(ながつき、ながづき)

10月ー神無月(かみなづき、かんなづき)

11月ー霜月(しもつき)

12月ー師走(しわす)

 

先ほどもご説明した通り、和風月名は旧暦に基づいているので、春は睦月、如月、弥生で、夏は卯月、皐月、水無月で、秋が文月、葉月、長月で、冬が神無月、霜月、師走となります。こうした月名は子供の命名にも使われることもあり、「やよいちゃん」は3月生まれと推測できますね。そういえば、宮崎駿監督の「トトロ」に出てくる主人公の「サツキ(皐月)」と「メイ(May)」は、どちらも5月生まれなのでしょうか?

 

この和風月名ですが、日本古来のものであると考えられますが、その起源には昔から諸説あって定かではありません。文献として現存する最古の記述は、奈良時代720年に成立した『日本書紀』です。その「神武紀」のなかの戊午年(神武天皇即位がBC660年とするとBC663年)を中心に、「二月」、「三月」といった漢字に片仮名で「キサラギ」、「ヤヨヒ」のように訓が施されているとのことです。

二月ーキサラギ

三月ーヤヨヒ

四月ーウヅキ

五月ーサツキ

六月ーミナヅキ

八月ーハヅキ

九月ーナガヅキ

十月ーカミナヅキ

十有一月ーシモツキ

十有二月ーシハス

 

この中では一月と七月が抜けていますが、神武天皇即位の「辛酉年(BC660年)正月」を「ムツキ」と読ませ、「安寧紀」には安寧天皇即位の月として「七月」を「フミツキ」と読ませています〔壬子年(BC549年)〕。

 

こうした名称は、記紀万葉の時代から現代までほとんど変わっていません。日本において、この和風月名は、かなり昔から使われていたことが分かります。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は小雨が降っています。昨日に続いて寒く感じますが、確実に春が訪れている感じを受けています。

 

ところで、我が日本の気候の一番の特徴は「春夏秋冬」の四季がはっきりしていることです。北京では春と秋はそれぞれ1~2週間ほどしか感じられず、昨日まで寒かったかと思うと、今日からは急に暑くなるなど、冬と夏しか季節がないのかと思ってしまうほど、極端な気候に戸惑いを感じざるを得ませんでした。

 

こうしたはっきりした季節の面白さや厳しさを感じることができるからこそ、日本では1年を通して年中行事を楽しむことができたのかもしれません。「花鳥風月」や「雪月花」といった言葉は、まさに自然そのものに楽しみや美しさを感じる日本人が生み出したものかもしれません。

 

日本には、「歳時記(歳事記)」というものがあります。これは、元々は宮廷で年中行事や有職故実(ゆうそくこじつ:儀式や法令、服飾などに関する規則や習慣)を記したものですが、江戸時代以降は、俳句の季語を季節ごとに分類し、例句とともに解説を付けた書を指します。今日は、先ずは年中行事に入る前に、歳時記について少しお話ししたいと思います。

 

歳時記は元々中国から伝来したものと言われています。現存するものとしては、6世紀の荊楚地方(現在の湖北・湖南省)の年中行事を記した『荊楚歳時記』があり、これが奈良時代に日本に伝わり、「歳時記」という呼称が知られるようになりました。日本では、江戸時代の儒学者・貝原益軒とその養子である貝原好古が貞享5年(1688年)に著した『日本歳時記』が有名です。

 

昔の歳時記は、年中行事表であるとともに、季節を表す「季節暦」でもあったわけです。江戸を勉強するに当り、歳時記は浮世絵とともに格好の教材だと言えましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。大分暖かかった昨日から、今朝は一転して冷たい風を感じる東京です。とはいえ、太陽も出てきているので、昼間は暖かくなるかもしれません。

それにしても先週は米中首脳会談が行われている最中の米軍によるシリアへのミサイル攻撃。よっぽど米中首脳会談に対する世の中の関心を別の方向に向けたかったのではないかと思わせるような、突然の米国の動きに、私自身は注目しているのですが...

 

さて、今朝は「時計のこぼれ話」とでも言いましょうか、時計の豆知識をいくつか紹介しましょう。

先ずは、時計がなぜ右回りなのかということ。答えは簡単で、最初の時計が太陽による日時計であったことからです。日時計の影は、北半球では右回り。そこに時を示す文字盤に針の影が当たることで時間を計っていたのです。その名残が機械式時計にも反映されているのです。

 

次は日時計ならぬ「火時計」というものがあります。これは線香や蝋燭の燃える進み度によって時間を計るものです。火時計の一種である「香時計」は、元々は寺における「六時礼讃」という礼法における勤行の際に「時香盤」と呼ばれる来香時計が始まりだったようです。四角い箱に灰を入れ、その上に「W」の形に香を敷き、Wの先から火を着けてその進み具合で時間を計るものです。文字盤はありませんが、晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜の時刻に合わせて金串が目印として立てられていて、時計としての役割を果たしていました。江戸時代の遊郭でも「線香時計」が使われていたようで、線香が燃え尽きるごとに揚代・花代が加算されていき、このことから揚代・花代のことを「線香代」とも呼ばれていました。

 

これと似たようなものに、水の落ち方で時を計る「水時計」があります。水時計は、古代エジプトやバビロニアでも3000年以上も前から使われており、中国でも戦国時代(BC403BC222)に成立したとされる『周礼(しゅうらい)』に「刻漏」という官名が記されており、その頃には既に水時計が存在していたものと思われます。日本へは、インドの仙人・法道(6、7世紀頃)が「漏刻」を伝えたとの説があります。『日本書記』によれば、斉明天皇6年(660年)に、中大兄皇子が「初めて漏刻を作り、民をして時を知らしむ」と書かれており、これが文献に初めて出てきた水時計に関する記載です。奈良県飛鳥の水落(みずおち)遺跡がこの漏刻の遺構ではないかと言われています。

 

砂の落ち方による「砂時計」は現代でもお馴染みの時計です。しかし、砂時計の起源はよく分かっていません。日本では、徳川家康が元和2年(1616年)に死んだ後、遺品を尾張、紀伊、三戸の御三家に分配したときの覚帳に「ひとけい」、「唐のとけい」、「方とけい」と並んで「すなとけい」というのがあったそうです。家康は砂時計を2つ持っていました。

 

江戸時代、庶民は「時の鐘」による鐘の鳴る音で時間を把握していたことは、先にご紹介した通りです。欧州でも教会で毎日鳴らされる鐘の音があります。確かにこの音によって人々は時間を知ることになりますが、これはと「教会時法」呼ばれ、定時の祈りの時間を知らせるためのものであったようです。カトリックでは、「時祷」や「時課」といった定時の祈りが定められていたのです。

 

『周礼』に「土圭」という日時計を扱う官位が記されています。これが「時計」の語源とされています。江戸城には機械時計が置かれていた部屋があり、これを「土圭の間」と呼ばれていたそうです。元々「土圭」というのは、土地の方角を測定する器具を意味していたようで、太陽の運行を観測して方位を定め、季節や時刻を知った時代もありました。そのために、地面に垂直な柱を立て、その長さを測定しました。その影の長さを測定する目盛り尺を「圭」または「土圭」と呼んでいました。

 

天智天皇10年(671年)、「四月丁卯朔辛卯。置漏剋於新台。始打候時。動鐘鼓。始用漏刻」という記載が『日本書記』にあります。これは天智天皇6年(667年)に近江大津宮に遷都した後のことで、「漏刻」を移転し設置し、鐘や鼓を打ち鳴らして時刻を伝えたという記録です。日本の時報制度の始まりということです。この「四月丁卯朔辛卯」は旧暦では4月25日、これをグレゴリオ暦では6月10日になることから、大正9年(1920年)に「時の記念日」として定められました。

 

まだまだ時計にまつわるこぼれ話はたくさんありますが、紙面の関係もありますので、今日のところはこの辺りで終わりにします。次回からは「江戸の年中行事」についてご紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は、昨日とうって変わって雨が降っています。天気予報によれば、今週末も雨日和が続くとのことなので、この雨で桜も大分散るかもしれませんが、それでも関山や普賢象などの八重桜はこれからで、更に遅咲きの高嶺桜や深山桜など、しばらくの間は桜を楽しめることでしょう。

 

さて、本日は昨日に続いて「江戸の時計」をテーマに、不定時法に合わせた機械式の「和時計」を紹介していきたいと思います。これは画像をみながらご紹介したいところですが、何分にも本メルマガシステムに容量の制限があることから難しいため、文字による説明のみということでご理解ください。

 

先ず最初にご紹介するのは、「一挺天符目覚付掛時計(いっちょうてんぷめざましつきかけどけい)」です。これは江戸時代前期のもので、「一挺天符」とは、棒天符が1本付いていることを表します。鐘の下に分銅がついている櫛歯状の横棒が棒天符で、往復運動をして、振り子のように時計の動く速さを制御する調速機となっています。掛時計ですから、柱や壁に掛けて使います。下の紐の先には錘(おもり)が付いていて、その重さで動きます。1日に1回文字盤が回転するので指針は固定されており、目覚ましの機能も付いています。毎日2回、明け六ツと暮れ六ツに天符に吊り下がっている錘の位置を調整し、季節ごとの時刻に合わせるようになっています。大きさは、高さが43cm、幅が14cmです。

 

次は「二挺天符目覚付袴腰櫓時計(にちょうてんぷめざましつきはかまごしやぐらどけい)」です。江戸時代前期、元禄元年(1688年)のもので、三代目津田助左衛門の作と言われています。「二挺天符」とは、棒天符が2本付いていることを表します。明け六ツと暮れ六つで自動的に切り替わり、昼は上の棒天符、夜は下の棒天符が動きます。このため、分銅の移動は毎日する必要がなく、季節の昼夜の長さに合わせて、24節ごと(15日ごと)にそれぞれの分銅の位置を移動すればよいというものです。時計本体の下のひもと錘が板で覆われていて、櫓のような形をしていることから「櫓時計」と呼ばれ、掛時計と同様に錘の重さで動きます。これは文字盤が固定され、指針が回転するもので、目覚まし機能付きのものです。大きさは、高さが36cm、幅が11.5cmあります。

 

続いて「大型一挺天符台時計(おおがたいっちょうてんぷだいどけい)です。江戸中期のもので、高さは218cm大型で、元犬山城天守閣にあったものと伝えられています。指針は一日に1回転し、文字盤が固定されています。機械自体の高は57cmで、幅が20cmあります。

 

次は「一挺天符枕時計(いっちょうてんぷまくらどけい)」です。これは江戸時代後期のもので、ゼンマイを動力に用いた置時計です。真鍮の側には毛彫りが、朱塗りの回転文字盤には金唐草蒔絵がほどこされ華麗な時計に仕上がっています。文字盤には「半」刻表示がみられます。機械自体の高さは14cm、幅は11cm、奥行きは7cmです。

 

「振子円グラフ式文字盤掛時計(ふりこえんぐらふしきもじばんかけどけい)」も江戸時代後期のものです。

 

「円グラフ式文字盤」の指針が内側の文字盤の下から自動的に出たり入ったりして、1年間かけて長さが変わるようになっており、季節によって長さが変わる指針の先端が指している外側の文字盤の線から、時刻を読み取ることができる非常に珍しい仕組みになっている掛け時計です。針は、夏至で最長、冬至で最短となっています。調速機として、後部に付けられた振り子が使われています。機械自体の高は15cm、幅は15cmで、厚さが7.0cmです。

 

珍しものでは、薬を持ち運ぶ「印籠」に模したケースに時計を入れた「印籠時計(いんろうどけい)」というものがあります。江戸時代後期のもので、高さ5.3cm、幅4.5cm、厚さ2.5cmの小型の時計です。時打ち式で文字盤は割駒式です。ケースは総べっ甲製で全面に蒔絵が施され、蓋の中に日時計と磁石が仕込まれている豪華な時計です。箱書によると、水戸藩主・徳川斉昭(烈公)の所持品であったと考えられています。

 

このほかにも、江戸時代にはたくさんの和時計が製作されています。すべてを紹介できないのが残念ですが、江戸勉強会「暦編」として、「セイコー時計資料館」を巡ってみるのも面白いかもしれません。こうした精密で粋な機械仕掛けの時計が作られた背景には、「からくり人形」などの生活の楽しみとともに、日本人のモノづくりに掛ける心意気があったからに違いありません。

 

高見澤
 

おはようございます。今朝の東京は晴れ、日の出も大分早くなり、靖国通りの桜並木の道を歩くのが心地よく感じる季節です。先週の大岡川の桜はまだ開く前の英気を養っている段階でしたが(キリロラさん談)、今はその英気を目一杯表に出している時期なのでしょうか。いずれにせよ、春が来たな!という思いを感じています。

 

さて、本日は「江戸の時計」についてお話をしてみたいと思います。今では腕時計やスマホなどで、時間を知るのに何の不自由も感じていませんが、こうした時計が一般的でなかった江戸時代の庶民はどのように時間を把握して生活していたのでしょうか。

以前、このメルマガでもご紹介した通り、江戸の時間は「不定時法」でしたので、現代のような時計があっても、季節によっては生活にかなり支障をきたすことになります。ですから、不定時法に合わせた時計が必要になってくるわけです。

 

江戸時代にも機械仕掛けの時計はありましたが、大名や豪商など一部の特権階級だけの贅沢品で、とてもではないけど庶民が持てるものではありませんでした。このため、庶民が時間を知る手段の整備が必要になります。例えば江戸などでは、市中に何カ所か設置された「鐘」を鳴らすことで庶民に時刻を知らせていました。このことも以前本メルマガでご紹介したことがあるかと思いますが、埼玉県川越市にある「時の鐘」という鐘楼は、元々は江戸時代に創建されたものです。

 

この時の鐘のほかに、庶民が時を知る手段として利用されていたのが「日時計」です。特に紙製の日時計は、時の鐘が聞こえない場所でも手軽に時間を知ることができるので、旅に出る際にも携帯することができました。日時計を水平にして、月ごとに区切られた短冊を垂直に立て、太陽に向けた時にできる影の長さで時間を読み取ることができます。また、日時計と一緒に装備されている磁石を利用して、日時計部分を北に向け、半球部分に映る影の位置で時刻を読み取るコンパクトな日時計もありました。こうした時計は東京都墨田区東向島にある「セイコーミュージアム(セイコー時計資料館)」に所蔵されています。

 

では、江戸時代に不定時法に対応する機械式の時計は存在していたのでしょうか? そう、実はそれが存在していたのです。それを「和時計」と呼びます。この和時計は欧州から伝来した機械式時計を模倣し、当時の不定時法に合わせて工夫・製作された独特の時計でした。

 

日本に欧州から最初に機械式時計がもたらされたのは天文20年(1551年)のことです。持ち込んだのは宣教師フランシスコ・ザビエルでした。当時、中国地方を治めていた戦国大名の大内義隆にキリスト教の布教を願い出た際の献上品の中に機械式時計があったと言われていますが、現存はしていません。現存する日本最古の機械式時計は、慶長17年(1612年)に当時のスペイン国王から徳川家康に贈られたゼンマイ式の置時計です。現在、久能山東照宮に大切に保存されているということです。こうした精巧な機械仕掛けの時計は、当時の大名たちの間でもてはやされましたが、西洋の定時法で時間を表示する時計は実用には使えません。ですからあくまでも観賞用として用いられていました。

 

この機械式の西洋時計を日本の不定時法に合うように改良して生み出されたのが「和時計」です。最初に和時計を製作したのは「日本時計師の祖」といわれる津田助左衛門(つだすけざえもん)で、記録によれば徳川家康所有の時計を修理した際に、それを真似て新たに時計を作って家康に献上したとのことです。しかし、高価であることに加え、メンテナンスも大変だったようで、専ら美術工芸品として扱われ、大名などの富裕層が所有していたようです。

 

次回は、どのような和時計があったのかをご紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は比較的暖かく、やっと春を思わせるような陽気になったようです。我が職場の近くにある靖国神社や千鳥ヶ淵といった花見の名所の桜も満開に近づき、今週後半から週末にかけて大勢の花見客で賑うことでしょう。

 

さて、本日は江戸の「絵暦(えごよみ)」についてお話ししたいと思いますが、その前に、先ずは月の大小について紹介しておかなければなりません。

月には「大の月」と「小の月」の月があることは、小学生でも知っていることですね。現在のグレゴリオ暦では、大の月は1、3、5、7、8、1012月で31日まであり、小の月は2、4、6、9、11月で2月以外は30日までで、2月は28日、閏年は29日になっています。小の月の覚え方として、「西向く士(にしむくさむらい:二、四、六、九、十一)」というのがありますよね。では、なぜ1年が12カ月なのでしょうか?

 

この1年が12カ月というのは、現在のグレゴリオ暦でも、旧暦である太陰太陽暦でも同じです。これは1年における月の満ち欠けの回数に基づき区切られたものと考えられます。朔(新月)から次の朔までの平均日数(平均朔望月)は約29.5306日で、太陽が春分点から次の春分点まで回帰する日数(一太陽年)が365.2422日ですから、一太陽年を平均朔望月で割れば、1年は12.37カ月となります。これを2でも3でも4でも割り切れる便利な12進法の概念が生まれ、更にはその5倍である60進法が時間の概念として使われるようになったと言われています。ですから、1年を12カ月とした場合に、端数を処理しなけれならない関係から月の大小が生じたものと思われます。

 

グレゴリオ暦では月の大小が毎年決まっているので覚えやすいのに対し、江戸の暦では年によって月の大小が変わります。太陰太陽暦ですから、月の満ち欠けが月の長さを決定します。大の月は31日ではなくて30日、小の月は30日ではなく29日です。平均朔望月が約29.5306日ですから、30日と29日で1年を調整することになります。しかし単純に30日と29日の繰り返しでは暦と季節にズレが生じてくるので、更にそのズレを調整するために「閏月」が2、3年に一度挿入されることになります。毎年、次の年の暦を計算する際に、大小の月の並びや挿入する閏月が変わるので、庶民にとってそれを知ることは生活する上で極めて重要なことだったのです。月末に支払いや代金の取り立てをする商店では、間違いないように「大」と「小」の看板を、月に合わせて店頭に掲げていたところもあったようです。

 

暦が次第に普及してきた江戸時代には、月の大小を並べ方だけを示す「大小暦(だいしょうれき)」が生まれました。当時は「大小(だいしょう)」と呼ばれていましたが、ただ単に大小の月だけを示すのではなく、絵や文章の中に月の大小と配列を折り込むなど工夫をこらして楽しむようになりました。これが多色刷りの印刷物、即ち「浮世絵」として世に出回った「絵暦」なのです。

 

貞享年間(168488年)に始まり、明和年間(176472年)から寛政年間(17891801年)に掛けて最も流行っていたと言われています。絵暦の代表絵として有名なのは、明和元年(1764年)の鈴木春信筆の「夕立図」で、竿に掛かっている着物に、「大、二、三、五、六、八、十」の数字と、「メ、イ、ワ、二」の文字が見られます。謎解きのような浮世絵の楽しみ方も、江戸ならではの粋な遊びだったのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。

昨日の東京は、夕方から突然の雨で雷も鳴り、一部の地域で停電もあったようです。私が帰宅の途について夜7時半頃にはすっかり雨も止んで、傘をささずに家にたどり着くことができました。本日は朝から天気も良く、やっと春らしい感じになり、この一両日の暖かさで桜も満開に近い状態になるかもしれません。

 

さて、本日は暦の「十二支」と浮世絵との関係について、ご紹介したいと思います。

東藝術倶楽部の皆さんにおかれましては、浮世絵にいろいろな「落款」があるのをご存知かと思います。版元、絵師、彫師、改印または極印、揃物、役者絵であれば役名と役者名、風景画であれば場所などが、浮世絵の中に描かれています。そうした落款の中で、実は年月を表すものもがあります。

 

江戸時代、庶民は自由闊達な生き方をしていたとはいえ、やはりある程度風俗や秩序を乱す行為には目を光らせていました。浮世絵を出版するに当り、幕府が検閲を行う(今でいう映倫・ビデ倫の類でしょうか)時代が出てきます。そのお墨付きが「改印」や「極印」の形で浮世絵に落款として描かれます。そして、その検閲時期を「年月印」として一緒に記したのです。その年の表記の仕方が十二支で表されていました。

 

例えば、三代歌川豊国の作品であれば「酉正九」と書かれていれば、可能性として文久元年(1861年)9月と推測されます。文久元年は酉年です。三代豊国の生年は天明6年(1786年)、没年は元治元年(1865年)で、そのうち豊国を号したのが弘化元年(1844年)から没年までです。弘化元年から元治元年まで、酉年は嘉永2年(1849年)と文久元年(1861年)の2年だけ。「酉」の次の「正」が「元年」を示すとみれば、文久元年9月に検閲を受け、出版したとみることができるのです。

 

極印や改印が使われた時代、絵師の号した雅号、役者絵であれば演じられた演目の年月日などからもその浮世絵が描かれた年月をある程度知ることができます。

 

こうした面から浮世絵を見てみるのも、江戸を知る上で面白いかもしれませんね。

 

高見澤
 

おはようございます。瓦版も随分と休刊しており、楽しみにしていた方にはご迷惑をお掛けしてしまいました。皆様のご理解を賜れば幸いです。

さて、昨日は8名が参加しての横浜大岡川桜花見&シルク浮世絵勉強会を開催しました。五井野博士の講演会と重なってしまったこともあり、参加者は少なかったのですが、それなりに盛り上がり、楽しい一時を過ごすことができました。参加していただいた皆様には、改めて御礼申し上げます。次回もまた楽しい企画を考えたいと思いますので、ぜひご参加の程宜しくお願い致します。

 

暦の話も随分と真が空いてしまい、どこまで話が進んだか忘れてしまいそうになります。前回は「十干」についてのご紹介だったので、本日は「十二支」についてご説明したいと思います。

 

「十干十二支」が古代中国でかなり昔から使われてきたことは、既に紹介した通りです。ですから、正直なところ実際にどのような起源があるのかは古すぎて定かではありません。今回、ご紹介する「十二支」の起源も一つの説としてご理解いただければと思います。

 

中国では、古来「木星」のことを「歳星」や「太歳」と呼んでいました。これは木星が天球の黄道(地球からみた天球上の太陽の通り道)を約12年(公転周期11.86年)かけて一周するため、1年を秩序づける星として観測が重視されていたからです。そこで、この木星の運行と関連付けて1巡する十二支が生まれたというものです。

 

中国で、年、月、時刻に十二支が配当されるようになったのは、十干十二支の成立から約1000年後の戦国時代(BC5~BC3世紀)の頃と言われており、これは天文暦法の発達・整備と関連しているようです。子、丑、寅...という十二支の文字に、ネズミ、ウシ、トラ...といった動物が配されたのも戦国時代であったようです。こうした動物が配された理由についはよく分かっていません。釈迦が動物を招集した話など、いろいろと物語風に語られるものもありますが、いずれも真実性の欠けるものです。

 

十二の月に配される十二支は以下の通りです。

11月:子、12月:丑、1月:寅、2月:卯、3月:辰、4月:巳、

5月:午、6月:未、7月:申、8月:酉、9月:戌、10月:亥

 

11月が十二支の最初の「子」の月になっているのは、立春正月が定着する前の古代中国では、冬至を含む月が年初とされた時代があったからだとされています。中国では1月(寅月)を「建寅月」と呼びますが、これを日本では「寅にをさず月」と言います。「をさず(建ず)」は「尾指す」の意味で、古代中国では、毎年この月の夕刻には北斗七星の柄杓の柄(尾)が垂直になり、寅の方角(東北東)を指していたことから、「寅にをさず」となるわけです。つまり、北斗七星の柄の向きが1年の起点を示す暦代わりになっていたのです。

 

また、北半球の星座は北極星の周囲を1日で1周しますので、北斗七星の柄は1時間に15度回転することになります。そこで、この北斗七星は時計代わりにも利用されていました。時計や暦は12進法によって成り立っています。十二支にも係るこの数字に宇宙の神秘性を感じざるを得ません。

 

高見澤

2021年1月

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