2019年8月アーカイブ

 

おはようございます。九州では豪雨による被害が広がり、更に新たな災害が発生する可能性が高まっています。佐賀県では今回の豪雨で鉄工所から流れ出た油による被害も広がっているようで、油膜が有明海でも確認されています。農水産物への汚染や洪水が引いた後の油処理が懸念されるところです。この鉄工所では、以前にも同様の問題が起きて、対策をとっていたとのことですが、前回の教訓が活かされていなかったことは、大変残念な結果と言わざるを得ません。

 

さて、本日は前回紹介した「弁才船」の原型となった「伊勢船(いせぶね)」と「二形船(ふたなりぶね)」について紹介したいと思います。伊勢船と二形船は、いずれも室町時代から江戸時代前期にかけて使われた船です。こうした日本で独自に建造された船は、弁才船も含め「和船(わせん)」と呼ばれています。

 

先ず伊勢船ですが、これは主に伊勢地方を中心に建造されたもので、船首は「戸立造り(とだてづくり)」と呼ばれる箱型になっているのが大きな特徴です。軍用の「安宅船(あたけぶね)」、或いは大型荷船として使われていました。江戸時代中期には、二形船や弁才船に比べ帆走性能や経済性の面で劣ることから、ほとんど姿を消してしまったといわれています。

 

江戸時代末期から明治にかけて、知多半島伊勢湾沿いの野間、内海、常滑等で多くみられた買積船、内海船のことも伊勢船と呼ぶことがありますが、これは先の伊勢船とは別のものです。

 

二形船は、海運の主力になった大型船で、船型や構造は弁才船と似たところもありますが、大きく異なるところは、船首下部が「水押(みよし)造り」、上部が箱型の「箱置造り」となっているところです。二形船の名称もここからきており、「二成船」、「二姿船」と表記されることもあります。

 

こうした和船も、海外から西洋式船舶が導入されることで、次第にその姿が見られなくなっていきました。水深の浅い日本近海を巡るには、この和船が重宝された時代もあり、船舶の形状や構造に対する工夫、操舵技術の進歩には関心させられることも少なくありません。

 

高見澤
 

おはようございます。韓国という国は、中々日本人には理解しにくい国で、大統領でさえも糾弾されると簡単に落馬し、犯罪者として刑務所に入ってしまうケースもあります。今、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めた文在寅(ムンジェイン)大統領ですが、次期法務部長官に内定している最側近の曺国(チョグク)氏への娘の大学の不正入学というスキャンダルが大問題となっており、最悪の状態にある日韓関係以上に、韓国人の国民感情に火を付けた形となっています。GSOMIA破棄の問題も、そのスキャンダルから国民の目を逸らすためだったのではないかとの憶測もされているようです。明日と明後日は所用のため、瓦版をお休みにさせていただきます。

さて、本日は「弁才船(べざいせん)」について紹介してみたいと思います。弁才船は、安土桃山時代から江戸時代、明治にかけて日本全国で国内海運に広く使われていた大型木造船のことです。「弁財船(辨財船)」、「弁済船(辨濟船)」とも記述され、「べざいぶね」、「べんざいせん」といった呼び方もありました。先に紹介した北前船、菱垣廻船、樽廻船などに使われていた船もすべてこの弁才船でした。

 

もともと弁才船は瀬戸内海で使われていた中型・小型の船舶でしたが、江戸時代に入ると積石数は110石から960石、主力は250石前後となり、これが元禄末期(18世紀)頃になると船型も更に大型化して、1,000石を超える大型船が登場、主力も350石積へと大きく発展します。更に江戸時代後期には1,000石積が主流となり、弁才船を「千石船(せんごくぶね)」と呼ぶようになりました。もちろん、千石船の呼称は船型にかかわらず「積石数(つみこくすう)」を意味する呼び名ですが、1,000石積の弁才船が広く普及したことによって、弁才船を千石船と呼ぶようになったのです。

 

弁才船の構造は、外見上「一本水押し(みおし)〔1本の長大な部材で構成された船首で波を切る働きを有する〕」、三階造り、「垣立(かきだつ)〔左右の舟べりに欄干状に立てた囲い〕」、「艫櫓(ともやぐら)〔船体後半部に設けられた櫓(船室)〕」、「外艫(そととも)〔船体後部に突き出した和船特有の船尾〕」などから成っていることが分かります。「航(かわら)」と呼ばれる船首から船尾に通した厚く平らな船底材、「根棚(ねだな)〔かじき〕」、「中棚(なかだな)」、「上棚(うわだな)」等の外板と多数の梁によって構成されていました。室町時代から江戸時代前期に伊勢地方で造られた「伊勢船」や当時の主力船であった「二形船(ふたなりぶね)」と形状的にはほとんど変わりませんが、この二つの船の船首が箱型であったところに大きな違いがあります。

 

寛永12年(1635年)に江戸幕府が500石以上の船の建造を禁止し、没収したことは以前にも紹介した通りですが、その3年後には商船については例外として許可を与えているようです。しかし、海外との通商制限により、外洋航行の必要性は限られたものとなり、弁才船も内海や沿岸航海用に改良されていきました。従来、弁才船は帆走と櫓漕の兼用が一般的でしたが、幕藩体制の安定化に伴う経済の発展によって物流産業に大きな革命がもたらされることになります。海運の価格競争が激化し、帆走専用化や航海技術の向上による航海の迅速化・効率化が求められ、その結果、18世紀中頃には弁才船の稼働率が2倍になりました。

 

また、船舶の大型化、堪航性(たんこうせい)〔船舶の航行能力〕の向上、安全性の向上、積載量の増量などを目的に、弁才船自体にも大きな改造が加えられていきます。筵帆から木綿帆への転換、木綿帆の改良などもあって、横風帆走や逆風帆走も可能となりました。轆轤(ろくろ)の導入によって帆の巻き上げや伝馬船荷の積み下ろしの労力が軽減されるなど、省力化も進んでいきました。

 

1,000石積の弁才船の大きさ(18世紀中期)は、全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量は約150トンです。航行能力は、順風帆走や沿岸航法しかできなかった江戸時代前期には大坂から江戸まで平均32.8日、最短で10日というものでした。それが、江戸後期の天保年間(18301844年)になると同じ航路で平均12日、最短で6日と大幅に必要日数が短縮されました。船舶の年間稼働率も年平均4往復であったのが、年8回へと稼働率が上がりました。これは江戸時代の大量消費に合わせて発展していったものと考えられます。

 

この弁才船の活躍は、昭和初期まで続くことになります。

 

高見澤
 

おはようございます。週末、フランス南西部のビアリッツでの先進7カ国(G7)首脳会議に出席中の安倍総理は、米国トランプ大統領と首脳会談を行い、日米貿易交渉が大筋で合意し、9月署名を目指すことになりました。その中で、日本は米国産トウモロコシを輸入することになったようですが、米国の遺伝子組み換えのトウモロコシが大量に日本に入ってくることに、危惧を覚えざるを得ません。トウモロコシの用途は主に家畜・家禽の飼料です。それを食べた牛や豚、鶏を今度は日本人が食べることになります。中国に輸出できなくなったトウモロコシを日本に買わせようとする米国穀物メジャーの意図を、安倍総理が忖度した形となった日米貿易交渉の結果です。

 

さて、本日は「東廻り航路」とも所縁の深い河川航路「内川廻し(うちかわまわし)」と、その発展の基となった「利根川東遷事業」について紹介しましょう。

 

利根川東遷事業は、江戸幕府最大の土木事業の一つとされています。従来、利根川の流れは江戸湾(東京湾)に流れ込んでいましたが、その流れを東側に変えて、銚子(千葉県銚子市)から太平洋に注ぎ込むようにしたのが、この利根川東遷事業です。徳川家康の命によるこの事業は、家康の江戸入府から4年後の文禄3年(1594年)に工事が始まり、秀忠、家光、家綱の将軍4代の治世に跨って、承応3年(1654年)までの60年の歳月をかけて完成させた大規模なものでありました。これに携わったのが、徳川四天王の一人・榊原康政の補佐役を務めた伊奈忠次とその次男・忠治です。

 

当初、大川(隅田川)に流れ込んでいた利根川は、忠次によって太日川(ひとひがわ)〔荒川〕に合流〔古利根川(ふるとねがわ)〕させられることになります。その後、元和7年(1621年)、忠治は利根川東遷の第一段階として、新川、赤堀川の開削を行います。この事業は幾たびかの失敗を繰り返しながら、承応3年に利根川はようやく現在のように銚子へと流れを変えることができました。

 

この利根川東遷事業の目的ですが、以前は江戸の町を川の氾濫による洪水から守るための治水事業として考えられていました。しかし、それまで利根川の洪水が江戸の町を直撃した記録はなく、「荒川の背替え(現在の元荒川から今の荒川に川の流れを変えた事業)」では洪水被害を覚悟の上で工事を行っていることから、「治水」よりも、船舶の通行を念頭に置いた「利水」事業あったというのが、現段階での定説になっています。

 

寛文年間(1661年~1673年)に、川村瑞賢によって「東廻り航路」と「西廻り航路」が整備されると、各地域と江戸との間の物資輸送は一気に拡大していきます。東廻り航路では、日本海側の物資が津軽海峡を経て三陸沖、仙台、那珂湊、鹿島灘、房総半島沿岸を通って、一旦伊豆下田に帆走し、そこで風待ちをして江戸湾に入る航路を取ります。このルートですと遠回りの上、風待ちの日数が加算し、廻船の難破のリスクなどもあったことから、更に合理的なルートへの渇望が生まれます。

 

そこで、これに代わるルートとして使われたのが「内川廻し」または「奥川廻し(おくかわまわし)」と呼ばれる「河川舟運(かせんしゅううん)」です。河川舟運については、後日あらためて紹介します。太平洋沿岸の那珂湊、あるいは銚子湊まで運ばれた物資を、川舟に積み替えて北浦、霞ケ浦を経て、内陸部の大小の河川伝いに江戸まで運ぶルートです。その際、大いに利用されたのが東遷を終えた利根川です。このルートには、那珂湊と北浦、あるいは那珂湊と霞ヶ浦との間の陸路や、水不足の河道をソリのように曳き舟する部分も含まれており、荷物の積み替えの手間など不便な点も少なくありませんでした。

 

それでも航行日数の予定が立たない伊豆下田経由の外洋ルートよりも、遥に有利な点が多く、内川廻しルートは大いに利用されていました。調子から利根川に入った物資は、江戸川を経由して金町より下流で新川、小名木川を通り江戸市中にもたらされていました。江戸での消費されるもののほか、上方に輸出される物資もこのルートで江戸に集積されていました。

 

内川廻しルートで運ばれた主なものは、東北の米、銚子の魚、醤油、干鰯(ほしか)〔魚肥〕、〆粕(しめかす)、その他近隣地域の物資などです。江戸の発展は、こうした物流システムの発展によって支えられていたと言っても過言ではありません。内川廻しの改修・整備は幕末の安政年間(1855年~1860年)まで続きました。

 

高見澤

 

おはようございます。最近、特によく思い出すのが、五井野正博士のいわれていた「現代は科学の発展なしに、技術ばかりが発展した」というご指摘です。現代社会はまさにそのような世界になっており、車の運転やインターネットの利用、スマホの使用、原子力をはじめとするエネルギーの利活用などあらゆる場面で本来の主旨とはまったく異なった使い方をしている者が何と多いことか! 最近のニュースばかりでなく、街を歩いていても、もはや人間のモラル以前の問題だと日々感じる次第です。

 

さて、本日は「樽廻船(たるかいせん)」について紹介しようと思います。樽廻船は、江戸時代に主に大坂などの上方から江戸に酒樽を輸送するために用いられた貨物船(廻船)のことで、「酒樽積廻船」、「酒樽廻船」、「樽船(たるぶね)」などとも呼ばれています。元々は前回紹介した菱垣廻船と同様に使われていましたが、重要な船荷の一つである「酒」の取り扱いを巡って、酒問屋が独立する形で樽廻船が誕生することになりました。

 

寛永4年(1627年)に菱垣廻船運航の基礎が出来上がったことは前回紹介した通りですが、その流れを受けて正保年間(1644年~1647年)に、大坂の西にある伝法〔大阪市此花(このはな)区〕の船〔伝法船(でんぽうぶね)〕が、伊丹(兵庫県伊丹市)の酒を積んで江戸に送る「下り酒」の商売を始めました。そして、万治元年(1658年)、伝法船を所有する船問屋が誕生します。伝法船は菱垣の無い弁財船の一種で、菱垣廻船よりも深さを少し増して、船倉を広くしていました。