2019年8月アーカイブ

 

おはようございます。九州では豪雨による被害が広がり、更に新たな災害が発生する可能性が高まっています。佐賀県では今回の豪雨で鉄工所から流れ出た油による被害も広がっているようで、油膜が有明海でも確認されています。農水産物への汚染や洪水が引いた後の油処理が懸念されるところです。この鉄工所では、以前にも同様の問題が起きて、対策をとっていたとのことですが、前回の教訓が活かされていなかったことは、大変残念な結果と言わざるを得ません。

 

さて、本日は前回紹介した「弁才船」の原型となった「伊勢船(いせぶね)」と「二形船(ふたなりぶね)」について紹介したいと思います。伊勢船と二形船は、いずれも室町時代から江戸時代前期にかけて使われた船です。こうした日本で独自に建造された船は、弁才船も含め「和船(わせん)」と呼ばれています。

 

先ず伊勢船ですが、これは主に伊勢地方を中心に建造されたもので、船首は「戸立造り(とだてづくり)」と呼ばれる箱型になっているのが大きな特徴です。軍用の「安宅船(あたけぶね)」、或いは大型荷船として使われていました。江戸時代中期には、二形船や弁才船に比べ帆走性能や経済性の面で劣ることから、ほとんど姿を消してしまったといわれています。

 

江戸時代末期から明治にかけて、知多半島伊勢湾沿いの野間、内海、常滑等で多くみられた買積船、内海船のことも伊勢船と呼ぶことがありますが、これは先の伊勢船とは別のものです。

 

二形船は、海運の主力になった大型船で、船型や構造は弁才船と似たところもありますが、大きく異なるところは、船首下部が「水押(みよし)造り」、上部が箱型の「箱置造り」となっているところです。二形船の名称もここからきており、「二成船」、「二姿船」と表記されることもあります。

 

こうした和船も、海外から西洋式船舶が導入されることで、次第にその姿が見られなくなっていきました。水深の浅い日本近海を巡るには、この和船が重宝された時代もあり、船舶の形状や構造に対する工夫、操舵技術の進歩には関心させられることも少なくありません。

 

高見澤
 

おはようございます。韓国という国は、中々日本人には理解しにくい国で、大統領でさえも糾弾されると簡単に落馬し、犯罪者として刑務所に入ってしまうケースもあります。今、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めた文在寅(ムンジェイン)大統領ですが、次期法務部長官に内定している最側近の曺国(チョグク)氏への娘の大学の不正入学というスキャンダルが大問題となっており、最悪の状態にある日韓関係以上に、韓国人の国民感情に火を付けた形となっています。GSOMIA破棄の問題も、そのスキャンダルから国民の目を逸らすためだったのではないかとの憶測もされているようです。明日と明後日は所用のため、瓦版をお休みにさせていただきます。

さて、本日は「弁才船(べざいせん)」について紹介してみたいと思います。弁才船は、安土桃山時代から江戸時代、明治にかけて日本全国で国内海運に広く使われていた大型木造船のことです。「弁財船(辨財船)」、「弁済船(辨濟船)」とも記述され、「べざいぶね」、「べんざいせん」といった呼び方もありました。先に紹介した北前船、菱垣廻船、樽廻船などに使われていた船もすべてこの弁才船でした。

 

もともと弁才船は瀬戸内海で使われていた中型・小型の船舶でしたが、江戸時代に入ると積石数は110石から960石、主力は250石前後となり、これが元禄末期(18世紀)頃になると船型も更に大型化して、1,000石を超える大型船が登場、主力も350石積へと大きく発展します。更に江戸時代後期には1,000石積が主流となり、弁才船を「千石船(せんごくぶね)」と呼ぶようになりました。もちろん、千石船の呼称は船型にかかわらず「積石数(つみこくすう)」を意味する呼び名ですが、1,000石積の弁才船が広く普及したことによって、弁才船を千石船と呼ぶようになったのです。

 

弁才船の構造は、外見上「一本水押し(みおし)〔1本の長大な部材で構成された船首で波を切る働きを有する〕」、三階造り、「垣立(かきだつ)〔左右の舟べりに欄干状に立てた囲い〕」、「艫櫓(ともやぐら)〔船体後半部に設けられた櫓(船室)〕」、「外艫(そととも)〔船体後部に突き出した和船特有の船尾〕」などから成っていることが分かります。「航(かわら)」と呼ばれる船首から船尾に通した厚く平らな船底材、「根棚(ねだな)〔かじき〕」、「中棚(なかだな)」、「上棚(うわだな)」等の外板と多数の梁によって構成されていました。室町時代から江戸時代前期に伊勢地方で造られた「伊勢船」や当時の主力船であった「二形船(ふたなりぶね)」と形状的にはほとんど変わりませんが、この二つの船の船首が箱型であったところに大きな違いがあります。

 

寛永12年(1635年)に江戸幕府が500石以上の船の建造を禁止し、没収したことは以前にも紹介した通りですが、その3年後には商船については例外として許可を与えているようです。しかし、海外との通商制限により、外洋航行の必要性は限られたものとなり、弁才船も内海や沿岸航海用に改良されていきました。従来、弁才船は帆走と櫓漕の兼用が一般的でしたが、幕藩体制の安定化に伴う経済の発展によって物流産業に大きな革命がもたらされることになります。海運の価格競争が激化し、帆走専用化や航海技術の向上による航海の迅速化・効率化が求められ、その結果、18世紀中頃には弁才船の稼働率が2倍になりました。

 

また、船舶の大型化、堪航性(たんこうせい)〔船舶の航行能力〕の向上、安全性の向上、積載量の増量などを目的に、弁才船自体にも大きな改造が加えられていきます。筵帆から木綿帆への転換、木綿帆の改良などもあって、横風帆走や逆風帆走も可能となりました。轆轤(ろくろ)の導入によって帆の巻き上げや伝馬船荷の積み下ろしの労力が軽減されるなど、省力化も進んでいきました。

 

1,000石積の弁才船の大きさ(18世紀中期)は、全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量は約150トンです。航行能力は、順風帆走や沿岸航法しかできなかった江戸時代前期には大坂から江戸まで平均32.8日、最短で10日というものでした。それが、江戸後期の天保年間(18301844年)になると同じ航路で平均12日、最短で6日と大幅に必要日数が短縮されました。船舶の年間稼働率も年平均4往復であったのが、年8回へと稼働率が上がりました。これは江戸時代の大量消費に合わせて発展していったものと考えられます。

 

この弁才船の活躍は、昭和初期まで続くことになります。

 

高見澤
 

おはようございます。週末、フランス南西部のビアリッツでの先進7カ国(G7)首脳会議に出席中の安倍総理は、米国トランプ大統領と首脳会談を行い、日米貿易交渉が大筋で合意し、9月署名を目指すことになりました。その中で、日本は米国産トウモロコシを輸入することになったようですが、米国の遺伝子組み換えのトウモロコシが大量に日本に入ってくることに、危惧を覚えざるを得ません。トウモロコシの用途は主に家畜・家禽の飼料です。それを食べた牛や豚、鶏を今度は日本人が食べることになります。中国に輸出できなくなったトウモロコシを日本に買わせようとする米国穀物メジャーの意図を、安倍総理が忖度した形となった日米貿易交渉の結果です。

 

さて、本日は「東廻り航路」とも所縁の深い河川航路「内川廻し(うちかわまわし)」と、その発展の基となった「利根川東遷事業」について紹介しましょう。

 

利根川東遷事業は、江戸幕府最大の土木事業の一つとされています。従来、利根川の流れは江戸湾(東京湾)に流れ込んでいましたが、その流れを東側に変えて、銚子(千葉県銚子市)から太平洋に注ぎ込むようにしたのが、この利根川東遷事業です。徳川家康の命によるこの事業は、家康の江戸入府から4年後の文禄3年(1594年)に工事が始まり、秀忠、家光、家綱の将軍4代の治世に跨って、承応3年(1654年)までの60年の歳月をかけて完成させた大規模なものでありました。これに携わったのが、徳川四天王の一人・榊原康政の補佐役を務めた伊奈忠次とその次男・忠治です。

 

当初、大川(隅田川)に流れ込んでいた利根川は、忠次によって太日川(ひとひがわ)〔荒川〕に合流〔古利根川(ふるとねがわ)〕させられることになります。その後、元和7年(1621年)、忠治は利根川東遷の第一段階として、新川、赤堀川の開削を行います。この事業は幾たびかの失敗を繰り返しながら、承応3年に利根川はようやく現在のように銚子へと流れを変えることができました。

 

この利根川東遷事業の目的ですが、以前は江戸の町を川の氾濫による洪水から守るための治水事業として考えられていました。しかし、それまで利根川の洪水が江戸の町を直撃した記録はなく、「荒川の背替え(現在の元荒川から今の荒川に川の流れを変えた事業)」では洪水被害を覚悟の上で工事を行っていることから、「治水」よりも、船舶の通行を念頭に置いた「利水」事業あったというのが、現段階での定説になっています。

 

寛文年間(1661年~1673年)に、川村瑞賢によって「東廻り航路」と「西廻り航路」が整備されると、各地域と江戸との間の物資輸送は一気に拡大していきます。東廻り航路では、日本海側の物資が津軽海峡を経て三陸沖、仙台、那珂湊、鹿島灘、房総半島沿岸を通って、一旦伊豆下田に帆走し、そこで風待ちをして江戸湾に入る航路を取ります。このルートですと遠回りの上、風待ちの日数が加算し、廻船の難破のリスクなどもあったことから、更に合理的なルートへの渇望が生まれます。

 

そこで、これに代わるルートとして使われたのが「内川廻し」または「奥川廻し(おくかわまわし)」と呼ばれる「河川舟運(かせんしゅううん)」です。河川舟運については、後日あらためて紹介します。太平洋沿岸の那珂湊、あるいは銚子湊まで運ばれた物資を、川舟に積み替えて北浦、霞ケ浦を経て、内陸部の大小の河川伝いに江戸まで運ぶルートです。その際、大いに利用されたのが東遷を終えた利根川です。このルートには、那珂湊と北浦、あるいは那珂湊と霞ヶ浦との間の陸路や、水不足の河道をソリのように曳き舟する部分も含まれており、荷物の積み替えの手間など不便な点も少なくありませんでした。

 

それでも航行日数の予定が立たない伊豆下田経由の外洋ルートよりも、遥に有利な点が多く、内川廻しルートは大いに利用されていました。調子から利根川に入った物資は、江戸川を経由して金町より下流で新川、小名木川を通り江戸市中にもたらされていました。江戸での消費されるもののほか、上方に輸出される物資もこのルートで江戸に集積されていました。

 

内川廻しルートで運ばれた主なものは、東北の米、銚子の魚、醤油、干鰯(ほしか)〔魚肥〕、〆粕(しめかす)、その他近隣地域の物資などです。江戸の発展は、こうした物流システムの発展によって支えられていたと言っても過言ではありません。内川廻しの改修・整備は幕末の安政年間(1855年~1860年)まで続きました。

 

高見澤

 

おはようございます。最近、特によく思い出すのが、五井野正博士のいわれていた「現代は科学の発展なしに、技術ばかりが発展した」というご指摘です。現代社会はまさにそのような世界になっており、車の運転やインターネットの利用、スマホの使用、原子力をはじめとするエネルギーの利活用などあらゆる場面で本来の主旨とはまったく異なった使い方をしている者が何と多いことか! 最近のニュースばかりでなく、街を歩いていても、もはや人間のモラル以前の問題だと日々感じる次第です。

 

さて、本日は「樽廻船(たるかいせん)」について紹介しようと思います。樽廻船は、江戸時代に主に大坂などの上方から江戸に酒樽を輸送するために用いられた貨物船(廻船)のことで、「酒樽積廻船」、「酒樽廻船」、「樽船(たるぶね)」などとも呼ばれています。元々は前回紹介した菱垣廻船と同様に使われていましたが、重要な船荷の一つである「酒」の取り扱いを巡って、酒問屋が独立する形で樽廻船が誕生することになりました。

 

寛永4年(1627年)に菱垣廻船運航の基礎が出来上がったことは前回紹介した通りですが、その流れを受けて正保年間(1644年~1647年)に、大坂の西にある伝法〔大阪市此花(このはな)区〕の船〔伝法船(でんぽうぶね)〕が、伊丹(兵庫県伊丹市)の酒を積んで江戸に送る「下り酒」の商売を始めました。そして、万治元年(1658年)、伝法船を所有する船問屋が誕生します。伝法船は菱垣の無い弁財船の一種で、菱垣廻船よりも深さを少し増して、船倉を広くしていました。

 

寛文12年(1672年)に河村瑞賢によって西廻り航路が整備されると、伊丹の造り酒屋の支援によって伝法船は大いに栄えました。酒の生産地としては伊丹、池田(大阪府池田市)、灘(兵庫県神戸市・西宮市)などがありました。酒のほかに酢、醤油、塗り物、紙、木綿、金物、畳表などの「荒荷(あらに)」と呼ばれた雑貨品も積み合わせて輸送していました。酒樽は重量があるので下積みし、荒荷は上に載せるのが一般的でした。酒樽の大きさは四斗(約72リットル)樽に統一していたので積み込みが速いのが特徴でした。また、伝法船は300石~400石積みの廻船で船足が速かったことから、「小早(こはや)」と呼ばれていました。

 

元禄7年(1694年)に不正や海難事故の防止を目的として大坂に「二十四組問屋」、江戸に「十組問屋」がそれぞれ結成され、菱垣廻船はこの両問屋に所属することが義務付けられます。そして、菱垣廻船においても重い酒樽は下積荷物として取り扱われていました。海難事故が起きた際には、通常は先に上積荷物である荒荷が廃棄されます。しかし、廃棄された荷物に対する補償をすべての問屋が共同で負わされるという不公平感、更には生ものである酒を迅速に輸送する必要性から、享保15年(1730年)に酒問屋は菱垣廻船に関わる上記二つの問屋グループから脱退し、新たに酒輸送専門の「樽廻船問屋」を結成、独自の運営を始めたのです。

 

本来は、酒樽という単一の商品を取り扱うにすぎなかった樽廻船も、輸送時間の迅速さが評判となり、余積(よづみ)といって酒以外の荷物も安い運賃で輸送するようになります。これが菱垣廻船との激しい貨物争奪戦へと発展していきます。こうした競合を防止するために、安永元年(1772年)に「両廻船協定」が結ばれ、翌安永2年(1773年)には「株仲間公許(かぶなかまこうきょ)」が出され、酒は樽廻船の一方のみ、米、糠、藍玉、そうめん、酢、醤油、蝋燭は樽・菱垣両積み、そのほかはすべて菱垣の一方積みと定められました。しかし実際には、この協定も十分には守られていなかったようです。

 

運賃の安さと運送時間の迅速さによって菱垣廻船を圧倒した樽廻船ですが、幕末の蒸気船の出現により大きな打撃を受け、明治7年(1875年)にこの二つの廻船は合併することになりました。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京も昨日と同様に比較的涼しい朝を迎えています。とはいえ、昨日も日中は蒸し暑さが酷かったように、今日もまた汗ばむことが予想されます。中国では気温が40℃を超えると職場が休みになったり、賃金を余計に払わなければならなくなったりなど、生産活動や生活に影響が出てくることから、実際に40℃を超えていたとしても、気象当局は39℃と発表しているという話も聞きます。真偽のほどは分かりませんが、あり得ない話ではありません。

 

さて、本日は「菱垣廻船(ひがきかいせん)」について紹介したいと思います。菱垣廻船とは、江戸時代に大坂などの上方と消費地である江戸とを結んだ貨物船のことを指します。「菱垣(ひがき)」とは、舷側(船縁)を高くするための構造物である「垣立(かきだつ)」の一部に菱型の格子状の木枠を組み込んだ装飾品のことです。

 

諸大名による外国との勝手な通商を大きく制限した江戸幕府は、慶長14年(1608年)に西国の諸大名に対して500石以上の軍船の建造を禁じ、これが民間の船舶にも及び、家光の時代には帆柱一本の和船が一般的になります。とはいえ、社会の安定とともに国内物流が大きく発展すると、幕府も商船の大型化は認めざるを得ず、中には1,000石を超える船も建造されるようになりました。菱垣廻船として使われる船は、いずれも「弁財船(べざいせん)」と呼ばれる大和型和船が使われていましたが、これについては後日説明したいと思います。

 

菱垣廻船の誕生は江戸時代の初期、元和5年(1619年)まで遡ります。和泉国堺の船問屋が、その年に紀伊国富田浦から250石積みの廻船(貨物船)を借り受け、大坂から木綿、油、綿、酒、酢、醤油などの商品を積み込んで江戸に送ります。これが発端となって、廻船としての定期航路への道が開け、多種多様な日常の物資が大坂から江戸に盛んに運ばれるようになりました。これが菱垣廻船の始まりです。

 

寛永元年(1624年)、大坂北浜の泉屋平右衛門(泉屋平衡門)が江戸積船問屋を開き、菱垣廻船問屋が成立します。続く寛永4年(1627年)には毛馬屋、富田屋、大津屋、荒屋傾屋、塩屋の5軒が開店して「大坂菱垣廻船問屋」が成立、ここに菱垣廻船の運航が独立した業態として確立しました。廻船問屋は、自ら手船を所有する場合もありましたが、多くの場合は紀伊国や大坂周辺で廻船を雇い入れて営業していました。

 

元禄7年(1694年)、大坂屋伊兵衛という商人が中心となって菱垣廻船の持ち主・船主が協議して「江戸十組問屋」が結成されます。これによって持ち主・船主がバラバラであったそれぞれの船は、江戸十組問屋の共同所有となり、メンテナンスも共同で行われるようになったのです。もちろん、海難時の処理や喫水の確認、積載量の制限・管理も共同で行われていました。

 

菱垣廻船の運航には、前回紹介した西廻り航路の開拓とも関係しますが、航路整備や港湾整備が大きく係ってきます。河村瑞賢が行った海運改革では、諸設備の整備や船舶の運航管理をそれまでの商人請負方式から幕府直轄方式に変え、各拠点に安全管理施設を設置、諸侯や代官に船舶保護を命じるとともに、海難事故への対応にも当らせました。これによって、開運コストが大きく低減したことは言うまでもありません。

 

この菱垣廻船から、後に「樽廻船(たるかいせん)」が分かれていきますが、これについては次回紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の雨の影響からか、比較的涼しい朝を迎えています。連日の暑さのなか、9月の経済界の大型訪中団の準備などで外出が続いており、今日も午後から外出予定です。雨も予想されているので、今朝の涼しさが続いて欲しいところですが、日中は33℃まで上がるとの予報で、蒸し暑さが気になります。

 

さて、本日は前回の「西廻り航路」で活躍した「北前船(きたまえぶね)」について紹介したいと思います。北前船は、江戸時代から明治時代中期にかけて、日本海海運で活躍した「買積み」の北国廻船のことを指します。買積みとは、他人の商品を運んで運賃を稼ぐ船ではなく、船主が自ら商品を買い入れ、他の地へ運んで売りさばき、その差額を設ける仕組みのことです。つまり、北前船はこうした「商業形態」を指す名称というわけです。

 

西廻り航路が開拓される以前、日本海沿岸の品物は敦賀から琵琶湖を経て大津、京都、大坂方面に陸路、水路を積み換えて運ばれていたことは前回説明した通りです。しかし、西廻り航路開拓前に、日本海沿岸の物資を下関廻りで大坂に運んでいた人がいました。加賀前田家三代当主の前田利常です。当時、加賀藩では「改作法」により米生産が奨励され、藩米収入を増やす政策がとられていました。寛永16年(1639年)、藩米を現金化するため、利常は兵庫の旧家・北風家(きたかぜけ)の助けを受けて下関廻りで藩米100石を大坂に廻送しました。これがきっかけとなり、西廻り航路の開拓につながっていくのですが、同時に北前船が登場するきっかけにもなったのです。

 

北前船の商業形態に最初に乗り出したのは「近江商人」です。近江国(滋賀県)で生まれ育ちながら、わざわざ他国へ出向いて商売しようという開拓者精神に富んでいたのが彼らです。近江商人は、後に北海道松前藩と一緒になって蝦夷地を開拓、藩の財政を一手に握るようになります。当時、松前では米がとれなかったものの、にしんや昆布などの海産物が獲れたので、近江商人はそうした海産物を大坂など大都市に送り、逆に大坂方面から衣料品や日用品、食品などを仕入れて北海道方面に送ってそれぞれ販売する往復取引によって繁栄したのです。

 

その後、幕末から明治初期にかけては、「加越能(加賀、越中、能登)」商人と呼ばれる北陸地域の新興勢力が北前船の運営に乗り出してきます。もともと彼らは近江商人に雇われていた船頭だったのですが、独立して船主となり勢力を増して多大な利益と文化を各地にもたらす役割を果たしていきます。

 

北前船の運行は、毎年春の彼岸頃(3月下旬)に上方の荷を載せ大坂を出帆、瀬戸内各所の港に寄港してから下関を廻り日本海沿岸を北上、北海道へと向かいます。江差、松前、函館などの港に入港(5月下旬頃)し積荷を売りさばきます。その後5~6月に獲れるにしんの〆粕などを仕入れて、夏のうちに北海道を出航し、台風期の前に瀬戸内海に入り、晩秋から初冬に大坂に帰着するという行程です。北前船は、通常は年1回の航行が常識でした。

 

北前船でよく使われていたのが「千石船」、「弁財船」と呼ばれる船です。千石船は、文字通り1,000石、つまり150トンの荷物を積むことができる船です。特に日本海は波が荒いことから、船首の形状や船体の強度に対する工夫が必要で、長距離用に乗組員が少なく帆走能力に優れた船の開発が必要になりました。そこで登場したのが弁財船で、これが幕末以降主流になりました。

 

高見澤

 

おはようございます。最近、マスコミも含めよく日中経済関係の現状や今後の見通しについて見解を求められることが多くなりました。その多くは、米中貿易戦争と香港でのデモによる中国経済への影響で、対中ビジネスを展開する中で日系企業がどう対応していくべきかについての見解です。米中貿易戦争は、単なる貿易収支の問題ではなく、ハイテクによる米中両国の国家安全保障の問題が根底にあり、政治・軍事に関わることから、経済的観点だけで結論は出せません。また、香港問題は中国の内政に関わる問題で、将来的に台湾統一にも大きな影響が出かねないことから、こちらも安易な解決方法を選択するわけにもいかず、当面は成り行きをみるしかない状況です。中国をはじめとする新興国の台頭、情報通信技術の発展、グローバル化の進展など、地球規模での社会情勢の大変化が起きている中で、誰もがその対応に苦慮している状態です。

 

さて、本日は前回の「東廻り航路」に続いて、「西廻り航路」について紹介したいと思います。西廻り航路は、寛文11年(1671年)の東廻り航路の開拓に続いて、翌寛文12年(1672年)に河村瑞賢が整備した長距離の輸送ルートです。

 

その航路は、出羽国酒田(山形県酒田市)から日本海を南下し、佐渡、能登を経て下関(山口県下関市)から瀬戸内海に入り、瀬戸内海を通って「天下の台所」大坂に向かうルートです。出羽国最上郡の天領米は、最上川を下り酒田に集められていました。その後、大坂から紀伊半島をぐるりと回って江戸湾へと続いていました。江戸湾へは、東廻りルートと同様に伊豆半島の下田から、西南の風を待って入港していました。

 

この西廻り航路が整備される以前の日本海側の物資は、先ずは敦賀(福井県敦賀市)に集められ、敦賀港で船から積み荷を降ろし、その荷物を馬などに積み替えて陸路で琵琶湖まで運び、琵琶湖から小型船に積み替え、淀川経由で大坂に運んでいました。このため、積み替えに係る労力と時間、費用がかなり掛かる仕組みになっていました。

 

瑞賢による西廻り航路の整備によって、距離は大幅に伸びたものの、積み替えなしで一度に多くの荷物が運ぶことができるということで、コストも格段に低減することができたのです。しかもこの西廻り航路は、東廻り航路よりも安全なルートとして盛んに利用されていました。西廻りが東廻りより多く利用された理由として、日本海側は古くから航路が発達していて経済力のある良港が多く整備されていたこと、特に冬の季節以外は潮が安定していて航行がしやすく、波の穏やかな瀬戸内海を利用していたこと、天下の台所である大坂等の大商業都市とつながっていたことなどが挙げられます。この西廻り航路で活躍したのが、「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれる商業形態で、これについては後日改めて紹介します。

 

一方、東廻り航路は距離的に西廻り航路よりも江戸に近かったにもかかわらず、北に向かって流れる黒潮に逆らって南下する航海や津軽海峡や房総半島沖など難所があり、航海そのものが危険であったこと、江戸に米を送るだけで帰りの荷が少なく利益性が乏しかったこと、江戸より北には経済的に発展した港町が少なかったことなどがデメリットとして作用していました。

 

この西廻り航路が盛んに利用されることで、西日本の各地の港湾整備は大きく進められ、日本の物流は大きく発展する時代を迎えることになりました。しかし、その一方で敦賀や琵琶湖畔の港町は衰退することになり、荷の積み替えや輸送に携わる農民や町人の働き口が大きく減少し、庶民の生活を苦しめる結果にもつながってしまいました。

 

高見澤

 

おはようございます。久しぶりの瓦版です。会員の皆様は如何お過ごしでしたでしょうか?瓦版はお休みをいただいたものの、私は休みも取らず、9月9日からの日本経済界の訪中代表団派遣に向けた準備に追われる日々でした。この忙しさは9月下旬まで続きます。このお盆休みの間に、あおり運転で暴行事件を起こした男と、それをかくまったとして交際相手の女が逮捕されるニュースがトップで流れていましたが、このような輩が高級外車を乗り回し、堂々と公道を走れる世の中の不条理と日本人全体の民度の低下に驚かされます。日本人としての、そして人間としての尊厳を自覚して生きていきたいものです。

 

さて、本日は江戸時代の日本の海路の一つであった「東廻り航路」について紹介したいと思います。東廻り航路を開拓したのは、御用商人として名を馳せていた河村瑞賢です。伊勢国の貧農に生まれた瑞賢は、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」の際に信濃国木曽福島の木材を買占め、土木・建築で大きな利益を上げ、それ以降幕府の公共事業に係っていくことになります。

 

当時、全国各地の幕府直轄地で収穫された年貢米を、将軍の御膝元である江戸まで手間と費用とかけずにどう輸送するかが大きな課題となっていました。奥州から江戸へ輸送する廻米については、東廻り航路が開拓される前は、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖の通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて、内川江戸廻りの航路を使って江戸に運んでいました。

 

このルートでは、積み換えの手間と時間、コストがかかることから、江戸幕府は瑞賢に東北地方の廻米を直接江戸に運ぶルートの開拓を命じます。そして瑞賢は、寛文11年(1671年)に東廻りの航路を開拓し、翌寛文12年(1672年)に本州を逆廻りする「西廻り航路」を開拓しました。西廻り航路については、次回詳しく紹介したいと思います。

 

瑞賢が最初に開拓した東廻り航路は、阿武隈川河口の荒浜(宮城県仙台市)から太平洋を本州沿いに南下し、銚子より房総半島を迂回して相模国三崎から伊豆半島の下田に入り、西南の風を待って江戸湾に入港するルートです。その後、江戸時代後期には、西廻り航路の起点であった出羽国の酒田(山形県酒田市)から日本海を北上し、秋田、青森、津軽海峡を越えて太平洋に出るルートが整備され、日本海側と江戸を直接結ぶ航路がつながりました。

 

この航路が整備される以前にも、盛岡藩、仙台藩、米沢藩の蔵米が三陸諸港や石巻湊、荒浜などから恒常的に輸送されていたほか、弘前藩による青森港の整備、秋田藩による土崎港の整備が進み、津軽海峡を経由した廻米が行われていましたが、いずれも断片的なもので、銚子で積み換える必要がありました。そうした意味で、瑞賢が開拓した伊豆下田から迂回する方法は、画期的な船舶のルートであり、西廻り航路の開拓にもつながっていったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝は朝から騒がしいニュースが続いています。台風8号が宮崎市付近に上陸したのに続き、北朝鮮がまた飛しょう体を2回発射と韓国軍の発表したとの速報が流れています。日韓関係の更なる悪化、米中貿易摩擦による世界経済への悪影響など、安心のある生活というにはほど遠い現実です。明日8月7日から10日まで再び北京出張です。その後は夏休みということで瓦版は休刊とし、次回瓦版は8月19日(月)以降にさせていただきます。ご理解の程、よろしくお願い致します。

 

さて、本日からは陸を離れ、江戸時代の海路・航路について紹介していきたいと思います。先ずは江戸時代になぜ海路・航路の確保が必要だったかについてお話しましょう。

 

人や物資を運ぶ際に使われる交通手段と言えば、現在では自動車や鉄道の陸上輸送、船舶を使った海上・水上輸送、そして飛行機による航空輸送の三つの手段があります。このうち、最も安価で大量輸送できるのが船舶による海上・水上輸送です。江戸時代は自動車や鉄道、飛行機などは当然なかったわけですから、経済的にも物理的にも大量輸送は船舶に頼らざるを得ませんでした。もちろん、船舶輸送には難破や漂流といったリスクがあり、人や荷物が目的地に着くまでの日数もかかります。それでも船舶輸送が重宝がられたのは、そうしたリスクを冒してでも、安価に大量の人や荷物を運びたいという、経済的にも豊かな江戸時代ならではの需要があったからです。

 

戦国時代が終わり、江戸時代になると人々の生活が安定するとともに、経済が活発化するようになります。五街道をはじめとする主要幹線道路が整備され、陸路での輸送網が整備されたことはすでに紹介してきた通りです。一方、海路については、もちろん江戸時代以前から船舶による近距離輸送は行われていましたが、時代を経るに従って東北や北陸などの遠方から、江戸や大坂などの大都市へ人や物を大量に運ぶ需要が増え、全国各地をつなぐ長距離輸送を可能とする海路の開拓が必要となりました。

 

当時、江戸幕府にとって長年の課題だったのが、東北地方にある幕府直轄地「天領」から江戸への年貢米の安全かつ安価な大量輸送ルートの確保でした。それまでの輸送と言えば、陸路と海路の併用で、海路を使ったとしても近距離輸送が当たり前の時代ですから、とにかく荷物の積み替えに時間と労力、金銭の負担が大きくなっていました。ところが、産地から消費地まで積み替えなしで人や物資を運ぶことができる海路一本の直通ルートが開拓されることによって、江戸時代の物流の仕組みが大きく変わることになったのです。まさに「江戸の物流革命」と呼んでも良さそうな一大改革と言っても過言ではないかと思います。

 

次回は、「東廻り航路」と「西廻り航路」について紹介しましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、福島沖を震源とするやや強い地震があり、宮城県と福島県の一部で震度5弱を観測、東京でも揺れが比較的長く続きました。気象庁の発表では、2011年3月に起きた東日本大震災の余震とのことですが、すでに8年以上も経っている地震のエネルギーが未だ解放されずに留まっているというのも不思議な話です。余震の定義に拘るつもりはありませんが、地震発生のメカニズムの解明や現実的な対応策につながる地震研究が求められます。

 

さて、本日は乗物から離れて、江戸時代の人々の移動で当たり前であった徒歩についてみてみようと思います。ちなみに、現在、私が平日に歩く歩数は1万歩前後で、1歩当りの長さを70センチメートルとして計算すると7キロメートル程度、時間では1時間ほどになります。出退勤や昼食の行先、外部での会議などによって多少の違いはありますが、平均するとそんなところでしょうか。

 

江戸時代、一般的に、江戸から東海道を進んで京都に向かう場合、最初の宿泊地は程ヶ谷宿または戸塚宿でした。日本橋から程ヶ谷までは8里9町(約32.4キロメートル)、戸塚宿までが1018町(約41.2キロメートル)ですから、1日の行程はおよそ40キロメートルといったところでしょう。1日10時間歩いたと仮定して、時速は4キロメートル。成人男子ではもう少し速いかもしれません。

 

江戸日本橋から京都の三条大橋までの距離は126里6町1間(495.5キロメートル)で、通常は1415日で到着したといわれています。そうすると、1日当りの平均歩行距離は3335キロメートル、歩行時間は8~9時間になり、前述の過程とほぼ同じ結果になります。

 

『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛と喜多八の2人が江戸を出て最初に泊まったのは戸塚宿で、2日目は小田原宿、3日目が箱根宿です。戸塚宿から小田原宿までは39.5キロメートル、多少のアップダウンはありますが、比較的平坦な道が続きます。一方、小田原から箱根までは16.6キロメートルと距離は短いのですが、ご存知の通り急勾配の上りの坂道が続きます。当然、このような場合には、歩行速度が遅くなり、歩く距離も短くなります。

 

民謡「お江戸日本橋」の出だしで、「お江戸日本橋七ツ立ち...」という歌詞があります。「七ツ」とは「暁七ツ」、すなわち午前3時頃ですが、「七ツ立ち」はそれよりも半時(1時間)ほど遅い「七ツ半(午前4時頃)」に日本橋を発っていたものと思われます。夜が明ける半時前が「明六ツ(午前5時頃)」ですから、夜明け前に出発し、夕方日が暮れる前に次の宿に着くようにしていました。朝早く出発するのは、夏の暑い盛りには、午前中の涼しい時間帯に距離を稼いでおき、日中の暑い時間帯は休憩を取るようにしていたのではないかと思います。一方、江戸時代は不定時法を採用していたため、日中の時間帯が物理的に短い冬では、なるべく長い時間歩くようにしていたものと思われます。

 

ここから江戸時代の人々の歩いた1日当りの歩数を計算してみたいと思います。1分当たり150歩として計算すると、1時間で9,000歩、8時間では72,000歩、9時間では81,000歩となります。もちろん、これは旅に出た場合なので、日常の歩数はこれよりもずっと少なくなります。出退勤や外出、行楽などすべて徒歩によるものですから、旅の際の3分の1程度と見積もり、1日当たり25,000歩から30,000近くは歩いたものと思われます。私の2~3倍は歩いていたのでしょう。

 

こうしてみると、江戸時代の人々は現代人に比べてかなりの健脚だったことが分かります。江戸時代の道路は今のような舗装道路ではなく、土で固めた道だったので、脚にとっては少し楽だったかもしれませんが、それでも旅に出た場合に8~9時間歩き続けるというのは並大抵のことではありません。しかも履物は草鞋です。

 

彼らがこれだけ歩くことができたのは、「歩き方」に大きな違いがあるとの研究結果があります。草鞋や草履を履いていた頃の日本人は、地面に踵をしっかりとつけた歩き方をしていたのに対し、現代の日本人は靴を履くことでつま先に圧力をかけるようになり、歩き方が大きく変わったというのです。本当のところはよく分かりませんが、理に適った説ではあると思います。

 

高見澤

 

 

 

 

おはようございます。今朝、また北朝鮮が2発の短距離弾道ミサイルを発射したようです。2日前にも発射したばかりで、日本政府は北朝鮮の動向に目が離せない状態が続いています。日本は貿易管理の面でも、韓国とも外交・通商面で緊張が続いており、朝鮮半島情勢は先が読めません。地球は混迷のスパイラルに入ってしまったのかもしれません。

 

さて、本日は江戸の町に多発していた交通事故についてお話ししたいと思います。もちろん、江戸時代には自動車なんぞありませんので、交通事故といってもピンとこないかもしれません。それでも交通事故が頻繁に起きていたというのですから、いったいどういうことなのでしょうか?

 

これまで紹介してきたように、江戸時代には牛車や大八車といった車が走っていました。これらの車は速度も速くなく、事故など起こりようもないように思えますが、実は意外にもこれらの車に轢かれる交通事故が頻繁に起こっていたのです。

 

五街道をはじめとする各街道は比較的道幅が広く作られていましたが、江戸の町中の道路は狭く、物資を運ぶ車で混雑していました。元禄時代には1,0002,000台にも上る大八車が江戸にあったものですから、その混雑ぶりは予想以上かもしれません。

 

大八車によるほとんどの事故は、実は坂道で起きていたのです。東京都内を歩いてみるとよく分かりますが、江戸の町は至るところに坂道がありました。下り坂に差し掛かった大八車が一気に加速して制御不可能になることが少なくありませんでした。もちろんブレーキなどもなく、重い荷物を積んだ大八車が猛スピードで坂を転がり落ちれば、逃げ場を失った人たちは避け切れずに轢かれてしまいます。しかもその被害は大きく、命を落とす人も少なくなかったようです。また、牛や馬が何らかの刺激を受けて突然暴れ出し、牛車に轢かれたり馬に蹴られたりする事故もありました。

 

江戸の町でこうした交通事故が頻繁に起きていたことから、江戸幕府はその対策に乗り出します。車間距離の設定、積載量の制限、狭い路地での駐車禁止など、今の道路交通法にも通じるようなルールが設定されます。しかし、それでも事故が一向に減らないことから、享保元年(1716年)、幕府はついに罰則を設けました。

 

交通事故で人が死亡した場合、たとえ過失であったとしても、車を操作していた者は「島流しの刑」とされます。当時、島流しの刑は死罪に次ぐ重刑とされており、それほど江戸では交通事故の深刻さが問題となっていたのです。

 

しかし、それでも事故を防ぐことができず、寛保2年(1742年)に幕府は、死亡事故を起こしたものは死罪の上に家財没収という非常に厳しい刑罰を科すことにしました。そして事故を起こした当事者ばかりでなく、荷主に対しても罰金等の刑罰が科せられました。これもまた、連帯責任を重んじた江戸時代ならではの罰則なのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、米国FRB10年半ぶりに政策金利を0.25%引き下げると発表しました。米国では、昨年まで景気拡大路線が続き、利上げの方向で政策を続けてきましたが、やはり中国との貿易摩擦とそれに伴う世界経済の景気減速懸念から、金融緩和策に政策を転じることになったということでしょう。先月IMFが発表した今年の経済成長率予想も、4月に発表されたときと比べ0.1ポイント下落して3.2%としています。こうしたなか、日本では10月の消費税増税がどう国民経済に影響を及ぼすのか、楽観視できる状況にあるとは思えません。

 

さて、本日は江戸時代と「馬車」についてのお話をしたいと思います。当時、ヨーロッパでは一般的に使われていた馬車ですが、江戸時代の日本ではまったく使われることはありませんでした。幕末に日本を訪れた西洋人にとって、馬車が走っていないことは驚きの光景で、駕籠に乗って移動することは相当な苦痛を伴うものであったことが、当時の記録から分かっています。馬車が日本で使われるようになるのは、やはり明治に入ってからです。

 

江戸時代に日本で馬車が流行らなかった最大の理由は、江戸幕府がそれを禁じていたからです。当時の荷物輸送といえば、一部の限定された地域で牛車や大八車等が使われていましたが、大量の荷物輸送については海上や運河、河川、湖沼などを利用した船舶輸送が主流でした。江戸や大坂にたくさんの水路が縦横無尽に張り巡らされているのはそのためです。

 

寛政の改革(1787年~1793年)のとき、大坂の儒学者・中井竹山(なかいちくざん)が江戸幕府に対して馬車の採用を提案しています。中井は、輸送力のアップと運送コスト低減を理由に、馬車の採用を求めました。しかし、幕府側はこの提案を取り上げませんでした。その第一の理由は、馬車が軍事利用される危険性を危惧したからです。諸大名が馬車を利用して、大量の兵士や武器・武具・弾薬などをタイムリーに運ぶことができたからです。

 

第二の理由は、社会の仕組みに急激な変化がもたらされるからです。馬車の採用によって少人数での大量輸送が可能となり、駕籠舁や馬方(馬子)、人足たちの間で大量の失業者が生まれます。船舶による輸送も減り、船乗りも仕事を失うことになります。更に、馬車が道路を走ると道路や橋梁の傷みも激しくなって、舗装や橋脚の耐用年数の見直し、従来以上の修繕が必要になります。

 

第三の理由は、交通事故の増加に対する心配です。当時、江戸では大八車に轢かれて死亡する人が少なくなく、馬車の利用でそうした事故が急増することが懸念されたのです。

 

第四の理由は、武士の威厳・権威を護るためです。当時、馬に跨り手綱を取って乗ることができたのは、旗本以上の武士に限られるなど、厳格な身分制度が敷かれていたことは、これまで紹介してきた通りです。馬車を運転することは、馬の手綱を取ることと同じで、庶民が上級武士のように馬を操ることに我慢がならなかった、ということでしょうか。

 

こうした理由は、現代経済学の合理性からすればナンセンスなところも多くあります。しかし、合理性だけでは割り切れない部分も多分にあります。当時の社会情勢や人々の思考に目を向けることが大事です。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このアーカイブについて

このページには、2019年8月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2019年7月です。

次のアーカイブは2019年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ