東藝術倶楽部瓦版 20190801:【江戸の乗り物その10】江戸時代にはなかった「馬車」

 

おはようございます。昨晩、米国FRB10年半ぶりに政策金利を0.25%引き下げると発表しました。米国では、昨年まで景気拡大路線が続き、利上げの方向で政策を続けてきましたが、やはり中国との貿易摩擦とそれに伴う世界経済の景気減速懸念から、金融緩和策に政策を転じることになったということでしょう。先月IMFが発表した今年の経済成長率予想も、4月に発表されたときと比べ0.1ポイント下落して3.2%としています。こうしたなか、日本では10月の消費税増税がどう国民経済に影響を及ぼすのか、楽観視できる状況にあるとは思えません。

 

さて、本日は江戸時代と「馬車」についてのお話をしたいと思います。当時、ヨーロッパでは一般的に使われていた馬車ですが、江戸時代の日本ではまったく使われることはありませんでした。幕末に日本を訪れた西洋人にとって、馬車が走っていないことは驚きの光景で、駕籠に乗って移動することは相当な苦痛を伴うものであったことが、当時の記録から分かっています。馬車が日本で使われるようになるのは、やはり明治に入ってからです。

 

江戸時代に日本で馬車が流行らなかった最大の理由は、江戸幕府がそれを禁じていたからです。当時の荷物輸送といえば、一部の限定された地域で牛車や大八車等が使われていましたが、大量の荷物輸送については海上や運河、河川、湖沼などを利用した船舶輸送が主流でした。江戸や大坂にたくさんの水路が縦横無尽に張り巡らされているのはそのためです。

 

寛政の改革(1787年~1793年)のとき、大坂の儒学者・中井竹山(なかいちくざん)が江戸幕府に対して馬車の採用を提案しています。中井は、輸送力のアップと運送コスト低減を理由に、馬車の採用を求めました。しかし、幕府側はこの提案を取り上げませんでした。その第一の理由は、馬車が軍事利用される危険性を危惧したからです。諸大名が馬車を利用して、大量の兵士や武器・武具・弾薬などをタイムリーに運ぶことができたからです。

 

第二の理由は、社会の仕組みに急激な変化がもたらされるからです。馬車の採用によって少人数での大量輸送が可能となり、駕籠舁や馬方(馬子)、人足たちの間で大量の失業者が生まれます。船舶による輸送も減り、船乗りも仕事を失うことになります。更に、馬車が道路を走ると道路や橋梁の傷みも激しくなって、舗装や橋脚の耐用年数の見直し、従来以上の修繕が必要になります。

 

第三の理由は、交通事故の増加に対する心配です。当時、江戸では大八車に轢かれて死亡する人が少なくなく、馬車の利用でそうした事故が急増することが懸念されたのです。

 

第四の理由は、武士の威厳・権威を護るためです。当時、馬に跨り手綱を取って乗ることができたのは、旗本以上の武士に限られるなど、厳格な身分制度が敷かれていたことは、これまで紹介してきた通りです。馬車を運転することは、馬の手綱を取ることと同じで、庶民が上級武士のように馬を操ることに我慢がならなかった、ということでしょうか。

 

こうした理由は、現代経済学の合理性からすればナンセンスなところも多くあります。しかし、合理性だけでは割り切れない部分も多分にあります。当時の社会情勢や人々の思考に目を向けることが大事です。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年8月 1日 08:34に書いたブログ記事です。

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