東藝術倶楽部瓦版 20190731:【江戸の乗物その9】江戸の大八車、大坂では「べか車」

 

おはようございます。今日で7月も終わり、明日から8月です。梅雨も明けて、非常に暑い日が続いています。今朝も少し歩いただけで汗でびっしょり、汗臭さが気になり消臭スプレーが手放せません。周囲に対する気遣いも仕事のうちと割り切り、なるべく天然素材のものを使いたいですね。

 

さて、本日は主に大坂で使われていた人力の荷車「べか車(べかぐるま)」について紹介しようと思います。べか車は、漢字では「輇車」と表記され、後には「板車(いたぐるま)」と呼ばれました。

 

基本的な構造は大八車とほぼ同じで、長さは2間(約3.6メートル)ないしは6~7尺(約1.82.1メートル)、幅は大八車より少し狭く3尺(約91センチメートル)余りに作られていました。幅が狭く作られていた理由は、大坂の街の道幅が江戸のそれよりも狭かったからです。車輪は円板で二輪、板張りの台車の中央部に付いていました。大八車と大きく異なるところは、前に引手の横木がないところで、べか車は綱を使って引いていました。

 

べか車には、2人以上で押し引きして進む大型のものと、長く伸びた棒〔撞木(しゅもく)〕を1人で押して進む小型の2つのタイプがありました。大型のべか車は、前方で1~2本の綱を2~3人が引き、後方で1~2人が撞木を押し、これを「楫(かじ)」といって身体を掌っていました。通常のべか車の積載量は30貫(約112キログラム)、車力は2人です。作りが頑丈であったことから、木石など重量物の運搬にも使われていました。

 

べか車の名称が現れるのは安永年間(1772年~1781年)のことです。橋梁を破損させるとの理由で、安永3年(1774年)にべか車の橋上の通過が禁止されます。しかし、その当時はべか車が広く普及しており、上荷(うわに)船、茶船への影響が非常に大きく、関係者の請願により寛政3年(1791年)に禁止令から制限令に規制が緩和されています。文政7年(1824年)のお触れでは、橋梁の通過定数を1,678台としています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年7月31日 09:36に書いたブログ記事です。

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