東藝術倶楽部瓦版 20190730:【江戸の乗り物その8】1台で8人分の働き-「大八車」

 

おはようございます。昨日、関東地方は梅雨明けしました。気温も上昇し、暫くは暑い日が続きます。本日は朝から経済産業省で会議があります。午前中いっぱい外出です。暑い中の移動は、体力も消耗します。水分補給に気を使いたいですね。

 

さて、本日は再び江戸時代に話を戻し、荷車として使われた「大八車(だいはちぐるま)について紹介したいと思います。一般に大八車は、荷物の輸送に使われた総木製の人力の車として知られ、「代八車」と表記されることもあります。重い荷物を遠くへ運ぶ際には、これを牛に引かせて牛車として使うこともありました。ただ、基本的にこの大八車が使われていたのは江戸市中と駿府だけで、特に街道での利用は厳しく制限されていました。

 

大八車の形状は、前方に「ロの字」型の木製の枠があり、枠の後方に木を簀子張りに組んだ板が取り付けられ、その板の左右に車輪が設置されています。車輪は7枚の羽に21本の矢から成り、一般的に車輪は2つですが、中には4つの車輪を持つ車もありました。四輪は重い荷物を載せたときにバランスを保つことができますが、小回りが利かず、狭い道だと角を曲がりにくいという欠点があります。このため、二輪の大八車が主流となっていたようです。車輪は現在のような空気入りのタイヤではなく、木製でそれに鉄の箍(たが)がはめられており、振動や騒音はかなり大きなものであったと思われます。

 

大八車で主に運んだ物資は、炭や米を詰めた俵で、時には遺体を運ぶこともありました。大八車を引いて荷物を運ぶ人を「車力」、「車引き」と呼び、前から引いて大声で人を避けさせる役目と、後ろから車を押す役目のものがいて、2~3人1組というのが通常でした。運搬方法は、重い荷物が後部に偏らないようバランスに気を配りながら、荷物を荷台に置いて荒縄で固定し、前方の人が枠に入り、前掲して荷台を起こします。荷台と地面が平行になるよう引いていきます。江戸は坂道が多かったので、車での運搬は力ばかりでなく、気苦労も絶えなかったことでしょう。

 

大八車と同様の構造の荷車は、少なくとも平安時代から使われていたようですが、大八車として一般的に使われるようになったのは、やはり江戸時代のことです。元禄16年(1703年)に江戸町奉行所が行った調査では、江戸市中に1,273両の大八車が使われていたとのことです〔伝馬町で極印を押された大八車は2,239両との記録もある〕。

 

大八車の名称の由来については、①1台で8人分の働き(運搬)ができることから8人の代わりで「代八」、②車台の長さが1丈、9尺、8尺(約2.4メートル)、7尺、6尺のものをそれぞれ「大十車」、「大九車」、「大八車」、「大七車」、「大六車」と呼ぶところから付けた、③近江国(滋賀県)大津の八町で使われていた「大津八町の車」が略されたもの、④江戸芝高輪牛町の大工・八五郎が発明したというもの、⑤陸奥国(奥州)の針生大八郎が発明したというものなど、諸説あります。

 

後にこの大八車が発展し、大正10年(1921年)頃に荷車に箱枠を付けて車輪を空気入りのタイヤにしたリヤカーが発明されます。しかし、自動車の出現によって、大八車やリヤカーも次第にその姿がみられなくなりました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年7月30日 08:02に書いたブログ記事です。

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