2019年6月アーカイブ

 

おはようございます。大阪で開催されるG20サミット出席のため、各国首脳の続々と訪日しています。昨日は安倍総理と中国の習近平国家主席との日中首脳会談が行われ、来春、習主席が国賓として日本を公式訪問することが決まりました。日中関係は完全に正常軌道に戻ったと、お決まりの言葉で日中関係改善を強調していますが、政治もまた情勢によって変化する生き物ですから、予断が許されないところもあります。今のところ、日中経済関係は総じて良好に推移していますが、これもまた政治関係の動向に大きく左右されることは言うまでもありません。グローバル化、第四次産業革命の到来という国際情勢の大きなうねりの中で、日中関係も新たな発展を目指すことが求められています。

 

さて本日は、「下妻街道(しもつまかいどう)」について紹介したいと思います。下妻街道は、中川の自然堤防の上に築かれた古道で、平安時代の末期には奥州へ向かう主要道路としてよく使われていました。前九年の役(奥州十二年合戦)〔永承6年(1051年)~康平5年(1062年)〕や後三年の役(後三年合戦)〔永保3年(1083年)~寛治元年(1087年)〕では、奥州に向かった源頼義・義家父子の軍勢がこの道を通ったとされています。

 

下妻街道は、千住宿で日光街道から分岐し、綾瀬川からさらに中川沿いを北上し、吉川(埼玉県吉川市)、野田(千葉県野田市)、水海道(茨城県常総市)、下妻(下妻市)、下館(筑西市)、益子(栃木県益子町)を経由して、喜連川(きつれがわ)〔さくら市〕で奥州街道に合流する約150キロメートルの道程です。常陸国下妻を通ることから「下妻道」とも呼ばれるようになり、日光街道、或いは奥州街道の脇街道として大いに利用されました。

 

高見澤

 

おはようございます。本日の東京都心は太陽が照りつける汗ばむ陽気となっています。とはいえ、今は梅雨。西日本では梅雨前線の動きが活発化して九州や四国では今朝から大雨に見舞われているようです。沖縄付近にある熱帯低気圧も台風に発達して北上、日本列島に接近、上陸する可能性もあるようです。今夜辺りから関東でも降り始めるとの予報です。天災もまた人災、警戒することに越したことはありません。

さて、本日は「下田路(しもだみち)」について紹介してみたいと思います。下田街道は、東海道の三島宿(静岡県三島市)にある三嶋大社を起点に、原木村、大仁村(いずれも伊豆の国市)、湯ヶ島村(伊豆市)、梨本村(河津町)、芽原野村、箕作村を通って下田村(いずれも下田市)に至る延長171421歩(約60キロメートル)に渡る街道です。

 

湯ヶ島村と梨本村の間には、下田道最大の難所である「天城峠(あまぎとうげ)」があります。伊豆半島の中央を縦断する下田街道ですが、天城山が伊豆地方を南北に分断していることから、南伊豆では古来物資の輸送は海運に依存するところが多かったようです。このため、律令時代から交通路として存在はしていたものの、この街道の整備は遅れ、人馬継立が行われるようになったのは江戸時代中期になってからのことでした。

 

江戸幕府成立すると、伊豆国の大半は天領となります。しかし、元禄10年(1697年)以降、旗本領が増加し、伊豆国周辺にも領地が置かれるようになり、特に江戸中期以降、伊豆半島への通行が増加したために、人馬継立場が設置されるようになったものと思われます。このことが資料から確認できるのは寛保2年(1742年)のことです。

 

下田路最大の難所である天城峠を越えることを「天城越え」と呼び、松本清張の小説のタイトルや石川さゆりのヒット曲の題名にもなっています。寛政5年(1793年)、老中・松平定信が海防巡視のために天城峠を越え、米国領事タウンゼント・ハリスが日米修好通商条約折衝のために江戸に向かう際に、この峠を利用しています。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、中国四川省成都から日本に戻ってきました。今回の中国出張は、先ず北京で経済産業省と工業信息化部(工業情報化省)との自動運転に係る日中協力についての会議に参加。その後内陸部の重慶市に移動し、自動運転に関連する市政府機関への交流調査、そして実際に公道実証試験している自動運転車への試乗・視察。その後成都に移動して、成都から全日空の直行便で成田に戻ってきたという次第です。重慶は直轄市、成都は四川省の省都と、いずれも内陸部の大都市です。地理的には300キロメートルほどしか離れていませんが、地形がかなり異なり、それぞれ地形に合わせた形での都市建設が行われています。古い街並みを残しつつ、現代的にも大きく発展するこの2大都市を、じっくりと見比べてみるのも余裕があればしたいところです。

 

さて、本日は「赤山街道(あかやまかいどう)」について紹介していきたいと思います。ここ最近は道中奉行の支配下にある脇街道ではなく、こうした諸藩や勘定奉行所管の街道を紹介していますが、これもまた調べてみると面白く、暇があればぜひ実際に歩いてみたいと思うところです。

 

赤山街道は、江戸時代に関東郡代の伊奈氏が寛永6年(1629年)に陣屋を構えた赤山(埼玉県川口市赤山)に向かう道として整備したものです。伊奈氏は、清和源氏の流れを汲んでおり、信濃国伊那に住んでいたことから「伊奈氏」を称し、後に三河国・松平氏、徳川家康に仕えるようになりました。家康の江戸入府後に、伊奈氏は武蔵国小室(埼玉県伊奈町)、鴻巣(埼玉県鴻巣市)などに1万石を領有し、小室や土屋(さいたま市)などに陣屋を置いて累代治水事業に力を注ぎました。

 

赤山に陣屋を構えたのは、元和4年(1618年)に病死した兄・伊奈忠政の後を継いで関東郡代の職に就いた伊奈半次郎忠治です。忠治は関東郡代のほか、勘定奉行の職も兼務し、赤山領7,000石を拝領し、そこに陣屋を構えたのです。この陣屋を「赤山陣屋」と呼び、在地支配と開発事業の拠点とすることを目的としていました。赤山陣屋は、現在の東京外環道・東北自動車道の川口Jct東南側に位置する場所にあり、空堀や土塁が往時のままに残されています。本丸と二の丸部分だけで110,000平方メートルあり、周囲に広がる家臣の土地や菩提寺などを合わせると770,000平方メートルに及ぶ広さとなり、「赤山城」と呼ばれたりもしています。

 

忠治は、治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永6年には八丁堤(はっちょうづつみ)を築き見沼溜井(みぬまためい)の造成に着手しました。それら土木工事を進めるための現地と赤山陣屋との連絡、物資輸送を目的に整備されたのが、赤山街道です。赤山街道には3つの筋道があったとされています。

 

その一つが「大宮道」です。大宮道は赤山陣屋からさいたま市方面に向かい、さいたま市西区にある永田陣屋までの道筋です。もう一つが「越谷道」です。この道は赤山陣屋から越谷を通り、松伏町杉浦陣屋までのルートです。そして三つ目が「千住道」です。これは赤山陣屋から千住方面に向かい、綾瀬小菅御殿までの道です。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の瓦版で大阪府吹田市の拳銃強奪事件について冒頭で紹介した直後に、犯人確保のニュースが飛び込んできました。犯人の父親が事件後すぐに自分の息子ではないかと警察に情報提供したとのことです。身内のことをあまり外には話せない風潮がある中で、この父親の勇気ある対応には学ぶべきところがあります。子育てには、自分一人では解決できないことはたくさんあります。昔のように社会全体で子育てすることは、核家族化やプライバシーが浸透している現代では難しいでしょう。また、行政に頼ることも現実的とは言えませんね。ところで、早ければ明日、遅くとも明後日からまた出張が入りました。今週から来週初めにかけて瓦版も休刊とさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「伊奈街道(いなかいどう)」について紹介したいと思います。この道はすべての道が道中奉行所管の脇街道に属するものではありませんが、江戸の庶民にとって重要な道であったことから、敢えてここで紹介しようと思った次第です。

 

伊奈街道は、初期には「伊奈道(いなみち)」と呼ばれ、武蔵国五日市(いつかいち)宿〔東京都あきる野市〕の東にあった「伊奈集落」と高円寺〔東京都杉並区〕を結ぶ街道のことです。この道は、後に「五日市街道」と呼ばれるようになります。

 

伊奈街道は、伊奈集落を出て、山田、引田、渕上とほぼ現在の五日市街道を東に進み、次いで代継(よつぎ)、油平(あぶらだい)、牛沼、雨間(あめま)と現在の睦橋通り(むつみばしどおり)付近をたどり、野辺を過ぎて「小川の渡し」〔上記地名はいずれもあきる野市〕で多摩川を渡河して拝島〔東京都昭島市〕に入ります。拝島からは二通りの道があり、一つは今の奥多摩街道に沿う道で、田中、中神、築地(ついじ)〔いずれも昭島市〕を経て立川の柴崎村〔東京都立川市〕に入り、そこから甲州街道に抜ける道筋です。もう一つの道は、拝島から現在の玉川上水に近い道をたどり砂川村の天王橋〔東京都立川市〕に至り、そこから今の五日市街道を通って高円寺に抜ける道筋です。

 

伊奈集落は、壬平2年(1152年)に、信濃国伊那谷から12人の石工(石切職人)が良質な石材を求めて武蔵国増戸(ますこ)辺り〔あきる野市〕にやってきて拓いた村とされています。ここの石材は「伊奈石」と呼ばれ、なかでも「伊奈臼」と呼ばれる伊奈石で作られた石臼は軽くて挽きやすいことで評判の代物でした。この伊奈村は中世以来、宿場町として発展し、戦国時代末期には市が立って賑わっていました。

 

天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入府すると、江戸城の修築が始まります。そこで、石切りに長けた伊奈の石工の腕が買われ、徴用されることになりました。石工たちは江戸市中と伊奈の間を頻繁に行き来するようになります。このため伊奈街道の往還路は、江戸市中では伊奈道、伊奈では「江戸道」とも称されていました。

江戸城の修築が完成すると、石工の往来は減っていきます。一方、薪炭の生産地である檜原村(ひのはらむら)〔東京都檜原村〕に近い五日市宿に薪炭取引の市が設けられるようになり、伊奈街道は次第に五日市宿からの薪炭輸送が主流になって、伊奈村の宿場町としての賑わいは失われていきました。享保20年(1735年)、五日市宿は江戸幕府から炭運上(炭税)徴収の委託を受けたことから、炭の生産者を支配することにより急成長を遂げます。伊奈村の衰退によって、伊奈街道はいつの間にか五日市街道と呼ばれるようになりました。また、武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地方の農産物を江戸市中に運ぶ重要な道として位置付けられ、更に発展していくことになります。

 

高見澤
 

おはようございます。梅雨の合間の晴れ間とでも言えるでしょうか、今朝も昨日に続いて気持ち良く太陽が雲の合間から顔をのぞかせています。昨朝大阪吹田市で起きた拳銃強奪事件ですが、先ほどその容疑者に対する逮捕状が出され、東京都品川区に住む男が指名手配となっています。大阪ではG20首脳会議が間近に迫り、主要国要人の来日が予定されているなか、早急に犯人逮捕が望まれるところです。

 

さて、本日は「塩の道」として知られる「千国街道(せんごくかいどう)」について紹介したいと思います。古来、塩が採れなかった内陸地には、海に面した地域から塩を運ぶ必要があり、その塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいました。越後国糸魚川と信濃国松本を結ぶ千国街道は、代表的な塩の道として知られています。越後国では「松本街道」、信濃国では「糸魚川街道」とも呼ばれ、その距離は約130キロメートルに及びます。

 

戦国時代、甲斐国の武将・武田信玄が従来同盟関係にあった駿河国領主の今川氏真との関係が悪化し、駿河国からの塩の供給が止められた際に、越後国の敵将・上杉謙信が越後国で採れた塩を信濃国に送ったとされる義塩の美談があります。「敵に塩を送る」という成語の由来になった話で、その塩もこの千国街道を利用して送られたといわれています。ただ、この義塩の話は、謙信があくまでもビジネスの観点から塩の供給を止めなかったというだけのことで、後世の人々が義に厚い謙信の人柄を思い憚って美談に創り上げたものというのが、史実のようです。

 

千国街道は、途中にある信濃国小谷(おたり)村千国宿にその名称の由来があります。この街道が代表的な塩の道として認識された背景には、道筋に古道そのままの姿が残されているからとだ思われます。千国街道北部は糸魚川/静岡構造線の大断層に沿うように流れる姫川とともに、白馬佐野坂から糸魚川へと道が続いています。

 

青森県の三内丸山遺跡からは、信濃国和田峠の黒曜石とともに糸魚川の翡翠が出土しています。出雲大社の重要文化財である「翡翠玉」は糸魚川原石由来との鑑定結果が出ているとのことで、千国街道が「翡翠の道」とも呼ばれているそうです。また、神話時代には「諏訪様入信の道」であったとされ、以下のような話があります。

 

越国の「奴奈川姫(ぬながわひめ)」は、出雲国の王である「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と結婚し、「建御名方命(たてみなかたのみこと)」を授かりました。大国主命は建御名方命を連れ出し出雲に帰りました。この頃、大和朝廷が権力を強め、出雲国と交渉し、国譲りが行われていました。建御名方命はこれに反対し、その後戦いに敗れ、母の国である越国を通って信濃国諏訪の地へと逃れました。その際に塩の道である千国街道を通って諏訪へと向かったのではないかと思われています。後に建御名方命は大和朝廷と和解し、諏訪の祭神「諏訪様」として祀られたということです。7年ごとに行われる諏訪大社の「御柱祭」の前年に、小谷村土戸(とど)にある小倉明神と境の宮諏訪社で交互に行われる「薙鎌(なぎかま)打ちの神事」は、諏訪明神の神威が直接及ぶ範囲を示す神事であり、同時に建御名方命が母である奴奈川姫の故郷・越国への思いを示したものであるとされています。

 

千国街道は参勤交代の大名行列の往来はなく、もっぱら海側から塩や海産物を内陸に、内陸からは麻や煙草を海側に運ぶ「暮らしの道」でした。深い谷間の道を牛方(うしかた)や歩荷(ぼっか)が荷物を運びます。牛方とは、牛を使って荷物を運ぶ運送者で、雪のない季節に沿道の農民たちが農繁期の合間に行っていた「作間稼ぎ(さくまかせぎ)」のことを指します。歩荷は、特に雪が降り始めてから活躍する運送者で、荷物を背負って運ぶ人たちです。こちらも主に街道筋の農民が従事していました。

 

高見澤

 

おはようございます。安倍首相がイラン訪問中に起きた昨日のホルムズ海峡での日本企業が運営するタンカーへの攻撃は、日本経済にとっても大きな衝撃となりました。原油価格が高騰し、国連もその対応に動き始めたようです。昨日の講演会でも、朝鮮半島非核化とともにイラン核合意に係る問題が世界経済へのリスク要因だと述べたばかりでした。香港でも逃亡犯条例の改正を巡って大規模なデモが発生するなど、混迷を極める世界情勢が今後どうなっていくのか。ICTによって世界がグローバルにつなっていく現代社会だけに、いずれは我々の生活にも何らかの影響が出てくるものと思います。各地で起きている一つ一つの出来事が、他人ごとでは済まされない事態となっているのです。

 

さて、本日は「青梅街道」について紹介したいと思います。江戸時代の青梅街道は、甲州街道の第1の宿場である内藤新宿で甲州街道から分岐し、青梅を経由して甲斐国酒折(さかおり)〔山梨県甲府市〕で甲州街道と再合流する道のことです。このため、別名「甲州裏街道」とも呼ばれていました。

 

内藤新宿のこの分岐点を「新宿追分(しんじゅくおいわけ)」と呼び、今でもその地名が残っています。現在の青梅街道の起点よりも100メートルほど南の地点である「思い出横丁」の入り口付近には、本来の青梅街道が現在の角筈(つのはず)ガード付近を通っていたことを示す碑が置かれています。

 

新宿追分を出た青梅街道は、中野宿(東京都中野区)、田無宿(東京都西東京市)、小川宿(東京都小平市)、箱根ヶ崎宿(東京都瑞穂町)、青梅宿(東京都青梅市)、氷川宿(東京都奥多摩町)を経て甲斐国に入り、丹波宿(山梨県丹波山村)、塩山(えんざん)宿〔山梨県甲州市〕、小原宿(山梨県山梨市)を通って酒折宿に至ります。青梅街道最大の難所は、丹波宿と塩山宿の間にある大菩薩峠であることから、「大菩薩峠越え」との異名もあります。中里介山の未完の小説『大菩薩峠』の舞台にもなった場所です。

 

道程からすると、内藤新宿と酒折の間は、青梅街道の方が甲州街道よりも2里(8キロメートル)ほど短く、塩山近くに小規模な萩原口留番所があるくらいで大きな関所がなかったことから、庶民が多く利用していました。とはいえ、道幅は狭く荷を積んだ馬が通れず、人が荷を背負って運び、冬は風雪が激しくたびたび遭難者が出たほどの難所でした。それでも物資輸送上の必要性から人の往来は盛んだったようです。

 

そもそもこの青梅街道は、慶長3年(1603年)に江戸城修築のため、武蔵国多摩郡上成木(かみなりき)村と北小曽木(きたおそき)村〔いずれも青梅市〕で産出した石灰(御用石灰)を運ぶ道として整備されたものです。そのため当初は「成木街道(なりきかいどう)」、「石灰街道」、「あく(灰汁)つけ街道」、「白粉(おしろい)道」、「御用白土伝馬街道(ごようしらつちてんまかいどう)」などと呼ばれていました。現在、成木街道は東青梅で青梅街道から分岐して上成木に向かう道を指しているようです。

その後、石灰は民間の需要にも応えるようになり、更に薪炭(しんたん)などの林産物や武蔵野新田の農産物の輸送にも利用されたほか、青梅の御嶽神社や秩父巡礼の通行路としても使われていました。天保5年(1834年)刊行の『御嶽菅笠(みたけすげがさ)』には、「荻久保(荻窪)の中屋の店に酔伏せて」と、当時の賑わいを偲ばせる記述がみられます。

 

高見澤
 

おはようございます。現在、我が職場では即戦力となる若手の人材募集をしています。人材派遣会社を通じて募集し、昨日も2人の面接試験を行いました。一般に、財団法人や社団法人といった団体組織は、業務的に忙しいイメージはありませんが、我が職場は残業や海外(中国)出張は日常茶飯事で、表舞台には出難い下積みの仕事が業務の大半を占めています。しかも、裏方の業務に終始する者と、下積みの苦労を活かして表舞台で活躍する者とに分かれ、裏方で終始しようとすれば、いわゆる「やっつけ仕事」で終わるわけですから、まあ給料以上の仕事をしようとする気持ちにもならないでしょう。それは人それぞれの価値観ですから、どうこう言うつもりはまったくありません。とはいえ、せっかく下積みの苦労をしてそれなりのスキルを身に付けたのですから、それを活かしてもっと世界を広げ、更に成長していきたいという気持ちも大事かと思います。逆に、そうした地道な苦労があるからこそ、表舞台に出たときに、しっかりとした裏付けがあるわけですから、自分の自信にもつながるし、根拠ある話ができるのです。テレビやSNS等で華々しい世界が目立つわけですが、先ずはその裏にある厳しい現実を知ることが最初の課題かと思います。明日は、国際善隣協会というところで講演を行う関係で、瓦版をお休み致します。

 

さて、本日は「佐渡路(さどじ)」の一つに数えられる「会津街道(あいづかいどう)」について紹介したいと思います。佐渡路とは、中央から佐渡に通じる陸海路を指します。古代の駅路では小路としての北陸道で、海路は越前国敦賀(つるが)津より渡船して、越中国亘理(わたり)湊を経て佐渡に至るルートです。

 

江戸時代には、脇街道として、中山道の信濃国追分宿から分岐して越後国出雲崎宿に出る「北国街道」、中山道の上野国高崎宿から分岐して越後国寺泊宿に出る「三国街道」、そして奥州街道の陸奥国(磐城国)白河宿から分かれて越後国新潟に出る会津街道の3つを「佐渡三道」と呼んでおり、出雲崎、寺泊、新潟がそれぞれ佐渡への渡海場になっていました。

 

この佐渡三道のうち、北国街道と三国街道はすでに説明したので、ここでは会津街道について紹介したいと思うわけです。佐渡路が、佐渡で採掘された大量の金銀輸送や幕府役人等の通行のために重視されていた街道であったことは、北国街道や三国街道のところで説明した通りです。

 

江戸幕府は、陸奥国会津(福島県会津若松市)を東北地方で最も江戸に近い城下町として重視し、寛永20年(1643年)に保科正之を出羽山形藩から移封します。そして、会津を中心に各地に向けて会津街道と呼ばれる道、なかでも「会津五街道」が主要道路が整備されます。

 

会津五街道には、会津大町から下野国今市(栃木県日光市今市)に向かう「下野街道(日光街道、南山通り、関山街道)」、陸奥国白河(福島県白河市)に向かう「白河街道(若松街道、会津本街道、会津越後街道)」、出羽国米沢(山形県米沢市)に向かう「米沢街道」、越後国新発田(しばた)〔新潟県新発田市〕に向かう「越後街道」、陸奥国(岩代国)二本松(福島県二本松市)に向かう「二本松街道」がありました。このうち、越後街道が越後国側からみた会津街道となり、白河街道と合わせて佐渡路とされていました。

 

新発田から会津までは23里(約92キロメートル)、会津から白河までが17里(約68キロメートル)でした。新発田藩と会津藩との藩境には口留番所(くちどめばんしょ)〔関所〕があり、新発田藩側は山内(やまうち)口留番所、会津藩側は赤谷(あかたに)口留番所がそれぞれ設置されていました。

 

この街道は、米など会津地方の特産品の送り出しや、北海道・日本海側の海産物・塩などを運ぶ重要な役割を果たしたほか、新発田藩や村上藩の参勤交代にも利用され、「殿様街道」とも呼ばれていました。もちろん、佐渡金山関係者の行き来にも使われていたことはいうまでもありません。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は激しく降っていた雨も、今朝はすっかりやんで少し肌寒い感じの朝を迎えています。東京都心の今日の天気予報は曇り、夜は降水確率が上がり、明日は雨模様とのこと。梅雨らしく、傘が手放せない日が続きます。

 

さて、本日は「東金御成街道(とうがねおなりかいどう)」について紹介したいと思います。東金御成街道は、徳川家康が慶長18年(1613年)に老中・佐倉藩主・土井勝利に命じて作らせた道で、慶長19年(1614年)正月から工事が始まり、元和元年(1615年)11月に完成したとされています。下総国船橋から上総国東金まで、下総台地の分水嶺を南北に貫く全長約37キロメートル、幅3間(約5.5メートル)の道です。両側には松が植えられ、小川には橋を架け、谷間には土手が造られていました。

 

この街道は、沿道の村97ヶ村の農民を総動員して三日三晩、昼夜兼行で作ったといわれ、別名「一夜街道」、「提灯街道」とも呼ばれ、また、家康の別称から「権現道」などとも称されています。船橋から東金までは枡形道や曲尺手のない直線道路であることが大きな特徴で、街道の沿線には、将軍が休息・宿泊するための施設として、船橋御殿、千葉御茶屋御殿、千葉御殿、東金御殿、土気(とけ)御殿などが造られました。東金(田間)から先の同じ上総国の山武(小松)までは「砂押街道」と呼ばれる道があり、この道も東金御成街道と同時に造成されました。

 

この街道が作られた目的は、家康が九十九里方面での鷹狩りをするためと言われています。しかし、単なる鷹狩りだけでこうも短期間で直線的な道路を整備する必要はなく、内実は、大久保忠隣(おおくぼただちか)が謀反を企てているとの情報を得た家康が、鷹狩りを口実に九十九里方面の検分を行うために急遽作らせたとの説もあります。また、この街道は九十九里浜の干イワシの輸送路としても利用され、繁栄したといわれています。

 

将軍の身の安全を確保するために、東金に向かうルートとして「土気道(土気往還、大網街道)」など複数の道が設けられていました。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日6月7日は旧暦の端午節、その日に関東甲信地方は梅雨入りとなったようです。今年の梅雨入りはほぼ平年(6月8日)並みということですが、今年は太平洋高気圧の張り出しが弱く、梅雨明けは平年(7月21日)より遅くなる可能性があるとの見方もあります。今朝の東京都心は雨、梅雨の季節を肌で感じさせる1日となりそうです。

 

さて、本日は「佐倉街道(さくらかいどう)」について紹介したいと思います。佐倉街道も江戸時代の脇街道の一つで、別名「佐倉道(さくらみち)」とも呼ばれ、下総国佐倉城を終点とする道です。佐倉街道と呼ばれる街道には、主に「水戸佐倉道」と「千葉佐倉道」の2つのルートがありますが、江戸幕府が公式に佐倉街道、或いは佐倉道としていたのは水戸佐倉道です。

 

水戸佐倉道は、以前紹介した水戸街道の新宿(にいじゅく)追分〔東京都葛飾区〕と佐倉を結ぶ街道です。一方の千葉佐倉道は下総国寒川湊(現在の千葉港)と佐倉を結ぶ街道を指します。

 

新宿追分で水戸街道と分かれた佐倉街道(水戸佐倉道)は、中川と江戸川を越えて八幡(やわた)宿〔千葉県市川市〕、船橋(千葉県船橋市)などを経て佐倉に達します。八幡宿までは道中奉行支配、その先は勘定奉行支配とされていました。佐倉藩主などの参勤交代のほか、成田山新勝寺(成田不動尊)への参詣にも使われ、下総北部と江戸をつなぐ重要な交通路となっていました。成田へは、佐倉から芝山を経て九十九里浜、或いは多古を経て佐原に至る「多古街道」があり、芝山に至る途中の酒々井(しすい)で分岐して酒々井宿を経て成田に通じていました。文化年間(1804年~1818年)頃からは「成田街道」、或いは「成田道」とも呼ばれるようになりました。

 

もう一方の佐倉街道(千葉佐倉道)は、中世に千葉氏が千葉の亥鼻城(いのはなじょう)と佐倉城を結ぶために作ったことに起源を有する由緒ある街道で、江戸時代に入り佐倉藩が佐倉城と寒川湊を結ぶ街道として整備したものです。この道もまた成田山詣での旅行客によく利用された道で、江戸から江戸湾経由で寒川湊に上陸し、千葉妙見宮或いは千葉寺を参拝してから成田山に向かうには非常に便利なルートでした。このため、こちらも「成田道」、或いは「成田千葉寺道」とも呼ばれています。

 

高見澤
 

はようございます。今朝の東京都心の蒸し暑さは、身体に応えます。天気予報では曇りのち雨と、確かにじわじわと湿度の高まりを覚えるところです。そういえば、来週月曜日から水曜日まで予定していた北京出張が急遽延期になりました。シンポジウムが、中国側の出席者の都合で延期せざるを得ず、いつ次に開催が決まるかは目途が立っていません。日本からは環境省の事務次官が出席することになっていたために、時間調整が手間取ることでしょう。

 

さて、本日は「大山街道(おおやまかいどう)」について紹介したいと思います。大山街道は「大山道(おおやまみち、おおやまどう)」とも呼ばれ、江戸時代に関東各地から相模国大山〔神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1,252メートルの山〕の山頂に鎮座する「大山阿夫利(おおやまあふり)神社〔伊勢原市〕に通じる参詣道の総称です。大山を中心に放射状に広がり、その数は主なものでも8道、その他にも数多く存在するばかりか、時代によって変化する道もあって、記録されていた通りでないこともしばしばあるそうです。

 

もともと大山は雨乞いに霊験のある山として「雨降山(あふりやま、あめふりやま)」とも呼ばれ、昔から近隣の農民たちの山岳信仰の対象とされてきました。人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝わる大山阿夫利神社は、農民から五穀豊穣や雨乞いの神として信仰され、特に日照りや飢饉が続くと、多くの農民たちが参詣に訪れました。江戸時代には関東各地で「大山講」と呼ばれる相互扶助組織が設けられ、毎年4月5日~4月20日の「春山」と7月27日~8月17日の「夏山」の期間には特に人が多かったようです。江戸日本橋小伝馬町界隈の職人を中心に結成された大山講である「お花講」の人たちは、毎年夏開きの行事として大山山頂の木戸(登拝門)の開扉を行っていました。

 

道中の参詣者は、白の行衣(ぎょうい、ぎょうえ)、雨具、菅笠、白地の手っ甲、脚絆(きゃはん)、着茣蓙(きござ)という出で立ちで腰に鈴をつけ、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の掛け念仏を唱えながら数人から数十人が一団となって大山に向かいました。最盛期であった宝暦年間(1751年~1764年)には年間約20万人が訪れたというのですから、かなりの賑わいをみせたことでしょう。

 

関東各地から大山に向かう大山街道のうち、8道とされる主要街道は以下の通りです。

①田村通り大山道:東海道藤沢宿四ツ谷から田村の渡し(相模川)を越えて大山に向かう道。

②青山通り大山道(矢倉沢往還):江戸赤坂から青山を経て二子の渡し(多摩川)、厚木の渡し(相模川)を越えて田村通りに合流。更には善波峠(秦野)を越えて松田惣領、矢倉沢を経て最終的には東海道沼津宿に至る。

③柏尾通り大山道:東海道戸塚宿不動坂(柏尾町)から戸田の渡し(相模川)を越えて青山通りに合流。

④八王子通り大山道:中山道熊谷宿から甲州街道八王子宿、久所(ぐぞ)の渡し(相模川)、才戸の渡し(中津川)を越えて青山通りに合流。

⑤府中通り大山道:日光街道粕壁宿から羽根倉の渡し又は秋ケ瀬の渡し(荒川)を越えて甲州街道府中宿に至り、中河原(関戸)の渡し(多摩川)、磯部(猿ケ島)の渡し(相模川)を越えて八王子通りに合流。

⑥六本松通り大山道:東海道小田原宿から飯泉の渡し(酒匂川)を越えて、六本松、坂本村から大山に至る道。

⑦羽根尾通り大山道:東海道小名向原から羽根尾、小竹、遠藤、久所を経て六本松通りに合流。

⑧蓑毛通り大山道:寺山村から蓑毛、子易を経て田村通りに合流。

 

この他にも大山に向かう街道として、川越街道下練馬村からの「ふじ大山道」、高麗川(日高)からの「武蔵秩父日高・飯能道」、横瀬から青梅を経る「武蔵秩父大宮道」、甲州街道関野宿又は日連村(ひづれむら)からの「津久井大山道」、甲州街道上椚田(かみくぬぎだ)の「甲州街道浅川口大山道」、東海道平塚本宿の「中原豊田通り大山道」、東海道平塚新宿からの「粕屋通り大山道」、東海道平塚八幡神社からの「矢崎原通り大山道」、東海道大磯宿西側の西小磯村〔伊勢原道〕又は万田(平塚)〔波多野道〕からの「伊勢原通り大山道」、東海道二ノ宮村からの「二ノ宮通り大山道」など、書ききれないほどのルートがあります。また、房総半島や伊豆半島からは海路を使って武蔵国金沢や相模川河口に渡り、そこから大山に向かう経路もありました。

 

このうち「ふじ大山道」は、「富士講」による富士山への参詣者もよく利用したことからその名が付けられました。当時、富士山への参詣者は大山にも参詣する「両詣り」が通例となっていたようで、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられています。これは大山阿夫利神社の御祭神が、富士山の御祭神である木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)の父君である大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)であるからとされています。

 

高見澤

 

おはようございます。日立製作所会長で日本経団連の会長を務める中西宏明会長が、先日から検査入院していましたが、リンパ腫との診断を受け、しばらくの間治療に専念することになりました。日本経済界の各種活動にも何かと影響が出て来るものと思われます。米中貿易摩擦の世界経済への影響が懸念され、日本の役割が試されようとしているなか、日本経済界全体として難しい立場に立たされているような気がします。一日も早い回復を願うばかりです。

 

さて、本日は「鎌倉街道」について紹介していきたいと思います。そもそも古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代に幕府が置かれていた鎌倉と各地を結んだ道路の総称で、鎌倉幕府の御家人たちが「いざ鎌倉」という有事の際に鎌倉殿(将軍)の下に駆け付けることができるように整備されたものでした。

 

鎌倉を中心として放射状に延びた道路網は、鎌倉番役を交代で奉仕していた東国15カ国(遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽)に渡る範囲ものと思われています。ですから、鎌倉街道といっても1本の道ではなく、たくさんの鎌倉に向かう道を指していたのです。その中でも特に重要な幹線道路として、「上道(かみつみち、かみのみち)」、「中道(なかつみち、なかのみち)」、「下道(しもつみち、しものみち)」と呼ばれる各国の国府を通る街道がありました。

 

上道は、鎌倉から武蔵、上野の国府を通り碓氷峠を越えて信濃に至る道です。中道は、東海道筋をたどる京鎌倉往還と鎌倉から甲斐とを結ぶ道、そして下野の国府を通って白河関を越える道です。下道は、常陸の国府を通って勿来(なこそ)関を越えて奥州に通じる道です。これら3本の幹線に、各所で支線が交わることになります。しかし、当時は鎌倉街道という呼称はなかったようで、この街道名が一般的に用いられるようになったのは、江戸時代以降のことだと考えられています。

 

江戸時代の文化・文政年間(1804年~1830年)に江戸幕府によって編纂された江戸及び周辺地域の地誌に、この鎌倉街道という呼称が頻用されています。この頃、江戸周辺の住民が、鎌倉街道と口伝する道があったことが分かっているようです。鎌倉街道は、「鎌倉往還」や「鎌倉道(かまくらみち)」という呼称のほか、「鎌倉海道」という表記もみられます。

 

鎌倉街道上道として定説化しているルートは、鎌倉から武蔵国西部を経て上野国に至る古道です。上野国高崎から山名(群馬県高崎市)、武蔵国奈良梨(ならなし)〔埼玉県小川町〕、笛吹峠(埼玉県鳩山町と嵐山町の境)を越えて入間(埼玉県入間市)、所沢(埼玉県所沢市)、府中(東京都府中市)、小野路(東京都町田市)、本町田、相模国瀬谷(横浜市瀬谷区)、化粧坂(けわいざか)切通しを通って鎌倉に至ります。古代律令時代の東山道武蔵路と同じような道筋になっているようですが、完全に一致するものではなく、その近くを通っていたのではないかと思われます。ただ、この道は『吾妻鏡』では下道と記録されているものです。

 

鎌倉街道中道と呼ばれていたのは、鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道で、『吾妻鏡』にある中路を基に整備された道であると考えられています。大手中路の鎌倉口として推定されているのは、切通しである巨福呂坂(こぶくろざか)や亀ヶ谷坂(かめがやさか)、或いは二階堂(神奈川県鎌倉市)から天園(てんえん)に抜ける道です。また、武蔵国南部を経由するルートとして、巨福呂坂或いは亀ヶ谷坂を越えて戸塚(横浜市戸塚区)方面に向かい、中山(横浜市緑区)を経て武蔵国荏田宿(えだじゅく)〔横浜市青葉区〕付近から二子玉川、渋谷に続く矢倉沢往還とする説もあるようです。二子からは赤羽・古河に続くルートと考えられており、二子/赤羽間は渋谷・赤坂を経由する道と、中野を経由する道の二手に分かれていたものと考えられています。

 

鎌倉街道下道として定説化されている道筋は、鎌倉から朝夷奈(あさいな)切通しを越え、六浦(むつうら、むつら)津〔横浜市金沢区〕より房総半島に渡り、江戸湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうルートです。このほか、六浦津から房総半島に渡らず、武蔵国側の江戸湾沿いを丸子、品川、浅草と北上し、松戸、柏、土浦に続く道筋とする説もあります。

 

鎌倉は、三方を山に囲まれ、南に相模湾が広がる要害の地でした。このため、鎌倉と諸国を結ぶために鎌倉周囲の山を掘り割って「切通し」が作られ、街道が整備されていきました。鎌倉には外部に通じる7カ所に切通しが作られ、これらを「七切通し」と呼び、敵の侵攻を食い止める防衛の要所としても重要な役割を果たしていました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、中国の大学生訪日研修団の昼食歓送会に出席してきました。団長を務めていた中日友好協会の朱丹副秘書長をはじめ、旧知の友情を温めたほか、大学生の話も聞くことができました。そのなかで、某大手商社の方のご自宅で1泊のホームステイを経験した学生がおり、その学生は商社の方に連れられて浅草から両国まで隅田川沿いを歩き、東京大江戸博物館を見学したとのこと。浮世絵の話にも華が咲き、浮世絵の製造過程が日本のモノづくりの原点であることを説明したところ、十分に納得した感じでした。数千年という悠久の自国の歴史を誇りに思う中国人が新鮮な思いで興味を抱く浮世絵は、やはり世界に誇る日本の文化であることをあらためて噛み締めた思いです。

 

さて、本日は「飯田街道」について紹介したいと思います。飯田街道と呼ばれる道はいくつかあるようですが、ここでは江戸幕府によって整備された尾張国名古屋と信濃国飯田を結ぶ「信州飯田街道」と呼ばれる脇街道を取り上げます。

 

江戸時代、名古屋城下から東へ伸びる道筋は4本記されているようで、その起点の多くは大曽根(名古屋市北区)からとなっています。大曽根から大森(名古屋市守山区)を経て上品野村(かみしなのむら)〔愛知県瀬戸市〕に至る道は「瀬戸街道」と呼ばれ、信州飯田街道の一つとして由緒ある道とされています。信州飯田街道のもう一つの由緒ある道は大曽根から末森村(名古屋市千種区)、高針村(名古屋市名東区)、岩崎村(愛知県日進市)、岩藤、米野木(こめのき)、三本木、保見(愛知県豊田市)、猿投(さなげ)に至る道です。この他の大曽根から矢田川沿いに山口(愛知県瀬戸市)に至る道と、名古屋城下から川名(名古屋市昭和区)、植田(名古屋市天白区)、平針(名古屋市天白区)、祐福寺(愛知県東郷町)から三河国宇頭(愛知県安城市)に至る「駿河街道」と呼ばれる道もありました。

 

名古屋城下を出て信濃国飯田に続く飯田街道は、保見を経て信濃国根羽(ねば)に入り、阿智を通って飯田に至ります。この道は、信濃国側からすると三河国に通じることから「三州街道(さんしゅうかいどう)」と呼ばれていました。一方、根羽で飯田街道から分かれて南に向かい、三河国設楽(したら)、新城を経由して豊川、豊川からは船を利用して豊橋に至る道が「伊奈(伊那)街道」と呼ばれるルートです。この伊那街道は飯田街道と合流し、飯田から北上して伊那、塩尻まで続く道とされていました。

 

もう一つ、飯田街道の三河国足助(あすけ)宿から南に向かい、岡崎に至る道もありました。この道は「中馬街道(ちゅうまかいどう)」、または「足助街道」と呼ばれる街道です。「中馬」とは、江戸時代に信濃国や甲斐国などで発達した陸上の輸送手段で、宿場ごとに荷物の付け替えをせず、付け通しで荷物を運ぶ運送方法です。尾張国、三河国、遠江国から信濃国に運ぶから荷物を運ぶ場合には、この中馬の方法がとられていたことから、中馬街道と呼ばれるようになったそうです。中でも重要なのは、三河国や遠江国から信濃国へは主に塩が運ばれていたことです。三河湾でとれた塩は、矢作川水運で岡崎まで運ばれ、そこから中馬街道を通って信濃国まで運ばれていました。このため、中馬街道を含む飯田街道は、江戸時代以前から「塩の道」としても重要視されていました。ちなみに、信濃国塩尻の地名は、三河や遠江から運ばれた塩の道の終わりということがその由来といわれています。

 

この飯田街道は、中山道の脇往還としてもよく利用されていました。中山道が大名行列や日光例幣使、朝鮮信使などの「御通行」が頻繁にあり、また関所もなかったことから、庶民には飯田街道の方が通りやすかったのでしょう。現在は国道153号線が、ほぼ昔のルートを通っています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は、朝から太陽が照り付け、今日も暑くなりそうです。明後日6日は二十四節気の芒種、穀物を植える季節というわけですが、気候変動の様相が激しい今日では、この二十四節気もどこまでその意味を成すのか分からなくなってしまいます。自然との共生によって培われてきた昔の人々の季節感が、現代人の飽くなき執着によって、失われていく悲しさを感じているところです。

 

さて、本日は「薩摩街道(さつまかいどう)」について紹介したいと思います。この薩摩街道も前回の長崎街道と並び、九州おける重要な脇街道として位置付けられており、別名「鹿児島街道」とも呼ばれていました。筑前国山家(やまえ)宿〔福岡県筑前市〕を起点に薩摩国鹿児島〔鹿児島県鹿児島市〕に至る街道で、薩摩藩領では「出水筋(いずみすじ)〔西目筋、小倉筋〕」、「大口筋(おおくちすじ)」、「高岡筋〔東目筋、日向筋(ひゅうがすじ)〕」などの3つのルートがありました。

 

薩摩街道は、薩摩国から江戸に続く主要街道の一つとして整備されたもので、薩摩藩主が参勤交代に利用した道です。ただ、薩摩国から江戸までは距離が長かったこともあり、薩摩藩主の参勤交代などでは海上航路も使われていました。この街道を参勤交代に使った大名としては、薩摩藩島津氏のほか、八代(やつしろ)藩松井氏、人吉(ひとよし)藩〔肥後国南部〕相良(さがら)氏、肥後藩細川氏、柳川藩〔筑後国南部〕立花氏、久留米藩〔筑後国中部・北部〕有馬氏などの各藩がありました。

 

天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州平定に向けて薩摩に軍を進めた「島津征伐」の際にも、基本はこのルートを利用したとされています。

 

山家で長崎街道から分岐し、熊本宿、佐敷(さしき)宿、出水宿、伊集院宿などを通り、鹿児島城に至るルートが出水筋です。この街道は、筑紫平野から熊本平野、八代平野を抜けて八代海に出ます。その後、九州山地、国見山地、出水山地東端の山間部を通ります。出水よりは串木野(くしきの)〔鹿児島県いちき串木野市〕から薩摩半島を横断して鹿児島に至ります。その距離は約395キロメートル、起点の山家宿を除き、23の宿場がありました。府中(久留米)では、坊津(ぼうのつ)〔鹿児島県南さつま市〕に通じる道ということで「坊津街道」と呼ばれ、熊本では、熊本城を起点に薩摩に通じる道を薩摩街道、豊前小倉までの道を「豊前街道」と呼んでいます。13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫(天璋院)もこの出水筋を通ったそうです。

 

鹿児島から北上し、吉田を経て白金坂(しらかねざか)で薩摩国と大隅国の国境を越え、溝辺(みぞべ)、栗野〔鹿児島県湧水(ゆうすい)町〕を経て大口〔鹿児島県伊佐市〕に至るルートが大口筋です。途中、加治木(かじき)〔鹿児島県姶良(あいら)市〕で高岡筋と分岐します。大口筋は、鹿児島城下から大隅方面 (鹿児島県東部)に向かう主要道路であり、加治木から大口を経て水俣や八代に通じていました。

 

加治木で大口筋と分岐した高岡筋は、高岡(宮崎県宮崎市)を経て更に北進し、本庄(宮崎県国富町)を経由して佐土原(さどわら)〔宮崎県宮崎市〕に至るルートです。途中、高原郷〔外城(とじょう)〕に去川(さるかわ)関所が設置されていました。

 

高見澤

 

なりそうです。

 

さて、これまで讃岐、阿波、土佐と四国の街道が続いてきたので、今度は「伊予街道」か...と思う人もいると思いますが、本日は九州に飛んで「長崎街道」に話を移したいと思います。というのも、伊予国から讃岐国、阿波国、土佐国に通じる街道のほとんどは、伊予国に向かう側からみれは伊予街道になるから、改めて説明する必要はないし、強いて一言付け加えておけば、阿波五街道のところで紹介した徳島市から愛媛県一之江市まで吉野川沿いに至る国道192号線(192号線の場合は愛媛県西条市まで)が、一般には伊予街道とされています。

 

長崎街道は、道中奉行の管轄下にあった九州にある脇街道の一つで、九州北端の豊前(ぶぜん)国小倉〔福岡県北九州市〕から西北端の肥前(ひぜん)国長崎に至る街道です。その距離は57里(約228キロメートル)、25宿で6~7日を要する旅であったとのことです。

 

小倉常盤橋から黒崎で筑前国に入ります。「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)街道」と呼ばれる黒崎宿、木屋瀬(こやのせ)宿、飯塚宿、内野(うちの)宿、山家(やまえ)宿、原田(はるだ)宿を経て、肥前国田代に至ります。この間に多くの丘陵や山地を越えなければならず、特に内野と山家の間にある冷水(ひやみず)峠が一番の難所でした。田代で「薩摩街道」と分岐し、轟木(とどろき)宿、中原(なかばる)宿、神崎(かんざき)宿、堺原(さかいばる)宿を経て佐賀城下に入り、牛津(うしづ)宿付近で「唐津街道」を分岐、更に北方(きたかた)宿、塩田(しおた)宿を通って嬉野(うれしの)宿に達します。ただし、享保2年(1717年)以降は北方宿から武雄(たけお)〔塚崎〕宿を経て嬉野宿に至るルートに変わり、以降塩田宿はさびれていきます。嬉野宿からは大村湾岸の彼杵(そのぎ)宿に達し、大村湾岸を南下して大村宿、諫早(いさはや)〔永昌〕宿を経て橘湾岸の矢上(やがみ)宿に至り、日見(ひみ)峠を越えて終点の長崎に着きます。これと並行して、彼杵港から時津港まで船で渡り、時津から長崎に至る海上を利用するルートも使われました。

 

江戸時代、長崎は海外貿易の唯一の拠点として、江戸幕府直轄の天領となっていました。長崎街道は、長崎から上方、江戸方面への物資の輸送のほか、参勤交代の諸大名や長崎奉行の江戸との往復に利用され、カステラや丸ぼうろ等の南蛮菓子、砂糖なども長崎街道を通じて日本全国に広まっていったことから、今では「シュガーロード」とも呼ばれています。

 

長崎に駐在していたオランダ商館の商館長の「カピタン」は、新任が着任するたびに江戸で将軍に拝謁する習慣があり、対日貿易の許可を得る返礼として献上品を贈ることが義務付けられていました。カピタンの任期は原則1年であったことから、江戸参府は頻繁に行われ、その待遇は大名と同等、総勢150200人を擁する大行列での道中だったそうです。このほか、承応3年(1654年)には長崎に渡来した明国の僧で黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えた隠元(いんげん)が京都との往来に利用したり、享保13年(1728年)に長崎に入港したベトナム象が江戸に向かう際に利用したりするなど、長崎街道は物資のみならず、文化や学問、技術、文献などを伝える重要な役割を果たした道でした。

 

高見澤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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