おはようございます。本日の東京都心は太陽が照りつける汗ばむ陽気となっています。とはいえ、今は梅雨。西日本では梅雨前線の動きが活発化して九州や四国では今朝から大雨に見舞われているようです。沖縄付近にある熱帯低気圧も台風に発達して北上、日本列島に接近、上陸する可能性もあるようです。今夜辺りから関東でも降り始めるとの予報です。天災もまた人災、警戒することに越したことはありません。
さて、本日は「下田路(しもだみち)」について紹介してみたいと思います。下田街道は、東海道の三島宿(静岡県三島市)にある三嶋大社を起点に、原木村、大仁村(いずれも伊豆の国市)、湯ヶ島村(伊豆市)、梨本村(河津町)、芽原野村、箕作村を通って下田村(いずれも下田市)に至る延長17里14町21歩(約60キロメートル)に渡る街道です。
湯ヶ島村と梨本村の間には、下田道最大の難所である「天城峠(あまぎとうげ)」があります。伊豆半島の中央を縦断する下田街道ですが、天城山が伊豆地方を南北に分断していることから、南伊豆では古来物資の輸送は海運に依存するところが多かったようです。このため、律令時代から交通路として存在はしていたものの、この街道の整備は遅れ、人馬継立が行われるようになったのは江戸時代中期になってからのことでした。
江戸幕府成立すると、伊豆国の大半は天領となります。しかし、元禄10年(1697年)以降、旗本領が増加し、伊豆国周辺にも領地が置かれるようになり、特に江戸中期以降、伊豆半島への通行が増加したために、人馬継立場が設置されるようになったものと思われます。このことが資料から確認できるのは寛保2年(1742年)のことです。
下田路最大の難所である天城峠を越えることを「天城越え」と呼び、松本清張の小説のタイトルや石川さゆりのヒット曲の題名にもなっています。寛政5年(1793年)、老中・松平定信が海防巡視のために天城峠を越え、米国領事タウンゼント・ハリスが日米修好通商条約折衝のために江戸に向かう際に、この峠を利用しています。
高見澤