東藝術倶楽部瓦版 20190626:治水・灌漑など土木工事に貢献-「赤山街道」

 

おはようございます。昨日、中国四川省成都から日本に戻ってきました。今回の中国出張は、先ず北京で経済産業省と工業信息化部(工業情報化省)との自動運転に係る日中協力についての会議に参加。その後内陸部の重慶市に移動し、自動運転に関連する市政府機関への交流調査、そして実際に公道実証試験している自動運転車への試乗・視察。その後成都に移動して、成都から全日空の直行便で成田に戻ってきたという次第です。重慶は直轄市、成都は四川省の省都と、いずれも内陸部の大都市です。地理的には300キロメートルほどしか離れていませんが、地形がかなり異なり、それぞれ地形に合わせた形での都市建設が行われています。古い街並みを残しつつ、現代的にも大きく発展するこの2大都市を、じっくりと見比べてみるのも余裕があればしたいところです。

 

さて、本日は「赤山街道(あかやまかいどう)」について紹介していきたいと思います。ここ最近は道中奉行の支配下にある脇街道ではなく、こうした諸藩や勘定奉行所管の街道を紹介していますが、これもまた調べてみると面白く、暇があればぜひ実際に歩いてみたいと思うところです。

 

赤山街道は、江戸時代に関東郡代の伊奈氏が寛永6年(1629年)に陣屋を構えた赤山(埼玉県川口市赤山)に向かう道として整備したものです。伊奈氏は、清和源氏の流れを汲んでおり、信濃国伊那に住んでいたことから「伊奈氏」を称し、後に三河国・松平氏、徳川家康に仕えるようになりました。家康の江戸入府後に、伊奈氏は武蔵国小室(埼玉県伊奈町)、鴻巣(埼玉県鴻巣市)などに1万石を領有し、小室や土屋(さいたま市)などに陣屋を置いて累代治水事業に力を注ぎました。

 

赤山に陣屋を構えたのは、元和4年(1618年)に病死した兄・伊奈忠政の後を継いで関東郡代の職に就いた伊奈半次郎忠治です。忠治は関東郡代のほか、勘定奉行の職も兼務し、赤山領7,000石を拝領し、そこに陣屋を構えたのです。この陣屋を「赤山陣屋」と呼び、在地支配と開発事業の拠点とすることを目的としていました。赤山陣屋は、現在の東京外環道・東北自動車道の川口Jct東南側に位置する場所にあり、空堀や土塁が往時のままに残されています。本丸と二の丸部分だけで110,000平方メートルあり、周囲に広がる家臣の土地や菩提寺などを合わせると770,000平方メートルに及ぶ広さとなり、「赤山城」と呼ばれたりもしています。

 

忠治は、治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永6年には八丁堤(はっちょうづつみ)を築き見沼溜井(みぬまためい)の造成に着手しました。それら土木工事を進めるための現地と赤山陣屋との連絡、物資輸送を目的に整備されたのが、赤山街道です。赤山街道には3つの筋道があったとされています。

 

その一つが「大宮道」です。大宮道は赤山陣屋からさいたま市方面に向かい、さいたま市西区にある永田陣屋までの道筋です。もう一つが「越谷道」です。この道は赤山陣屋から越谷を通り、松伏町杉浦陣屋までのルートです。そして三つ目が「千住道」です。これは赤山陣屋から千住方面に向かい、綾瀬小菅御殿までの道です。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年6月26日 21:55に書いたブログ記事です。

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