2019年7月アーカイブ

 

おはようございます。今日で7月も終わり、明日から8月です。梅雨も明けて、非常に暑い日が続いています。今朝も少し歩いただけで汗でびっしょり、汗臭さが気になり消臭スプレーが手放せません。周囲に対する気遣いも仕事のうちと割り切り、なるべく天然素材のものを使いたいですね。

 

さて、本日は主に大坂で使われていた人力の荷車「べか車(べかぐるま)」について紹介しようと思います。べか車は、漢字では「輇車」と表記され、後には「板車(いたぐるま)」と呼ばれました。

 

基本的な構造は大八車とほぼ同じで、長さは2間(約3.6メートル)ないしは6~7尺(約1.82.1メートル)、幅は大八車より少し狭く3尺(約91センチメートル)余りに作られていました。幅が狭く作られていた理由は、大坂の街の道幅が江戸のそれよりも狭かったからです。車輪は円板で二輪、板張りの台車の中央部に付いていました。大八車と大きく異なるところは、前に引手の横木がないところで、べか車は綱を使って引いていました。

 

べか車には、2人以上で押し引きして進む大型のものと、長く伸びた棒〔撞木(しゅもく)〕を1人で押して進む小型の2つのタイプがありました。大型のべか車は、前方で1~2本の綱を2~3人が引き、後方で1~2人が撞木を押し、これを「楫(かじ)」といって身体を掌っていました。通常のべか車の積載量は30貫(約112キログラム)、車力は2人です。作りが頑丈であったことから、木石など重量物の運搬にも使われていました。

 

べか車の名称が現れるのは安永年間(1772年~1781年)のことです。橋梁を破損させるとの理由で、安永3年(1774年)にべか車の橋上の通過が禁止されます。しかし、その当時はべか車が広く普及しており、上荷(うわに)船、茶船への影響が非常に大きく、関係者の請願により寛政3年(1791年)に禁止令から制限令に規制が緩和されています。文政7年(1824年)のお触れでは、橋梁の通過定数を1,678台としています。

 

高見澤
 

おはようございます。昨日、関東地方は梅雨明けしました。気温も上昇し、暫くは暑い日が続きます。本日は朝から経済産業省で会議があります。午前中いっぱい外出です。暑い中の移動は、体力も消耗します。水分補給に気を使いたいですね。

 

さて、本日は再び江戸時代に話を戻し、荷車として使われた「大八車(だいはちぐるま)について紹介したいと思います。一般に大八車は、荷物の輸送に使われた総木製の人力の車として知られ、「代八車」と表記されることもあります。重い荷物を遠くへ運ぶ際には、これを牛に引かせて牛車として使うこともありました。ただ、基本的にこの大八車が使われていたのは江戸市中と駿府だけで、特に街道での利用は厳しく制限されていました。

 

大八車の形状は、前方に「ロの字」型の木製の枠があり、枠の後方に木を簀子張りに組んだ板が取り付けられ、その板の左右に車輪が設置されています。車輪は7枚の羽に21本の矢から成り、一般的に車輪は2つですが、中には4つの車輪を持つ車もありました。四輪は重い荷物を載せたときにバランスを保つことができますが、小回りが利かず、狭い道だと角を曲がりにくいという欠点があります。このため、二輪の大八車が主流となっていたようです。車輪は現在のような空気入りのタイヤではなく、木製でそれに鉄の箍(たが)がはめられており、振動や騒音はかなり大きなものであったと思われます。

 

大八車で主に運んだ物資は、炭や米を詰めた俵で、時には遺体を運ぶこともありました。大八車を引いて荷物を運ぶ人を「車力」、「車引き」と呼び、前から引いて大声で人を避けさせる役目と、後ろから車を押す役目のものがいて、2~3人1組というのが通常でした。運搬方法は、重い荷物が後部に偏らないようバランスに気を配りながら、荷物を荷台に置いて荒縄で固定し、前方の人が枠に入り、前掲して荷台を起こします。荷台と地面が平行になるよう引いていきます。江戸は坂道が多かったので、車での運搬は力ばかりでなく、気苦労も絶えなかったことでしょう。

 

大八車と同様の構造の荷車は、少なくとも平安時代から使われていたようですが、大八車として一般的に使われるようになったのは、やはり江戸時代のことです。元禄16年(1703年)に江戸町奉行所が行った調査では、江戸市中に1,273両の大八車が使われていたとのことです〔伝馬町で極印を押された大八車は2,239両との記録もある〕。

 

大八車の名称の由来については、①1台で8人分の働き(運搬)ができることから8人の代わりで「代八」、②車台の長さが1丈、9尺、8尺(約2.4メートル)、7尺、6尺のものをそれぞれ「大十車」、「大九車」、「大八車」、「大七車」、「大六車」と呼ぶところから付けた、③近江国(滋賀県)大津の八町で使われていた「大津八町の車」が略されたもの、④江戸芝高輪牛町の大工・八五郎が発明したというもの、⑤陸奥国(奥州)の針生大八郎が発明したというものなど、諸説あります。

 

後にこの大八車が発展し、大正10年(1921年)頃に荷車に箱枠を付けて車輪を空気入りのタイヤにしたリヤカーが発明されます。しかし、自動車の出現によって、大八車やリヤカーも次第にその姿がみられなくなりました。

 

高見澤

 

おはようございます。週末に台風の影響が心配されていた東京ですが、外出時には傘をさすこともありませんでした。そろそろ梅雨明け宣言が出され、今週辺りから気温も大きく上昇することでしょう。暑さ対策には十分ご注意を!

 

さて、本日は前回の予告通り、「牛車の種類」についてどのようなものがあったのかを見ていきましょう。今回は乗り物としての牛車ですが、前回も紹介した通り、江戸時代には乗り物として牛車はほとんど使われておらず、以下の牛車はいずれも平安時代に使われたものであることを、ご承知置き下さい。

 

1.唐庇車(からびさしのくるま)〔唐車(からくるま)〕

屋根が唐棟(からむね)の破風(はふ)で作られているところから、この名が付けられた。落入(おとしいれ)の物見あり。太上(だいじょう)天皇〔上皇〕、摂政・関白が大嘗会御禊(だいじょうえごけい)の行事、春日詣(かすがもうで)や賀茂詣(かももうで)など、ハレの日に乗用する最高級の牛車。車箱(屋形)は大きく、「棧(はしたて)」と呼ばれる梯子で乗り降りした。

 

2.雨眉車(あままゆのくるま)

唐庇車の簡略版で、眉が唐破風の形状になっている。唐庇車の御簾が蘇芳(すおう)色〔黒味を帯びた赤色〕の「蘇芳簾(すおうれん)」であったのに対し、雨眉車の御簾は青く、下簾は青裾濃(あおすそご)」で、物見はなし。摂政・関白が直衣(のうし、なおし)姿〔平常服〕の際に利用した。

 

3.枇榔毛車(びろうげのくるま)〔毛車(けぐるま)〕

枇榔の葉を細かく毛のように裂いて、屋根を葺いた車。物見はなく、蘇芳簾で下簾は赤裾濃(あかすそご)。太上天皇以下四位以上の上級貴族が乗用し、入内する女房(奥向きの女性使用人)や高僧も用いることができた一般的な車。

 

4.枇榔廂(庇)車(びろうひさしのくるま)

枇榔毛車に物見を設置したもので、前後眉下と物見の上に廂が付いている。太上天皇、親王、摂政・関白、大臣が乗用した。

 

5.糸毛車(いとげのくるま)

車箱の屋根部分である上葺(うわぶき)を色染めした糸で覆った車で、物見はない。内親王、三位(さんみ)以上の内命婦(ないみょうぶ)、更衣の貴婦人が乗用した。青糸車は皇后、中宮、東宮が乗車。紫糸車は女御、更衣、尚侍、典侍(ないしのすけ)〔後宮の女官〕が乗用。赤糸車は「賀茂祭り」の際に女使が使用した。

 

6.網代車(あじろぐるま)〔文の車(もんのくるま)〕

車箱の表に、檜や竹などの薄板を網状に組んで張った車の総称。袖や立板などに漆で絵紋様を描いたものが多く、特に袖表や棟表を白く塗り、家紋を付けた車を「袖白の車」、「上白(うわじろ)の車」と呼び、大臣の乗用とされた。また、棟、袖、物見の上に紋様を描いた車を「文の車」と言った。大臣以下の公卿が略儀遠行に用いた。

 

7.半蔀車(はじとみのくるま)

檜を網代に張った網代車の一種。物見の懸戸が上下2枚からなり、下1枚を固定して上1枚を外側へ押し上げて釣り、開閉できる釣り蔀、半蔀という構造になっている。太上天皇、摂政・関白、大臣、大将が乗用した。

 

8.八葉(曜)車(はちようのくるま)

網代車の一種で、網代を萌黄(もえぎ)色(黄緑)に塗り、その上に九曜星紋(八葉の紋)を描いた車。紋の大小で区別し、大八葉は大臣、公卿、僧正、僧綱が日常乗用し、小八葉は略儀なもので、少納言以下の地下人(じげにん)や僧侶が用いた。

 

9.金作車(こがねづくりのくるま)

車に使われる金具の金属によって、乗車する人の身分が決まっていた。例えば、典侍が乗る金造りの糸毛車、女蔵人(にょくろうど)〔宮中に奉仕した女官〕が乗る金造りの枇榔毛車、命婦(みょうぶ)〔従五位以上の女性〕が乗った銀造りの糸毛車。これらはすべて金作車に属するもの。

 

10.飾車(かざりぐるま)

賀茂の祭りの勅使や御禊の前駆、殿上人の祭り見物など、祭礼の際に使われた車。金銀、珠玉の類で飾り立てた。

 

11.黒筵車(くろむしろのくるま)

公卿が喪中の際に使っていた車。

 

12.板車(いたぐるま)

当初は身分にかかわらず使われていたようだが、一条天皇〔在位:寛和2年(986年)~寛弘8年(1011年)〕の頃より六位専用の車となった。板張りの箱型の車を指す。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は、やっと夏らしい晴天の朝日を迎えています。日中は暑くなりすです。ただ、日本の南にある熱帯低気圧が発達しながら北上しているとのことで、夕方頃から曇り、夜には雷を伴った雨が降る可能性もあるようです。熱帯低気圧が台風に変わる可能性もあり、その影響で週末は天気が一時的に雨日和となりそうです。季節の変化を楽しめる時期でもあります。

 

さて、本日は「輿」にも関係する移動手段「牛車(ぎっしゃ)」について紹介したいと思います。牛車とは、文字通り牛や水牛にけん引させる車のことです。世界的に昔から利用されていて、人を乗せる乗用として使われるものと、荷物を載せて運搬する荷車として使われるものがあります。日本では主に平安時代から安土桃山時代にかけては高貴な人たちの乗用として使われていましたが、江戸時代に入ると主に荷車として使われるようになりました。乗用の牛車は、応仁の乱〔応仁元年(1467年)~文明9年(1478年)〕以降、禁中の大儀だけに使われたため、俗に「御所車(ごしょぐるま)」とも呼ばれています。

 

もともと牛車は馬車とともに中国から伝わってきたものと思われます。古来中国では、貴人の乗り物は馬車が一般的でしたが、後漢の献帝(在位189年~220年)が長安から洛陽に逃げ帰る際に牛車を利用して以降、牛車が貴人の乗り物として使われるようになったとの伝承があります。牛車は馬車に比べ速度が遅いのですが、大量の荷物を運ぶことができたことから、乗用は馬車、貨物用は牛車と使い分けされていたようです。

 

日本において牛車が貴族の乗り物として広まったのは平安時代のことです。奈良時代にも牛車は存在してようですが、平安遷都以降、京洛(きょうらく)を中心に道路が発達し、路面の整備が進むとともに牛車の利用が盛んになります。ただ、牛車に求められたのは、移動としての機動性よりも使用者に対する権威付であり、そのため重厚な造りや華美な装飾に力が注がれました。その傾向があまりにも行き過ぎたため、寛平6年(894年)に一時的に牛車への乗車が禁じられたこともありました。

 

平安時代、牛車の利用は官職により厳格に制限が設けられていました。牛車の使用許可証を「牛車宣旨(ぎっしゃせんじ)」といいます。乗る人の位階や家柄、公私用の別などによって使用する牛車の種類が定まっていて、宮城内の出入りにも細かい規定がありました。牛車の種類はその構造や装飾などにより分けられています。この詳細については、次回紹介したいと思います。

 

中世以降、武家の世になると、従五位以上の官位を持つ武家が牛車に乗る権利を有するとされますが、実際に使っていたのは将軍家のみでした。応仁の乱以降、牛車は貴族の間でも廃れてしまいます。その後、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が聚楽第への行幸に際して巨大な牛車として御所車が新調されたとの記録が残るのみです。

 

牛車の一般的な形態は、人が乗る部分に屋形(車箱)が設けられ、車輪は左右に一つずつ、前方左右に長く前に突き出した木の轅の先端に軛(くびき)と呼ばれる横木を付けてそれを牛の首に掛けるようになっています。通常は4人乗りですが、2人乗り、6人乗りのものもありました。屋形の出入り口には御簾を前後に懸け垂らし、内側に絹布の下簾(したすだれ)を付けます。乗降には榻(しじ)と呼ばれる踏み台を使い、乗るときは後ろから、降りるときは牛を外して前からとされています。また、男性が乗る際には御簾を上げ、女性が乗る場合は下げます。大きな牛車の場合、乗降は榻ではなく「棧(はしたて)」と呼ばれる5段の階段(梯子)を使いました。

 

貴人の乗り物として使われてきた牛車ですが、その実用性が乏しかったこともあり、江戸時代には牛車の屋形部分を活用した駕籠が乗り物としての主流となっていきます。江戸時代、牛車としての実用性は、もっぱら荷車に活かされていくことになります。次回は、少し江戸を離れて牛車の種類について紹介します。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日の7月23日は二十四節気の大暑でした。大暑を過ぎて、やっと夏らしく暑い日が続くとの予報です。雷雨が頻繁に日本各地で発生し、梅雨明けも間近といったところでしょうが、大暑の次の二十四節気は立秋です。今年は8月7日、暦の上ではもう秋が近づいています。

 

さて、本日は前回の「輿」に関連し、いろいろな種類の輿について紹介してみたいと思います。前回、輿には大きく分けて、肩で担ぐ「輦輿」と手で持つ「手輿」の2種類があることを説明しました。先ずは輦輿についてどのようなものがあるか紹介します。

 

輦輿は、宝形造の屋根を上に載せ、轅を肩で担ぐ肩輿(あげこし)のことです。以下、主な2種類を紹介します。

 

1.鳳輦(ほうれん)〔鸞輿(らんよ)〕

屋根の頭頂部に鳳凰の飾りを載せた輦輿。天皇が即位、大嘗会(だいじょうえ)、朝覲(ちょうきん)などハレの行幸に使用される。

 

2.葱花輦(そうかれん)〔花輦(かれん)〕

屋形の頂に先の尖った丸い葱花に似た形の装飾品を載せている輦輿。天皇が臨時・略式の行事や、春日及び日吉の2社を除く諸社寺行幸に用いる。皇后、斎宮は葱花輦を使う。

 

一方の手輿は、轅を手に下げて腰の高さで運ぶ略式の乗り物です。主なものとして、以下のものがあります。

 

3.腰輿(ようよ)

轅に紐を結んで肩から掛けて手で輿を支える。天皇が、内裏内の移動や火事等の緊急の際に用いた略式の乗り物。後に、上皇や僧侶、公卿なども牛車の代わりに外出用として用いた。

 

4.網代輿(あじろごし)〔車輿(しゃよ)〕

網代車の車輪を取って轅を付けた形の腰輿。平安時代後期に貴族が使用するようになったが、後に親王、摂関家、清華(せいが)の家格に限定して使用。青竹を細く削って網代に組んで外側に張った屋形を設置。室町時代以降、轅を長くして肩にも担いだ。僧体6人の力者によって担がれた。

 

5.四方輿(しほうこし)〔板輿(いたごし)〕

網代を張って、四方に簾(すだれ)を掛けた腰輿。鎌倉時代中頃から現れ、上皇、摂関家、大臣等の公卿、僧綱(そうごう)などが遠方に赴くときに利用。僧侶の場合は屋根を反らした「雨眉(あままゆ)形」、俗人の場合は山形の屋根の「庵(いおり)形」にして区別していた。

 

6.小輿(しょうよ)〔塵取輿(ちりとりごし)〕

台座と高欄(手摺)から成り、屋根のない作りの輿。最勝会(さいしょうえ)の講読師が乗用。

 

7.張輿(はりこし)

筵(むしろ)を張った輿。罪人となった公家(くげ)を護送する際に利用。

 

8.塗輿(ぬりこし)

屋形に漆を塗った輿。公家の乗り物は庇(ひさし)付、武家と僧侶は庇なし。略儀に用いられ、江戸時代によく利用された。

 

9.白輿(しらこし)

白木作りの輿。

 

10.その他

坂輿(さかごし):山道などの通行を楽にするために、屋形を取り外して床のみにした輿。

神輿(しんよ)、舎利輦(しゃりれん):宗教用具。

 

高見澤

 

おはようございます。イマイチ盛り上がりに欠けた参議院議員選挙も、明けてみれば特段取り上げるようなトピックもなく、強いて挙げてみれば、「れいわ新撰組」や「NHKから国民を守る党」、「安楽死制度を考える会」など、従来の政党にはなかった特異な政党が選挙戦に打って出たというところでしょうか。これまでには新興宗教勢力を基盤とした政党も存在していますが、それとは別の意味で多少は話題にもなったかもしれません。そもそも政治というのは、総合的な判断が必要です。一つの目的を達成するために、他のことを犠牲にしては何にもなりません。「誰かが得をして誰かが損をする」という仕組み自体を変える必要があるのです。まあ、日本にそういう意識で選挙に出ようとする候補者がどれだけいるかは、言うまでもないことですが...。明日は所用があって瓦版はお休みさせていただきます。

 

さて、本日は江戸の乗物その4として、「輿(こし、よ)」について紹介しようと思います。輿とは、人が肩で担いだり、手で持ったりして人を運ぶ乗り物のことで、日本ばかりでなく、古代中国や中世ヨーロッパでも同じ形態の乗し物が存在していました。

 

一般的な輿の形態は、「轅(ながえ)〔長柄〕」と称する2本以上の棒の上に人を乗せる台を設置しています。輿には大きく2つに分けられており、轅を肩で担ぐものを「輦輿(れんよ)」或いはただ単に「輦(れん)」と呼び、腰の位置で轅を手で持つものを「手輿(たごし、てごし)」或いは「腰輿(ようよ)」と呼んでいました。手輿の場合、轅に紐を結んで、それを肩から掛けて手で轅を支えていました。輦輿を担ぐ者は「駕輿丁(かよちょう)と呼ばれ、手輿を運ぶ者は「力者(ろくしゃ)」または「輿丁(よちょう)」、「輿舁(こしかき)」と呼ばれていました。

 

日本では何時頃から輿が使われるようになったのかは定かではありませんが、『日本書紀』に垂仁天皇(実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半)15年に丹波竹野媛(たにはのたかのひめ)」が輿から落ちて亡くなったとの記述があることから、この頃には高貴な人の乗り物として使われていたものと思われます。奈良時代から用いられていたのは輦輿の方で、手輿が出現したのは平安時代になってからのことです。当初は天皇の乗用具として使われており、その後、大宝元年(701年)の大宝律令では、天皇のほか、皇后や斎王(さいおう)〔伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または皇女・王女〕に限定して使用されるようになりました。

 

平安時代後期には、『竹取』に「御こしに奉りて後にかくやひめに」と記されているように、上皇や公卿(くぎょう)以下でも乗用するようになります。『吾妻鏡』には、文治2年(1186)年11月に源頼家が鶴岡八幡宮参詣の際に輿を利用したことが記されており、鎌倉時代では将軍家でも利用されていたことが分かります。室町時代になると、将軍のほか、鎌倉公方、管領家などのごく限られた上流武家のみが使用できる「牛車(ぎっしゃ)」に次ぐ特別の乗り物とされていました。

 

江戸時代に乗用具として利用されたのは主に馬と駕籠です。輿は移動手段というよりも、儀式や儀礼の場での乗り物として使われ、それを使うことができたのは、武家のなかでも家格が高いごくわずかな身分の人たち、すなわち御三家及び御三卿、7家の松平家、加賀前田家など22家を合わせてた計35家と厳格に定められていました。

一方で、東海道の大井川を渡る際には、「輦台(蓮台/連台)」に乗り、川越し人足に担いで渡してもらう方法が採られていました。また、婚礼の際に、妻の実家から婿の家に輿に乗せて嫁を運ぶ風習があり、このことから結婚のことを「輿入れ」、「入輿(じゅよ)」といいます。身分の高い家、或いは金持ちの家に嫁ぐことを「玉の輿」というのも、ここからきています。祭礼の際に祭神を乗せた「神輿」、葬儀の時に棺を載せた葬具も輿の一種です。

 

次回は輿の種類について紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。先週土曜日の夜、北京出張から戻ってきました。先週木曜日、京都のアニメスタジオへの放火殺人で34人もの方が亡くなるという痛ましい事件が発生しました。その日の夕方に経済産業省での会議に出席した後、21:10羽田発の中国国際航空(CA)便で北京に向け出発(実際に羽田を飛び立ったのは22:00頃)、北京首都空港に到着したのは翌日00:30、ホテルで休めたのが03:00頃という過酷な中で、そのニュースに目を通していました。私自身、アニメーションにはそれほど詳しくなく、帰国後に息子や娘にそのアニメスタジオのことを尋ねると、かなり有名なスタジオで、内容はモノによるものの、映像に関しては優れた実力を有しているとのことで、その作品の何点かを見せてもらいました。確かに彼らがいうように、美しい背景と動画の動きがよくマッチしていて、モノづくり・おもてなしの精神を有する日本を代表するような作品ではないかと感じた次第です。今回の事件、何がそうさせたのかよく分からないのですが、一刻も早い真相の解明と、再発防止を願わざるを得ません。

 

さて、前回、前々回と「駕籠」について説明してきましたが、本日は駕籠に関係して「雲助(くもすけ)」について紹介したいと思います。雲助とは「蜘蛛助」とも表記し、江戸時代中期以降、街道の宿駅や川の渡し場などで、荷物の運搬や駕籠舁きなどに従事していた人足を指します。

 

もともとのこうした人足業は、農家の助郷役として行われていましたが、農民が金納して助郷労働を軽減する「代銭納」が増えたことで、人足が不足していきます。そのため江戸幕府は貞享3年(1686年)に出所の知れた浮浪人に限って人足とすることを許可しました。こうした人足は「宿場人足」と呼ばれ、親方による一定の統制を受けて仕事に従事していました。

 

しかし、宿場人足に混じって出所の知れないモグリの宿場人足が横行するようになります。そうしたなかには、旅人から酒手をねだったり、ぼったくりなど取締りの目をくぐって悪事を働く者も出てきます。当初はこうした質の悪い無頼の者を雲助と呼んでいましたが、次第に宿場人足や駕籠舁きと混同されて使われるようになりました。もちろん、善良な雲助も少なくなく、江戸時代の物流は多くの善良な雲助によって成り立っていたと言っても過言ではありません。一方、無頼の雲助は「護摩の灰」と呼ばれるようになります。

 

雲助という言葉の由来としては、出所の知れない人足が「浮雲の行方定めぬ」ところからきているという説、蜘蛛のように巣を張って客を待ち構えるとこからきているという説、その離散集合の様子が蜘蛛の子を散らすごくであるという説などがあります。「足元を見る」という人の弱みにつけ込むことを意味する言葉がありますが、これは質の悪い雲助が旅人の草履をみて擦り切れている、すなわちもう歩けないという場合に、高い金額をふっかけたというところに由来しているようです。また、「雲助根性という言葉は、他人の足元をみるような行為や考え方を指します。

 

雲助という言葉は、現在では悪質なドライバーなどを意味する軽蔑の言葉となっていますが、江戸時代には一般に悪い意味で使われていたわけではありません。言葉の使い方には時代の変遷があり、また使い方によっては人を喜ばせたり、反対に傷つけたりします。「言霊(ことだま)」とはよく言ったものです。

 

高見澤

 

おはようございます。自動車の運転免許証のお持ちの方なら、「横断歩行者妨害」という交通違反がはることはご存知のことと思います。信号機のない横断歩道を渡ろうとしている人がいたら、一時停止をして先に横断させなければ、違反点数2点、普通車の場合は反則金9,000円の処罰が課せられます。これに関して面白い統計があります。JAFによると、この場合、横断歩道で車が止まる確率を都道府県別に調べたところ、止まる確率が最も高かったのは長野県の58.6%、最も低かったのは栃木県の0.9%でした。2番目に高いのは静岡県の39.1%、3番目が石川県の26.9%ですから、長野県のモラルが飛びぬけて高いことが分かります。ちなみに全国平均は8.6%、東京は2.1%で下から5番目という不名誉な結果になっています。明日から北京出張、次回瓦版は来週月曜日7月22日になりますこと、ご了承ください。

 

さて、本日は「駕籠の種類」について紹介したいと思います。前回紹介したように、駕籠の基本的な構造は同じですが、材料や形態等によって乗り心地や景観が大きく変わります。今でもリムジン等の高級車と軽自動車をはじめとする大衆車で大きな差があることは理解できるかと思います。

 

一般に庶民が乗る駕籠は「町駕籠(まちかご)」、「辻駕籠(つじかご)」と呼ばれ、担ぎ手である「駕籠舁き(かごかき)」が駕籠屋に詰め、依頼があると乗客を乗せて運んでいました。また、道中の宿場には「宿駕籠(しゅくかご)」や「山駕籠(やまかご)」と呼ばれる粗末な造りの駕籠もあり、「雲助(くもすけ)」と呼ばれる駕籠舁きのなかには無頼の者もあって、乗客との間でトラブルが生じることもありました。駕籠の速度は通常1時間で1里を走り、速いものでは40分で走り切る場合もありました。江戸と京都の間を走る早駕籠では4日半で走破するのが標準とされていました。

 

宿駕籠や山駕籠の造りは本体、担ぐ柄ともに材料は竹で、人が座る上に屋根を掛けただけの簡易なもので、側面には覆いはありません。町駕籠や辻駕籠は4本の竹を四隅の柱とし、割り竹で簡単に編んで垂れを付けたもので、「垂れ駕籠」、「四つ手駕籠」などと呼ばれていました。京や大坂では、「京四つ路(きょうよつじ)」と呼ばれる四つ手駕籠より少し丁寧な造りの駕籠が使われていましたが、前後の覆いは茣蓙でした。四つ手駕籠や京四つ路となると、柄はさすがに木が使われていました。

 

庶民には縁のなかった駕籠が「大名駕籠(だいみょうかご)」で、「乗物(のりもの)」と呼ばれ一般の駕籠とはまったく異なるものでした。人が乗る部分は箱型になっており、引き戸付で装飾が施された高級感あふれる造りとなっていました。担ぎ棒が長く、数人で担ぐことから「長棒駕籠(ながぼうかご)」ともいわれます。

 

この乗物を利用したのは公家や大名など身分の高い人たちです。徳川将軍が用いたものは、乗用部分を網代(あじろ)張りに溜塗り(ためぬり)にし、柄は黒塗りとされていました。公家もほぼ同じで、官僧は同種のもので溜塗りではなく朱塗りとされていました。女性用のものは「女乗物」と呼ばれ、主に大名夫人が利用し、蒔絵(まきえ)などが施された豪華なものでした。乗物に乗ることが許されていたのは限られた身分の人たちで、医者も特例として比較的簡素な乗物に乗ることができたようです。

 

乗物の担ぎ手は「六尺(ろくしゃく)〔陸尺〕」と呼ばれ、乗物を所有する家専属の担ぎ手でした。家の身分や格式に応じた人数の六尺が置かれ、採用に際しては高い担ぎ技術と長身の身長が求められました。六尺の名称については、「力者(りきしゃ)」が訛ったという説、1丈2尺(12尺)の棒を2人で担ぐからという説、古代中国の天子の輿が6尺四方だったからなどの説があります。

 

駕籠や乗物に関しては、厳格な決まりがあり、その定めを「乗輿(じょうよ)の制度」といいます。最初の御触れが出されたのは文禄4年(1595年)のことで、豊臣秀吉によってでした。これを徳川家康が引き継ぎ、元和元年(1615年)の「武家諸法度」で身分や年齢等による細目が定められました。庶民が使う辻駕籠についてもその数が制限されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。3連休は少しムシムシしたものの、気温は上がらず、比較的涼しかったように思えましたが、如何でしたでしょうか。昨日は中国の上半期の経済成長率が発表され、前年同期比6.3%増と景気減速感が伝えられていますが、それでも日本の2.5倍の経済規模を誇るなかで6%台の成長率を維持するのはそう容易なことではないと思います。とはいっても、この数字の根拠が正しければの話ですが...。統計数字は一つの目安に過ぎないことも理解しておくことが大事です。

 

さて、本日は江戸時代の陸路での主要な移動手段であった「駕籠(かご)」について紹介してみたいと思います。現在、世界では年間に約1億台の自動車(乗用車及びトラック・バス)が販売されており、そのうち日本ではその5%強の500万台が売られ、陸上での重要な交通・輸送手段となっています。もちろん、江戸時代には自動車などなく、その役割を果たしていたのが人力による駕籠や荷車、馬や牛などの動物を動力源とした車でした。

 

駕籠については、皆さんも時代劇などでよくご存知かと思いますが、人が座る部分を1本の棒に吊るして、複数人でその棒を前後から担いで運ぶ乗り物です。人が座る部分は竹製の簡易なものや、木製の箱型のものなどいくつかの種類があります。その動力源はあくまでも人で、一般には2人1組で走りますが、交替要員を含む3人1組で担ぐ場合は「三枚肩(さんまいがた)」、4人1組の場合は「四枚肩(しまいがた)」、更に8人の場合は「八枚肩(はちまいがた)」或いは「八人肩(はちにんがた)」と呼んでいました。四枚肩では4人一緒に担ぐ場合と、2人ずつ交替で担ぐ場合がありました。

 

駕籠の起源は定かにはなっていませんが、古代にはすでに使われていたとの説もあり、中世後期にその形がほぼ定まったといわれています。従来は公家や武家が使っていたものですが、江戸時代には庶民にも広く使われるようになりました。自動車の保有台数が国民の豊かさを示す一つの指標であるとすれば、江戸時代は飛躍的に庶民が豊かになったことを示しています。

 

古来、中国や西洋では馬車や牛車が広く発展しましたが、江戸時代にはそうした車が広く使われたという記録はなく、普及しなかった理由はよく分かりません。もともと平安時代から中世にかけては牛車が使われていましたが、江戸時代にはほとんど使われなくなっていたようです。

 

駕籠といっても用途や使う人によって様々な違いがありました。一般的に庶民が使うものは、まさに駕籠と呼ばれるもので、大名や公家など身分が高い人が使う引き戸のついたものは特に「乗物(のりもの)」と呼ばれていました。ちなみに、2本以上の棒の上に人が乗るを載せたものは「輿(こし)」と呼ばれ、駕籠とは区別されています。

 

明治以降、人力車が駕籠に代わって人々の移動手段となります。次回はいろいろな駕籠の種類について紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。梅雨らしい天気が続いています。昨日から降り始めた雨は今朝になっても降り続いている東京ですが、もう暫くしたら曇りになるとの予報です。今日は午後から経済産業省で打合せ、夜は公安関係の人と会食と、落ち着いて作業できる時間がとれません。明日からの3連休もパソコンや資料とのにらめっこが続きそうです。

 

さて、本日は「四谷大木戸」について紹介したいと思います。前回も説明した通り、四谷大木戸は、甲州街道に設けられた江戸へ出入りする際の検問所です。日本橋から甲州街道を歩き第一宿である内藤新宿〔元禄12年(1699年)開設〕に至るには、この四谷大木戸を通らなければなりませんでした。

 

四谷大木戸が設置されていた場所は、現在の新宿通り(国道20号線)と外苑西通り(東京都道418号線北品川四谷線)が交差する四谷四丁目の交差点辺りです。現在、この交差点上が四谷大木戸跡として東京都指定旧跡となっています。この近辺は今でも「大木戸」と呼ばれていますが、行政上の地名としては残っていません。ただ、新宿御苑の東北側の出入り口は「大木戸門」の名称が使われ、四谷四丁目交差点から外苑西通りの一つ北の交差点は「大木戸坂下」と命名されています。

 

江戸幕府によって四谷に大木戸が設けられたのは元和2年(1616年)のことです。高輪大木戸と同じように、道の両側に石垣で囲まれた土塁が築かれ、その間に大きな木戸が設けられていました。木戸の間口は2間半(約4.5メートル)と狭く、当初は明六つに門が開けられ、暮六つに閉じられていましたが、寛政4年(1792年)以降は、木戸が撤去され、土塁だけが残りました。この土塁も明治維新以降に、交通の障害になるとのことで撤去されてしまいます。また、当時描かれた四谷大木戸の絵をみてみると、江戸市街地側に石畳が敷かれている様子が伺えます。これもまた、明治以降に撤去されてしまいました。

 

四谷大木戸近くには、承応2年(1653年)に完成した玉川上水の四谷水番所が設置されていました。多摩川の羽村から取水され、開渠のまま流されてきた水は、この水番所から先は地下に埋設された木製又は石造りの樋によって江戸の各地に配水されていました。水番所では、毎日時刻を決めて水位を計測し、羽村の取水口と連絡を取り合って水量の調節を行っていました。近代水道網も整備とともに、玉川上水は使われなくなっていますが、この水番所の跡には東京都水道局新宿営業所がある四谷区民センターが建っています。

 

ついでに、江戸の大木戸としてもう一つ存在が確認されている「板橋大木戸」についても簡単ですが紹介しておきましょう。板橋大木戸は詳細な資料が残っておらず、実態はよく分かっていません。大木戸が設置されていた場所は、板橋宿上宿にある「岩の坂」上辺り、現在の板橋区本町27番地付近といわれています。この大木戸も他の大木戸と同じように江戸時代後期には使われなくなりました。

 

高見澤

おはようございます。小暑も過ぎて大暑に向かうというのに、朝晩は比較的涼しい日が続いています。それでも昼間は蒸し暑く感じ、クーラーの効いた部屋に入るとホッとします。もう暫くすると学校も夏休み。我が職場も6月から10月の間に8日間の夏休み取得権利があるのですが、これまで満足に消化できたことはありません。さて、今年の夏はどうなることやら?
本日は、江戸四宿の最後の一つ、「内藤新宿(ないとうしんじゅく)」について紹介したいと思います。内藤新宿は甲州街道の江戸日本橋から数えて最初の宿場で、宿場内の新宿追分から分岐する青梅街道(成木街道)の起点にもなっていました。現在の東京都新宿区一丁目、二丁目、三丁目一帯にわたる地域です。
慶長9年(1604年)、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められますが、それ以前の慶長7年(1602年)には高井戸宿が甲州街道最初の宿場として設けられていました。しかし、高井戸宿は日本橋から約4里(約16キロメートル)の距離にあり、徒歩が主な交通手段であった当時からすると、品川宿や千住宿、板橋宿に比べかなりの負担を強いられていました。特に、日本橋伝馬町と高井戸宿の人馬の提供に係る負担は相当なものだったと思われます。
そこで、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛ら5人の浅草商人が、公儀に対して日本橋と高井戸宿の間に新しい宿場を開設したいと願い出ます。それが元禄10年(1697年)のことです。翌元禄11年(1698年)、幕府は5,600両の上納を条件に宿場の開設を許可します。日本橋から2里弱の場所で、青梅街道に分岐する辺りということで、新宿追分の東側一帯がその対象地域となりました。当時その場所は、信濃国高遠藩内藤家の下屋敷があり、その一部も割かれた形で宿場が形成されてきました。内藤新宿の名称の由来は、この内藤家の屋敷からきているといわれています。実際に伝馬の業務が開始されたのは元禄12年(1699年)のことでした。
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ところが、内藤新宿開設から20年も経たない享保3年(1718年)、内藤新宿の廃止が通達されます。その理由は交通量の少なさとも、享保の改革に伴う風紀取締りの一環ともいわれていますが、どうやら後者の理由が真相だったようです。
しかしその後、明和9年(1772年)に内藤新宿が再開されることになります。その理由というのが、各宿場の財政悪化と人馬提供の負担増にありました。幕府は宿場の窮乏に対し、風紀の規制緩和を行い、助郷村の増設によって対応することとしたのです。各宿場の窮乏に際し、幕府は明和元年(1764年)に、それまで「旅籠屋1軒につき飯盛女2人まで」とされていた制限を、宿場全体で上限を決める形式に変更しました。これにより、各宿場の財政は好転し、内藤新宿廃止の理由も立たなくなったというわけです。
日本橋から内藤新宿までの距離は1里29町(約7.1キロメートル)、内藤新宿から次駅の下高井戸宿までが2里、上高井戸宿までが2里余です。宿場は東側の四ツ谷の大木戸寄りから下町、仲町(中町)、上町に分かれ問屋場は時代によってこの3町の間で移動していました。宿建人馬は25人25疋で、天保14年(1843年)ころの記録では、戸数698戸、人口は2,377人、本陣は仲町に1軒あっただけで脇本陣はなし、旅籠屋は24軒となっていました。飯盛女の上限は150人とされていましたが、実際にはもっと多かったようです。
内藤新宿の近隣には、飯盛女たちの信仰を集めた「奮衣婆(だつえば)像」を祀る寺院が多く、「しょうづかの婆さん」の太宗寺、「綿のおばば」の正受院、飯盛女の投げ込み寺であった成覚寺、「追出しの鐘」と呼ばれる梵鐘のある天龍寺、「三光院稲荷」とも呼ばれる花園神社などがありました。
高見澤
 

おはようございます。先週木曜日の7月4日に公示された参議院選挙戦が21日(日)の投票日に向けて繰り広げられています。昼間は職場か、或いは外部での会議に出席していることが多いためか、あるいは候補者側の住民の静かな生活を守るための配慮なのかは分かりませんが、ほとんど選挙カーによる候補者名連呼の声は聞こえてきません。それと同じように、今回の選挙戦の争点は何なのかがはっきりしていません。10月に予定されている消費税増税が問題になっているのかといえば、国民も半ば納得、いやあきらめムードなのかもしれません。年金や社会保障費が逼迫するなか、消費税増税か据え置きかの選択は、いずれも日本国民にとってはいばらの道になるでしょう。明日は所用のため、瓦版はお休みさせていただきます。

 

さて、本日は江戸から地方に向かう主な街道の江戸内外の境界に設置されていた「大木戸(おおきど)」及び「高輪大木戸」について紹介したいと思います。もともと「木戸」とは「町木戸」と呼ばれ、江戸市中の町境に設置されていた防衛・防犯のための木製の扉で、木戸番と呼ばれる町役人がその管理を行っていたことは、すでに紹介した通りです。

 

この木戸の大規模なものが大木戸と呼ばれるものです。この大木戸の主な目的は人や物資の江戸への出入りを管理するもので、検問所、あるいは簡易な関所のような役割を担っていました。この大木戸と同じような機能を持つ施設として「見附(みつけ)」がありますが、こちらは江戸城内に入る検問所であったのに対し、大木戸は江戸市街地に入る際の検問所といった違いがあります。

 

大木戸は、江戸の町をここまでという境界を示す意味もあり、江戸から地方に向かうすべての街道にあったものと思われます。しかし、現在その跡がはっきりと確認できるのは、東海道の「高輪大木戸」と甲州街道の「四谷大木戸」の2カ所で、ほぼこの辺りと思われているのが中山道の「板橋大木戸」の1カ所のみです。

 

東海道の江戸の出入り口に設置された高輪大木戸は、現在の東京都港区高輪二丁目の国道15号線(第一京浜)沿いにあったもので、今でも大木戸跡の土塁が残っており、国の史跡として指定されています。もともと東海道沿いの木戸は、元和2年(1616年)に芝口門が「札の辻(東京都港区三田三丁目)」に建てられ、高札場が設けられていましたが、そこから南に700メートル行ったことろに高札場として大木戸が設けられました。その移設時期は江戸時代中期の宝永7年(1710年)、享保9年(1724年)、寛政4年(1729年)など諸説あり、はっきりとは分かっていません。

 

高輪大木戸は、道幅約6間(約10メートル)の街道の両側に築かれた石垣で覆った土塁の間に木戸を設け、明六つ(午前5時頃)に木戸を開き、暮六つ(午後5時頃)に木戸を閉じて、治安の維持と交通規制を行っていました。これが江戸後期になると、木戸がなくなり土塁のみが残されます。土塁の大きさは長さ5間(9メートル)、幅4間(7.2メートル)、高さ1丈(10尺、3メートル)で、明治時代に道路拡張のために山側の土塁が撤去され、今は海側の土塁が残るのみとなっています。

 

幕末期に伊能忠敬が日本地図作成のために、この高輪大木戸を全国測量の起点としたことは有名で、この近くには忠臣蔵で知られる赤穂浪士の墓所となっている泉岳寺があります。2020年春には山手線の新駅「高輪ゲートウェイ駅」が開業しますが、この駅名もこの高輪大木戸に因んで命名されたものです。

 

今では国道15号線沿いにビルが立ち並び、JRの線路の向こうには港南側の建物が見え隠れしますが、江戸時代は京上り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎がこの高輪大木戸で行われ、付近には茶屋などもあって、海岸の景色もよく月見の名所でもあったようです。この大木戸を出ると、東海道第一宿である品川宿が目と鼻の先に見えてきます。

 

高見
 

おはようございます。小暑も過ぎて大暑に向かうというのに、朝晩は比較的涼しい日が続いています。それでも昼間は蒸し暑く感じ、クーラーの効いた部屋に入るとホッとします。もう暫くすると学校も夏休み。我が職場も6月から10月の間に8日間の夏休み取得権利があるのですが、これまで満足に消化できたことはありません。さて、今年の夏はどうなることやら?

 

本日は、江戸四宿の最後の一つ、「内藤新宿(ないとうしんじゅく)」について紹介したいと思います。内藤新宿は甲州街道の江戸日本橋から数えて最初の宿場で、宿場内の新宿追分から分岐する青梅街道(成木街道)の起点にもなっていました。現在の東京都新宿区一丁目、二丁目、三丁目一帯にわたる地域です。

 

慶長9年(1604年)、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められますが、それ以前の慶長7年(1602年)には高井戸宿が甲州街道最初の宿場として設けられていました。しかし、高井戸宿は日本橋から約4里(約16キロメートル)の距離にあり、徒歩が主な交通手段であった当時からすると、品川宿や千住宿、板橋宿に比べかなりの負担を強いられていました。特に、日本橋伝馬町と高井戸宿の人馬の提供に係る負担は相当なものだったと思われます。

 

そこで、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛ら5人の浅草商人が、公儀に対して日本橋と高井戸宿の間に新しい宿場を開設したいと願い出ます。それが元禄10年(1697年)のことです。翌元禄11年(1698年)、幕府は5,600両の上納を条件に宿場の開設を許可します。日本橋から2里弱の場所で、青梅街道に分岐する辺りということで、新宿追分の東側一帯がその対象地域となりました。当時その場所は、信濃国高遠藩内藤家の下屋敷があり、その一部も割かれた形で宿場が形成されてきました。内藤新宿の名称の由来は、この内藤家の屋敷からきているといわれています。実際に伝馬の業務が開始されたのは元禄12年(1699年)のことでした。

 

ところが、内藤新宿開設から20年も経たない享保3年(1718年)、内藤新宿の廃止が通達されます。その理由は交通量の少なさとも、享保の改革に伴う風紀取締りの一環ともいわれていますが、どうやら後者の理由が真相だったようです。

 

しかしその後、明和9年(1772年)に内藤新宿が再開されることになります。その理由というのが、各宿場の財政悪化と人馬提供の負担増にありました。幕府は宿場の窮乏に対し、風紀の規制緩和を行い、助郷村の増設によって対応することとしたのです。各宿場の窮乏に際し、幕府は明和元年(1764年)に、それまで「旅籠屋1軒につき飯盛女2人まで」とされていた制限を、宿場全体で上限を決める形式に変更しました。これにより、各宿場の財政は好転し、内藤新宿廃止の理由も立たなくなったというわけです。

 

日本橋から内藤新宿までの距離は1里29町(約7.1キロメートル)、内藤新宿から次駅の下高井戸宿までが2里、上高井戸宿までが2里余です。宿場は東側の四ツ谷の大木戸寄りから下町、仲町(中町)、上町に分かれ問屋場は時代によってこの3町の間で移動していました。宿建人馬は2525疋で、天保14年(1843年)ころの記録では、戸数698戸、人口は2,377人、本陣は仲町に1軒あっただけで脇本陣はなし、旅籠屋は24軒となっていました。飯盛女の上限は150人とされていましたが、実際にはもっと多かったようです。

 

内藤新宿の近隣には、飯盛女たちの信仰を集めた「奮衣婆(だつえば)像」を祀る寺院が多く、「しょうづかの婆さん」の太宗寺、「綿のおばば」の正受院、飯盛女の投げ込み寺であった成覚寺、「追出しの鐘」と呼ばれる梵鐘のある天龍寺、「三光院稲荷」とも呼ばれる花園神社などがありました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝出勤してみると、奇妙な現象が起きていることに気が付きました。私の席にはごみ箱が二つあるのですが、その一つが前の席の資料の上に置いてあったのです。先週金曜日の退勤時にはごみ箱は確かに私の事務机の隣に二つ置いてあり、最後に鍵を閉めて帰ったのは私、そして今朝一番で出勤したのも私です。土日に誰かが出勤する可能性はもちろんあるのですが、私のごみ箱を動かすような用事があったとは、業務上は先ず考えられません。仮に掃除の業者が入ったとしても、ごみ箱の中身をそのままにするわけはなく、通常土日は掃除はしません。誰かが、私のごみ箱を漁ったとしか思えないのですが...何のために?

 

さて、本日は江戸四宿の一つ「板橋宿(いたばししゅく)」について紹介したいと思います。板橋宿は、中山道六十九次のうち、江戸日本橋から数えて第一の宿で、川越街道の起点ともなっていました。現在の東京都板橋区本町、仲宿、板橋1丁目、3丁目辺りで、当時は武蔵国豊島村下板橋村の一部でした。

 

板橋宿は、北側(上方側、京都寄り)から「上宿(かみしゅく)〔現在の本町〕」、「仲宿(なかしゅく)〔中宿とも書く、現在の仲宿〕」、「平尾宿(ひらおしゅく)〔下宿(しもしゅく)とも呼ぶ、現在の板橋〕」から構成されていました。上宿は遊芸人などが泊まる木賃宿や安価な一杯飲み屋の町、仲宿は武士や町人相手の平旅籠や商店の町、平尾宿は料理屋や妓楼の町だったようです。これら3つの宿には、それぞれ名主が置かれており、上宿と仲宿の間にはこの地域の地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川(しゃくじいがわ)が流れていました。板橋は、文字通り板張りの木橋で、江戸時代のものは長さ9間(約16.4メートル)、幅3間(約5.5メートル)の緩やかな太鼓橋でした。

 

江戸日本橋から板橋宿までは2里半(約9.8キロメートル)、板橋宿から次宿の蕨宿までは2里10町(約8.9キロメートル)と、江戸四宿のなかでは、江戸日本橋から最も離れている第一の宿場でした。天保12年(1841年)から天保15年(1844)年の道中奉行による調査では、宿往還の長さは20町9間(約2.2キロメートル)、うち街並地は1549町(約1.7キロメートル)と南北に広がっていました。

 

宿建人馬は5050疋でした。天保15年頃の記録では、戸数573軒、人口2,448人と江戸四宿の中では最も規模が小さかったのですが、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は3つの各宿に1軒ずつ計3軒も設けられており、旅籠は54軒でした。この板橋宿も品川宿や千住宿と同じように、遊郭として機能しており、150人の飯盛女を置くことが幕府から認められていました。特に日本橋寄りの平尾宿には多くの飯盛旅籠が軒を連ねていたそうです。

 

板橋宿付近の観光地としては、境内が馬つなぎ場となっていた「遍照寺(へんしょうじ)」、その木の下を嫁入り・婿入りの行列が通ると必ず不縁になるとされていた「縁切榎(えんきりえのき)」などがありました。徳川家に降嫁した五十宮(いそのみや)、楽宮(ささのみや)、和宮(かずのみや)の一行は、いずれもこの縁切榎を避けて通り、板橋本陣に入ったといわれています。

 

高見澤

 

おはようございます。月日が経つのも速いもので、7月もアッという間に1週間が過ぎようとしています。明後日7月7日は七夕であると同時に、二十四節気の一つ「小暑」にあたります。これから次の「大暑」に向けて暑さが増すと同時に、梅雨が続くわけですからジメジメとした蒸し暑さが余計に感じられる時期でもあります。体調管理にはくれぐれもご注意ください。

 

さて、本日は江戸四宿の一つである「千住宿(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)」について紹介したいと思います。千住宿は、日光街道及び奥州街道の江戸日本橋からの第一宿で、荒川(今は隅田川)に掛けられた千住大橋を中心に、隅田川両岸に形成された宿場町です。

 

江戸を中心に街道の整備が始まり、文禄3年(1594年)に荒川に千住大橋が架けら、慶長2年(1597年)に千住が人馬継立が置かれ、寛永2年(1625年)に、千住は日光街道・奥州街道の初宿として指定されます。当初は、後に「本宿(又は千住北組)」と呼ばれるようになる千住一丁目から五丁目までの5町であったのが、交通量の増大によって町域が拡大し、万治元年(1658年)に掃部(かもん)宿、河原町(かわらちょう)、橋戸町(はしどちょう)の3町〔後に「新宿(又は千住中組)」〕が加わり、更に万治3年(1660年)には千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)と中村町(なかむらまち)の2町〔後に「南宿(又は千住南組)」〕が宿場に加えられ、計10町から成る千住宿が完成しました。

 

千住宿は江戸日本橋からは2里8町(約8.7キロメートル)、次の草加宿までも同じく2里8町で、水戸佐倉街道や下妻街道はここで分岐し、水戸佐倉街道の新宿(にいじゅく)や岩槻道(赤山街道)の舎人(とねり)などにも継立していました。

 

千住宿の宿建人馬は50人と50疋で、元禄9年(1696年)には不足する人馬を周辺の村々から集める「助郷制(すけごうせい)」が定められました。記録(『日光道中宿村大概帳』)によると、天保14年(1843年)、千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられており、宿内の戸数は2,370軒、人口は9,456人であったとのことです。

 

千住宿付近では、荒川、隅田川、綾瀬川などが合流していることもあって、昔から交通・運輸には最適の地であり物資が集まりやすく、千住大橋沿いに「橋戸河岸(はしどかし)」が置かれていたほか、千住河原町には「千住青物市場(やっちゃ場)」が設置され、それが後に御用市場となりました。文政4年(1821年)の調査によると、江戸参勤交代の大名で千住宿を利用した者は64家で、その内訳は日光街道4家、奥州街道37家、水戸街道23家でした。

 

他の江戸四宿と同じように、千住宿にも幕府準公認の飯盛女が置かれていた遊郭があり、岡場所としての賑わいをみせ、幕府に認められていた飯盛女の公許の数は150名でしたが、実際には更に多くの飯盛女がいたものと思われます。当時、「新河岸川舟運(しんがしがわしゅううん)」には船頭が唄った「千住節」なるものがあり、「千住女郎衆はいかりか綱か、上り下りの舟とめる」という一節があるように、多くの舟が停泊する様子がうかがえます。新河岸川舟運については、改めて紹介の機会を設けます。

 

千住宿近辺には西新井大師、大鷲神社(おおとりじんじゃ)、牛田薬師、性翁寺(しょうおうじ)などの神社仏閣のほか、関屋の里、鐘ヶ淵、綾瀬川などの自然も見られることから、行楽地としても賑わっていました。また千住宿には「小塚原刑場」があり、東海道沿いの「鈴ヶ森刑場」や甲州街道沿いの「大和田刑場」と並びに江戸三大刑場の一つとされています。

 

高見澤

 

おはようございます。最近、閣僚や国会議員など政治家の不用意な発言が新聞やニュースで大きく取り上げられます。確かに、北方四島に絡む丸山穂高衆議院議員の戦争発言は、彼の泥酔時の行動と合わせて政治家としての資質に疑問を投げかけられるのも無理はありませんが、中には「こんなことまで...」と思わせるような発言が、大きく議論の対象となることに、日本の政治のレベルの低さを感じざるを得ません。先日のG20大阪サミットの夕食晩餐会で、安倍総理が、大阪城再建時にエレベーターを設置したのは大きなミスだったとの発言したことが、野党の間で障碍者や高齢者に対する配慮の欠如だとして、批判の対象となっています。総理が本当に大きなミスだったと思って、政府見解として話をするのであれば、それは大問題だと思いますが、晩餐会での発言は参集いただいた各国首脳の笑いをとるためであったことは明白で、そんなことに時間を費やすほど政治運営は暇ではないはずです。財政、外交、福祉、災害対策、経済対策など、真剣に議論しなければならない問題は目白押しです。このような政治を生み出しているのは、国民自体であることもまた自覚が必要なのかもしれません。

 

さて、本日は江戸四宿の一つである「品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)」について紹介していきたいと思います。品川宿は、東海道五十三次の一つであり、江戸日本橋から見て東海道の第一宿となっていました。

 

現在の東京都品川区の北東部、目黒川の河口付近に位置し、中世以来「品川湊」と呼ばれる港町として発展していました。徳川家康による伝馬・宿駅制度の整備に伴い、慶長6年(1601年)に正式な形で東海道の第一宿となります。日本橋から2里(約7.9キロメートル)、次宿の川崎宿までは2里半(約10キロメートル)で、宿建人馬は100人・100疋でした。

 

当初は目黒川北岸の「北品川宿」と同南岸の「南品川宿」の2宿で伝馬役を勤めていましたが、その後北品川の北に続く一帯にも水茶屋などが立ち並ぶ茶屋町となり、「品川新宿」と呼ばれる新たな宿場が形成されていきます。この品川新宿が正式に宿場として認められたのは享保7年(1722年)で、別名「歩行新宿(かちしんしゅく)」とも呼ばれています。

 

歩行新宿と呼ばれる所以は、本来宿場は伝馬と歩行人足(かちにんそく)の両方を負担しなけれならかったのですが、この品川新宿は歩行人足だけを負担することとされたために、この名称で呼ばれるようになったとのことです。品川宿は、五街道の中でも特に重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海路の江戸の玄関口でもあったことから、かなりの賑わいをみせていました。旅籠の数や通過する大名の数も他の江戸四宿に比べ格段に多かったようです。

 

また、江戸の庶民が品川宿近辺にある牛頭(ごず)天王社、東海寺、品川寺、海妟寺や、少し離れた川崎大師、目黒不動などへの参詣の折に立ち寄る行楽地でもありました。さらに、遊所としても準公認とされており、「北の吉原、南の品川」と称さるほどの賑わいをみせていました。明和年間(1764年~1772年)以降、飯盛女と呼ばれる遊女が許されていた数は500人、最盛期には旅籠屋の数は180軒にも上ったそうです。天保14年(1843年)ころの記録によると、旅籠屋の数は93軒、戸数1,561戸、人口6,890人でした。天保15年(1844年)1月に道中奉行が摘発を行った際には、1,348人の飯盛女が検挙されたとのことで、幕府としてもその過度の賑わいは見逃すことができなかったのでしょう。本陣は北品川に1軒、南品川と品川新宿にそれぞれ脇本陣が1軒ずつありました。

 

南品川から1.5キロメートルほど南には江戸三大刑場の一つである「鈴ヶ森刑場」がありました。今でもその刑場跡が史跡として残されています。品川宿は私の自宅からも近いので、時間があればのんびりと散策でもしたいところです。

 

 

おはようございます。西日本では連日の大雨で、災害の恐れが高まっています。気象庁も避難勧告を多発する異例の事態となっています。東日本では、今日から明日にかけては警戒が必要になるくらいの豪雨に見舞われるところもあるかと思います。不急の外出は避けた方がいいかもしれません。私もおとなしくしていたいところですが、本日は昼、夜ともに会議や交流会といったイベントが入っており、気が滅入っているところです。

 

さて、これまでしばらくの間、日本中の街道を渡り歩いてきたので、本日はしばらくぶりに江戸に帰ってみたいと思います。そこで、今回は五街道の起点である日本橋から各街道の最初の継立駅(つぎたてえき)となった「江戸四宿(えどししゅく)」について紹介してみましょう。

 

五街道の起点が江戸日本橋であったことは、すでに紹介した通りですが、五街道にはそれぞれ最初の宿場がありました。東海道には「品川宿」、日光街道及び奥州街道には「千住宿」、中山道には「板橋宿」、そして甲州街道には「内藤新宿」(当初は「高井戸宿」)です。基本的には、日本橋から2里(約8キロメートル)以内を目途としており、人、物資、情報、文化等の集積地として機能するなど、江戸の玄関口として重要な役割を果たしていました。

 

日本橋から品川宿までは7.9キロメートル、千住宿までは8.7キロメートル、板橋宿までは9.8キロメートル、内藤新宿までは7.1キロメートルです。「板橋と聞いて迎えは二人減り」と川柳にもあるように、板橋は品川と違って日本橋から最も距離があり、旅帰りの出迎え人からもとかく敬遠されがちだったようです。ちなみに、日本橋から甲州街道の下高井戸宿までは約16キロメートルありました。

 

江戸四宿は、それぞれに「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれる幕府非公認の遊郭があり、「飯盛女(めしもりおんな)」の名目で遊女が置かれていました。中でも、品川宿での遊女の数が最も多かったといわれています。

 

日本橋と江戸四宿との間の役務(荷役用の人足と駄馬)は、日本橋の大伝馬町と小伝馬町、そして京橋の南伝馬町の三伝馬町が受け持ち、往復ともその役務を担っていました。江戸四宿以降も同様に、宿駅ごとに運び手が交代する仕組みになっていました。こうした伝馬業の手配や事務作業は「問屋(といや)」が行っていたことは、以前紹介した通りです。

 

三伝馬町の経費は、当初は江戸幕府が直接支給していましたが、やがて「伝馬役銭(てんまやくせん)」と呼ばれる江戸市中の家持に課せられていた一種の固定資産税の中から必要経費が賄われるようになりました。しかし、その運営はかなり苦しかったようです。

 

【品川宿】

五街道(脇街道など):東海道、(品川湊)

日本橋からの距離:2里(約7.9キロメートル)

家数、人口(天保年間):1,600戸、7,000

宿泊施設(天保年間):本陣1、脇本陣2、旅籠93

飯盛女の上限:500

次の宿場:川崎宿

 

【千住宿】

五街道(脇街道):日光街道、奥州街道、(水戸街道)

日本橋からの距離:2里8町(約8.7キロメートル)

家数、人口(天保年間):2,370戸、9,556

宿泊施設(天保年間):本陣1、脇本陣1、旅籠55

飯盛女の上限:150

次の宿場:草加宿

 

【板橋宿】

五街道(脇街道):中山道、(川越街道)

日本橋からの距離:2里18町(約9.8キロメートル)

家数、人口(天保年間):573戸、2,448

宿泊施設(天保年間):本陣1、脇本陣3、旅籠54

飯盛女の上限:150

次の宿場:蕨宿

 

【内藤新宿】

五街道(脇街道):甲州街道、(青梅街道)

日本橋からの距離:1里29町(約7.1キロメートル)

家数、人口(天保年間):698戸、2,377

宿泊施設(天保年間):本陣1、脇本陣0、旅籠24

飯盛女の上限:150

次の宿場:高井戸宿

 

次回からは、それぞれ四宿について紹介してきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は雨、先週末から梅雨らしい天気が続いています。蒸し暑くジメジメとした感触は決して心地よいものではありませんが、それでもこれもまた季節を感じる風物詩と捉えれば、まんざらでもありません。不快な思いがあってこそ、それを脱したときの心地よさが一段と映えてくるのではないでしょうか。

 

さて、本日は「金沢道(かなざわみち)」と「浦賀道(うらがみち)」について紹介したいと思います。先ずは金沢道です。この道は、東海道五十三次の程ヶ谷宿(横浜市保土ヶ谷区)の金沢横町から金沢(横浜市金沢区)の六浦陣屋(むつうらじんや)〔金沢八景駅〕に至る道のことです。

 

金沢道の経路は、程ヶ谷-いわな坂-岩井-清水ヶ丘公園-蒔田-弘明寺-上大岡-打越-栗木-能見台-金沢文庫・称名寺-町屋-瀬戸神社-金沢八景に至り、そこから鎌倉道や浦賀道につながります。

 

金沢の六浦から朝比奈切通しを経て鎌倉に通じる道は、以前紹介した鎌倉街道下道で、これと合わせて「金沢鎌倉道」とも呼ばれています。鎌倉街道下道は「六浦道(むつうらみち)」とも呼ばれ、六浦湊(六浦津)は風浪を防ぐ良港だったこともあり、鎌倉幕府の物流の拠点として賑わい、六浦や釜利谷(かまりや)で造られた塩が鎌倉に運ばれました。

 

六浦から浦郷(うらごう)〔神奈川県横須賀市〕を経て浦賀に向かう街道が浦賀道です。程ヶ谷から六浦までの金沢道と合わせて、横須賀村までの道を浦賀道とすることもありますが、もう一つ東海道五十三次の戸塚宿から浦賀に至る浦賀道のルートもありました。このルートは戸塚宿(神奈川県戸塚区)から雪下村(神奈川県鎌倉市)、小坪村(神奈川県逗子市)を経て下平作村(横須賀市)に至る道です。金沢道が三浦半島の江戸湾側を南下するのに対し、この戸塚ルートは三浦半島の相模湾側を南下するものでした。

 

江戸時代、元和2年(1616年)に下田(静岡県下田市)に番所を置いて江戸湾に入港する船舶を監視しましたが、その後享保5年(1720年)に浦賀奉行を設置して番所も浦賀に移ります。これによって、浦賀道は幹線道路として整備されることになり、特に幕末の黒船来航以降は更に人馬の行き来が盛んになりました。明治以降、横須賀が軍港として発展するのは、こうした下地があっての所以です。

 

金沢道や浦賀道につながる小道として、「白山道」や「野島道」などの名称が残っている街道もありました。

 

高見澤
 

おはようございます。今日から7月、月日の経つのも速いもので、今年もすでに半分が過ぎました。先週末にはG20首脳会議のほか、日米、日中、日ロ、米中などの首脳会談も行われ、懸念されていた最悪のシナリオは何とか回避され、現状を保つのがやっとのことで、大した進展もなく大阪での大イベントは幕を閉じました。唯一進展があったのは、米朝首脳会談が行われたことで、朝鮮半島非核化に向けた交渉が再開されるとのこと。とはいえ、この地球全体が不自然な状態にあることは、何も変わりません。世の不条理に対するストレスは募るばかりです。

 

さて、本日は「神奈川往還(かながわおうかん)」について紹介したいと思います。神奈川往還は、「浜街道」や「武蔵道」のほか、横浜側では「八王子街道(はちおうじかいどう)」とも呼ばれています。また、江戸の幕末から明治にかけて生糸を運んだことから「絹の道」、すなわちシルクロードとも呼ばれるようになりました。

 

甲州街道の宿場である武蔵国八王子宿から始まる神奈川往還は、鑓水峠(やりみずとおげ)〔東京都八王子市〕を越えて相原村(あいはらむら)〔町田市〕に入り、境川東側の原町田村を中継地として鶴間村(町田市)、相模国今宿村(神奈川県横浜市旭区)を経由して横浜港に向かう約40キロメートルの道程です。現在の町田街道及び国道16号に相当する道で、これら宿場の地名は今でも残っています。

 

昔から八王子周辺は、多摩地方をはじめとする武蔵国、甲斐国、信濃国各地で生産された生糸の集積地として栄え、江戸や武蔵国各地に出荷していました。安政6年(1859年)、横浜港が開港し貿易が活発になると、生糸や絹製品が海外輸出の主力商品となり、八王子からこの神奈川往還を通って横浜港に運ばれるようになりました。この生糸や絹商品を扱っていたのが「鑓水商人(やりみずしょうにん)」と呼ばれる絹商人です。

 

鑓水商人は、絹取引で大きな富を築き上げ、大きな屋敷が街道沿いに軒を連ねていました。江戸幕府は鑓水商人による生糸の密貿易を取り締まるために、万延元年(1860年)に「五品江戸廻令(ごひんえどまわしれい)」を出して、生糸、呉服、雑穀、水油、蝋の5品目は江戸での積み廻しによって輸出することとしましたが、これを無視して神奈川往還を通って直接横浜港に荷を運ぶ者が後を絶たなかったようです。

 

高見澤

2021年1月

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