2019年7月アーカイブ

 

おはようございます。今日で7月も終わり、明日から8月です。梅雨も明けて、非常に暑い日が続いています。今朝も少し歩いただけで汗でびっしょり、汗臭さが気になり消臭スプレーが手放せません。周囲に対する気遣いも仕事のうちと割り切り、なるべく天然素材のものを使いたいですね。

 

さて、本日は主に大坂で使われていた人力の荷車「べか車(べかぐるま)」について紹介しようと思います。べか車は、漢字では「輇車」と表記され、後には「板車(いたぐるま)」と呼ばれました。

 

基本的な構造は大八車とほぼ同じで、長さは2間(約3.6メートル)ないしは6~7尺(約1.82.1メートル)、幅は大八車より少し狭く3尺(約91センチメートル)余りに作られていました。幅が狭く作られていた理由は、大坂の街の道幅が江戸のそれよりも狭かったからです。車輪は円板で二輪、板張りの台車の中央部に付いていました。大八車と大きく異なるところは、前に引手の横木がないところで、べか車は綱を使って引いていました。

 

べか車には、2人以上で押し引きして進む大型のものと、長く伸びた棒〔撞木(しゅもく)〕を1人で押して進む小型の2つのタイプがありました。大型のべか車は、前方で1~2本の綱を2~3人が引き、後方で1~2人が撞木を押し、これを「楫(かじ)」といって身体を掌っていました。通常のべか車の積載量は30貫(約112キログラム)、車力は2人です。作りが頑丈であったことから、木石など重量物の運搬にも使われていました。

 

べか車の名称が現れるのは安永年間(1772年~1781年)のことです。橋梁を破損させるとの理由で、安永3年(1774年)にべか車の橋上の通過が禁止されます。しかし、その当時はべか車が広く普及しており、上荷(うわに)船、茶船への影響が非常に大きく、関係者の請願により寛政3年(1791年)に禁止令から制限令に規制が緩和されています。文政7年(1824年)のお触れでは、橋梁の通過定数を1,678台としています。

 

高見澤
 

おはようございます。昨日、関東地方は梅雨明けしました。気温も上昇し、暫くは暑い日が続きます。本日は朝から経済産業省で会議があります。午前中いっぱい外出です。暑い中の移動は、体力も消耗します。水分補給に気を使いたいですね。

 

さて、本日は再び江戸時代に話を戻し、荷車として使われた「大八車(だいはちぐるま)について紹介したいと思います。一般に大八車は、荷物の輸送に使われた総木製の人力の車として知られ、「代八車」と表記されることもあります。重い荷物を遠くへ運ぶ際には、これを牛に引かせて牛車として使うこともありました。ただ、基本的にこの大八車が使われていたのは江戸市中と駿府だけで、特に街道での利用は厳しく制限されていました。

 

大八車の形状は、前方に「ロの字」型の木製の枠があり、枠の後方に木を簀子張りに組んだ板が取り付けられ、その板の左右に車輪が設置されています。車輪は7枚の羽に21本の矢から成り、一般的に車輪は2つですが、中には4つの車輪を持つ車もありました。四輪は重い荷物を載せたときにバランスを保つことができますが、小回りが利かず、狭い道だと角を曲がりにくいという欠点があります。このため、二輪の大八車が主流となっていたようです。車輪は現在のような空気入りのタイヤではなく、木製でそれに鉄の箍(たが)がはめられており、振動や騒音はかなり大きなものであったと思われます。

 

大八車で主に運んだ物資は、炭や米を詰めた俵で、時には遺体を運ぶこともありました。大八車を引いて荷物を運ぶ人を「車力」、「車引き」と呼び、前から引いて大声で人を避けさせる役目と、後ろから車を押す役目のものがいて、2~3人1組というのが通常でした。運搬方法は、重い荷物が後部に偏らないようバランスに気を配りながら、荷物を荷台に置いて荒縄で固定し、前方の人が枠に入り、前掲して荷台を起こします。荷台と地面が平行になるよう引いていきます。江戸は坂道が多かったので、車での運搬は力ばかりでなく、気苦労も絶えなかったことでしょう。

 

大八車と同様の構造の荷車は、少なくとも平安時代から使われていたようですが、大八車として一般的に使われるようになったのは、やはり江戸時代のことです。元禄16年(1703年)に江戸町奉行所が行った調査では、江戸市中に1,273両の大八車が使われていたとのことです〔伝馬町で極印を押された大八車は2,239両との記録もある〕。

 

大八車の名称の由来については、①1台で8人分の働き(運搬)ができることから8人の代わりで「代八」、②車台の長さが1丈、9尺、8尺(約2.4メートル)、7尺、6尺のものをそれぞれ「大十車」、「大九車」、「大八車」、「大七車」、「大六車」と呼ぶところから付けた、③近江国(滋賀県)大津の八町で使われていた「大津八町の車」が略されたもの、④江戸芝高輪牛町の大工・八五郎が発明したというもの、⑤陸奥国(奥州)の針生大八郎が発明したというものなど、諸説あります。

 

後にこの大八車が発展し、大正10年(1921年)頃に荷車に箱枠を付けて車輪を空気入りのタイヤにしたリヤカーが発明されます。しかし、自動車の出現によって、大八車やリヤカーも次第にその姿がみられなくなりました。

 

高見澤

 

おはようございます。週末に台風の影響が心配されていた東京ですが、外出時には傘をさすこともありませんでした。そろそろ梅雨明け宣言が出され、今週辺りから気温も大きく上昇することでしょう。暑さ対策には十分ご注意を!

 

さて、本日は前回の予告通り、「牛車の種類」についてどのようなものがあったのかを見ていきましょう。今回は乗り物としての牛車ですが、前回も紹介した通り、江戸時代には乗り物として牛車はほとんど使われておらず、以下の牛車はいずれも平安時代に使われたものであることを、ご承知置き下さい。