東藝術倶楽部瓦版 20190722:江戸の乗物その3-浮雲の行方定めぬ「雲助」

 

おはようございます。先週土曜日の夜、北京出張から戻ってきました。先週木曜日、京都のアニメスタジオへの放火殺人で34人もの方が亡くなるという痛ましい事件が発生しました。その日の夕方に経済産業省での会議に出席した後、21:10羽田発の中国国際航空(CA)便で北京に向け出発(実際に羽田を飛び立ったのは22:00頃)、北京首都空港に到着したのは翌日00:30、ホテルで休めたのが03:00頃という過酷な中で、そのニュースに目を通していました。私自身、アニメーションにはそれほど詳しくなく、帰国後に息子や娘にそのアニメスタジオのことを尋ねると、かなり有名なスタジオで、内容はモノによるものの、映像に関しては優れた実力を有しているとのことで、その作品の何点かを見せてもらいました。確かに彼らがいうように、美しい背景と動画の動きがよくマッチしていて、モノづくり・おもてなしの精神を有する日本を代表するような作品ではないかと感じた次第です。今回の事件、何がそうさせたのかよく分からないのですが、一刻も早い真相の解明と、再発防止を願わざるを得ません。

 

さて、前回、前々回と「駕籠」について説明してきましたが、本日は駕籠に関係して「雲助(くもすけ)」について紹介したいと思います。雲助とは「蜘蛛助」とも表記し、江戸時代中期以降、街道の宿駅や川の渡し場などで、荷物の運搬や駕籠舁きなどに従事していた人足を指します。

 

もともとのこうした人足業は、農家の助郷役として行われていましたが、農民が金納して助郷労働を軽減する「代銭納」が増えたことで、人足が不足していきます。そのため江戸幕府は貞享3年(1686年)に出所の知れた浮浪人に限って人足とすることを許可しました。こうした人足は「宿場人足」と呼ばれ、親方による一定の統制を受けて仕事に従事していました。

 

しかし、宿場人足に混じって出所の知れないモグリの宿場人足が横行するようになります。そうしたなかには、旅人から酒手をねだったり、ぼったくりなど取締りの目をくぐって悪事を働く者も出てきます。当初はこうした質の悪い無頼の者を雲助と呼んでいましたが、次第に宿場人足や駕籠舁きと混同されて使われるようになりました。もちろん、善良な雲助も少なくなく、江戸時代の物流は多くの善良な雲助によって成り立っていたと言っても過言ではありません。一方、無頼の雲助は「護摩の灰」と呼ばれるようになります。

 

雲助という言葉の由来としては、出所の知れない人足が「浮雲の行方定めぬ」ところからきているという説、蜘蛛のように巣を張って客を待ち構えるとこからきているという説、その離散集合の様子が蜘蛛の子を散らすごくであるという説などがあります。「足元を見る」という人の弱みにつけ込むことを意味する言葉がありますが、これは質の悪い雲助が旅人の草履をみて擦り切れている、すなわちもう歩けないという場合に、高い金額をふっかけたというところに由来しているようです。また、「雲助根性という言葉は、他人の足元をみるような行為や考え方を指します。

 

雲助という言葉は、現在では悪質なドライバーなどを意味する軽蔑の言葉となっていますが、江戸時代には一般に悪い意味で使われていたわけではありません。言葉の使い方には時代の変遷があり、また使い方によっては人を喜ばせたり、反対に傷つけたりします。「言霊(ことだま)」とはよく言ったものです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年7月22日 11:44に書いたブログ記事です。

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