2016年7月アーカイブ

 

おはようございます。

暑い日が続きます。体調を崩さないよう、こまめに水分補給を忘れないでください。

明日から北京出張です。北京では大雨による冠水が起きたようで、最近の異常気象が世界各地で起きています。地球に仇をなす地球の人類に対する報いだと言えましょう。

 

さて、今日も江戸の人々の主食についてご紹介していきましょう。

江戸時代中期の日本の米の生産量は2,5003,000万石、現代の単位で言えば375450万トンでした。当時の日本の人口が約3,000万人ですから、一人当たりに換算すると、125150kgです。男性の大人一人が1年間で食べる量の標準が1石、すなわち約150kgですから、ほぼ自給自足できていたことになります。

ちなみに、現在の日本の米の生産量は約900万トン、石高で言えば6,000万石になります。人口1億2,700万人で割れば、一人当りは約70kgとなり、江戸時代の半分程度です。その分、小麦(パン、麺類)やシリアル等の主食で補われていますので十分なのでしょうが、それらは輸入に頼っているのが実情です。そう考えれば、江戸時代は主食が自給自足できていたので、それだけ豊かな時代であったことが分かります。

 

この1石を1日当りに換算してみますと、約2.7合になります。江戸の人々は、一人当たり1日平均5合食べていたと言われているので、全国的にみてもかなり裕福であったことが分かります。実際に、1日平均5合食べられたのは、総人口の10%程度だったと言われています。

 

でも皆さん考えてみてください。我々現代人は、1日どれくらいの米を食べるでしょうか?我が家大人5人の場合(夫婦+1男2女)、5合炊けばほぼ1日は十分食べられます。一人1日1合で、我が家はどちらかと言えば小食です。5合どころか、2.7合でも食べきれません。おやつにおにぎりにして食べたとしても、まあ2合もあれば十分でしょう。

 

教科書では分からない江戸時代の食生活。自ら調べてみると、意外な事実に気付くことができます。

 

明日から北京出張です。明日から今週いっぱいは休刊とさせて頂きます。

 

高見澤

 

おはようございます。

東京は二日続けての雨日和です。今は大分小降りになっていますが、傘は手放せません。

来週26日(火)から29日(金)まで、北京出張です。先日の五井野博士の講演会で、中国との関係が厳しくなっているとのご指摘もあり、憂慮するところですが、取り敢えず仕事なので行ってきます。

また、瓦版も一時お休みすることになります。出張中は朝から晩まで、食事を含め打ち合わせや会議、面談が入っていますので、中々時間がとれません。ご容赦ください。

 

さて、昨日まで調味料についてお話ししてきましたが、「さ、し、す、せ、そ」の調味料のほとんどが、江戸時代に庶民にも愛用させるようになったことがお分かりいただけたかと思います。それはつまり、江戸が食の面で如何に豊かであったかを証明する明確な証拠であると言えます。しかも当時は、石油から作る添加物などなく、すべてが自然の恵みによって出来上がる完全無農薬・完全有機栽培の「グリーン食品」でしたから、現代からすれば、何と贅沢な食生活であったのか...ということになります。

 

このように歴史を紐解いてみると、江戸時代に大きな料理革命が起きています。これまでお話ししたように調味料の多様化ばかりでなく、主食である米の精米による白米食、外食産業の発展、酒などの嗜好品の流行など、こうした習慣が一般庶民の間に広まったことが、何よりも驚きなのです。おそらく同時代の西洋では考えも及ばないことだったのではないでしょうか。

 

普段我々日本人が何気なく食べている主食の米ですが、この地球の人々、就中日本人にとってこれほど適した主食はないと考えられます。その理由は機会を設けてご紹介しますが、世界では他にも主食となる作物として、小麦やトウモロコシ等の穀物、ジャガイモやサツマイモ等の芋類、大豆等の豆類などがあります。日本では、昔からご飯を主食として食べてきていますが、欧米ではパンやシリアルなどがよく食べられています。

以前も紹介したと思いますが、中国の北側では小麦を使った「マントウ」や麺、南側では米をそのまま食べたり、ビーフン(米線)にして食べたりしています。ちなみに、中国で「餃子」は主食ですから、ご注意ください。

 

中国でいう餃子は、一般的には「水餃子」のことを指します。日本のような焼き餃子は「鍋貼」と言われますが、これもまた主食としての取り扱いです。ですから、「餃子定食」を見ると、多くの中国人はびっくりします。そして、それ以上に驚くのが「ラーメンライス」です。ラーメンも主食、ライスも主食、さらに「ラーメンライス餃子」なんて言ったら、すべてが主食ばかりでおかずが一つもない...。習慣というのは恐ろしいもので、腹を見ながらカロリー過多になっている自分に気付く、今日この頃です。

 

高見澤

 

おはようございます。

昨日は仕事が忙しく、瓦版の送付ができませんでした。しばらく、こうした突然の休刊が発生しますが、ご容赦ください。

 

調味料の話題は本日の「砂糖」で最後です。この後は、本格的に江戸の食についてご紹介していこうと思います。

   

砂糖は、大きく分けると糖蜜を分離せずにそのまま結晶化した「含蜜糖」と、糖蜜を分離して糖分のみを生成した「分蜜糖」があります。含糖蜜には黒砂糖、白下糖、カソナード(赤砂糖)、和三盆などがあります。分蜜糖は、糖蜜をある程度取り除いた粗糖、さらにそこから糖分純度を高めた精製糖に加工されます。そのうち結晶の大きなものはザラメ糖として白双糖、中双糖、グラニュー糖などがあり、結晶の小さなものは車糖として上白糖や三温糖があります。この他にも、液体の液糖やザラメ糖を加工した加工糖(角砂糖、氷砂糖、粉砂糖、顆粒状糖等)などもあります。日本で最も一般的なのは上白糖で、消費量の半分以上を占めています。しかし、上白糖は日本独自のもので、政界的にはグラニュー糖が一般的です。

   

砂糖の原料となるのは、サトウキビ、テンサイ(サトウダイコン)、サトウカエデ、オウギヤシ(サトウヤシ)、スイートソルガム(サトウモロコシ)などがあります。サトウキビはブラジル、インド、中国等の比較的暖かい地域で採れ、日本では沖縄や奄美群島で栽培されています。一方、テンサイは寒冷地の作物で、日本では北海道を中心に栽培され、砂糖の国産原料の約75%を占めています。サトウカエデは樹液を煮詰めて濃縮したメープルシロップ、オウギヤシも樹液から造るパームシュガーで知られています。また、スイートソルガムはシロップのほか、バイオエタノールの原料に使われることもあります。

   

 この砂糖と人類との間には長い歴史があります。紀元前1500年頃には南太平洋にサトウキビ発祥の伝説が残っており、それが東南アジアを経てインドにもたらされたとの説がありますが、インド原産との説もあります。紀元前5世紀には既にインドで砂糖の製造が行われていたと考えられています。

 中国では5世紀にサトウキビを煮詰めて乾燥させた「沙糖」が作られていたようです。6世紀前半、北魏の時代には、中国(世界)最古の農業書である「斉民要術」が賈思勰(かしきょう)によって著され、そこにサトウキビの栽培方法が記されています。

   

砂糖が日本に伝わったのは奈良時代、754年に唐の僧、鑑真が日本に渡る際、砂糖を持参したといわれています。756年の正倉院に保存される大仏に献上した薬の目録「種々薬帖」に、「蔗糖」の記録が見られ、これはサトウキビから作られた砂糖を意味しています。当初は中国からの輸入でしか手に入らない貴重な医薬品として、取り扱われていたのです。

平安時代後期から南北朝時代にかけて、製糖に関する知識も広まり、15世紀半ばからは、茶の湯の流行とともに砂糖を使った和菓子が発達しました。しかし、それでも砂糖が貴重であったことに変わりはありません。南北朝時代の「新札往来」という書物の中には、「砂糖饅頭」の記述が見られます。

戦国時代に入り、南蛮貿易が始まると、宣教師たちによってカステラ、金平糖、ボーロなど様々な西洋の砂糖菓子が持ち込まれるようになります。また、アジア諸国からの砂糖の輸入量も増え、砂糖の消費量はさらに増大していきます。

   

江戸時代初期、1609年に薩摩国大島郡(奄美大島)の直川智(すなおかわち)が黒砂糖の製造に成功し、薩摩藩支配下の琉球王国では、1623年に儀間真常(ぎましんじょう)が部下を明国・福州に派遣してサトウキビの栽培と黒糖の生産法を学ばせました。これにより黒糖生産が奨励され、やがて琉球の特産品となりました。

江戸時代には、砂糖が海外からの主要な輸入品の一つになり、高値で取引されるようになりました。砂糖の輸入増加とともに、和菓子作りが盛んになります。しかし、17世紀後半には砂糖輸入のために海外へ流出していた金銀が枯渇し始め、このため経済的な負担を減らすために、1727年に八代将軍徳川吉宗がサトウキビ栽培を奨励し、砂糖の国産化を目指します。

また、各藩も価格の高い砂糖に着目し、以後太平洋沿岸・瀬戸内沿岸でサトウキビが栽培されます。特に高松藩主・松平頼恭は自国領内でサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖生産の6割を占めるまでになります。高松藩では、さらに「和三盆」の開発に成功します。和三盆は高級砂糖として現在でも珍重されています。

   

 このように、江戸時代後期には高嶺の花であった砂糖も一般に普及するようになり、庶民の口にも入るようになりました。

 この時期、大阪の儒者である中井履軒(17321817年)は著書「老婆心」の中で砂糖の害を述べ、砂糖亡国論を唱えています。現代でも、白砂糖の害を訴える人も少なくありません。白砂糖は、精製過程で植物自体が自然に持つミネラルや栄養素が奪われるだけでなく、危険な薬剤が多く使われるからです。この時点で白砂糖は調味料ではなく、食品添加物になっているというわけです。確かに、黒砂糖は甘味だけではなく、様々な味のコントラストが感じられます。また、料理の甘味を出すには「みりん」を使う方法もあります。

野菜自体、自然の甘味を備えているので、料理に砂糖は不要という考え方もありますが、それでも和菓子やケーキ、アイスクリームなど、時々甘いものが欲しくなりますよね。

いずれにせよ、調味料をバランスよく上手に使っていくことが大事だと思います。

   

高見澤

 

おはようございます。先週末の日曜日、久しぶりに五井野博士の講演会に参加してきました。初めての方もいたので、講演会自体でのお話しはいつも通りの初級からでしたが、随所にレベルの高いお話しも盛り込まれ、予定されていた時間をかなりオーバー、それでも博士はいつも通りのパワフルさでお話しを続けられていました。また、久しぶりに東藝術倶楽部の会員の方々ともお会いでき、懐かしさを覚えました。また、勉強会等の機会ができればと思っています。

 

さて、本日のテーマは「醤油」です。

欧州、中東、東南アジアなど世界的な料理にはふんだんに何種類、何十種類ものスパイスが使われます。料理人はその組み合わせを丹念に研究しながら、自分の料理を完成させていきます。

ところが日本料理では、スパイスを使うことはあまりありません。ショウガやニンニク、ワサビなどを薬味として使うことはありますが、それはスパイスとは別物です。日本でスパイスが発展しなかった理由として、この万能調味料である「醤油」があったからだという人もいます。

 

醤油のルーツは、味噌のお話しでも出てきた「醤(jiang)」にあります。「穀醤」ですね。鎌倉時代に今のような味噌が作られたことは前回ご紹介した通りですが、紀州(和歌山県)・湯浅の村人たちが、その味噌を造る過程でそこから染みだす汁がとても美味しいことに気付き、それが今でいうところの「たまり醤油」になったと言われています。

 

この紀州・湯浅で生まれた醤油の製法はその後発展していきます。天正年間(15731593年)には、日本で最初の醤油屋「玉井醤」が、味噌と醤油の商売を始めたと言われます。天正16年(1588)には、紀州から100石(約18,000リットル)のたまり醤油が大坂に送られた記録が残っています。

当時の大坂では、庶民の間でも醤油は既に日常的に使われていたようですが、関東では醤油自体は伝わっていたものの、製造までには至っておらず、上方(関西)から運ばれていたものを使っていました。上方から運ばれてくることから「下り醤油」と呼ばれ、珍重されていたようです。

 

江戸時代になり、元禄から享保の頃(16881736年)に、江戸っ子の口に合う濃口の醤油が造られ始めます。関西の「下り醤油」に対して、「地回り醤油」と呼ばれました。今の「濃い口醤油」に当るものです。こうして珍重されたいた醤油が、関東の庶民の口にも気軽に入るようになったのです。

その頃から関東での醤油造りが盛んになります。千葉県の野田や銚子などは、原料の大豆や小麦が栽培され、利根川や江戸川等の水路にも恵まれていたことから、関東の醤油の一大産地となっていき、現在でも醤油造りは続いています。

 

そして何よりも驚きなのが、江戸時代には既にこの醤油が海外に輸出されていたということです。江戸時代は鎖国だったと言われますが、長崎の出島は今でいう出入国管理地域だったと考えれば、中国やオランダを通じて海外に渡航できたわけですから、「鎖国」という言葉自体に作為的なものを感じざるを得ません。

中国船やオランダ船によって中国、東南アジア、オランダまで運ばれた醤油は、大坂・堺、京都、九州産が主だったようです。

現在、醤油は万能調味料として世界中で使われるようになりました。中国でも醤油はありますが、日本のものとは味が大分異なります。中国人の中には、中国の醤油よりも日本の醤油を好む人たちが増えてきています。従来、生ものを食す習慣のなかった中国で、刺身の船盛を頼んで、ワサビと醤油で食べている若者をみると、時代の変化を感じてしまいます。やはり美味しく健康に良い食べ物は、時代の変化とともに世界中に広がっていくものなのです。

 

最後に一言。本来醤油は添加物を加える必要のない保存食・調味料です。近年、酵母の一種である白カビの発生を防止する目的でアルコールや保存料を加えることがありますが、白カビが発生するのはその醤油が生きてるからで、白カビ自体に危険はありません。白カビが嫌なら、開封後は冷蔵庫で保存すればある程度は防げます。また、地方によっては甘い醤油が好まれるために甘味料が加えられたり、色の調整のためにカラメル色素が加えられたりすることもあります。

しかし、食品は自然が一番です。保存食に保存料を入れても何の意味もありません。新鮮なものは新鮮なうちに食べるべきです。せっかくの健康食が健康食でなくなってしまいます。

添加物を使用した場合には、原材料の表示欄に記載していますので、ぜひご確認ください。

 

高見澤

 

おはようございます。いやぁ、それにしても凄かったですね、昨晩の雨は!東京千代田区、港区界隈では、晩の7時から8時頃にかけてが一番酷かったようです。私が帰った8時半頃には大分小降りになっていましたが、東京では床上浸水に見舞われたところもあったようです。自然の猛威も、何らかの意味があるので、それぞれに考えることが大事です。

 

さて、本日は味噌の歴史についてご紹介したいと思います。

日本の味噌の起源は、中国から朝鮮半島を伝わってきた説と、日本独自に生み出されたという説があります。昨日の話の中で出てきた「醤(ひしお)」ですが、古くは紀元前700年頃の中国・周王朝の制度を記した「周礼」にみられることから、長い歴史の中で、それぞれの国がお互いに影響し合いながら、その土地土地に適合した醤が出来てきたのではないかと思います。

中国では「トウバンジャン(豆板醤)」や「テンメンジャン(甜麺醤)」が有名ですが、その他にも「シアジャン(蝦醤)」、「ラージャオジャン(辣椒醤)」など、それぞれ地域特有の醤があります。それが韓国では「コチュジャン」のような「穀醤」、東南アジアではナンプラやニョクマムのような「魚醤」となるわけです。

 

日本で歴史上「味噌」という文字が登場するのは平安時代になってからですが、それでも奈良時代には醤が売られていたと言われています。その醤がどのようなものであったのは、今となっては分かりません。味噌が今のように磨って使うようになったのは鎌倉時代で、室町時代にやっと庶民の食卓に上がるようになったようです。

鎌倉時代から戦国時代にかけて、芋の茎を縄状に編み、それを味噌で煮しめた「芋がら縄」が兵士の重要な携帯食として使われるようになります。味噌も芋の茎も両方食料になりますから、陣笠を逆さにして水を入れ、「芋がら縄」をちぎって入れて煮詰めるたけで、栄養満点の立派な味噌汁が出来上がります。今でいうところの「インスタント味噌汁」ですね。

 

昨日もご紹介しましたが、味噌が調味料として認識されたのは江戸時代になってからのことです。それまで、各家庭で作られていた味噌が各地の工場で大量生産され、全国各地の味噌が江戸でも味わえるようになりました。これにより、外食産業が生まれ、味噌が益々一般的に広まっていきました。

江戸時代には「医者に金を払うよりも、味噌屋に払え」と言われたように、栄養価が高く、健康食としての認識が高まりました。元禄8年(1695年)に出版された『本朝食鑑』には、「みそはわが国ではむかしから上下四民とも朝夕に用い」、「1日もなくてはならないもの」であり、「大豆の甘、温は気をおだやかにし、腹中をくつろげて血を生かし、百薬の毒を消す。麹(こうじ)の甘、温は胃の中に入って、食及びとどこおりをなくし、消化をよくし閉塞を防ぐ。元気をつけて、血のめぐりをよくする」と書かれています。

私の小さい頃も、母親が大豆を煮て、米麹をまぶして味噌玉を作っていた記憶があります。今では自分では作らず、大豆を味噌屋に提供して作ってもらっていますが、昔の農家では当たり前のように「手前味噌」が作られていたのでしょう。

日本では、この味噌や醤油がベースとなって食生活が確立しており、江戸庶民のパワーの源はここにあったのかもしれません。農家では、どんなに飢饉のときでも味噌の仕込みは欠かさなかったと言われています。また諸大名も味噌作りを奨励しており、各地でそれぞれ特色のある味噌が生まれました。

 

ちなみに、我が故郷の長野で作られているのが有名な「信州味噌」です。いわゆる「米味噌」で、佐久市にある安養寺が発祥の地だと言われています。現在、日本で生産、消費されている味噌の約4割がこの信州味噌だそうです。放射能対策としても有効だと言われる味噌。信州の水と野菜を使って作られる味噌汁は、日本の「ふるさとの味」と言えるでしょう。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、昼前から降り始め、午後から夜にかけて本降りになるそうです。

それにしても昨夜は、天皇が生前退位の意向を示されたとのニュースが流れ、少し驚きました。これも何か今の時代を象徴したものではないかと思うのですが、今のところその意味するところは分かりません。生前退位は明治天皇以降初めてのことで、江戸時代に回帰する流れになった世界もどこかに生じたのかとも思わないでもないですが、どうでしょうか? 今の時代は多層世界、何が起きても不思議ではありません...

 

さて、今週は江戸の調味料について「酢」と「塩」を取り上げてきました。本日は、日本人にとってなくてはならない「味噌」について勉強してみましょう。

私が4年間の北京駐在する中で、自炊の時に欠かさず作って食していたのが味噌汁でした。最近では中国人も日本の味噌汁に親しみを感じてきており、好きな人も増えています。極端な話し、私はご飯と味噌汁と漬物があれば、それが毎日だったとしても十分です。

 

その味噌汁の材料となる「味噌」ですが、これは米や麦、大豆などの主原料となる穀物や豆に塩と麹を加えて発酵させた日本の伝統的な食品です。発酵させることによって、大豆に含まれるたんぱく質が分解してアミノ酸(主にグルタミン酸)ができ、旨味が増します。今では調味料としての色彩が濃いですが、江戸時代になる前は立派な食品の一つとして認識されていました。この日本の味噌は、食品学的には「穀醤(こくしょう)」に分類されます。「穀醤」とは、各種穀物や豆を原料としたペースト状の発酵食品で、その原料が肉であれば「肉醤(にくびしお)」、魚であれば「魚醤(ぎょしょう)」、野菜などであれば「草醤(くさびしお)」です。このうち、肉醤は獣肉の塩辛、草醤は漬物などの保存食を指すこともあり、純粋な調味料風のものは穀醤と魚醤です。味噌以外にも、醤油や中国の豆板醤、韓国のコチュジャンも同じ穀醤です。

 

この味噌ですが、甘味、塩味、旨味、酸味、苦味、渋味などが複雑に絡み合っています。その絡み具合は、地域や時代で違うほか、また原材料・菌・水の条件や作り手等の環境によっても異なります。

原材料別では、大きく分けて米味噌、麦味噌、豆味噌、調合味噌の4種類に分類することができます。我々が普段使っているのは米味噌で、日本国内で生産されている味噌の8割を占めています。

 

味噌は大きく分けて米味噌、麦味噌、豆味噌、調合味噌の4種類に分類することができます。
その中でも、現在国内で生産されている8割が米味噌です。米味噌は大豆に米麹を加えて作ったもので、これが麦麹になると麦味噌、そして大豆のみで作ったものが豆味噌です。調合味噌は、それぞれの味噌を調合したものや、各種の麹を合わせて作ったもの、上記3種類以外の味噌を指します。

味についても味噌によって大きくことなり、甘味噌、甘口味噌、辛口味噌に分けられます。辛さは食塩の量によりますが、「麹歩合」によっても味が変わってきます。「麹歩合」とは原料の大豆に対する米や麦の比率のことを指し、塩分が一定の場合、麹歩合が高ければ高いほど甘味が増します。これは、米などの澱粉が麹のアミラーゼによって分解されて糖分に変わるためだと思われます。

また、味噌は出来上がりの色によっても赤味噌、淡色味噌、白味噌に分けられます。大豆などの原料の種類、大豆を煮るか蒸すか、麹の分量、発酵途中での扱い方など、いろいろな条件によって違ってきます。

 

地域によって好まれる味噌が異なりますが、地域の中でも大きく違っていることもあり、関東がどうだとか、関西がどうだとかは一概に言えません。それぞれの地域の味噌を、現地で味わっていただくのが最高の贅沢です。

味噌の話題は豊富にあり、次回は味噌の歴史について触れてみたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京は蒸し暑く感じられます。神保町から九段下まで歩きましたが、朝からかなり汗をかいてしまいました。

 

汗をかくと、身体が塩分を要求します。肉体労働者が味の濃いものを欲しがるのは、汗ととともに身体から塩分が排出されるからです。塩に含まれる塩化ナトリウムをはじめとする各種ミネラルが作用して、人の身体のイオンのバランスが保たれるわけです。

前回、前々回と「酢」についてご紹介してきましたが、本日は人間の身体に欠かせない「塩」についてお話ししたいと思います。

 

日本で塩が使われるようになったのは、縄文時代の終わりから弥生時代にかけてと言われています。狩猟していた時代は、自然のものを食べていたので、知らず知らずのうちに食物から塩分が摂れていたようですが、農耕栽培による定住がはじまり、穀物や野菜が食されるようになって、塩を調理に使うようになったのでしょうね。

中国では、前漢の時代、昭帝の始元6年(紀元前81年)にはすでに鉄と塩の専売を議論した「塩鉄会議」が開催された記録が残っています。秦の孝公(紀元前381~紀元前338年)に仕えた政治家・思想家で、墾草の令による変法を断行したことで有名な商鞅(紀元前390~紀元前338年)が、捕まって「車裂きの刑」に処せられる前に、塩商人に身をやつしていたことがあったように、春秋戦国時代には塩の商売が当たり前のように行われていたことが分かります。

 

日本は海に囲まれた島国ですから、大陸のような岩塩はなく、海水から塩を造ることになります。基本的には、海水から「かん水」という濃い塩水を取り出す「採鹹(さいかん)」の段階、そしてそれを煮詰めて塩にする「煎熬(せんごう)」の段階を経て、脱水すれば「塩」が出来上がります。最も古いやり方は、干した海草を焼いて残った塩の混ざった灰をそのまま使っていたようですが、6~7世紀になって、かん水を採り、煮詰めるようになりました。9世紀には「塩浜」という採鹹地が採用されるようになり、煎熬にもいろいろと手が加えられるようになり、徐々に発展していきました。

 

江戸時代、17世紀中旬には播磨の国赤穂(兵庫県)で「入浜式塩田」が採用されはじめ、それ以降、瀬戸内海沿岸の10カ国(備前、周防、讃岐等)は「十州塩田」と呼ばれ、日本の製塩の中心地となりました。一方、三陸地方では、直接海水を煮詰める「海水直煮」という方法が採用されていました。

 

日本の戦国時代には、海のない甲斐の国(山梨県)と信濃の国(長野県)を領有していた武田信玄が、駿河の国(静岡県)から塩の供給を閉ざされた際に、敵であった越後の国(新潟県)の上杉謙信が塩を送ったという逸話が残されています。「敵に塩を送る」の語源となった話ですが、現代でも専売制にした時期があったように、それほど塩は人の生活には欠かせない物資だったのです。

 

江戸時代の初めには、砂糖は輸入品、酢と醤油は大坂方面から仕入れたものしかなく、江戸の庶民にはいずれも高嶺の花でしたから、庶民の食事はもっぱら塩と味噌による味付けになったようです。それが徳川三大将軍・家光の正保年間(164448年)になると、江戸に近い関東でも醤油や酢が造られはじめ、砂糖も輸入量が増えて価格が下落し、やっと庶民も口にすることができるようになったということです。

江戸時代に入って、庶民の間で食の楽しみが一般的になったのには、こうした背景があったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。我が職場は先週末に引っ越しを終え、昨日から新たな事務所で執務を開始しました。前の職場が何かと便利だったものですから、食事や買い物、おカネの引き出しにも少し不便を感じています。その分、家賃は安く、会議室は広くなり、応接室が増えました。通勤は遠くなりました。

 

昨日は中国の「酢」について紹介しましたので、本日は日本の「酢」についてお話ししたいと思います。ただ、その前に昨日の中国の酢の補足をさせていただきます。

中国では、北方では小麦、南方では米が主食となっています。これについては、後日改めてご紹介しますが、南方の江蘇省では、このために米から酢が造られることが分かりますね。では、北方の山西省では小麦から...というと、そういうわけではありません。もちろん、小麦からも酢はできますが、そんなもったいないことはしません。アルカリ土壌の場所が多い山西省では、小麦栽培に適した耕地が少なく、それを補うためにアルカリ土壌に強いコーリャンを育てているのです。不味いコーリャンはそのまま食べるよりも、酒や酢にした方がよっぽど使い道があるのですね。

 

さて、現代では日本でも料理に欠かせない酢ですが、この酢が中国から日本に伝わったのは奈良時代だと言われています。伝来当初は朝廷で米が原料の酢を造っていたそうで、それは貴重なものだったようです。江戸時代の初めになっても、酢は大坂方面から仕入れられたものしかなく、江戸時代初期の江戸の庶民にとって酢は高嶺の花でした。

 

この高嶺の花だった酢が、江戸の庶民に広まり出したのは江戸時代後期の文化期(1804~1818年)になってからです。江戸で酒の販売に苦戦していた中埜左衛門(この人物は調べてみましたが、詳細は分かりませんでした)という人が、酒を搾った後の酒粕を原料にして酢を造り、商品化したとのこと。いわゆる「かす酢」です。酒発酵をさらに進めると酢になりますよね。また、原料が酒粕ですから、コストも安かったのでしょう。100万都市だった江戸に大量供給され、瞬く間に広まったそうです。この他にも、柑橘類の搾り汁も酢として使われたようです。

 

当時は酢と塩で手早く酢飯にする「早ずし(今の握りずしの原型)」が広まり、文政期(1818~1830年)には、すし職人の初代華(花)屋与兵衛が江戸の握りずしを大成させます。このとき使われたのが大量供給されていたかす酢で、すし屋は今でいう江戸のファーストフードとして、江戸っ子の間で大人気となりました。

 

かす酢は、その色合いから「赤酢」と呼ばれます。コクがあり、現代でも江戸前ずしの店から引き合いが多いと言われます。長く寝かせた酒粕ほど茶色く、熟成した酒かすに酢酸菌を入れて自然発酵させます。長期熟成した酒粕から造る赤酢は、コクに加えて酸味も強くなります。蔵によって酢酸菌の種類や酒かす自体が異なるので、同じ長期熟成でも味が違ってくるといいます。

 

自然の力で造られる酢は、原料が米であれ、酒粕であれ、あるいはコーリャンであれ、それぞれに独特の風味があり、心身ともに健康にさせてくれます。自然の恵みに感謝しながら、毎日美味しい食事をいただきたいものです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は参議院選挙、皆さんは投票には行かれましたか?

私は残念ながら、駐在中に住民票を除票していたために、昨日の段階ではまだ選挙権が復活しておらず、選挙には行けませんでした。その代りと言っては何ですが、末娘が19歳で初めての選挙に行きました。

それにしても自民・公明の与党圧勝でしたね。これもまた日本国民が選んだ道ですから、私がどうこう言う話でもなく、この流れに従うしかありませんね。

 

さて、本日も食に関係したお話しです。

料理に欠かせない「さ、し、す、せ、そ」って、皆さんはご存知ですよね。そうです、調味料です。「さ」は砂糖、「し」は塩、「す」は酢、「せ」は醤油(せうゆ)、「そ」は味噌ですよね。この「さ、し、す、せ、そ」は、料理の味付けにもこの順番に従って入れると、美味しく作れるそうですが、それもまた違うという意見もあります。「さ、し、す、せ、そ」の順番に入れると良いとの考え方は、糖分や塩分の浸透圧に関係があるとか、酸味が熱でとんでしまうとかなどの理屈によるものですが、本当のところはよく分かりません。むしろ経験や感覚によって味付けをした方が、料理が美味しくなるのではないかと思う次第です。

 

本日は、その中の「す(酢)」について紹介したいと思います。

日本では一般に白い酢が使われますが、中国では黒酢が一般的です。中国の黒酢の産地として、特に有名な場所が山西省と江蘇省です。山西省の酢は「陳酢」と呼ばれ、江蘇省(鎮江)の酢は「香酢」と呼ばれています。

 

この二つの酢は味に大きな違いがあります。香酢は酸味が強く、陳酢はまろやかな味です。その原因は、原料にあると考えられます。香酢は日本と同じ米を原料として使いますが、陳酢の原料は「コーリャン(高粱)」です。

日本ではあまり馴染のないコーリャンですが、中国では「白酒」や酢の原料としてよく使われています。もちろん麺やパンなどにして食べることもありますが、パサパサしていてお世辞にも美味しいとは言えません。ですが、発酵させて酒や酢にすると、何とも言えない風味が出てくるのです。私自身、香酢よりは陳酢の方が好みに合います。酸味に加え、苦味、甘味、辛味、渋味、旨味が微妙なコントラストとなり、独特な風味を生み出しているからです。

 

陳酢を生み出した山西省は、中国の中でも特に土壌のアルカリ性が強く、食物や水にミネラル分が多分に含まれています。そのために、体内のアルカリ性を中和する必要があることから、酢を料理に使うようになったと言われています。確かに、同じ陳酢でも、北京で食べるよりは山西省の太原や大同で食べた方が美味しく感じます。

 

昔の中国人の経験や感覚による知恵の深さの一旦を垣間見た思いです。

 

高見澤

 

おはようございます。

我が職場は明日、明後日にかけて事務所の引っ越しで、来週月曜日から新たな事務所で仕事をすることになります。ですから、今は業務をこなしながらせっせと引っ越しの準備をしており、慌ただしい日々が続いています。今の事務所は千代田区永田町で、人権擁護安全保障連盟の事務所にも近かったのですが、今度は同じ千代田区でも皇居の反対側の富士見町になります。最寄りの駅は九段下、または飯田橋ですが、駅からは少し離れていて、近くにコンビニやレストランもなく、かなり不便になります。

昨今、財政状況が厳しく、経費削減のためですので仕方ありませんが、事務所面積は広くなるようです。

 

さて、昨日は七夕、皆さんは何を食べましたか? 七夕は、皆さんご存知のように、年に1回だけ織姫と彦星が会うことができる日とされています。織姫は琴座のα星ベガ、彦星(牽牛)はわし座のα星アルタイル、それに白鳥座のα星を加えて夏の夜空を彩る「夏の大三角形」を形成しています。実際には、毎年7月7日にベガとアルタイルが重なるわけではありませんが...。

 

七夕に食べるものと言えば、実は「そうめん」なのです(私が昨日食べたのは稲庭うどんでしたが...)。このそうめんですが、古来中国で食べられていた「索餅(さくべい)」が日本に伝わったのが、そうめんの始まりだと言われています。索餅は、小麦粉と米粉に塩を加え、少量の水で練り、縄の形にして乾燥させた保存食です。食べるときは、それを茹でて醤油や砂糖に付けて食べます。古くは奈良時代には日本で食べられていたようです。日本に伝わってからは、「麦縄(むぎなわ)」と呼ばれていましたが、「索麺(さくめん)」とも呼ばれ、それが訛って「素麺(ソーメン)」になったのではないかと思われます。

 

なぜ7月7日にソーメンかと言えば、昔々の中国のとある皇帝の子供が亡くなり、一本足の鬼となってはやり病を起こし、当時の人々はそれを鎮めるためにその子が好きだった索麺を食べるようになったとの説もありますが、織姫の機織りに使う糸に見立てて、ソーメンを食べるようになったという説の方がロマンチックですね。

 

七夕は「五節供(節句)」の一つです。五節供とは、1月7日の人日(じんじつ)〔七草の節句〕、3月3日の上巳(じょうし)〔桃の節句〕、5月5日の端午(たんご)〔菖蒲の節句〕、7月7日の七夕〔笹の節句〕、そして9月9日の重陽(ちょうよう)〔菊の節句〕です。

古来中国では、奇数は良いことを示す陽数、偶数は悪いことを示す陰数とされ、同じ奇数が重なる日はお互いの陽を消し合い、不吉がことが起きるとして、邪気を払うために祈りを捧げることになったと言われています。9月9日は数字で最も大きな陽数の9が重なるから重陽、なるほど思った次第です。

 

この五節供の時にはそれぞれ慣習として食べるものがあります。人日には「七草粥」、上巳には「ひなあられ」・「菱餅」や「桜餅」、端午には「粽(ちまき)」や「柏餅」、七夕には「ソーメン」、重陽には「栗」や「(食用)菊」です。ソーメンなどは、暑い夏の食欲の衰えがちのときには最適な食べ物ではないでしょうか。

古来東洋の食に関する知恵、ぜひ現代にも活かしていきたいものです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は所用でお休みをいただきました。勝手なる休刊、ご容赦ください。

今日も朝から暑いです。心配の関東の水瓶も、利根川水系は水量が減っているようですが、多摩川水系は十分供給余力があるようです。とはいえ、農作物で栽培で利根川水系に依存しているところは、厳しいかもしれません。

 

前回は中国各地域の味の特色についてお話ししました。

中国には「八大料理(八大菜:ba da cai)」と言われる各地特有の料理があります。中国で「八」は「発」につながり、「発財(財を成す)」を連想させることから、なんでもかんでも八つにしてしまう習慣があります。

この八大料理とは、山東料理(魯菜)、江蘇料理(蘇菜)、浙江料理(浙菜)、安徽料理(徽菜)、福建料理(閩菜)、広東料理(粤菜)、湖南料理(湘菜)、四川料理(川菜)を指します。もちろん、これ以外にも東北料理や西北料理、山西料理、モンゴル料理、チベット料理、雲南料理、貴州料理など、八大料理には含まれませんが、それぞれ特色ある料理が存在しています。

 

中国語で料理は「菜(cai)」と言います。最近では日本語の影響を受け、「料理(liaoli)」も一般に使われるようになってきていますが、私としては何となく違和感を感じます。やはり旧い人間なのでしょうか...

八大料理は、各省の略称にこの「菜」を付けて呼ばれることが多いのですが、この略称は古代の国の名前がほとんどです。山東省は、昔は海側の山東半島が「斉国」、内陸部が「魯国」でした。国力からいえば斉の方が魯よりも大きかったのですが、「斉菜」とは言わずに「魯菜」と呼ばれるのは、文化的には魯の方が高かったのでしょうか?何しろ、孔子様の出身地が魯でしたからね。

それなら、江蘇料理は「呉菜」、浙江料理は「越菜」と言うべきではないかと思いますが、これもなぜか「蘇菜」と「浙菜」になっています。「越菜(yuecai)」では広東料理の「粤菜(yuecai)」と発音が同じになってしまうので、それを嫌ったのでしょうか?浙江料理を「浙菜」なら、呉越同舟で蘇州料理も「蘇菜」にしてしまえと...。いや、これらはあくまでも私個人の推測に過ぎませんので、あしからず。

 

これら八大料理は、新興地域の料理に大きな影響を与えています。例えば北京料理ですが、これは山東料理の影響を大きく受けていますし、上海料理は江蘇・浙江料理、重慶料理は四川料理、湖北料理は湖南料理の影響をそれぞれ受けています。北京料理は塩辛く、上海料理が甘く、重慶料理や湖北料理が辛いといったように、前回お話しした「南甜北咸東辣西酸」が、そっくりそのままそこに現れています。

日本のような小さな国でも、関東と関西で味付けが異なるのですから、国土面積が26倍の中国ではなおさらです。でも、外国人からみたら関東であろうが関西であろうが日本料理として区別つかないように、日本人からすれば中華料理としての区別はつかないでしょう。

それでも、料理という文化を通してそれぞれの地域を学んでみるのも一興です。

 

高見澤

 

 

おはようございます。今日の東京は曇り、一日中曇りの天気が続くようです。

それにしても、バングラディシュ・ダッカでのテロ、日本人も犠牲者が出て大変な事件になっています。

私も駐在員のころは、中国は比較的治安が安定していますが、それでも民族問題に絡むテロ事件などがあり、外国にいるリスクはそれなりに感じていました。政治問題で日中関係が険悪だったときには、外出の際はそれなりに用心したものです。

とはいえ、今回のダッカでのテロの場合は、外国人が多く集まるレストランだっただけに、比較的安心感はあったのだと思います。そのような場所が狙われると、対処しようがありません。

こうしたテロがなぜ起きるのか、そしてなくならないのか、世界の裏側の仕組みを知れば、自ずと解決策は生み出されるのですが、世界の仕組みがこうなっている以上、変えることは容易ではありません。我々は、我々としてできることを行っていくのみです。

 

さて、今日は少し中国の食についてご紹介したいと思います。

中国には、「南甜北咸東辣西酸」という言い方があります。日本の26倍もの面積、10倍もの人口を抱えるところですから、人種や文化も多様多種で、当然それぞれの地域に合った食材や調理方法があります。

この言い方は、南の地域の料理は甘く、北の地域は塩辛く、東の地域は辛く、西の地域は酸っぱいという意味です。

南とは、上海、江蘇省、浙江省辺りのことで、蘇州料理(蘇菜)や浙江料理(浙菜)が有名です。味付けは、比較的日本人の口に合いやすい甘めの料理が多いですね。代表的な料理としては「東坡肉(トンポーロウ、豚の角煮)」や「醉蝦(酔っ払いエビ)」などがあります。

北は山東省一帯を指し、主に山東料理(魯菜)のことです。北京料理は、実はこの山東料理が基になっていて、「葱焼海参(ナマコとネギの甘辛炒め)」や「九転大腸(豚の腸の炒め物)」などが代表的な料理です。

東は、湖南、湖北、江西、貴州、四川などの地域を指し、四川料理(川菜)や湖南料理(湘菜)が有名です。皆さんお馴染みの「麻婆豆腐」や「回鍋肉(ホイコーロー)」などは四川料理です。

西は、黄土高原や貴州から雲南にかけての高原地帯を指します。この地域の土壌にはカルシウムが多く含まれていて、この地域の作物を常食していると、体内に結石ができやすくなります。それを防ぐために、酸を含んだ食べ物が食べられるようになったようです。

 

中国では、それぞれの地域の環境や気候にあった料理、いろいろな味が楽しめます。もちろん現地で本場の料理を食べるのが一番ですが、最近で北京では割と本格的な地方料理が食べられるようになりました。各地方政府が北京に代表事務所を出しており、そこがホテルを兼ねていて、そこのレストランで地元料理を提供してくれるところも少なくありません。でも、やはり「地産地消」が最高ですね。今後も中国の話が続きます。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は暑かったですね。私は終日クーラーの効いた部屋で論文書きに没頭していましたが、それはそれで疲れました。今日も朝から強い日差しを感じています。

 

さて、今日もまた食の話の続きです。

私は北京駐在中も、年始年末は日本に帰国して、両親の住む長野の田舎で年越ししていました。長野は日本で一番の長寿県であるように、今年で83歳になる両親は今も健在で、毎日畑仕事を難なくこなしています。長野県人が長寿なのは、やはり水、空気、食べ物、そして何と言っても自然です。自然の中にいると、驚くほど生命感を感じます。

 

ところで、今東京で私が食べている米は低農薬有機栽培の長野県産コシヒカリで、両親が作ったものです。この米を食べていると、外の米が食べられなくなります。

今多くの人が食べている米は、一般には精米した白米です。稲から収穫された米には籾殻が付いており、先ずはその籾を取り除きます。それが所謂「玄米」です。通常、米は玄米の形で長期保存されます。玄米は虫がつきにくく、白米にしてしまうと容易に虫に食べられてしまうからです。一般に白米として売られている米の中には、以前は虫がつかないよう防虫剤が添加されていることもありましたが、今はどうでしょうか。

 

玄米から白米に精米する過程で出てくるのが、所謂「糠(ぬか)」です。そう、糠漬けに使われる糠床の原料です。実は米の栄養素の大部分(約95%)はこの糠にあります。特に豊富に含まれているのがB1B2、ナイアシン(B3)、B6等のビタミンB群やミネラルです。ビタミンB群は代謝を助け、粘膜や皮膚の保護に欠かせません。肌荒れや疲れで悩んでいる人には必須の栄養素です。また、精神安定にも効果があります。

それなら玄米から糠を取り除いた白米には栄養素がほとんどないことになりませんか? そうなんです、白米にはほとんど栄養素がありません。米に白と書けば「粕」、そう、白米は粕(カス)なんです。我々は「霞」ならぬ「粕」を食べていることになるんですねぇ。

 

ところがですよ、江戸の人々には驚かされる事実がありました。糠漬けが発案されたのは江戸時代の初期と言われています。元禄以降、庶民を含め白米が食されるようになりましたが、精米する過程で出た糠を使って考案されたのが、この糠漬けだったのです。

白米を食べるようになると、ビタミンB1の不足から脚気になりやすくなります。ビタミンB群はいずれも水溶性ですから、糠に野菜を漬けるとビタミンB1を含む糠に含まれる栄養素が水分とともに野菜に吸収されます。つまり、糠漬けを食べることで、糠に含まれる栄養素を体内に取り組むことができるのです。もちろん江戸時代にそのような栄養素の知識があったかどうかは分かりませんが、本能的あるいは感覚的に知り得たのではないでしょうか。しかも漬物は発酵食品ですから、ビタミンにプラスされて酵素等の栄養価が高まるという一石二鳥の効果が得られるのです。恐るべし江戸の人々の知恵です!

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は、朝から外出で瓦版がお送りできず、失礼しました。

今日から7月です。梅雨だというのに、ここ関東では多少の雨はパラパラと降りますが、まとまった雨が降りません。一方、九州地方では大雨で大きな被害が出ています。地震も重なり、被害は余計に広がっているようです。

雨ももう少しバランス良く降って欲しいと思うのは人情ですが、これも自然の摂理だと思えば、人間というのはいつの間にかその困難を乗り越えてしまうものではないでしょうか。何事も諦めずに前向きに生きるしかありません。

 

さて、本日も食の話で進めたいと思います。江戸や中国の食の話に入る前に、もう少し食のプロローグにお付き合いください。

 

「健全な精神は健全な身体に宿る」とよく言われます。石油や鉱石などから人工的に作られたり精錬されたりした化学物質や重金属は、本々が鉱物ですから、当然食べられるものではありません。いわゆる「毒」というやつです。そんなものが身体の中に蓄積されていれば、肉体だけでなく、精神もおかしくなるのは当たり前です。池田顧問の言われる「マインドコントロール」されやすくなる訳です。

だからこそ、五井野博士は早い段階で体内から毒素を排出させ、またなるべく取り入れないようにと、自然の中での無農薬有機農法を提唱し、実践できる道を我々に教えて来られたのだと、私は理解しています。もちろんそれだけではありませんが...

身体から毒素が排出され、健全な肉体を取り戻すことができれば、今度は新鮮な精神状態の中で正しい考え方や知識が吸収されやすくなります。マインドコントロールによる束縛から解放されることになります。食の基本はあくまでも自然の中にあることは、これでお分かりいただけたと思います。

 

では、食が自然であるが故に、現代の我々の食生活は極めて不自然な状態にあるとは言えないでしょうか?

スーパーに行くと、冬でも当たり前のようにトマトやキュウリなどの夏野菜を見かけます。夏野菜は、身体を冷やす作用があり、夏に食べるからこそ、暑い夏を乗り切れる身体になるのであって、それを冬に食べたらどうでしょう。そう、冬に身体を冷やしてしまったら、それこそ真逆の結果を及ぼすことになります。近年、冷え性の人が増えているのは、化学物質や放射能によって身体の抵抗力がなくなっているのと同時に、こうした不自然な食生活が体質そのものを変えてしまっているのではないかと思っています。「旬の物」は美味しく、そして栄養価が一番高くて体に良いといわれる訳はここにあるのです。

 

この理屈は「地産地消」にも当てはまります。その土地で育つ食物は、当然その地域に合った栄養素や作用があるわけです。南方の暑い土地で採れた野菜やフルーツは、当然身体を冷やす作用があり、逆に寒冷地で採れる作物は身体を温める効果があることになります。

それが、物流の発展によってモノの移動が便利になり、冬の寒冷地でも南方の食物を食べることが可能になりました。産地と異なる場所の食物を常食したらどうなるのでしょう? 結果は冬の夏野菜と同じになると思いませんか?

 

体内に蓄積された毒物を体外に排出するには、より自然に近い状態で育った食物を食べることが大事なように、冷え性を治すには、冬の時期や寒冷地で採れる温野菜を食べるよう心掛けることが大事だと思います。「医食同源」と言われるように、食べることは病気を治すこと、健康を維持することにほかならないのです。

江戸時代の食、そして古来中国の食は「医食同源」という思想の中で培われてきた文化なのです。

 

高見澤

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