2018年2月アーカイブ

 

おはようございます。2月もあっという間に月末となってしまいました。つい先日正月を迎えたかと思ったのに、今年もすでに2カ月が経ってしまいました。月日の過ぎる不可思議さを、今もって感じています。

 

さて、本日はいよいよ「江戸城の門」についてご紹介していきたいと思います。一般に日本の城は城壁や濠に囲まれ、城へは城門から出入りします。城が広ければ広いほど、城門の数も増えていくことになります。中国では町全体が城壁で囲まれていましたので、都市のことを「城市」と言います。東西南北にそれぞれ城門を設け、東門、西門、南門、北門と称していることが多いようです。

 

もちろん江戸城にもたくさんの門がありました。江戸城は外濠と内濠に囲まれていましたので、外郭、内郭それぞれに門があり、また城内にも数多くの門がありました。時代とともに焼失したり、再建したりしていましたので、櫓と同じように時期によって門の数も異なっていたものと思われます。

 

一般に、かつて江戸城には外郭に25棟、内郭に11棟、城内(本丸、二の丸、三の丸、西の丸)に87棟あったと言われていますが、そのうち現存しているのは11棟となっています。郭の出入り口、城門のことを「虎口(こぐち)」と呼びます。もともとは狭い出入り口といことから「小口」と表していましたが、敵を撃退する重要な場所であることから「虎」の字が使われるようになりました。

 

 江戸城の各門の形は、第一の門と第二の門の中間に四角形の広場が設けられています。その二つの門に囲まれた広場がちょうど枡の形になっているので、これを「枡形城門」と呼んでいます。この門は、敵が攻め込んできたときなど、戦略上に有利な立体的な形となっており、外側に面している門を「高麗門(こうらいもん)」、内側にある門を「渡櫓門(わたりやぐらもん)」と呼んでいます。枡形門にも二種類あり、枡形が郭の塁線より内側になっているものを「内枡形」、外側に張り出した形になっているものを「外枡形」といいます。江戸城の各門はいずれも内枡形になっています。3月3日の勉強会で、実際にその形を確かめてみましょう。

 

現存する江戸城の門については、勉強会の際にすべて見学する予定です。①平川門、②北桔梗門(きたはねばしもん)、③清水門、④田安門、⑤乾門、⑥半蔵門、⑦桜田門(外桜田門)、⑧皇居正門(西の丸大手門)、⑨坂下門、⑩桔梗門(内桜田門)、⑪大手門です。このうち、実際に中に入ることができるのは①平川門、②北桔梗門、③清水門、④田安門、⑦桜田門、⑧大手門です。

 

⑤乾門は明治になってから設けられた皇居への通用門です。⑥半蔵門は、天皇や皇族が日常出入りする際に使う門です。⑧皇居正門は言わずもがな皇居に直結する門で、皇居参賀の際にはここから入城するようです。⑨坂下門は宮内庁への通用門、⑪桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者が出入りする門です。

 

それぞれの門の具体的な説明は、勉強会当日のお楽しみとさせてください。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ。まだまだ寒い日が続きますが、何となく徐々にですが暖かくなっているような気がします。花粉症の方は、少しずつ症状が出始めているようです。

 

さて、本日は「江戸城の櫓(やぐら)」について紹介していきたいと思います。「櫓」とは、一般には木材などを組み上げた足台のことを指します。しかし、城郭でいうところの櫓は、城郭の要所に建てられた監視や司令のための一段高い建物(高楼)を指します。天守とは異なり、城としての象徴性よりも実用的な要素を備えた建物で、武器庫としても使われていました。

 

櫓の由来については、①物見としての建物とする説、②「矢倉」や「矢蔵」を語源とした武器庫とする説、③「矢の坐」として弓を射る場所とする説があります。江戸時代になると、武器だけではなく、塩や味噌、薪、炭など生活に欠かせない必需品の保管庫にもなっていたようです。

 

また、戦いがあるときには、天守を守るための拠点とする重要な役割もありました。シンボルである天守が落ちてしまえば戦に負けたことになるので、天守と櫓を連結させた「複合式天守」、「連結式天守」といった配置にした城郭も少なくありません。

 

櫓といっても様々な形があります。平屋建ての「平櫓」、二階建ての「二重櫓」、三回建ての「三重櫓」、重箱のような「重箱櫓」、長屋作りの「多門櫓」、櫓と櫓をつなぐ「渡櫓」なのです。また、曲輪の角を利用して建てられた「隅櫓(角櫓)」や、二十四方位を示す「巽(辰巳)櫓」のように、場所を示す名前を付けた櫓もあります。

 

かつて、江戸城にも多くの櫓がありましたが、度重なる火災によって何度も焼失し、その度に再建されるなど、時期によって存在していた櫓の数は異なっていました。数多くあった櫓の中で、現存するのは本丸の「富士見三重櫓」、三の丸の「桜田巽二重櫓」(下写真)、西の丸の「伏見二重櫓」です。

 

下の表は、江戸城にあった隅櫓の一覧です。時代によって変化していますので、これらの櫓が全て一時期に揃っていたわけではありません。

 

明暦の大火〔明暦3年(1657年)〕で寛永度天守が焼失した後、天守は再建されずに、本丸富士見櫓が実質的に天守の役割を果たしていたことは、以前にもご紹介した通りです。

 

高見澤

 

 

 

おはようございます。平昌オリンピックが終わり、連日連夜の賑わいも平昌パラリンピックが始まる3月9日までは一段落といったところでしょうか。

 

さて、本日は江戸城の「北の丸」について紹介していきたいと思います。家康が築いた頃の江戸城は、今の皇居東御苑にあたる本丸、二の丸、三の丸からなっていました。西の丸吹上御苑は、当初は尾張、紀伊、水戸の御三家の屋敷となっていました。しかし、明暦3年(1657年)の明暦の大火を契機に江戸の都市改造が進み、御三家の屋敷が江戸城外に転出し、西の丸は隠居した将軍や継嗣の御殿と用いられる西の丸御殿が建てられました。

 

江戸当初の北の丸は、竹藪を整備し、関東代官となった内藤清成〔弘治元年(1555年)~慶長13年(1608年)〕の屋敷や旗本屋敷に割り当てられ、代官町と呼ばれていました。今でもその名残りで「代官通り」が皇居東御苑と北の丸公園の間を通りぬけています。その後、江戸城の整備が進み、秀忠の三男・徳川忠長〔慶長11年(1606年)~寛永10年(1634年)〕、家光の三男・徳川綱重〔正保元年(1644年)~延宝6年(1678年)〕等の屋敷を経て、大奥に仕えた女性たちの近居所となりました。家康の側室であった「阿茶の局(一位様)」、秀忠の長女「千姫(天樹院)」、家光の乳母「春日の局(お福)」などがここで余生を過ごしました。

 

八大将軍吉宗は、家康の「御三家」に倣い、子や孫で「御三卿」を興します。享保15年(1730年)、吉宗の次男「宗武(むねたけ)」が田安家を興し、北の丸の西半分1万3,841坪の屋敷を拝領します。続いて元文2年(1737年)、四男「宗尹(むねただ)」が一橋家を興し、江戸城外郭の一橋門内に屋敷を構えました。宝暦9年(1759年)には、吉宗の孫で九代将軍家重の次男「重好(しげよし)」が清水家を興し、北の丸東半分の1万4,510坪の屋敷を拝領しました。

 

御三家、御三卿については、またあらためてご紹介しますが、ここでは簡単に触れておきたいと思います。御三家が将軍家と血縁が薄まっていくなかで、御三卿は、家格は御三家に継ぐものとして、将軍家の後継ぎがいないときにこの御三卿から選ばれる資格を持つ家柄となります。御三卿とも古くからある田安門、一橋門、清水門に屋敷が隣接していることから、それぞれその門名を家名とし、田安家、一橋家、清水家としたわけです。十一代将軍家斉以降は、一橋徳川家が将軍を排出しており、江戸幕府最後の十五代将軍慶喜は水戸徳川家の出身ではありますが、一橋家の養子となってから将軍となりました。

 

現在この北の丸は、環境省が管理する国民公園の一つ「北の丸公園」になっており、多くの小鳥や植物の生育を楽しむことができます。また、武道館もこの北の丸にあり、コンサートやイベントの際には大勢の人で賑わいます。また北の丸から内堀にかけて、桜の名所「千鳥ヶ淵」もあります。

 

高見澤

 

おはようございます。こう毎日朝から外出が続くと、なかなか実務が進みませんが、いろいろと勉強になることは確かです。今目の前で起きている現象もまた、自分にとって何かしらの意味があるのだと、ポジティブに解釈しています。

 

さて、本日も「江戸城の御殿」の続きをテーマにしたいと思います。前回は本丸御殿でしたので、本日は「二の丸御殿」、「三の丸御殿」、「西の丸御殿」について紹介致します。

 

まず二の丸御殿ですが、そもそも二の丸は本丸と同じく家康の入府時に三の丸との間にあった空堀を埋めたもので、本丸の東側に沿った細長い帯曲輪のような存在でした。時代が過ぎるにつれて、その空堀を埋めて三の丸に拡張するなど、次第に敷地が大きくなっていきました。寛永7年(1630年)、遊行のための庭園が小堀遠州の手によって造成されました。どのような形だったのかは分かりませんが、秀忠と家光との茶会が催されたとの記録が残っているようです。

 

寛永13年(1636年)、三の丸に向けて拡張工事が始まり、本格的な御殿が造営されます。通常の格式ばった御殿とは異なり、一種独特な雰囲気の建物だったようで、玄関や書院は汐見坂、すなわち西側を表にしていて、黒書院、御座之間、小座敷、学問所を長い廊下でつなげ、東側に庭園を配置していました。南側にある銅御門は、庭園と数奇屋風建築となっていて、水舞台、御茶屋を点在させるなど、将軍の別荘のように使用されていました。しかし、そのわずか7年後には解体されてしまいます。

 

寛永20年(1643年)、家光は嫡子の竹千代(後の家綱)のために、御殿を新たに立て直します。南側の銅御門を正面に据え、表、奥の御殿を設けるなど本丸御殿を簡略化した御殿に仕上げました。これ以降、二の丸御殿は将軍の隠居場所、或いは将軍生母の居場所など、本丸御殿に準拠する館として機能することになります。しかし、明暦の大火で二の丸御殿は焼失、越谷別殿をそこに移築しています。この家光の改築御殿の形体が基本となり、以後何度も焼失と再建を繰り返すことになりますが、江戸時代を通して同じ形で再建されてきました。記録に残っている二の丸御殿の造営は、宝永元年(1704年)、宝暦9年(1759年)、天保4年(1833年)です。慶応3年(1867年)に焼失した後、御殿は再建されていませんが、今では当時の庭園が復元されています。

 

江戸城三の丸は、家康入府時は外郭とされ、日比谷入江と接していました。平川を濠として堤防を兼ねた土塁には、いくつか木戸が設けられていたそうです。その後、三の丸は屋敷地として御殿が建てられましたが、二の丸の拡張の煽りを受けて敷地が大幅に減少します。内郭に組み込まれた小さな御殿と勘定所以外は空地となって、登城した大名の家臣の控え場になりました。この時、大手門が二の丸から三の丸に移転しています。そして、三の丸御殿は元文3年(1738年)に撤去されることになりました。

 

家康が入府した頃、現在の西の丸一帯は丘原で、田圃があって、春になれば桃、桜、ツツジなどが咲いて、遊覧の地であったようです。西の丸が創建されたのは文禄元年(1592年)から翌年にかけてのことで、創建当時は新城、新丸、御隠居城、御隠居曲輪などと呼ばれていました。西の丸大手門(現在の皇居正門)の内側、すなわち西の丸内は特に「的場曲輪」と呼ばれています。西側には山里馬場があり、後門が坂下門になります。今は一般には通行することはできませんが、かつては坂下門から紅葉山下を経て半蔵門に抜けられたそうです。

 

西の丸御殿は、隠居した将軍や世継の御殿として用いられたようで、本丸御殿と同じく表、中奥、大奥と仕切られていました。主な部屋としては、遠侍、殿土間、虎之間、大広間、大廊下、溜間、白木書院、帝鑑之間、連歌歌間、山吹之間、菊之間、雁之間、竹之間、芙蓉之間、中之間、桔梗之間、焼火之間、柳之間、梅竹之間、檜之間、蘇鉄之間などがありました。御殿や櫓などは、江戸時代においては寛永11年(1634年)、嘉永5年(1852年)、文久3年(1863年)の3度にわたって焼失しました。明治維新以降は明治6年(1873年)に焼失し、その後明治21年(1888年)に明治宮殿が建設されました。

 

尚、本丸御殿が文久3年に焼失した後は、本丸御殿は再建されずに、その機能は西の丸御殿に移されて幕府運営が行われていました。

 

高見澤
 

おはようございます。昨日は、外出先からi-phonで送付したので、画像がうまく貼り付けられませんでした。今朝もまた朝立ち寄りがありますが、何とかパソコンで送付できますので、画像はちゃんと張り付けられているものと思います。

 

さて、本日のテーマは「江戸城の本丸御殿」です。

 

一般に将軍や大名ともなれば、天守に住んでいるかと思う人が多いかと思いますが、天守に住むことは稀で、通常は御殿と呼ばれる居住に適した建物に住んでいます。高層の天守は物見や籠城には便利ですが、生活するには部屋も狭く、上がったり下がったりと移動には不便で、住むには適した環境であるとは言えません。

 

当然、江戸城にも多くの御殿がありました。本丸御殿、二の丸御殿、三の丸御殿、西の丸御殿などです。本丸御殿は将軍の居住、政務、儀礼のほか、諸役人の執務の場として江戸城の中心的な役割を担う場所でした。二の丸御殿は将軍の別邸、西の丸御殿は隠居した将軍や将軍世継の住まいとして用いられていました。三の丸も将軍の別邸ではありましたが、文久3年(1738年)に撤去されています。これら御殿は、火事で焼失、その後再建されるなど、何回か建て替えられています。

 

本丸御殿が最初に建てられたのは慶長11年(1606年)です。その後元和8年(1622年)、寛永14年(1637年)に建て替えられましたが、同16年(1639年)に焼失、同17年(1640年)に再建が行われています。しかし、これもまた明暦3年(1657年)の明暦の大火で再度焼失、万治2年(1659年)に再び立て直しされました。その後は185年の間使われることになりますが、天保15年(1844年)焼失、弘化2年(1845年)再建、安政6年(1859年)焼失、万延元年(1860年)再建、文久3年(1863年)焼失と、再建と焼失を繰り返しています。文久3年の焼失以降は、本丸御殿は再建されず、従来の本丸御殿の機能は西の丸御殿に移されることになりました。

 

この本丸御殿は、諸役人が執務を行う幕府行政の中心機関としての表御殿、将軍の生活空間である中奥、そして将軍の夫人や女中が生活する大奥で構成されていました。

 

上の図は表御殿と中奥の配置図です。先ずは表御殿から。

1.中雀門(ちゅうじゃくもん):本丸表御殿の正門

2.能舞台:公的儀式の際に能を上演

3.大広間:400畳の巨大な広間、儀式・公式行事を執り行う

4.松之廊下(松之大廊下):忠臣蔵で有名な吉良上野介殺傷事件で有名

5.柳之間:大名登城時の控えの間

6.蘇鉄間(そてつのま):大名登城時の供侍の待機場所

7.虎之間:本丸警備の書院番の詰所

8.遠侍(とおさむらい):御徒(おかち、将軍警備の下級武士)の詰所

9.目付衆御用所:目付衆(旗本・御家人を監督する役人)の執務所

10.帝鑑之間:大名登城時の詰所

11.白書院:公式行事用の部屋

12.菊之間:警備護衛役のトップ「番頭」の詰所

13.雁之間:大名登城時の詰所

14.芙蓉之間:勘定奉行、寺社奉行、町奉行の詰所

15.黒書院:公式行事用の部屋

16.御用部屋:老中・若年寄の詰所

17.台所:将軍の食事を用意

18.台所前三重櫓:表御殿台所前にあった三重櫓

 

次は中奥です。

19.地震之間(じなえのま):堅牢な耐震建築

20.御休息:将軍の寝室

21.湯殿:将軍の風呂

22.囲炉裏之間:将軍が従者と憩う場所

23.御座之間:将軍の日常生活の部屋

24.奥能舞台:将軍上覧の能の場

25.御用人部屋:将軍の身の回りの世話をする側用人の控部屋

26.奥坊主部屋:将軍に茶を入れたり、大名の接待役をしたりする坊主の部屋

 

そして最後が本丸大奥です。大奥は将軍の私邸で、正妻である御台所(みだいどころ)を中心に、将軍の子、奥女中の生活の場でした。中奥とは仕切られており、御鈴廊下で結ばれていました。御台所の生活エリアである大奥御殿向(おおおくごてんむき)、役所機能の御広敷(おひろしき)、奥女中が生活する長局向(ながつぼねむき)に分かれていました。

 

新座敷:将軍の母の住居

御殿:多くの部屋が置かれている部分

対面所:大奥に外部からやってくる客を接待する場

御座之間:将軍と御台所が対面するための部屋

御休息之間・御化粧之間:御台所の生活の部屋

長局:奥女中たちの部屋

 

次回は、本丸以外の御殿について紹介します。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、黒木さん、青盛さんと一緒に江戸城の下見をしてきました。天気も良く、まさに散歩日和で、城内は梅の花が見ごろでした。当日は、かなり歩く予定ですが、江戸のお話満載の勉強会にしたいと思っています。

 

さて、本日のテーマは江戸城の「天守」について紹介したいと思います。天守は俗称「天守閣」と称され、日本の城郭の本丸における中心となる櫓を指し、象徴的な建造物となるものです。室町時代末期、戦国時代以降の城に建てられました。明治6年(1873年)に廃城令が交付されて以降、多くの城が取り壊され、第二次世界大戦の際の空襲などもあって、現存している江戸期以前からの天守は、松本城、彦根城、犬山城、姫路城など12カ所となっています。

 

現在、江戸城には天守はありませんが、太田道灌が築城した際には、「静勝軒」という寄棟造の三重の天守があり、徳川家康が改築して以降は、慶長11年(1606年)から同12年(1607年)、元和8年(1622年)から同9年(1623年)、寛永13年(1636年)から同14年(1637年)の3回にわたって天守が築かれました。

 

慶長の天守は、慶長11年に高さ8間(約14.6m)の天守台が完成、翌12年に連立式層塔型五重五階地下一階の棟高22間半(約41m)の天守が黒田長政によって築かれたと言われていますが、外観や構造については諸説あり、詳しいことは分かっていませんが、このときの天守台及び天守は現在の天守台遺構の南側、富士見多門の辺りに位置していたと考えられています。

 

その後、二代将軍秀忠は、元和8年に本丸拡張工事を実施します。天守台や御殿を修築し、天下普請により元和9年(1623年)に、独立式層塔型五重五階地下一階の天守を建設しました。本丸改造の際に慶長の天守を撤去し、新たに天守台を築いて、その上に天守を建てました。加藤広忠、浅野長晟(あさのながあきら)によって築かれましたが、天守台の規模は慶長の時の三分の一、高さも7間(約12.7m)に縮小され、天守台と天守を合わせた高さは30間(約54.6m)だったと言われています。

 

さらに、三代将軍家光は、寛永14年に天守台と御殿を修築します。寛永15年(1638年)には元和の時と同じ独立式層塔型五重五階地下一階の天守が、黒田忠之と浅野長晟によって再建されました。高さは元和との時と同じ本丸地上から天守台を含め30間で、下総からも眺望できたと言われています。現存する天守台は、寛永期の天下普請の遺構がベースになっており、寛永の天守は元和の天守台に建てたものと思われます。

 

この寛永の天守ですが、四代将軍家綱の時、明暦3年(1657年)の明暦の大火で類焼してしまいました。明暦の大火では、本丸、二の丸、三の丸もほぼ全焼したようです。明暦4年(1658年)、加賀藩四代藩主の前田綱紀(まえだつなのり)の普請によって高さ18mの花崗岩の天守台が築かれますが、これが現在も東御苑に残る天守台になっています。


天守台は築かれたものの、近世の城郭にとって天守はあまり意味をもたなくなっていました。政務や居住のスペースとしては御殿がその役割を果たし、実際に将軍が天守に足を踏み入れる機会はほとんどなかったようです。

 

三代将軍家光の異母弟にあたる会津藩主の保科正之は、家光の死後、家綱の後見人として幕政に強い発言権を持っていました。明暦の大火の時、将軍家綱はまだ数え17歳で、大火の後の復興の陣頭指揮を執ったのがこの保科正之でした。正之は「天守はもはや無用の長物」として莫大な建設費と維持管理費が必要な天守の建設に反対します。その費用を城下の復興・再建にあてようという英断を下しました。

 

そもそも天守の主な用途は、戦の際の物見、武器庫、籠城の拠点で、日常的な使い道はほとんどありません。もう一つ、天守は巨大な軍事力、権力の象徴でもあります。徳川家に反感を持つ大名を牽制する意味でも、家康、秀忠、家光の時には天守を築く必要があったのかもしれませんが、家綱の頃には国内も安定し、大名統治の体制もほぼ固まっていました。まさに戦のない天下泰平の世が到来したと言えるでしょう。徳川幕府による統治の方針が、軍事力にものをいわせた「武断政治」から、法制を充実させることによって社会秩序を安定させる「文治政治」に移行したことを表すものであったのかもしれません。

 

家康が天守を築いてから明暦の大火までちょうど50年。以後、天守は再建されることはなく、城内にある三層の富士見櫓が天守閣の代用として用いられました。

 

高見澤

 

 

 



 

おはようございます。明日は、3月3日(土)の勉強会に供え、江戸城の下見に行ってきます。そのため、職場にお休みをいただきましたので、本瓦版もお休みさせていただきます。楽しい勉強会になるよう準備していますので、ぜひご参加の程、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は江戸城の「外郭」についてみていきましょう。前回まで説明した内郭に対して、外郭として西の丸下曲輪(現在の皇居前広場)、大名小路(現在の丸の内)、北の丸(現在の北の丸公園)、吹上曲輪からなる中郭があり、さらにそれをもう一重の外濠(そとぼり)が巡っていました。これは江戸市中を包み込んだ形の総構(そうがまえ)で、虎口(こぐち)として芝口門、幸橋門、虎ノ門、赤坂門、喰違門、四谷門、市谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、浅草橋門などがありました。浅草橋門から螺旋状に塁濠が本丸まで入る形になり、三十六見附(みつけ)と呼ばれる50余りの城門によって、城と町全体が固められる仕組みになっていました。

 

この外郭が基本的に完成したのは3代将軍家光の時です。家康、秀忠が造営し続けた江戸城の総仕上げを、寛永6年(1629年)から同13年(1639年)にかけて、諸大名を動員した天下普請によって行われ、その際に外郭の修築も完成したということです。外郭の濠は、螺旋状に一ツ橋、神田橋、呉服橋、数寄屋橋、新橋、虎ノ門、赤坂、四谷、市谷、飯田橋、そして神田川へと続き、江戸湾へと注ぐ隅田川が東端となったのです。この広大な外郭の完成によって、江戸城は日本最大の城となりました。今でもそれらの地名が残っていることは、皆さんもご存知のことと思います。

 

江戸城の外郭は、すべて土塁で固められており、城門の付近だけが石垣造りであったとされています。この外濠に築かれていた城門を「見附(みつけ)」と称していました。今でも「赤坂見附」といったように駅名として残っている場所もあります。この見附という名称は、城門に番所を置き、門の出入りを見張ったことに由来しているようです。先に「三十六見附」と呼ばれる50余りの門と書きましたが、江戸城の場合は時代によって城門の数が異なり、特定することは難しいとされています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京も比較的暖かく感じます。このまま一気に春を迎えるのではないという感じですが、三寒四温、まだまだ寒い日もあることでしょう。中国では旧正月を迎え、大型連休に突入しています。

 

さて、本日は「江戸城の構造」のうち、「内郭(うちくるわ)」についてみていきたいと思います。江戸期の城は、大きく内郭と外郭に分けることができます。また、内郭はさらに本城と西城に分けられます。本城の部分は、本丸、二の丸、三の丸からなり、面積はおよそ31万㎡でした。江戸時代には、文字通りこの本城が江戸城の中心でした。

本丸には本丸御殿が建てられており、表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)の三つの部分からなっていました。表殿舎は幕府の政治上の中枢部で、老中らが政務を行う御用部屋、諸大名や外国からの使節を謁見する大広間、白書院、黒書院などの座敷がありました。中奥は将軍が日常起居し、政務をみるいわゆる「官邸」であり、大奥は将軍の夫人「御台所(みだいどころ)」を中心とする後宮の女性が生活する場所で、いわゆる「私邸」でした。

 

本丸北側には、慶長12年(1607年)に連立式層塔型五重五階地下一階の天守閣が建てられました。その後、元和9年(1623年)、二代将軍秀忠の時に、独立式層塔型五重五階地下一階の天守閣として再建され、さらに寛永15年(1638年)、三代将軍家光の時にも同じ独立式層塔型五重五階地下一階の天守閣として再建されましたが、四代将軍家綱の時、明暦3年(1657年)の明暦の大火で類焼してしまいました。その際、再建に着手されたものの、江戸市街の復興を優先するとの方針から天守閣の建設は見送られ、以後再建されることはなく、城内にある三層の富士見櫓が天守閣の代用として用いられました。

 

二の丸は本丸南側と東側に南北に細長い形をしていました。元は本丸の帯郭のような存在でしたが、寛永期に拡張され、二の丸御殿が造られます。遊興性の高い二の丸御殿群のほか、池の中に能舞台(水舞台)、池の中島に御亭(ごてい)、御茶屋、御囲(おかこい)、学問所、御文庫がありました。三の丸は更にその東側に位置していました。家康入府時は外郭とされ、日比谷入江と接していて、堤防を兼ねた土塁には舟入用にいくつかの木戸が設けられていました。内郭に組み込まれて以降、小さな御殿と勘定所以外は空地で、登城大名の家臣の控え場になりました。大手門、平川門、桔梗門など江戸期の城の遺構が最も残っている部分です。

 

西城(西の丸、山里曲輪)の西の丸は前将軍の隠居所、次将軍の居所として用いられていました。ここには伏見櫓があります。明治維新後、明治天皇が入ったのがこの西の丸です。明治6年(1873年)に西の丸御殿が炎上、その後同じ場所に明治新宮殿が明治21年(1888年)に建てられています。

 

以上が内郭の構造です。次回は外郭をみてみたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は少し暖かく感じています。昨日も昼食で外に出た際も、コートを着なかったのですが、それほど寒さを感じませんでした。その分、花粉が舞う季節が近づいてるようで、花粉症の方には辛い時期になってきます。

 

さて、本日は徳川家康以降の「江戸城の歴史」について紹介していきたいと思います。天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、徳川家康は北条氏の旧領である関八州(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野の一部、常陸の一部)に移封され、同年8月1日に家康は江戸に入府しました。

 

北条氏時代の江戸城は、道灌が築城したまま利用していたものと考えられていますが、その後、家康が江戸城に入ることによって大改修が施されます。家康は、道灌時代の子城、中城、外城に分かれていた曲輪(くるわ)を一つにまとめて本丸とし、高台の下に二の丸、三の丸を設け、さらに隠居城として西の丸を設置しました〔文禄元年(1592年)〕。

 

慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍になると、江戸城は単なる居城ではなく、政治・経済上での中心地としても位置付けられ、更なる整備が必要となりました。以後、各地の大名を動員して天下の普請が行われます。家康の代では終わらず、2代将軍秀忠、3代将軍家光へと引き継がれ、慶長11年(1606年)から寛永13年(1636年)まで大工事が7回行われました。万治3年(1660年)から神田川お茶の水の拡幅工事が行われ、一連の天下普請は終わりますが、最終的には、宝永7年(1710年)、6代将軍家宣のときに芝口門(しばぐちもん)が建てられ、東西約5㎞、南北3.9㎞に及ぶ日本最大の城が出来上がりました。

 

高見澤

 

おはようございます。4年に1度の冬の祭典、平昌オリンピックが開催されています。連日連夜、日本選手の活躍が報道されていますが、今のところまだ金メダルの吉報はありません。このスポーツ選手たちの真剣な努力の結果が、どす黒い世界の利権争いに巻き込まれないことを祈るのみです。

 

さて、本日のテーマは前回予告した通り、「江戸城の歴史」で話を進めたいと思います。最初に江戸城を建てたとして、一般に知られているのは太田道灌〔資長(すけなが)、永享4年(1432年)~文明8年(1486年)〕です。もともとこの地には、平安時代中期の武将・平良文(たいらのよしふみ)の孫である秩父将常(平将恒、たいらのまさつぐ)〔寛弘4年(1007年)~天喜5年(1057年)〕の子孫・江戸氏の居館がありました。12世紀初めごろに江戸重継が荏原郡桜田郷の北東部、江戸湾に臨む台地上に設けたとされ、その場所は近世江戸城の本丸台地上と推定されています。

 

その後、江戸氏の子孫が多くの庶流に分かれて勢力が衰え、長禄1年(1457年)に関東管領扇谷上杉氏の家宰・太田道灌がこの地に築城したのが江戸城の始まりです。この城は、扇谷上杉氏が当時対立していた古河公方・足利成氏(あしかがしげうじ)に対抗するための拠点として築いたものです。道灌の江戸城は、子城(しじょう)、中城(なかじょう)、外城(とじょう)の三つの郭があり、各郭は周囲に土塁を巡らし、郭と郭の間には空濠を設けた比較的小規模なものだったと言われています。その位置は、最近の発掘調査で今の本丸から北の丸公園辺りであったものと考えられています。

 

道灌の死後、一時期、曽我豊後守(そがぶんごのかみ)が城代として入り、さらに扇谷上杉朝良(うえすぎともよし)〔文明5年(1473年)~永正15年(1518年)〕、朝興(ともおき)〔長享2年(1488年)~天文6年(1537年)〕が入城しました。大永4年(1524年)、高輪原の戦いで相模の戦国大名・北条氏綱〔長享元年(1487年)~天文10年(1541年)〕に敗れた朝興は江戸城を放棄して河越城に逃走し、以後、江戸城は北条氏の支城となりました。北条氏の支城だった期間は、この大永4年(1524年)から、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされる天正18年(1590年)までの66年間で、その間、城代として太田氏、富永氏、遠山氏などが送り込まれました。

 

次回は、徳川家康以降の江戸城の歴史について紹介していきたいと思います。

高見澤
 

おはようございます。昨晩、北京から戻ってきました。三連休を潰しての出張でしたが、仕事自体は順調に推移し、後は東京で1年間の成果をどう報告書にまとめるかが課題です。国の補助金事業ですから、2月末までにまとめる必要があります。それにしても、北京の空気は大分良くなりました。先月の出張時もそうでしたが、毎日青空を拝むことができ、中国政府も大気汚染に本腰を入れていることが分かります。北京の美味しい料理と会議室での会議ばかりで、体重も1キロ増えてしまいました。

 

さて、本日のテーマですが、今続けている「人生儀礼」の話は一旦中断し、3月3日の「江戸城の門」の勉強会に向け、「江戸城」について予習を兼ねて紹介しておければと思います。

 

先ずは江戸城の基礎知識からです。江戸城は、今は東京都千代田区、昔は武蔵国豊嶋郡江戸にあった平城で、江戸時代には一般に「江城(こうじょう)」と呼ばれていましたが、正式名称は「千代田城」、或いは「舞鶴城(ぶかくじょう)」とも呼ばれます。現在は天皇の居住地として「皇居」となっていますが、今の原型は徳川氏の居城で、江戸幕府の所在地でもありました。

 

江戸時代は本丸、西の丸、三の丸、紅葉山、吹上御苑、代官町を合わせた中心部の面積は22.22万坪(73.32万㎡)で、周囲は2015間(2,200m)、総面積は29.55坪(95.88万㎡)、総構周囲約4里(約16km)の日本最大面積の城郭でした。現在は東西約5.5km、南北約4km、周囲約14kmとなっており、皇居を内堀通り沿いに1周歩くと2時間もかかりません。

 

明治維新以降、東京奠都(てんと)によって宮城(きゅうじょう)となり、吹上御苑が御所、旧江戸城西の丸が宮殿の敷地になっていて、一般には入ることはできません。江戸城の東側の旧江戸城中心部、本丸、二の丸、三の丸の跡は皇居東御苑として開放(曜日等によって入れない日もあります)されており、冬季の入場時間は午前9時から午後4時(入園午後3時30分まで)です。入場できる門は大手門、平川門、北桔橋門(きたつりばしもん)で、入場の際には荷物検査があり、入り口で札を受け取り、出るときにその札を返します。また、南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっています。

 

上の図は、皇居東御苑として開放(一部予約しないと入れないところもあります)されている場所です。次回は、江戸城の歴史について紹介します。

 

高見澤

 

おはようございます。明日は朝から外部で会議、明後日から北京出張のため、瓦版は来週火曜日からとなること、ご了承ください。

 

さて、本日のテーマは「お食い初め」について紹介していきたいと思います。お食い初めは、「百日(ももか)のお祝い」とも呼ばれ、一生食べ物に困らないようにとの願いを込め、誕生した子供に初めて食べ物を与える真似をする儀式です。生後100日目に行うことから、「百日(ももか)」のお祝いとも言われるのです。

 

生後100日目というと、個人差はあるものの、ちょうど乳歯が生え始める頃です。地域によっては110日目、120日目に行われることもあります。日数の数え方も誕生した日を1日目として数えます。

 

もちろん、まだ食物を食べることはできませんので、食べる真似だけです。お食い初めの献立は、食事ができるようになってから食べることができるようにと、一汁三菜をベースに、汁物、煮物、鯛の焼き物、赤飯などが並べられます。あくまでも儀式用としてのお膳ですから、食べる順番なども決められています。また、食事と一緒に歯固め用の小石を用意する場合もあるようです。

 

このお食い初めの起源についてははっきりとは分かっていませんが、平安時代から行われていたと言われます。もともとは生後50日目にあたる日に重湯(おもゆ)の中に「五十日の餅(いかのもちい)」と呼ばれる餅を入れ、その餅を箸を使って子供の口に少し含ませる「五十日(いか)の祝い」として行われていたものが、いつの間にか「百日」の祝いになったようです。その際、子供の口に餅を入れるのは、父親か祖父の役目だったとのことです。

 

その後、鎌倉時代には「真魚初め(まなはじめ)」と呼ばれるようになり、その様子が『平家物語』や『源平盛衰記』などにも書かれています。真魚初めは、初めて箸を使うことから「箸揃え」、「箸初め」、「箸立て」などとも呼ばれていました。室町時代に書かれた『河海抄(かかいしょう)』には、「冷泉天皇の生後百日後に御餅を供す」と記されており、その後この風習がお食い初めと呼ばれるようになったと言われています。これが江戸時代になると、生後120日後に、飯や魚、5個の餅、吸い物、酒などの善を揃えて子供に食べさせる真似をするようになったとのことです。

 

高見澤
 

おはようございます。忙しい日が続きます。先週金曜日に中国の環境問題について講演したのに続き、今月中旬締め切りの原稿に追われ、今週木曜日8日から来週月曜日12日まで北京出張と、来週末の3連休も潰れてしまいます。仕事があることはありがたいことですが、さすがに限度というものも考えなければなりません。何事もほどほどが肝心です。

 

さて、本日は「産着(うぶぎ)の祝い」について紹介していきたいと思います。産着の祝いとは、子供が生まれて初めて産着を着ることを祝う儀式で、「着衣の祝い」とも言われます。産着は、生まれたばかりの赤ちゃんに着せる祝い着で、古くは陰陽師にはかって、子供の性(しょう)に合う吉色に染めて着せていました。もう一つ、産着には前回紹介したお宮参りの時に着せる着物を指すこともありますが、ここでは赤ちゃんが初めて袖を通す伝統的な着物を指しています。

 

赤ちゃんが生まれた直後に始めて袖を通す服はガーゼで作られた産着です。それから2~3日経つと、麻で作られた産着に変わります。麻の産着には、麻の葉をデザインした正六角形の模様が描かれています。麻はすくすくと真っ直ぐに伸びることから、赤ちゃんの成長を願う意味が込められています。

 

この産着の習慣が広まったのは、これもまた江戸時代のようです。麻素材の産着は、先に述べたように赤ちゃんの成長を願うという意味以外に、麻の香りが虫除けになるという一面もあります。また、麻の葉の模様は、古来災いを防ぐお守りとされており、生まれて来る子供のために、母親が一針一針刺繍を入れていました。今では刺繍からプリントにはなっていますが、子供を思う母親の気持ちは分からないものと思います。

 

平安時代、貴族の家などでは子供が生まれると、初夜、三日目、五日目、七日目、九日目に「産立ちの祝い」がなされていたことは、前々回説明した通りですが、この祝いの日に、親族や関係者が産婦の衣服や子供の襁褓(むつき、産着のこと)、飲食物、器具などを贈って祝意を表し、賀宴を開かれていたのがこの産立ちの祝いです。

 

子供が生まれた際、出産して直ぐに炊いて産神に供えるご飯を「産立飯(うぶたてめし)」と言います。また、産婆や関係者、近所の人を招いて飲食する「産飯(さんのめし)」というイベントも行われていました。「産立(うぶだて)」とは、出産直後の飲食のことを指しますが、産後三日目または七日目、21日目などに開かれる宴のことを指すこともあります。しかし、本来は誕生後、産神を祀り、共に飲食をする儀式のことを指していました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は、積雪が予想されてはいましたが、幹線道路沿いでは積もることもなく、車の走行には特段問題はなさそうです。ただ、一部日陰で前回の雪がまだ残っている細道や急坂などではシャーベット状になっていますので、気を付けてください。

 

さて、本日は「お宮参り」について紹介していきたいと思います。お宮参りは、「宮参り」、「初宮参り」、「寺参り」、「産明け」、「産土(うぶすな)参り」などとも呼ばれており、子供が生まれて初めて産土神(うぶすながみ)に参詣し、数珠をいただくなどして、子供の長寿と健康を祈る行事です。

 

一般的には男子ならば生後31日目、女子ならば33日目に行うのが通例ですが、地方によっては7日目から100日目まで様々です。ただ、多くの神社では、あまり日数に捉われずに、天気が良く暖かい日に参詣を促しています。ところで、多くが31日目、33日目に行われるのには理由があり、この頃になって産婦の「産(うぶ)の忌(いみ)」が明けるものとされているからです。それまでは、産婦は産土神(氏神)との対面が許されないことになっていました。

 

お宮参りには、我が子を氏子として認めてもらうという意味もあるので、氏神の前でわざと子供をつねって泣かせたりする風習もあるようです。また、地方によっては、お宮参りの帰りに他家へ立ち寄る習わしがあるところもあります。

 

産後に神様に挨拶する行事は古くからあるようで、「産土詣」と言われていました。これが現在のようにお宮参りの形になり一般化されたのは室町時代だと言われています。江戸時代、四代将軍徳川家綱の頃に、お宮参りの帰途に大老宅へ挨拶に寄る風習が起きたとされています。その後、この武家社会の習わしが庶民の間にも広まり、おめでたい家庭の歳時として親類や知人宅へお宮参りの報告と挨拶に出向く習慣が普及していったようです。

 

お宮参りには、母親の実家から贈られた祝い着を着せて、父方の母親(祖母)が抱いて参拝するのが習わしだそうですが、氏神への信仰や忌明けの行事というよりは、我が子の幸福を願う両親の気持ちとして行われるようになった今日、そのような風習に拘らない人が増えています。

 

高見澤

 

おはようございます。昨夜は皆既月食、夜中の11時頃だったでしょうか、内部の会食を終えて帰宅する際、幸い東京でも赤茶けた月が欠けているのをみることができました。今のような精密な天体望遠鏡のない江戸時代、こうした食を予測して当てるのも、幕府天文方の重要な役割でしたが、その複雑な天体の動きを計算する彼らの知識と能力には驚かされます。

 

さて、本日は人生儀礼の第2番目、「お七夜(おしちや)」について説明していきたいと思います。お七夜は、「命名式(めいめいしき)」、「お七夜の祝い」、「名付け祝い」とも言われ、生後7日目に行う祝いの儀式です。生まれた子供が無事1週間過ごせたことを祝うとともに、子供に名を付け、社会の一員として仲間入りしたことを認めてもらう意味合いが込められています。

 

昔、日本では、誕生間もない新生児の生命は産神(うぶがみ)の保護下にあると信じられていました。実際には、衛生・栄養事情の関係から新生児が7日目を迎えることなく亡くなってしまうことも少なくないことから、このお七夜は子供の無事な成長を確かめる節目の日でもあったわけです。

 

産神は「うぶのかみ」とも呼ばれ、出産の前後を通して妊婦や新生児を見守ってくれるという神のことです。古来日本では、「産の忌(いみ)」があり、お産は穢れ多いものとして神参りを遠慮させられていましたが、産神だけは産屋の忌の中に入って守ってくれると信じられていました。

 

お七夜に名付けを怠ると、雷鳴のときに生まれた子は目や耳が不自由になるとか、地震があると頭が割れるなどという迷信も残されています。そのため、昔は仮の名を付けたりすることもありました。今では、戸籍法に基づいて、父母が生後3日目から14日目までに役所への出生届を提出するとともに、名前を届け出ることになっているので、生後2週間以内に命名すればよいのですが、風習によってお七夜に実施されることが一般的なようです。

 

子供が生まれてからの数え方ですが、生まれた日を1日目として数える場合と、生まれた日を0日として翌日を1日として数える場合があります。皇室の儀式などを踏まえると、本来は生まれた日を1日として数えていたと考えるのが妥当かと思います。

 

名前が決まると、名付け親は奉書などの白い紙に清書し(命名書)、神棚や仏壇に供えたり、床の間に貼っておく風習があります。また、名前を小石に書いて氏神に奉納する地方もあるようです。

 

子供の出生の祝いは、元々は平安時代の頃から貴族の間で子供が生まれた日を「初夜」、3日目を「三夜」、5日目を「五夜」、7日目を「七夜」、9日目を「九夜」といって、奇数日に出産を祝う「産立ち(うぶだち)の祝い」、或いは「うぶやしない」という行事が行われていました。それが江戸時代になって、「七夜」の風習だけが残り、この日を子供の命名のお披露目として、庶民の間にもこの行事が広まっていきました。

 

出産7日目となると、産婦が床上げをする日としているところが多く、産婦の忌が晴れる初めの段階となっています。父親の忌もこの日で晴れるとしています。

高見澤 

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