東藝術倶楽部瓦版 20180216:勉強会に向けてその④ー江戸城の構造「内郭」

 

おはようございます。今朝の東京も比較的暖かく感じます。このまま一気に春を迎えるのではないという感じですが、三寒四温、まだまだ寒い日もあることでしょう。中国では旧正月を迎え、大型連休に突入しています。

 

さて、本日は「江戸城の構造」のうち、「内郭(うちくるわ)」についてみていきたいと思います。江戸期の城は、大きく内郭と外郭に分けることができます。また、内郭はさらに本城と西城に分けられます。本城の部分は、本丸、二の丸、三の丸からなり、面積はおよそ31万㎡でした。江戸時代には、文字通りこの本城が江戸城の中心でした。

本丸には本丸御殿が建てられており、表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)の三つの部分からなっていました。表殿舎は幕府の政治上の中枢部で、老中らが政務を行う御用部屋、諸大名や外国からの使節を謁見する大広間、白書院、黒書院などの座敷がありました。中奥は将軍が日常起居し、政務をみるいわゆる「官邸」であり、大奥は将軍の夫人「御台所(みだいどころ)」を中心とする後宮の女性が生活する場所で、いわゆる「私邸」でした。

 

本丸北側には、慶長12年(1607年)に連立式層塔型五重五階地下一階の天守閣が建てられました。その後、元和9年(1623年)、二代将軍秀忠の時に、独立式層塔型五重五階地下一階の天守閣として再建され、さらに寛永15年(1638年)、三代将軍家光の時にも同じ独立式層塔型五重五階地下一階の天守閣として再建されましたが、四代将軍家綱の時、明暦3年(1657年)の明暦の大火で類焼してしまいました。その際、再建に着手されたものの、江戸市街の復興を優先するとの方針から天守閣の建設は見送られ、以後再建されることはなく、城内にある三層の富士見櫓が天守閣の代用として用いられました。

 

二の丸は本丸南側と東側に南北に細長い形をしていました。元は本丸の帯郭のような存在でしたが、寛永期に拡張され、二の丸御殿が造られます。遊興性の高い二の丸御殿群のほか、池の中に能舞台(水舞台)、池の中島に御亭(ごてい)、御茶屋、御囲(おかこい)、学問所、御文庫がありました。三の丸は更にその東側に位置していました。家康入府時は外郭とされ、日比谷入江と接していて、堤防を兼ねた土塁には舟入用にいくつかの木戸が設けられていました。内郭に組み込まれて以降、小さな御殿と勘定所以外は空地で、登城大名の家臣の控え場になりました。大手門、平川門、桔梗門など江戸期の城の遺構が最も残っている部分です。

 

西城(西の丸、山里曲輪)の西の丸は前将軍の隠居所、次将軍の居所として用いられていました。ここには伏見櫓があります。明治維新後、明治天皇が入ったのがこの西の丸です。明治6年(1873年)に西の丸御殿が炎上、その後同じ場所に明治新宮殿が明治21年(1888年)に建てられています。

 

以上が内郭の構造です。次回は外郭をみてみたいと思います。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年2月16日 10:22に書いたブログ記事です。

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