東藝術倶楽部瓦版 20180219:勉強会に向けてその⑤ー江戸城の外郭と三十六見附

 

おはようございます。明日は、3月3日(土)の勉強会に供え、江戸城の下見に行ってきます。そのため、職場にお休みをいただきましたので、本瓦版もお休みさせていただきます。楽しい勉強会になるよう準備していますので、ぜひご参加の程、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は江戸城の「外郭」についてみていきましょう。前回まで説明した内郭に対して、外郭として西の丸下曲輪(現在の皇居前広場)、大名小路(現在の丸の内)、北の丸(現在の北の丸公園)、吹上曲輪からなる中郭があり、さらにそれをもう一重の外濠(そとぼり)が巡っていました。これは江戸市中を包み込んだ形の総構(そうがまえ)で、虎口(こぐち)として芝口門、幸橋門、虎ノ門、赤坂門、喰違門、四谷門、市谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、浅草橋門などがありました。浅草橋門から螺旋状に塁濠が本丸まで入る形になり、三十六見附(みつけ)と呼ばれる50余りの城門によって、城と町全体が固められる仕組みになっていました。

 

この外郭が基本的に完成したのは3代将軍家光の時です。家康、秀忠が造営し続けた江戸城の総仕上げを、寛永6年(1629年)から同13年(1639年)にかけて、諸大名を動員した天下普請によって行われ、その際に外郭の修築も完成したということです。外郭の濠は、螺旋状に一ツ橋、神田橋、呉服橋、数寄屋橋、新橋、虎ノ門、赤坂、四谷、市谷、飯田橋、そして神田川へと続き、江戸湾へと注ぐ隅田川が東端となったのです。この広大な外郭の完成によって、江戸城は日本最大の城となりました。今でもそれらの地名が残っていることは、皆さんもご存知のことと思います。

 

江戸城の外郭は、すべて土塁で固められており、城門の付近だけが石垣造りであったとされています。この外濠に築かれていた城門を「見附(みつけ)」と称していました。今でも「赤坂見附」といったように駅名として残っている場所もあります。この見附という名称は、城門に番所を置き、門の出入りを見張ったことに由来しているようです。先に「三十六見附」と呼ばれる50余りの門と書きましたが、江戸城の場合は時代によって城門の数が異なり、特定することは難しいとされています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年2月19日 09:44に書いたブログ記事です。

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