2018年6月アーカイブ

 

おはようございます。昨夜はサッカーワールドカップロシア大会、日本対ポーランド戦で盛り上がっていたようで、ポーランドに負けはしたものの、予選リーグを突破して16強入りしました。普段からめったにスポーツ観戦などしない我が家ですが、昨夜は夜遅くまでテレビを見ていたようです。私は仕事の疲れで寝てしましましたが...。

 

さて、本日は「日光奉行」について紹介していきたいと思います。日光奉行も他の遠国奉行と同様に老中支配の旗本役で、主な職務は日光東照宮の守衛・修繕・祭祀事務及び日光神領支配・収納で、更には上野(こうずけ)・下野(しもつけ)両国の司法も扱っていました。

 

下野国日光は、古くから日光山の門前町、或いは修験者の道場として山岳信仰の聖地とされてきました。江戸時代に入り、元和2年(1616年)に徳川家康が死去すると、その遺骸は駿河国久能山に葬られますが、翌元和3年(1617年)に日光に改葬されます。この時に建てられたのが日光東照宮です。「日光を見ずして結構ということ莫れ」。これ以降、日光は東照宮の門前町として栄えていくことになります。

 

慶安元年(1648年)、幕府は目付1人を日光に在勤させて、日光東照宮の警備と山中の監察させます。3代将軍・家光の死後、承応元年(1652年)に梶定良(かじさだよし)が日光山守護に任じられ、元禄11年(1698)年に死去するまで定良が日光御宮守(にっこうおみやもり)を務めました。定良死去後もしばらくは目付が派遣されていましたが、元禄13年(1700年)にこれを廃止、ここに日光奉行が創設されました。

 

日光奉行の定員は2名、創設当初は半年交代勤務でしたが、寛政2年(1790年)より在勤1年交代となり、文久2年(1862年)以降は原則として定員1名となりました。役高は2,000石、役料は500俵で、属僚として組頭兼目代、吟味役、組同心、支配同心がおり、組頭支配に神馬(しんめ)別当、掃除頭、山内七カ所番所同心、大沢御殿番などが配されていました。

 

寛政3年(1791年)に日光目代であった山口新左衛門信輔が不正のために罷免されると、目代が務めていた神領支配権は日光奉行に包摂され、日光奉行が直接支配することになりました。

 

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、湿度が高くムシムシと蒸し暑く不快な朝を迎えています。それでも高台では少し風があるのでまだマシです。今日はこの後晴れるとの予報ですが、小雨がパラつくかもしれません。

 

さて、本日は「堺奉行(さかいぶぎょう)」について紹介したいと思います。堺奉行は幕府直轄地である和泉国堺の町政を司り、港湾を管理した遠国奉行の一つです。ご存知の通り、堺は港を利用して商業・貿易で栄えた町で、中世から会合衆(えごうしゅう)らの自治によって治められてきました。

 

この堺の繁栄に目を付けた織田信長は、堺を自らの勢力下に収め、元亀元年(1570年)に松井友閑(まついゆうかん)を堺の代官に任じ、堺政所(さかいまんどころ)を設置します。これが後に堺奉行所へとつながっていくことになります。堺政所は豊臣秀吉へと引き継がれ、石田三成も代官を務めた経歴があり、やがて徳川家康の支配下に置かれることになります。

 

慶長5年(1600年)、家康は米津親勝(よねきつちかかつ)、成瀬正成、細井政成を堺政所の代官に任じますが、これが後に堺奉行になっていきます。慶長19年(1614年)に堺は幕府の直轄地となり、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を経て、元和4年(1618年)に堺政所を堺奉行所へと改称しました。

 

堺奉行も遠国奉行ですから老中支配の旗本役、原則として知行高1,000石以上3,000石以下の旗本から選任され、役高1,000石、役料600石を与えられていました。定員は1名、任期の定めはなく、配下に与力10騎、同心50人が配されました。元禄9年(1696年)から元禄15年(1702年)までの一時期、堺奉行の職が廃止され、堺は大坂町奉行の管轄になりますが、その後堺奉行は再置され、配下の与力は6騎、同心は40人に削減され、堺奉行は大坂町奉行の指揮下に置かれました。しかし、正徳元年(1711年)に与力、同心の数は以前の10騎、50人に戻され、慶応3年(1867年)の慶応の改革で廃止されるまでこの体制は維持されました。

 

堺奉行の主な任務は、堺南北両郷の一般民政、廻米、消防、警察、糸割符、河川、寺社の管掌のほか、堺に出入する船舶及びその荷物の点検、防備で、堺奉行設置当初は和泉一国を支配したこともありました。しかし、経済が大坂に集中すると同時に、堺港が衰退していくと堺奉行の重要性も相対的に低下していきます。堺奉行は小事を取扱い、大事や複雑な問題は大坂町奉行が取り仕切ることになっていました。

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨夜遅く帰宅した際に、自宅マンションの入り口に警戒線が張られ、「マンション関係者以外立ち入り禁止」の張り紙がしてありました。何事かと家に戻ったところ、子供たちからマスコミがいなかったかと聞かれ、誰もいなかったと答えると、高円宮三女の絢子さんの婚約が発表され、その婚約者が我がマンションに住んでいるとのこと。報道写真の婚約者のバックの背景が、確かに見覚えのある景色。こんなこともあるのかと、我が運命の不可思議を噛み締めているいるところです。

 

さて、本日は「山田奉行(ようだぶぎょう、やまだぶぎょう)」について紹介していきましょう。山田奉行とは、伊勢神宮の守護、造営修理、祭礼、20年ごとの遷宮、門前町支配のほか、伊勢・志摩での訴訟、鳥羽港の警備、船舶の点検、伊勢湾・南海での異国船の取り締まりなどを管轄する遠国奉行で、「伊勢奉行」、「伊勢町奉行」、「伊勢郡代」、「伊勢山田奉行」、「伊勢山田町奉行」などとも呼ばれていました。

 

老中支配の旗本役で、元文3年(1738年)の規定では役高1,000石の旗本が任じられることになっていたようです。役高は1,000石、役料は1,500俵が支給され、定員については、当初は1~2名、元禄9年(1696年)に2名とされ、江戸と現地での交代勤務となりました。配下には与力6騎、同心70人、主水40人が配されていました。

 

一説に、豊臣秀吉が伊勢神宮の門前町として発展していた山田の地を直轄地として、神宮仕職・神部貞永を奉行に任じたのが始まりとされています。これを江戸幕府が引き継ぎ、慶長8年(1603年)に山田奉行所を設置、長野友秀を奉行に任じました。

 

伊勢神宮の支配地は、紀州和歌山藩と接していたことから、しばしば紀州徳川家と係争が発生したと言われています。8代将軍・吉宗の時代に江戸町奉行となる大岡忠相が山田奉行を務めていた時に、その働きに感心した吉宗が忠相を抜擢したとの話もありますが、これはあくまでも伝説として真偽のほどは確かではありません。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は本当に暑かったですね。今日もまた全国的に暑くなるようなので、熱中症には十分ご注意ください。こまめな水分補給が必要です。我々が学生時代には、運動部に所属していて練習中に水を飲むとバテるからと、なるべく水分補給しないよう指導されていたものですが、時代が変わると考え方も真逆になる不思議さを感じています。

 

さて、本日は「佐渡奉行」について紹介したいと思います。佐渡奉行も遠国奉行の一つで、他の遠国奉行と同様に老中支配の旗本役です。関が原の戦いを経て、佐渡が上杉氏から徳川家康の支配下となったのは慶長5年(1600年)のことで、翌慶長6年(1601年)に佐渡代官が置かれました。その時、代官に任じられたのが敦賀の豪商・田中清六で、清六は上杉景勝の遺臣・河村彦左衛門とともに佐渡を治めることになりました。またその翌年の慶長7年(1602年)に、吉田佐太郎と中川主水がこれに加わりますが、百姓との間でトラブルが生じ、清六以下4名は代官の職を解かれ、慶長8年(1603年)に大久保長安(武田家遺臣)が代官に任じられました。

 

元和年間(1615年~1624年)に佐渡支配の機構が次第に充実し、名実ともに佐渡奉行となったのは元和4年(1618年)に鎮目惟明(しずめこれあき)、竹村嘉理(たけむらよしまさ)が就任してからのことです。定員は1~2名で、寛永12年(1635年)から明暦2年(1656年)の一時期は勘定奉行が兼任しており、その際、佐渡には留守居が置かれていました。正徳2年(1712年)以降、基本的に定員は2名となりました。

 

佐渡奉行の役高は1,000石、職禄1,500俵、100人扶持で、当初は万石以上の者が任じられることもありましたが、基本的には小禄の旗本が就任し、勘定奉行吟味役、目付、納戸頭などから転じることが多かったようです。配下には与力30騎、同心70人のほか、地役人として組頭2人、広間役7~8人、吟味役、御金蔵役、印銀所定役、目付役、並役、使役、牢守、主水など300人がいました。

 

佐渡奉行の主な職務は佐渡の民政支配、金銀山の経営と金銀の貢賦のほか、北方の監視、佐渡の海上警衛、年貢の取り立てなどです。また幕末には、外国船の監視も重要な任務となっていました。民政支配の奉行を「町奉行」、金銀山管理の奉行を「山奉行」と呼びました。

 

当初、鳴子に代官の陣屋が置かれていましたが、大久保長安の時に相川に移転(相川陣屋)し、そこが後に佐渡奉行所になりました。島内に最初は5カ所の代官所が置かれていましたが、後に4カ所になりました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、梅雨前線も大分北の方に移動したようで、今週は猛暑日が続くようです。原稿執筆や大学での講義資料作成など、本業以外の仕事もあり、週末もどこかに出掛けるわけではありませんが、それでも暑さ対策は必要です。

 

さて、本日は「奈良奉行」について紹介していきましょう。奈良については、特に説明する必要もないかと思うので、詳細な説明は省きます。奈良奉行は、「奈良町御奉行」、「南都(町)奉行」、「南京奉行」などとも呼ばれ、当時江戸幕府の直轄領となっていた奈良の行政や寺社の支配を行っていた遠国奉行の一つです。平安時代以降、北にある京の都に対して、古都・奈良は「南都」とも呼ばれていました。

 

他の遠国奉行と同様に奈良奉行も老中支配の旗本役でしたが、奈良に駐在して職務を行うことから、実質的には京都所司代の指揮下にありました。具体的な職務は、奈良町及び大和一国の民政のほか、同地域の寺社を管掌、特に中世以降、実質的に大和支配の権を有していた春日大社及び興福寺を支配することでした。

 

関ヶ原の戦い以後、武田家遺臣で家康に仕えていた大久保長安の下代衆(長子・藤十郎とも)が奈良支配にあたっていましたが、長安の失脚に伴い、慶長18年(1613年)、興福寺衆徒であった中坊秀政(なかのぼうひでまさ)が起用されてその任に就きました。この秀政以降、奈良奉行の職名が定着していきます。中坊氏時代の奈良奉行は、春日大社及び興福寺の対策が主な任務であり、民政上の権限は十分に確立しておらず、重要事項については上級者の指示・判断を仰がなければならず、また大和国内の幕僚代官を兼任するなど、制度的には過渡期であったといえます。

 

奈良奉行の職制が明確化されたのは寛文4年(1664年)の時で、民政一般を奈良奉行が務め、大和の天領支配は奈良代官が行うといったように、職掌が明確に分離されました。奈良奉行の権限はそれほど大きくはなく、京都所司代や京都町奉行と相談しながら政務を行っていたようです。

 

奈良奉行の定員は1名〔元禄9年(1696年)~元禄15年(1702年)は2名体制〕、役高1,000石、役料1,500俵でした。奈良奉行所の組織が整備されたのは中坊時祐(ときすけ)在任中〔寛永15年(1638年)~寛文2年(1663年)〕のときで、与力6騎(後に8騎)、同心30人、牢番1人が配されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。そういえば、昨日は夏至、1年で最も昼間が長い日でした。本日、東京は梅雨の合間の晴れ間が広がるようですが、週末からはまた雨日和になりそうです。外出しようにも、仕事が溜まっており、この週末も家でのんびりと寛ぐヒマもありません。

 

さて、本日は「駿府町奉行(すんぷまちぶぎょう)」について紹介したいと思います。駿府町奉行も遠国奉行の一つで、駿府の町(現在の静岡市)の町政、民政、司法など行政全般にわたる業務を取り扱っていました。駿府の町については、すでに駿府城代のところで説明していますので、ここでは省略致します。

 

駿府町奉行も他の遠国奉行と同様に老中支配の旗本役で、役高1,000石、役料500俵、役金1,500両でした。慶長12年(1607年)、徳川家康の駿府移徙(わたまし)の際に設置されましたが、徳川頼宣、忠長の城主時代は廃止、寛永9年(1632年)に忠長が改易されると駿府は幕府直轄地となり、駿府町奉行は常置の職制となります。奉行所は、駿府城大手御門前(現在の静岡市役所北西隅)に設置されていました。

 

駿府町奉行の定員について、家康時代は「横内組町奉行」と「大手町奉行」の2名で、寛永9年の常置以降も引き続き2名体制を維持、元禄15年(1702年)に横内組町奉行を廃止して1名役として改められました。配下には与力8騎、同心60名、主水50名が配されていました。明治元年(1866年)までに旗本を中心に63名が駿府町奉行に任命されています。

 

主な職務は駿府の町政全般、裁判、城下の警備、府中宿の管理など、駿府の町民生活に直接係る広範囲な業務のほか、駿河国内の天領の公事方を扱っていました。駿府在勤とはいえ駿府城代の支配下にはありませんでしたが、駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名・諸士の密察、駿河・伊豆の裁判仕置、久能山東照宮の警護も駿府町奉行の役務となっていました。

 

高見澤
 

おはようございます。梅雨らしい天気が続いています。中々傘が手放せない毎日です。サッカーのワールドカップも日本がコロンビアに勝利したことで、盛り上がっているようですが、それはそれとして、日本国民には日本が抱えている構造的な問題に少しは目を向けてもらいたいと思うこの頃です。

 

さて、本日は「大坂町奉行」について紹介したいと思います。ところで、皆さんすでにお気付きかもしれませんが、本瓦版では「大阪」ではなく「大坂」と表記しています。大阪は明治以降使われるようになったもので、江戸時代以前は大坂が使われていました。このお話しはまた別の機会に紹介します。

 

江戸が「八百八町」と呼ばれるのに対し、大坂は「浪華の八百八橋(なにわのはっぴゃくやばし)」と呼ばれるほど、各地に多くの橋が架けられていました。とはいえ、八百八町と同じように、橋の数が808カ所あったわけではなく、橋の数からいえば江戸の方が圧倒的に多かったようです。このお話しもまた後日。ちなみに京都は「八百八寺(はっぴゃくやでら)」です。

 

話を大坂町奉行に戻しましょう。遠国奉行の中で、「町奉行」と「町」の字が付されているのは、京都町奉行と大坂町奉行、そして駿府町奉行の3奉行です。他の遠国奉行は伏見奉行や長崎奉行のように「地名+奉行」というように、「町」は付されていません。ですから、京都、大坂、駿府に在勤する遠国奉行は、他の奉行に比べて特異だったのかもしれません。

 

大坂町奉行が設置されたのは元和5年(1619年)と比較的早い時期で、旗本の久貝正俊と嶋田直時の2名がそれぞれ役高3,000石をもって「大坂郡代」に任じられたのが始まりとされています。大坂町奉行所は東西2カ所、それぞれ「東の御番所」、「西の御番所」と呼ばれ、正俊が東町奉行、直時が西町奉行に任じられました。時に、同じ旗本であった水野守信を加えた3人補任説もありますが、今では否定されているようです。

 

大坂町奉行の業務は江戸町奉行と同様に、東西1カ月ごとの月番制です。当初、東西奉行所ともに大坂城北西の虎口・京橋口の門外に置かれていましたが、享保9年の大火で両奉行所が焼失、東町奉行所は京橋口に再建されましたが、西町奉行所は本町橋東詰の内本町詰町に移転されています。

 

大坂町奉行は老中支配の旗本役で、原則として知行高1,000石以上3,000石以下の旗本が任じらています。定員は東西それぞれ1名の計2名、元禄9年(1696年)~元禄15年(1702年)に堺奉行を兼務して3名になり和泉国を支配してこともありましたが、その時期は短期間で終わってしまいました。役高は1,500石、役料は現米600石、特に任期の定めはありません。配下には東西それぞれ与力30騎、同心50人がいました。

 

大坂町奉行の主な職務は「大坂三郷(北組、南組、天満組)」と呼ばれる大坂城下及び摂津国と河内国の支配で、当該地域の一般民政・裁判・警察・消防のほか、遠国廻米(おんごくかいまい、遠国からの輸送米)や糸割符(いとわっぷ、生糸の輸入制度)、株仲間(商工業者の同業組合)、河川、寺社、出版など大坂の経済関連業務も管掌していました。

 

享保7年(1722年)からは、摂津、河内、和泉、播磨の幕府領の年貢徴収や公事取扱い(民事裁判)を所管するようになり、その職務権限は拡大されていきました。

 

高見澤

 

 

おはようございます。今朝の東京都心は雨、凄く蒸し暑く感じる梅雨を象徴するかのような1日になりそうです。昨日は、ホテルニューオータニで開催された北朝鮮問題でテレビでもお馴染みの南山大学・平岩俊司教授の朝食懇談会に急遽出席することになり、瓦版を発信することができませんでした。北朝鮮や米国の思惑など、オフレコの話が盛りだくさんで、中々報道では明らかにされない水面下での取引が行われているようです。

 

さて、本日も遠国奉行の一つとして、「京都町奉行」について紹介していきましょう。京都町奉行は、江戸幕府が京都に設置した京都及びその周辺の国々の民政等を統括する奉行で、老中支配の旗本役です。老中支配とはいえ、実際には任地の関係で、通常は京都所司代の指揮下で職務を遂行していました。

 

京都町奉行の職務は非常に広範で、具体的には京都市中の町方支配(行政・裁判等)に加え、五畿内(摂津、山城、大和、河内、和泉)と近江、丹波、播磨の8カ国の公事訴訟裁許や寺社支配と年貢徴収(山城以外)、上方代官衆の統括などです。この8カ国に関し、享保7年(1722年)に摂津、河内、和泉、播磨4カ国の租税徴収は大坂町奉行に移管され、この職務は幕末まで続きます。

 

江戸幕府開幕以降、京都とその周辺の行政は京都所司代と京都郡代が管轄していました。時代を経るに従い、その職務が過重となっていき、京都所司代の一部権限(京都市中支配)を委譲され、京都郡代から分離する形で寛文8年12月(1669年1月)に京都町奉行が成立することになりました。京都町奉行所は東西2つの奉行所に分かれており、二条城の南にあるのが「東御役所」、同じく二条城の西にあるのが「西御役所」と呼ばれていました。

 

初代東町奉行は宮崎重成、初代西町奉行は雨宮正種で、定員は元禄期(1688年~1704年)に3名となったほかは、通常は2名、江戸町奉行と同様に月番制で1カ月ごとに任務にあたっていました。役高はそれぞれ1,500石、役料として現米600石が支給されました。配下には与力20騎、同心50人が付いていました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、出がけにパラパラと小雨が降りましたが、職場に着く頃には止んでいました。梅雨らしい季節といえますね。それにしても、最近のJR各社でのトラブル続きは一体どういうことでしょう。ここまで異常な状態が続くということは、旧国鉄以来の腐った体質がまだJRとなった今も残っているのかもしれません。いわば、これは日本の縮図でもあるのです。

 

さて、本日は遠国奉行の首座として位置付けられていた「長崎奉行」について紹介したいと思います。

 

長崎は豊臣秀吉が天正16年(1588年)に直轄地として支配した場所で、先ずは肥前佐賀城主・鍋島直茂を長崎代官とし、文禄元年(1592年)に肥前唐津城主・寺沢広高を長崎奉行に任じたのが、長崎奉行の始まりとされています。関ヶ原の戦い以降、徳川家康は豊臣家の蔵入地(直轄地)を収公、長崎は江戸幕府の直轄地となり、豊臣時代の長崎奉行の職制を引き継ぎ、以降幕末まで長崎奉行の支配下に置かれます。

 

長崎奉行は老中支配の旗本役で、開幕当初は小録の旗本が務めていましたが、後に1,0002,000石の上級旗本が任じられる重職として位置付けられるようになりました。定員は1~4名と時期によって異なり、当初は南蛮船が入港する繁忙期(6月~10月)に長崎に赴く体制がとられていましたが、寛永10年(1633年)に2名体制となって以降、原則として1名は長崎に在勤、もう1名は江戸役宅に勤務し、毎年9月に長崎で交代〔延享元年(1744年)に10月交代に変更〕していました。

 

長崎奉行は主に天領長崎の行政と司法、長崎会所(長崎税関)の監督、清国(中国)やオランダとの通商、諸国との外交接遇、唐人敷・出島の管理、幕府への収益上納、勝手勘定奉行との連絡、輸出品等を所管、更には西国キリシタンの禁圧、長崎港警備、九州大名等の動静探索を統括していました。また、長崎港で事件が起これば、佐賀藩や唐津藩をはじめとする近隣大名を指揮し、事に当る権限も有していました。

 

長崎奉行のうち江戸で勤務する「江戸在府奉行」は、長崎在勤の「長崎在勤奉行」と江戸幕府との間に立ち、両社の連絡役を務めていました。長崎奉行の職責権限を越える問題や先例のない事項は、江戸在府長崎奉行を通じて江戸幕府老中の判断をあおいでいました。一般に遠島以上の処罰は、遠国奉行の独断裁許は許されず、その多くは首座である長崎奉行を通して江戸表に伺いを立てていたようです。

 

長崎奉行は、役高1,000石、在任中の役料4,400俵でしたが、これらはあくまでも公的収入で、それよりも余得収入の方が大きかったと言われています。例えば、輸入品を「御調物(おしらべもの)」の名目で非関税で購入できる特権が認められ、それを京や大坂で転売して利益を得たり、「八朔銀」と呼ばれる貿易商人等からの献金や清国・オランダからの付け届けなどによる収入が得られたりしていたのです。ですから、長崎奉行は、旗本にとって垂涎のポストだったようです。とはいえ、権限や役得が大きい分、その業務範囲は広く、責任が相応に重かったことは確かです。

 

長崎奉行の属僚として、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力10騎、同心30人、清国通詞、オランダ通詞のほか、御用物役、町年寄等の地役人(じやくにん)などがおり、長崎奉行所には合計1,000名が常時勤めていたようです。役屋敷は岩原郷立山の「立山奉行所」と外浦(ほかうら)町の「西奉行所」の2カ所がありました。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京の天気予報は雨、朝家を出た時にはまだ降っていませんでしたが、職場のある九段下駅に着いた時には小雨がパラパラと降ってきていました。本格的な梅雨の時期の空模様です。この時期が過ぎれば、いよいよ夏の到来。四季の季節感をそれぞれ楽しめる日本ならではの醍醐味かもしれません。

 

さて、本日は遠国奉行のうちでも主に大名が任じられた「伏見奉行」について紹介したいと思います。遠国奉行全体が老中支配の旗本役であることから、伏見奉行も当然のことながら老中支配です。大名が任じられることから、他の奉行に比べて特に重要性が高かったことが分かります。

 

伏見奉行の職務は、山城(やましろ)国伏見宿及び伏見廻り8カ村の民政、宇治・伏見・木津の諸川の船舶の取り締まりのほか、京都町奉行とともに近江・丹波両国の行政や訴訟も司っていました。また、京都御所の警備、参勤交代する西国大名・家臣の監視なども行っていました。

 

伏見は、古くは伏見稲荷の総本社・伏見稲荷大社の門前町、更に豊臣秀吉が伏見城を建ててからは伏見城と大名屋敷群からなる城下町として栄えます。慶長3年(1958年)に秀吉が伏見城で没すると、翌慶長4年(1599年)に秀吉の嫡子・秀頼が伏見城から大坂城に移り、家康が留守居役として伏見城に入りました。その後、家康も大坂城に移り、大名屋敷のほとんどが大坂に移ってしまいました。

 

慶長5年(1600年)に伏見城の戦いで城は炎上、翌慶長7年(1602年)頃に城が再建され、慶長8年(1603年)、家康はこの伏見城で将軍宣下を受けて以降、3代将軍・家光まで伏見城で将軍宣下式が行われましたが、元和5年(1619年)に伏見城は廃城となります。

 

とはいえ、伏見はさすがに秀吉が隠居後の場所と選んだ土地でもあります。江戸幕府にとっても幕政上枢要な地でした。伏見城廃城後、伏見は城下町から商業都市へと変貌し、京都を避ける大名行列が通る京街道の宿場でもあったことから、その重要性は幕府直轄地の中でも抜きん出ていました。

 

慶長5年、伏見城代を務めていた松平忠明(奥平信昌の四男)が伏見の町政を預かる伏見奉行を兼任したのがその始まりとする説もありますが、伏見奉行が明確に幕府の職制として整えられたのは寛文6年(1666年)に水野忠貞が同職に就いてからです。それ以前は、慶長7年(1602年)に伏見城在番制が定められ、京都所司代の指揮下に伏見城代が置かれていました。

 

伏見城廃城後の元和5年から幕末・慶応5年(1869年)まで39名が伏見奉行職に就きましたが、定員は1~3名、一時期京都町奉行が分任していた時期もありました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、我が職場の賛助会員企業向けのセミナーを開催しました。講師は「時論公論」などニュース解説番組でお馴染みのNHK・神子田章博解説委員にお願いし、米中貿易摩擦についてお話をしていただきました。神子田氏とは北京駐在の時期が重なり、それ以来何かとお付き合いしている関係で講演をお願いしやすかったこともあり、G7や米朝首脳会談が終わった段階でのグッドタイミングでのセミナーとなりました。イラストや写真を使った解説風の語り口で、取材もきちっとされていて、分かりやすく興味深かい内容の連続でした。

 

さて、本日から暫くは「遠国奉行(おんごくぶぎょう、えんごくぶぎょう)」についてお話ししていきたいと思います。遠国奉行とは、江戸時代に幕府直轄の要地に配された諸奉行、いわゆる地方官の総称です。寺社奉行や町奉行、勘定奉行など江戸在勤の奉行に対し、地方在勤の奉行を一般に遠国奉行と称していたもので、遠国奉行なる職制があったわけではありません。

 

遠国奉行には、京都、大坂、駿府の各町奉行のほか、伏見、長崎、堺、佐渡、奈良、山田、日光、浦賀、下田、羽田、新潟、箱館、松前、大津、清水、神奈川、兵庫などの各奉行がありました。江戸時代において、各奉行の成立時期や廃止時期等はまちまちで、必要に応じて設置されたり、廃止・統合されたりしています。

 

遠国奉行の職制は役方に分類され、一般的に所轄地域の特性に合わせた行政、司法、警察の職務を担っていました。遠国奉行の首座は長崎奉行とされており、伏見奉行が大名から任じられていた以外は、旗本から任じられるのが一般的でした。

 

いずれの奉行も老中支配で、役高は任地によって異なりますが概ね1,000石から2,000石、役料は500俵から2,000俵(伏見奉行は3,000石)です。定員も任地によって異なり1名から数名で、江戸と任地交代の2人体制をとる場合が多かったようです。配下には与力と同心、そのほかに地役人を属僚としていました。これら遠国奉行から幕府中央の重要な役職に転ずる者も少なくありませんでした。

 

次回以降、それぞれの遠国奉行について解説していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、シンガポールで歴史的と称される米朝首脳が行われました。朝鮮半島の非核化については、日米で事前に摺り合わせてた通りの結果にならなかったとして、新聞報道では酷評する記事も散見されますが、先ずは短期間にここまで漕ぎ着けたことを評価すべきではないかと思っています。トランプでなければ、ここまでの結果は出せなかったでしょう。

 

さて、本日は「甲府勤番支配(こうふきんばんしはい)」について紹介していきたいと思います。前回紹介した「駿府城代」とともに、職制上は追って紹介する「遠国奉行」の上に置かれていました。甲州街道を通じて江戸と結ばれる甲府は、駿府と同様に江戸幕府にとって戦略上最も重要な要衝の地の一つでした。

 

皆さんもご存知の通り、甲斐国は戦国時代に武田氏によって治められていた地で、その後、武田氏の滅亡によって徳川、豊臣による領有が続き、江戸時代には江戸幕府直轄領となっていきます。武田氏は城を構えず、躑躅ケ崎館を中心とする城下町を拠点としていたことは有名です。その後、豊臣秀吉の命により天正年間(1573年~1593年)後期に甲府城が築城され、関東に移封された徳川家康に対抗するための重要な拠点として、新たな城下町が整備されていったとされています。

 

関ヶ原の戦いの後、甲斐国は再び徳川家の領有となり、山梨・八代・巨麻(巨摩)の国中三郡(甲斐西部)を治める「甲府藩」と東部の郡内地方を治める「谷村藩」が設置されます。慶長6年(1601年)、徳川十六神将の一人である平岩親吉(ひらいわちかよし)が甲府城代として就任、親吉と四奉行による支配が行われますが、慶長8年(1603年)に家康の九男・義直が甲斐25万石を拝領して甲府城主となります。慶長12年(1607年)に義直が尾張清州藩主として移封されると甲府藩は廃藩、その後、城主・城代不在の12人(2人ずつ10日交代)による城番制が敷かれました。

 

元和2年(1616年)〔元和4年(1618年)とも〕、2代将軍・秀忠の三男・忠長(国千代)の所領となるも、寛永9年(1632年)に忠長は改易、甲斐国は幕府直轄領となります。慶安4年(1651年)、3代将軍・家光の三男・綱重が甲斐を拝領し、甲府藩が復活します。綱重の死後、その長男・綱豊が5代将軍・綱吉の後継者となり〔宝永元年(1704年)〕、綱吉政権下で側用人を務めた柳沢吉保が甲府藩主(15万石)となって、同時に谷村藩が廃止されます。享保9年(1724年)、8代将軍・吉宗の享保の改革において幕府直轄領拡大政策が行われ、吉保の長男・吉里が大和郡山藩に移封されて甲斐国は再び天領となりました。

 

これ以降、甲斐国は甲府城に勤める「甲斐勤番(こうふきんばん)」の支配下となり、幕末までその支配体制が続くことになります。甲府勤番は甲斐国に常駐、主な職務は甲府城の守衛と城米の管理、武具の整備、甲府町方支配などで、甲府城南側に大手(追手)、北側に山手(やまのて)の2組が置かれていました。この各組の長が甲府勤番支配で、つまり定員2名ということになります。

 

甲府勤番支配は老中支配の旗本役で、その多くが小普請支配から任命され、知行高3,000石、役料1,000石と駿府城代と並ぶ重職でした。大手、山手の各組の勤番支配の下には、それぞれ組頭2人、与力10騎、同心50人が属し、更に小普請組みの武士から選ばれた勤番士200人が甲府に移住させられていました。組頭2人の下に仮目付(かりめつけ)10人を置き、両組を14組に分け、勤務は両組隔日交代、昼夜交代で城内楽屋殿に勤番していました。甲府勤番は、設立当初は武田遺臣の系譜を引く甲州系幕臣からの任命が多かったようですが、江戸からすると僻地であるとのイメージから、後に不良旗本・御家人の左遷先としての意味が強くなり、「甲府勝手」や「山流し」などといわれていたそうです。

 

享保9年以降、甲府勤番支配の就任者は合計75人、うち追手組甲府勤番支配が38人、残りの37人が山手甲府勤番支配でした。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の雨も、夜9時半頃に帰宅の途についたときには止んで、今朝も曇ってはいますが雨に濡れることはありませんでした。今週は梅雨の間の晴れ間も見られるようですが、湿度は高く、気温以上に暑く感じる日が続きそうです。先週末の新幹線での殺傷事件、毎週大阪から新幹線で通っている同僚がいることもあり、逃げ場のない凶行を耳にするたびに、気の抜けないこの世界の異常さに違和感を感じる次第です。

 

さて、本日は「駿府城代(すんぷじょうだい)」について紹介していきたいと思います。駿府城代は、追って紹介する「甲府勤番支配(こうふきんばんしはい)」とともに、職制上は「遠国奉行(おんごくぶぎょう)」の上に置かれていた重職でした。

 

先ず駿河国の首府として栄えた駿府ですが、ここは室町幕府によって駿河守護に任じられた今川氏の館が置かれていたところです。その後、武田氏が今川氏を追放、一時駿河国を領有しますが、天正10年(1582年)に織田・徳川氏によって武田氏が滅亡すると、駿河国は徳川家康の支配下に置かれます。天正18年(1590年)に御北条家が滅亡し、家康が関東に移封されると、駿府には秀吉に仕えていた大名・中村一氏(なかむらかずうじ)が入城することになりました。

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、駿府は再び徳川家が支配することになり。慶長6年(1601年)に家康の異母弟・内藤信成(ないとうのぶなり)が駿河城主に任じられ、4万石の領主となります。その後、信成は近江4万石の長浜城主に移封され、秀忠に将軍職を譲った家康が大御所として駿府に隠居することになりました。

 

慶長14年(1609年)、家康の10男・頼宣(よりのぶ)が駿府城主として駿府藩50万石を与えられます。とはいえ、これは名目上のことで、家康が実権を握っていました。元和2年(1616年)に家康が死去、元和5年(1619年)に頼宣が紀伊和歌山城主に移封されます。その後、寛永元年(1624年)に家康の次男・忠長が駿府城主となるまで、一時的ながら駿府城代が置かれました。この間、渡辺茂、松平重勝、松平重忠の3名が城代を務めていました。

 

寛永8年(1631年)の忠長改易・蟄居、翌同9年(1632年)の忠長自刃によって、寛永10年(1633年)以降、駿府は江戸幕府直轄の天領となります。その際に大番頭を務めていた松平勝政が駿府城代に任じられ、以降幕末まで合計43名が城代を務めることになりました。その間、駿府支配の体制が徐々に構築されていきました。

 

駿府城代は老中支配で、普段は駿府に駐在していました。大坂城代が譜代大名職であったのに対し、駿府城代は大身旗本の役であり、老中支配の中では最高位の格式をもつ役職の一つで、大番頭から転じられた者も少なくありません。定員は1名で、役高は2,000石、諸大夫から任じられました。

 

駿府城代の主な任務は、駿府城の警護、修繕、管内の巡見のほか、毎年正月・4月・9月には将軍に代わって久能山(くのうざん)東照宮に参詣することでした。5~6年に1度は、将軍に御目見えのために出府していたようです。

 

駿府城代の下には、補佐役として「駿府定番(すんぷじょうばん)」〔老中支配、役高1,000石、役料1,500俵、慶安2年(1649年)設置〕、主力軍として「駿府在番」・「駿府勤番」〔在番としては江戸初期には大番、寛永16年(1639年)からは書院番が江戸から駿府にそれぞれ派遣、寛政2年(1790年)以降は常駐の駿府勤番組頭(駿府城代支配)が置かれた〕、駿府御武具奉行(駿府城内の武器・弾薬管理、駿府城代支配)、久能山総門番(久能山東照宮の管理、代々交代寄合の榊原宗家世襲、駿府城代支配)等がありました。

 

また、駿府城外の警護役として「駿府加番(すんぷかばん)」(老中支配)が置かれていました。大名1名の「大加番」、寄合旗本2名からなる「平加番」の3名が交代で務めていました。駿府加番は駿府城外に広大な役宅を有し、当初は「一加番(町口)」と「二加番(鷹乃森)」の2カ所でしたが、慶安4年(1651年)の慶安の変で首謀者であった由井正雪が駿府城下で自害した事件をきっかけに城外警備が強化され、「三加番(草深)」が増設されています。このほか、駿府の庶政を管掌する役方として「駿府町奉行」(老中支配、遠国奉行の一)も置かれていました。

 

駿府は東海道の要衝であり、江戸幕府にとっても押さえるべき重要な地であったわけです。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日は、急遽朝一番で中国大使館商務処に赴く用事が出来てしまい、瓦版も休刊とさせていただきました。ご理解の程、よろしくお願い致します。ところで今朝東京ですが、台風の接近とそれに伴う秋雨前線への刺激によって、比較的強い雨が降っています。足元が濡れて不快に感じる部分もありますが、これもまた地球も我々も生きている証拠。いろいろな経験を積むことで、人も自然も成長していくことができるのです。

 

さて、本日は「郡代(ぐんだい)」と「代官(だいかん)」について紹介していきたいと思います。郡代や代官は、いずれも中世から主君に代わって地方の土地を治めてきた地方官のことを指します。室町時代には、守護の代理人である「守護代」、或いは守護代の下の郡単位に置かれた代理人を郡代(「郡使」、「郡司」とも)と呼び、幕府直轄領の土地支配の代理人を代官と称すこともあったようです。

 

江戸時代においても、郡代と代官の意味合いは大きく変わらず、幕府や諸藩において主君に代わって地方を治める地方官を指していました。江戸幕府においては、郡代、代官ともに勘定奉行の支配下に置かれ、地方の民政一般を司り、その多くは旗本から任じられていました。

 

江戸幕府において、比較的広域の幕府直轄領を支配する地方官のことを郡代と呼びました。江戸時代初期には上方、尼崎、三河、丹波、河内などほぼ1国単位に郡代が置かれていましたが、寛永19年(1642年)に勘定頭制が定められると、郡代と代官は勘定奉行の支配下に置かれます。江戸時代中期以降、郡代は「関東郡代」、「美濃郡代」、「飛騨郡代」、「西国筋(さいごくすじ)郡代」の「四郡代」となりました。

 

関東郡代は関八州、美濃郡代は美濃国及び伊勢国桑名郡の一部、飛騨郡代は飛騨国、西国筋郡代は九州地方の幕府直轄領をそれぞれ治めていました。これら4地域は管轄面積が広大で枢要の地、大藩に近い、或いは支配地が10万石以上でした。旗本役で布衣の家格、役高は400俵で、属吏に手付(てつき、御家人)、手代(てだい、武家奉公人)、書役(かきやく)などがおり、その職掌は勧農(農業振興・奨励)、人別改、貢租収納などの「地方(じかた)」と警察、裁判、行刑などの「公事(くじ)方」に分かれていました。

一方、江戸幕府における代官は、具体的な職務はほぼ郡代と一緒ですが、管轄地域の石高が5~10万石と郡代に比べ小規模だったことが大きな違いです。代官も原則として旗本から任命されますが、家格は平士(ひらざむらい)で郡代の布衣よりも低く、役高も150俵程度でした。

 

江戸初期にはこの代官職も世襲であることが多かったようで、在地の小豪族・地侍からも採用され、幕臣に取り込まれていきました。代官の身分は旗本としては最下層ではあったものの、支配地における権限は大きかったことから、時代劇などでは「悪代官」のイメージで一般には広まっています。しかし、実際には代官の業務は非常に多忙で悪事を企む暇もなければ、評判が悪くなるとすぐに罷免される体制が組まれていたようです。

 

寛文年間(1661年~1673年)から元禄年間(1688年~1704年)にかけて幕藩体制が確立される過程で、世襲されていた代官の多くは不正を理由に失脚、享保10年(1725年)の代官所経費支給仕事法の改正により、各代官所で民政を担当する貢租徴税官としての役割へと変わっていきました。

 

江戸時代の代官の数は、多い時で70名に及びましたが、通常は4050名であったようです。江戸市中には代官所がおかれ、江戸近辺の代官はそこで執務〔江戸定府(じょうふ)〕していましたが、それ以外は任地に陣屋(代官所)が設けられており、そこで業務を行っていました。配下には、郡代と同じように十数名の手付、手代、書役などがおり、それぞれ江戸と任地に勤務させ、事務処理にあたらせていました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の雨も止み、東京都心は雲が広がっているものの、落ち着いた朝を迎えています。昨日、関東甲信地方も梅雨入りしたとの宣言があり、いよいよ本格的な夏に向けた準備期間に入ります。一方、日本国内の社会情勢をみると、見聞きするのに耐えることができないような凄惨な事件が起き、政治は政治であさっての方向の議論で力を使い果たし、行政も事なかれの発想ばかりが優先されるために、却って墓穴を掘る結果に陥る、といったように、混迷というか、カオスの状態になっているような気がします。

 

さて、本日は「禁裏付(きんりづき)」と「仙洞付(せんどうづき)」について紹介していきましょう。禁裏付、仙洞付ともに朝廷、公家に対する江戸幕府の職制です。

 

先ず禁裏付です。「禁裏」とは、「禁中」とも呼ばれ、天子、すなわち天皇が住む宮中を指します。古くは「内裏(だいり)」とも呼ばれ、江戸時代には禁裏という呼称が使われていたようです。禁裏付は禁裏御所の会計・警衛や朝廷・公家衆・女官の監察などを司っていました。

 

禁裏付は老中支配で1,000石高の旗本役、役料は1,500俵、定員は2名で、配下としてそれぞれ与力10騎、同心40名が配されていました。勤務は当番制で毎日御所に参内、御所内にある御用部屋が詰所になっていました。官位は昇殿を許されない地下官人(じげかんにん、じげかんじん)の従五位下でしたが、朝廷内での幕府代表の立場として相当な権威・権勢があったとされています。

 

武家からの奏請を朝廷に取り次ぐ「武家伝奏」との折衝、京都所司代・京都町奉行と武家伝奏との取り次ぎ、天皇をはじめとする禁裏における諸事の記録などを行い、異常事態が起これば京都所司代に報告していました。また、朝廷の経理・総務業務部門の「口向(くちむき、くちむけ)」や食料品調達役の「禁裏賄頭(きんりまかないがしら)」の統括、禁裏における経理・会計の監督、禁裏内の警衛、朝廷内部で生じた事件の捜査、内裏普請の奉行など禁裏に関わる事項のほか、公家衆の行跡も監督していました。

 

禁裏付が初めて設けられたのは寛永20年(1643年)で、明正天皇の譲位と御光明天皇の即位に合わせて、高木守久(たかぎもりひさ、後に大目付)と天野長信(あまのながのぶ)の2名が任じられました。また、口向役人の経理会計不正発覚を機に、安永3年(1774年)に「京都御入用取調役」と「御所勘使御買物方(ごしょかんづかいおかいものかた)」を新設、禁裏付の支配下としました。慶応3年(1867年)に禁裏付は廃止されました。

 

次に仙洞付です。「仙洞」とは、元々は仙人の住む清浄界のことで、仙人が俗世を離れて深山に隠遁している理想的な人間を意味することから、そこから転じて退位した天皇、すなわち上皇や法皇の住まいを「仙洞御所」と称していました。

 

仙洞付は上皇在世中のみに設けられる臨時職で、仙洞御所に係る諸事を監督する役目を負っていました。老中支配で1,000石高の旗本役、役料1,000石でした。

 

禁裏付、仙洞付ともに老中支配ではあったものの、京都に在番中は京都所司代の配下として万事において指示を受けていたようです。現在でいえば、宮内庁といったところでしょうか。

 

高見澤

 

おはようございます。今日は二十四節気の一つ「芒種」です。田植えの目安となる時期で、梅雨入りも間近なのか、東京都心は朝から小雨が降っています。昨日に続き本日も往訪しての面談があり、今日は傘をさして外出するのが少し面倒な気がします。今日の東京は1日中雨の予報で、雨が止むのは明日以降です。

 

さて、本日は前回の番方に続いて、「大番頭」について紹介していきたいと思います。五番方のうち、大番は江戸幕府の常備兵力で、最も古い組織であることは前回述べた通りです。開幕前の大番は、松平一族や家康の縁者が番頭に就くことが多く、当時は親衛隊の役割もあったようですが、後に両番の設置とともに、幕府直轄の軍事力となっていきました。

 

大番は、当初は6組、その後軍事力増強と幕府制度の整備に伴って、本丸老中支配として12組となります。1組はそれぞれ大番頭1名、大番組頭4名、大番士50名、大番与力10名、大番同心20名で構成されていました。

 

大番頭は老中支配の旗本役で、役高は5,000石、開幕初期にはしばしば譜代大名が就任することもあったようです。大番組頭は大番頭支配で御目見え以上(旗本)で役高600石、大番士以下は足高の制による補填のない持ち高勤めで大番士は概ね200石の御目見え以上、大番与力は現米80石で御目見え以下(御家人)、大番同心は30俵二人扶持で御目見え以下でした。役高に規定される番士の軍役から計算される総兵力は400人強で、2万石程度(5万石程度とも)の大名の軍役に匹敵と言われています。

 

大番の平時の任務は江戸城及び要地の警護です。要地には二条城と大坂城があり、それぞれ2組が1年交代で在番していました。江戸初期には伏見城と駿府城の警護もありましたが、伏見在番は伏見廃城、駿府在番は書院番が務めることになり、それぞれは廃止されました。新番創設後は、大番は主に江戸城の大御所・世子不在時の二の丸と西の丸の警備を担当するようになりました。一方、有事または行軍の際には幕府軍旗本部隊の一番先手、備(そなえ)の騎馬隊として働いていました。大番頭は平時の警備責任者、戦時の軍事責任者で、今でいえば自衛隊の幕僚長といったところでしょうか。

 

江戸幕府はいわゆる軍事政権であることから、軍事・警備の責任者の地位は高く、大番頭は同じ役高5,000石の側衆、留守居と並んで、旗本の役職中で最高の格式を誇っていました。ちなみに、書院番頭と小姓組番頭の役高は4,000石で、若年寄支配の旗本役、大番頭とともに諸大夫の格式です。戦時の幕府直轄の備の一番手指揮官が大番頭であるのに対し、二番手指揮官は書院番頭が務めていました。

 

高見澤
 

おはようございます。今朝の東京都心も日中は暑くなる気配です。とはいえ、西から梅雨前線が北上してきており、西日本では雨が降り始めるようです。明日から、関東も雨が降る天気が続きそうです。

 

さて、本日と次回の2回に分けて「番方(ばんかた)」と「大番頭(おおばんがしら)」について紹介していきたいと思います。江戸幕府において、行政を担当する文官にあたる役職を「役方(やくかた)」と称したのに対し、武官、すなわち常備軍として警備・防衛にあたる役割を担っていた役職を番方と呼んでいました。

 

「番」というのは、順番で服務する意味と警備に出動する意味が重なっているとされ、「当番」、「非番」といった言葉が今でも使われています。番方は「番衆(ばんしゅう)」とも呼ばれ、この呼称が使われ始めたのは鎌倉時代で、「鎌倉大番(かまくらおおばん)」、「早昼番」、「近習(きんじゅ)番」、「学問所番」などの種類があり、いずれも御家人の番役として賦課されたもので、固定された職務ではありませんでした。

 

これが江戸時代になると、開幕当初は番役であった番方も、次第に人数や職掌などが固定され役職化されていきます。寛永元年(1624年)に番方に対する規則である「御番衆条目」が制定、殿中での作法や心構えなどが決められました。番方の主な職務は常備軍として将軍の身辺の護衛や殿中・城門等要所の警備で、これを交替で勤めました。

 

江戸幕府の番方としては、大番、「書院番(しょいんばん)」、「小姓組番(こしょうぐみばん)」の番方三役〔書院番と小姓組藩を「両番」と呼ぶ〕、これに「新番(しんばん)」と「小十人組(こじゅうにんぐみ)」を加えた「五番方(ごばんかた)」のほか、「徒士(かち)組」、「百人組」、「先手(さきて)組」などがありました。

 

五番方の概要は以下の通りです。

〔大番〕

天正14年(1586年)創設

老中支配、幕府常備の主力軍、旗本編制部隊(番士以上)

平時は江戸城二の丸・西の丸の警備、大坂城・二条城の管理・警備

戦時は旗本部隊の一番先手の騎馬隊

本丸12組(当初は6組)、うち2組は京都二条城、2組は大坂城

1組の構成:番頭1名、組頭4名、番士50名、与力10騎、同心20

 

〔書院番〕

慶長10年(1605年)創設

若年寄支配、幕府の親衛隊、旗本編制部隊(番士以上)

江戸城本丸の警備、殿中・諸門の警備、駿府在番

将軍の護衛任務が主務

本丸6組(当初4組)、西の丸4組

1組の構成:番頭1名、組頭1名、番士50名、与力10騎、同心20

 

〔小姓組(花畑組)〕

慶長11年(1606年)創設

若年寄支配、将軍の親衛隊、旗本編制部隊

戦時は直掩備(ちょくえんぞなえ)・騎馬隊

平時は将軍警護

本丸8(6)組、西の丸4組

1組の構成:番頭1名、組頭1名、番士50

 

〔新番〔土圭間(とけいのま)番、近習(きんじゅ)番、新御(しんご)番〕

寛永20年(1643年)創設

若年寄支配、旗本編制部隊、馬上資格有り(騎兵)

将軍の身辺警護を職掌、将軍出行の際の先駆け

武器の検分

新番所10組、1組20

 

〔小十人組〕

江戸時代初期創設

若年寄支配、旗本編制部隊、馬上資格無し(五番方唯一の歩兵)

平時は江戸城中警備、将軍・嫡子行軍・行列の前衛部隊、先遣警備

戦時は将軍馬廻りの警護

本丸10組、1組:頭1名、組頭2名、番衆20

 

このほか、徒士は歩兵部隊、百人組は与力・同心から成る鉄砲隊、先手組は与力・同心から成る弓・鉄砲の混合隊で、組頭以外は一般に御目見え以下の御家人で構成されていました。そういえば、前回の江戸城の勉強会の時に、大手門から入って「同心番所」と「百人番所」を見たことを覚えていますか? 江戸城警護の御目見え以下の武士は、こうした番所に詰めて任務にあたっていたのです。

 

ところで、東京の千代田区には「番町」に数字が付く地名があります。これは番方の屋敷が多くあったことに由来されていると言われています。文禄元年(1592年)に江戸城改築に伴い、当時あった6組の屋敷地を江戸城北西側に設けたことから、「一番町」から「六番町」まで名称が付けられたのではなかいかと考えられています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は日差しも強く、暑くなりそうな1日ですが、今週はいよいよ梅雨入りとなりそうです。南の海上では台風発生の兆し(しかもダブル)もあり、台風が北上するとなると、梅雨前線が刺激されて大雨になる可能性があります。今年は例年以上の大雪の影響で地盤が緩み、土砂崩れの被害が広がっているところもあるので、普段より余計に警戒が必要です。

 

さて、本日は江戸幕府の会計検査官、「勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)」について紹介したいと思います。勘定吟味役は「勘定吟味方(かんじょうぎんみがた)」とも呼ばれ、「勘定所」に置かれた老中支配の旗本役の重職です。勘定所は、今でいうところの財務省で、幕府の財政収支、幕府領での年貢徴収(現在の国税庁の業務)、長崎貿易(現在の税関の業務)、郡代・代官の勤怠、貨幣鋳造など財政に関する事務一切を行っていました。

 

勘定吟味役の主な業務は、勘定所の一切の職務を監査することです。また、勘定奉行の意見や政策に意見を加えることができ、法令発布・伺書(うかがいしょ)・勘定帳に連署するなどの重責が与えられていました。財政支出の決定には必ず勘定吟味役の賛同を得なければならず、勘定奉行を含めた勘定所下僚に不正があった場合には、直ちに老中に報告する権限が与えられていました。

 

勘定所において、勘定奉行に次ぐ地位ではあったものの、勘定奉行の次席という位置付けではなく、老中直属の独立した地位にあったと考えれています。御定員数(おさだめすう)は4名から6名で、享保16年(1731年)に格式石高500石、役料300俵が定められています。享保8年(1723年)に享保の改革で「足高(たしだか)の制」制定以降、下級幕吏が到達できる最高の役職(現在でいえばノンキャリの最高職位)となったようです。ちなみに足高の制というのは、幕府の各役職に各々規定の禄高を設け、その禄高に達しない者が任に就いた場合、在職中のみ不足分の役料を補う制度のことです。

 

5代将軍・徳川綱吉の時代、天和2年(1682年)に佐野正周(さのまさちか)、国領重次(こくりょうしげつぐ)の2名を「勘定頭差添役(かんじょうがしらさしぞえやく)」に任命したのが最初で、元禄元年(1688年)頃より勘定吟味役と呼ばれるようになりました。元禄12年(1699年)に当時勘定奉行を務めていた荻原重秀(おぎわらしげひで)が独断で勘定吟味役を廃止し、しばらく空席となっていましたが、正徳2年(1712年)に新井白石の建議により2名が勘定吟味役に任ぜられ、同役が復活することになりました。

 

享保7年(1722年)、勘定吟味役は訴訟採決の当否を判定する「公事方(くじかた)」と、貢租(こうそ)徴収・米金出納など評定所事務を監査する「勝手方(かってかた)」とに役目が分離されます。その後、宝暦年間(1751年~1764年」には9代将軍・家重の下命により、直属の部下13名が配属され、独立した検査・監査機関としての体制が整いました。属僚として、吟味方改役、吟味方下役が配置されていました。慶応3年(1867年)、江戸幕府の終焉とともに、勘定吟味役も廃止されることになりました。

 

高見澤
 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、清々しい朝を迎えていますが、日中は気温が高くなる雰囲気です。今日から6月、ジメジメとした梅雨の到来もそう遠くはありませんが、季節の変わり目を楽しむ余裕もなく、仕事や生活に追われる日々が続いています。

 

さて、本日は「旗奉行」と「槍奉行」について紹介したいと思います。この2の役職は、戦時においてはかなりの重要な役割を果たしていました。

 

先ず旗奉行ですが、日本の中世から近世にかけて、一軍の旗を預かる武家の職名を指しており、「旗大将」または「幟奉行(のぼりぶぎょう)」とも呼ばれていました。江戸幕府においては、老中支配の旗本役として、役高は2,000石、主な任務は戦場において徳川家の軍旗や馬標(うまじるし)などの旗指物の管理を行っていました。

 

先日、「真田十勇士」という映画をみていて、大坂夏の陣で加藤雅也扮する真田幸村が松平健扮する徳川家康を追い詰め、家康の馬標を切り落とすシーンがありました。実際にこうしたシーンがあったか否かは定かではありませんが、家康は旗奉行に不首尾があったことを厳しく詮議したそうです。それを大久保忠教は、旗奉行の不首尾は古参譜代衆を差し置いて新参者にその要職を任せた家康の失態にあると思い、高齢の家康の汚名返上の機会がないと判断して、旗は倒れなかったと主張し続けたという逸話があるそうです。

 

ところが幕府が安定期を迎え戦がなくなると、槍奉行とともに旗奉行の重要性も次第に薄れてきます。このため、旗奉行の役職は老齢まで勤仕した旗本に対する名誉職としての意味合いが濃くなっていきました。

 

次に槍奉行ですが、元々武家社会においては槍を持つ一隊を指揮する者を指し、「槍大将」、「長柄(ながえ)大将」、「長柄奉行」とも呼ばれていました。江戸時代には「鑓奉行」とも表記され、こちらも老中支配の旗本役の役職で、役高は2,000石でした。寛文9年(1669年)に4人が任命されて以来、定員は3~5人と時代によって変わりました。

 

戦時には重要な役目を負う槍奉行でしたが、平時においては幕府の槍に関する事務を司る閑職で、旗奉行同様に、幕府の安定期を迎えるにつれてその重要性は薄れ、老齢まで勤仕した旗本に対する名誉職としての意味合いが強くなっていきました。長柄槍組同心や八王子千人同心頭を統括し、槍奉行1人につき10人の同心(30俵二人扶持)が配属されていました。幕末の慶応2年(1866年)に槍奉行の役職は廃されました。

 

高見澤

2021年1月

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