東藝術倶楽部瓦版 20180628:繁栄から衰退へ-重要性も変化した「堺奉行」

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、湿度が高くムシムシと蒸し暑く不快な朝を迎えています。それでも高台では少し風があるのでまだマシです。今日はこの後晴れるとの予報ですが、小雨がパラつくかもしれません。

 

さて、本日は「堺奉行(さかいぶぎょう)」について紹介したいと思います。堺奉行は幕府直轄地である和泉国堺の町政を司り、港湾を管理した遠国奉行の一つです。ご存知の通り、堺は港を利用して商業・貿易で栄えた町で、中世から会合衆(えごうしゅう)らの自治によって治められてきました。

 

この堺の繁栄に目を付けた織田信長は、堺を自らの勢力下に収め、元亀元年(1570年)に松井友閑(まついゆうかん)を堺の代官に任じ、堺政所(さかいまんどころ)を設置します。これが後に堺奉行所へとつながっていくことになります。堺政所は豊臣秀吉へと引き継がれ、石田三成も代官を務めた経歴があり、やがて徳川家康の支配下に置かれることになります。

 

慶長5年(1600年)、家康は米津親勝(よねきつちかかつ)、成瀬正成、細井政成を堺政所の代官に任じますが、これが後に堺奉行になっていきます。慶長19年(1614年)に堺は幕府の直轄地となり、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を経て、元和4年(1618年)に堺政所を堺奉行所へと改称しました。

 

堺奉行も遠国奉行ですから老中支配の旗本役、原則として知行高1,000石以上3,000石以下の旗本から選任され、役高1,000石、役料600石を与えられていました。定員は1名、任期の定めはなく、配下に与力10騎、同心50人が配されました。元禄9年(1696年)から元禄15年(1702年)までの一時期、堺奉行の職が廃止され、堺は大坂町奉行の管轄になりますが、その後堺奉行は再置され、配下の与力は6騎、同心は40人に削減され、堺奉行は大坂町奉行の指揮下に置かれました。しかし、正徳元年(1711年)に与力、同心の数は以前の10騎、50人に戻され、慶応3年(1867年)の慶応の改革で廃止されるまでこの体制は維持されました。

 

堺奉行の主な任務は、堺南北両郷の一般民政、廻米、消防、警察、糸割符、河川、寺社の管掌のほか、堺に出入する船舶及びその荷物の点検、防備で、堺奉行設置当初は和泉一国を支配したこともありました。しかし、経済が大坂に集中すると同時に、堺港が衰退していくと堺奉行の重要性も相対的に低下していきます。堺奉行は小事を取扱い、大事や複雑な問題は大坂町奉行が取り仕切ることになっていました。

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月28日 18:36に書いたブログ記事です。

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