東藝術倶楽部瓦版 20180627:伊勢神宮支配の「山田奉行」

 

おはようございます。昨夜遅く帰宅した際に、自宅マンションの入り口に警戒線が張られ、「マンション関係者以外立ち入り禁止」の張り紙がしてありました。何事かと家に戻ったところ、子供たちからマスコミがいなかったかと聞かれ、誰もいなかったと答えると、高円宮三女の絢子さんの婚約が発表され、その婚約者が我がマンションに住んでいるとのこと。報道写真の婚約者のバックの背景が、確かに見覚えのある景色。こんなこともあるのかと、我が運命の不可思議を噛み締めているいるところです。

 

さて、本日は「山田奉行(ようだぶぎょう、やまだぶぎょう)」について紹介していきましょう。山田奉行とは、伊勢神宮の守護、造営修理、祭礼、20年ごとの遷宮、門前町支配のほか、伊勢・志摩での訴訟、鳥羽港の警備、船舶の点検、伊勢湾・南海での異国船の取り締まりなどを管轄する遠国奉行で、「伊勢奉行」、「伊勢町奉行」、「伊勢郡代」、「伊勢山田奉行」、「伊勢山田町奉行」などとも呼ばれていました。

 

老中支配の旗本役で、元文3年(1738年)の規定では役高1,000石の旗本が任じられることになっていたようです。役高は1,000石、役料は1,500俵が支給され、定員については、当初は1~2名、元禄9年(1696年)に2名とされ、江戸と現地での交代勤務となりました。配下には与力6騎、同心70人、主水40人が配されていました。

 

一説に、豊臣秀吉が伊勢神宮の門前町として発展していた山田の地を直轄地として、神宮仕職・神部貞永を奉行に任じたのが始まりとされています。これを江戸幕府が引き継ぎ、慶長8年(1603年)に山田奉行所を設置、長野友秀を奉行に任じました。

 

伊勢神宮の支配地は、紀州和歌山藩と接していたことから、しばしば紀州徳川家と係争が発生したと言われています。8代将軍・吉宗の時代に江戸町奉行となる大岡忠相が山田奉行を務めていた時に、その働きに感心した吉宗が忠相を抜擢したとの話もありますが、これはあくまでも伝説として真偽のほどは確かではありません。

 

高見澤

2018年7月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月27日 08:57に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20180626:佐渡の民政と金銀山の支配-「佐渡奉行」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20180628:繁栄から衰退へ-重要性も変化した「堺奉行」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ