2017年1月アーカイブ

 

おはようございます。年も改まったかと思えばもう1月も最後の日。月日の経つのが早く感じるところですが、人の一生が100年にも満たないという現世は如何にも儚い夢のまた夢といったところでしょうか。

 

さて、本日も暦の続きです。前回は貞享暦より劣った宝暦暦への改暦のお話をしましたが、その宝暦暦から次の「寛政暦」への改暦が行われたのが寛政10年(1798年)のことでした。宝暦暦の誤りに頭を悩ましていた徳川幕府は、民間の天文学者であった高橋至時を幕府天文方に登用し、同じ麻田剛立門下の間重富や先任の天文方であった山路徳風らと協力しながら改暦を進め、その結果出来上がったのがこの寛政暦でした。

 

寛政暦は中国・清の「時憲暦(じけんれき)」を参考に、中国と日本の里差を加え、さらに高橋至時・間重富の師である麻田剛立の暦算を導入したものでした。時憲暦はドイツ出身のイエズス会宣教師であるアダム・シャールによって編纂されたもので、明の時代に使われていた「大統暦」に改良を加えた「崇禎暦(すうていれき)」のことで、明滅亡後に清によって公布された中国最後の太陰太陽暦です。ですから、時憲暦には当然のことながら西洋天文学の考え方が導入されており、寛政暦にも間接的ですが西洋天文学の成果が反映されていることになります。

 

こうして完成した寛政暦ですが、これも運用されてから40年も経つと天体の運行との差が無視できなくなります。そこで高橋至時の次男で天文方の渋川正陽の養子となった渋川影佑を中心に再び改暦が行われます。これが日本最後の太陰太陽暦となる「天保暦〔天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)〕」です。この改暦は天保15年(1844年)に行われ、明治5年(1872年)までの約29年間使われました。現在、日本で使われている旧暦は、この天保暦の置閏法に基づいて計算されています。

 

ところで、これまで何かと東洋科学が西洋科学よりも先進的であったことを、数々の事例を交えて紹介してきていました。しかし、こと天文学に関しては、西洋の方が東洋よりも正確である言えるかもしれません。その証拠に暦と季節が一体化した太陽暦(グレゴリオ暦)が現在世界的な標準の暦として採用されています。実はこれにも理由があり、その大元は古代エジプト暦にそのルーツがあります。これについては、また機会を設けてご紹介できればと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は比較的暖かく、過ごしやすい朝でしたが、明日からはまた寒くなるようです。

 

さて、本日からはまた江戸の暦に話題を戻していきたいと思います。

貞享2年(1685年)に採用された日本最初の和暦「貞享暦」ですが、その後、西洋天文学を取り入れた暦法を採用したいと考えた八代将軍徳川吉宗の命を受け、幕府天文方であった西川正休や渋川則休らによって改暦の準備が進められます。しかし、改暦の準備の過程で吉宗が急死したことで、改暦の作業が朝廷の陰陽頭の土御門泰邦に主導権を握られてしまいます。その結果完成した暦法が「宝暦暦」でした。

 

この宝暦暦が採用されたのは宝暦5年(1755年)です。しかし、その採用から8年後の宝暦13年9月1日(176310月7日)の日食を、他の多くの民間の天文学者が予想していたにもかかわらず、宝暦暦が外してしまうという失態を犯し、世間の批判を受けます。このため幕府は明和元年(1764年)に佐々木文次郎に補暦御用を命じて明和8年(1771年)から修正宝暦暦が採用されることになります。

 

ところが、この急遽修正が加えられた宝暦暦も安永2年(1773年)、安永4年(1775年)、天明6年(1786年)に置閏法の原則としてあってはならないとされていた「中気のない閏月」が発生するなどの不具合も少なくなく、日本中で様々な不満が続出してしまいます。この貞享暦から宝暦暦及び修正宝暦暦への改暦は、貞享暦の暦元の値を少し変えたただけの新味のないものであり、しかも貞享暦よりも劣った暦法であったと言えます。

 

こうして修正宝暦暦に対する改暦の機運が高まっていくことになり、幕府は当時評判の高かった天文学者の高橋至時や間重富らの民間学者に協力を依頼し改暦を進めることになりました。こうして完成したのが寛政10年(1798年)から採用される「寛政暦」です。

 

高見澤

 

おはようございます。今週はしばらくお休みをいただき、大変失礼致しました。

 

北京駐在から帰って早9カ月が過ぎ、これまでまともに休暇が取れなかったのですが、やっとのことで4日連続の休みをもらうことができ、家族で英国・ロンドンに行ってきました。先週土曜日21日に成田を出発、12時間飛行機に乗りロンドン・ヒースロー空港に到着、25日ヒースロー空港昼過ぎ発の飛行機に11時間乗って、昨日昼頃に成田に着きました。4泊6日の旅もあっという間でした。日本と英国の時差は9時間、ロンドンの時間に慣れ始めたときに日本に戻ったものですから、時差ボケの上にさらに時差ボケが重なり、昨日は自宅に到着した途端に睡眠開始、途中で起きて仕事のメールを少し返しただけで、後は今朝までぐっすりでした。

 

さて、せっかくの機会ですので、本日は今回のロンドン旅行で体験し、感じたことをご紹介しておきたいと思います。

これまで英国に対しては、五井野博士の著書にもあるように、ニュートン物理学や現代金融エコノミーを生んだ国として、私自身あまり好意的なイメージは持っていなかったのが正直なところです。ところが実際に行ってみると、今の日本にはない...というより、今の日本人が失った自国文化に対する自信と誇りを持ち続けようする努力の跡が見えたことに、私自身驚きを感じざるを得ませんでした。

 

確かに英国自体が4大文明のような偉大な文化を生み出したわけではありません。大英博物館などにはエジプトやメソポタミア、インド、中国、日本などから持ち込んだ巨大で偉大な遺跡、歴史的な遺産が所狭しと展示されており、よくまあこれだけのものを植民地化と称して略奪してきたものだとあきれ返るほどでした。

 

しかし更に驚いたのは、そうした過去の遺跡、遺産をしっかりと保護すると同時に、それらを自国の発展に活かそうと努力していることです。私の勝手な想像ですが、このことは逆に自国に基礎となる歴史的な文化がなかっただけに、4大文明のみならず古代ギリシャや古代ローマから取り入れた他国の文化を基礎として創り上げた自らの文化をより大事にしようという意識が芽生えたのではないかと思うのです。

 

大英博物館、ビクトリア・アルバート美術館、ナショナル・ギャラリーなど有名な博物館・美術館の類はほとんどが無料で開放されており、世界的な名品の数々も気軽に見ることができます。今回、ビクトリア・アルバート美術館では喜多川歌麿や鈴木晴信の素晴らしい浮世絵を見ることができましたし、ナショナル・ギャラリーではゴッホの本物の14本のひまわりを堪能することができました。ナショナル・ギャラリーに展示されている絵画の数々は教科書に出ている有名な作品も少なくないのですが、やはりひまわりはそれだけがある種特別な世界を持っていることに気付かれされます。思い出すだけで鳥肌が立ち、背筋がゾクゾクしてきます。

 

そして昔ながらの建築物が残っている街並みです。ロンドン自体小さな町で、道も広くはありません。それでいて車の数は多く、街を歩く人の姿も少なくはありません。しかし、車の渋滞は思ったほどひどくなく、街は整然として歩きやすいのです。赤信号を渡る歩行者は少なくないのですが、それはあくまでも自己責任ということで、車が来ないことを確認してから小走りに渡ります。

最近では移民が多く、街の治安が悪くなったと言われています。確かにスリや置き引きなど小さな犯罪はあるようですが、総じてロンドンの街自体の治安は比較的良いほうだと思います。自分さえしっかりと意識を持って行動していれば、危険な状況に遭うことはあまりないものと思います。

 

いずれにせよ何事も体験してみることです。そこから新たな発見につながり、それが自分の生き方に活かされ、成長していくものだと思います。

次回は、また江戸の暦のお話しに戻りたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京は雪の予報となっていますが、私が出勤したときにはまだ降っていませんでした。寒い日が続きます。

 

さて、本日は「貞享暦」について補足しておきたいと思います。

前回ご紹介したように、全国各地で地方暦(私暦)が氾濫し使われるようになると、月の大小や閏月の置き方などに統一性がなくなります。このため徳川幕府は貞享暦の施行後に、暦を厳重な統制下に置き、頒暦は幕府天文方の許可を受けた一定数のものに限定されました。これ以降、初めて日本で統一された暦が使われるようになりました。

 

貞享暦への改暦が行われたきっかけは、823年間使われてきた宣明暦の誤りが指摘されるようになったからです。カレンダーとしての利用に不便はなかったのですが、日食や月食の予測がはずれるようになったのです。

 

そこで幕府は、暦法に通じていた幕府碁所の安井算哲(後の渋川春海)の上奏を受けて、1673年から1675年の日食・月食の予測を、宣明暦、授時暦(じゅじれき:金の大明暦を修正した13世紀の元の暦)、大統暦(たいとうれき:14世紀の明の暦法)の三つの暦法で比較してみることになりました。授時暦は西洋天文学が導入される以前の中国における最も優れた暦とされていました。安井をはじめとする改暦派が推挙していたのもこの授時暦でした。

 

ところが、1675年の日食の予測は宣明暦だけが的中し、授時暦と大統暦ははずれてしまいます。このため改暦は一時頓挫します。宣明暦の予測が当たったのはたまたまですが、授時暦と大統暦がはずれたのは、中国の暦法をそのまま日本に導入したからです。そこで安井は西洋天文学の成果を盛り込んだ中国の天文学書『天経惑問』を学ぶことで太陽の近日点の移動に気付き、中国(北京)と日本(京都)の里差(緯度差)などを考慮して暦を作成します。これが日本初の国暦である大和暦(貞享暦)です。北京と京都との里差は5刻(1日を100刻として、5÷100×24時間→1.2時間、経度差18度)とされており、今の東京と北京の時差が1時間ですから、正しい計算であるといえます。

 

·  定数:定朔、平気、破章法、歳差

  • 1恒星年=365.256696(周天=歳周+歳差150)
  • 1太陽年=365.241696(歳周、授時暦の値に消長法を適用したもの)
  • 1朔望月= 29.530590(月朔)
  • 1近点月= 27.554600(転終)
  • 1交点月= 27.212220(交終)

·  安井の作成した大和暦は貞享元年(1684年)に採用が認められ、貞享暦として翌貞享2年(1685年)から頒暦されることになりました。こうして、漢伝五暦(元嘉暦、儀鳳暦、大衍暦、五紀暦、宣明暦)の時代は終わりを告げ、国暦の時代が到来したのです。

 

高見澤

 

おはようございます。まだまだ寒い日が続きます。北京での寒さに比べればまだ大したことはありませんが、部屋の中が集中暖房で1日中暖かかった北京生活と比べると、朝起きるのがつらいと感じることが多いですね。

 

さて、今日は地方暦についてご紹介したいと思います。

奈良時代から平安時代(8~12世紀)にかけて、宮中では毎年111日に陰陽寮の暦の博士が作成した翌年の暦を中務省(なかつかさしょう)の役人が天皇に奏上する「御暦奏(ごりゃくのそう)」という儀式が行われていました(『延喜式』)。天皇、皇后、皇太子に献上する暦は「具注御暦(御暦)」と呼ばれました。これをもって、翌年の暦の配布が解禁になります。この御暦を陰陽寮の役人に書写した「頒暦」が有力公家に配られ(平安後期には頒暦が形骸化し、貴族が個人的に陰陽寮の役人に私的に依頼していたようです)、貴族の間で使われていました。

 

御暦、頒暦ともに内容は同じものですが、日の吉凶などを記した暦注は漢文で書かれており、庶民には読むことができません。そこで後に、頒暦を仮名書きしたものが現れ(鎌倉時代中期?)、当初は宮中の女官に使われましたが、これが庶民の間に広がり「仮名暦」と呼ばれました。こうなると書写では需要に追い付きませんので、木版印刷による「版暦」も出回るようになりました。この発行権をもっていたのが先にもご紹介した「大経師」です。

 

1517世紀には朝廷の権勢も衰えてきます。各地の神社などでは「官暦」とは異なる独自の「私暦」が作られるようになります。いわゆる「地方暦」です。いくつか例を挙げますが、これ以外にもそれぞれ地方独特の暦があったものと思われます。とはいえ、基本はいずれも宣明暦など既存の暦が基礎となっている太陰太陽暦であることに違いはありません。

 

京暦(きょうごよみ):官暦の民間版として京都で使われた暦

南都暦・奈良暦(なんとごよみ・ならごよみ):奈良の陰陽師が発行した暦

丹生暦(にゅうごよみ):伊勢の賀茂家が発行した暦

伊勢暦:伊勢宇治及び山田の暦師が発行した折暦(おりごよみ)

地震なまずの暦:表紙に「地震なまず」の絵が描かれた綴暦(とじこよみ)

月頭暦(つきがしらごよみ):金沢で発行された半紙1枚摺りの略歴

薩摩暦:薩摩藩が刊行、薩摩・大隅・日向領内に頒布された綴暦

三島暦:伊豆賀茂郡三島の暦師河合家(三島神社)が発行した暦、関東で使用

江戸暦:江戸の暦問屋(江戸町民)によって刊行された暦

会津暦:諏訪神社神官が賦暦(無償配布)を、七日町住菊地庄左衛門が売暦を発行

秋田暦:幕末から明治2年(1869)まで秋田で刊行されていた小型の綴暦

仙台暦:延宝から正徳頃(16731716)にかけて発行された仙台独自の暦

盛岡暦:盛岡舞田屋が慶応4年(1868年)から明治2年(1869年)に制作した綴暦

弘前暦:弘前で江戸時代後期に発行された1枚摺りの略暦

大宮暦:現存するものがない幻の暦

泉州暦:和泉信太舞村の土御門家配下の陰陽師が制作した暦、「岸和田暦」とも呼ぶ

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は朝から業務多忙のため、瓦版をお送りすることができず、失礼しました。また、来週は所用のため瓦版をお送りすることができませんので、ご了承ください。

 

それにしても寒い日が続きますね。各地では大雪で困った方も少なくなかったかと思いますが、東京は少し雪がちらついただけで、積もるまでには至りませんでした。今日は寒さも緩むようですが、引き続き意識をもって行動することが大事です。

 

さて、それでは前回の続きといきましょう。

貞享元年(1684年)3月、800年の長きにわたって使われてきた宣明暦が廃止され、貞享2年(1685年)から貞享暦(大和暦)が採用されることになったことは、前回お話しした通りです。この辺りのやりとりは、V6の岡田准一主演(「二代目安井算哲」こと「渋川春海」役)の映画「天地明察」に詳しく描かれているので、ご覧になっては如何でしょうか。

 

近松門左衛門の浄瑠璃で『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』という物語があります。これは京都の大経師家の若妻おさんと手代の茂兵衛の姦通を扱ったものです。浄瑠璃では、京都烏丸通りの大経師・浜岡権之助の妻おさんがひょんなことから手代の茂兵衛と関係をもってしまうことになるのですが、最終的にこの二人の命は救われます。しかし、この物語は「浜岡権之助改易事件」という実際に起きた事件を題材にしており、姦通した二人は磔となり、大経師・浜岡家は断絶となっています。

この事件は天和3年(1683年)に起きています。改暦を目前に浜岡権之助は、暦の板行権(出版権)の独占を江戸奉行所に直接願い出ましたが、本来であれば本業務の所管は京都所司代です。つまり京を所管する京都所司代を差し置いて江戸奉行所に板行権を願い出たことに対する京都所司代の怒りが、表向きは姦通事件として浜岡家断絶に至ったというのが事実であったようです。

 

中国でもそうですが、本来「暦」というのは「天子」が司り、民衆に下知するものとして取り扱われてきていました。綿密な計算と長きにわたる計測値の結果から、日食や月食を含む天文の動きを予測して吉凶を占い、人々の生活や生産活動に大きな影響を与えます。その天文の動きが長い時間の誤差が積み重なり、古い暦による予測とはズレが生じます。だからこそ「改暦」が必要になるのですが、民衆の支配権に直接かかわる事柄なので、当然そこには京の朝廷と江戸の幕府との間で暦をめぐって主導権争いが生じることになったのです。

 

貞享暦への改暦の功により、渋川春海は江戸幕府が新たな職制として設けた「天文方」に任命され、以降、渋川家が幕末まで天文方を世襲することになります。もっとも天文方は渋川家独占ではなく、猪飼家や西川家など数家が併存していました。

 

こうして頒暦の主導権は幕府天文方へと移り、以降、編暦は天文方、暦注は土御門家がそれぞれ担当するようになりました。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日のトランプ次期大統領の新聞記者会見、皆さんはご覧になってどう思われたでしょうか?確かにグローバル化を推進している現体制下で政権運営を担っている人や、唯物史観に染まっている人たちからすれば、トンデモ発言と捉えられても仕方ないかと思うような話です。しかしよくよく考えてみると、米国民の雇用確保が第一、米国を豊かにすること優先という主張はごく当たり前のことであり、一家の主であれば誰もが先ずは家のことを大事に考えるでしょう。それがグローバル化だといって、他の家のことまで口出しするのは余計なお世話というものです。

 

さて、本日は暦の原稿を彫りつけて印刷・出版する専門業者であった「大経師(だいきょうじ)」についてご紹介したいと思います。

この大経師が印刷・出版した暦を「大経師暦」と呼びます。大経師は造暦に当っていた賀茂・幸徳井両家から新暦を受け、大経師暦を発行する権利が与えられ、すなわち宮中御用を務めていることから、諸役を免除されるなどの特権をもっていました。

 

貞享2年(1685年)に貞享暦に改暦されるまでは公式的には宣明暦に基づいて暦が作成されていたわけですが、この暦は天皇の命を受けて暦家が原案を作り、それを基に大経師をはじめとする特定の暦屋が印刷頒布・販売する体制がとられていました。すなわち建前上、暦は朝廷の下に管理されていたことになります。ところが実際には各地で暦師が勝手に暦を推算していたようで、各地の暦本には相違がみられます。朝廷は地方暦師による勝手な開版の取り締まりを大経師・浜岡権之助に命ずる(明暦4年:1658年)など、朝廷による造暦・頒暦の管理に努めていました。

 

一方江戸幕府は、天正18年(1590年)の関東入府以来、大経師の刷る京暦ではなく、地方暦の一つである三島暦(三島大社頒布)を使っていたようで、貞享改暦まではこれが幕府の公式の暦とされていたようです。つまり、公式的な造暦をめぐって朝廷と幕府との間で熾烈な指導権争いが行われていたということになります。

 

貞享元年(1684年)3月、800年の長きにわたって使われてきた宣明暦が廃止されることになります。宣明暦に代わり、当初は明の「大統暦」が採用されようとしましたが、結果的には実測に基づく貞享暦が翌貞享2年から採用されることになりました。

 

この貞享の改暦に伴い、暦の印刷・出版の独占を狙ったのが大経師・浜岡権之助です。このやり取りを巡って、浜岡は当時の京都所司代・稲葉丹後守の怒りを買い、浜岡家断絶となるのですが、この続きは次回にさせていただきます。

 

高見澤

 

おはようございます。私は現在、行き帰りの電車の中で五井野博士が書かれた『一念三千論で解く宇宙生命の秘密』を読み返しています。先週の中国出張の時に飛行機の中で一度読み終えたのですが、なかなか難しいところもあり再度読み返しているのですが、さすがに二回目となると前回理解できなかったところが少しずつですが、何となく分かるような気がします。頭で理解するというよりも、身体で感じると言った方が正しいのかもしれません。何度でも読み返してみることをお勧めします。

 

さて、本日からは江戸の暦革命についてお話ししていきたいと思います。

律令時代の暦の編纂は陰陽寮の暦博士や天文博士、更にはそれらを統括する陰陽頭の仕事でした。暦算は高度な専門知識と熟練した技術を必要とするので、そのような特別な訓練を受けた人でないと務まらなかったわけです。

平安時代中期に、陰陽道の大家で唐から大衍暦を持ち帰った吉備真備の子孫であるとされる賀茂忠行の子で賀茂保憲という陰陽頭がいました。保憲は自分の子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明(のちに天下に並ぶ者なき陰陽家として名声をはせた人物)には天文道を伝え、以降暦道と天文道は賀茂家と安倍家の家学として世襲化されることになりました。賀茂家の正系は16世紀に途絶え、これを安倍家が代行し、また賀茂家は安倍一族の幸徳井家が継いだために、日本の暦道と天文道は安倍家、のちの土御門家とその一族が深くかかわることになります。このため、安倍家一族以外の多くの陰陽師は生活難に陥り、諸国に分散することになったと言われています。

 

江戸時代に入ると、800年に渡って使われてきた宣明暦の狂いが指摘されるようになります。江戸幕府としても放置するわけにはいきませんでしたが、当時暦道は京の土御門家が隠然たる支配力をもっていたので、そう簡単に改暦するわけにもいきません。そこで幕府は渋川春海を土御門家に弟子入りさせるなど、万全の根回しを行った上で、ようやく貞享2年(1685年)に「貞享暦」への改暦を行うことに成功しました。この貞享暦は日本独自の暦法で、初めて日本人の手によって編纂された「和暦」です。

 

この改暦の功により渋川春海は幕府が新たな職制として設けた「天文方」に任命され、その後幕末まで渋川家が天文方を世襲することになります。ただ、天文方は渋川家の独占ではなく、猪飼家、西川家など数家が併存していました。

幕府が天文方を設置した目的には、土御門家から頒暦の主導権を奪うことがあったようで、貞享暦の改暦以降、土御門家は暦注部分のみを担当するようになり、科学的な編暦については天文方の所管となりました。

 

貞享暦については、また日を改めて紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。年が明け、すでに10日ほど経ちましたが、各界の間では今週から来週にかけて賀詞交換会が開かれます。今年の見通しなどを聞いていると、米国のトランプ大統領就任や英国のEU離脱交渉など、ほとんどの人が何かと懸念を示しているところですが、それぞれの国民がそのような道を選んだという事実を率直に受け入れ、なぜそうなったのかという理由を考えるべきだと思います。そうでないと、日本だけが世界の標準的な考え方から取り残されてしまうことになるでしょう。

 

さて、本日からは江戸の暦の話に戻りたいと思いますが、その前提として、日本ではいつ頃から暦が使われていたのかについて、先ずは通説をご紹介しておきましょう。

 

中国から日本に伝えられた最初の暦とされるのが「元嘉暦(げんかれき)」で、6世紀に朝鮮半島(百済)を通じて日本にもたらされました。ですから7世紀初めの推古朝にはすでに中国の暦が使われていました。では、それ以前に暦がなかったのでしょうか?

 

3世紀に中国で編纂された『三国志』の「魏志東夷伝」によれば、当時の日本について「その俗正歳四節を知らず、但し春耕秋収を記して年紀となす」とあり、1年の長さや春夏秋冬の節目となる立春・立夏・立秋・立冬は知らないけれども、春に田畑を耕して秋に作物を収穫することで年を数えていたということでしょう。

 

ちなみに余談ですが、ここに出てくる『三国志』は正史としての『三国志』で、当時の事象を記した歴史書であり、魏、呉、蜀のそれぞれの歴史を記した『魏志』、『呉誌』、『蜀誌』から成っています。一般に知られている『三国志』は『三国志演義』と呼ばれるもので、後の明代に羅貫中という人物によって書かれた歴史小説です。

 

話を暦に戻しますが、日本で暦日の管理が始まったのは、百済から元嘉暦の暦本が献上された直後の推古天皇12年(712年)頃と言われています。後年に編纂された記紀(「古事記」と「日本書紀」)では推古朝以前の年までが干支で表されており、その理由は編纂過程で施行された暦法によって逆算したらかではないかと思われます。逆算して干支を配するには、過去の事象の年月日が何らかの形で記されていなければなりません。それが「大化の改新」と呼ばれるクーデターで焼失した「天皇紀」、「国記」ではなかったと思われますが、このお話しはまた別の機会にご紹介したいと思います。それにしても、この時代には既に「干支」があったというのですから驚きです。「干支」については、後日、暦と絡めてご紹介します。

 

日本において公式暦の始まりは、持統天皇によって「元嘉暦」と「儀鳳暦(ぎほうれき)」が施行された690年とされています。元嘉暦と儀鳳暦はいずれも中国で考案された太陰太陽暦です。元嘉暦は中国南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法で、19年に7閏月を置き、1太陽年を365.2467日、1朔望月を29.530585日とするものです。儀鳳暦は中国・唐の天文学者である李淳風が編纂した暦法で、中国では「麟徳暦」と呼ばれ、太陽と月の運行の不均衡を考慮した定朔法を用いて朔日を決めるものです。

 

元嘉暦と儀鳳暦の併用が690年から始まり、697年からは儀鳳暦が単独で使われることになります。その後、764年からは「大衍暦(たいえんれき/だいえんれき)」、781年には中国からもたらされた「五紀暦」が大衍暦と併用され、862年からは「宣明歴(せんみょうれき)」が使われるようになります。いずれも中国で考案された太陰太陽暦です。

 

この宣命暦は、正式には「長慶宣明歴(けいちょうせんみょうれき)」と呼ばれ、日本においては1685年の日本独自の暦である「貞享暦(じょうきょうれき)」が考案されるまでの823年間使われた史上最長の暦です。中国・唐の徐昴が編纂したもので、当時としては優れた暦法とされ、特に日食や月食の予報が正確であったと言われています。

 

次回からは、いよいよ江戸の暦に入っていきたいと思います。

 

高見澤

 

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

 

さて、年明け早々3日から中国東北地域に出張してきました。黒龍江省ハルビンで毎年開催される氷祭り(氷雪節)の開幕式が4日に行われ、それに合わせて挙行された寒冷地発展フォーラムに参加してきました。海外からは、日本のほか、デンマークやフィンランド、韓国など寒冷地のほか、マレーシアや南アフリカからも参加者がおり、国際色豊かな会議でした。日本からは私のほか、在瀋陽日本総領事館、新潟市北京事務所などからも代表が参加し、氷祭りの開幕式では石塚瀋陽総領事もご夫婦で駆けつけ参加となりました。気温はマイナス20℃でしたが、仕事もホテルや地方政府庁舎内がほとんどで、移動は車だったので、ほとんど寒いと感じることはありませんでした。

 

ハルビンでフォーラムに参加した後、吉林省長春に移り政府機関や大学等と会議、長春の気温もハルビンとほぼ同じくらいでマイナス20℃前後です。その後は遼寧省瀋陽に移動。瀋陽では政府機関との会議、石塚総領事との面談を行いました。瀋陽は比較的暖かくマイナス6℃ぐらいでした。瀋陽の後は大連で富山県大連事務所を訪問、ここは0℃前後で比較的暖かく感じました。帰国日前日は土曜日だったので、大連漢墓博物館を見学しました。

 

中国で漢の時代というと、BC206年からAD2年の前漢(西漢)、AD25年からAD220年までの後漢(東漢)の合わせて400年ほどの時代を指します。後漢の後が日本で有名な三国時代になるわけです。その前漢から後漢にかけての古墳遺跡がこの大連で多く見つかっているのです。一般的にはこの時代の遺跡の多くは河南省(鄭州、洛陽など)や陝西省(西安など)など中原地域に多くみられることは知られていますが、この極寒の地域にこうした遺跡が多く見つかっているとは思いもよりませんでした。実は大連に長く暮らしている中国人でもあまりこのことは知られていないようです。確かに来館者はほとんどいませんでした。ちなみに入場料は無料です。

 

大連でも郊外の営城子という辺りでたくさん古墳が見付かっていて、博物館はその古墳を展示する形で建てられています。近くには壁画が残っている古墳もありましたが、対外的には公開していないので、今回は残念ながら見ることはできませんでした。

 

墓の形体は、最初は貝殻を使って棺を作る「貝墓」、これは貝殻が湿気を吸って遺体を腐らせない作用があるそうです。その後は煉瓦を使った「磚墓」、そして石板を使った「石板墓」と変遷していきます。大連は海に近いので湿気が多く、貝殻も集めやすかったので貝墓が作られたのは分かります。磚墓や石板墓へと変遷していったのは、はやり中原の影響を受けてきたのかもしれません。

 

今回の出張は仕事もさることながら、歴史的にも興味をそそられる出張となりました。次回からはまた江戸の暦のお話しに戻りたいと思います。

 

高見澤

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