おはようございます。今朝の東京は比較的暖かく、過ごしやすい朝でしたが、明日からはまた寒くなるようです。
さて、本日からはまた江戸の暦に話題を戻していきたいと思います。
貞享2年(1685年)に採用された日本最初の和暦「貞享暦」ですが、その後、西洋天文学を取り入れた暦法を採用したいと考えた八代将軍徳川吉宗の命を受け、幕府天文方であった西川正休や渋川則休らによって改暦の準備が進められます。しかし、改暦の準備の過程で吉宗が急死したことで、改暦の作業が朝廷の陰陽頭の土御門泰邦に主導権を握られてしまいます。その結果完成した暦法が「宝暦暦」でした。
この宝暦暦が採用されたのは宝暦5年(1755年)です。しかし、その採用から8年後の宝暦13年9月1日(1763年10月7日)の日食を、他の多くの民間の天文学者が予想していたにもかかわらず、宝暦暦が外してしまうという失態を犯し、世間の批判を受けます。このため幕府は明和元年(1764年)に佐々木文次郎に補暦御用を命じて明和8年(1771年)から修正宝暦暦が採用されることになります。
ところが、この急遽修正が加えられた宝暦暦も安永2年(1773年)、安永4年(1775年)、天明6年(1786年)に置閏法の原則としてあってはならないとされていた「中気のない閏月」が発生するなどの不具合も少なくなく、日本中で様々な不満が続出してしまいます。この貞享暦から宝暦暦及び修正宝暦暦への改暦は、貞享暦の暦元の値を少し変えたただけの新味のないものであり、しかも貞享暦よりも劣った暦法であったと言えます。
こうして修正宝暦暦に対する改暦の機運が高まっていくことになり、幕府は当時評判の高かった天文学者の高橋至時や間重富らの民間学者に協力を依頼し改暦を進めることになりました。こうして完成したのが寛政10年(1798年)から採用される「寛政暦」です。
高見澤