2020年12月アーカイブ

おはようございます。今年も残すところあとわずかとなりました。コロナに翻弄された1年で、特に何かをしたわけでもないのですが、何かと忙しい日々を過ごしていました。その一方で、人々の知らない間に世の中は大きく変わり、昭和を彩ってきた人たちもこの世を去っていきました。これまでの常識が常識でなくなり、非常識が常識となる時代へと突入し、そうした感覚に着いていけない人たちはどんどん淘汰されていきます。その一方で、これまで地道な努力を続け、時代の流れをみながら冷静に対処してきた人たちは頭角を現してくることでしょう。悪しきスパイラルに向かう人と、好きスパイラルに入る人の差はどんどん広がるばかりです。さて、来年はそれがはっきりと目に見えてくるものと思います。ローマは1日にしてならず、後悔先に立たず! その時になって慌ててもすでに遅し! 本日の瓦版は本年最後になります。皆様、よいお年をお迎えください。

 

さて、本日は「穴八幡宮(あなはちまんぐう)」について紹介したいと思います。穴八幡宮は東京都新宿区西早稲田に鎮座する神社で、前々回紹介した赤城神社とともに牛込の総鎮守とされています。かつては高田馬場の守護神として「高田八幡宮(たかだはちまんぐう)」とも呼ばれていました。

 

康平5年(1062年)、源義家は父・頼義とともに前九年の役にて奥州の安倍氏を滅ぼします。その凱旋の折、日本武尊命(やまとたけるのみこと)の故事にならって、この地に兜と太刀を奉納し東北鎮護の社として八幡神を祀ったのが、穴八幡宮の始まりとされています。義家は頼義の嫡男として「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)」(京都府八幡市)で元服したことから、「八幡太郎(はちまんたろう)」とも称されています。

 

江戸時代の寛永18年(1641年)、「社守の庵」(当宮を管理する別当寺の放生会寺)を造営するために南側の山裾を切り開いたところ横穴が見つかり、そこから八幡神の本地仏である金銅の阿弥陀如来像が出てきます。これを瑞祥の神穴とし、穴八幡宮と称されるようになったとのことです。幕府祐筆であった大橋龍慶(おおはしりゅうけい)は方百間の地を献じ、壮大な社殿を造営し、この頃から神木の松が瑞光を放つなど奇瑞が生じたことから、三代将軍・徳川家光は穴八幡宮を江戸城北の総鎮守として総営繕を命ぜられました。

 

慶安元年(1648年)の社殿再興の際には、幕府から氏子として牛込郷三十六ケ町が定められ、翌慶安2年(1649年)には8,800坪を超える境内に社殿をはじめとする数々の殿舎が櫛比します。将軍家祈願所としての規模も整って、これ以降江戸屈指の大社として重んじられていきました。その後も幕府によって何度も造営・修繕が行われ、特に元禄16年(1703年)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めていたそうです。

 

享保13年(1728年)、八代将軍・吉宗は、世嗣(後の九代将軍・家重)の疱瘡平癒祈願のために穴八幡宮に流鏑馬を奉納します。この流鏑馬の奉納は将軍家の世嗣誕生や厄除け祈願として、その後も続いていきました。この将軍家の逸話から江戸庶民にも信仰が広がり、特に「虫封じ」の御利益があるとして人気を集めました。

 

安政元年(1854年)の青山火事によって社殿などが類焼し、幕府から造営料等が奉納されますが、幕末の混乱と物価高騰によって仮社殿のまま明治維新を迎えます。その後、昭和初期に旧事に盛観に復するものの、太平洋戦争で羅災します。しかし、戦後はいち早く仮社殿により再興し、現在は平成10年(1998年)に竣工した江戸権現造りの慶安・元禄当時を偲ぶ姿になっています。

穴八幡宮では、毎年、冬至から節分までの季節限定の「一陽来復御守」の授与が行われます。古来中国では、四書五経の一つ『易経』に基づいて6つの陰陽の数で旧暦月を表しています。「一陽来復(いちようらいふく)」の「一陽」は冬至を表す言葉で、6つすべてが陰となる旧暦10月から、冬至のある旧暦11月は陽が一つ現れることからそう呼ばれます。冬至には太陽の力が最も弱まり、その後回復していくから「来復」というわけです。これからは良い方向に向かうというポジティブな意味合いを持った言葉です。

 

穴八幡宮の名称の由来となった神穴は、一般公開されていませんが「出現殿」として今でも残っています。一説には穴八幡宮が鎮座する小高い丘は前方後円墳ではないかともいわれています。

おはようございます。コロナウイルスに始まり、コロナウイルスに終わる1年となった今年ですが、世界のトレンドも大きく変わろうとしています。学者によってはトレンドが変わるのではなく、これまでの流れがより先鋭化しただけとの見方のありますが、先鋭化したことがトレンドの変化だとも言えなくもありません。米国をはじめとする欧米先進国の凋落と、中国をはじめとする新興国の台頭が、よりはっきりと見えてくるようになりました。欧米先進国と新興国との狭間で、今後日本はどう立ち回ればよいのでしょうか。

 

さて、本日は「神楽坂(かぐらざか)」について紹介していきたいと思います。神楽坂は東京都新宿区の牛込地域西南部に位置する坂、及びその坂を中心とした地名です。内堀通りの田安門付近から北に入る早稲田通りの神楽坂下交差点(外堀通り交差点)から神楽坂上交差点(大久保通り交差点)までの短い区間で、比較的急な坂となっています。現在は神楽坂通りと呼ばれています。

 

この神楽坂は江戸時代以降に発展した街で、三代将軍・徳川家光の時代に牛込御門(九段坂下交差点付近)と若狭小浜藩酒井家下屋敷(東京メトロ東西線・神楽坂駅付近)を結ぶ形で開通しました。江戸幕府開府以降、この一帯には幕府旗本の武家屋敷や寺社が多く配置されていきましたが、もともとは町屋が多く存在していたそうです。江戸城の外堀が開削された際に「神楽坂河岸が設けられ、そこが水運の物流拠点となり、後の神楽坂の発展につながっていきました。八代将軍・吉宗の時代には、政治顧問であった荻生徂徠や戯作者の太田南畝などが牛込地域に住み、毘沙門天善国寺が麹町から神楽坂に移転してくると、寅の日の縁日には大いに賑わっていたそうです。また、行元寺や赤城神社の周りでは岡場所としても知られるようになりました。

明治維新以降は、武家屋敷から官庁の役人や企業の社員の居住地となり、神楽坂沿いには商店が立ち並び、東京で最初の夜店がこの地から生まれました。行元寺の岡場所は花街へと発展し、尾崎紅葉、夏目漱石、坪内逍遥など近代文学の祖と言われる文人たちが住むようになっていたことは、すでの紹介した通りです。大正12年(1923年)の関東大震災では被害はなかったものの、昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼け野原になってしまいます。戦後、神楽坂の花柳界はいち早く復興し、昭和30年代にはピークを迎えました。現在は、独特の江戸の風情を残す取り組みが行われ、格式高そうな料亭やお洒落なレストランなどで賑わっています。

 

神楽坂の名称の由来については、高田穴八幡の旅所があって祭礼で神輿が通る際に神楽を奏したという説、若宮八幡の社の神楽の音がこの坂まで聞こえたからという説、元和年間(1615年~1624年)に津久戸明神が牛込の地に移転した時に神楽を奏でると重い神輿がこの坂を上ることができたからという説があります。いずれにせよ、神楽坂の名称が付けられたのは、江戸時代初期のことと思われます。

 

神楽坂は一方通行の通りですが、時間によってその方向が変わる全国でも珍しい「逆転式一方通行」の道路です。午前中は早稲田側の坂上から飯田橋側の坂下に下る一方通行で、午後はその逆に坂下から坂上に上る一方通行となります。この方式が採用された理由として、故田中角栄元首相が目白台の自宅と勤務地である永田町との間の出勤(午前)と退勤(午後)に便宜を図ったからだという説がありますが、これはタクシー運転手の間で広められた都市伝説だそうです。実際は、車の交通量の増大に伴う大渋滞を緩和するために採用された措置とのことです。

おはようございます。早いもので、今夜はクリスマス・イヴです。クリスマス・イヴというと、日本ではクリスマスの前夜というように捉えている人が多いと思いますが、実はクリスマス当日でることを知っている人はどのくらいいるのでしょうか。一般の暦では、1日の始まりは午前0時ですが、イエス・キリストが使っていたユダヤ暦とそれを継承している教会暦では、1日の始まりを日没としており、教会暦の1225日は一般の暦の1224日の日没から始まるので、24日の夜はイエス・キリストの誕生した25日に属するというわけです。

 

さて、本日は「赤城神社(あかぎじんじゃ)」について紹介しようと思います。赤城神社は東京都新宿区赤城元町にある牛込総鎮守の神社で、上野国赤城神社の分霊を祀っています。祭神は磐筒雄命(いわつつおのみこと)、相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)が祀られています。境内には赤城出世稲荷神社、蛍雪天神、八目神社、葵神社があります。

 

鎌倉時代も終わりに近づく後伏見帝の御代の正安2年(1300年)、前回の牛込のところで紹介した上野国赤城山麓大胡の豪族・大胡彦太郎重治がこの地に移住した際、上野国赤城神社の分霊を勧請して早稲田鶴巻町に創建されました。最初に創建された場所は、現在は「元赤城神社」となっており、寛正元年(1460年)に太田道灌持資によって牛込見附近くへと遷座されます。その際、里人が旧地に元赤城大明神として祀ったのが、現在の元赤坂神社です。その後、弘治元年(1460年)に牛込氏を名乗った大胡宮内少輔が現在の場所に移したと言われています。

ushigome03.jpg 

江戸時代、五代将軍・徳川綱吉の頃の天和3年(1683年)、徳川幕府は江戸大社の列に「赤城明神社」を加え牛込郷の総鎮守とし、日枝神社、神田明神とともに「江戸の三社」と称されました。江戸末期の天保13年(1842年)に大火により社殿を含む施設が全焼します。翌年から再建に着手しますが、再建途中であった安政2年(1855年)の大地震なども重なり、社殿が復興したのは慶応元年(1865年)のことでした。明治維新以降は、郷社に列格しますが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失、最終的に再建されたのは昭和34年(1959年)のことでした。

おはようございます。先週は割と忙しく、瓦版の更新もままなぬまま、1週間が過ぎてしまいました。今日は冬至です。昨日は、東京と北京をオンラインで結んで「日中省エネ・環境総合フォーラム」が開催されました。東京会場は都内のホテルで梶山経済産業大臣や日中経済協会の宗岡会長が出席するなか、200名ほどが直接会場で参加したほか、ネット中継でも多くの人が聴講していました。コロナ禍で直接の交流が制限されており、こうしたオンライン形式での交流が新たなツールとして活用するため経験を積み重ねるよい機会になったかもしれません。もちろん、直接会って交流するに越したことはありません。

 

さて、 本日は「牛込(うしごめ)」について紹介しようと思います。牛込は東京都新宿区の北東部に位置する地名で、神楽坂や市谷、早稲田がこの牛込地域に属しています。牛込と言えば、お台場に移転する前のフジテレビが牛込郵便局内に私書箱を持っており、その案内を全国に向けて発信していたことから、長野県の田舎で育った私でも馴染みのある名称ではありました。

 

大宝元年(701年)に、大宝律令によって武蔵国に「神崎牛牧(かんざきぎゅうまき)」という牛の牧場が設けられ、飼育舎である「乳牛院(にゅうぎゅういん)」がこの地に建てられたそうです。東京都内には、「駒込(こまごめ)」や「馬込(まごめ)」といった馬にまつわる地名が残されており、こうした場所が馬の牧場であったとされていることから、牛込の地名はここに由来があるのではないかと言われています。

 

ただ、文献に残る牛込の地名の初見は北朝の歴応3年(1340年)に、室町幕府が「武蔵国荏原郡牛込郷闕所(けっしょ)」を江戸氏に預け置くとする内容の文書だそうです。それ以前の正安2年(1300年)に上野国の赤城山麓にある大胡の豪族・大胡彦太郎重治がこの地に移り住んだとの説が、牛込にある赤城神社に残されています。大胡氏は後に牛込の姓を名乗ることになりますが、この頃でもこの地では牛の飼育が盛んであったことは間違いないようです。

 

もともと関東管領の上杉氏の家臣であった大胡氏ですが、大胡重行の時代に北条氏康の家臣へと鞍替えをします。大永6年(1526年)頃に重行は氏康から武蔵国牛込から日比谷辺りにかけての領地をあてがわれ、息子の勝行が移封してきます。牛込氏を名乗るようになったのはこの頃で、天文24年(1555年)頃に勝行は牛込城を築いて居城としました。この城は牛込の高台にあり、領地を一望できるのと同時に、江戸湊に出入する船が監視できたと言われています。

北条氏滅亡後、徳川家康の江戸入府とともに牛込城は廃止されます。正保2年(1645年)、その跡地に神田光照寺が移転してきました。現在、その牛込城の遺構は一切残っていません。江戸時代の牛込地域は大名や旗本の武家屋敷が集中していたほか、町屋も少なからず形成されていました。伝統ある山の手の住宅街で、狭い路地などは今でも昔の姿が残っています。近代以降は夏目漱石や尾崎紅葉などの作家・文化人が数多く住んでいました。

おはようございます。ここ東京都心でも朝晩はだいぶ冷え込むようになりました。新型コロナウイルスが広がる前は、毎年インフルエンザの予防接種が推奨されていたわけすが、正直なところ私自身は1回も受けたことはありません。北京駐在中も外国人がよく受診する医療機関に委託し、海外からワクチンを取り寄せて接種するよう職場が手配し、そのコストも職場負担になっていたにもかかわらず、受けませんでした。ですが、それでもインフルエンザに罹った兆候もなければ、熱を出して寝込んだことはありません。逆に予防接種を受けた人がインフルエンザに罹患するというハプニングもありました。何が正しくて何が間違っているのか、よく分からない世の中になりました。

 

さて、本日は「四谷怪談(よつやかいだん)」について紹介したいと思います。四谷怪談は、元禄時代(1688年~1704年)に実際にあったとされる事件を基に創作された怪談話です。四谷怪談と言えば、鶴屋南北が書いた歌舞伎狂言の『東海道四谷怪談』が有名で、これが江戸中村座で初めて演じられたのが文政8年(1825年)のことです。ただ、それ以前には文化3年(1806年)の曲亭馬琴による『勧善常世物語(かんぜんつねよものがたり)』や文化5年(1808年)の柳亭種彦(りゅうていたねひこ)による『近世怪談霜夜星(きんせいかいだんしもよのほし)』などの作品があることから、『東海道四谷怪談』はこれらの作品を基にして書かれたのではないかと言われています。

 

現在の新宿区四谷左門町には、四谷怪談に所縁のある「御岩稲荷田宮神社」と「御岩稲荷陽運寺(よううんじ)〔通称:御岩稲荷〕」が道を挟んであります。この田宮神社は田宮家の跡地とされ、明治12年(1879年)に火災で焼失、中央区新川に移され、その後戦災で新川の田宮神社が焼失したのちに、戦後新川に再建されるのと同時に、四谷左門町にも再興されました。一方の陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院で、境内には「お岩様縁の井戸」や「お岩様縁の祠」があったと伝えられています。

 

こうした事実をみれば、『東海道四谷怪談』の舞台があたかも四谷左門町にあったかと思うのですが、実はその舞台は雑司ヶ谷四谷町という場所で、現在の豊島区雑司ヶ谷とされています。これがなぜ四谷左門町に所縁のある神社や寺院が建てられたのかといえば、お岩様の父親が赤穂藩士(塩冶藩士)の「四谷左門」という実在の人物だったとされ、その屋敷が今の左門町にあったとのことから、ここにお岩様が祀られたものと思われます。この四谷左門が『東海道四谷怪談』に登場するお岩様の父で、御先手鉄砲組同心の「田宮又左衛門」という設定です。

 

又左衛門の一人娘の岩は容姿性格ともに難があり、婿を迎えることがなかなかできないことから、浪人の伊右衛門を半ば騙した形で田宮家の婿養子として迎え岩を妻にします。しばらくして伊右衛門は上司の与力・伊藤喜兵衛の孫・梅に惹かれ、伊右衛門は喜兵衛と結託して岩を騙して付議密通の罪をきせて田宮家から追い出しにかかるます。毒を盛られて容貌が崩れた岩は狂乱して死に、付議密通の相手も伊右衛門の手によって殺され、岩の死体と一緒に戸板にくくりつけて川に流します。その後、田宮家には不幸が続き、伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられ狂乱して、非業の死を迎えるというストーリーです。

『東海道四谷怪談』が初めて演じられた2年後の文政10年(1827年)に町年寄の孫右衛門と茂八郎が幕府に提出した調査報告書『文政町方書上(ぶんせいまちかたかきあげ)』には、『東海道四谷怪談』を基に作られたと思われる「御岩稲荷由来書上」が記されています。四谷左門町に伝わる逸話として記されたもので、同じような話が書かれています。この話の時代設定は貞享年間(1684年~1688年)で、岩は発狂して失踪、その後岩の祟りにより伊右衛門を含む18人が非業の最後を遂げ、田宮家は断絶するというものです。

 

実際には、田宮家は現在まで続いており、田宮家に伝わる話としては、同家所縁の女性の失踪事件が怪談として改変され、当時話題となった不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという話や、以前瓦版でも紹介した砂村隠亡堀に心中者の死体が流れついたとの話なども加味されて、怪談話として仕上げられたということでしょう。

 

『東海道四谷怪談』の「東海道」については諸説あり、この怪談話が忠臣蔵と関連した話に仕上げられていることから、赤穂と江戸とをつなげたイメージを持たせたとか、藤沢の四谷という地名を表向きとして見せかけたとかの、よく分からない解説がみられます。余談ですが、歌舞伎や演劇などで「四谷怪談」を演じる際に、御岩稲荷陽運寺にお参りしておかないと何らかの事故が起きるとの噂があります。これがお岩様の祟りだということなのでしょうが、創作話の主人公が祟るというのも理解を超えた世界の話です。

 

ちなみに、『東海道四谷怪談』が文政8年に初めて演じられた日が7月26日だったそうで、この日は「幽霊の日」とされているとのことです。

おはようございます。日本政府が鳴り物入りで始めたGoToキャンペーンも、コロナ感染の観点から有識者より中断すべきとの意見が出されています。感染症は人の移動や人と人との接触により拡大することは、科学的にも証明されているわけですから、今さらGoToが感染症を拡大したことを否定する非現実論者はいないと思いますが、それでも政府はGoToをやめる気はありません。感染者の拡大が広がる中、政府は再び緊急事態宣言を出すつもりはないようですが、それでは今年3月から5月にかけて出した緊急事態宣言はいったい何だったんでしょうか。感染者数も死者数も欧米と比べてかなり低い日本ですが、コロナ感染の本当の実態が分からないまま、はや1年が過ぎようとしています。

 

さて、本日は「四谷(よつや)」について紹介しようと思います。四谷は現在の東京都新宿区にある地名で、以前は四谷区という行政区がありましたが、今は四谷一丁目から四丁目の町名として残っています。また、JR東日本や東京メトロの駅名としては「四ツ谷」と表記されています。

 

四谷地区の北側は新宿区の牛込地区、西側は新宿地区に接し、南側は港区の元赤坂地区、東側は千代田区の麹町地区となっています。東宮御所や迎賓館、新宿御苑、明治神宮外苑などにも近く、麹町の山の手から続く格式のある地域とも言えるでしょう。

 

江戸時代以前、四谷は後の内藤新宿辺りまでを含めて「潮踏の里(しおふみのさと)」、あるいは「潮干の里(しおほしのさと)」、「よつやの原(よつやのはら)」などと呼ばれるすすき原であったと言われています。今でも新宿区若葉二丁目には「観音坂」と呼ばれる坂があり、その別名が「潮踏坂(しおふみざか)」、「潮干坂(しおひざか)」、「西念寺坂(さいねんじざか)」と言われるそうです。

 

文献上で「よつや」の言葉が初めて登場するのは天正18年(1590年)に内藤清成が記した『天正日記』です。清成がこの地域を調査するために派遣した家臣の道案内をしたのが角筈村(つのはずむら)〔現在の新宿区西新宿から歌舞伎町辺り〕の関野五郎兵衛で、別名「よつや五郎兵衛」と呼ばれていたのですが、この「よつや」が何を意味していたのかは不明だそうです。これが四谷の名前の由来かは分かりませんが、一般的には次の二つの説があるようです。

 

一つは梅屋、木屋(久保屋)、茶屋、布屋の4軒の茶屋がこの地域にあったため、「四ツ屋」あるいは「四ツ家」が「四谷」なったとする説です。もう一つは「千日谷(せんにちだに/せんにちや)」、「茗荷谷」、「千駄ヶ谷」、「大上谷(おおかみだに)」の4つの谷、或いは「紅葉川渓谷」、「鮫河谷」、「渋谷川渓谷」、「蟹川渓谷」の4つの渓谷から名付けられたという説です。前者は、4軒の茶屋が出そろうのは元和年間(16151624年)のことで、江戸時代以前から使われていたという説明ができないし、谷や渓谷をわざわざ4つとする意味が分からないので、この二つの説はいずれも定説とはされていません。

江戸時代、徳川家康が甲州街道と青梅街道を整備した際に、江戸の境として「四谷大木戸」を設置したことは、すでに瓦版でも紹介したところですが、これが地名として使用された最初だとされています。今でも東西に伸びる靖国通りや新宿通りなどがあり、南北には外堀通り、外苑東通り、外苑西通りなどが整備されていますが、昔からこの四谷は交通の要所とされてきました。

 

寛永11年(1634年)、江戸城の北西側に外堀を作ることになり、麹町にあった寺社の多くが四谷地区に移転します。現在でも須賀町や若葉一帯には多くの寺院がみられるのは、その頃の名残だそうです。寛永13年(1636年)に外堀が完成し、併せて警備のための城門として「四谷見附」が設けられました。寺院の周辺には商人や職人が居住して門前町が形成され、明暦3年(1657年)の明暦の大火を機に、四谷地域に移り住んだ人も少なくなかったようです。こうして四谷地域も次第に江戸市中に組み込まれていくことになります。

おはようございます。今日は二十四節気のうちの一つ、大雪です。今の東京では、そう雪が多く降るわけではありませんが、それでも時々雪に見舞われて交通がストップすることがあります。我が家はマンションで置いておく場所もないので、スタッドレスタイヤは持っていません。毎年、正月に長野の実家に帰郷する際には天候をみながら、関越道を走るようにしています。通常は中央道を行くのが近いのですが、清里越えの国道141号線は凍結の危険性があるので避けています。ただ、今年は感染症防止ということで帰省は避け、東京で静かに過ごすことになりそうです。

 

さて、本日は「霞が関(かすみがせき)」について紹介しようと思います。霞が関は東京都千代田区南部にある地名で、地域的には麹町地域に属します。日本の行政組織の庁舎が建ち並び、中央官庁や官僚組織全体、或いは特に外務省を指す代名詞として使われることもあります。

 

地理的には北に皇居、東に日比谷公園があり、南は虎ノ門(港区)、西は永田町(千代田区)に接しています。西から東に向かってなだらかな傾斜となっています。永田町は海抜20メートルの高台ですが、日比谷辺りはもともと江戸湾だったこともあり1メートル前後の低地になっています。

 

「徒らに名をのみとめて あづま路の霞の関も春ぞくれぬる」

 

貞治3年(1364年)に編纂された『新拾遺和歌集』に詠まれた歌ですが、これが現在の霞が関を詠ったものだとの解釈もあり、中世には既に霞が関は東国の名所として知られていたようです。確かに、鎌倉時代には奥州古街道の要所として関名にもなっており、江戸時代へとつながっていきます。また、霞が関の名称については、古代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷の襲来に備えて、大和(やまと)からはるか雲霞(うんか)を隔てたこの地に関所を設けたことから付けられたとの説があります。平安時代には歌枕の地として多くの和歌にも詠まれています。

江戸時代に入ると、江戸城の守りの要の地域として、黒田氏、浅野氏、上杉氏など有力大名の屋敷が建ち並びます。主に外様大名の上屋敷が多かったようです。明治時代に入り、筑前福岡藩黒田氏の屋敷跡に外務省が置かれたことをきっかけに、中央官庁の集中計画が持ち上がります。予算の関係で当初はうまく事が運ばなかったものの、少しずつ体裁が整い、次第に現在の形が形成されていきました。昭和43年(1968年)竣工の日本初の超高層ビル「霞が関ビル」があるのもこの霞が関です。

おはようございます。だいぶ寒くなりました。二十四節気の小雪の時期が過ぎ、来週月曜日12月7日からは大雪の時期になります。やっと冬らしい寒さになったのですが、気温と湿度の低下で新型コロナウイルスやインフルエンザの感染拡大が懸念されているところです。現在の日本の感染症対策を含むすべての政策が科学的根拠ではなく、政治的配慮が最優先されていることに不安を覚えるばかりです。経済を回すことと国民の健康を守ることは、本来は両立するものなのですが、現在の貨幣経済の下では矛盾するものとなっています。

 

さて、本日は「九段(くだん)」について紹介しようと思います。九段は東京都千代田区の北西部に位置する地域で、麹町台地から下町に下る「九段坂(くだんざか)」にその地名の由来があります。現在は九段北1~4丁目及び九段南1~4丁目という行政区分になっていますが、駅名や交差点名に使われている九段下や九段上、或いは九段坂下や九段坂上といった呼称の方が親しみやすいかもしれません。

 

江戸時代、九段坂はその名の通り9段の石垣を築き、9層の階段式の道路になっていました。現在よりも急勾配で徒歩でしか通行できなかったようで、これが明治期に階段をなくして坂道になりました。この坂に沿って、「九段屋敷」と呼ばれる江戸城に勤める役人のための長屋が置かれていました。

 

古くは「飯田町坂」、「飯田坂」などとも呼ばれ、九段坂上からの眺望は素晴らしく、江戸湾はもとよりその先の房総半島まで見渡せることができたそうです。ただ、当時の九段坂は牛ヶ淵(うしがふち)の崖っぷちを通る細い道で、その一本北側を登る「中坂(なかざか)」の方が広く、町屋が建ち並ぶ賑やかな通りだったようです。

 

江戸初期からこの辺りは「元飯田町(もといいだまち)」と呼ばれ、戯作者の曲亭馬琴も住んでいたことがあり、彼が硯を洗ったといわれる井戸が残っています。また、幕府が江戸末期に設けた洋学研究機関の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)などもあったようです。

現在は九段坂沿いに靖国神社があります。毎年3月下旬には桜が満開を迎え、道を挟んだ江戸城北の丸の田安門から千鳥ヶ淵辺りまでは多くの花見客で賑わいます。また、北の丸にある武道館では有名校の卒業式・入学式が行われています。

おはようございます。今年も残すところ1カ月を切りました。コロナで翻弄された1年で、特に何かをしたわけでもなく過ぎてしまったのですが、それでも多忙な毎日でした。文章の執筆も多かったのですが、職場内の月刊誌への寄稿やセミナーの資料作成がほとんどで、講演会やセミナーの開催は全体的に自粛ムードだったようです。我が職場でも会場でのリアル開催はなく、ネットを使ったオンライン開催がほとんどでした。移動が制限され、自由に渡航ができない社会になるとは、1年前は誰も想像し得なかったでしょう。これからも、こうした想定外の現象が続くのかもしれません。不確実性の時代です。

 

さて、本日は「番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)」について紹介しようと思います。そもそも「皿屋敷」というのは、恨みを抱いて死んだお菊の亡霊が夜な夜な井戸で「一枚、二枚...」と皿を数えて屋敷の住人に恐怖を覚えさせる怪談話で、番町のほか播磨国姫路の「播州皿屋敷」、出雲国松江の皿屋敷、土佐国幡多郡の皿屋敷など、全国各地に類似の話が伝わっています。

 

これらの話は、江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃、講談などの題材として演じられ、人々に広く知られるようになりました。明治時代には、さらに手が加えられ怪談として新たに発表されます。そして大正時代には、番町皿屋敷は岡本綺堂により恋愛悲劇の戯曲として仕立て直されています。今ではよく知られた皿屋敷の話ですが、その話の原型は室町時代末期まで遡るとの説もあります。ただ、実態はよく分かっていません。

 

江戸においても各地で皿屋敷の話がみられますが、最も広く知られているのはやはり番町皿屋敷でしょう。この話の元となったのは講釈師・馬場文耕が宝暦8年(1758年)に発表した『皿屋敷弁疑録』と言われています。

 

牛込御門内五番町の一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があり、そこにお菊という下女が奉公していました。承応2年(1653年)正月2日、お菊は主膳が大切にしていた皿10枚のうち1枚を割ってしまい、主膳は皿一枚の代わりにお菊の中指を切り落とした上、手打ちにしようとします。お菊は監禁場所から抜け出し古井戸に身を投げてしまいます。間もなく夜ごとに井戸から「一枚、二枚...」と皿を数える声が屋敷中に響き渡るようになり、その後、主膳の奥方が生んだ子の右手に中指がなかったといいます。やがてこの話が公儀に伝わり、主膳は領地を没収されます。その後も亡霊の声が続くことから、幕府は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の依頼をし、お菊の霊を鎮めたという話です。

もちろんこの話はフィクションです。火付盗賊改の役職が設けられたのは寛文2年(1662年)で、青山主膳という火付盗賊改は存在しません。また、了誉上人は応永27年(1420年)に亡くなった人物です。そして、やがて怪談話から悲恋物語として岡本綺堂によって創作し直されるのが大正5年(1916年)のことですが、江戸時代に番町皿屋敷の怪談話が広まったのは、当時の庶民の生活の豊かさと文化・教養の高さがあったからではないでしょうか。

2021年2月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28            

このアーカイブについて

このページには、2020年12月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2020年11月です。

次のアーカイブは2021年1月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ