東藝術倶楽部瓦版 20201210:【江戸の町その48】寺院の移転によって門前町が形成「四谷」

おはようございます。日本政府が鳴り物入りで始めたGoToキャンペーンも、コロナ感染の観点から有識者より中断すべきとの意見が出されています。感染症は人の移動や人と人との接触により拡大することは、科学的にも証明されているわけですから、今さらGoToが感染症を拡大したことを否定する非現実論者はいないと思いますが、それでも政府はGoToをやめる気はありません。感染者の拡大が広がる中、政府は再び緊急事態宣言を出すつもりはないようですが、それでは今年3月から5月にかけて出した緊急事態宣言はいったい何だったんでしょうか。感染者数も死者数も欧米と比べてかなり低い日本ですが、コロナ感染の本当の実態が分からないまま、はや1年が過ぎようとしています。

 

さて、本日は「四谷(よつや)」について紹介しようと思います。四谷は現在の東京都新宿区にある地名で、以前は四谷区という行政区がありましたが、今は四谷一丁目から四丁目の町名として残っています。また、JR東日本や東京メトロの駅名としては「四ツ谷」と表記されています。

 

四谷地区の北側は新宿区の牛込地区、西側は新宿地区に接し、南側は港区の元赤坂地区、東側は千代田区の麹町地区となっています。東宮御所や迎賓館、新宿御苑、明治神宮外苑などにも近く、麹町の山の手から続く格式のある地域とも言えるでしょう。

 

江戸時代以前、四谷は後の内藤新宿辺りまでを含めて「潮踏の里(しおふみのさと)」、あるいは「潮干の里(しおほしのさと)」、「よつやの原(よつやのはら)」などと呼ばれるすすき原であったと言われています。今でも新宿区若葉二丁目には「観音坂」と呼ばれる坂があり、その別名が「潮踏坂(しおふみざか)」、「潮干坂(しおひざか)」、「西念寺坂(さいねんじざか)」と言われるそうです。

 

文献上で「よつや」の言葉が初めて登場するのは天正18年(1590年)に内藤清成が記した『天正日記』です。清成がこの地域を調査するために派遣した家臣の道案内をしたのが角筈村(つのはずむら)〔現在の新宿区西新宿から歌舞伎町辺り〕の関野五郎兵衛で、別名「よつや五郎兵衛」と呼ばれていたのですが、この「よつや」が何を意味していたのかは不明だそうです。これが四谷の名前の由来かは分かりませんが、一般的には次の二つの説があるようです。

 

一つは梅屋、木屋(久保屋)、茶屋、布屋の4軒の茶屋がこの地域にあったため、「四ツ屋」あるいは「四ツ家」が「四谷」なったとする説です。もう一つは「千日谷(せんにちだに/せんにちや)」、「茗荷谷」、「千駄ヶ谷」、「大上谷(おおかみだに)」の4つの谷、或いは「紅葉川渓谷」、「鮫河谷」、「渋谷川渓谷」、「蟹川渓谷」の4つの渓谷から名付けられたという説です。前者は、4軒の茶屋が出そろうのは元和年間(16151624年)のことで、江戸時代以前から使われていたという説明ができないし、谷や渓谷をわざわざ4つとする意味が分からないので、この二つの説はいずれも定説とはされていません。

江戸時代、徳川家康が甲州街道と青梅街道を整備した際に、江戸の境として「四谷大木戸」を設置したことは、すでに瓦版でも紹介したところですが、これが地名として使用された最初だとされています。今でも東西に伸びる靖国通りや新宿通りなどがあり、南北には外堀通り、外苑東通り、外苑西通りなどが整備されていますが、昔からこの四谷は交通の要所とされてきました。

 

寛永11年(1634年)、江戸城の北西側に外堀を作ることになり、麹町にあった寺社の多くが四谷地区に移転します。現在でも須賀町や若葉一帯には多くの寺院がみられるのは、その頃の名残だそうです。寛永13年(1636年)に外堀が完成し、併せて警備のための城門として「四谷見附」が設けられました。寺院の周辺には商人や職人が居住して門前町が形成され、明暦3年(1657年)の明暦の大火を機に、四谷地域に移り住んだ人も少なくなかったようです。こうして四谷地域も次第に江戸市中に組み込まれていくことになります。

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このページは、システム管理者が2020年12月10日 09:34に書いたブログ記事です。

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