2018年9月アーカイブ

 

おはようございます。今週も始まったかと思ったら、今日はすでに金曜日。時の経つのも速いですね。今朝の東京は昨日とうって変わって太陽が顔をのぞかせています。とはいえ、週末から来週初めにかけては、また台風が日本列島を縦断しそうな勢いです。台風、地震、火山噴火など自然災害は日本ばかりではありません。地球の怒りを人類はどう受け止めようとしているのでしょうか。

 

さて、本日は「諸問屋組合再興掛(しょとんやくみあいさいこうかかり)」について紹介したいと思います。前回、天保の改革で江戸市中の物価吊り上げの元凶との疑いで、江戸幕府から強制的に解散させられた株仲間等の諸問屋組合の話題について触れました。

 

その諸問屋組合が老中・水野忠邦の命令により解散させられたのが天保12年(1841年)12月のことです。しかし、前回も説明しましたが、実際に彼らが物価操作をしていたという証拠はなく、その疑いだけで解散させられたというのですから、商人たちにとってはたまったものではなく、却って混乱を招くことになりました。

 

天保の改革についても、別途詳細に紹介することにしますが、この改革が失敗すると、嘉永4年(1851年)2月に、老中・阿部正弘は制度改革を加えた上で諸問屋組合を復活させる「再興令」を実施します。この再興事務を担当したのが諸問屋組合再興掛でした。

 

再興事務を指揮する「諸問屋組合再興掛与力」の定員は南北奉行所それぞれ8騎、その配下に「諸問屋組合再興掛同心」が若干名いたそうです。この再興にあたっては、諸問屋組合再興掛のみならず、町年寄、諸色掛名主のほか、江戸町奉行も膨大な事務処理に係っていたことが『諸問屋再興調』に記録として残されています。

 

このほかにも、幕末に物価統制に係る役職として「諸色潤沢掛与力・同心」や「諸色値下掛与力・同心」などが設置されています。諸色潤沢掛は物資物価の充足に関する職務と思われ、また諸色値下掛は物価値下に関する職務だと思われますが、いずれも詳細は不明で、定員も分かっていません。

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨夜は激しく降っていた雨も、今朝の出勤時にはほとんどふっていなかったのですが、予報によれば午後過ぎまでは傘の手放せない状態が続くようです。今日ぐらいの涼しさであれば、私にとっては上着なしでちょうどよい感じです。

 

さて、本日は「市中取締諸色調掛(しちゅうとりしまりしょしきしらべがかり)」について紹介したいと思います。先ず「諸色(しょしき)」ですが、これは江戸時代において米を除く日常品の「物価」を指す言葉として使われていました。例えば、インフレによる物価高騰を「諸色高値(しょしきこうじ)、逆にデフレによる物価下落を「諸色下値(しょしきげじ)」と呼んでいました。

 

江戸時代において、一般に米の価格「米価」と諸色は連動するものと考えられていましたが、享保年間(1716年~1736年)には米の豊作にもかかわらず、諸色高値の現象が生じ、これは商人による不当な利益搾取が原因だとして、享保の改革(1716年~1745年)では強制的に価格引き下げを命じたようです。

 

続く寛政の改革(1787年~1793年)で、物価の監視を目的として江戸町奉行所に与力及び同心と町役人によって寛政2年(1790年)に設置されたのが「諸色掛(しょしきかかり)」です。天保の改革(1841年~1843年)では、物価吊り上げの元凶とされていた株仲間や問屋仲間・組合などが解散させられましたが、実際に彼らが物価操作をしていたという十分な証拠はなかったと言われています。

 

実際の物価調査は、江戸府内を21組に分け、それぞれの組の名主である「二十一組名主が行っており、その総監督を務めたのが「市中取締諸色調掛与力」で、その配下として「市中取締諸色調掛同心」がいました。定員は若干名ということで、特に定めはなかったようです。実際の職務は、江戸への物資流入の促進と物価引下げ等を目的とした物価、給金、手間賃などの調査を行うことでした。

 

北町奉行所が米の掛、南町奉行所が魚青物の掛と決まっていたようで、天保の改革以降、南北奉行所に置かれていた諸色に係る役職や定員は少しずつ変化していったようです。いつの時代でも、物価統制は難しい問題です。貨幣経済が続く限り、経済学の理論的矛盾は常に存在することになるのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日から降り始めた雨ですが、昨晩は一旦止み、今朝は小降りとなっている東京都心です。少しずつ肌寒くなっているようですが、私にとってはそれでもまだ暑いような気がします。とはいえ、靖国神社近くの銀杏並木から銀杏が落ちている光景を見ると、秋を感じる今日この頃です。

 

さて、本日は「養生所見廻り方」について紹介したいと思います。養生所とは、享保7年(1722年)12月に、小石川薬草園(現在の小石川植物園)内に設置された無料の医療施設である「小石川養生所」のことを指します。この小石川養生所については、改めて紹介したいと思います。

 

小石川養生所の設置は、「享保の改革」の下層民対策として行われた福祉政策で、養生所の運営費用は勘定奉行所勝手掛から拠出されており、勘定奉行所から勝手方という出納役が出張してきていました。とはいえ、養生所の管理は江戸町奉行所に任されていたので、その勝手方を監督する必要がありました。ちなみに、養生所の医師については若年寄支配となっていました。

 

養生所見廻り方は、「養生所見廻り与力」が南北奉行所それぞれ1騎で、勝手方の監督・監視のほか、随時養生所の巡見を行っていました。与力の下には、「養生所見廻り同心」がおり、定員は南北奉行所それぞれ2名で、養生所内の詰所で、交替で勤務を行っていました。

 

高見澤

 

おはようございます。2週間続けての3連休でしたが、皆さんは有意義に過ごせたでしょうか?気候的には比較的穏やかで、行楽に出かけた方も少なくなかったかと思います。私はといえば、さすがに連休のうちの1日ぐらいは身体を休ませていましたが、相も変わらず仕事に追われる毎日でした。先々週は土曜日に出張から帰国したので、実質的には2連休、この3連休も結局は一昨日、昨日と家でパソコンとにらめっこでした。

 

さて、本日からは江戸市中の治安維持の役職から離れて、役人の監視、市中の管理・監督といった行政機能について紹介していきたいと思います。今回、先ずは「町会所掛(まちかいしょかかり)」について紹介したいと思います。

 

寛政の改革を進めていた老中・松平定信は江戸市中の窮民救済と低利資金貸付のための積立金を設置します。幕府は天明5年(1785年)~寛政元年(1789年)までの江戸町費を調査し、これを基に節約できる町費の額を算定して、このうち7割を積み立て、江戸市民の救済に充てることとしました。これが寛政3年(1791年)に制定された「七分金積立(しちぶきんつみたて)」制度です。この時、幕府も2万両を与えて支援したとされています。

 

そして、この七分金積立による備荒貯蓄(飢饉や凶作に備えて米穀や金銭を貯蓄すること)や窮民救済、低利貸付を行う金融機関としての役割を担ったのが、寛政4年(1792年)に設置された「町会所(まちかいしょ)」で、場所は浅草向柳原(むこうやなぎはら)に設置されました。

 

この町会所の職員として働いていたのは、「座人(ざにん)」と呼ばれる地主が5人、座人の下ではたらく「座人手付(ざにんてつき)」と呼ばれる家主が6人、金銭の出納係りとして「用達(ようたし)」と呼ばれる勘定所用達商人が10人、そのほか「用達手代」や「肝煎名主」などがいました。

 

この町会所の職員を監督・管理していたのが、勘定奉行所と町奉行所の「町会所掛」です。「町会所掛与力」は南北町奉行所それぞれに2騎、「町会所掛同心」はそれぞれ4名が配置されていました。

 

高見澤

 

 

おはようございます。自民党総裁選も終わり、安倍首相が3期連続で総裁を続けることになりました。中国との間では、新聞報道によると10月にも安倍首相が訪中することで調整が行われているようで、それに合わせて行われる経済関係のイベントの準備も水面下で進んでいます。

 

さて、本日は江戸町奉行所の治安維持部隊として、幕末最後に設けられた「町兵掛」について紹介したいと思います。

 

江戸時代末期になり、嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー率いる黒船が浦賀沖に来航したのを機に、翌嘉永7年(1854年)に日米和親条約が締結され、一気に外国人の来訪が増えていきます。これを受けて江戸町奉行の中にも専門に外国人に対する役職が新たに設置されるようになります。

 

この町兵掛は、特に外国人に対する治安部隊というわけではありませんが、江戸幕府の支配力の低下に伴い悪化する江戸市中の治安維持のために、江戸幕府が町民から町兵組織を編成させ、その町兵を統率するために与力と同心が配置されたというものです。

 

万延元年(1860年)2月、江戸幕府は治安維持のために番方である先手頭に命じて昼夜江戸市中を巡回させるようになりました。これが慶応3年(1867年)12月に、その役割が江戸町奉行に移管し、ここで町兵組織が編制されたのです。

 

町兵の年季は5年、1年に20両の規定で給金が決められていましたが、実際に支払われたのは毎月1両で、残りの8両は積み立てられて、年季終了時に5年分の積立金として40両が支払われるか、或いは店を構えさせるか選択する条件があったようです。

 

こうした町兵を統率していたのが、「町兵掛与力」と「町兵掛同心」です。町兵は名主の屋敷を屯所として小隊単位で2個大隊が作られ、与力が大隊長、同心が小隊長となっていました。明治元年に江戸町奉行の布告で解散することになりました。

 

高見澤

 

 

 

 

おはようございます。韓国の文在寅大統領が北朝鮮の平壌を訪れ、金正恩朝鮮労働党委員長との間で南北首脳会談が行われています。韓国と北朝鮮の政治・社会体制が異なるだけに、南北統一への道はそう簡単ではないと思われますが、ソ連崩壊、東西ドイツ統一の例もあることから、時には常識を覆すような大きな変化があるかもしれません。トランプ政権によって従来の米国の位置付けも変わっているように、世界が大きな転換の渦の中にあることは間違いありません。さて、この変化が吉と出るか、凶と出るかは神ですら判断に迷うところでしょう。地球人の総意が現象として現れてくるのですから...。

 

さて、今回は江戸町奉行所の治安部隊の中でも、「出役(しゅつやく/でやく)」であった「定触(じょうふれ)役同心」、「引纏(ひきまとめ)役同心」、「定中(じょうちゅう)役同心」について紹介したいと思います。

 

出役とは、決められた本来の役職である「本役」をもっている者が、臨時に他の役を兼ねること、すなわち兼務職のことを指します。普段は治安の安定している江戸市中でも、突然の事件や出火などで三廻り同心や町火消人足方だけでは対応できない場合が出てきます。そうした場合に、上記のような臨時職が重要な役割を果たすことになるのです。これらの役職は町奉行直轄で与力は置かれず、同心のみで構成されていました。

 

先ず、定触役同心です。これは臨時に出動事件があった時に、それぞれの担当者の割振りを行っていた役職です。例えば、捕物・検使の出役や評定所の式日、祭りや将軍家の法事などの各種行事の警備、火事場や死体検分等の出役を担当する同心を割り振ることで、定員は3名となっていました。

 

次に、引纏役同心です。これは火災が発生した際に、町奉行の出馬に従って伝令や雑務を行っていた役職です。定員は2名でした。

 

そして、定中役同心です。これは捕物や検使出役など臨時に発生した事件等に際し、臨機応変に必要な職務に従事する役職で、定員は2名となっていました。

 

現在でも、大きな事件が発生した場合に、臨時的に特別捜査本部が設けられたり、大きな災害の際にも臨時に災害対策本部が設置されたりすることがあります。日頃から事件や災害を予防する措置を講じておくことも大事ですが、それでも予測できない事態が発生した場合に備えて、適宜的確に対応できる体制を整えておくことも必要です。

 

高見澤
 

おはようございます。先週の出張から帰って、最初の出勤日の昨日も、結局夜遅くまで残業してしまいました。疲れがとれないまま、次の事業に向けて実務的な作業に入りました。本当にブラックな仕事場だとつくづく感じる次第です。

 

さて、本日も引き続き江戸の治安部隊について解説していきたいと思います。

 

「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように、江戸では火事が割と頻繁に起こり、江戸では防火や消防に対する危機意識が幕府ばかりでなく、町民の間でも高まっていました。町の消防組織については、改めて紹介するシリーズを設けますが、ここでは「町火消人足改方(まちびけしにんそくあらためかた)」について紹介しておきましょう。

 

享保5年(1720年)に大岡忠相の答申に基づいて「いろは四十七組(後に四十八組)」で知られる「町火消」が設置されました。当初、町火消は威勢のよい典型的な江戸っ子で組織されていたものですから、中々統率をとるのが難しかったようです。そこで幕府は江戸町奉行所に町火消の防火体制の指揮・指導に当たる町火消人足改方を寛政9年(1797年)に新設します。町火消人足改方は町火消の指揮・指導のほか、町火消間の「消口争い(けしくちあらそい)〔消火活動時の巧妙争い〕」などの調停や取締りにあたりました。

 

「町火消人足改与力」の定員は南北奉行所にそれぞれ2騎でしたが、毎年冬の時期11月~3月は3騎体制になっていました。今でもそうですが、火を使う機会が増え、気候的に乾燥する冬場は特に火事の発生が多かったからでしょう。町火消人足改与力は、普段は継裃に槍持、草履取、若党(わかとう)、挟箱(はさみばこ)持を連れて出勤し、火事の時には挟箱に入れてある火事場頭巾、火事羽織、野袴に着替えて出動しました。

 

町火消人足改与力の配下としては、町火消人足改同心がおり、こちらの定員は南北奉行所それぞれ4名で、こちらも与力同様に11月~3月の間は6名体制になっていました。

 

町火消人足改方は町火消からの付け届けが多かったことから、生活は比較的楽だったようです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。先週1週間、経済界の訪中団に随行して北京、浙江省杭州へ行ってきました。安倍/プーチン会談の陰に隠れてしまい、ニュースの話題としては大きく取り上げられませんでしたが、それでも昨年以上に良好な雰囲気での李克強首相との会見、政府機関との会議が行われました。軍事的にはきな臭い動きもあるようですが、経済関係は新たな発展段階に入ったといえるかもしれません。

 

さて、今回も前回に続き江戸町奉行所の治安部隊について紹介していきましょう。本日は、「高積(たかづみ)見廻り方与力」、「風烈(ふうれつ)廻り昼夜廻り与力」、「非常取締掛与力」について紹介したいと思います。

 

先ずは高積見回り方与力です。高積見廻り方とは、江戸市中の木材や荷物などの高積みの取締りを行った町奉行所の役職です。河岸や町場の商品や薪炭木材などの積み重ねの状況を調査して、高さ・広さ・体裁等の制限を指導し、危険防止や悪用防止の取締りを行っていました。常時江戸市中を巡回し、将軍外出の時には特に厳重な取締りを行ったようです。高積見廻り方与力の定員は南北奉行所それぞれ1騎、同心は2名でした。

 

次に風烈廻り昼夜廻り与力です。風烈廻り昼夜廻り方とは、風が強い日の火災予防や不穏分子の暗躍の取締りを行った町奉行所の役職で、常時町中を巡回していました。風烈廻り昼夜廻り与力の定員は、南北奉行所それぞれ2騎で、出勤時には継裃(つぎかみみしも)で、槍持、草履取、挟箱、中間を連れていました。巡回の際には同心をつけて交替で見廻りを行っていました。同心の定員は南北奉行所それぞれ4名で、こちらも交替で巡回していました。

 

そして、非常取締掛与力です。この役職は読んで字の如く、非常事件の事務処理を行ったものです。定員は南北奉行所それぞれ与力8騎、同心16名でした。

 

高見澤

 

おはようございます。明後日からいよいよ日本経済界の大型訪中団「日中経済協会合同訪中代表団」が始まります。日中経済協会会長の宗岡新日鐵住金会長を始め、経団連会長の中西日立製作所会長、日本商工会議所の三村新日鐵住金相談役など、経済界のトップリーダー30名余を含む総勢240名が参加しています。昨夜も準備に追われ、帰宅したのは深夜12時近く、今朝もこうして朝早く出勤しています。私も事務局として1週間、北京及び浙江省杭州に行きますので、来週の瓦版はお休みします。

さて、本日は江戸町奉行所の治安機能について紹介したいと思います。一般庶民にとって最も馴染の深い町奉行所の役割といえば、犯罪捜査や犯罪者の逮捕のほか、法令の施行の視察・監査、巡回などの警察業務を行っていた「定町廻り(じょうまちまわり)同心」でしょう。

 

定町廻り同心の定員は南北合わせて12名で、交替で中間や小者を引き連れて各町にある自身番屋を見回り、自身番などから事件発生の報告を受けると、自身番屋で事情を聞き、捕縛の必要があると判断すれば、犯人が住む町の御用聞き(岡っ引き、下っぴき)を捕縛のために現場に向かわせました。もちろん、同心自身が赴く場合もありました。見回りには、法令違反の取り締まりや民情視察もその役目に含まれていました。

 

定町廻り同心のほかに、「臨時町廻り(りんじまちまわり)同心」がいました。臨時町廻り同心は、長年定町廻り同心を務めた古参の者がなります。こちらも定町廻り同心と同様に南北合わせて12名で、定町廻りの予備隊的な位置づけだったと考えられます。定町廻り同心の見回りコースは一定であるのに対し、臨時町廻り同心は彼らが見落としがちな場所を主に見回っていました。時には定町廻り同心の指導や相談にもあたっていました。

 

そして、もう一つが「隠密廻り同心(おんみつまわりどうしん)」です。隠密廻り同心は、定町廻り同心や臨時町廻り同心と異なり、犯人を逮捕することはせず、事件の裏付け捜査や証拠集めなどを専門に行っていました。変装したり、御用聞き等を使って非番月番に関係なく、管轄地域を巡回していました。定員は南北合わせて4名でした。「隠密同心心得の條。我が命我がものと思わず、武門之儀、あくまでも陰にて己の器量伏し、御下命如何にしても果す可し。尚、死して屍拾う者無し」でお馴染みの時代劇「大江戸捜査網」に登場する隠密同心というのがこれに当りますが、やはり時代劇と実際とはかなりその性質が異なっています。

 

定町廻り同心、臨時町廻り同心、隠密廻り同心の以上3役は、一般に「三廻り」、或いは「廻り方」とも呼ばれ、上司としての与力は置かれておらず、いずれも町奉行直属の同心として配置されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。 今朝未明、北海道で震度6強の地震が発生しました。土砂崩れや家屋倒壊等の被害も出ているようですが、被害の全容はまだ分かっていません。一昨日の台風21号によって関西地方が大きな被害を受けたばかりだというのに、今度は北海道で大打撃を受けた形となりました。一刻も早い災害対策の強化が急務です。東日本大震災から早7年、過去の教訓が活かされていない行政の甘さが浮き彫りになるかもしれません。

 

さて、本日も江戸町奉行所の裁判方の役職についてみていきたいと思います。前回は裁判官の役割を担った吟味方与力及び同心について紹介しました。現在の裁判所においても判事以外に、資料を作成したり、事務を行ったりなど数多くの業務が行われているように、江戸町奉行所でも吟味方以外にもいくつかの専門的な業務がありました。

 

まず、容疑者の犯罪の罪因や情状、過去の判決等の先例を調べて書類を作り、裁判の記録を行う「例繰方(れいくりかた)与力」です。例繰方与力は、事件内容と判例を記録する「機密書類御仕置裁許帳」を作成しますが、これが刑事事件の判決を決める基礎となりました。この与力の定員は2名で、その配下に「例繰方同心」4名がいました。

 

次に紹介するのは「赦帳撰要(しゃちょうせんよう)方人別帳掛与力」です。判決を受けた囚人に対して、刑の執行前に罪人の名簿と罪状を作成したり、恩赦が出された際に用いることができるよう恩赦該当名簿を作成し奉行に提出したりする職務です。また、判例集である「撰要類集」や江戸の名主から提出された人別帳も取か使っていました。この与力定員は4名で、その配下に「赦帳撰要方人別帳掛同心」8名がいました。

 

そして、もう一つが「御出座御帳掛同心」です。評定所の式日には、町奉行は老中に事件の名簿を提出することになっていました。その名簿作成の任にあたっていたのが御出座御帳掛同心でした。この役職に与力は置かれず、町奉行直属となっていました。定員は同心2名です。

 

次回は町の治安を担った町奉行所の役職について紹介していきましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。台風21号はすでに北海道の西側を北上しているようですが、近畿地方を中心に大きな被害をもたらしました。気候変動による台風の大型化が今後も懸念されるところですが、その気候変動の原因がどこにあるのか。政治的要素を一切排除して、真の科学的見地からつきとめて対策を講じる必要があります。対策を誤ると、被害は更に広がることになるのですから、そこは慎重に事を運ぶべきではないでしょうか。

 

さて、本日は江戸町奉行所の裁判に係る与力・同心について紹介したいと思います。町奉行所が今の地方裁判所の役割も果たしていたことは、以前にもお話しした通りです。町奉行所の裁判では、形式的には初審と結審(判決言い渡し)は町奉行が行い、実際の取り調べや判例の調査、文書作成等はそれぞれ担当の与力・同心が行っていました。

 

町奉行所の裁判実務の中で最も重要な役割を果たしたのが「吟味方(ぎんみがた)与力」です。「吟味与力」、「御詮議役与力」、「吟味詰番」とも呼ばれ、民事・刑事の両方の裁判の審理と裁判を行い、結審に向けた事務処理も担当していました。町奉行所玄関左側に3カ所ある「詮議所」で詮議を行っていました。吟味方与力は世襲で務めることが一般的で、まさに取り調べのプロといったところで、ほとんどの犯罪者は拷問をせずに自白させることができたと言われています。

 

死罪に相当する犯罪の容疑者が自白しない場合に限り拷問を用いることができましたが、拷問を行うには町奉行に申請して老中の許可を得なければなりませんでした。ですから、拷問を用いなければならないことは、吟味方役にとって失点という評価につながることもあったようです。老中から拷問の許可が下りると、吟味方役が直接牢屋敷まで出向き、拷問執行の監督を行いました。実際に拷問を行うのは牢屋奉行所の同心です。江戸時代の拷問には、笞打(むちうち)、石抱(いしだき)、海老責(えびぜめ)、釣責(つりぜめ)の4種類があり、このうち笞打と石抱は「責問(せめどい)」といって老中の許可は必要なく、海老責と釣責に対して老中の許可が必要でした。また、笞打、石抱、海老責の3種を指して「牢問(ろうどい)」と呼び、拷問としての釣責と分ける言い方もあるようです。拷問については、改めて説明の機会を設けますが、罪状が明白なのに自白しない容疑者に対しては、結審として刑罰の許可を取る「察斗詰(さっとづめ)」という制度もありましたが、極めて稀だったようです。

 

吟味方与力による詮議は「一事件一担当与力」が原則で、起訴から結審、判決、刑罰執行まで担当与力が一人で受け持っていましたが、稀に交替させられることもあったようです。吟味方与力の定員は、本役4名、助役4名、見習い2名の計10名でした。吟味方与力の配下として「吟味方同心」がおり、その定員は20名でした。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は小雨が降ったり止んだりの天気です。台風21号の上陸が予想されている西日本を中心に、東海地方など特に東側の地域では暴風雨に警戒が必要です。関東でも場所によっては大雨が予想されています。

 

さて、本日からは「江戸町奉行所の職務」について紹介していきたいと思います。今回は、江戸町奉行所の「事務方」について説明しましょう。町奉行所の各組織の基本は、町奉行の下は「与力-同心」で構成されていました。ただ、町奉行が直接同心を支配する場合も少なくありません。町奉行所の職務には、恒常的に行われる常設職と「出役(しゅつやく)」と呼ばれる臨時職がありました。

 

先ず紹介したいのは、町奉行の秘書官としての役割を担っていた「内与力(うちよりき)」です。一般に町奉行所の与力や同心は表向き一代限りの抱席でしたが、実際には新規採用ということで世襲されていたことは、これまで紹介してきた通りです。つまり、町奉行所の職員として町奉行個人に関わりなく業務に就いていたわけですが、この内与力は町奉行個人の家臣の中から選任した与力で、主人が町奉行を退くときは同時に内与力も退くことになっていました。とはいえ、ちゃんとした町奉行所の役職ですから、在任中は幕府から俸禄を受ける幕府勤番の幕臣の身分でした。公用人(執事役)6名と目安方(民事訴訟の調査役)4名の10名がおり、側用人、留守居、使番、右筆の役目を兼務していました。玄関脇の詰所に勤務し、挨拶取次も行っていました。出勤の供廻りとして槍持ち、草履取、挟箱(はさみばこ)、中間が従っていました。

 

内与力に所属する同心が「用部屋手付同心(ようべやてつきどうしん)」です。内与力について雑務をこなすほか、刑事事件の調査報告書の作成を行っていました。定員は10名でした。

 

町奉行所で最も重要な任務とされていたのが「年番方(ねんばんがた)」で、年番方与力は「同心支配役与力(どうしんしはいやくよりき)」とも呼ばれていました。当初は交代制でしたが、後に古参の有能な与力から選任されるようになり、町奉行所の事務全般から各種の取り締まり、闕所金(けっしょきん、没収された貨幣及び財産の売却金)の保管・出納、与力・同心各組の指導・監督、同心分課の任免、臨時事項の処理などを行っていました。年番方与力の定員は3名で、その下に「年番方同心」6名、「年番方物書同心」2名がいました。

 

町奉行所の庶務や受付を担っていたのが「当番方(とうばんがた)与力」です。分課のない与力3名が3交代で宿直して勤務しており、夜間でも受付が可能でした。主に新人与力が起用されることが多く、先ずはこの職に就いて与力としての仕事を学んでいったそうです。このほか、お白州で奉行が裁判する際の陪席や、捕物や検使の際の出役も当番方与力が担当していました。出役の時には、与力1騎につき同心3名が付き従ったそうです。当番方与力の支配下には、「当番方同心」として「年寄同心」3名、「物書同心」3名、その他「平同心」すべてが所属していました。

 

町奉行所の事務方に、「両組姓名掛同心(りょうぐみせいめいがかりどうしん)」という職務がありました。この同心の職務には与力は関与せず、町奉行が直接支配していました。この主な職務は南北奉行所の与力・同心の名簿の編纂と管理で、親任・退任等人事の姓名帳への記載をしていました。定員は同心1名でした。

 

次回は裁判関係の職務について紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ最近の週末は、家で原稿書きや翻訳などに勤しむほか、事務所に出勤して業務をこなす日も増えています。来週1週間は経済界の大型訪中団で中国に出張となりますので、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「御用聞き」、通称「岡っ引き」について紹介したいと思います。一般に馴染のある岡っ引きという呼び方は蔑称で、御用聞きというのが江戸では正式な呼び方でした。また、関八州では「目明し(めあかし)」、関西では「手先(てさき)」、「口問い(くちとい)」と呼んでいたそうです。御用聞きは、町奉行所や火付盗賊改方などの警察機能の末端を担った非公認の協力者です。

 

岡っ引きの「岡」とは脇の立場にある人を指し、御用聞きが同心の脇にいて罪人を拘引するところから、岡っ引きと呼ばれるようになったとのことです。また、目明しは「目証し」の意味で、宝永・正徳期(1704年~1716年)に京都で罪人が共犯者を密告させ、その犯罪を証明させることで、その罪人の罪を許したことに、目明しの呼称の由来があるそうです。

 

廻り方同心が江戸での犯罪を捜査する場合、犯罪者の一部を体制側に取り込み、情報収集等に使役する必要がありました。犯罪者側の社会に通じた者を使わなければ、捜査自体が困難な場合も少なくありませんでした。最初は軽犯罪者の罪を許して手先として使った「放免」がこの御用聞きの起源だったと言われています。もちろん、御用聞きの中には百姓や町人から選ばれる場合もありましたが、やくざ者や地域の顔役である「親分」が採用されることが多かったようです。まさに「蛇の道は蛇」だったのです。本来であれば、取り締まる側と取り締まられる側の両立し得ないはずの仕事を兼ねるという意味で、御用聞きの仕事が「二足のわらじ」の語源になったと言われています。当然、御用聞き稼業だけでは食べていけませんので、彼らは別に生業をもっていました。

 

もともと素行の良くない者が担っていた御用聞きなので、奉行所の威光を笠に着て恐喝まがいのことを行う者も少なくなく、18世紀に入ると幕府は御用聞きの利用を再三禁止する通達を出しますが、やはり実務上使わざるを得なかったため、幕末までなくなることはありませんでした。幕末には町奉行所配下で400人の御用聞きと、その下で働く「下っぴき」が1,000人ほどおり、最盛期には御用聞き500人、下っぴきを合わせて3,000人にも上ったそうです。

 

「半七捕物帳」や「銭形平次」などの時代劇でもお馴染みの御用聞きですが、十手の取り扱い方など実際とはかなり異なる部分があるようです。

 

高見澤

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