2018年9月アーカイブ

 

おはようございます。今週も始まったかと思ったら、今日はすでに金曜日。時の経つのも速いですね。今朝の東京は昨日とうって変わって太陽が顔をのぞかせています。とはいえ、週末から来週初めにかけては、また台風が日本列島を縦断しそうな勢いです。台風、地震、火山噴火など自然災害は日本ばかりではありません。地球の怒りを人類はどう受け止めようとしているのでしょうか。

 

さて、本日は「諸問屋組合再興掛(しょとんやくみあいさいこうかかり)」について紹介したいと思います。前回、天保の改革で江戸市中の物価吊り上げの元凶との疑いで、江戸幕府から強制的に解散させられた株仲間等の諸問屋組合の話題について触れました。

 

その諸問屋組合が老中・水野忠邦の命令により解散させられたのが天保12年(1841年)12月のことです。しかし、前回も説明しましたが、実際に彼らが物価操作をしていたという証拠はなく、その疑いだけで解散させられたというのですから、商人たちにとってはたまったものではなく、却って混乱を招くことになりました。

 

天保の改革についても、別途詳細に紹介することにしますが、この改革が失敗すると、嘉永4年(1851年)2月に、老中・阿部正弘は制度改革を加えた上で諸問屋組合を復活させる「再興令」を実施します。この再興事務を担当したのが諸問屋組合再興掛でした。

 

再興事務を指揮する「諸問屋組合再興掛与力」の定員は南北奉行所それぞれ8騎、その配下に「諸問屋組合再興掛同心」が若干名いたそうです。この再興にあたっては、諸問屋組合再興掛のみならず、町年寄、諸色掛名主のほか、江戸町奉行も膨大な事務処理に係っていたことが『諸問屋再興調』に記録として残されています。

 

このほかにも、幕末に物価統制に係る役職として「諸色潤沢掛与力・同心」や「諸色値下掛与力・同心」などが設置されています。諸色潤沢掛は物資物価の充足に関する職務と思われ、また諸色値下掛は物価値下に関する職務だと思われますが、いずれも詳細は不明で、定員も分かっていません。

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨夜は激しく降っていた雨も、今朝の出勤時にはほとんどふっていなかったのですが、予報によれば午後過ぎまでは傘の手放せない状態が続くようです。今日ぐらいの涼しさであれば、私にとっては上着なしでちょうどよい感じです。

 

さて、本日は「市中取締諸色調掛(しちゅうとりしまりしょしきしらべがかり)」について紹介したいと思います。先ず「諸色(しょしき)」ですが、これは江戸時代において米を除く日常品の「物価」を指す言葉として使われていました。例えば、インフレによる物価高騰を「諸色高値(しょしきこうじ)、逆にデフレによる物価下落を「諸色下値(しょしきげじ)」と呼んでいました。

 

江戸時代において、一般に米の価格「米価」と諸色は連動するものと考えられていましたが、享保年間(1716年~1736年)には米の豊作にもかかわらず、諸色高値の現象が生じ、これは商人による不当な利益搾取が原因だとして、享保の改革(1716年~1745年)では強制的に価格引き下げを命じたようです。

 

続く寛政の改革(1787年~1793年)で、物価の監視を目的として江戸町奉行所に与力及び同心と町役人によって寛政2年(1790年)に設置されたのが「諸色掛(しょしきかかり)」です。天保の改革(1841年~1843年)では、物価吊り上げの元凶とされていた株仲間や問屋仲間・組合などが解散させられましたが、実際に彼らが物価操作をしていたという十分な証拠はなかったと言われています。

 

実際の物価調査は、江戸府内を21組に分け、それぞれの組の名主である「二十一組名主が行っており、その総監督を務めたのが「市中取締諸色調掛与力」で、その配下として「市中取締諸色調掛同心」がいました。定員は若干名ということで、特に定めはなかったようです。実際の職務は、江戸への物資流入の促進と物価引下げ等を目的とした物価、給金、手間賃などの調査を行うことでした。

 

北町奉行所が米の掛、南町奉行所が魚青物の掛と決まっていたようで、天保の改革以降、南北奉行所に置かれていた諸色に係る役職や定員は少しずつ変化していったようです。いつの時代でも、物価統制は難しい問題です。貨幣経済が続く限り、経済学の理論的矛盾は常に存在することになるのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日から降り始めた雨ですが、昨晩は一旦止み、今朝は小降りとなっている東京都心です。少しずつ肌寒くなっているようですが、私にとってはそれでもまだ暑いような気がします。とはいえ、靖国神社近くの銀杏並木から銀杏が落ちている光景を見ると、秋を感じる今日この頃です。

 

さて、本日は「養生所見廻り方」について紹介したいと思います。養生所とは、享保7年(1722年)12月に、小石川薬草園(現在の小石川植物園)内に設置された無料の医療施設である「小石川養生所」のことを指します。この小石川養生所については、改めて紹介したいと思います。

 

小石川養生所の設置は、「享保の改革」の下層民対策として行われた福祉政策で、養生所の運営費用は勘定奉行所勝手掛から拠出されており、勘定奉行所から勝手方という出納役が出張してきていました。とはいえ、養生所の管理は江戸町奉行所に任されていたので、その勝手方を監督する必要がありました。ちなみに、養生所の医師については若年寄支配となっていました。

 

養生所見廻り方は、「養生所見廻り与力」が南北奉行所それぞれ1騎で、勝手方の監督・監視のほか、随時養生所の巡見を行っていました。与力の下には、「養生所見廻り同心」がおり、定員は南北奉行所それぞれ2名で、養生所内の詰所で、交替で勤務を行っていました。

 

高見澤

 

おはようございます。2週間続けての3連休でしたが、皆さんは有意義に過ごせたでしょうか?気候的には比較的穏やかで、行楽に出かけた方も少なくなかったかと思います。私はといえば、さすがに連休のうちの1日ぐらいは身体を休ませていましたが、相も変わらず仕事に追われる毎日でした。先々週は土曜日に出張から帰国したので、実質的には2連休、この3連休も結局は一昨日、昨日と家でパソコンとにらめっこでした。

 

さて、本日からは江戸市中の治安維持の役職から離れて、役人の監視、市中の管理・監督といった行政機能について紹介していきたいと思います。今回、先ずは「町会所掛(まちかいしょかかり)」について紹介したいと思います。

 

寛政の改革を進めていた老中・松平定信は江戸市中の窮民救済と低利資金貸付のための積立金を設置します。幕府は天明5年(1785年)~寛政元年(1789年)までの江戸町費を調査し、これを基に節約できる町費の額を算定して、このうち7割を積み立て、江戸市民の救済に充てることとしました。これが寛政3年(1791年)に制定された「七分金積立(しちぶきんつみたて)」制度です。この時、幕府も2万両を与えて支援したとされています。

 

そして、この七分金積立による備荒貯蓄(飢饉や凶作に備えて米穀や金銭を貯蓄すること)や窮民救済、低利貸付を行う金融機関としての役割を担ったのが、寛政4年(1792年)に設置された「町会所(まちかいしょ)」で、場所は浅草向柳原(むこうやなぎはら)に設置されました。

 

この町会所の職員として働いていたのは、「座人(ざにん)」と呼ばれる地主が5人、座人の下ではたらく「座人手付(ざにんてつき)」と呼ばれる家主が6人、金銭の出納係りとして「用達(ようたし)」と呼ばれる勘定所用達商人が10人、そのほか「用達手代」や「肝煎名主」などがいました。

 

この町会所の職員を監督・管理していたのが、勘定奉行所と町奉行所の「町会所掛」です。「町会所掛与力」は南北町奉行所それぞれに2騎、「町会所掛同心」はそれぞれ4名が配置されていました。

 

高見澤

 

 

おはようございます。自民党総裁選も終わり、安倍首相が3期連続で総裁を続けることになりました。中国との間では、新聞報道によると10月にも安倍首相が訪中することで調整が行われているようで、それに合わせて行われる経済関係のイベントの準備も水面下で進んでいます。

 

さて、本日は江戸町奉行所の治安維持部隊として、幕末最後に設けられた「町兵掛」について紹介したいと思います。

 

江戸時代末期になり、嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー率いる黒船が浦賀沖に来航したのを機に、翌嘉永7年(1854年)に日米和親条約が締結され、一気に外国人の来訪が増えていきます。これを受けて江戸町奉行の中にも専門に外国人に対する役職が新たに設置されるようになります。

 

この町兵掛は、特に外国人に対する治安部隊というわけではありませんが、江戸幕府の支配力の低下に伴い悪化する江戸市中の治安維持のために、江戸幕府が町民から町兵組織を編成させ、その町兵を統率するために与力と同心が配置されたというものです。

 

万延元年(1860年)2月、江戸幕府は治安維持のために番方である先手頭に命じて昼夜江戸市中を巡回させるようになりました。これが慶応3年(1867年)12月に、その役割が江戸町奉行に移管し、ここで町兵組織が編制されたのです。