おはようございます。今週も始まったかと思ったら、今日はすでに金曜日。時の経つのも速いですね。今朝の東京は昨日とうって変わって太陽が顔をのぞかせています。とはいえ、週末から来週初めにかけては、また台風が日本列島を縦断しそうな勢いです。台風、地震、火山噴火など自然災害は日本ばかりではありません。地球の怒りを人類はどう受け止めようとしているのでしょうか。
さて、本日は「諸問屋組合再興掛(しょとんやくみあいさいこうかかり)」について紹介したいと思います。前回、天保の改革で江戸市中の物価吊り上げの元凶との疑いで、江戸幕府から強制的に解散させられた株仲間等の諸問屋組合の話題について触れました。
その諸問屋組合が老中・水野忠邦の命令により解散させられたのが天保12年(1841年)12月のことです。しかし、前回も説明しましたが、実際に彼らが物価操作をしていたという証拠はなく、その疑いだけで解散させられたというのですから、商人たちにとってはたまったものではなく、却って混乱を招くことになりました。
天保の改革についても、別途詳細に紹介することにしますが、この改革が失敗すると、嘉永4年(1851年)2月に、老中・阿部正弘は制度改革を加えた上で諸問屋組合を復活させる「再興令」を実施します。この再興事務を担当したのが諸問屋組合再興掛でした。
再興事務を指揮する「諸問屋組合再興掛与力」の定員は南北奉行所それぞれ8騎、その配下に「諸問屋組合再興掛同心」が若干名いたそうです。この再興にあたっては、諸問屋組合再興掛のみならず、町年寄、諸色掛名主のほか、江戸町奉行も膨大な事務処理に係っていたことが『諸問屋再興調』に記録として残されています。
このほかにも、幕末に物価統制に係る役職として「諸色潤沢掛与力・同心」や「諸色値下掛与力・同心」などが設置されています。諸色潤沢掛は物資物価の充足に関する職務と思われ、また諸色値下掛は物価値下に関する職務だと思われますが、いずれも詳細は不明で、定員も分かっていません。
高見澤