東藝術倶楽部瓦版 20180925:窮民救済のための町会所の管理監督-「町会所掛」

 

おはようございます。2週間続けての3連休でしたが、皆さんは有意義に過ごせたでしょうか?気候的には比較的穏やかで、行楽に出かけた方も少なくなかったかと思います。私はといえば、さすがに連休のうちの1日ぐらいは身体を休ませていましたが、相も変わらず仕事に追われる毎日でした。先々週は土曜日に出張から帰国したので、実質的には2連休、この3連休も結局は一昨日、昨日と家でパソコンとにらめっこでした。

 

さて、本日からは江戸市中の治安維持の役職から離れて、役人の監視、市中の管理・監督といった行政機能について紹介していきたいと思います。今回、先ずは「町会所掛(まちかいしょかかり)」について紹介したいと思います。

 

寛政の改革を進めていた老中・松平定信は江戸市中の窮民救済と低利資金貸付のための積立金を設置します。幕府は天明5年(1785年)~寛政元年(1789年)までの江戸町費を調査し、これを基に節約できる町費の額を算定して、このうち7割を積み立て、江戸市民の救済に充てることとしました。これが寛政3年(1791年)に制定された「七分金積立(しちぶきんつみたて)」制度です。この時、幕府も2万両を与えて支援したとされています。

 

そして、この七分金積立による備荒貯蓄(飢饉や凶作に備えて米穀や金銭を貯蓄すること)や窮民救済、低利貸付を行う金融機関としての役割を担ったのが、寛政4年(1792年)に設置された「町会所(まちかいしょ)」で、場所は浅草向柳原(むこうやなぎはら)に設置されました。

 

この町会所の職員として働いていたのは、「座人(ざにん)」と呼ばれる地主が5人、座人の下ではたらく「座人手付(ざにんてつき)」と呼ばれる家主が6人、金銭の出納係りとして「用達(ようたし)」と呼ばれる勘定所用達商人が10人、そのほか「用達手代」や「肝煎名主」などがいました。

 

この町会所の職員を監督・管理していたのが、勘定奉行所と町奉行所の「町会所掛」です。「町会所掛与力」は南北町奉行所それぞれに2騎、「町会所掛同心」はそれぞれ4名が配置されていました。

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年9月25日 07:30に書いたブログ記事です。

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