2017年12月アーカイブ

 

おはようございます。今年も残すところ本日を含めあと4日となりました。本日は今年最後の瓦版となります。今年1年、この瓦版にお付き合いいただき、ありがとうございました。来年は新たな気持ちで、この瓦版も充実化させていきたいと思います。

 

さて、今年最後のテーマとして「義士祭」を取り上げたいと思います。

 

「右は高輪泉岳寺、四十七士のはかどころ、雪は消えても消え残る、名は千載の後までも」

 

ご存知「汽笛一声新橋を...」で始まる「鉄道唱歌」の2番です。この鉄道唱歌は東海道編だけでも66番、全国版だと399番まであるというのですから驚きです。それでも日本最長の歌ではないというのですから、何とも...

 

この義士祭は、皆さんもよくご存知の通り、元禄15年(1702年)1214日、播磨国赤穂藩元筆頭家老・大石義雄(よしお、よしたか)〔内蔵助〕を首領とする赤穂藩の浪士47名が、江戸本所松坂町にある吉良義央(よしひさ、よしなか)〔上野介〕の屋敷に討ち入り、主君浅野長矩(ながのり)〔内匠頭〕の仇を討った事件にちなんで行われる供養行事です。一行47名は、翌年2月4日に切腹し、主君長矩の墓のある東京港区の泉岳寺に葬られました。この47名、四十七士の墓では今でも線香の煙が絶えません。

 

本東藝術倶楽部の勉強会でも、東京港区高輪の泉岳寺や墨田区両国(本所松坂町公園)の旧浅野義央邸跡を訪れたことがあり、記憶に残っている方もいるでしょう。この赤穂浪士の仇討の話は、後に浄瑠璃や歌舞伎の「忠臣蔵」として脚色されて江戸庶民の人気を博し、全国にも広がっていきました。歌舞伎や映画の「忠臣蔵」では、この討ち入りの日の1214日の夜から翌朝にかけて雪が降っていたことになっていますが、これが史実であったかどうかは定かではないそうです。

(「仮名手本忠臣蔵十一段目」歌川国芳)

 

討ち入りのこの日、泉岳寺、赤穂大石神社・花岳寺、京都大石神社、新潟新発田市長徳寺、香川県小豆郡土庄町長勝寺などで法会が行われ、多くの参詣者が訪れます。泉岳寺では4月にも春の義士祭が行われています。また、両国の吉良邸跡では、「元禄市」と称して、義士祭・吉良祭が行われます。

 

ところでこの討ち入りは、西暦では何年だったのかという議論があります。当時、江戸で使われていた暦は貞享暦です。元禄15年は西暦では1702年ですが、討ち入りのあった日は同年1214日から15日にかけてで、グレゴリオ暦では1703年1月30日から31日にかけてとなります。では1703年なのかといえば、それはそれで間違いではありませんが、12月ということからすれば変な話しになります。つまり、使う暦によって、1702年または1703年という言い方になる、というのが落としどころかと思います。元禄15年は閏8月が挿入された関係で、グレゴリオ暦の1702年1月28日から1703年2月15日までの13カ月になるので、1年といっても3週間弱のズレが生じることになります。

 

暦の話もいろいろな出来事の歴史を調べてみると、何かと面白い謎を発見することがあります。その謎を理論的に紐解き、それをまた歴史的に残していくという作業もまた、歴史学の醍醐味かもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。今年も残すところあと10日となりました。明日は直接筑波に移動、明後日から日中省エネ・環境総合フォーラムの開催とその後の視察随行のため、しばらくは本瓦版もお送りできませんので、ご了承ください。次回は年末28日にお送りするようにしたいと思います。

 

さて、本日は「煤(すす)払い」について紹介したいと思います。煤払いは、年末・年始を迎えるにあたって、1213日に家の内外を大掃除する行事で、「煤掃き」、「煤納め」などとも呼ばれています。これは、前回もお話しした通り、関西では1213日が正月の事始めであったことに因むとも言われています。

 

煤払い自体は平安時代からあったようですが、江戸時代に徳川幕府が1213日を江戸城御煤納めの日と定め、江戸城内では奥女中たちが神棚や城内を清掃し、煤払いを行っていました。これを江戸庶民もお上にならって、この日に煤払いをするようになりました。当時、この煤払いは派手に行われていたようで、大掃除が終わると、商家の主人の胴上げが行われ、大いに祝宴が上げられたそうです。


(「武家煤払いの図」喜多川歌麿)

 

この煤払いは、元々は年神(としがみ)を祭る準備をするための宗教的な行事で、単なる掃除とは違うものです。つまり、正月事始め、神祭りの始まり、物忌みの始まりがこの13日の煤払いだったのです。その名残りなのでしょうか、長野県の一部で13日を「煤掃きの年取り」、青森県では27日を「煤掃き節句」などと呼んでいます。ちなみに、年神とは正月に家々で祭る神のことで、五穀を守ると言われています。

 

13日に煤払いを済ませてしまうと、正月までにはまだ日があります。そのため、煤払いの日には神棚と仏壇のみの掃除を行い、家の内外の大掃除はそれ以降の適当な日に行うようになりました。やがて、これが暮の大掃除という形になっていくのですが、今ではこの煤払いも定期的な行事ではなくなってしまいました。

 

尚、寺院などでは本尊の掃除をすることを「煤払い」、「御身拭式(ごしんしょくしき)」とも言い、東京の目黒不動尊、浅草観音では1212日に行っています。また、長野県諏訪市の諏訪神社上社では1227日、下社では28日にそれぞれ行われています。

 

新たな年を迎えるにあたり、家の内外とともに、心身の「煤払い」が必要なのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の風邪も熱は下がったのですが、喉の痛みがとれず相変わらず咳に悩まされています。とはいえ、仕事が溜まってしまうので、今日は何とか出勤しているところです。

 

さて、本日は「事納め」、「事始め」について紹介したいと思います。旧暦12月8日は、「納め八日」などといって、物忌みの日とされ、仕事を休み、1年間の労をねぎらう事納めの日とされていました。また、12月8日に加え、2月8日の両日を「事八日(ことようか)」と呼んで、様々な行事が行われてきました。納め八日は、読んで字のごとく物事を納める日で、事八日は物事を始めたり納めたりする大事な日のことを指します。

 

この辺りの解説は、以前「針供養」のところで、少し紹介したかと思いますが、すでに忘れている人がほとんどだと思いますので、改めて説明しておきますと、使い古した針や折れた針をを豆腐やコンニャクに刺して、針仕事の上達を祈願しつつ感謝・供養する「針供養(針納め、針休み)」も関西では12月8日に行われます。ちなみに関東では2月8日です。

 

事納めや事始めの「事」ですが、これはもともと「祭り」、或いは「祭り事」を表す言葉で、「コトノカミ」を祀る祭りのことです。その祭りが12月8日と2月8日に行われ、「事八日」、「事の日」と呼ばれました。

 

事八日に関して、祀る神が「年神様」か「田の神様」かで、事始めと事納めの時期が逆転します。この時期の違いは、始める「事」が新年を迎える神の「事」か、農耕に勤しむ人の「事」かによる違いに由来しています。

 

年を司る神を年神様といい、その年神様を迎えるために正月行事の準備を始めるのが12月8日の事始めで、年越しの神事が始まる日というわけです。そして、後片付けなどすべて納めるのが2月8日の事納めになります。こうして年神様にまつわる一連の「事」が終わると、春を迎え田畑を耕す時期になります。

 

もちろん事始めの日は地方によって異なり、関西では1213日が事始め(正月事始め)の日とされ、茶道、舞踏、演劇、花柳界などでは、「事始の餅」と呼ばれる鏡餅を持参して、師匠筋に1年の挨拶に行く習慣があります。また、江戸時代には1213日は大吉日とされた鬼宿日にあたることから、この日が江戸城の「御煤納め」と定められ、「正月事始め」として煤払いや松迎えなどの正月の準備にとりかかり始めました。

 

一方、年神様を迎えるための正月行事が終わって、人の日常生活が始まるのが旧暦2月8日、即ち新暦では3月中旬になります。春が来て暖かくなり、農作業が始まるのがこの2月8日の田の神様にとっての事始めになります。年神様を迎える正月行事という神事の期間が終われば、人々にとっての日常としての田の神様の期間になることになります。一方の始まりは、別の一方の終わりになるという循環の真理がそこに見られるわけです。

 

尚、事八日には「お事汁」を食べる習慣があります。これは事八日に無病息災を祈って食べる野菜たっぷりの味噌汁のことです。別名「六質汁(むしつじる)」とも呼ばれ、芋、ニンジン、大根、ゴボウ、小豆、コンニャクの6種類の具を入れたそうです。ビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富な伝統的な健康食です。

 

ちなみに俳句の世界では、事納め、事始めは冬の季語で、針供養は春の季語になっています。

 

高見澤

 

こんにちは。業務が忙しい中、本日は体調を崩し休まざるを得ない状況に追い込まれています。少し情報のストックがありますので、そこから本日は瓦版をお送りします。

 

さて、本日は「成道会(じょうどうえ)」について紹介したいと思います。成道会とは、釈迦が臘八(ろうはち)〔12月8日〕の暁に、大悟して「成道」したことにちなんで、毎年12月8日に仏教寺院で行われる法会です。「臘八会(ろうはちえ)とも呼ばれています。

 

「成道」とは、菩薩が修行の末、成仏得道、すなわち悟りを開いて仏になることを指します。五井野正博士の『法華三部経体系(総論)』でも説明されていますが、本来、仏になるということは死ぬことではなく、死を超越することであり、今の仏教寺院の解釈とは真逆の発想であることを、肝に命じておく必要があります。

 

「臘」というのは、中国において、冬至後の第三の戌の日に行われる祭りのことを指し、猟で得られた獲物が神や祖先に捧げられます。この臘が転じて、年の暮や旧暦12月が「臘月(ろうげつ)」と呼ばれるようになりました。もちろん中国語でも12月のことを「臘月(layue)」と表すこともあります。新暦での冬至は1222日頃ですが、旧暦では11月中頃になります。戌の日は12日ごとに巡ってくるので、第三の戌の日は旧暦12月の中旬から下旬になります。

 

釈迦族の王子であった釈迦が出家したのは29歳のときと言われいます。最初はバラモン教の教えの下で6年の歳月をかけて難行苦行をするわけですが、それでは悟ることができないと、そこから離れます。釈迦は難行苦行による疲労で倒れてしまいますが、スジャータという村の娘(娼婦とも言われています)に介抱され元気を取り戻します。このときに釈迦に供された食べ物が米を牛乳で炊いた「乳粥」です。体力を回復した釈迦は、菩提樹の下で座禅・瞑想をして7日目の朝に悟りを開くことになります。釈迦が35歳のときです。この7日目が12月8日とされているのです。釈迦が悟る際の気持ちやスジャータの純粋な心については、『法華三部経体系(総論)』に記されているので、読み返されることをお勧めします。


 仏教寺院の中でも、特に禅宗の各寺院では12月1日から8日まで「臘八接心(ろうはちせつしん)」と言われる座禅苦行が行われています。難行苦行では悟れないと釈迦が判断したにもかかわらず、なぜ禅宗ではこの悪しき風習が残っているのでしょうか?


 

 

高見澤

 

おはようございます。今年も残すところ半月を切りました。アッという間の1年でしたが、公的・私的ともに事多き1年であったことは間違いありません。今週金曜日には筑波大学で講義、週末の土日は中国から300名の政府・企業関係者が来日し、トータル800人規模の日中省エネ環境総合フォーラムが開催され、今その準備で大忙しです。日本からは世耕経済産業大臣、中川環境大臣が参加し、中国側からも閣僚級の要人が来日するので、役所もピリピリ、警備も半端ではありません。2カ月連続での大イベントに、私もかなり疲れが溜まっているのが身体でもよく感じています。

 

さて、本日は南信州で行われている「遠山の霜月祭り」について、紹介したいと思います。この祭りは、遠山郷(飯田市南信濃と飯田市上村)に伝わる古風な湯立ての神事・神楽です。遠山郷の各集落の神社12カ所(13社)で、それぞれ日を違えて次々に行われます。例えば、中郷・正八幡宮では12月第1土曜日、上町・正八幡宮では1211日、程野・正八幡宮では1214日、下栗・捨五社大明神では1213日、木沢・正八幡神社では12月第2土曜日といった具合です。そして、国の重要無形文化財にも指定されている南信州を代表する祭りとなっています。

 

遠山の霜月祭りは、その名の通り江戸時代には旧暦11月に行われていました。今は新暦12月に開催されるので、それほど時期にズレがあるようには思えません。実際に冬至は旧暦11月、新暦では1221日頃です。冬至は1年のうちで最も昼が短く、夜が長くなります。日が短くなり、緑だった山々の木々も紅葉、やがて葉を散らし、気温も低下し、山里にも霜や雪が降り積もり冬を迎えます。古代の人々は、こうした自然現象を太陽の光が弱まり、あらゆる生命の力が衰える時期であると考えていました。そして冬至を過ぎると一転して日が長くなり始め、太陽が復活再生すると考えました。この「一陽来復(いちようらいふく)」となるこの節目に、諸国の神々を招いて湯を立て献じ、自らも浴びることによって神も人も生まれ変わるという信仰を伝えるものとされています。しかし、この祭りがいつから行われていたのかは定かではありません。地元の伝承では平安時代の終わりとも、鎌倉時代とも言われています。

 

その一方で、次のような言い伝えも残っています。江戸時代の初めに遠山郷を治めていた遠山氏の三代藩主・遠山景重のとき〔元和4年(1618年)〕に相続争いを理由に幕府によって改易になるという事件が起きます。この争いは領民をも巻き込んで百姓一揆にまで発展、遠山一族は領民によって殺されてしまいます。改易の直後、あるいは寛文年間(1661年~1672年)に疫病が大流行する事態が発生すると、村人たちはそれが遠山一族の怨念による祟りだと考え、怨霊を鎮めるための儀式を加えたとのことです。

 

古くは、この祭りの夜に限って男女の野合が許されていたため、「かつぎ祭り」、「木の根祭り」などとも呼ばれています。また、陰暦霜月に行う収穫が終わったことを祝う祭りであることから、祭神・氏神は荒神が多いとされています。

 

祭り自体は、神前で湯を沸かし神楽が行われた後、舞いながらその湯を人々に掛けます。これを「湯立て」と言います。神職が熱湯を笹の葉に浸し、それを自分の身体や参拝者にふりかけます。穢れを祓い清める力が湯にあると信じられ、これが神楽と融合して芸能化しました。

高見澤

 

おはようございます。毎年、京都の清水寺で発表される今年を象徴する一文字は「北」でした。確かに、日本を含め世界が北朝鮮に翻弄させられた1年であったことは間違いありませんが、ネガティブな観点で世界を捉えると、気持ちも沈み込んでしまいます。何事も常に前向きに捉えることで、世界もまた変わっていくと思います。

 

さて、本日は、師走の最初の年中行事として、「秩父夜祭り」をテーマに取り上げたいと思います。秩父夜祭りは、「秩父祭り」とも呼ばれ、秩父神社の例大祭です。日テレの看板番組「笑点」にレギュラー出演している林家たい平が秩父の出身で、ことあるごとに秩父の宣伝をしていますが、その中にもこの秩父夜祭りがよく取り上げられています。

 

秩父夜祭の開催日は毎年12月2、3日の2日間で、2日は「宵宮(よみや、よいみや)」と呼ばれ、「曳き回し」と呼ばれる秩父屋台の運行があり、各屋台で祭囃子、長唄、踊りなどが披露されます。また、鎌倉時代から続けられている「神馬奉納の儀」が行われ、人々は神馬に選ばれた馬の毛並みによって翌年の天候や豊作を占います。そして3日が「本宮(もとみや、ほんぐう)」と呼ばれる本祭りです。各町内から屋台2台、山車4台が曳きだされ、屋台の上で奏でる囃子にのって神輿行列のお供をします。急坂を山車が引き上げられるのが見物だとか。神輿が御旅所に着くと、屋台の上で素人歌舞伎が披露され、深夜まで花火が打ち上げられます。

 

この秩父夜祭りですが、京都祇園際、飛騨高山祭とともに「日本三大曳山祭(ひきやままつり)」の一つに数えられています。名物の屋台は、笠鉾・天道・セキ台(水鉢)・万灯などを備え、左右に下座を張り出すと歌舞伎舞台にもなります。また、201612月にはユネスコの無形文化遺産として登録されています。

 

この祭りの始まりは江戸時代の寛文年間(1661年~1672年)に始められたと伝えられ、すでに300年以上の歴史があるとされていますが、秩父神社の例祭はそれ以前にも行われていた形跡があるようです。元々の起源は、秩父神社の女神(妙見菩薩)と「武甲山」の男神(蛇神・蔵王権現)が年1回の逢瀬を楽しむ日を祝うものと伝えられています。男神にはもともと正妻がいて、神幸路の途中にある番場町諏訪神社の八坂刀売命(やさかとめのみこと)だとされています。2日行われる「番場諏訪渡り」は、年に1度の逢瀬を楽しむ許可を求める祭礼と言われています。

 

高見澤

 

おはようございます。相変わらず寒い日が続きます。会員の皆様は風邪などで寝込むことはりませんか? 私自身、ここ何年も熱を出して寝込むことがなくなりました。以前は毎年1回は38℃以上の熱を出して寝込んでいたのですが...。身体の中に大分不純物が溜まっている感じがして、そろそろ熱を出して身体のデドックスをしなければと思うのですが、中々思うようにいきません。

 

さて、本日からは12月の年中行事に移りたいと思います。旧暦12月の和風月名はご存知の通り「師走(しわす)」です。やっと、本メルマガのテーマが季節に追い付くことができました。ただ、師走の年中行事では紹介したいテーマがたくさんあるので、このシリーズが終わる頃には、また年を越してしまいます。

 

『日本書紀』では、「十有二月」或いは「季冬」と書かれていて、これに「シハス」と読ませています。「季冬」とは、今では「キトウ」と読み、「初冬(孟冬)」(10月)、「仲冬」(11月)に続く「三冬」の末月という意味で、「晩冬」とも呼ばれる12月を表す言葉です。

 

また、『万葉集』には、12月を詠み込んだ歌が一種あります。

「十二月には泡雪降ると知らねかも、梅の花咲く含(ふふ)めらずして」紀女郎(きのいらつめ)

音数律からみて、「シハス」と読むのが妥当だと思われます。

 

シハスの語源については諸説あります。よく知られているのは、師(僧侶、法師)が経をあげるのに奔走する月なので「師馳(シハス)」とするものです(『二中歴』)。また、12月は1年の終わりであることから、皆が忙しく、師匠といえども趨走(すうそう、ちょこちょこ走ること)するので、「師趨(シスウ)」となり、これが「シハス」になったとする説です(『下学集』)。こうした説が転じて、現代では教師が忙しい月とも解釈されたりします。

この他にも、四季の果てる月として「四極(シハス)」、1年の終わりの月として「年果つる(トシハスル」、「トシハツル」という意味とする説もあります(『東雅』)。

 

高見澤

 

 

 

おはようございます。日本列島に寒波が到来し、今週は比較的寒い日が続いています。それでもここ東京の寒さは、1年半前まで駐在していた北京に比べればまだましな方です。寒暖の差、乾燥の度合い、大気汚染の程度など、どれをとっても北京の方が厳しい環境に置かれています。中国人のバイタリティーは、そんな厳しい環境の中で育まれていくのかもしれません。

 

さて、本日は「神農祭(しんのうさい)」について紹介したいと思います。この神農祭は、薬種問屋の街である大阪道修(どしゅう)町の「少彦名(すくなひこな)神社〔神農(しんのう)さん〕」の行事で、元々は薬種商が冬至の日に、医薬の祖とされる「神農(しんのう)」を祀って祝っていました。現在では薬祖講の行事として、毎年1122日から23日にかけて行われ、大阪市無形文化財(民俗行事)にも指定されています。

 

神農は「炎帝(えんてい)」とも呼ばれ、中国古代の伝説上の帝王で、「三皇五帝」の一人に数えられており、鎌や鍬などの農具を発明し、五穀を蒔くなど人々に農耕を教え、百草をなめてその中から薬草を見分け、医薬・医療の術を人々に教えたとされています。

「飲食養生鑑(いんしょくようじょうかがみ)」〔寛永3年(1850年)〕

 

神農祭の始まりは、文政5年(1822年)に長崎で発生したコレラが大坂でも流行し、多くの死者が出た際に、薬種仲間が病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」という丸薬を作り、「神虎(張子の虎)」の御守りと一緒に神前祈願の後施与したことに由来するといわれています。今は、五葉笹に張り子の虎と少彦名神社の御札を付けた張り子の虎を、家内安全無病息災の御守りとして授与しています。

このコレラの流行ですが、日本では初めてのことで、当時の大坂では1日に300400人の死者が出たといわれることから、大騒ぎになったことでしょう。コレラにかかると2~3日でコロリと死ぬことから「三日コロリ」と呼ばれ、虎と狼が一緒になってやってくる恐ろい病気ということで「虎狼痢(コロリ)」との当て字も生まれたようです。

 

少彦名神社は、中国の神農と日本の医薬の神「少彦名神(すくなひこなのかみ)」を祀っています。この神社の起源は、安永9年(1780年)10月、薬種仲買仲間の伊勢講が、薬の安全と薬業の繁栄を願い、京都の五條天神社より少彦名の分霊を道修町の仲間会所(現在の少彦名神社)に勧請し、すでに仲間会所に祀ってあった神農とともに祀ったことにあるとされています。

 

祭の当日は、道修町筋は一斉に休業し、薬品会社の社員も老舗の旦那も揃って参詣します。また、神農祭は大阪の1年を締めくくる祭りとして「とめの祭り」とも呼ばれています。

 

高見澤

 

おはようございます。昨年は仕事の忙しさにかまけ、年賀状を書く時間もなく出すことができませんでした。今年は夏に父が亡くなったので、喪中ハガキを出さなければならないところですが、これもまたついぞ出す時間もありませんでした。毎年年賀状をくださる皆様には不義理をして、本当に申し訳ありません。

 

さて、本日は、「新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)」について紹介したいと思います。現在、1123日は勤労を尊び、生産を祝い、互いに感謝し合う「勤労感謝の日」という国民の休日となっています。そしてその翌日が私の誕生日なのですが、それは余談として、今年は出張で休日をゆっくり過ごすことはできませんでした。

 

この「勤労感謝」の意味ですが、勤労に感謝することではなく、また働く人に感謝することでもありません。元々1123日は「新嘗祭」と呼ばれる祭日で、非常に重要な宮中祭祀が行われていました。

 

「新嘗(にいなめ)」とは、「ニイ(新)」の「アへ(神に供える食べ物)」の意とされ、天皇がその年の新穀でつくった食べ物や神酒を天神地祇(てんじんちぎ)に供えたあと、自ら食す習わしがあります。これを「直会(なおらい)」といい、この一連の祭儀を「新嘗祭」と呼びます。昔から日本は農業を大切にしてきた国であり、「瑞穂の国」の祭祀を司る最高権力者である大王(おおきみ)、即ち天皇が国民を代表して農作物の恵み、五穀豊穣、命の糧を授けていただくことに対する神への感謝を捧げるための式典、いわゆる「収穫祭」です。以前紹介した「神嘗祭」がその年に初めて収穫した稲穂「初穂」を天照大神に供して感謝する祭祀であるのに対し、新嘗祭は天皇が天照大神を含む天津神・国津神に供した後、天皇自身が召し上がる点が異なっています。

 

新嘗祭の起源はよく分かってはいませんが、『日本書紀』によると、飛鳥時代の皇極天皇の時代(642年~645年)に始まったといわれ、『万葉集』にも新嘗祭にまつわる和歌があるようです。古くは11月の「卯の日」に行われていたようですが、明治の改暦以降、新暦の1123日(二回目の卯の日)に定められました。以前紹介した「十日夜」、「亥の子」、その他各地の「霜月祭」など、日本の伝統的な民族行事である旧暦10月の収穫祭とも関係があると言われます。天皇即位後、初めての新嘗祭は、「大嘗祭(おおにえのまつり、だいじょうさい)」と呼ばれています。

 

日々の生活の糧を与えられていることに対して、感謝の念を忘れてはいけませんね。

 

高見澤

 

おはようございます。今年も残すところあと半月ちょっととなりました。今朝の東京は少し暖かく、明日から冷え込むとの予報です。それにしても先週の東京江東区の富岡八幡宮で起きた宮司殺害事件は、今の信仰というものを考えさせられる事件ではないでしょうか。本来は、人を導く教えを説かなければならない立場の者が、執着と驕りを脱しきれず、あのような凄惨な事件を起こすほどの醜い姿を世間に曝してしまったのです。いわんや導かれる人たちは...。もはや神社には神はおらず、寺院にも仏はおらずの状態ではないかと思う次第です。


さて、本日は「酉の市(とりのいち)」について紹介したいと思います。酉の市とは、毎年11月の「酉の日」に、各地の鷲(おおとり)神社(大鳥神社)で行われる祭礼のことです。東京では、台東区浅草にある鷲神社や新宿区にある花園神社の酉の市が有名です。神社に神はおらずと言ったばかりですが、それはそれとして、日本の伝統文化ですので、アシカラズ!

 

11月の酉の日は1カ月の間に2日または3日あり、最初の酉の日を「一の酉」、次を「二の酉」、三番目を「三の酉」と呼んでいます。「お酉様(おとりさま)」とも呼ばれますが、正式には「酉の祭」と書いて、「とりのまち」と言っていたそうです。

 

昔から、三の酉まである年は火事が多いと言われています。これは酉(鶏)のとさかが赤いことから家事を連想されたものと言われますが、その真偽のことはよく分かりません。ちなみに今年(平成29年)は一の酉が11月6日(月)、二の酉が1118日(土)、三の酉が1130日(木)と、三の酉までありました。果たして例年に比べ火事は多かったのでしょうか?

 

鷲神社の本社は大阪府堺市にあります。鷲神社は「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を祀る神社です。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天之岩戸(あまのいわど)に隠れた際に、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞ったという日本神話は皆さんもご存知でしょう。そのとき「弦(げん)」という楽器を司る神がいて、天手力男命(あまのたぢからおのみこと)が岩戸を開いた際に、その弦の先に鷲がとまったので、神々は夜を明るくする瑞兆を現した鳥だということで大いに喜び、それ以降弦を司る神は「鷲」の一字を入れて「鷲大明神」、「天日鷲命」と称されるようになったとのことです。天日鷲命は、諸国の土地を拓き、開運、殖産、商売繁盛に御神徳の高い神として鷲神社の地にお祀りされました。

 

その後に、日本武尊が東夷征討に向かう際に社に立ち寄り戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の熊手をかけて勝利を祝ってお礼参りをしました。その日が11月の酉の日であったとされています。

 

「春を待つ ことのはじめや 酉の市」

 

江戸時代前期の俳諧師、宝井其角(たからいきかく)〔寛文元年(1661年)~宝永4年(1707年)〕の句です。浅草にある鷲神社は末社ですが、江戸時代には武運の神として武士の参詣が多くなり、後に商売繁盛の神として、江戸庶民の信仰を集めるようになりました。今では、浅草の鷲神社で行われる酉の市の方が有名になってしまいました。神社の境内で商売繁盛を祈って立つ酉の市では、「福をかきこむ」、「福をとり(酉)こむ」という意味で、縁起物として農具の熊手、おかめ(お多福)、入り船(宝船)などが売られています。




 
高見澤

 

 

 

おはようございます。最近、本メルマガで送付できる容量が増えたこともあり、昨日は試しに浮世絵の画像を貼り付けてみましたが、何とかうまく送信できたようです。今後は、機会あるごとに画像を貼り付けてお送りしたいと思います。

 

さて、本日は「鞴祭(ふいごまつり)」について紹介していきたいと思います。鞴祭は、元々は旧暦11月8日に、鍛冶屋、刀工、鋳物師など、鞴(ふいご)を使う職人たちの祭日です。職人たちは、この日は仕事を休んで稲荷神社に詣で、お神酒、ミカン、赤飯などを供えて鞴を清めます。

鞴とは、昔から金属の精鉄や加工には欠かすことのできなかった火を起こすための道具です。鞴の語源は、革袋を使って送風した「吹き皮(ふきかわ)」が訛ったものといわれています。圧縮された空気を送り出す木箱を使った「箱鞴(はこふいご)」を大型化した足踏み式の鞴を「踏鞴(たたら)」と呼ぶことから、鞴祭は「踏鞴祭(たたらまつり)」とも呼ばれています。鞴祭は京や江戸で特に盛んで、場所によっては12月8日や4月8日に行うところもあるようです。

 

「お火焼きや霜うつくしき京の町」

 

江戸時代中期の俳人・与謝野蕪村〔享保元年(1716年)~天明3年(1784年)〕の句です。毎年11月には各地の神社で「御火焚・御火焼(おひなたき)」と称される火を焚く神事が行われます。鍛冶屋や鋳物師ばかりではく、風呂屋や湯熨屋(ゆのしや)など火を扱う商売の家でも庭火を焚き、稲荷神社に詣でてお札を受け、仕事場に貼って鞴を清めて注連縄(しめなわ)を張り、お神酒や餅を供えたそうです。

 

稲荷は元々は農耕の神、穀物の神とされていますが、鍛冶屋の神ともされた訳には、食物を調理するには火が必要なことから火の神に転じ、さらにそれが火を操る職業である鍛冶屋の守護神になったと考えられています。

 

江戸の町には「町内に伊勢屋、稲荷に犬の糞」と川柳に詠われるほど稲荷神社の数が多く、鞴祭も盛んに行われ、その際に欠かせないミカンの需要も相当なものだったようです。江戸時代、紀伊国屋文左衛門が嵐をおして紀州から江戸に船でミカンを運び大儲けしたと言われますが、これこそ鞴祭のためのミカンだったのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。毎日仕事に追われているせいか、1日が過ぎるのが早く感じてなりません。仕事を楽しみに変えるのにも限度があり、ゆっくり休みをとってのんびりしたい気分です。

 

さて、本日は「時雨(しぐれ)」について紹介したいと思います。以前、葉月のところで「蝉時雨」について紹介した際に、時雨について多少説明したかと思います。晩秋から初冬にかけて降る断続的な冷たい小雨のことを指します。時雨が降る天候に変わることを「時雨れる」と呼ぶこともあります。時雨の多くは、風に送られてくる局地的な通り雨で、パラパラと音を立ててしばらく降り続き、止んだかかと思うとまた降り始めたりします。

 

この時雨の語源ですが、「過ぐる」が訛ったものとも言われますが、諸説あって定かではありません。平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』〔略称『和名抄(わめいしょう)』〕では「(雨かんむりに衆)雨」と書いて「之久礼(しぐれ)」と訓(よ)んでいます。『万葉集』には40例近く見られるゆで、巻8や巻10では「秋雑歌(あきぞうか)」に位置付けられ、紅葉(黄葉)を染めたり散らしたりする雨として考えられていたようです。ただ、そこではまだ「時雨」という用字ではなく、「時雨」が使われるようになったのは平安時代に入ってからと考えられています。

 

『古今和歌集』には「時雨」が使われた用例は12首、いずれも季節としては秋を意識したものですが、平安中期の頃になると季節に対する意識に変化がみられます。『御撰和歌集』では冬の景物として定着し、時雨の多い京の風土とも相まって王朝文学にも頻繁に使われるようになりました。俳句でも冬の季語になっています。

 

「初しぐれ猿も小蓑(こみの)をほしげなり」

「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」

 

いずれも時雨を詠んだ松尾芭蕉の句です。時雨を詠んだ句を多く残した芭蕉は、長崎へ向かう旅の途中、大坂で病に倒れ、元禄7年(1694年)1012日に没しました。旧暦10月は「時雨月(しぐれづき)」の別名があり、芭蕉の忌日(きにち)である1012日は「時雨忌(しぐれき)」と呼ばれています。「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」という世辞の句を残しています。下の浮世絵は鈴木春信〔享保10年(1725年)~明和7年(1770年)〕が描いたものです。紅葉の頃の雨ですから、まさに時雨を描いたものでしょう。

ところで、生姜を加えた佃煮のことを「時雨煮(しぐれに)」と呼んでいますが、これは元々はハマグリを煮た「時雨蛤」のことを指していたようです。芭蕉十哲の一人である江戸時代中期の俳人、「各務支考(かがみしこう)」〔寛文5年(1655年)~享保16年(1731年)〕が名付けたものとされています。いろいろな風味が口の中を通り過ぎることから、一時的な雨である時雨に喩えたとか、ハマグリは時雨の時期が最もおいしい季節だからとか、短時間で仕上げる料理法が時雨みたいだとか、名付けの由来も諸説あります。

 

また、「時雨」と聞いて初代神風型駆逐艦の「時雨」や白露型駆逐艦の「時雨」を思い浮かべる軍事マニアもいるかもしれませんね。

 

高見澤

 

おはようございます。朝も暗いうちから出勤、帰りも日が暮れ夜が深まる時間帯に退勤と、忙しい毎日が続きます。日本の対中経済外交を支えているとでも自ら思い込まない限り、続けられる仕事ではないかもしれません。とはいえ、新たな人との出会いや情報に接したり、思いがけないことを思いついたりする醍醐味は、仕事をする上での一つの活力になることは間違いありません。

 

さて、本日は「証(證)誠寺(しょうじょうじ)の狸供養」について紹介したいと思います。

 

「証、証、証城寺、証城寺の庭は、つ、つ、月夜だ、みんな出て、来い来い来い...」

 

皆さんご存知の童謡「証城寺の狸囃子」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)ですが、この歌は、野口雨情が「証誠寺」の「狸囃子伝説」を元に作詞したものです。

 

証誠寺は千葉県木更津市にある浄土真宗本願寺派の寺で、慶長年間(1596年~1615年)に開創されました。昔、証誠寺辺りは「鈴森」と呼ばれ、竹藪が生い茂る昼間でも薄暗いところでした。いつの頃からか、夜になると一つ目小僧やろくろ首などの妖怪が現れ、通りがかった村人を驚かせるようになりました。このため、証誠寺には誰も寄り付かなくなり、荒れ果ててしまいました。

 

ある時、西国から三味線を持った了然(りょうねん)という僧がやってきました。了然は寺に入ると仏像のホコリや蜘蛛の巣を払うなどして何とか人が住めるようにしましたが、それでも床板や障子、屋根などは修理が必要でした。その夜の事、了然は囲炉裏に架けた鍋で大根を煮ていると、いつの間にか囲炉裏端に子供が座っているのが見えました。よく見ると、その子供は妖怪一つ目小僧ではありませんか。了然がその妖怪を見つめると、妖怪もじっと了然を見つめ返します。

 

了然はかまわず鍋をかき回していると、一つ目小僧の横に女の人が座っているのに気付きました。了然がその女の人も妖怪なのかと考え込んでいると、その女の首がクネクネとうごめき頭が宙を泳ぎ始め、了然の前までくると、じっと了然を見つめ続けました。了然が二人ともやはり妖怪であったかと納得しつつ、鍋の大根を食べ始めると、フッと二人の妖怪は消えていなくなりました。その後、寺の周りで大きな音があちらこちらで響き渡ります。メリメリメリ、ゴロゴロゴロ、バサバサバサなどと聞こえます。了然はしばらくその音を聞いていましたが、やがてごろりと横になり、寝てしまいました。一晩中響いていた音も、朝には止んでいました。

 

翌日、了然は障子を張り替えたり、床や屋根を修理したりして、夜には何とか寺らしくなりました。了然は、あかりを灯し、大根を食べながら、持ってきた三味線をはじいて端唄を唄っていると、突然大きな太鼓の音が鳴りました。ドンドコ、ドンドコドン。ポンポコ、ポンポコ、ポンポコポン。了然が驚いてそっと障子の外を見ると、一匹の大きな狸と、何十匹の狸がお腹を打ち鳴らしているではありませんか。了然も負けじと三味線を鳴らすと、狸も三味線に遅れまいと調子を合わせ、腹つづみを打ちながらクルクルと踊り続けます。こうして、一晩中、月夜の下で踊りと音楽の合戦が続きました。了然も楽しくなり、3日間、了然と狸の歌合戦が続いたのですが、4日目の夜になると狸たちは現れません。了然は三味線を持ったまま朝まで待ち続けました。

 

どうしたのかと、了然が狸を探したところ、竹藪の奥で大きな狸がお腹を破って息絶えているのを見つけました。気の毒に思った了然は、その大狸をねんごろに弔いました。それから証誠寺では怪しい出来事は起こらなくなりましたが、明るい満月の夜には、どこからかポンポコ、ポンポコと太鼓の音が聞こえてくることがあるそうです。

 

元々は中秋の名月に行われていたこの狸供養ですが、今では11月第1土・日曜日に行われています。当日は多くの檀徒による読経があり、狸塚や童謡碑への献花、茶会、句会なども催されます。

 

この証誠寺の狸囃子伝説ですが、「分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)」(群馬県館林市)や「八百八狸物語はっぴゃくやたぬき」(愛媛県松山市)と並び、日本三大狸伝説の一つに数えられています。

 

 高見澤

 

おはようございます。先週土曜日、突然の訃報が飛び込んできました。フォーク・クルセダーズやシューベルツなどのフォークソンググループで活躍したシンガーソングライターのはしだのりひこ氏がパーキンソン病のため、72歳で亡くなったとのこと。その日、外出先でそれを知った私は、帰りのバスの中で彼がきたやまおさむ氏と作った名曲、「風」を何度も聴いていました。加藤和彦氏も8年前に亡くなっており、一人また一人と我が青春時代の思い出が去っていく寂しさを覚えます。

 

さて、本日は霜月の最初を飾るテーマとして「七五三」を取り上げたいと思います。七五三は皆さんもよくご存知の通り、数え年で3歳と5歳の男の子、3歳と7歳の女の子を祝う行事で、毎年1115日に行われています。元々は子供の成長の節目にあたり無病息災を祈願するものでしたが、奇数を縁起の良い陽数とする中国の思想の影響を受けて、7歳、5歳、3歳という年齢が祝われるようになりました。

 

現在では七五三に該当する年齢の子供に晴れ着を着せ、親とともに神社や氏神などに宮参りします。晴れ着を着て神社に詣で、千歳飴を買って帰る風習は近世以降のものですが、古くは男女3歳で「髪置き(かみおき)の祝い」、男児5歳で「袴着(はかまぎ)の祝い」、女児7歳で「帯解き(おびとき)の祝い」を行っていました。

 

中世以来、日本では赤ん坊は男女ともに、たいていは頭を青くそり、3歳の誕生日に初めて髪を伸ばす風習がありました。もう赤ん坊ではないという意味で、これを「髪置き」と呼びました。この髪置きでは、白髪をかぶせ頂きに白粉をつけ、櫛で左右に梳いて祝います。

 

また、江戸時代になると、5歳になった男の子は、その年の1115日に初めて袴をはく「袴着」のお祝いが行われるようになりました。そして女の子ですが、7歳になると、それまでの紐付きの着物に変わって、帯を締めるようになります。これを「紐解き(ひもとき)」、「帯解き」といって、7歳になると、子供は一人前の人としてはじめて社会に認められるようになるのです。

 

ただ、男の子を5歳、女の子を7歳としているのは主に関東地方で、全国一律ではありません。長野県では、3歳で男女ともに帯結びをするところがあります。

 

1115日に行われるのは、この日が「二十八宿(にじゅうはっしゅく)」の「鬼宿日(きしゅくにち)」にあたり、何事の祝い事には最良の日とされていることによります。二十八宿については、また改めて紹介したいと思います。旧暦1115日は必ず満月になり、11月は秋の実りを産土(うぶすな)の神に感謝する月でもあることから、その祭りの日が満月の15日に行われることもごく当たり前のこととして捉えられていました。これが「望(満月)の日の祭(霜月祭などと呼ばれる収穫祭)」として、収穫の感謝とともに、子供の成長を祈願する行事へと変貌していったものと考えられています。

 

高見澤

 

おはようございます。12月に入り、もうすでに4日目になってしまいました。月日の経つのは早いもので、人間も知らず知らずのうちに歳を重ねていきます。自分もまだまだ若いと思いながらも、身体が次第にその気持ちに着いていけないことが次第に多くなってきています。歳を取るという認識自体が、身体の老化を早めることにつながると思い、常に意識して老化現象そのものを否定し続けているのですが、現実に起きている事象を真にあたりにすると、無意識のうちに老化現象を受け入れているのかもしれません。時間の流れと言うものを、もう一度初心に帰って思い直してみたいと思うところです。

 

さて、本日からは11月の年中行事の紹介に移りたいと思います。旧暦11月の和風月名は「霜月(しもつき)」です。

 

『日本書紀』によると、11月は「十有一月」と書いて「シモツキ」と読ませていますが、これは後世の訓だそうです。『古事記』や『万葉集』には用例がなく、霜月という言葉が登場するのは平安時代以降の文献です。『竹取物語』には「霜月しはすの降り氷り...」、『源氏物語』には「しもつきばかりなれば、雪・霰(あられ)がちにて...」とあります。

 

「しもつき」の語源としては、文字どおり霜が降る月、すなわち「シモ(霜)月」とする説が有力です(『下学集』、『東雅』)。しかし、『奥義抄』には、「霜しきりに降るゆえに、霜降り月といふを誤れり」と記してあり、「シモフリ(霜降)月」を由来とする説もあります。

 

また、その他の異説として、ものがしおれていたむという意味で「凋む月」、すなわち「シモグル月」とする説、あるいは「末(すえ)つ月」が訛ったとする説、そして「スリモミ(摺籾)月」という説、更には10月を「カミ(上)の月」とみなし、それに対して11月を「シモ(下)月」と称するなどの説があります。ただ、これらの説はいずれも有力な説にはなっていません。

 

現代では、「食物月(おしものづき)」の略であるとして、「新嘗祭を初として民間にても新饗(にいあえ)す」とする説(『大言海』)などがあります。

 

高見澤

 

おはようございます。


本日は二十四節気の一つである「霜降(そうこう)」について紹介したいと思います。霜降は9月の中気、定気法では太陽黄経210度、新暦では102324日頃及び立冬までの期間を指します。霜降は「しもふり」とは読みません、念のため!

 

旧暦10月の和風月名は「神無月」ですが、別名「初霜月」とも呼ばれています。秋が一段と深まり、朝霜が見られる頃ということで霜降と呼ばれているのでしょう。特に朝晩は冷え込み、日が短くなったことを実感する季節です。初霜の知らせを聞く時期でもあり、山野の紅葉が見頃となります。コートや暖房器具の準備など、冬支度を始めるのもこの時期です。

 

「かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける」

 

お馴染み百人一首の大伴家持〔養老2年(718年)~延暦4年(785年)〕の歌です。この歌にある「夜更け」という言葉にちなんで、十二支による時刻制度とは別に、日没から翌日の夜明けまでを五等分して時刻を示す言い方がありました。それが「五更(ごこう)」です。

 

五更は古代中国で用いられていた時刻制度で、それがいつの間にか日本でも用いられるようになりました。宵の口を「初更(しょこう)」、次が「二更(にこう)」、続いて「三更(さんこう)」、「四更(しこう)」となり、そして最後が「五更」と呼びます。初更は「甲夜(こうや)」とも呼び「戌」の刻(午後8時前後の2時間)、二更は「乙夜(いつや)」と呼び「亥の刻(午後10時前後の2時間)」、三更は「丙夜(へいや)」と呼び「子の刻(午前0時前後の2時間)」、四更は「丁夜(ていや)」と呼び「丑の刻(午前2時前後の2時間)」、五更は「戊夜(ぼや)」と呼び「寅の刻(午前4時前後の2時間)」をそれぞれ指します。

 

この五更のうち、霜が降りるのは最も気温が下がる午前3~5時頃です。晩秋においては四更の終わりから五更にかけての時間帯でしょうか。先の大伴家持の歌は、ちょうどこの時間帯の様子を表したものかもしれません。

 

·  高見澤

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