2017年12月アーカイブ

 

おはようございます。今年も残すところ本日を含めあと4日となりました。本日は今年最後の瓦版となります。今年1年、この瓦版にお付き合いいただき、ありがとうございました。来年は新たな気持ちで、この瓦版も充実化させていきたいと思います。

 

さて、今年最後のテーマとして「義士祭」を取り上げたいと思います。

 

「右は高輪泉岳寺、四十七士のはかどころ、雪は消えても消え残る、名は千載の後までも」

 

ご存知「汽笛一声新橋を...」で始まる「鉄道唱歌」の2番です。この鉄道唱歌は東海道編だけでも66番、全国版だと399番まであるというのですから驚きです。それでも日本最長の歌ではないというのですから、何とも...

 

この義士祭は、皆さんもよくご存知の通り、元禄15年(1702年)1214日、播磨国赤穂藩元筆頭家老・大石義雄(よしお、よしたか)〔内蔵助〕を首領とする赤穂藩の浪士47名が、江戸本所松坂町にある吉良義央(よしひさ、よしなか)〔上野介〕の屋敷に討ち入り、主君浅野長矩(ながのり)〔内匠頭〕の仇を討った事件にちなんで行われる供養行事です。一行47名は、翌年2月4日に切腹し、主君長矩の墓のある東京港区の泉岳寺に葬られました。この47名、四十七士の墓では今でも線香の煙が絶えません。

 

本東藝術倶楽部の勉強会でも、東京港区高輪の泉岳寺や墨田区両国(本所松坂町公園)の旧浅野義央邸跡を訪れたことがあり、記憶に残っている方もいるでしょう。この赤穂浪士の仇討の話は、後に浄瑠璃や歌舞伎の「忠臣蔵」として脚色されて江戸庶民の人気を博し、全国にも広がっていきました。歌舞伎や映画の「忠臣蔵」では、この討ち入りの日の1214日の夜から翌朝にかけて雪が降っていたことになっていますが、これが史実であったかどうかは定かではないそうです。

(「仮名手本忠臣蔵十一段目」歌川国芳)

 

討ち入りのこの日、泉岳寺、赤穂大石神社・花岳寺、京都大石神社、新潟新発田市長徳寺、香川県小豆郡土庄町長勝寺などで法会が行われ、多くの参詣者が訪れます。泉岳寺では4月にも春の義士祭が行われています。また、両国の吉良邸跡では、「元禄市」と称して、義士祭・吉良祭が行われます。

 

ところでこの討ち入りは、西暦では何年だったのかという議論があります。当時、江戸で使われていた暦は貞享暦です。元禄15年は西暦では1702年ですが、討ち入りのあった日は同年1214日から15日にかけてで、グレゴリオ暦では1703年1月30日から31日にかけてとなります。では1703年なのかといえば、それはそれで間違いではありませんが、12月ということからすれば変な話しになります。つまり、使う暦によって、1702年または1703年という言い方になる、というのが落としどころかと思います。元禄15年は閏8月が挿入された関係で、グレゴリオ暦の1702年1月28日から1703年2月15日までの13カ月になるので、1年といっても3週間弱のズレが生じることになります。

 

暦の話もいろいろな出来事の歴史を調べてみると、何かと面白い謎を発見することがあります。その謎を理論的に紐解き、それをまた歴史的に残していくという作業もまた、歴史学の醍醐味かもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。今年も残すところあと10日となりました。明日は直接筑波に移動、明後日から日中省エネ・環境総合フォーラムの開催とその後の視察随行のため、しばらくは本瓦版もお送りできませんので、ご了承ください。次回は年末28日にお送りするようにしたいと思います。

 

さて、本日は「煤(すす)払い」について紹介したいと思います。煤払いは、年末・年始を迎えるにあたって、1213日に家の内外を大掃除する行事で、「煤掃き」、「煤納め」などとも呼ばれています。これは、前回もお話しした通り、関西では1213日が正月の事始めであったことに因むとも言われています。

 

煤払い自体は平安時代からあったようですが、江戸時代に徳川幕府が1213日を江戸城御煤納めの日と定め、江戸城内では奥女中たちが神棚や城内を清掃し、煤払いを行っていました。これを江戸庶民もお上にならって、この日に煤払いをするようになりました。当時、この煤払いは派手に行われていたようで、大掃除が終わると、商家の主人の胴上げが行われ、大いに祝宴が上げられたそうです。


(「武家煤払いの図」喜多川歌麿)

 

この煤払いは、元々は年神(としがみ)を祭る準備をするための宗教的な行事で、単なる掃除とは違うものです。つまり、正月事始め、神祭りの始まり、物忌みの始まりがこの13日の煤払いだったのです。その名残りなのでしょうか、長野県の一部で13日を「煤掃きの年取り」、青森県では27日を「煤掃き節句」などと呼んでいます。ちなみに、年神とは正月に家々で祭る神のことで、五穀を守ると言われています。

 

13日に煤払いを済ませてしまうと、正月までにはまだ日があります。そのため、煤払いの日には神棚と仏壇のみの掃除を行い、家の内外の大掃除はそれ以降の適当な日に行うようになりました。やがて、これが暮の大掃除という形になっていくのですが、今ではこの煤払いも定期的な行事ではなくなってしまいました。

 

尚、寺院などでは本尊の掃除をすることを「煤払い」、「御身拭式(ごしんしょくしき)」とも言い、東京の目黒不動尊、浅草観音では1212日に行っています。また、長野県諏訪市の諏訪神社上社では1227日、下社では28日にそれぞれ行われています。

 

新たな年を迎えるにあたり、家の内外とともに、心身の「煤払い」が必要なのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の風邪も熱は下がったのですが、喉の痛みがとれず相変わらず咳に悩まされています。とはいえ、仕事が溜まってしまうので、今日は何とか出勤しているところです。

 

さて、本日は「事納め」、「事始め」について紹介したいと思います。旧暦12月8日は、「納め八日」などといって、物忌みの日とされ、仕事を休み、1年間の労をねぎらう事納めの日とされていました。また、12月8日に加え、2月8日の両日を「事八日(ことようか)」と呼んで、様々な行事が行われてきました。納め八日は、読んで字のごとく物事を納める日で、事八日は物事を始めたり納めたりする大事な日のことを指します。

 

この辺りの解説は、以前「針供養」のところで、少し紹介したかと思いますが、すでに忘れている人がほとんどだと思いますので、改めて説明しておきますと、使い古した針や折れた針をを豆腐やコンニャクに刺して、針仕事の上達を祈願しつつ感謝・供養する「針供養(針納め、針休み)」も関西では12月8日に行われます。ちなみに関東では2月8日です。

 

事納めや事始めの「事」ですが、これはもともと「祭り」、或いは「祭り事」を表す言葉で、「コトノカミ」を祀る祭りのことです。その祭りが12月8日と2月8日に行われ、「事八日」、「事の日」と呼ばれました。

 

事八日に関して、祀る神が「年神様」か「田の神様」かで、事始めと事納めの時期が逆転します。この時期の違いは、始める「事」が新年を迎える神の「事」か、農耕に勤しむ人の「事」かによる違いに由来しています。

 

年を司る神を年神様といい、その年神様を迎えるために正月行事の準備を始めるのが12月8日の事始めで、年越しの神事が始まる日というわけです。そして、後片付けなどすべて納めるのが2月8日の事納めになります。こうして年神様にまつわる一連の「事」が終わると、春を迎え田畑を耕す時期になります。

 

もちろん事始めの日は地方によって異なり、関西では1213日が事始め(正月事始め)の日とされ、茶道、舞踏、演劇、花柳界などでは、「事始の餅」と呼ばれる鏡餅を持参して、師匠筋に1年の挨拶に行く習慣があります。また、江戸時代には1213日は大吉日とされた鬼宿日にあたることから、この日が江戸城の「御煤納め」と定められ、「正月事始め」として煤払いや松迎えなどの正月の準備にとりかかり始めました。

 

一方、年神様を迎えるための正月行事が終わって、人の日常生活が始まるのが旧暦2月8日、即ち新暦では3月中旬になります。春が来て暖かくなり、農作業が始まるのがこの2月8日の田の神様にとっての事始めになります。年神様を迎える正月行事という神事の期間が終われば、人々にとっての日常としての田の神様の期間になることになります。一方の始まりは、別の一方の終わりになるという循環の真理がそこに見られるわけです。

 

尚、事八日には「お事汁」を食べる習慣があります。これは事八日に無病息災を祈って食べる野菜たっぷりの味噌汁のことです。別名「六質汁(むしつじる)」とも呼ばれ、芋、ニンジン、大根、ゴボウ、小豆、コンニャクの6種類の具を入れたそうです。ビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富な伝統的な健康食です。

 

ちなみに俳句の世界では、事納め、事始めは冬の季語で、針供養は春の季語になっています。

 

高見澤

 

こんにちは。業務が忙しい中、本日は体調を崩し休まざるを得ない状況に追い込まれています。少し情報のストックがありますので、そこから本日は瓦版をお送りします。

 

さて、本日は「成道会(じょうどうえ)」について紹介したいと思います。成道会とは、釈迦が臘八(ろうはち)〔12月8日〕の暁に、大悟して「成道」したことにちなんで、毎年12月8日に仏教寺院で行われる法会です。「臘八会(ろうはちえ)とも呼ばれています。

 

「成道」とは、菩薩が修行の末、成仏得道、すなわち悟りを開いて仏になることを指します。五井野正博士の『法華三部経体系(総論)』でも説明されていますが、本来、仏になるということは死ぬことではなく、死を超越することであり、今の仏教寺院の解釈とは真逆の発想であることを、肝に命じておく必要があります。

 

「臘」というのは、中国において、冬至後の第三の戌の日に行われる祭りのことを指し、猟で得られた獲物が神や祖先に捧げられます。この臘が転じて、年の暮や旧暦12月が「臘月(ろうげつ)」と呼ばれるようになりました。もちろん中国語でも12月のことを「臘月(layue)」と表すこともあります。新暦での冬至は1222日頃ですが、旧暦では11月中頃になります。戌の日は12日ごとに巡ってくるので、第三の戌の日は旧暦12月の中旬から下旬になります。

 

釈迦族の王子であった釈迦が出家したのは29歳のときと言われいます。最初はバラモン教の教えの下で6年の歳月をかけて難行苦行をするわけですが、それでは悟ることができないと、そこから離れます。釈迦は難行苦行による疲労で倒れてしまいますが、スジャータという村の娘(娼婦とも言われています)に介抱され元気を取り戻します。このときに釈迦に供された食べ物が米を牛乳で炊いた「乳粥」です。体力を回復した釈迦は、菩提樹の下で座禅・瞑想をして7日目の朝に悟りを開くことになります。釈迦が35歳のときです。この7日目が12月8日とされているのです。釈迦が悟る際の気持ちやスジャータの純粋な心については、『法華三部経体系(総論)』に記されているので、読み返されることをお勧めします。


 仏教寺院の中でも、特に禅宗の各寺院では12月1日から8日まで「臘八接心(ろうはちせつしん)」と言われる座禅苦行が行われています。難行苦行では悟れないと釈迦が判断したにもかかわらず、なぜ禅宗ではこの悪しき風習が残っているのでしょうか?


 

 

高見澤

 

おはようございます。今年も残すところ半月を切りました。アッという間の1年でしたが、公的・私的ともに事多き1年であったことは間違いありません。今週金曜日には筑波大学で講義、週末の土日は中国から300名の政府・企業関係者が来日し、トータル800人規模の日中省エネ環境総合フォーラムが開催され、今その準備で大忙しです。日本からは世耕経済産業大臣、中川環境大臣が参加し、中国側からも閣僚級の要人が来日するので、役所もピリピリ、警備も半端ではありません。2カ月連続での大イベントに、私もかなり疲れが溜まっているのが身体でもよく感じています。

 

さて、本日は南信州で行われている「遠山の霜月祭り」について、紹介したいと思います。この祭りは、遠山郷(飯田市南信濃と飯田市上村)に伝わる古風な湯立ての神事・神楽です。遠山郷の各集落の神社12カ所(13社)で、それぞれ日を違えて次々に行われます。例えば、中郷・正八幡宮では12月第1土曜日、上町・正八幡宮では1211日、程野・正八幡宮では1214日、下栗・捨五社大明神では1213日、木沢・正八幡神社では12月第2土曜日といった具合です。そして、国の重要無形文化財にも指定されている南信州を代表する祭りとなっています。

 

遠山の霜月祭りは、その名の通り江戸時代には旧暦11月に行われていました。今は新暦12月に開催されるので、それほど時期にズレがあるようには思えません。実際に冬至は旧暦11月、新暦では1221日頃です。冬至は1年のうちで最も昼が短く、夜が長くなります。日が短くなり、緑だった山々の木々も紅葉、やがて葉を散らし、気温も低下し、山里にも霜や雪が降り積もり冬を迎えます。古代の人々は、こうした自然現象を太陽の光が弱まり、あらゆる生命の力が衰える時期であると考えていました。そして冬至を過ぎると一転して日が長くなり始め、太陽が復活再生すると考えました。この「一陽来復(いちようらいふく)」となるこの節目に、諸国の神々を招いて湯を立て献じ、自らも浴びることによって神も人も生まれ変わるという信仰を伝えるものとされています。しかし、この祭りがいつから行われていたのかは定かではありません。地元の伝承では平安時代の終わりとも、鎌倉時代とも言われています。

 

その一方で、次のような言い伝えも残っています。江戸時代の初めに遠山郷を治めていた遠山氏の三代藩主・遠山景重のとき〔元和4年(1618年)〕に相続争いを理由に幕府によって改易になるという事件が起きます。この争いは領民をも巻き込んで百姓一揆にまで発展、遠山一族は領民によって殺されてしまいます。改易の直後、あるいは寛文年間(1661年~1672年)に疫病が大流行する事態が発生すると、村人たちはそれが遠山一族の怨念による祟りだと考え、怨霊を鎮めるための儀式を加えたとのことです。

 

古くは、この祭りの夜に限って男女の野合が許されていたため、「かつぎ祭り」、「木の根祭り」などとも呼ばれています。また、陰暦霜月に行う収穫が終わったことを祝う祭りであることから、祭神・氏神は荒神が多いとされています。

 

祭り自体は、神前で湯を沸かし神楽が行われた後、舞いながらその湯を人々に掛けます。これを「湯立て」と言います。神職が熱湯を笹の葉に浸し、それを自分の身体や参拝者にふりかけます。穢れを祓い清める力が湯にあると信じられ、これが神楽と融合して芸能化しました。

高見澤

 

おはようございます。毎年、京都の清水寺で発表される今年を象徴する一文字は「北」でした。確かに、日本を含め世界が北朝鮮に翻弄させられた1年であったことは間違いありませんが、ネガティブな観点で世界を捉えると、気持ちも沈み込んでしまいます。何事も常に前向きに捉えることで、世界もまた変わっていくと思います。

 

さて、本日は、師走の最初の年中行事として、「秩父夜祭り」をテーマに取り上げたいと思います。秩父夜祭りは、「秩父祭り」とも呼ばれ、秩父神社の例大祭です。日テレの看板番組「笑点」にレギュラー出演している林家たい平が秩父の出身で、ことあるごとに秩父の宣伝をしていますが、その中にもこの秩父夜祭りがよく取り上げられています。

 

秩父夜祭の開催日は毎年12月2、3日の2日間で、2日は「宵宮(よみや、よいみや)」と呼ばれ、「曳き回し」と呼ばれる秩父屋台の運行があり、各屋台で祭囃子、長唄、踊りなどが披露されます。また、鎌倉時代から続けられている「神馬奉納の儀」が行われ、人々は神馬に選ばれた馬の毛並みによって翌年の天候や豊作を占います。そして3日が「本宮(もとみや、ほんぐう)」と呼ばれる本祭りです。各町内から屋台2台、山車4台が曳きだされ、屋台の上で奏でる囃子にのって神輿行列のお供をします。急坂を山車が引き上げられるのが見物だとか。神輿が御旅所に着くと、屋台の上で素人歌舞伎が披露され、深夜まで花火が打ち上げられます。