東藝術倶楽部瓦版 20171228:名は千載の後までもー「義士祭」

 

おはようございます。今年も残すところ本日を含めあと4日となりました。本日は今年最後の瓦版となります。今年1年、この瓦版にお付き合いいただき、ありがとうございました。来年は新たな気持ちで、この瓦版も充実化させていきたいと思います。

 

さて、今年最後のテーマとして「義士祭」を取り上げたいと思います。

 

「右は高輪泉岳寺、四十七士のはかどころ、雪は消えても消え残る、名は千載の後までも」

 

ご存知「汽笛一声新橋を...」で始まる「鉄道唱歌」の2番です。この鉄道唱歌は東海道編だけでも66番、全国版だと399番まであるというのですから驚きです。それでも日本最長の歌ではないというのですから、何とも...

 

この義士祭は、皆さんもよくご存知の通り、元禄15年(1702年)1214日、播磨国赤穂藩元筆頭家老・大石義雄(よしお、よしたか)〔内蔵助〕を首領とする赤穂藩の浪士47名が、江戸本所松坂町にある吉良義央(よしひさ、よしなか)〔上野介〕の屋敷に討ち入り、主君浅野長矩(ながのり)〔内匠頭〕の仇を討った事件にちなんで行われる供養行事です。一行47名は、翌年2月4日に切腹し、主君長矩の墓のある東京港区の泉岳寺に葬られました。この47名、四十七士の墓では今でも線香の煙が絶えません。

 

本東藝術倶楽部の勉強会でも、東京港区高輪の泉岳寺や墨田区両国(本所松坂町公園)の旧浅野義央邸跡を訪れたことがあり、記憶に残っている方もいるでしょう。この赤穂浪士の仇討の話は、後に浄瑠璃や歌舞伎の「忠臣蔵」として脚色されて江戸庶民の人気を博し、全国にも広がっていきました。歌舞伎や映画の「忠臣蔵」では、この討ち入りの日の1214日の夜から翌朝にかけて雪が降っていたことになっていますが、これが史実であったかどうかは定かではないそうです。

(「仮名手本忠臣蔵十一段目」歌川国芳)

 

討ち入りのこの日、泉岳寺、赤穂大石神社・花岳寺、京都大石神社、新潟新発田市長徳寺、香川県小豆郡土庄町長勝寺などで法会が行われ、多くの参詣者が訪れます。泉岳寺では4月にも春の義士祭が行われています。また、両国の吉良邸跡では、「元禄市」と称して、義士祭・吉良祭が行われます。

 

ところでこの討ち入りは、西暦では何年だったのかという議論があります。当時、江戸で使われていた暦は貞享暦です。元禄15年は西暦では1702年ですが、討ち入りのあった日は同年1214日から15日にかけてで、グレゴリオ暦では1703年1月30日から31日にかけてとなります。では1703年なのかといえば、それはそれで間違いではありませんが、12月ということからすれば変な話しになります。つまり、使う暦によって、1702年または1703年という言い方になる、というのが落としどころかと思います。元禄15年は閏8月が挿入された関係で、グレゴリオ暦の1702年1月28日から1703年2月15日までの13カ月になるので、1年といっても3週間弱のズレが生じることになります。

 

暦の話もいろいろな出来事の歴史を調べてみると、何かと面白い謎を発見することがあります。その謎を理論的に紐解き、それをまた歴史的に残していくという作業もまた、歴史学の醍醐味かもしれません。

 

高見澤

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このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2017年12月28日 08:30に書いたブログ記事です。

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