おはようございます。いよいよ来週月曜日から日本経済界の大型訪中代表団が中国北京に派遣されます。毎日残業続きで準備を行ってきたわけですが、現地ではさらに過酷な日が続きます。今回、私は北京のみの参加で、地方視察先である内モンゴルまでは行きません。その理由は、再来週にまた北京で自動運転に関する官民合同セミナーに再び出張があるからです。2週連続での中国出張とそれまでの準備、帰国後の出張報告とその間に溜まったルーチンの業務。考えるだけでも疲れてしまいそうな毎日です。ということで、来週、再来週と瓦版をお休みさせていただきます。


 


さて、前回説明した「御座船」ですが、本日はそのなかでも、江戸幕府が建造した御座船、「安宅丸(あたけまる)」について紹介していきましょう。安宅丸は、徳川将軍の御座船として軍用船である安宅船をベースに建造したもので、別名「天下丸(てんかまる)」と呼ばれていました。


江戸時代初期の寛永8年(1631年)、大御所となっていた2代将軍・秀忠が向井水軍の総帥・向井将監(忠勝) に命じ、3年後の寛永11年(1634年)に伊豆国伊東で安宅丸が完成します。完成後、安宅丸は江戸湾に回航され、翌寛永12年(1635年)6月に品川沖で3代将軍・家光が試乗します。そして、その後安宅丸は江戸深川の「御船蔵」に係留されました。


 


江戸時代の記録によると、和洋折衷の船型をしていたようで、船首に長さ3間(約5.5メートル)の竜頭を置き、長さ125尺(約38メートル)の竜骨に45本の肋骨の周りに外板が張られていました。竜骨があったことで一般の安宅船とは異なり、船体の丈夫さが伺えます。全長は156.5尺(約47メートル)や30尋(じん)〔約55メートル〕など諸説あり、幅が53.6尺(約20メートル)、深さ11尺(約3.3メートル)で、推定排水量は1,500トンから1,700トンとみられています。艪の数は2人掛けの100挺、すなわち水夫200人です。


 


上部は安宅船に準じた和式の軍船艤装を施しており、2層の総矢倉で船首側に2層の天守を備えていました。外板の厚みは1尺、船体・上構すべてを銅板で包み防火力や船喰虫対策を強化していました。また、大筒5、小筒30、鉄砲80丁が装備されていたほか、絢爛豪華な装飾が施されていました。これだけの巨大船ですから、当時の関船を主力とした諸大名の水軍力では対抗することは不可能で、「日本一の御舟」として江戸の名物の一つにもなっていたそようです。


 


とはいえ、巨体過ぎることから実用性は乏しく、維持費用も嵩んでいたため、奢侈引締め政策の影響もあって、天和2年(1682年)に安宅丸は幕府によって解体されることになりました。これ以降は、関船系の「天地丸」が幕府の御座船として使われることになります。


 


尚、安宅丸の建造については、北条氏直建造説、豊臣秀吉建造説などの異説もありますが、その信憑性は薄いとされています。


 


現在、東京の日の出桟橋を発着地とする遊覧船「御座船安宅丸」が観光クルーズを行っています。その外観は江戸時代の安宅丸を模した形となっています。排水量は486トン、全長約50メートルで、排水量は別としても大きさとしては当時と同じくらいでしょうか。


 


高見澤



 

おはようございます。連日の残業続きで、寝不足が深刻化しています。来週の日本経済界の訪中代表団派遣を控え、準備作業も大詰めを迎えています。中国側に渡す記念品として、昨年、江戸時代の本物の浮世絵が好評だったことから、今年も浮世絵を手渡すことしました。2年連続で同じ種類の記念品を選ぶことは異例のことです。自国の長い歴史・文化・伝統を誇りとし、派手な色彩を好む中国人だからこそ、本物の良さが分かるのかもしれません。

 

さて、本日は「御座船(ござぶね)」について紹介したいと思います。御座船には、江戸時代に裕福な町の人たちが川遊びに用いた屋形船を指すこともありますが、ここでは天王や公家、将軍、大名などの貴人が乗る船、いわゆる「御召船(おめしぶね)」を説明します。

 

御座船は、貴人が使うだけに、その造りは豪華絢爛に仕立てられていました。とはいっても、その型は時代や用途によって大きな違いがあったようです。上部構造である屋形にも数種類あるようですが、総じて屋形は中倉(上段、床几)、次之間、後倉〔舳屋根(へさきやね)、出屋根〕から成っていて、その上に太鼓楼が設置されていました。中倉の前には表出屋根、その下には小床几、左右に旅屋根があります。