はようございます。本日は東藝術倶楽部の忘年会です。池田顧問、キリロラ顧問も参加されての久しぶりの集まりです。どのようなお話が飛び出すか、楽しみです。この週末は、梶原経済産業大臣、小泉環境大臣が参加する日中省エネ・環境総合フォーラムが東京のホテルニューオータニで開催されます。私の所属する組織も、経済産業省とともに日本側主催者として事務局を務めています。日中合わせて800名を超える関係者が集まります。その大イベントが終わったら、翌日の月曜日から土曜日まで北京出張です。今回の出張は医療機器及び医薬品の関連のイベント参加と実態調査です。マクロ経済から始まり、ビジネス環境、省エネ・環境、自動運転、そして医療機器・医薬と異なる分野を取り扱うので、その知識を頭に詰め込むだけでも大変な作業です。ということで、来週は1週間、瓦版も休刊致します。ご理解のほど、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は「常陸川(ひたちがわ)」について紹介したいと思います。常陸川は、かつて下総国を東に流れ香取海に注いでいた川で、現在の利根川下流部にあたる部分です。平安時代には「東の広河(あずまのひらかわ)」、「広潟(ひらかた)」などと呼ばれ、常陸川と称されるようになったのは室町時代になってからのようです。

 

もともと常陸川は、下総国西部の猿島台地(茨城県坂東市)などから南に流れ出す小河川や沼沢の水が集まって東に流れていました。栃木県小山市から流れてくる宮戸川(みやとがわ)や大川などが流れ込んでいたかつての「長井戸沼(ながいどぬま)」〔現在は干拓〕が常陸川の流頭部にあたります。その後、南岸の関宿と北岸の境町との間を通って東に流れ、一ノ谷沼(いちのやぬま)、鵠戸沼(くぐいどぬま)、浅間沼、菅生沼(すがおぬま)などからの水を合流して川幅を広げていました。

 

このように香取海に至る常陸川の流路は低湿地帯で多くの沼が存在していました。途中、現在の茨城県守谷市、取手市、千葉県柏市の境辺りには「藺沼(いぬま)」という細長い湿地帯があり、そこをぬけると古利根川の流路を通って鬼怒川と合流し、香取沼に流れ込んでいました。常陸川自体は流域も大きくなく、水量は多くはありませんでした。

 

江戸時代に入り、利根川東遷事業が始まって常陸川の流頭部が開削され、赤堀川が完成すると利根川の水が一部常陸川に流れ込みます。これにより常陸川の上流の水量が大幅に増加しました。この工事が完成したのが承応3年(1654年)のことです。これに先立ち、鬼怒川〔寛永6年(1629年)〕や小貝川〔寛永7年(1630年)〕と常陸川との合流点の付け替えも行われていたことは、先に説明した通りです。

 

利根川の流れは、利根川東遷事業の後も当初は権現堂川から江戸川への流量が多かったのですが、次第に常陸川への流量が多くなります。その後、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃止され、現在では常陸川が利根川の本流、江戸川が支流という位置付けになっています。

 

利根川が常陸川とつながることによって水量が大幅に増加し、常陸川は銚子と関宿を結ぶ水運の大動脈としての役割を担うようになります。関宿はそれ以前から江戸川を通じて江戸と結ばれていました。

一方で、利根川東遷事業によって常陸川を含む利根川下流部では洪水位の上昇と流入土砂がもたらされ、水害が多発するようになりました。寛保2年(1742年)、天明6年(1786年)には大規模洪水により各所で堤防が決壊し、天明3年の浅間山の噴火では降灰による土砂堆積で川床が著しく上昇するなどの問題も起きました。こうした川床の浚渫工事に重点が置かれるようになるのは、明治・大正以降のことだそうです。


 

おはようございます。一昨日から昨日にかけて、関東北部では小規模な地震が続いています。地震の揺れは大きくても震度4程度ですが、続いているだけに心配にはなります。気象庁によれば、これらの地震の関連性は不明とのことですが、地震発生の正確なメカニズムが分からないだけに、不安は残るばかりです。NHKでは地震に関するドラマ仕立ての番組が放送されていますが、何か予兆のような関連性も感じざるを得ません。

 

さて、本日は前回の小貝川で話題に出ました「関東三大堰」について紹介しようと思います。利根川東遷事業の一環として鬼怒川と小貝川を常陸川に合流させ、小貝川流域の治水事業と新田開発を進めてきたことは、前回ご説明した通りです。その小貝川の瀬替えと伴に、灌漑用水として建設が進められたのが「福岡堰(ふくおかぜき)」、「岡堰(おかぜき)」、「豊田堰(とよたぜき)」の3つの堰で、関東三大堰と言われています。この3つの堰は江戸時代初期を代表する溜井(ためい)方式の堰であり、また規模の大きさからも関東地方有数の堰とされていました。これらの堰の建設にあたったのは、利根川東遷事業を担った関東郡代の伊奈半十郎忠治です。

 

この三大堰のうち、最大のものが福岡堰です。元和年間(1615年~1624年)の新田開発に伴い、寛永2年(1625年)に設けられた堰です。現在は茨城県つくばみらい市北山にありますが、当初は「山田沼堰」と言われるように北山の上流にある山田沼に設置されていました。この堰は、谷和原三万石の水田を潤していました。この山田沼堰が今の北山、当時の福岡地区に改設されたのは享保7年(1722年)のことで、それ以降、福岡堰と呼ばれるようになります。その後、明治19年(1886年)、大正12年(1923年)に改築が行われ、現在の堰は昭和46年(1971年)に再改築されたものです。貯水量275万トン、灌漑面積は小貝川下流左岸に広がる2,800ヘクタールに及んでいます。

 

福岡堰頭首工(とうしゅこう)〔取水口〕から元圦樋管(もといりひかん)〔堤防を横断する水路〕までの1.8キロメートルの堤には、約550本のソメイヨシノが植えられており、茨城県内でも有数の桜の名所になっています。

 

小貝川が鬼怒川と切り離された寛永6年(1629年)の翌年の寛永7年(1630年)に、相馬二万石の広大な新田を潤すために岡堰が設けられます。岡堰の始まりは、小貝川と鬼怒川の分離工事の際に築かれた小貝川を横断する土堰です。岡堰は福岡堰より下流で、ちょうど福岡堰と豊田堰の中間地点、現在の茨城県藤代町にあります。岡堰は小貝川の強い水流を変えるために、萱と竹を使った独自の工法である「伊奈流」が使われ、この工法が後々まで堤防・堰決壊の際にはかなり役立ったと言われています。岡堰においても、当初の場所から少し下流に新しく建設されたのが、現在稼働中のものです。

 

そして、茨城県利根町に設けられたのが小貝川最下流にある豊田堰です。この堰が最初に完成したのは寛文7年(1667年)のことで、当時の堰は現在のものより150メートル上流に設置されていました。豊田堰も灌漑用水の水源として周辺地域の農業生産に重要な役割を果たしてきました。現在の堰は昭和52年(1977年)に完成したもので、長さ275メートル、茨城県竜ケ崎市西部地域1,800ヘクタールに灌漑用水を供給しています。

 

 

おはようございます。昨日朝から降っていた雨も夜の帰宅することには止み、今日は晴天に恵まれるれ、気温も少し上昇するようです。昨日に続き、今日もまた外出、明日もまた外出と、なかなか落ち着いて座って仕事ができない状況です。結局、早朝きてやるか、残業してやるか、あるいはその両方か、という選択肢になってしまいます。そうなると、今の仕事をどう楽しんで自分のものにしていくかというポジティブな発想で取り組むしかありません。今日もまた残業の予感です。

 

さて、本日は「小貝川(こかいがわ)」について紹介したいと思います。小貝川は関東平野を北から南に流れる利根川水系の支流で一級河川です。全長111.8キロメートルは、利根川の支流の中で、鬼怒川に次ぐ第2位の長さを誇り、流域面積は1,043.1平方キロメートルにも及んでいます。

 

小貝川は、栃木県那須烏山市曲畑(そりはた)にある小貝ケ池(こかいがいけ)に源を発し、最初は田畑を潤す灌漑用水路としての小さな流れとして南に向かいます。徐々に川幅を広げながら茨城県に入り、五行川(ごぎょうがわ)〔勤行川(ごんぎょうがわ)〕や大谷川(おおやがわ)などの支流を合わせて、茨城県取手市及び利根町と千葉県我孫子市の境で利根川に合流します。かつて下流部分は、下総国と常陸国の国境になっていました。

 

小貝川は上流に山地を持たない平地河川であることから、頻繁に洪水が起こる「暴れ川」として知られています。古くは「小飼川」、「蚕養川」とも表記され、「前井川(まえいがわ)」や「幸田川(こうだがわ)」と呼ばれることもあります。縄文海進の時には現在の茨城県下妻市辺りまで入り江が湾入し、古鬼怒湾(香取海)を形成していましたが、その後鬼怒川や小貝川の土砂の堆積により古鬼怒湾は後退しました。また、川の氾濫などによる河道の変化も激しく、その跡は広大な氾濫原になっています。土砂により小貝川が堰き止められたときには「騰波ノ江(とばのえ)〔鳥羽の淡海(とばのうみ)〕」と呼ばれた湖を形成したこともありました。

 

近世以前、小貝川は鬼怒川と合流して常陸川に流れ込み、香取海から太平洋に通じていたことは、すでに紹介した通りです。利根川東遷事業の一環として、寛永6年(1629年)に水海道の南で鬼怒川と小貝川を分離して、台地を4キロメートルほど開削して鬼怒川を直接常陸川(利根川)に合流させる工事を行ったことはすでに述べた通りです。翌寛永7年(1630年)には戸田井〔取手市〕と羽根野〔利根町〕の間で取手台地を開削し、押付(おしつけ)〔利根町〕で小貝川を常陸川(利根川)に合流させました。これにより、それまで手付かずだった鬼怒川及び小貝川流域の低湿地の新田開発が進み、灌漑用として福岡堰、岡堰、豊田堰の関東三大堰が設けられました。

 

小貝川の語源については、流域に貝塚があり、小貝がたくさん採れたからだという説、常陸国と下総国との国境を流れていたので「国境(こっかい)」が「こかい」になったという説、アイヌ語の古語で「膝までの川」という意味からきたという説など、諸説あります。

 

高見澤

 

おはようございます。12月に入り、今年も残すところ1カ月を切りました。今週金曜日には東藝術倶楽部の忘年会、日曜日には日中官民合同で開催する「日中省エネ・環境総合フォーラム」、来週9日月曜日から14日土曜日まで北京出張、そして22日日曜日から26日木曜日まで今度は天津出張、27日納会があって、いよいよ年末年始の休暇に入ります。結局、今年も仕事に振り回された1年ということで、また新たな年を迎えることになりそうです。

 

さて、本日は「鬼怒川(きぬがわ)」について紹介しようと思います。鬼怒川は栃木県北西部と群馬県との県境近くにある鬼怒沼山(きぬぬまやま)東麓の日光市鬼怒沼に源を発し、栃木県中央平地、茨城県西部を南流して茨城県南部の守谷市と千葉県柏市及び野田市との境界付近で利根川に流入する利根川水系の一級河川です。全長は176.7キロメートルと利根川支流最長を誇り、流域面積は1,760.6平方キロメートルで、利根川最大の支流として位置づけられています。

 

鬼怒川の上流部は火山地帯で深い山間の渓谷を流れ、流域には鬼怒川温泉をはじめとする多くの温泉地が点在し、中流部は氾濫原(はんらんげん)と呼ばれるかつての洪水が多発した低地部分をゆったりと流れています。中流域には公園などが設けられ、釣りやスポーツなどを楽しむ観光地にもなっています。鬼怒川の豊富な水量を分かつために、放水路兼用水路の役割を担う西鬼怒川に分流する部分もあり、この豊富で上質な水は栃木県諸都市の水源として上水、灌漑用水として利用されています。

 

現在は利根川の支流となっている鬼怒川ですが、江戸時代初期までは太平洋に注ぐ東関東の本流の水系で、常陸川と共に香取海(かとりのうみ)〔古鬼怒湾(こきぬわん)〕へと注ぎ込んでいました。香取海は、江戸時代前まで下総国と常陸国の国境に存在していた内海で、関東平野東部に太平洋から湾入した地形を形成していました。延暦2年(805年)、香取海への河口に近い氾濫原の東南端で鬼怒川を渡船する経路が、下総国から常陸国へと入る東海道として整備されています。現在、香取海は利根川の下流部となっています。

 

鬼怒川は、中世・近世を通じて河川舟運(鬼怒川舟運)に利用されていました。水海道(みつかいどう)〔茨城県常総市〕は商港として栄え、中流域の阿久津河岸(あくつかし)〔栃木県さくら市〕は、会津からの廻米や木炭などの積替え港として賑わっていました。

 

寛永6年(1629年)、利根川東遷事業の一環として鬼怒川と小貝川を分離させ鬼怒川の川道を変え、常陸川との合流点を30キロメートルほど上流に移動させました。以前にも説明した通り、もともと利根川や渡良瀬川は江戸湾に注いでいましたが、利根川東遷事業によって鬼怒川とともに常陸川を通じて香取海に流れ込むようになりました。以降、鬼怒川は利根川の支流として扱われるようになっています。

 

鬼怒川の名称は、実は明治9年(1876年)以降使われるようになり、それ以前には「衣川(きぬがわ)」と表記されていたとのことです。明治時代には「絹川」とも表記されることもありました。奈良時代に編纂された『常陸国風土記』には「毛野河」と称される常陸国各郡を示す名称が見られ、平安初期の『続日本紀』には「毛野川(けぬがわ)」が下総国と常陸国の国境を成すとの記録が残されています。また、鬼怒川の語源として、この地方を治めていた豪族の「紀氏」に因む「紀の川」という説、アイヌ語の古語で「葦の野原を流れる川」を意味するとの説もあります。

 

日光東照宮の輪番記録によると、天和3年(1683年)に日光大地震が起きた際、鬼怒川支流の男鹿川(おじかがわ)が現在の海尻橋付近で隣接する葛老山(かつろうやま)の崩壊で堰き止められ「旧五十里湖(きゅういかりこ)」が出現したそうです。その後享保8年(1723年)の暴風雨により決壊し、死者1,200人を出す土石流が発生するなど、下流地域に大きな被害がもたらされとのことです。

 

高見澤
 

おはようございます。11月も明日で終わり、来週は師走に入ります。今年も残すところ1カ月となり、令和2年を迎えることになります。周りを見渡せば、何事においても外見を繕うことばかりに終始し、本質を求めて根本的に問題を解決しようとか、中身を理解して世の中や事業を少しでも良い方向に向かわせようとかといった信念みたいなものは一切感じられません。この先、いったいどのような世の中になっていくのか、不安の種はつきません。

 

さて、本日は「渡良瀬川(わたらせがわ)」について紹介しようと思います。渡良瀬川は利根川水系の一級河川で、栃木県西部から群馬県東部を経て、茨城県と埼玉県の県境を流れて、利根川に注いでいます。その流域面積は2,621平方キロメートルと利根川支流最大で、流路延長は107.6キロメートルと鬼怒川、小貝川に次いで第3位となっています。

 

栃木県日光市にある標高2,144メートルの皇海山(すかいさん)の登録に源を発し、足尾(あしお)山地山麓にある草木ダムを経て西南に巡り、関東平野に出てからは南東へと向きを変え、その後は群馬県と栃木県の県境を東南東へと進みます。栃木県栃木市に設けられた渡良瀬遊水地に入った後は巴波川(うずまがわ)、思川(おもいがわ)を合わせ更に南下し、茨城県古河市と埼玉県加須市(かぞし)の境で利根川に合流します。

 

一般的には、日光市足尾地区の神子内川(みこうちがわ)との合流部から上流は「松木川(まつきがわ)」と呼ばれ、その下流からが渡良瀬川と呼ばれているそうです。渡良瀬川の名称の元となった日光市足尾地区「渡良瀬」の地名は、日光を開山した奈良時代から平安時代初期にかけて活躍した勝道上人(しょうどうしょうにん)が、川を渡ろうとした際に、ちょうど渡ることができる浅瀬があったことからその場所を渡良瀬と名付けたとされています。