おはようございます。自動車の運転免許証のお持ちの方なら、「横断歩行者妨害」という交通違反がはることはご存知のことと思います。信号機のない横断歩道を渡ろうとしている人がいたら、一時停止をして先に横断させなければ、違反点数2点、普通車の場合は反則金9,000円の処罰が課せられます。これに関して面白い統計があります。JAFによると、この場合、横断歩道で車が止まる確率を都道府県別に調べたところ、止まる確率が最も高かったのは長野県の58.6%、最も低かったのは栃木県の0.9%でした。2番目に高いのは静岡県の39.1%、3番目が石川県の26.9%ですから、長野県のモラルが飛びぬけて高いことが分かります。ちなみに全国平均は8.6%、東京は2.1%で下から5番目という不名誉な結果になっています。明日から北京出張、次回瓦版は来週月曜日7月22日になりますこと、ご了承ください。

 

さて、本日は「駕籠の種類」について紹介したいと思います。前回紹介したように、駕籠の基本的な構造は同じですが、材料や形態等によって乗り心地や景観が大きく変わります。今でもリムジン等の高級車と軽自動車をはじめとする大衆車で大きな差があることは理解できるかと思います。

 

一般に庶民が乗る駕籠は「町駕籠(まちかご)」、「辻駕籠(つじかご)」と呼ばれ、担ぎ手である「駕籠舁き(かごかき)」が駕籠屋に詰め、依頼があると乗客を乗せて運んでいました。また、道中の宿場には「宿駕籠(しゅくかご)」や「山駕籠(やまかご)」と呼ばれる粗末な造りの駕籠もあり、「雲助(くもすけ)」と呼ばれる駕籠舁きのなかには無頼の者もあって、乗客との間でトラブルが生じることもありました。駕籠の速度は通常1時間で1里を走り、速いものでは40分で走り切る場合もありました。江戸と京都の間を走る早駕籠では4日半で走破するのが標準とされていました。

 

宿駕籠や山駕籠の造りは本体、担ぐ柄ともに材料は竹で、人が座る上に屋根を掛けただけの簡易なもので、側面には覆いはありません。町駕籠や辻駕籠は4本の竹を四隅の柱とし、割り竹で簡単に編んで垂れを付けたもので、「垂れ駕籠」、「四つ手駕籠」などと呼ばれていました。京や大坂では、「京四つ路(きょうよつじ)」と呼ばれる四つ手駕籠より少し丁寧な造りの駕籠が使われていましたが、前後の覆いは茣蓙でした。四つ手駕籠や京四つ路となると、柄はさすがに木が使われていました。

 

庶民には縁のなかった駕籠が「大名駕籠(だいみょうかご)」で、「乗物(のりもの)」と呼ばれ一般の駕籠とはまったく異なるものでした。人が乗る部分は箱型になっており、引き戸付で装飾が施された高級感あふれる造りとなっていました。担ぎ棒が長く、数人で担ぐことから「長棒駕籠(ながぼうかご)」ともいわれます。

 

この乗物を利用したのは公家や大名など身分の高い人たちです。徳川将軍が用いたものは、乗用部分を網代(あじろ)張りに溜塗り(ためぬり)にし、柄は黒塗りとされていました。公家もほぼ同じで、官僧は同種のもので溜塗りではなく朱塗りとされていました。女性用のものは「女乗物」と呼ばれ、主に大名夫人が利用し、蒔絵(まきえ)などが施された豪華なものでした。乗物に乗ることが許されていたのは限られた身分の人たちで、医者も特例として比較的簡素な乗物に乗ることができたようです。

 

乗物の担ぎ手は「六尺(ろくしゃく)〔陸尺〕」と呼ばれ、乗物を所有する家専属の担ぎ手でした。家の身分や格式に応じた人数の六尺が置かれ、採用に際しては高い担ぎ技術と長身の身長が求められました。六尺の名称については、「力者(りきしゃ)」が訛ったという説、1丈2尺(12尺)の棒を2人で担ぐからという説、古代中国の天子の輿が6尺四方だったからなどの説があります。

 

駕籠や乗物に関しては、厳格な決まりがあり、その定めを「乗輿(じょうよ)の制度」といいます。最初の御触れが出されたのは文禄4年(1595年)のことで、豊臣秀吉によってでした。これを徳川家康が引き継ぎ、元和元年(1615年)の「武家諸法度」で身分や年齢等による細目が定められました。庶民が使う辻駕籠についてもその数が制限されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。3連休は少しムシムシしたものの、気温は上がらず、比較的涼しかったように思えましたが、如何でしたでしょうか。昨日は中国の上半期の経済成長率が発表され、前年同期比6.3%増と景気減速感が伝えられていますが、それでも日本の2.5倍の経済規模を誇るなかで6%台の成長率を維持するのはそう容易なことではないと思います。とはいっても、この数字の根拠が正しければの話ですが...。統計数字は一つの目安に過ぎないことも理解しておくことが大事です。

 

さて、本日は江戸時代の陸路での主要な移動手段であった「駕籠(かご)」について紹介してみたいと思います。現在、世界では年間に約1億台の自動車(乗用車及びトラック・バス)が販売されており、そのうち日本ではその5%強の500万台が売られ、陸上での重要な交通・輸送手段となっています。もちろん、江戸時代には自動車などなく、その役割を果たしていたのが人力による駕籠や荷車、馬や牛などの動物を動力源とした車でした。

 

駕籠については、皆さんも時代劇などでよくご存知かと思いますが、人が座る部分を1本の棒に吊るして、複数人でその棒を前後から担いで運ぶ乗り物です。人が座る部分は竹製の簡易なものや、木製の箱型のものなどいくつかの種類があります。その動力源はあくまでも人で、一般には2人1組で走りますが、交替要員を含む3人1組で担ぐ場合は「三枚肩(さんまいがた)」、4人1組の場合は「四枚肩(しまいがた)」、更に8人の場合は「八枚肩(はちまいがた)」或いは「八人肩(はちにんがた)」と呼んでいました。四枚肩では4人一緒に担ぐ場合と、2人ずつ交替で担ぐ場合がありました。

 

駕籠の起源は定かにはなっていませんが、古代にはすでに使われていたとの説もあり、中世後期にその形がほぼ定まったといわれています。従来は公家や武家が使っていたものですが、江戸時代には庶民にも広く使われるようになりました。自動車の保有台数が国民の豊かさを示す一つの指標であるとすれば、江戸時代は飛躍的に庶民が豊かになったことを示しています。

 

古来、中国や西洋では馬車や牛車が広く発展しましたが、江戸時代にはそうした車が広く使われたという記録はなく、普及しなかった理由はよく分かりません。もともと平安時代から中世にかけては牛車が使われていましたが、江戸時代にはほとんど使われなくなっていたようです。

 

駕籠といっても用途や使う人によって様々な違いがありました。一般的に庶民が使うものは、まさに駕籠と呼ばれるもので、大名や公家など身分が高い人が使う引き戸のついたものは特に「乗物(のりもの)」と呼ばれていました。ちなみに、2本以上の棒の上に人が乗るを載せたものは「輿(こし)」と呼ばれ、駕籠とは区別されています。

 

明治以降、人力車が駕籠に代わって人々の移動手段となります。次回はいろいろな駕籠の種類について紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。梅雨らしい天気が続いています。昨日から降り始めた雨は今朝になっても降り続いている東京ですが、もう暫くしたら曇りになるとの予報です。今日は午後から経済産業省で打合せ、夜は公安関係の人と会食と、落ち着いて作業できる時間がとれません。明日からの3連休もパソコンや資料とのにらめっこが続きそうです。

 

さて、本日は「四谷大木戸」について紹介したいと思います。前回も説明した通り、四谷大木戸は、甲州街道に設けられた江戸へ出入りする際の検問所です。日本橋から甲州街道を歩き第一宿である内藤新宿〔元禄12年(1699年)開設〕に至るには、この四谷大木戸を通らなければなりませんでした。

 

四谷大木戸が設置されていた場所は、現在の新宿通り(国道20号線)と外苑西通り(東京都道418号線北品川四谷線)が交差する四谷四丁目の交差点辺りです。現在、この交差点上が四谷大木戸跡として東京都指定旧跡となっています。この近辺は今でも「大木戸」と呼ばれていますが、行政上の地名としては残っていません。ただ、新宿御苑の東北側の出入り口は「大木戸門」の名称が使われ、四谷四丁目交差点から外苑西通りの一つ北の交差点は「大木戸坂下」と命名されています。

 

江戸幕府によって四谷に大木戸が設けられたのは元和2年(1616年)のことです。高輪大木戸と同じように、道の両側に石垣で囲まれた土塁が築かれ、その間に大きな木戸が設けられていました。木戸の間口は2間半(約4.5メートル)と狭く、当初は明六つに門が開けられ、暮六つに閉じられていましたが、寛政4年(1792年)以降は、木戸が撤去され、土塁だけが残りました。この土塁も明治維新以降に、交通の障害になるとのことで撤去されてしまいます。また、当時描かれた四谷大木戸の絵をみてみると、江戸市街地側に石畳が敷かれている様子が伺えます。これもまた、明治以降に撤去されてしまいました。