おはようございます。最近、特によく思い出すのが、五井野正博士のいわれていた「現代は科学の発展なしに、技術ばかりが発展した」というご指摘です。現代社会はまさにそのような世界になっており、車の運転やインターネットの利用、スマホの使用、原子力をはじめとするエネルギーの利活用などあらゆる場面で本来の主旨とはまったく異なった使い方をしている者が何と多いことか! 最近のニュースばかりでなく、街を歩いていても、もはや人間のモラル以前の問題だと日々感じる次第です。

 

さて、本日は「樽廻船(たるかいせん)」について紹介しようと思います。樽廻船は、江戸時代に主に大坂などの上方から江戸に酒樽を輸送するために用いられた貨物船(廻船)のことで、「酒樽積廻船」、「酒樽廻船」、「樽船(たるぶね)」などとも呼ばれています。元々は前回紹介した菱垣廻船と同様に使われていましたが、重要な船荷の一つである「酒」の取り扱いを巡って、酒問屋が独立する形で樽廻船が誕生することになりました。

 

寛永4年(1627年)に菱垣廻船運航の基礎が出来上がったことは前回紹介した通りですが、その流れを受けて正保年間(1644年~1647年)に、大坂の西にある伝法〔大阪市此花(このはな)区〕の船〔伝法船(でんぽうぶね)〕が、伊丹(兵庫県伊丹市)の酒を積んで江戸に送る「下り酒」の商売を始めました。そして、万治元年(1658年)、伝法船を所有する船問屋が誕生します。伝法船は菱垣の無い弁財船の一種で、菱垣廻船よりも深さを少し増して、船倉を広くしていました。

 

寛文12年(1672年)に河村瑞賢によって西廻り航路が整備されると、伊丹の造り酒屋の支援によって伝法船は大いに栄えました。酒の生産地としては伊丹、池田(大阪府池田市)、灘(兵庫県神戸市・西宮市)などがありました。酒のほかに酢、醤油、塗り物、紙、木綿、金物、畳表などの「荒荷(あらに)」と呼ばれた雑貨品も積み合わせて輸送していました。酒樽は重量があるので下積みし、荒荷は上に載せるのが一般的でした。酒樽の大きさは四斗(約72リットル)樽に統一していたので積み込みが速いのが特徴でした。また、伝法船は300石~400石積みの廻船で船足が速かったことから、「小早(こはや)」と呼ばれていました。

 

元禄7年(1694年)に不正や海難事故の防止を目的として大坂に「二十四組問屋」、江戸に「十組問屋」がそれぞれ結成され、菱垣廻船はこの両問屋に所属することが義務付けられます。そして、菱垣廻船においても重い酒樽は下積荷物として取り扱われていました。海難事故が起きた際には、通常は先に上積荷物である荒荷が廃棄されます。しかし、廃棄された荷物に対する補償をすべての問屋が共同で負わされるという不公平感、更には生ものである酒を迅速に輸送する必要性から、享保15年(1730年)に酒問屋は菱垣廻船に関わる上記二つの問屋グループから脱退し、新たに酒輸送専門の「樽廻船問屋」を結成、独自の運営を始めたのです。

 

本来は、酒樽という単一の商品を取り扱うにすぎなかった樽廻船も、輸送時間の迅速さが評判となり、余積(よづみ)といって酒以外の荷物も安い運賃で輸送するようになります。これが菱垣廻船との激しい貨物争奪戦へと発展していきます。こうした競合を防止するために、安永元年(1772年)に「両廻船協定」が結ばれ、翌安永2年(1773年)には「株仲間公許(かぶなかまこうきょ)」が出され、酒は樽廻船の一方のみ、米、糠、藍玉、そうめん、酢、醤油、蝋燭は樽・菱垣両積み、そのほかはすべて菱垣の一方積みと定められました。しかし実際には、この協定も十分には守られていなかったようです。

 

運賃の安さと運送時間の迅速さによって菱垣廻船を圧倒した樽廻船ですが、幕末の蒸気船の出現により大きな打撃を受け、明治7年(1875年)にこの二つの廻船は合併することになりました。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京も昨日と同様に比較的涼しい朝を迎えています。とはいえ、昨日も日中は蒸し暑さが酷かったように、今日もまた汗ばむことが予想されます。中国では気温が40℃を超えると職場が休みになったり、賃金を余計に払わなければならなくなったりなど、生産活動や生活に影響が出てくることから、実際に40℃を超えていたとしても、気象当局は39℃と発表しているという話も聞きます。真偽のほどは分かりませんが、あり得ない話ではありません。

 

さて、本日は「菱垣廻船(ひがきかいせん)」について紹介したいと思います。菱垣廻船とは、江戸時代に大坂などの上方と消費地である江戸とを結んだ貨物船のことを指します。「菱垣(ひがき)」とは、舷側(船縁)を高くするための構造物である「垣立(かきだつ)」の一部に菱型の格子状の木枠を組み込んだ装飾品のことです。

 

諸大名による外国との勝手な通商を大きく制限した江戸幕府は、慶長14年(1608年)に西国の諸大名に対して500石以上の軍船の建造を禁じ、これが民間の船舶にも及び、家光の時代には帆柱一本の和船が一般的になります。とはいえ、社会の安定とともに国内物流が大きく発展すると、幕府も商船の大型化は認めざるを得ず、中には1,000石を超える船も建造されるようになりました。菱垣廻船として使われる船は、いずれも「弁財船(べざいせん)」と呼ばれる大和型和船が使われていましたが、これについては後日説明したいと思います。

 

菱垣廻船の誕生は江戸時代の初期、元和5年(1619年)まで遡ります。和泉国堺の船問屋が、その年に紀伊国富田浦から250石積みの廻船(貨物船)を借り受け、大坂から木綿、油、綿、酒、酢、醤油などの商品を積み込んで江戸に送ります。これが発端となって、廻船としての定期航路への道が開け、多種多様な日常の物資が大坂から江戸に盛んに運ばれるようになりました。これが菱垣廻船の始まりです。

 

寛永元年(1624年)、大坂北浜の泉屋平右衛門(泉屋平衡門)が江戸積船問屋を開き、菱垣廻船問屋が成立します。続く寛永4年(1627年)には毛馬屋、富田屋、大津屋、荒屋傾屋、塩屋の5軒が開店して「大坂菱垣廻船問屋」が成立、ここに菱垣廻船の運航が独立した業態として確立しました。廻船問屋は、自ら手船を所有する場合もありましたが、多くの場合は紀伊国や大坂周辺で廻船を雇い入れて営業していました。