おはようございます。朝晩はめっきり冷えるようになった東京ですが、それでも早朝に歩いてくると少し汗ばむ感じがします。江戸城田安門前の銀杏の葉の色が変わり始めているのを見ると、騒然とした人間社会とは関係なく、静かに過ぎていく時の雄大さを感じざるを得ません。

 

さて、本日は「奉書火消(ほうしょびけし)」について紹介したいと思います。

「奉書(ほうしょ)」とは、古文書の様式の一つで、近侍者が上位者の意を奉じて下達する文書のことを指します。

 

江戸時代初期は、江戸では火消の制度が定められていなかったことは、前回説明した通りですが、実際に江戸城が火事となった場合には、老中や若年寄が大番組、書院番組、鉄砲組等の旗本に命じて消化活動を行っていました。江戸市中において、大名や旗本の屋敷などの武家地で火災が発生した場合、大名や旗本自身で対応し、町人地では町人自身が消化活動を行うのが通例でした。武家地と町人地は明確に区分されており、慶長18年(1613年)に出された禁令では、町人地の火事に武家奉公人が駆けつけることは禁じられていました。

 

そうしたなか、寛永6年(1629年)に奉書火消の制度が定められます。これは、火事が発生すると、老中の名で奉書を諸大名に送り、諸大名を招集して消化にあたらせる制度です。しかし、このやり方では、火災発生から奉書を用意して、大名に使いを出し、その奉書を受けて大名が家臣を引き連れて火災現場に向かうという手間のかかるもので、緊急を要する火事に対しての効果はほとんど期待できるものではありませんでした。しかも、大名やその家臣は平時から消火訓練など行っていなかったものですから、消火活動も形ばかりのものであったと思われます。

 

高見澤

 

おはようございます。今月25日、北京で「日中省エネ・環境総合フォーラム」が開催されます。私の所属する組織もその主催者の一人になっており、これまた総動員体制でこの大イベントに臨んでいます。私自身、そのイベントの前に自動運転の調査事業で深圳に入り、その足で北京に赴き、フォーラムに参加することになります。日数的には5泊6日ですが、香港経由ということもあって移動距離は思っているほど短くはないようです。

 

さて、本日からしばらくの間は江戸の消防組織、「火消(ひけし)」について紹介していきたいと思います。江戸時代において、火消というのは、江戸の消防組織とそれに加わる構成員のことを指していました。

 

「火事と喧嘩は江戸の華(花)」ともいわれるように、とにかく江戸では頻繁に火事が起きていました。江戸幕府開幕当初の慶長6年(1601年)から幕府最後の慶応3年(1867年)までの267年間で、大火事だけで49回、小さなものも含めると1798回の火事が発生したとの研究報告もあります。

 

江戸時代初期には、まだ火消の制度が確立されていませんでしたが、度重なる出火を契機に、先ずは大名を中心とした「武家火消(ぶけびけし)」が制度化され発展していきました。江戸時代中期には、享保の改革によって「町火消(まちびけし)」が制度化され、江戸時代後期以降はこの町火消が江戸の消防活動の中核を担うようになります。

 

江戸時代の消防組織としては、武士によって組織された武家火消、町人によって組織された町火消の二つに大きく分かれますが、武家火消には大名に課役として命じられた「大名火消(だいみょうびけし)」と、幕府直轄で旗本が担っていた「定火消」に分けられます。定火消については、すでに江戸幕府の役職で詳細に説明したので、本シリーズでは特に説明しませんが、次回以降、それぞれの消防組織について紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は小雨が降っていました。11月もそろそろ中盤に差し掛かるかという時期で、寒さも少しずつ身体に感じるようになりました。季節の変わり目ということもあって、我が職場では体調を崩す人が若手を中心に続出しています。若い人ほど、身体の抵抗力が低下しているのが分かります。そういえば、最近は著名人の訃報のニュースが増えているように感じるのも気になります。

 

さて、江戸町奉行所の重要な組織として、もう一つ「江戸町火消」がありますが、これは江戸の消防シリーズでまとめて説明したいので、江戸町奉行所シリーズは取り敢えずここで一旦終了させていただきます。

 

そこで本日は、江戸時代にあったとされる身分制度、「士農工商(武士、農民、職人、商人)」について説明したいと思います。士農工商という言葉は、元々は古代中国から用いられてきたもので、身分制度というよりは、社会の構成要素である官吏、農民、職人、商人を指す概念で、「四民」とも呼ばれていました。紀元前7世紀に活躍した斉国の宰相・管仲の作とされる『管子』には「士農工商四民、国の礎(士農工商四民者、国之石民也)」と記されています。

 

古代中国における身分制度の考え方として、「士」は都市国家社会においては支配階層である族長や貴族を、官僚社会成立以降は国家統治に携わる官吏や知識人を指していました。中国では伝統的に、土地に基づかずに利を求める「工」や「商」よりも、土地に根付いて食糧を生み出す「農」が重要視されてきたことは言うまでもありません。この概念や考え方が日本に取り入れられるようになったのは、奈良時代以前とされています。

 

日本でも戦国時代以前は、徒歩や足軽の多くは戦時に農民が駆り出されたもので、「士」と「農」との区別はかなり曖昧なものでした。それが、豊臣秀吉によって行われた天正9年(1582年)の太閤検地や天正16年(1588年)の刀狩などによって、次第に武士と農民が分離、それぞれの役割が固定化され、職業となっていきました。

 

こうした兵農分離政策による職業の固定化は、江戸時代に入って更に強化され、職業自体が世襲制となりました。武士の次に江戸の経済の本となる米を生産する農民が尊ばれ、次にモノづくりの工人(職人)、そして一番下層に生産物を生み出さない商人という順番で身分が決められた士農工商の身分制度となった...、というのが、これまでの教科書に書かれていた定説でした。

 

しかし、その後の研究によって、江戸時代の士農工商は身分制度というよりも、職業を表す概念だったというものです。身分制度としては、「士」を支配者層として他の「三民(農、工、商)」より上位に置かれ、三民についての上位・下位は存在していなかったということです。身分としては、支配階層の「士」の下に、農村にいる「百姓」と町にいる「町人」が同列に存在していたというのが、本当のところのようです。

 

「百姓」といのは決して農民のみを表すものではなく、農村に住む職人は百姓、同じ職人でも町に住めば「町人」と呼ばれていたようです。つまり、百姓や町人というのが身分であって、彼らは「平人(へいじん)」としてくくられていました。

 

江戸時代の職業は原則的には世襲されていましたが、百姓・町人間の職業の移動は比較的容易であり、下層武士(徒歩)と上層百姓との間にもある程度の流動性があったようです。とはいえ、中上層武士の身分移動はほとんどなく、武士と百姓・町人との間の身分制度自体は強固なものであり、こうした身分移動は個別事例として一程度の柔軟性を有していたというのが実際のところでしょう。

 

江戸時代には、武士と平人(百姓・町人)の間には身分的に大きな格差があり、更に加えて「穢多」、「非人」という下の階層があったとされています。これについては、江戸町奉行所の役職、「穢多頭」、「非人頭」で少し触れましたが、これらは平人と比べて下の存在とされていたものが、明治以降、平民(一般民衆)とは別個の存在として扱われ社会的差別を受けたとの説があります。

 

しかし、こうした差別が発生した原因は、当時の江戸幕府の政策のみあるのではなく、江戸時代以前の中世から存在していた血や死などの「ケガレ」に従事する職業に対する畏怖や畏敬などの感覚が、民衆の間で徐々にマイナスに働いていったという説もあります。

 

高見澤

 

おはようございます。米国の中間選挙も終わり、上院は共和党、下院は民主党が過半数を占めるねじれ現象となりました。閣僚の人事権や条約批准等の外交政策に強い権限を持つ上院が過半数を占めたことで、トランプ大統領としては一安心といったところでしょうか。とはいえ、残された2年間の政治運営は困難が続くものと思われます。

 

さて、本日は江戸町奉行所の配下にあった「穢多頭」、「非人頭」について紹介したいと思います。「穢多」、「非人」については、江戸時代以前の身分制度における被差別階層としてのイメージが強く、今でも一部の地方では選挙対策として被差別部落問題への対応が重視されることも少なくありません。また、差別用語として、放送禁止用語にもなっており、過去発言や表現をめぐり問題になったことも1回や2回ではありません。このため、少し慎重過ぎる面もあるかもしれませんが、本稿は公式ブログには掲載しない方が宜しいかもしれません。とはいえ、事実としてこうした職制があったことは、会員の皆様にもご承知いただければと思うので、敢えて紹介していきます。

 

最近では、江戸時代の身分制度についてはかなり研究が進み、従来我々が教科書で習ってきたことと大分異なっていたことが分かってきていますが、それについてはまた別の機会を設けて説明します。ここでは、あくまでも江戸町奉行所配下の職務としての穢多頭、非人頭について説明していきます。

 

江戸幕府の庇護の下、水戸藩・喜連川藩・日光神領等を除く関八州、伊豆全域及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統括していたのが「弾左衛門」という頭領でした。穢多頭というのは、あくまでも幕府側の呼称であり、自らは「長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門」と称していたそうです。

 

また、浅草を本拠としていたので「浅草弾左衛門」とも呼ばれていました。弾左衛門は代々世襲で、幕府から様々な特権を与えられ、生活はかなり豊かでした。弾左衛門の屋敷は浅草の山谷堀の今戸橋と山谷橋の間に位置し、かなり広い敷地だったようで、屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか、300400人の役人家族が暮らしていました。

 

こうした穢多階層の主な仕事は皮革加工や燈芯・竹細工の製造販売で、特に皮革産業は武具の製造には欠かせない軍需産業に携わる者として、差別をうけつつも幕府の保護を受けていました。一方、江戸幕府の役職としては、町奉行所の支配を受け、江戸市中の警備・警察、刑場と刑の執行管理を務めていました。また、斃牛馬の処理なども行っていました。

 

この穢多頭の支配を受け、刑罰執行の処理の下役を行ったのが非人頭で、その非人頭の下で多くの非人が実際の処理を行っていました。非人といっても大きく分けて「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」に区別されます。代々非人素性の者や刑罰によって非人となった「非人手下(ひにんてか)」と呼ばれる者が抱非人で、非人頭の下で非人小屋に属し、非人頭と呼ばれる小屋主の配下に置かれていました。一方の野非人は「無宿非人」と呼ばれ、非人小屋に属さない浮浪者を指します。

 

穢多頭の支配を受けて、町奉行所管轄の仕事をしていのは言わずもがな抱非人です。江戸には約3,000人、或いは4,0005,000人いたという説もあり、これら非人については浅草を拠点としていた非人頭代表の「車善七」が統括し、その下にいた各地の非人頭の支配下にありました。車善七は享保7年(1722年)に穢多頭の弾左衛門の支配下に入ったとされています。

 

代表的な非人は以下の通りです。

・車善七:江戸非人の統括、浅草溜支配

・松右衛門:車善七に次ぐ勢力、品川溜支配、品川仕置場(鈴ヶ森刑場)雑事

・次郎兵衛:中橋(京橋川)在、南町奉行所仮牢雑事

・新四郎:四日市(日本橋)在、北町奉行所仮牢雑事

・長兵衛:谷在、伝馬町牢屋敷雑事

・善三郎:深川(富岡八幡宮門前)在、引き廻し晒しの棒突き

・惣左衛門:浅茅ケ原在、処刑死骸片付け

・久兵衛:代々木在、その他雑事

このうち、非人頭とされるのは、善七、松右衛門、善三郎、久兵衛の4人で、総代表は善七、善七は主に江戸の北半分、善七に次ぐ勢力の松右衛門が江戸の南半分を支配していました。善三郎は善七に、久兵衛は松右衛門に属していました。こうした非人頭の下に3040の小屋があり、それぞれに小屋頭があり、小頭、小屋者を支配していました。彼らの活動費用は、主に「勧進」と呼ばれる寺社再建のための浄財の寄付を求める募金によって賄われていました。

 

江戸の町の治安が維持され、衛生な環境が整備されていた裏には、こうした人の嫌がる雑務を処理していた人たちの存在があったことを忘れてはなりません。現在では、こうした役割は地方自治体の公務員に引き継がれています。

 

高見澤
 

おはようございます。米国では、いよいよ中間選挙が始まりました。米国大統領の任期は4年、2期8年までしか大統領を務めることができますが、中間選挙は大統領の任期の2年目に行われる連邦議会の議員を選ぶ選挙のことを指します。今回の中間選挙では上院の三分の一、下院のすべての議席の改選が行われ、トランプ大統領が所属する共和党が過半数を維持できるか否かが焦点です。早ければ、本日の午後にでも大勢が判明するとのことですが、結果はどうでしょうか?

 

さて、本日は「江戸町地割役(じわりやく)」について紹介したいと思います。江戸町地割役とは、江戸の町の「地割」や「地渡し」の際の測量を担当する町役人のことを指します。

 

江戸の町方の測量については、当初は江戸町奉行所の依頼によって、大工頭の「木原内匠(たくみ)」が担当していましたが、依頼件数が急増したことから、木原内匠の下で働いていた町役人たちを町方で引き取ることになりました。木原内匠からその役割を引き継いだのが、内匠の親戚筋にあたる木原勘右衛門でしたが、宝永7年(1710年)に三代目の与右衛門が不行跡により解任されてしまいます。

 

木原与右衛門に代わって地割役を務めることになったのが、日本橋の名主であった樽屋三右衛門(たるやさえもん)です。樽屋といえば、以前紹介した町年寄の一家ですが、三右衛門の先祖は町年寄樽屋の先祖である樽三四郎の次男・惣兵衛だとのことです。三右衛門は日本橋南通一丁目新道にあった木原の居宅を拝領して業務にあたりました。木原の居宅も実は幕府から与えられたものでした。江戸町地割役は、これ以降、樽屋の分家として当主は代々三右衛門を名乗って、名主役の樽屋とは分離していき、明治2年(1869年)に廃止されることになります。