おはようございます。芸能界については興味がなく、主だったタレントもほとんど知らないのですが、それでも芸能界に薬物汚染が広がっているとのニュースに関しては無関心ではいられません。人間崩壊へと導く違法薬物の類は、国や民族をも滅ぼす結果になることは、1840年に中国と英国との間で起きたアヘン戦争の歴史をたどればよく分かることです。英国が如何に卑劣な手段を使って中国・清朝が滅ぶきっかけを作り、中国という巨大国家がその後の屈辱的な歴史を歩むことになったのか。その歴史的事実を、もう一度おさらいしてみる必要があるでしょう。

 

さて、本日は江戸時代最大の土木工事の一つとされる「利根川東遷事業」について紹介したいと思います。以前、江戸の河川舟運に重要な役割を果たした「内川廻し」を説明した際に、簡単に説明しましたが、ここでは少し詳細に紹介していきましょう。

 

慶長3年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いて以降、三河譜代の家臣・伊奈忠次を祖とする伊奈氏が江戸の河川事業の中心的役割を果たしていくことになります。当時、利根川の下流域であった江戸は、荒川などの河川交通と江戸湾の湾内交通である程度は栄えていたものの、その多くは湿地帯で河川の氾濫も少なくなく、江戸の街づくりに治水は必要不可欠な問題でした。また、人口の増加に伴って増大する江戸の街の人々の消費需要を賄うためには、物流路としての水運ルートの確保が必須となっていきました。

 

家康は伊奈忠次を関東代官職に任じ、関東周辺の河川事業に当たらせます。慶長15年(1610年)に61歳で忠次が没すると、嫡男・忠政が後を継ぎますが、忠政も元和4年(1618年)に34歳の若さで世を去ります。その後、忠次の次男・忠治が関東代官職を務めることになりました。

 

元和7年(1621年)、伊奈忠治の指揮の下、佐波(ざわ)から旗井(はたい)〔埼玉県加須(かぞ)市〕までの「新川通(しんかわどおり)」と、中田〔茨城県古河市〕及び川妻〔茨城県五霞(ごか)町〕の間から境町〔茨城県境町〕までの赤堀川の開削が始まります。これが利根川東遷事業の始まりとなりました。新川通の開削に当たっては、先ず浅間川の締切りと権現堂川の拡張が行われ、これによって利根川と渡良瀬川が合流することになりました。これによって権現堂川とその下流の太日川(ふといがわ)が利根川の下流になります。この太日川が現在の江戸川の基本的な川筋となりました。

 

一方、赤堀川の掘削は台地を掘削するために、難工事となって忠治の前に立ちはだかります。赤堀川の掘削の主要な目的は、利根川から太平洋への分水嶺を越える水路を開削することで、利根川の水を香取海へ注ぐ常陸川へ流し、太平洋に注ぐ銚子河口までつながる水運路を整備することにありました。この工事は元和7年、寛永12年(1635年)と2回に渡り失敗していますが、承応3年(1654年)の3度目の掘削工事により渇水期においても常時通水ができるようになり、これによって利根川東遷事業が完成しました。ただ、この時の赤堀川の川幅は10間(約18メートル)程度と狭く、利根川の洪水を流下させる機能はなかったようです。とはいえ、これで太平洋から銚子河口を通じて江戸につながる水運のルートが確立したことは大きな成果でした。

 

利根川東遷事業の成果として、以下の点が挙げられています。

①江戸及び利根川流域の水害対策としての治水

②利根川流域の新田開発

③水運整備と街道整備による物流ルートの確保

④仙台伊達藩を仮想敵国とした江戸防衛ラインの構築

 

江戸の河川事業はまだまだ続きます。

 

高見澤
 

おはようございます。今朝の東京は幾分か温かく感じます。昨夜は少し雨が降ったようで、道路が濡れていましたが、今は雨も降っていません。都心でもそろそろ木の葉の色が黄色くなり始め、植物も冬に向かって準備を整えつつあるところでしょうか。明日は所用により瓦版がお送りできません。ご了承ください。

 

さて、本日は江戸時代初期のもう一つの河川事業である「備前堤(びぜんづつみ)」の整備について紹介してみたいと思います。備前堤は慶長年間(1596年~1615年)に、関東郡代の伊奈備前守忠次によって築かれた堤防で、その目的は綾瀬川下流域で頻発していた水害を抑えるためであったと言われています。

 

綾瀬川は埼玉県中東部にある桶川市小針領家(こばりりょうけ)付近の田園から集まる落水が源流となり、埼玉県内を南流して東京都葛飾区内で中川と合流し、東京湾に注ぐ一級河川です。川の長さは47.6キロメートル、流域面積は176平方キロメートルです。もともとは利根川と荒川の本流を成して江戸湾に注いでおり、当時の利根川と荒川は現在の元荒川の川筋をたどり綾瀬川に流れ込んでいました。

 

備前堤が築かれたのは高虫村(埼玉県蓮田市高虫)と小針領家村(埼玉県桶川市小針領家)の間で、その長さは500間(900メートル余)、底部幅6間(約11メートル)、上部幅2間(約3.6メートル)です。この堤により赤堀川を締め切ることで荒川(元荒川)と綾瀬川が切り離され、綾瀬川中下流域の水害が抑えられ、低湿地の開発と綾瀬川流域の用水源の確保が可能になりました。

 

こうした部分的な河川整備の積み重ねが、利根川東遷事業という一大プロジェクトの下地になっていくのです。

 

高見澤
 





おはようございます。中国に行くたび、どうして中国人は誰もが先を争って前に行こうとするのかと感じます。中国には「疾不必生、徐不必死」という古い言い回しがあります。「急いだからといって生きられるわけではないし、ゆっくりしたからといって死ぬわけではない」という意味です。紀元前500年頃、春秋時代の斉の国の宰相・晏嬰(晏子)の言葉ですが、2500年前の教訓が全く活かされていないことに人間の愚かさを感じざるを得ません。最近の日本人も街を歩く時や電車の乗り降りにも、そうした傾向が頻繁にみられるようになり、理解に苦しむ行動を見ることが多くなりました。モラルを重んじていると世界から評価が高かった日本人はどこに行ったのでしょうか?


 


さて、これまで江戸の川として隅田川、利根川、荒川、江戸川と江戸に大きな役割を果たしてきた代表的な川を紹介してきました。これで基本的な江戸時代のこれらの川の流れはご理解いただけたかと思います。そこで、本日からは江戸時代に行われた大規模な河川事業について紹介していきたいと思います。先ずは、徳川家康が江戸入府後に、最初に行った「会の川締切(あいのかわしめきり)」についてです。


 


「会の川(あいのかわ)」は、埼玉県北東部に位置する羽生市(はにゅうし)と加須市(かぞし)を流れる川で、もともとは羽生市で利根川から南側に分流し、加須市辺りで同じく利根川の旧流路であった「浅間川(あさまがわ)」〔現在は廃川〕と合流して利根川の本流となっていました。江戸時代初期までは、利根川が大落古利根川の流路を通り、荒川(元荒川)などを合わせて江戸湾に注いでいたことは、これまでにも紹介してきた通りです。



文禄3年(1594年)、忍城主であった家康の四男・松平忠吉が小笠原三郎左衛門に命じて、当時利根川の本流を形成していた会の川を締切り、利根川本流を東に導いて浅間川筋とし、更に島川から権現堂川へと導きます。これにより、利根川が東方向に流路が一本化され、渡良瀬川(太日川)に連結するようになります。この工事を「利根川東遷事業」の始まり、第一次改修とする説もありますが、近年の研究では、この会の川締切は忍領の水害対策が目的であり、元和7年(1621年)以降に行われた利根川の河川整備と切り離して考えるべきとの見方もあります。


 


しかし、会の川締切だけでは、利根川の下流部の水害は依然として解決していなかったようです。文禄4年(1595年)に徳川四天王の一人で上野舘林城主・榊原康政が利根川左岸に総延長33キロメートル、高さ4.5~6メートル、天端(てんば)幅5.59.1メートルの堤防が作られます。これが「文禄堤(ぶんろくてい)」と呼ばれるもので、利根川で最初の本格的な大規模堤防でした。また、同時期には利根川と福川の合流点の2.5キロメートル上流には、「中条堤(ちゅうじょうてい)」と呼ばれる堤防も築かれ、これらにより、増水時に利根川や荒川の水を意図的に熊谷や深谷一帯に氾濫させることで、最下流である江戸を水害から守る役割を果たしていました。


 


その後、利根川流域の河川整備は、元和7年以降の利根川東遷事業へと引き継がれていきますが、その目的は単に水害対策だけではありませんでした。


 


高見澤





 

おはようございます。昨日の東京は雨が降ったり止んだりの天気でしたが、今日は一転して好天に恵まれています。立冬も過ぎ、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒へと次第に寒さが増していきます。風も冷たくなったとはいえ、まだ小春日和のような温かさを感じるときもあり、気候変動による季節感のズレが今後どうなっていくのか、気になるところです。

 

さて、本日は前回の荒川に続き、「江戸川(えどがわ)」について紹介したいと思います。現在の江戸川は、千葉県の北西端に位置する野田市関宿(せきやど)の分岐点で、利根川の本流から分かれて千葉県と埼玉県、東京都の境を南に向かう利根川の支流としての一級河川です。水系はもちろん利根川水系に属し、延長は約60キロメートル、流域面積は200平方キロメートルで、千葉県市川市で本流の江戸川(江戸川放水路)と旧流路である旧江戸川に分かれ、東京湾に注いでいます。

 

江戸川は、古くは渡良瀬川の下流部で、「太日川(ふとひがわ)」と呼ばれ、今は行幸湖(みゆきこ)となっている権現堂川の河道を通り、下総国葛飾郡の真ん中を南流して江戸湾に注いでいました。また、太日川の西側には江戸湾に注ぐ利根川の旧河道が並行して流れていました。

 

元和7年(1621年)に、「利根川東遷事業」の一環として伊奈忠治によって行われた浅間川の締切りや新川通の開削などによって利根川と渡良瀬川が合流、権現堂川・太日川が利根川の下流となり、ほぼ現在の江戸川の河道となります。寛永12年(1635年)から正保元年(1644年)にかけて、現在の江戸川上流部が開削されて関宿から分流する現在の江戸川の姿が形成されました。

 

承応3年(1654年)に赤堀川の掘削により利根川東遷事業が完成すると、利根川の水が香取海へと注がれ利根川の本流となり、銚子河口までつながる水運の航路が確保されることになります。東北地方や北関東からの物資は、銚子や涸沼(ひぬま)、霞ケ浦を経由して利根川を遡り、江戸川を下って江戸へと運ばれるようになりました。江戸川周辺からも野田の醤油や流山のみりんなどが江戸に運ばれていました。江戸川沿いは多くの河岸が作られ、賑わいます。江戸川は「内川廻り」の重要な大動脈であったのです。

 

江戸川を利用する利根川水運は、明治末年までは栄えていましたが、鉄道の開通によって徐々に衰退していきます。江戸川は、現在では江戸川低地の幹線排水路、千葉県東南部・江東地区の上水道、農業用水などとして利用されています。