おはようございます。しばらく日本を留守にしていました。先週金曜日に上海から帰ってきましたが、中国は今月25日から始まる春節(旧正月)に向けて帰郷、旅行する人の大移動が始まっており、駅も空港も多くの人でごった返しの状態でした。結果として今回は、河南省・鄭州には行くことができず、上海及び江蘇省・蘇州での調査活動に終始することになってしまいました。大移動が始まった中国ですが、湖北省・武漢で広がっている新型コロナウイルスによる肺炎患者の広がりが懸念されています。ただ、中国国内では以前流行したSARSMARSほどの騒ぎにはなっていませんでした。

 

さて、本日は「溝口水騒動(みぞぐちみずそうどう)」について紹介したいと思います。溝口水騒動とは、文政4年(1821年)の干ばつに伴う水不足に絡んで、二ケ領用水をめぐって発生した大規模な水争いのことです。

 

文政4年(1821年)は春から降雨が少なく、日照り続きで田植えの時期になっても十分な水が賄えないような状態となっていました。稲毛領と川崎領に農業用水を供給する二ケ領用水は、多摩川の水を2カ所の取り入れ口から取水し、稲毛領久地(くじ)村内に設置した分量樋(ぶんりょうひ)〔現在は「久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)」となっている〕で川崎堀(川崎方面)、根方堀(根方・十三ケ村方面)、六ケ村堀(川辺・六ケ村方面)、久地・二子堀(久地・溝口方面)の各堀に分水していました。

水不足を憂いていた溝口村と久地村の百姓は、同年5月頃より久地分量樋の川崎堀の分水口を閉め切り、自分たちに有利なように分水量を調整していました。このため、川崎領の33カ村では農業用水はもちろんのこと、飲料水にも事欠くようになっていました。そこで川崎領の名主たちは御普請役人に訴えを起こし、同年7月4日の夕方から7日の夕方にかけて川崎領に水が流れるよう取り計らう決定が下されました。

 

しかし、同月4日夕方を過ぎても一向に水が流れてこないので、川崎領の百姓が調べてみると、溝口村名主の丸屋・鈴木七右衛門と久地村の百姓らが水番人を追い払い、分量樋の川崎堀を筵で堰き止めていたことが発覚しました。川崎領の百姓たちは役所に訴え出ますが、問題が解決しません。そこで激高した百姓たちによって、丸屋打ち壊しや犠牲者救済策などの騒動を起こすことが決められます。

 

同月6日早朝、川崎領の百姓たちは竹槍やとび口などをもって府中道口に集まり、溝口村までの4里余りを北上し、久地分量樋に殺到し、続いて名主の七右衛門宅を急襲します。道中、道筋の村々の百姓も加わって19カ村、14,000人余りの集団にまで膨れ上がっていました。一方、溝口村の七右衛門宅でも石や竹槍、熱湯を用意して迎え撃ち、川崎領の百姓と衝突しました。七右衛門宅では居室や土蔵などのほか、隣家2軒も破壊されてしましました。そのとき、七右衛門は江戸へ出向いて不在だったことから、滞在先の江戸馬喰町の御用屋敷まで追いかけていくという大騒動にまで発展しました。

 

この騒動が一段落した後、江戸幕府は名主や年寄をはじめとする関係者に厳しい罰則を与えます。分量樋を違法に堰き止めた責任者の七右衛門は江戸所払いの厳罰を受け、騒動を扇動したとされる大師河原村の百姓・粂七は10里四方追放となったほか、川崎領や久地村、溝口村の農民たちにも過料銭が課せられる罰が下されています。

 

二ケ領用水をめぐっては、大小さまざまな水騒動がある中で、この溝口水騒動が最大のものとされています。しかし、この騒動については、川崎領側には多くの記録が残っていますが、稲毛領側には残されていないとのことです。

おはようございます。一昨日、昨日と所用で瓦版がお送りできず、失礼しました。来週もまた、日曜日から金曜日まで中国出張で瓦版がお送りできません。ご了承ください。今回、出張するのは上海、江蘇省の蘇州、そして河南省の鄭州です。河南省は、今騒がれているウイルス性肺炎の流行している武漢のある湖北省の隣です。今のところ鄭州での流行が確認されているわけではないので、それほど心配はしていませんが、それでも油断せず慎重に行動しようと思っています。世界中で蔓延する感染症は昔から存在していましたが、新たなウイルスによる病気の蔓延は、人為的な要因も含め不可思議なことが多すぎます。どのような状況においても、自分自身の抵抗力を高めることが何より大事かと思います。

 

さて、本日は「六郷用水(ろくごうようすい)」ついて紹介しようと思います。六郷用水は、かつて武蔵国に存在した農業用水路で、現在はその流路の大半が失われて「幻の六郷用水」と呼ばれています。

 

六郷用水は、慶長2年(1597年)に徳川家康が用水奉行の小泉次大夫に命じて開削を開始し、15年の歳月をかけて完成させました。前回紹介した「二ケ領用水」と同じ時期に開削が進められ、同用水と合わせて「四ケ領用水」とも呼ばれていたこと、小泉次大夫の名をとって「次大夫堀(じだゆうぼり)」と呼ばれていたことは、すでに説明した通りです。開通から100年を経過したころには、大分老朽化していたようですが、享保9年(1724年)から同10年(1725年)に代官・田中丘隅(休愚)の手によって、二ケ領用水と並行して改修が行われました。

 

多摩郡和泉村(東京都狛江市元和泉)の多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領に入って野川、仙川、谷沢川などを合流して六郷領に入ります。六郷領では、難工事だった女堀(おんなぼり)を通過して、鵜木村(東京都大田区鵜の木)から矢口村(大田区矢口)に至り、そこで南北に引き分けられます。南堀は鎌田、六郷、糀谷(こうじや)方面〔いずれも大田区〕に流れ、北堀は池上、堤方(つつみかた)、新井宿、不入斗(いりやまず)〔いずれも大田区〕に至って東京湾に流入していました。世田谷領内では14カ村、六郷領内では35カ村、合計49カ村、約1,500ヘクタールの田地を潤しました。

 代以降、当該地域の都市化が進んだことで六郷用水の灌漑用水としての役割は終わり、昭和20年(1945年)に六郷用水は廃止されることになります。大半は埋め立てられたか、或いは雨水用の下水道となるなどして失われてしまいました。現在、一部区間が丸子川として残っているほか、湧水を使った用水路が再現されたり、水辺の散策路として整備されたりしている部分があります。

おはようございます。今朝は駅について、パスモの入った名刺入れがないことに気が付きました。家を出る前にテーブルの上に置いたのを忘れたと思い、取り敢えず切符を買って出勤し、LINEで子供たちに一応確認のお願いをしておきました。その後すぐに息子から「無い」との連絡があり、駅に行く途中で落としたのかと少し焦りました。息子がすぐに駅までの道をたどって探してくれましたが、それでも見つかりません。ふと、思い当たる節があり、家の中で再度探してもらうと、そこにしっかりと置いてありました。朝早くから寒い中、駅までの道のりを探しに出てくれた心優しい息子に感謝しています。明日は所用で朝から外出のため、瓦版はお送りできませんので、ご了承ください。

 

さて、本日は「二ケ領用水(にかりょうようすい)」について紹介したいと思います。二ケ領用水は、多摩川を水源として神奈川県川崎市のほぼ全域を流れる神奈川県下で最も古い人工用水の一つです。

 

現在の川崎市多摩区布田(ふだ)にある上河原堰(かみがわらせき)から取水された二ケ領用水の水は、すぐに旧三沢川及び大丸用水(おおまるようすい)の一部が合流し、東南に向かって流れます。登戸で山下川、東生田で五反田川を合わせて、川崎市高津区で新平瀬川に合流して、最終的には多摩川に流れ込みます。このうち、旧三沢川合流地点から新平瀬川に合流するまでの区間は「二ケ領本川(新川)」と呼ばれ、多摩川水系平瀬川支流の一級河川とされています。

 

一方、二ケ領用水として川崎市多摩区宿川原(しゅくがわら)にある宿川原堰からも取水する用水路があります。これは宿川原町内を流れて久地(くじ)〔川崎市高津区〕に至るルートで、「宿河原用水(しゅくがわらようすい)」と呼ばれ、二ケ領用水を形成しており、この区間と上河原堰から旧三沢川との合流地点までは準用河川とされています。

 

二ケ領用水の総延長は18.46キロメートルですが、宿川原の支流なども含めると約32キロメートルに達します。多摩川から二ケ領用水への取水は、当初は自然流による取水でしたが、その後竹で編んだ蛇籠に玉石を入れたものを取水口に並べて堰き止めていました。現在のような固定堰が設けられたのは、昭和20年以降のことです。

 ケ領用水と言われるのは、江戸時代にこの用水が稲毛領と川崎領の二つの領を灌漑するものであったからで、さらに多摩川対岸の左岸に設置された「六郷用水」と合わせて「四ケ領用水(よんかりょうようすい)」、或いは「次大夫堀(じだゆうぼり)」とも呼ばれています。次大夫堀というのは、二ケ領用水と六郷用水が当時の用水奉行である小泉次大夫が総指揮官として建設されたものであったからです。

 

関東に移封となった徳川家康は、慶長2年(1597年)に小泉次大夫に稲毛領から川崎領六郷に至る用水路の整備を命じます。次大夫はこの二ケ領用水の整備とともに、多摩川対岸の左岸にも六郷用水路の建設に着手しました。慶長16年(1611年)、二ケ領用水が完成し、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)北部の稲毛領37ケ村及び川崎領23ケ村の計約2,000町歩の広範囲にわたって水路が張り巡らされました。これにより二ケ領地域の新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米が産出されたのです。

 

寛永6年(1629年)には、代官・伊奈半左衛門の手代・筧助兵衛(かけいすけひょうへい)により宿河原取水口と宿川原用水が完成し、引水量が増加して米の増産が実現し、享保9年(1724年)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修が行われました。文政4年(1821年)7月、夏の干ばつが原因となった「溝口水騒動(みぞぐちみずそうどう)」が勃発しますが、これについては後日詳細に紹介したいと思います。

 

この二ケ領用水は、明治4年(1871年)に民間の横浜水道会社の管轄となり、その後神奈川県へと引き継がれていきました。江戸時代は専ら農業用水として使われていた二ケ領用水ですが、現在では工業用水、そして河岸には桜の木なども植えられ、近隣住民の憩いの場として親しまれています。

新年明けましておめでとうございます。暦通りに休めば9連休となった方も多かったのではないかと思います。この年末年始の間に、日本では前日産自動車会長のカルロス・ゴーン被告のレバノンへの国外逃亡事件、海外に目を向ければ米軍によるイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官の殺害と米イラン対立の深刻化など、ニュースに事欠かない年明けとなりました。波乱の年明けとなった令和2年は、どのような年になるのでしょうか? そして我々はどう生き抜いて行けばよいのでしょうか? それぞれの知恵と勇気が試される年になりそうです。

 

さて、本日は「野火止用水(のびどめようすい)」について紹介してみようと思います。多摩川から取水される用水として有名なものは、言わずと知れた「玉川上水」ですが、これについてはすでに3年半ほど前に紹介しているので(http://azuma-geijutsu.com/info/azu-blog/2016/06/-20160609.html)、ここでは省略致します。その玉川上水から続いているのがこの野火止用水です。

 京都立川市にある玉川上水の小平監視所から取水された野火止用水は、埼玉県新座市を通り、同県志木市で新河岸川(しんがしがわ)に合流しています。全長は25キロメートル、川幅は約1メートルです。開削当初は野火留村にちなんで「野火留用水」と表記されていました。

 

玉川上水が完成したのは承応3年(1654年)のことで、このとき総奉行を務めたのは老中の川越藩主・松平伊豆守信綱で、水道奉行は関東郡代・伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が請け負いました。玉川上水建設の功績が認められ、信綱に対して領地の野火止へと玉川上水の分水が許されました。野火止の地は関東ローム層の乾燥した台地であり、生活用水にも難渋していたのです。このとき開削されたのが、野火用水でした。

 

信綱は、家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門を補佐に命じ、工期は承応4年(1655年)2月から3月までのわずか40日間、費用は3,000両で完成したといわれています。水量の配分は、玉川上水が7割、野火用水が3割でした。この用水路は基本的には素掘りにより開削されていますが、土地の低いところは版築法などにより堤が築かれ、野火台地にも引水され、飲料水や生活用水のほか、舘村(埼玉県志木市)や宮戸新田(朝霞市)の水田用水にも使われるようになりました。その後、寛文2年(1662年)に、新河岸川に懸樋(かけひ)を懸けて、用水が対岸の宗岡(志木市)まで引かれるようになりました。

 

野火用水の開削に前後して、川越藩では農民や家臣を多数この地に入植させて、大規模な新田開発を行いました。これによって領民の生活が豊かになったことから、信綱への感謝の意を込めて野火用水を「伊豆殿堀(いずどのぼり)」と呼ぶようになりました。

 

昭和に入り、戦後以降は生活様式の変化によって野火止用水でも水質汚染が始まり、また干ばつによる水不足の影響もあって昭和39年(1964)年に野火止用水への分水が一時中止されます。昭和41年(1966年)に再度通水されますが、昭和48年には玉川上水からの取水がついに停止してしまいました。しかし、その後の下水処理の高度化によって流水活用を目指す「清流復活事業」実施の結果、昭和59年(1984年)に野火止用水が甦ることになったのです。

おはようございます。今月2回目の北京出張を終え、本日最後の出勤日を迎えました。我が職場では、昼には納会が行われ、午後は挨拶回りや残務整理をするなど、各自の都合に応じて帰宅が許されています。私の場合はといえば、出張のためにできなかった事務机の周りの整理と、休暇中に在宅で行う仕事の資料集めで1日が終わりそうです。今年も何かと忙しい1年でしたが、やりたいことが十分にできずに楽しみが来年に持ち越されたこと、とはいえ、決して未練があるわけでなく、引き続き来年も健康で安全・安心に生活や仕事を楽しみたいと思います。年明けの瓦版は1月6日(月)からです。皆さんが楽しめるような内容をお送りできるよう努めたいと思います。よいお年をお迎えください。

 

さて、これまで利根川水系や荒川水系といった江戸の北東側を流れている川を紹介してきましたが、本日は江戸の西側を流れる「多摩川(たまがわ)」について紹介しようと思います。多摩川は、山梨県東部から東京都西部を経て、東京と神奈川の都県境を流れて東京湾に注ぐ一級河川です。多摩川の本流として多摩川一級水系を形成しています。

 

山梨県北東部(甲州市)の埼玉県との県境にある笠取山(かさとりやま)〔標高1,953メートル〕の南斜面下「水干(みずひ)」に端を発した「一之瀬川(いちのせがわ)」は、柳沢峠から流れ込んでくる「柳沢川」と合流すると、そこから下流が「丹波川(たばがわ)」と呼ばれ奥多摩湖に注ぎます。実際に多摩川と呼ばれるのは、この奥多摩湖水の出口である「小河内(おごうち)ダム」より下流になります。

 

総延長は138キロメートル、流域面積は1,240平方キロメートルに及び、奥多摩湖から流れ出た水は、東京都青梅市までは山中を東に流れ、青梅からは概ね南東に多摩丘陵と武蔵野台地の間を下っていきます。その後、東京都調布市と神奈川県川崎市の辺りから都県境を流れて、東京都大田区と川崎市川崎区との境で東京湾に流れ込みます。下流部の国道1号線(第二京浜)に架かる多摩川大橋(東京都大田区と神奈川県川崎市幸区をつなぐ)より下流は、特に「六郷川(ろくごうがわ)」とも呼ばれています。「調布(たつくり)の玉川」という古称もあります。

 

多摩川流域では旧石器時代以降の遺跡や古墳が見付かっており、かなり早い時代から人々が定住していたことが証明されています。関東平野を流れる他の川と同じように、この多摩川も勾配が急なこともあり「あばれ川」としてもよく知られていました。氾濫のたびに流路が変わり、現在の流路になったのは天正18年(1590年)に起きた大洪水からだと言われています。

 

徳川家康が関東転封となり、多摩川下流の扇状地での水稲生産を拡大するため、家康は慶長2年(1597年)に用水奉行の小泉次大夫(こいずみじだゆう)に命じて多摩川両岸の灌漑用水路の整備に着手し、慶長16年(1611年)に右岸に「二ケ領用水(にかりょうようすい)」、左岸に「六郷用水」が完成しました。また、江戸時代初期に開削されたとされる「大丸用水(おおまるようすい)」、承応3年(1654年)に取水が始まった左岸の「玉川上水」などの用水路も相次いで整備され、多摩川下流の低地や台地に豊富な農業用水や飲用水がもたらされました。これにより、米の生産量が飛躍的に伸び、江戸の人々の生活を支えることになります。また、江戸時代には筏による物資輸送にも多摩川は利用されていました。

 

多摩川は昔から水質が良く、清流を好む鮎が多く生息していたことから鮎漁が盛んで、将軍家にも献上されていました。また、多摩川では川砂利採掘にも適しており、幕府御用の砂利としても多く利用されていました。ただ、明治以降は鉄道建設や鉄筋コンクリート住宅等への砂利の需要が急増し、過度の採掘によって河床が低くなり、潮位によっては塩分を多く含む河口の水が遡行して農業用水や水道原水に流入する被害が続出するなどの問題も生じています。

 

多摩川の名の由来には諸説あります。最も有力だと言われているのは、山梨県丹波山(たばやま)、丹波川(たばがわ)の「タバ」が「タマ」に転化したとする説です。また、「タマ」は「霊魂」に通じ、「霊力を持つ川」や「神聖なる川」から付けられたとする説があります。「タマ」は「玉石(たまいし)」に通じ、「玉のように美しい川」とする説、「渟(たまり)」から「溜まれる水」を意味するとする説、そして「田間(たま)」、つまり「水田が広がっている場所」を指す説があります。実際に江戸時代には「玉川」と表記されることが多かったようで、今でも「玉川上水」、「二子玉川」といった固有名詞という形で残っています。ちなみに『万葉集』では「多麻河」という表記もみられます。

おはようございます。今週もあっという間に過ぎてしましました。明後日からまた北京、天津と出張に行ってきます。次にお送りできるのが、今年最後の瓦版になりそうです。今年もまた特に何か大きく飛躍したのかと言われれば、特段そんな変化を感じるようなことはありませんでしたが、自分としては地道に努力を続け、毎日を過ごしてきたという自負はあります。徐々にではありますが、着実に成長している自分にやっと気が付いてきたのかもしれません。ただ、そのことに慢心せずに、引き続き努力を重ね、更なる成長を目指して、気を引き締めていきたいと思います。努力を続けていても、なかなかその成果が目に見えて現れてこなかったことが、自分の成長につながってきたのかとも思っています。

 

さて、本日は「大里用水(おおざとようすい)」について紹介したいと思います。以前、「六堰」について紹介した際に、その六堰から取水する用水を総称して大里用水、または「六堰用水」と呼んでいると説明したことがありました。大里用水は、荒川水系中最大の灌漑用水で、現在は埼玉県深谷市にある新六堰頭首工(ろくぜきとうしゅこう)から取水され、熊谷市、行田市、深谷市、鴻巣市に跨る約3,820ヘクタールに及ぶ水田に農業用水を供給しています。

 

慶長7年(1602年)に「奈良堰」が作られたのを皮切りに相次いで6つの堰が設けられたことは、以前紹介した通りです。当時の堰は、今のようにコンクリートや鉄筋などを使って耐久性がある程度保たれていたわけではなく、木や石を組み合わせて作っていたために、大雨が降れば堰が流されやすく、そのたびに復旧工事を行わなければなりませんでした。そうした工事には各村から総出で修理にあたり、修理にかかる費用も尋常ではありませんでした。

 

また日照りが続いて荒川の水量が減少した際には、水の取り合いで争いが起こります。江戸時代には六堰それぞれから取水するものですから、水争いも余計に激しさを増していました。こうした争いを解決するための手段として、六堰を1つにまとめることになりました。そして、六堰頭首工が完成したのは昭和14年(1939年)のことです。

 

大里用水の名称は、大里地区に位置することから名付けられました。現在、この大里用水を構成する用水路としては以下の用水路があります。

【左岸幹線導水路】

奈良堰幹線用水路:増田堀用水路、左三尺用水路、北堀用水路、南堀用水路(長安寺用水路)

玉井堰幹線用水路:玉井用水路、代堀(日向島用水路、今井用水路)、柿沼堀(中島用水路、青木用水路、下川上用水)

大里幹線用水路:成田用水路、箱田用水路(衣川用水路、平戸用水路)

荒川左岸幹線用水路〔星川〕:杣殿(そまどの)用水路、左幹線用水路(前谷落排水路)

【右岸幹線導水路】

御正吉見堰(みしょうよしみぜき)幹線用水路:吉見幹線用水路(手島用水路、村岡用水路)

五所(ごしょ)用水路

本畠(ほんぱた)用水路

小原(おはら)用水路

おはようございます。今朝は少し暖かく感じる東京都心ですが、昨日のような快晴には恵まれないようです。昨日は事務所を不在にしていたせいか、机の上には決裁書類が山積み。これから一つ一つ処理しなければなりませんが、午前中はまた外出し、お昼を挟んで午後に事務所に戻ります。そこからまた外部の人を交えての会議が二つ続き、夜は関係先との会食という流れになっています。処理しなければならない報告書は溜まる一方で、来週はまた中国出張が待ち構えています。

 

さて、本日は「見沼代用水(みぬまだいようすい)」について紹介してみましょう。見沼代用水は、現在の埼玉県東部から南部にかけての水田地帯を流れる関東平野最大の農業用水とされています。葛西用水のところでも紹介したように、日本三大農業用水の一つにも数えられている重要な用水路です。

 

幹線水路延長は84キロメートル、1万7,000ヘクタールに及ぶ農地を灌漑し、埼玉県行田市を流れる利根川の利根大堰より取水し、ほぼ南に流れて川口市内で荒川に合流します。途中で元荒川や綾瀬川と交差するほか、上尾市内で「見沼代用水東縁(ひがしべり)」と「見沼代用水西縁(にしべり)」の二手に分かれます。東縁は見沼溜井の東側を流れ川口市から東京都に至り、西縁は見沼溜井の西側を流れ大宮台地を切って高沼用水として荒川に合流しています。元荒川との交差地点では、「伏越(こせこし、ふせごし)」と呼ばれる逆サイフォンの原理で川を跨いで水を送る手法が採られ、綾瀬川との交差地点では「懸渡井(かけとい)〔懸樋(かけひ)〕」と呼ばれる木製の樋を支柱で支えて川を跨いで水を送る手法が採用されていました。

 

この見沼代用水の整備を行ったのは、江戸幕府勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべいためなが)です。弥惣兵衛は、もともとは紀州藩士でしたが、8代将軍吉宗に従って幕臣となり、勘定吟味役の職が与えられました。吉宗による享保の改革が始まると、幕府財政立て直しのための増収策として新田開発が本格化します。幕府直轄の武蔵国でも新田の開発が活発化し、武蔵国東部〔さいたま市東部〕に存在していた見沼溜井〔三沼溜井、箕沼溜井〕などの灌漑用の溜井を開拓することが決められ、代用水となる農業用水を利根川から供給することになりました。

 

荒川の瀬替えや利根川東遷事業により、元の流域周辺の水不足の懸念を払しょくするため、寛永6年(1629年)に伊奈忠治が天領浦和領内の川筋〔現在の芝川〕を堰き止める形で、長さ8町(約870メートル)の堤防「八丁堤〔八町堤〕」を築き、見沼溜井が作られました。この見沼溜井は土砂の流入で貯水能力が次第に低下、延宝3年(1675年)に溜井の一部が入江新田として干拓されると水不足が更に深刻化していきました。こうした状況の中で、享保7年(1722年)に、享保の改革による新田開発奨励策が打ち出されたのです。

 

享保10年(1725年)、幕府は弥惣兵衛に対して見沼溜井の干拓を命じます。翌享保11年(1726年)には普請役・保田太左衛門による測量が始められました。見沼溜井の代用水として、埼玉郡辺りの利根川から取水して足立郡に抜ける20里(約80キロメートル)の幹水路のほか、高沼用水路など多数の分流路の開削も計画されました。見沼代用水の名称は、見沼溜井の水の代用という意味からきています。

 

取水場所は下中条村〔行田市〕で、現在の利根大堰の地点とほぼ同じで、この近辺の利根川は年間を通じて水深が安定しており、堤も決壊したことがないという好条件が揃った場所でした。代用水測量は上流の利根川取水口からと、見沼溜井から流れ出る芝川からの二手に分かれて行われました。「水盛り」と呼ばれる水準測量によって行われ、30間(約55メートル)で3寸(約9センチメートル)の傾斜〔約1/611の勾配〕という極めて精度の高い工法が使われました。水路の選択も既存の水田は避けて、できるだけ地盤の固い場所を選んでいたようです。

 

享保12年(1727年)9月、見沼溜井周辺の農業用水の需要が減った時期に見沼代用水路の開削を始めました。工事は水路沿いの村々に請負を割当ましたが、必要な資機材は幕府が提供し、技能者も幕府が派遣しました。着工から約5か月後の享保13年(1728年)2月に工事は完成、翌3月には用水路の利用が始まりました。この建設に関わった作業員は延べ90万人、幕府が支出した工事費用は総額約2万両でしたが、これにより新たに1,175町(約1,160ヘクタール)の新田が開発され、毎年5,000石近い年貢米が幕府の蔵に納められたとのことです。

おはようございます。今朝は少し暖かく感じる東京都心ですが、昨日のような快晴には恵まれないようです。昨日は事務所を不在にしていたせいか、机の上には決裁書類が山積み。これから一つ一つ処理しなければなりませんが、午前中はまた外出し、お昼を挟んで午後に事務所に戻ります。そこからまた外部の人を交えての会議が二つ続き、夜は関係先との会食という流れになっています。処理しなければならない報告書は溜まる一方で、来週はまた中国出張が待ち構えています。

 

さて、本日は「見沼代用水(みぬまだいようすい)」について紹介してみましょう。見沼代用水は、現在の埼玉県東部から南部にかけての水田地帯を流れる関東平野最大の農業用水とされています。葛西用水のところでも紹介したように、日本三大農業用水の一つにも数えられている重要な用水路です。

 

幹線水路延長は84キロメートル、1万7,000ヘクタールに及ぶ農地を灌漑し、埼玉県行田市を流れる利根川の利根大堰より取水し、ほぼ南に流れて川口市内で荒川に合流します。途中で元荒川や綾瀬川と交差するほか、上尾市内で「見沼代用水東縁(ひがしべり)」と「見沼代用水西縁(にしべり)」の二手に分かれます。東縁は見沼溜井の東側を流れ川口市から東京都に至り、西縁は見沼溜井の西側を流れ大宮台地を切って高沼用水として荒川に合流しています。元荒川との交差地点では、「伏越(こせこし、ふせごし)」と呼ばれる逆サイフォンの原理で川を跨いで水を送る手法が採られ、綾瀬川との交差地点では「懸渡井(かけとい)〔懸樋(かけひ)〕」と呼ばれる木製の樋を支柱で支えて川を跨いで水を送る手法が採用されていました。

 

この見沼代用水の整備を行ったのは、江戸幕府勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべいためなが)です。弥惣兵衛は、もともとは紀州藩士でしたが、8代将軍吉宗に従って幕臣となり、勘定吟味役の職が与えられました。吉宗による享保の改革が始まると、幕府財政立て直しのための増収策として新田開発が本格化します。幕府直轄の武蔵国でも新田の開発が活発化し、武蔵国東部〔さいたま市東部〕に存在していた見沼溜井〔三沼溜井、箕沼溜井〕などの灌漑用の溜井を開拓することが決められ、代用水となる農業用水を利根川から供給することになりました。

 

荒川の瀬替えや利根川東遷事業により、元の流域周辺の水不足の懸念を払しょくするため、寛永6年(1629年)に伊奈忠治が天領浦和領内の川筋〔現在の芝川〕を堰き止める形で、長さ8町(約870メートル)の堤防「八丁堤〔八町堤〕」を築き、見沼溜井が作られました。この見沼溜井は土砂の流入で貯水能力が次第に低下、延宝3年(1675年)に溜井の一部が入江新田として干拓されると水不足が更に深刻化していきました。こうした状況の中で、享保7年(1722年)に、享保の改革による新田開発奨励策が打ち出されたのです。

 

享保10年(1725年)、幕府は弥惣兵衛に対して見沼溜井の干拓を命じます。翌享保11年(1726年)には普請役・保田太左衛門による測量が始められました。見沼溜井の代用水として、埼玉郡辺りの利根川から取水して足立郡に抜ける20里(約80キロメートル)の幹水路のほか、高沼用水路など多数の分流路の開削も計画されました。見沼代用水の名称は、見沼溜井の水の代用という意味からきています。

 

取水場所は下中条村〔行田市〕で、現在の利根大堰の地点とほぼ同じで、この近辺の利根川は年間を通じて水深が安定しており、堤も決壊したことがないという好条件が揃った場所でした。代用水測量は上流の利根川取水口からと、見沼溜井から流れ出る芝川からの二手に分かれて行われました。「水盛り」と呼ばれる水準測量によって行われ、30間(約55メートル)で3寸(約9センチメートル)の傾斜〔約1/611の勾配〕という極めて精度の高い工法が使われました。水路の選択も既存の水田は避けて、できるだけ地盤の固い場所を選んでいたようです。

 

享保12年(1727年)9月、見沼溜井周辺の農業用水の需要が減った時期に見沼代用水路の開削を始めました。工事は水路沿いの村々に請負を割当ましたが、必要な資機材は幕府が提供し、技能者も幕府が派遣しました。着工から約5か月後の享保13年(1728年)2月に工事は完成、翌3月には用水路の利用が始まりました。この建設に関わった作業員は延べ90万人、幕府が支出した工事費用は総額約2万両でしたが、これにより新たに1,175町(約1,160ヘクタール)の新田が開発され、毎年5,000石近い年貢米が幕府の蔵に納められたとのことです。

おはようございます。今日の東京都心は朝から雨が降っています。江戸城北の丸にある田安門周辺のイチョウ並木もすっかり葉が落ちて、冬の様相を呈しています。例年に比べ、冬の到来が遅いように感じるのは気のせいでしょうか? 今年も残すところあと2週間となり、世間ではクリスマスや正月を迎える準備が進んでいるかと思いますが、当方の仕事はなかなかそれを許してはくれません。明日は所用のため、瓦版をお休みさせていただきます。

 

さて、本日は「葛西用水(かさいようすい)」について紹介していきます。葛西用水は別名「幸手用水(さってようすい)」とも呼ばれ、埼玉県東部の平野を灌漑する大規模農業用水路で、灌漑面積は8,000ヘクタールに及んでいます。この用水の末端は東京都足立区まで達し、葛飾区で荒川放水路に注いでいます。埼玉・東京を流れる「見沼代用水」、愛知県にある「明治用水」とともに、「日本三大農業用水」と称され、疎水百選にも指定されています。

 

江戸時代初期、慶長年間(1596年~1610年)には「亀有溜井(かめありためい)」、「瓦曽根溜井(かわらそねためい)」、「葛西井堀(かさいいぼり)」などの溜池が農業用水として利用されていました。その後、利根川東遷事業などの治水・利水工事が進むことによって新田開発が進むと用水路の整備が追い付いていかず、用水不足が生じるようになります。それを解消するために、寛永年間(1624年~1643年)に、元荒川と大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)をつなぐ逆川(さかがわ)が開削されますが、それでも用水不足が続きます。そこで設けられるようになったのが、葛西用水だったのです。

 

万治3年(1660年)、関東郡代の伊奈忠克(いなただかつ)は、利根川の本川俣(ほんかわまた)〔埼玉県羽生市〕に取水口を設けて、川口圦を経て「琵琶溜井(びわためい)」〔埼玉県久喜市・幸手市〕に入り、大落古利根川に通じる延長25キロメートルの幸手領用水を開削します。これが利根川から瓦曽根溜井に至る長大な葛西用水路で、埼玉県東部地域の水田を灌漑する農業用水路として成立しました。

 

享保4年(1719年)、関東郡代・伊奈忠逵(いなただみち)が上川俣〔羽生市〕に葛西用水元圦を設置してに日向堀を通して利根川の水を引き、羽生領南方用水を開発します。これで葛西用水体系が基本的に完成しました。享保13年(1728年)には、葛飾郡金杉村〔埼玉県松伏(まつぶし)町〕から深井新田〔吉川市〕まで、及び樋ノ口村・小向村〔三郷市〕の開削が始まります。これにより、庄内古川、葛飾郡加藤村〔吉川市〕まで延長され、江戸川に排水されるようになりました。そして天保12年(1841年)、葛西用水の水量を増やすために埼玉郡川口村〔加須市〕に堰が設けられました。

 

このように、葛西用水は徐々に範囲が広げられていき、昭和に入ってからも整備が続き、現在に至っています。

おはようございます。一昨日、出張先の北京から戻ってきました。先々週金曜日12月6日に東藝術倶楽部の忘年会に、終了直前に駆け込むことができ、池田顧問、キリロラ顧問、黒木代表をはじめとする皆さんに何とかご挨拶ができた状態でした。その週末はホテルニューオータニで開催した日中省エネ・環境総合フォーラムの事務局を務め、9日月曜日から北京出張というハードなスケジュールをこなし、日曜日の昨日も出張報告の作成に努めていました。そして、今日からまた新たな一週間が始まります。皆様からも当方の身体に対するお気遣いの言葉をいただき、感謝しております。健康には十分気を付けて、積極的にそして前向きに何事にも取り組んでいきたいと思います。

 

さて、本日は「備前渠用水(びぜんきょようすい)」について紹介しようと思います。備前渠用水は、埼玉県で最も古い農業用水の一つとされ、慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により、関東郡代の伊奈備前守忠次によって開削されたものです。「備前堀」、「備前渠」、「備前渠川」などとも呼ばれています。

 在、この備前渠用水は埼玉県本庄市で利根川より取水し、深谷市、熊谷市を流れて福川に合流して利根川に流れ込みます。途中で御陣馬川(ごじんばがわ)や小山川(こやまがわ)と流路を共有する区間もあります。総延長は約23キロメートル、最大通水量は毎秒約9立方メートル、利根川右岸の約1,400ヘクタールの水田に水を供給しています。

備前渠用水は、当初は烏川(からすがわ)が利根川に合流する地点から取水していましたが、寛保2年(1742年)に洪水によって烏川の流路が変わり元圦(もといり)と呼ばれる取水口が壊滅、また、明和4年(1767年)の洪水でも用水路が壊滅的な被害を受けるなど、困難な道のりを歩んできました。加えて天明3年の浅間山の大噴火では、火山灰や溶岩の堆積によって利根川の河床が異常に高くなり、備前渠用水にも大量の土砂が流入して用水路が埋没してしまい、水害の危険性が高まったことから、寛永5年(1793年)に備前渠用水の元圦は封鎖されてしまいました。このため、下流域に用水が供給されず、水争いが起こります。その後も用水不足のために、文政元年(1818年)頃には米の不作が続くようになりました。

備前渠用水の元圦の復旧工事が行われて用水が開通したのは元圦締切りから35年後の文政11年(1828年)のことです。工事開始後43日で通水が完了したとのことで、これを記念して天保4年(1833年)に「備前渠再興記」の石碑が建てられています。元圦は利根川や烏川の乱流域に位置していることから、その後二度も元圦変更の工事が行われています。

 前渠用水の名前は、伊奈備前守忠次から名付けられたことは一目で分かるでしょう。「渠(きょ)」とは中国から来た言葉で、人工の河川を指します。開削当初の供給規模としては、深谷領3,000石、幡羅郡(はらぐん)10,000石、忍領20,000石、羽生領48,000石の用水路で、用水路の施設管理維持のための農民組織「組合」は一つでした。それが万治2年(1656年)に深谷領は矢島堰〔小山川〕、幡羅郡は仁手(にって)堰〔利根川〕、忍領と羽生領は日向(ひなた)堰〔福川〕の3つの組合に分けられています。その後、忍領と羽生領は「北河原(きたがわら)用水」として独立しています。

尚、武蔵国北部において備前渠用水よりも歴史が古いと思われる用水路には、長楽(ながらく)用水、瓦曽根溜井(かわらぞねためい)、六堰用水などがあります。

 多の洪水被害に見舞われながらも、武蔵国北部の田畑を潤してきた備前渠用水ですが、いまでもその水は農作物の生産に活用され、我々の生活を支えています。

おはようございます。一昨日、出張先の北京から戻ってきました。先々週金曜日12月6日に東藝術倶楽部の忘年会に、終了直前に駆け込むことができ、池田顧問、キリロラ顧問、黒木代表をはじめとする皆さんに何とかご挨拶ができた状態でした。その週末はホテルニューオータニで開催した日中省エネ・環境総合フォーラムの事務局を務め、9日月曜日から北京出張というハードなスケジュールをこなし、日曜日の昨日も出張報告の作成に努めていました。そして、今日からまた新たな一週間が始まります。皆様からも当方の身体に対するお気遣いの言葉をいただき、感謝しております。健康には十分気を付けて、積極的にそして前向きに何事にも取り組んでいきたいと思います。

 

さて、本日は「備前渠用水(びぜんきょようすい)」について紹介しようと思います。備前渠用水は、埼玉県で最も古い農業用水の一つとされ、慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により、関東郡代の伊奈備前守忠次によって開削されたものです。「備前堀」、「備前渠」、「備前渠川」などとも呼ばれています。

在、この備前渠用水は埼玉県本庄市で利根川より取水し、深谷市、熊谷市を流れて福川に合流して利根川に流れ込みます。途中で御陣馬川(ごじんばがわ)や小山川(こやまがわ)と流路を共有する区間もあります。総延長は約23キロメートル、最大通水量は毎秒約9立方メートル、利根川右岸の約1,400ヘクタールの水田に水を供給しています。

前渠用水は、当初は烏川(からすがわ)が利根川に合流する地点から取水していましたが、寛保2年(1742年)に洪水によって烏川の流路が変わり元圦(もといり)と呼ばれる取水口が壊滅、また、明和4年(1767年)の洪水でも用水路が壊滅的な被害を受けるなど、困難な道のりを歩んできました。加えて天明3年の浅間山の大噴火では、火山灰や溶岩の堆積によって利根川の河床が異常に高くなり、備前渠用水にも大量の土砂が流入して用水路が埋没してしまい、水害の危険性が高まったことから、寛永5年(1793年)に備前渠用水の元圦は封鎖されてしまいました。このため、下流域に用水が供給されず、水争いが起こります。その後も用水不足のために、文政元年(1818年)頃には米の不作が続くようになりました。

 

備前渠用水の元圦の復旧工事が行われて用水が開通したのは元圦締切りから35年後の文政11年(1828年)のことです。工事開始後43日で通水が完了したとのことで、これを記念して天保4年(1833年)に「備前渠再興記」の石碑が建てられています。元圦は利根川や烏川の乱流域に位置していることから、その後二度も元圦変更の工事が行われています。

 備前渠用水の名前は、伊奈備前守忠次から名付けられたことは一目で分かるでしょう。「渠(きょ)」とは中国から来た言葉で、人工の河川を指します。開削当初の供給規模としては、深谷領3,000石、幡羅郡(はらぐん)10,000石、忍領20,000石、羽生領48,000石の用水路で、用水路の施設管理維持のための農民組織「組合」は一つでした。それが万治2年(1656年)に深谷領は矢島堰〔小山川〕、幡羅郡は仁手(にって)堰〔利根川〕、忍領と羽生領は日向(ひなた)堰〔福川〕の3つの組合に分けられています。その後、忍領と羽生領は「北河原(きたがわら)用水」として独立しています。

 尚、武蔵国北部において備前渠用水よりも歴史が古いと思われる用水路には、長楽(ながらく)用水、瓦曽根溜井(かわらぞねためい)、六堰用水などがあります。

多の洪水被害に見舞われながらも、武蔵国北部の田畑を潤してきた備前渠用水ですが、いまでもその水は農作物の生産に活用され、我々の生活を支えています。

はようございます。本日は東藝術倶楽部の忘年会です。池田顧問、キリロラ顧問も参加されての久しぶりの集まりです。どのようなお話が飛び出すか、楽しみです。この週末は、梶原経済産業大臣、小泉環境大臣が参加する日中省エネ・環境総合フォーラムが東京のホテルニューオータニで開催されます。私の所属する組織も、経済産業省とともに日本側主催者として事務局を務めています。日中合わせて800名を超える関係者が集まります。その大イベントが終わったら、翌日の月曜日から土曜日まで北京出張です。今回の出張は医療機器及び医薬品の関連のイベント参加と実態調査です。マクロ経済から始まり、ビジネス環境、省エネ・環境、自動運転、そして医療機器・医薬と異なる分野を取り扱うので、その知識を頭に詰め込むだけでも大変な作業です。ということで、来週は1週間、瓦版も休刊致します。ご理解のほど、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は「常陸川(ひたちがわ)」について紹介したいと思います。常陸川は、かつて下総国を東に流れ香取海に注いでいた川で、現在の利根川下流部にあたる部分です。平安時代には「東の広河(あずまのひらかわ)」、「広潟(ひらかた)」などと呼ばれ、常陸川と称されるようになったのは室町時代になってからのようです。

 

もともと常陸川は、下総国西部の猿島台地(茨城県坂東市)などから南に流れ出す小河川や沼沢の水が集まって東に流れていました。栃木県小山市から流れてくる宮戸川(みやとがわ)や大川などが流れ込んでいたかつての「長井戸沼(ながいどぬま)」〔現在は干拓〕が常陸川の流頭部にあたります。その後、南岸の関宿と北岸の境町との間を通って東に流れ、一ノ谷沼(いちのやぬま)、鵠戸沼(くぐいどぬま)、浅間沼、菅生沼(すがおぬま)などからの水を合流して川幅を広げていました。

 

このように香取海に至る常陸川の流路は低湿地帯で多くの沼が存在していました。途中、現在の茨城県守谷市、取手市、千葉県柏市の境辺りには「藺沼(いぬま)」という細長い湿地帯があり、そこをぬけると古利根川の流路を通って鬼怒川と合流し、香取沼に流れ込んでいました。常陸川自体は流域も大きくなく、水量は多くはありませんでした。

 

江戸時代に入り、利根川東遷事業が始まって常陸川の流頭部が開削され、赤堀川が完成すると利根川の水が一部常陸川に流れ込みます。これにより常陸川の上流の水量が大幅に増加しました。この工事が完成したのが承応3年(1654年)のことです。これに先立ち、鬼怒川〔寛永6年(1629年)〕や小貝川〔寛永7年(1630年)〕と常陸川との合流点の付け替えも行われていたことは、先に説明した通りです。

 

利根川の流れは、利根川東遷事業の後も当初は権現堂川から江戸川への流量が多かったのですが、次第に常陸川への流量が多くなります。その後、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃止され、現在では常陸川が利根川の本流、江戸川が支流という位置付けになっています。

 

利根川が常陸川とつながることによって水量が大幅に増加し、常陸川は銚子と関宿を結ぶ水運の大動脈としての役割を担うようになります。関宿はそれ以前から江戸川を通じて江戸と結ばれていました。

一方で、利根川東遷事業によって常陸川を含む利根川下流部では洪水位の上昇と流入土砂がもたらされ、水害が多発するようになりました。寛保2年(1742年)、天明6年(1786年)には大規模洪水により各所で堤防が決壊し、天明3年の浅間山の噴火では降灰による土砂堆積で川床が著しく上昇するなどの問題も起きました。こうした川床の浚渫工事に重点が置かれるようになるのは、明治・大正以降のことだそうです。


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