おはようございます。昨日の雨も上がり、今日の日中はかなり暖かくなるとの天気予報でした。いつになく寒暖の変化が激しいような今期の冬なので、体調管理には十分お気を付けください。

 

さて、本日は師走の最後のテーマとして、「除夜の鐘」について紹介していきたいと思います。前回のテーマである「大晦日と年越しそば」のところで、「除夜」について少し触れましたが、旧年1231日の夜と新年1月1日の境の時間が「除夜」です。大晦日は朝から正月を迎える準備で大忙しですが、夜になると準備も整い家族そろって年越し蕎麦を食べながら除夜の鐘を聞き、新しい年を迎えるというのが、日本の年中行事の締め括りとなっています。

 

この除夜という考え方ですが、これもまた中国から伝わってきたもので、古来中国では、除夜はもともと収穫感謝の祭りの日である冬至の前夜のことでした。日本では、藤原北家魚名流の嫡流である四条家の『四条家年中行事』に、除夜に「追儺(ついな)」が行われたことが記されていることから、古くは宮中、貴族の間で悪鬼を祓う行事が行われていたことが分かります。これが次第に庶民の間にも年越しの行事として広がっていったのではないかと思われますが、定かではありません。

 

この除夜の鐘ですが、何時頃から始まったのでしょうか? 元々、鐘というのは人々に時を知らせたり、集合の合図を告げつために鳴らされたものです。除夜の鐘といえば、108回つくものとされていますが、この108の鐘は中国の唐代(618907年)の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい、720814年)が制定したものと言われています。ただ、除夜の鐘については宋代(9601279年)頃に起源があるとされ、これが日本に伝わってきたのは鎌倉時代(11851333年)のようです。

 

この除夜の鐘は、確かに108ということで一般的には知られているところです。しかし、108の鐘は除夜だけとは限らず、寺院では朝夕108回鐘を鳴らすのが原則としているとのことで、普段は略して18回に留めるのが通例だそうです。暁に鳴らすのは眠りを戒め、暮に打つのは目のくらんだ迷いを覚ますためだと言われています。

 

鐘を108回も打つとなると、それを数えるだけでも大変な作業になります。そこで、鐘を数えるのに数珠を使ったり、108個の豆を用意したりします。数珠は108個の木槵子(もくげんじ)の実を貫き通して作られます。

 

鐘をつく前後には必ず鐘に向かい、合掌礼拝してから撞木(しゅもく)を握ります。そして107声までは旧年中に、残りの最後の1声は新年につき、1声は最後の宣命、新年を迎える最初の警策となります。庶民はこの108声の除夜の鐘を聞きながら、煩悩解脱、罪業消滅を祈ります。

 

ところで、108回という数ですが、一説には新しい年の無病息災と豊作を祈念する中国の儒教思想から来たものという見解もありますが、一般的には仏教の教えに基づいていると考えられています。仏教では、そもそも人間の心身を苦悩させる煩悩は108種あるとされています。6つの感覚である六根「眼、耳、鼻、舌、身、意」が識別の対象である六塵(ろくじん)「色、声、香、味、触、法」と関係するときに、それぞれ平(苦楽)、不苦(好)、不楽(悪)の3種類の状態があって、18種の煩悩になり、これを染(汚い)と浄(きれい)の2種類に分けて36種、さらにこれを過去、現在、未来という時間軸に分けると108種になるという計算です。この他にも、1年の月数である12と、二十四節気の24、七十二候の72を合計したものとする説もあります。

 

除夜の鐘は、この108種の煩悩を除く意味を込めて108回つくとされ、凡夫の罪業消滅の意を込めるので『般若心経』や『観音経』などの経を唱えながら、心清らかに撞木を打つことになっています。

 

ちなみに鐘には、梵鐘(ぼんしょう)と喚鐘(かんしょう)の二種類があります。梵鐘は「大鐘」、「釣鐘」、「鯨鐘(げいしょう)」などとも呼ばれ、銅と少量の錫・亜鉛などで鋳造され、一般的には高さ150200センチ、直径は6090センチのものが多いようです。一方、喚鐘は梵鐘を小型にしたもので、「半鐘」とも呼ばれ、高さ5060センチ、直径30センチくらいのものが多く、仏堂内に吊り、法会や座禅の開始などに用いられます。

 

日本に初めて鐘がもたらされたのは、欽明天皇23年(562年)8月に、大将軍大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が高麗に遠征した折、多くの品々とともに、三口の銅鋳鐘を戦利品として持ち帰ったときとされています。日本で鋳造された鐘で、現存する最古のものは文武天皇2年(698年)のもので、京都妙心寺にあります。

 

大晦日の夜に長く起きていれば長生きできるとの言い伝えもあり、また、除夜には人間ばかりでなく、牛や馬、道具にまで仏心を及ぼして休ませ、年取りをさせる風習もあります。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京の天気予報は昼前頃から雨とのことで、今のところはまだ降り出してはいません。特に冬は乾燥していますので、少しはお湿りがあった方が喉の調子には良いかもしれません。

 

さて、1年の最後の「晦日(みそか)」、1231日のことを「大晦日」ということは、皆さんご存知のことと思います。もっとも天保暦以前の旧暦では1230日、または29日であったわけですが、新暦では12月が大の月として固定されたので、1231日となりました。毎月の晦日を「つごもり」とも呼び、大晦日は「おおつごもり」とも称しています。

 

大晦日は1年最後の日であることから、一般家庭では、大掃除や正月用商品の購入、門松、注連縄(しめなわ)や鏡餅など正月飾りの準備が行われ、商店街も慌ただしくなります。江戸時代の大晦日の日は街中の人通りも多く、朝早くから夜遅くまで活気にあふれていたようです。あちらこちらに歳の市が立ち、商家では新しい暖簾がかけ替えられ、暗くなると軒提灯や高張提灯が掲げられるなど、夜遅くまで賑わいをみせ、街中を借金取りが駆け回っていました。また、宮中では、大晦日には「節折(よおり)」の式、大祓、除夜祭が執り行われ、神社では大祓の神事が行われていました。

 

大晦日から元旦までの間に行われるのが「年越し」です。年越しの境目が「除夜」となります。除夜については、次回詳しく紹介したいと思いますが、この年越しは、昔は年が一つ増えることから、「都取り」とも言いました。また、1年の変わり目であることから「大歳(おおとし)」、「年の夜」とも言われます。

 

年越しの際に、家族が寄り集まって蕎麦を食べながら年を越す習慣があります。これが「年越し蕎麦」です。蕎麦粉で作った麺は、本来は「蕎麦切り」と言っていました。この年越し蕎麦の習慣は、江戸中期の元禄年間(16881704年)と言われていますが、定かではありません。もともとそれ以前には、月末に蕎麦切りを食べる風習があったようで、1年の最後に食べる風習だけが年越し蕎麦として残ったものとして考えられています。

 

蕎麦を食べるのは、蕎麦が細く長い食べ物であることから、「細く長く」ということで、家運や寿命が長くなることに通じるためとも言われています。また、蕎麦が五臓の汚れを取り除くとされ、無病息災を祈るところからきたという説もあります。蕎麦には粘着力があって、江戸の職人たちは大晦日の大掃除のときに、蕎麦を練った団子を持って、部屋の隅々の小さなゴミや埃を取っていました。特に金銀細工を生業としている職人にとってはこの方法が珍重され、大晦日に限らず金粉銀粉をかき集め、それを七輪や火鉢の上で焼いて灰にすると、金や銀の粉だけが残るという訳です。「蕎麦は金を集める」といった諺もあるそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日から、日本の国技とされる大相撲の初場所が始まりました。横綱日馬富士の暴力事件や立行司式守伊之助のセクハラ事件など、ネガティブな話題で大荒れの相撲界でしたが、何とか無事に初場所を迎えることができました。神社での宮司殺害事件など、日本の伝統を守るべき世界でのこうしたトラブルは、まさに今の日本を象徴しているのかもしれません。

 

さて、本日のテーマは秋田県男鹿半島の村々に伝わる奇習、「男鹿のナマハゲ」を取り上げたいと思います。毎年1231日の大晦日の晩になると、男鹿半島周辺地域では、それぞれの集落の青年たちが「ナマハゲ」と呼ばれる鬼に扮して、「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」、「ここの家の嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら家々を巡る風習があります。この風習は昭和53年(1978年)に「男鹿のナマハゲ」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 

このナマハゲは、本来は鬼ではなく、怠け心を戒め、無病息災や田畑の実り・山の幸・海の幸をもたらす来訪神であるとされています。片手に包丁、もう一方の手に手桶などをもって家々を訪ね、ウォーウォーと奇声をあげると、正装した家の主人がナマハゲを迎え入れます。家に入ったナマハゲは、先ず神棚に礼拝した後、家の中の子供や嫁を諌めながら躍り上がって歩き回り、酒と餅が供されると、酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家に向かいます。

 

男鹿市内のナマハゲの行事は、江戸時代には旧暦の小正月、1月15日に行われていましたが、明治の改暦で新暦1月15日に実施されるようになり、戦時中は一時中断され、戦後になって2週間ほど前倒しされ大晦日に行われるようになりました。

 

ナマハゲの語源ですが、冬、仕事もせずに囲炉裏で長く火にあたってばかりいる怠け者には、手足に火斑(ひだこ)がつくと言われ、この火斑のことを男鹿の方言で「モナミ」と呼んでいます。怠け心を戒めるための「モナミ剥ぎ」が「ナマハゲ」になったと言われています。ナマハゲの持つ包丁は、このモナミを剥ぐための道具というわけです。

 

このナマハゲの起源については「漢の武帝説」、「修験者説」、「山の神説」、「漂流異邦人説」など諸説が語り伝えられています。漢の武帝説というのは、中国の漢の時代、武帝が不老不死の薬草を求めて男鹿にやってきた際に、従えていた5匹のコウモリが鬼に変身し、正月15日だけ休みをもらい村里に降りてきて作物、家畜、娘をさらい、暴れ回っていたのを、村人が知恵を使って追い返したという話が基になったものです。修験者説は、修験道の霊場として有名な男鹿の本山・真山で修行していた修験者の凄まじい姿をナマハゲとして考えたというものです。山の神説は、遠く海上から男鹿を望むと、日本海に浮かぶ山のように見え、その山に村人の生活を守る山の神が鎮座するところとして畏怖され、山神の使者がナマハゲであるというものです。漂流異邦人説は、男鹿の海岸に漂流してきた異国の人の姿・言語に驚きナマハゲとした説です。

 

ナマハゲに関する記録で最古のものは江戸時代の紀行家、菅江真澄〔宝暦4年(1754年)~文政12年(1829年)〕が文政5年(1822年)に秋田藩の藩校・明徳館に献納した『菅江真澄遊覧記』の「牡鹿之家かぜ」で、そこには文化8年(1811年)1月15日に男鹿の宮沢で行われた小正月行事としてナマハゲのモナミハギの様子が絵とともに詳細な解説が記されています。

 

このナマハゲの行事も、少子高齢化や生活スタイルの変化などによって後継者が不足し、年々行う地域も減ってきているようですが、地元自治体などではナマハゲを観光化するなど、保存に向けた動きもみられます。

高見澤

 

 

おはようございます。時の経つのも速いもので、年が明けてからすでに半月が過ぎようとしています。瓦版のテーマもいよいよ年末の話題になってきました。師走の話題も残すところあとわずかです。

 

さて、年末ともなると、我が故郷の佐久ではどこの家庭でも正月用の「餅つき」が年中行事の一つとして行われていました。私の実家でも大きな木の臼と杵があり、昨年亡くなった父が杵を振り上げて餅をついていたのを思い起こします。もちろん糯米(もちごめ)も自分の家の田んぼで植えており、育ってくると粳米(うるちまい)の稲とは一目で違いが分かるように一角を成していました。その餅つきが、子供にとってはまた一段と楽しい年末の行事でもありました。

 

この餅つきの起源は定かではありませんが、日本で稲作が興ったのは弥生時代といわれており、これもまた中国から伝来したものです。6世紀頃の遺跡からは蒸し器のような道具も見付かっていることから、すでに古墳時代には餅をつく風習があったものと思われます。古来日本では、餅はハレの日の食べ物として尊ばれており、「餅信仰」ともいうべき餅にまつわる昔話や伝統行事がたくさんあります。

 

江戸時代、師走も押し迫ると、江戸では町々で餅つきの光景が見られました。武家や大店(おおだな)、農家では昔から臼と杵で自分の家で餅をついていましたが、庶民の間では「餅つき屋」に頼んでついてもらうことが多かったようです。餅つき屋は臼、釜、蒸篭、杵、薪などの道具を担いで餅つきをして歩く業者で、一般的には4~5人でチームを組み、注文のあった家の前で威勢よく餅をついていました。これを「引き摺り餅(ひきずりもち)」と呼びます。この商売は明治時代まで続いていました。また、糯米を餅屋に渡してついてもらう「貸餅」というのもあったようです。

今では、自分の家で餅をつくことがほとんどなくなりました。正月用の餅もスーパーで買い求めることが主流になっています。佐久の我が実家でも、母が元気だった四、五年前までは自分の家で餅をついていましたが、今ではそれを受け継ぐ人もいなくなりました。秋田市周辺では、包みに入った平べったい大きな餅が毎年年末になると登場してきます。「のし餅」と呼ばれる餅ですが、秋田ではお汁粉としてたくさん食べる習慣があるそうで、切り餅ではなく、こうした巨大なのし餅が必要になるとのことです。

 

うどん屋のメニューとして、餅入りのうどんを「力うどん」として食べさせてくれるところがあります。餅は高カロリーなことから、昔から力の出る食べ物の代表格として、力仕事をする際にはよく食されていました。江戸時代の峠の茶屋でも「峠の力餅」なるものがあり、山越えをする旅人にも提供されていました。また、産後の滋養食や夏バテ対策の「土用餅」としても食されていました。

 

子供が満1歳を迎えた誕生日に一升餅を背中に背負わせ、部屋を一回りさせる風習が残っている地域がありますが、これはそうすることで、幼児の足腰が鍛えられ、しっかりと成長するようにとの願いを込めて行われる「力餅信仰」の一種とも考えられます。かつて、餅をつくこと自体が神様を招く行為であり、ひと臼目で神への供え餅を作るのが習わしでした。正月に飾るお供え餅として、その風習が受け継がれています。

 

ところで、昔から1229日だけは餅をつくこと、買うことを避ける風習があります。これを「苦餅」というそうで、「九」と「苦」の音が同じことから、一種の神事として捉えられていた餅つきも29日を忌み嫌うようになったのかもしれません。先ほどの秋田ののし餅のスーパーでの売れ行きも29日は若干落ちると言われています。

 

高見澤

 

おはようございます。相変わらず寒い日が続きます。仕事の量も相変わらず減りません。今年度事業もある程度目途がついたと思うと、もう来年度に向けて新たな事業計画と予算取りに走り始めなければならない時期になっています。

 

さて、本日は「冬至」について紹介していきたいと思います。 ご存知の通り、冬至は二十四節気のうちの第22番目、11月の中気に当り、天文学的には太陽黄経270度のときを指します。新暦では122123日頃になります。1年で最も南にある日で、夏至とは反対に日照時間が最短で、夜が最も長くなる日です。

 

冬至は太陽の力が一番弱まった日と考えられ、この日を境に再び力が甦ってくることから、太陽が生まれ変わる日と捉え、昔から世界各地で冬至の祝祭が行われていました。太陰太陽暦では、冬至が暦の起点ともなっています。中国や日本では、冬至が「陰」の極みとなる日で、翌日から再び「陽」に転じると考えられ、これを「一陽来復(いちようらいふく)」と表現しています。つまり、運が上向く日というわけです。

 

中国でも昔から「冬至節」として、これを祝う風習があります。暦の起点である冬至ですから、中国の歴代の皇帝も天を祀る儀式を行う大切な日であったのです。北京にある天壇公園は、明朝、清朝の皇帝が正月と冬至に天を祀る儀式を行った場所です。皇帝は「天子」であり、天命として天の動きを司る能力を持つ者とされ、暦作りは天子が天子たることを人民、並びに周辺諸国に示す必要がありました。こうした中華と周辺隣国との関係を「冊封(さくほう)」という言葉で表します。元々「冊」とは「本」、すなわち「暦の本」のことで、中国の周辺隣国は「冬至使」と称する使者に貢物を持たせ、天子のところに出向させ、天子への謁見が叶うと、貢物の返礼としてそれに勝る下賜物と「冊」を受け取っていました。

 

日本でも暦の作成は重要視され、江戸時代も朝廷と幕府でそれぞれ暦を編纂していたことは、以前にもご紹介した通りです。日本では、冬至の日には粥を作り、コンニャクやカボチャを食べたり、冷酒を飲んだりするなど、特定の食べ物を食する習慣が残されています。冬至に食べる粥のことを「冬至粥」と言い、小豆を入れたお粥で、小豆の赤が太陽を意味する魔除けの色で、厄払いの意味が込められているとのことですが、中国や韓国でも小豆入りの団子汁を食べることから、本格化する冬に備えて栄養価の高い小豆などの食べ物をとり、風邪などひかないようにする薬喰の風習とも考えられます。カボチャはカロチンやビタミンなどの栄養が豊富で、長期保存がきくことから、緑黄色野菜の少ない冬にはうってつけの食べ物です。これを冬至に食べると、風邪や中風(脳血管疾患)に罹らないとも言われています。

 

冬至のもう一つの習慣として、風呂に柚を入れて入浴する「柚子湯」があります。お風呂の湯に、柚子の実の輪切りや皮を浮かせて入浴するもので、柚子湯に入れば、柚子の香りがして心が静まり、身体が温まって風邪を引かないとか、霜焼けにならないとか、無病息災の効果があると信じられていました。柚子はミカン科の常緑樹で、初夏に白い花が咲き、冬に黄色い実がなります。酸味が強すぎて生食にはしませんが、皮が芳香があるので、鍋物などにはよく使われます。この強い香りが邪気を祓うとの考えもあり、また柚子(ゆず)→「融通」がきく、冬至→「湯治」に通じて縁起も良いとされていました。確かに、柚子には血行を促進して身体を温め冷え性を緩和したり、果皮に含まれるクエン酸やビタミンCによる美肌効果もあるようです。お風呂好きな日本人にとっては、もってこいの年中行事ともいえるでしょう。