おはようございます。今朝の東京都心は風がかなり冷たく感じました。日本海側では雪の降るところが多く、太平洋側では乾燥した天気と、本日は冬の日本の特徴を示すそのままの天気になりそうです。

 

さて、本日は、宝永年間(1704年~1711年)の大火について紹介したいと思います。宝永の前の元禄の時代は、先に紹介した元禄の大火や元禄地震等の自然災害ばかりでなく、赤穂浪士の討ち入りなど大きな事件が起きた騒然とした時期でもありました。宝永年間においても、宝永地震、富士山の宝永大噴火(現在まで富士山の史上最後の噴火)、霧島、桜島、浅間山や阿蘇山でも噴火が続いて起きるなど、自然災害が次々と発生し、また江戸での火事も一向に減ることはありませんでした。宝永5年(1708年)には京都でも禁裏を焼く「宝永の大火」が起きています。

 

宝永3年(1706年)1月14日、神田から出火した火は、日本橋堺町、大坂町辺りまで延焼し、中村座や市村座が焼失しました。同じ年の1120日には、日本橋和泉町から出火、住吉町、堺町、葺屋町辺りまで延焼し、この火事でも再建したばかりの中村座と市村座が再び焼失しました。

 

翌宝永4年(1707年)3月8日に、今度は日本橋亀井町より出火します。この時の火災は大伝馬町、田所町、霊巖島まで延焼し、中村座が全焼しました。

 

更に宝永7年(1710年)1月18日、神田柳原の真田邸から出火した火が、日本橋堺町、葺屋町まで延焼し、中村座、市村座がまたもや焼失してしまいます。同年1219日には神田柳原の松平伊豆守中屋敷から出火し、日本橋小網町、伊勢町などを経て霊巖島まで延焼する火事が発生しました。

 

そして、宝永に続く正徳年間にも江戸では大火が続きます。

 

高見澤

 

おはようございます。今日は1月17日、6,434人が犠牲となった阪神淡路大震災から24年の歳月が経ちました。当時、東京のマンションで明け方に揺れを感じて起きたことを昨日のように思い出します。ここ最近、世界中で比較的大きな地震が頻繁に起きているようですが、地球はこの先どうなっていくのでしょうか?

 

さて、本日は変なタイトルのテーマになってしましましたが、前回紹介した「元禄の大火」以外に、元禄年間(1688年~1704年)に起きた江戸の大火について少し紹介しておきたいと思います。

 

元禄年間には、「元禄の大火」以外にもその合間に比較的大きな火事が何件か発生しています。勅額火事が発生した元禄11年(1698年)1210日、日本橋本石町(現在も同じ地名)から出火した火が八丁堀(現在も同じ地名、いずれも東京都中央区)で鎮火しました。この火事で、江戸四座の中村座や市村座のほか、日本橋が焼失しました。

 

翌元禄12年(1699年)3月19日に、今度は日本橋本小田原町一丁目(現在の東京都中央区日本橋室町一丁目)と霊巖島本湊町(現在の東京都中央区新川)から出火し、これがまたもや八丁堀まで延焼します。その後翌々日の21日には、南北25町、東西2町を焼く火事も発生しました。

 

また、元禄15年(1702年)2月11日には、四谷(現在の東京都新宿区四谷)から出火した火が、青山から麻布(いずれも現在の東京都港区)を越えて品川宿(現在の東京都品川区北品川)に至り、そこで鎮火します。この火事で麻布にあった5代将軍・綱吉の別邸「麻布御殿(白金御殿)〔元々は幕府の麻布御薬園、現在の東京都港区南麻布三丁目、四丁目〕」、及び将軍の狩猟時の休憩所となっていた「品川御殿(現在の品川区北品川、町名にはないが御殿山と呼ばれる地域)」が焼失しました。

 

高見澤

 

おはようございます。日本をとりまく国際情勢が厳しさを増しています。今、日本にとって喫緊の課題は韓国との関係改善でしょうか。慰安婦問題に始まり、最近では日本企業に対する徴用工訴訟と、半世紀以上前の太平洋戦争中の問題がここにきて噴出しているのです。過去、こうした問題にかかわってきた当事者はそのほとんどがいなくなり、真相が分からないまま長い歴史の片隅に埋もれてしまうことは避けたいのですが、今この問題を掘り返して補償を求めることにどれだけの意義があるのでしょうか? 新たな紛争を巻き起こすのではなく、二度と同じ過ちを繰り返さないよう真実を明らかにして、恒久的な解決策を求めるべきではないかと思う次第です。

 

さて、本日は「元禄の大火」について紹介したいと思います。元禄の大火とは、元禄年間(1688年~1704年)の後半に江戸で発生した3回の大きな火災の総称です。

 

最初の火災は、元禄101017日(16971130日)の昼、大塚(現在の東京文京区)にある善心寺(ぜんしんじ)が火元となった火事です。善心寺から発生した火は、当初は西風、後に北西の風に煽られて、小日向(こひなた、文京区)から旗本・御家人屋敷や大縄地(おおなわち:職務上、同じ組に属する複数の下級武士がまとまって与えられた屋敷地)が多かった築土(つくど、新宿区)、牛込(新宿区)、飯田町(千代田区)、麹町(千代田区)、番町(千代田区)、代官町(千代田区)まで焼きつくしました。これにより、類焼した旗本屋敷は363棟に上ったといわれています。

 

第二の火災は、翌元禄11年9月6日(169810月9日)未明に、京橋南鍋町(現在の東京中央区)から出火した火事です。この年の8月に上野寛永寺の根本中堂、文殊楼、仁王門が落成し、9月3日に落慶法要が執り行われました。その際、東山天皇に願っていた勅額(ちょくがく)が9月6日に京都から到着します。勅額は根本中堂に掲げられることになっていました。この勅額到着のタイミングに発生した火事であることから、「勅額火事」、あるいは「中堂火事」とも呼ばれています。

 

この火事は、京橋南鍋町の木戸から北八軒目にある仕立物屋・九右衛門宅より出火し、折からの南風に煽られて日蔭町(港区)、数寄屋橋門内(中央区)に延焼して多くの大名屋敷・旗本屋敷を焼きつくし、神田橋(千代田区)の外側に延焼していきます。火はさらに駿河台(千代田区)、下谷(台東区)、神田明神下(千代田区)、湯島天神下(文京区)へと流れ、下谷池之端から浅草(台東区)へと拡大します。寛永寺境内にも火の手が廻り、本殿や新築したばかりの仁王門、厳有院廟を焼いて、三ノ輪か(台東区)ら千住(足立区)にまで及び、そして日本橋方面の火は両国橋を焼き落として本所(墨田区)まで広がる大火事になりました。

 

この火事による死者は3,000人以上、大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町屋1万8,703戸、326町が焼失したとされています。旗本の吉良義央はこの火事で自宅を失い本所に転居し、後にそこで赤穂浪士の討ち入りに遭って命を落とすことになります。

 

そして第三の火災が「水戸様火事」と呼ばれる火事で、元禄161129日(1704年1月6日)に小石川・水戸藩徳川家上屋敷を火元とするものです。元禄161123日に、元禄地震が江戸を襲いました。その余震が連日続き、1129日戌の刻(午後7時頃)に大きな余震があり、その頃に水戸藩上屋敷から出火したとされています。

 

強い南西風に煽られて火は東側に進み湯島聖堂や神田明神を焼き、本郷の加賀藩前田家上屋敷から駒込(豊島区)まで延焼します。ここで風向きが北西に変わり、猛火は進路を変えて不忍池の周りにある寺院を燃やし、谷中から上野(いずれも台東区)寛永寺、池之端から湯島天神にも火が迫り、さらに秋葉原や御徒町一帯を火の海にしたとされています。亥の刻(午後10時頃)から季節風がさらに強くなり、浅草橋、両国橋を焼き落し、火は隅田川を越えて本所(墨田区)・深川(江東区)へと広がり、回向院や霊厳寺などの寺院も灰になったといわれています。この火事が鎮火したのは翌12月1日の早朝でした。

 

この火事によって、武家屋敷275、寺院75、町屋2万戸が焼失したとされています。この火災の間にも5~6回の地震があり、「地震火事」と呼ぶ人もいました。水戸様火事は、地震と火事の複合災害だったともいえるでしょう。

 

高見澤

 

 

本日は天和の大火から「元禄の大火」に至るまでの火事について、簡単に紹介しておきたいと思います。八百屋お七が処刑された天和3年(1683年)の1216日に、またしても大火が発生し、この火事で江戸四座の一つ、日本橋堺町の中村座、日本橋葺屋町の市村座が焼失しました。

 

その後、元禄4年(1691年)2月10に、麹町で火災が発生します。このとき焼失した武家屋敷のいくつかが、北本所、南本所に移されています。

 

元禄8年(1695年)2月8日昼、未の刻(午後2時頃)に四谷塩町から出火した火は、6万軒の家屋を焼き、夜・寅の刻(午前4時頃)に芝の海の手前で鎮火しました。また、この年の9月には放火による火災が多発し、1226日に、京橋数奇屋町から出火した火が、山下門外(現在の日比谷辺り)から木挽町橋にかけて類焼し、江戸四座の一つである木挽町の森田座も焼失してしまいました。

 

こうした火事を経て、次には元禄の大火に代表される元禄時代の火事が頻繁に発生するようになります。

 

高見澤

 

おはようございます。東京都心は風が冷たく感じますが、今朝も良い天気です。昨日も結局は雨が降らず、相変わらず乾燥した日が続いています。東京全体では、週末には短い時間ですが雪も降るとのことですが、都心はみぞれ混じりで、昨年のように積もることはないようです。

 

さて、本日は「天和(てんな)の大火」について紹介してみたいと思います。天和2年1228日(1683年1月25日)午の刻(正午頃)、駒込にある大円寺から出火した火は、下谷、浅草、本郷、神田を焼きつくし、日本橋まで及び、翌朝卯の刻(午前5時頃)まで延焼し続けました。この火災により、最大で3,500人余りが犠牲となり、またもや中村座と市村座が焼失しました。これが天和の大火と呼ばれる災害です。

 

この火事は、別名「お七火事(八百屋お七火事)」とも呼ばれることから、お七という娘が放火した火事のように思われることも多いようですが、実は、お七はこの火事の被災者の一人で、お七が実際に放火した火事ではありません。この火事が、お七が放火するに至る要因とされることから、お七火事と呼ばれているようです。

 

貞享年間(1684年~1688年)に成立した見聞記『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』によると、天和の大火で焼き出された江戸本郷森川宿の八百屋市左衛門の一家は、駒込の正仙院に避難します。この寺での避難生活の中で、市左衛門の娘・お七は寺小姓の生田庄之介と恋仲になります。やがて店が再建されると、市左衛門の一家は寺を引き払います(天和3年1月25日)が、お七の庄之介に対する想いは募るばかり。

 

そこで、もう一度自宅が焼ければ、また同じように庄之介がいる寺で暮らせることができるのではないかと、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した(天和3年3月2日)のです。幸いにも火はすぐに消し止められ、小火(ぼや)にとどまりましたが、お七は放火の罪で捕縛され、天和3年3月28日に鈴ヶ森の刑場で火炙りの刑に処せられました。