おはようございます。本日、やっとのことで東京や大阪など7都府県に緊急事態宣言が出され、明日8日午前0時から効力が発生することになりました。とはいっても何ら強制力を持つものではなく、これまで日本医師会を含む各方面から迅速な発表を望まれていたにもかかわらず、何故こうももったいぶって発表が遅くなったのか、まったく理解に苦しむところです。私自身、仮に感染したとしても持ち堪えることができるように、抵抗力を落とさないよう体調管理には気を付けていますが、自分が感染源になることを恐れて、普段からマスクの着用や三密の場所には近づかないよう気を配っています。緊急事態宣言の発令が遅れたこともあり、我が職場でもやっとのことで、在宅勤務の方針が示されました。今のところ役職員に感染者が確認されたわけではありませんが、先週から我が調査部では、感染リスク軽減のために二班に分けてのシフト出勤体制をとっています。明日から瓦版の更新も、しばらくはお休みさせていただきます。

 

さて、本日は「楓川(かえでがわ)」について紹介したいと思います。楓川は、かつて現在の東京都中央区を流れていた川で、日本橋川から江戸橋のすぐ下流で南側に分流し、京橋川、桜川、三十間堀川の分岐点までの約1.2キロメートルの区間を指します。今は埋め立てられ首都高速環状線が走っていて、楓川の入口と出口はちょうど江戸橋ジャンクションと京橋ジャンクションとなっています。

 

徳川家康が天正10年(1590年)に江戸入府した当時は、楓川の流路は江戸前島の東側の海岸線で、水路を残して沖合を埋め立てることで形成された川であると言われています。沖合の埋め立てが始まる以前の慶長年間(1596年~1615年)に、江戸前島の東岸から内陸側に向かって10本の入り堀が掘られました。これらの入り堀は、主に江戸城造営のための石垣の荷下ろし場として利用されます。その後、江戸城の築城が終わると入り堀の役割が終わり、徐々に埋め立てられていきます。そして、前島の対岸を埋め立てる際に水路として残されたのが楓川でした。

 

江戸時代に水路が生活物資を運ぶ重要な交通網であったことは、これまでも頻繁に紹介してきたことですが、特に日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川周辺には商人や職人が多く住んでいました。川岸には楓河岸や木材河岸と呼ばれる河岸、武家屋敷に隣接する蔵が多く建ち並び、近代に至るまで経済の中心として栄えていました。

楓川には、北から海賊橋、新場橋、越中殿橋、松幡橋、弾正橋の5つの橋が架けられていました。昭和35年(1960年)から埋め立てが始まった楓川ですが、楓川底は首都高環状線として整備され、新場橋、松幡橋、弾正橋などの橋も残されています。

おはようございます。東京都の1日の感染確認者が遂に100人を超え、全国的にも感染拡大が止まりません。日本国政府の「如何に被害を小さく見せるか政策」により、実際のウイルス蔓延の状況が把握されておらず、実はすでにオーバーシュートになっているのかも知れませんが、誰もその実態を知る由もありません。報道によると、政府は本日にも緊急事態宣言の「準備発表」をするとか...(何じゃそれ!)。「これから緊急事態宣言を発表する準備に入ります」という発表なのでしょうか? それは緊急でも何でもありません。

 

さて、本日は「越前堀(えちぜんぼり)」について紹介したいと思います。越前堀は、前回、前々回とご紹介した霊岸島(中央区新川)に、かつて存在していた水路で、地名としても使われていたことがあります。

 

越前堀は、隅田川から霊岸島銀町(れいがんじましろがねちょう)と越前堀の間で西側に流れ込み、霊岸島銀町の中で南に折れ、更に東湊町で東に向かい、新船松町地先で隅田川に合流するルートでした。つまり、霊岸島の一部の地域をコの字型にめぐらされた水路であり、その地域にとっては入堀を形成していたのです。

寛永11年(1634年)、越前福井藩・松平越前守が蔵屋敷としてこの地を拝領します。そのため、この三方にめぐらされた堀ということで、越前堀と呼ばれていました。江戸時代、隅田川の河口に面していたこともあり、越前堀沿いには東湊河岸があり、魚河岸や廻船問屋などで賑わっていたようです。越前堀の護岸は石積みで、今でも建設工事や遺跡調査の際に、越前堀のものとみられる石垣に使われた石が出土することもあるそうです。

 

この越前堀ですが、明治以降は倉庫が建ち並び、西洋型蒸気帆前船が常時停泊していたと言われています。明治33年(1900年)までにはほとんどが埋め立てられ、今はその跡をみることはできません。現在、越前堀の一部が越前堀児童公園として整備されています。

おはようございます。コロナウイルス感染の拡大が止まらない中、いつ政府が緊急事態宣言を出すのかが気になっているところですが、一昨日、政府は国民に対し一世帯当たり2枚の布マスクを配布するとの方針を示しました。小学校の生徒会でも思い付かないような奇抜な発想を、日本国の英知が集結されている(とされている)はずの日本国政府がいとも簡単に決めたとも思えるはずもなく、この方針が出された裏には必ず何かあると思ってしまう私の猜疑心は異常なのでしょうか? 3日ほど前に、緊急事態宣言の発表が4月1日以降出されるのではないかとの噂が広まりましたが、政府はそんな議論もされていないと否定。昨日も東京では過去最多の97人、全国でも277人の感染が確認されています。緊急事態宣言が出されるのは必至ではないかと思いつつ、いつ、どのような形で出されるのかが大きな不安材料となっています。

 

さて、本日は「亀島川(かめしまがわ)」ついて紹介しようと思います。亀島川は東京都中央区を流れる荒川水系の一級河川です。中央区にある霊岸橋で日本橋川から南に分流し、亀島橋を過ぎた後に南東に折れて、隅田川の中央大橋の下流で隅田川に合流しています。現在の中央区新川一帯を日本橋川(北側)や隅田川(東側)とともに川で囲った形となっています。前回紹介した新川は、この亀島川から分流しています。

 

全長は約1キロメートルと短く、霊岸橋から亀島橋までの北岸に亀島河岸、東南側に折れた西南側に日比谷河岸、北東側に将監河岸、隅田川との合流地点の西岸に湊河岸がありました。現在は5つの橋(霊岸橋、新亀島橋、亀島橋、高橋、南高橋)が架かっていますが、江戸時代には日本橋川からの分岐点に霊岸橋、西南に折れ曲がる地点に亀島橋、隅田川との合流地点の少し手前に高橋(たかばし)の3本の橋が設置されていました。

 

亀島川の名前の由来は、この辺りに瓶(かめ)を売る商人が多くいたという説、かつては亀の形をした小島があったという説がありますが、そのどちらかははっきりしていません。亀島川に囲まれた地域は、現在は中央区新川となっていますが、江戸時代は霊岸島と呼ばれていました。これは、寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人(おうよれいがんしょうにん)によって開山された霊巌寺(れいがんじ)があったからだと言われています。霊巌寺は、明暦の大火で焼失後、深川(江東区白川)に移転しています。

亀島川の川沿いにあった将監河岸には御船手奉行所がありました。大坂夏の陣〔慶長19年(1614年)〕で水軍を率いて大坂湾を押さえた向井将監忠勝は、その功績によって御船手頭を命じられ、以降、向井家は代々「将監」を名乗り、この職を世襲し、江戸湾の警備や幕府水軍の維持を受け持つことになりました。

 

現在、この亀島川には上流の日本橋川との分岐点には日本橋水門、下流の隅田川との合流地点には亀島川水門の二つの水門があります。これは、隅田川との合流地点が海に近いため、高潮の発生時に川が逆流して発生する洪水を防止するためです。

おはようございます。コロナウイルス感染拡大がいろいろなところで影響を及ぼしています。石油業界では、経済の停滞による石油需要の大幅な落ち込みとサウジアラビアやロシア等産油国の大増産により原油価格が大暴落。世界中の原油貯蔵タンクがほぼ満杯の状態で、割高なタンカーによる海上備蓄もギリギリのレベルまで積み増しが行われているとのことです。米国テキサス州の零細油田群では、採掘した原油をパイプラインで輸送することができず、デッドストック(非商品在庫)寸前の状態にあり、このままだと採掘業者も稼働停止に追い込まれる事態に直面しているようです。これにより、原油価格の高値推移で生産を続けてきた米国のシェール業者は需要減退とコストが見合わないことから、相次いで倒産することになります。世界を揺るがす未曽有のコロナウイルスによるパンデミック危機は、世界経済の仕組みそのものを変えてしまうかもしれません。

(昨日の瓦版のタイトル番号に齟齬があり失礼しました。本日の瓦版を【江戸の川その68】とし、昨日の番号はそのままとしたいと思います。次回は【その70】でお届けします。)

 

さて、本日は「道三堀(どうさんぼり)」について紹介してみようと思います。道三堀は、江戸城の和田倉門から平川(日本橋川)河口の呉服橋門まで開削された運河で、その先は日本橋川を通じて江戸湊まで続いています。

 

道三堀は、徳川家康が江戸入府して最初に手を付けた水運事業の一つとされています。天正18年(1590年)、江戸城普請のための物資を運ぶ船入り堀とするために、家康は開削を命じます。現在の皇居東にある和田倉門から辰の口(現在のパレスホテル辺り)、そして現在の大手町駅前交差点を通り、呉服橋交差点と常盤橋の間辺りで平川に合流させました。その開削で出た土砂は埋め立てに利用されました。

 

開削当時、道三堀の両岸には四日市町(定期市)、木材町、舟町、柳町(遊郭)などが設置され賑わいを見せたと言われています。日比谷入江が埋め立てられた後も、江戸城ヘの物資の運搬路として活用されていました。道三堀の名の由来は、道三堀の南岸に江戸幕府の待医・二代目曲直瀬道三(まなせどうさん)の屋敷があったからだと言われています。

その距離わずか約1キロメートルですが、大手町駅前交差点のやや東側に道三橋、平川との合流地点に銭瓶橋(ぜにがめばし)が架けられていました。銭瓶橋の名の由来は、道三堀開削の際に銭の入った瓶が掘り出されたという説、この辺りで永楽通宝の両替をしていた(銭替)という説、夜中に江戸城の奥女中が通行切手を持たずに袖の下を使って道三堀から抜け出た(銭買)という説など、諸説あります。

 

この道三堀も明治43年(1909年)には埋め立てられ、今はその影をみることもできません。

おはようございます。昨日は急用により瓦版を更新できず、恐縮でした。タレントの志村けんさんがコロナウイルス感染による肺炎で亡くなりました。衝撃的なニュースでした。長年タバコ(最近は止めていたようですが)やお酒を好み、これらが危険性を高めているとの報告もあります。そんな中、今日から健康増進法が施行され、原則として飲食店、ホテル、オフィスなど室内での喫煙が禁止され、違反者には罰則も科せられます。人々の良心や他人・公共を気遣うマナーの精神に任せられず、罰則一辺倒の世の中になっていく寂しさを感じざるを得ません。

 

さて、本日は「新川(しんかわ)」について紹介したいと思います。新川は、「亀島川(かめじまがわ)」の霊岸町と福冨町との間(中央区新川)で分かれて東側に流れ、北新堀大川端町地先(中央区新川)で隅田川に合流した堀割です。亀島川は、箱崎川が日本橋川に流れ込む先の西南岸に架けられていた霊岸橋(れいがんばし)から南側に流れる川です。新川の北側には、亀島川との分流地点から隅田川にかけて日本橋川が並行して流れていました。

 

元々新川の流れていた辺りは、平川の派川であった八丁堀川の河口に面した隅田川の中洲で、「江戸中島」と呼ばれていました。江戸時代初期、徳川家康による江戸普請によって江戸中島が埋め立てなどで整備されます。その際、霊岸橋の南側の亀島川から江戸中島を東側に水を流して永代橋の南側で隅田川に合流させる堀を開削しました。これが新川です。この新川の北側を箱崎島(中央区日本橋箱崎)、南側を霊岸島(中央区新川)と呼びました。

新川の開削は、万治3年(1660年)に豪商の河村瑞賢によって行われたとも言われていますが、実際のところは明らかではありません。ただ、貞享年間(1684年~1688年)に瑞賢の屋敷が新川辺りにあったことは確認されています。

 

江戸時代、新川沿いは北新河岸、南新河岸が設けられ、上方から送られてくる所謂「下り酒」を取り扱う問屋商人が集まっており、新川一帯は酒問屋の街として賑わいをみせていました。また、新川には一ノ橋、新川橋(二ノ橋)、三ノ橋が架けられていました。

 

この新川も、戦災残土の処理のために、昭和23年(1948年)から埋め立てが開始され、翌昭和24年(1949年)には消滅します。現在、堀跡は道路となっており、新川という地名が残っています。


おはようございます。東京をはじめ、日本でのコロナウイルスの感染拡大が止まりません。首都圏では外出自粛が勧告される中、昨日は雪が降ることで、都心でもかなり人通りが少なくなりましたが、それでも出歩く人は後を絶たないようです。世界的に人の移動が大きく制限されると、経済がこれだけグローバルに、そして複雑に絡み合っているために、それによる連鎖の広がりを推し量ることはできません。何がどう影響し、それが足し算なのか掛け算なのか、或いは累乗なのかは、その時の状況次第で変わってくるので、神でも予想するこは不可能でしょう。今、この地球で行っているこは、すべてが自分たちの行動の結果だと思うことです。


 


さて、本日は「箱崎川(はこざきがわ)」について紹介しようと思います。箱崎川は、隅田川の日本橋中洲から日本橋川の現在の亀島川分岐点までの本流1.06キロメートルと、本流から現在の日本橋箱崎町と中洲の境で分岐して隅田川に流れる支流0.12キロメートルで構成されていました。


 


上流から流れてきた日本橋川は、北新堀町(日本橋箱崎町)と南新堀町(中央区新川)を結ぶ湊橋(みなとばし)の手前で、東側から流れ込む箱崎川、西側に向かう「越前堀(えちぜんぼり)」と交差した形となっていました。箱崎川には崩橋(くずればし)、越前堀には霊岸橋(れいがんばし)が架けられていました。

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この短い箱崎川沿いには、行徳河岸、蛎殻河岸、永久河岸、菖蒲河岸があり、多くの蔵が建てられていたそうです。箱崎側には浜町堀や稲荷堀に通じており、隅田川、日本橋川、小名木川、浜町堀など江戸の運河を利用する水運の中継地点として、多くの船が行き交っていました。


 


「山もありまた船もあり川もあり、数はひとふたみつまたの景」〔半井卜養(なかいぼくよう)〕と詠われたように、隅田川河口に堆積した中洲の影響で、川が三方に分かれた地点を「三ツ又」、「三ツ俣」、「三ツ股」と呼ばれていました。三方とは、隅田川本流、中洲西岸の箱崎川、中洲南側の箱崎川支流の三方向に分かれる場所です。別名、「三ツ又別れの淵」とも呼ばれ、この付近が淡水と海水の分かれ目にあたっていたと考えられています。


 

昭和46年(1971年)、高速道路及び東京シティエアターミナル建設のために箱崎川本流が埋め立てられ、翌昭和47年(1972年)には支流も埋め立てられて箱崎川は消滅しました。

おはようございます。東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まりました。東京でのコロナウイルス感染の拡大を考えれば、そう考えざるを得ません。連日の株価の乱高下、移動の制限やイベントの自粛、デマによる買い占めなど、世界全体が清濁混合の情報に翻弄され、一体何が起きているのかが分からなくなっています。意図的か意図的でないにせよ、これこそまさにこれまでの地球人が自然に対して行ってきたことの総決算ではないかと思えます。自然に利することをやってくれば、その見返りも己の「利」となって返ってくるでしょうし、自然を破壊することをすれば、その見返りも己の「破壊」につながります。「因縁果報」、今こそこの言葉を噛みしめて自らの行動を見直すことが肝要ではなかいと思います。もちろん、間に合えばですが...。明日と明後日は所用により、瓦版は休刊とさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「稲荷堀(とうかんぼり)」について紹介しようと思います。稲荷堀は、箱崎川から蛎殻町(中央区日本橋蛎殻町)と小網町(日本橋小網町)の間で分かれて北西方向に流れ、東堀留川に通じていた水路です。

 

蛎殻町や小網町一帯は、この堀を利用して各種の荷物が船で運ばれていたことから問屋が多く集まっていました。特に瀬戸物問屋が多かったようです。

 

箱崎川からの堀の出入口にあった行徳河岸は、寛永9年(1632年)以来、この堀と下総国行徳村とを結ぶ場所として、行徳からの塩の受け入れ地となっていました。また、江戸から下総への唯一の交通路として多くの船が出入する賑わいをみせていました。

稲荷の名称については、安藤対馬守の屋敷地の西方に稲荷(いなり)神社があったことから、稲荷の音読「とうかん」としたとされています。また、土居甲斐守屋敷前を流れていたので、「土居堀(どいぼり)」とも呼ばれていました。この堀に沿って播磨国姫路藩酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷があり、明治維新の後にその屋敷の一部が西郷隆盛の屋敷になりました。現在、堀の跡には「とおかん通り」という道路になっており、日本橋小学校の前身である「東華(とうか)小学校」の校名も「稲荷(とうか)」にちなんで名付けられたということです。

おはようございます。昨日、大手電機メーカーであるH製作所の中国総代表が交代のあいさつで来会されました。帰国後、14日間の喪が明けた(コロナ対策の自宅待機)とのことで、後任を連れての挨拶だったのですが、メーカーは商社や銀行と違い、工場という現場があるので、在宅でネットでのワークができないので、とにかく制限がある中で日中間を頻繁に行き来しなければなりません。オフィスビルや自宅マンションはもちろんのこと、コンビニや銀行のATMに入るにしても検温され、体温が37.3℃以上あると中国人・外国人に限らず即隔離、ということで、人権などという概念がない中国ならではの厳しい隔離政策ができたからこそ、ある程度の封じ込めができたということです。ですから、中国でコロナ感染が収束に向かっているという発表は正しいだろうとのことでした。そう言われてみると、中国を知っている人であれば、何となく納得してしまうでしょう。もちろん、日本や欧米ではできません。できるのは中国と北朝鮮だけでしょう。非常に生々しい話を伺うことができました。

 

さて、本日は「西堀留川(にしほりどめがわ)」について紹介したいと思います。前回紹介した東堀留川と同様に、西堀留川も石神井川支流を上流から埋め立て、河口部を埋め残して作られた水路で、東堀留川の西側に平行して設置されていました。

 

日本橋川に架かる江戸橋の東北角、本船町(中央区日本橋本町)と小網町(日本橋小網町)の間から北西に向かい、堀留町(日本橋本町)の手前で西に折れて、室町(日本橋本町)で堀留となっていました。堀留の先には「浮世小路」と呼ばれる小道があり、その先には通町筋(中央通り)に通じていました。この堀の北側には本町通り(旧日光街道)が平行して走っていました。

 

堀留町から西に折れて堀留までの区間は「伊勢堀(いせぼり)」又は「伊勢町堀(いせちょうぼり)」とも呼ばれ、日本橋地域のほぼ中央に位置していたことから、日本橋界隈にとって重要な物流拠点であったことが分かります。日本橋川との合流地点から北に向かう堀の西岸には米河岸、東岸には小舟河岸、西側に折れた伊勢堀の北側には伊勢町河岸と北塩河岸、南側には南塩河岸がありました。小舟河岸蔵の東には浮世絵の版元である「伊場仙」が大きな屋敷を抱えていました。伊場仙は現在でもその付近で扇子と団扇の専門店として小さな店を構えています。

 西堀留川も数百メートルの短い水路で、伊勢堀の分だけ東堀留川よりも長くなっています。架けられていた橋は、河口側から荒布橋(あらめばし)、中之橋(なかのはし)、西に折れて道浄橋(どうじょうばし)、雲母橋(きららばし/きらずばし)の4つです。西端の塩河岸跡地には、現在は復元された福徳神社が建っています。

 

この西堀留川も、伊勢堀が明治19年(1886年)に埋め立てられ、その後関東大震災で生じたガレキ処理のために、残りの日本橋川に繋がる部分も昭和3年(1928年)に埋め立てられ、水路は消滅しました。

おはようございます。欧州での新型コロナウイルス感染の拡大が止まりません。世界的な脅威はそればかりではありません。アフリカ東部で発生したバッタの大群がアジアにも押し寄せてきている蝗害による被害も、今後の世界的な食糧需給に大きな影響を及ぼす可能性があります。各地で多発する地震や火山噴火、異常気象。この地球でいったい何が起きているのでしょうか?

 

さて、本日は「東堀留川(ひがしほりどめがわ)」について紹介してみましょう。東堀留川は、日本橋川から小網町(中央区日本橋小網町)から北側に入り込む入堀で、堀江町(日本橋小舟町)に沿って堀留町二丁目地先(日本橋堀留町)で留まっていました。この西側には「西堀留川(にしほりどめがわ)」がありました。

 

この東堀留川の堀留とは、川を上流から埋めていき、下流部を埋め残す形で作られた水路です。江戸時代以前は、東堀留川及び西堀留川と日本橋川の合流付近は海岸線で、一説によると不忍池やお玉が池と流れてくる石神井川の下流部だったと考えられています。江戸幕府の河川改修により、この河口付近から日本橋川の原型となる「道三堀(どうさんぼり)」が江戸城に向かって掘り進められ、道三堀の先に陸地を造成、その上流部には神田川が開削されました。これにより、不忍池から流れてくる石神井川の流路が断たれ、下流部を掘り残して堀留とする一方、上流部は開削した神田川に付け替えたというわけです。

 

東西に掘り残された堀留川は、船荷の一大集散地として賑わいを見せていたようです。堀には船着場が設けられ、米河岸、塩河岸、小舟河岸、西方河岸、東方河岸、末広河岸など、日本橋の問屋街への表玄関として繁盛していました。東堀留川には、煙草河岸、東方河岸、西方河岸がありました。この数百メートルという短い堀にも、日本橋川から思案橋(しあんばし)、親仁橋(おやじばし)、萬橋(よろずばし)の3本の橋が架かっていました。

こうして賑わいを見せた東堀留川ですが、現在の江戸桜通りより上流は、昭和3年(1928年)に関東大震災のガレキで埋め立てられ、その後、昭和23年(1948年)に戦後の残土処理のために埋め立てが始まり、翌昭和24年(1949年)にその姿を消しました。現在、東堀留川の跡の一部は堀留児童公園になっています。

おはようございます。愛知県蒲郡市で新型コロナウイルスに感染しながら、ウイルスをばらまくと言ってフィリピンパブを訪れ、実際に従業員1名が感染したことで問題になっていた50歳代の男が、コロナウイルスによる肺炎で亡くなったとのことです。肝臓がんを患っていたようですが、つい先日まで元気な様子だった姿をテレビ画面で見ると、タイミングといい、結末といい、何か因縁めいたものがあるように思います。昨晩、NHKの解説委員と会食した際にも、この件が話題になり、表では言えないけれど何か裏があるのではないかと、冗談交じりではありましたが、盛り上がっていました。このような悪い心根を持っていると、ウイルスもその気を受けて活性化し、その身体にも害を及ぼしてしまう...というのは考え過ぎでしょうか?

 

さて、本日は「龍閑川(りゅうかんがわ)」について紹介していきたいと思います。龍閑川は、日本橋川に通じる江戸城外堀を鎌倉河岸の東端、すなわち龍閑町・西今川町(千代田区内神田)と本銀町(中央区日本橋本石町)の間で分流し、東北に向かって流れ、亀井町(中央区日本橋小伝馬町)で浜町堀と合流していた人工の堀です。「神田堀」、「神田八丁堀」、「銀(しろがね)堀」などとも呼ばれていました。

 

明暦3年(1657年)の明暦の大火の後、江戸市中に大規模な防火対策が施された際に、江戸城外堀の東北側には長さ八丁(約870メートル)の防火堤防が築かれました。天和3年(1983年)頃までには堤防の周辺が火除地となっていましたが、元禄4年に江戸城外堀と浜町堀をつなぐ割堀が町人の負担によって作られました。その目的は、主に物資運搬用の水路として利用するためでした。この堀は日本橋と神田の境界とされ、当初は神田八丁堀、銀堀と呼ばれており、後に龍閑川と呼ばれるようになりました。

 龍閑川の名称の由来は、日本橋川河口付近に江戸城殿中接待役の井上龍閑の屋敷があったからと言われています。龍閑川は「竜閑川」と表記されることもあります。この龍閑川を使った水運物流によって、日本橋や神田一帯は大きく発展することができました。

 

安政4年(1857年)、龍閑川はいったん埋め立てられます。明治16年(1883年)に、東京市の水運の発展とともに堀留として残っていた浜町堀を神田川まで延伸させる工事が行われ、その際に龍閑川も再び堀割されることになりました。その後、戦後のガレキ処理のために昭和23年(1948年)から再度埋め立てが始まり、昭和25年(1950年)には水路としての龍閑川は消滅しました。現在、外堀通りの交差点には「龍閑橋」の名称が残っています。

2020年4月

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