おはようございます。今朝も朝から暑いです。昨晩の帰宅は11時、帰宅後何もせずに1115分に寝て今朝起床したのが4時15分。ここ何か月間は毎日がこのようなサイクルで職場に通っています。週末に多少睡眠時間が増えますが、ほぼパソコンや資料とにらめっこの状態です。こんな生活がいつまで続くのでしょうか?

 

さて、本日は「御三卿家老」について紹介したいと思います。御三卿については、すでに紹介済みですが、少しおさらいをしておくと、8代将軍・吉宗の息子・孫によって立てられた大名家で、田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家を指しています。将軍家と御三家との血縁関係が疎遠になったこともあり、将軍家とつながる新たな藩屏が必要になり、御三卿が立てられることになったのです。

 

幕府から各家の当主に10万石が支給されていましたが、御三家と異なり領地は日本各地に分散、領地の実効支配は幕府に委ねられ、独自の代官所によって行われていました。御三卿は、独立した別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の家族・身内という位置付けで、社会的にも経済的にも将軍家に大きく依存しているのが実態でした。

 

家中運営のための家臣についても、幕府から主に旗本等の幕臣が派遣されていました。その家臣の筆頭が御三卿家老です。幕府の職制としては、江戸城留守居や大番頭とともに旗本役の最高位として位置付けられた重職でした。2,0003,000石の旗本から選抜され、役料として2,000俵が支給されていました。慶応3年(1867年)からは役金として月割800両が支給されました。

 

御三卿の初代家老には、幕臣から次の通り1家2名が任じられています。〔 〕内は家老に任じられる前の職です。

 

田安徳川家:享保14年(1729年)閏9月

 森川俊勝〔西城新番頭〕

 伏屋為貞〔先手頭〕

 

一橋徳川家:享保20年(1735年)9月

 建部広次〔先手頭〕

 山本茂明〔小納戸〕

 

清水徳川家:宝暦7年(1757年)5月

 村上義方〔小納戸〕

 永井武氏〔簾中御方御用人〕

 

高見澤

 

おはようございます。今朝、5時に家を出た時には降っていなかった雨も、6時頃に職場に着いた際にはもうすでに降っており、ジメジメ感が半端なく高まっていました。パソコンの反応も悪く、瓦版を書くにも一苦労です。T芝社の製品ですが、品質がここまで落ちてしまったのかと残念でなりません。「ものづくりニッポン」はどこに行ったのでしょうか?

 

さて、本日は「大坂船手」について紹介したいと思います。前回ご紹介した江戸に置かれていた船手とは別に、大坂には「大坂船手」と呼ばれる船奉行が置かれていました。大坂船手はその職務の重要性から船手よりも格は高く、老中支配で布衣、役高は定められておらず持高のままだったようです。

 

江戸初期、西国諸国から大坂に向かう船は、今は埋め立てられていて存在していませんが、伝法川(でんぽうがわ)から逆川(さかさまがわ)を経て大坂市中に向かうようになっていました。このため江戸幕府は、元和9年(1620年)に四貫島(しかんじま)村に船奉行所を設け、こうした諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向を監視することにしました。この船奉行所の長官が大坂船手です。当時、伝法・四貫島は難波津に代わる大坂の要衝の津として賑わっていたそうです。現在、六軒家川(ろっけんやがわ)に架かる朝日橋のたもとに「初代大坂船奉行所跡」の碑が建てられています。その碑の字は、橋本徹氏が書いたものだとか。

 

大坂船手が支配した「大坂船手組」は、1組をもって定数とし、頭1~2名(船手)の下に与力5~6名、水主同心(かこどうしん)50名がいました。

 

大坂船手の具体的な職務は、大坂湾から木津川及び淀川への船舶の出入りの管理・掌握と、大坂湾に停泊している船舶の掌握です。そのほか、幕府の軍船管理・水兵指揮、参勤交代のため航行する西国大名の監視、琉球使節や外国使節の航行警護など、国事に係る重要な職務にも携わっていました。また、18世紀には大坂船出が小豆島(しょうどしま)・塩飽島(しあくじま)の代官を兼任することもあり、大坂における幕府の重職の一つであったことは間違いありません。船番所は四貫島のほかに、木津川口にも設置していました。

 

貞享元年(1684年)、政商として名高い川村瑞賢が旧淀川の一つである安治川(あじがわ)を開削すると、舟運も変わり、大坂へは直接安治川から出入するようになったことで、伝法川経由の船舶は大きく減少します。このため幕府は、貞享2年(1685年)に四貫島と木津川口にあった船番所を廃止し、新たに安治川と木津川の分流点に位置する九条村本田の北端に「川口船手奉行所」を置きました。元治元年(1864年)、大坂船手と大坂船奉行所は、当時軍艦奉行であった勝海舟の進言により廃止されました。

 

高見澤

 

おはようございます。東京では暑い日が続きます。今日もかなり暑くなりそうです。日本経済界の訪中代表団が今年は9月9日からと、昨年に比べ2カ月早まっています。日本側並びに中国側との調整が例年になく大変で、やっと参加案内を出すことができました。経済界の重鎮が多く参加する代表団です。これまでも仕事が忙しい中、更なる激務に追われることになります。

 

さて、本日は幕府の水軍、「船手(ふなて)」について紹介していきましょう。この船手が支配する「船手組」は、江戸幕府番方の職制で、いわば幕府の水軍という位置づけです。

 

制度として確立したのは寛永9年(1632年)で、定数は時によって増減はありますが、原則として5組が基本で、各組に頭1名、水主(かこ)同心30名以上でした。船手の頭は若年寄支配の旗本役で、役高700石、布衣、躑躅間詰と、位としてはまずのところでしょうか。水主同心の数は多いときには80名、更には130名にも上ることもあったようです。

 

船手組の職務は、平時は幕府の用船の保管で、寛永17年(1640年)~寛永19年(1642年)の3年間、頭は毎年2人ずつ交代で四国・九州の浦々の巡視を行い、寛文7年(1667年)には巡見使に加えられ、江戸から大坂に至る浦々の陸路、西海道及び山陽道の国々の海辺の巡視にあたりました。

 

文久2年(1862年)に船手組は廃止となり、船手頭は勤仕並、水主同心は軍艦奉行支配となります。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、公安調査庁の調査官と懇談の機会がありました。本来であれば先週金曜日に約束していたのですが、当日の朝、突如オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫以下計7名の死刑が執行されたことから、急遽アレフ関連施設の立ち入り検査実施のために駆り出されたとのこと。現場検査の責任者としてホテルに泊まりがけで任にあたり、かなりお疲れの様子でした。中国情勢の情報・意見交換の話をするはずが、前半はオウムの話題が中心になってしまいました。

 

さて、本日は、昨日紹介した外国奉行の前身となった「海防掛(かいぼうがかり)」について紹介したいと思います。

 

海防掛の正式名称は「海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)」で、幕末の対外問題処理とこれに係る国内政策の立案、更には海岸防御等を担当した江戸幕府の役職です。寛政4年(1792年)にロシアのアダム・ラクスマンがロシアとの通商を求めて来航したことがきっかけとなり、時の老中・松平定信が海防掛に任じられたのが最初です。この時はまだ臨時の措置で、常設の役職ではありませんでした。

 

その後、度重なる外国船の渡来に危機感を抱いた幕府は、弘化2年(1845年)に海防掛を常設機関として、老中の阿部正弘と牧野忠雅、若年寄の大岡忠固と本多忠徳をその職に任じます。実際の任務は勘定奉行、大目付、目付が行い、老中よりの海防策の諮問に答える形だったようです。対外問題が幕府政治の中で比重が増してくるとその役割も増大し、海防掛は単なる諮問機関から行政機関へと変貌し、開国政策を推進するようになりました。

 

阿部正弘から抜擢された岩瀬忠震、井上清直、永井尚志、水野忠徳、堀利熙の5人は、安政五カ国条約締結に向けた交渉を担当し、安政5年(1858年)の「日米修好通商条約」調印をもって海防掛は廃止、この5人は外国奉行に任じられました。

 

この海防掛にまつわるエピソードを紹介しておきましょう。天保13年(1842年)、松平定信の次男で信州松代藩の藩主である老中・真田幸貫が海防掛の兼務を命じられます。幸貫は家臣である松代藩士・佐久間象山をその顧問として抜擢しますが、実はこのことが、象山が洋学を学ぶきっかけとなったようで、そこから象山の名が次第に知られるようになったということです。

高見澤

 

 

おはようございます。西日本を中心に豪雨による被害が広がっています。東京は今のところ大雨による被害はほとんどないようですが、こうした事態はいつどこに起きても不思議ではありません。先週末にも千葉で震度5弱の地震がありました。東京も震度3を観測、揺れている時間が長く感じられました。

 

さて、前回は神奈川奉行のところで、神奈川奉行を一時期兼任していた「外国奉行」について触れましたが、本日はこの「外国奉行」について紹介したいと思います。この外国奉行ですが、幕末に新たに設けられた役職の一つで、外交を専門に担当していました。

 

安政5年(1858年)の日米修好通商条約の締結に伴い、それまで条約締結交渉に当っていた「海防掛(かいぼうがかり)」を廃して、この外国奉行が設置されることになりました。外国奉行は老中支配の旗本役で、遠国奉行の一つとする説もありますが、実際の席次は遠国奉行の上座とされています。役高は2,000石、年間の給金として300両が支給されていました。海防掛については、また改めて説明します。

 

最初に外国奉行に任じられたのは、海防掛として日米修好通商条約の締結交渉の全権を任されていた井上清直(いのうえきよなお)と岩瀬忠震(いわせただなり)に、水野忠徳(みずのただのり)、永井尚志(ながいなおゆき)、堀利熙(ほりとしひろ)を加えた5名です。この中で安政6年(1859年)に神奈川奉行を兼務することになったのは水野忠徳と堀利熙です。以後、明治元年(1868年)に幕府倒壊によって廃止されるまで外国奉行の職は続きます。

 

外国奉行の定員は不定で月番制、配下には支配組頭、支配調役、支配調役並、定役、同心があり、「外国方」という機関を形成していました。外国方の中に「御書翰掛(おんしょかんがかり)」という重要機関があり、そこには調役、通弁方、翻訳方、書物方などの役職が置かれ、外国からの文書の翻訳や外国との交渉、外国への文書作成などを行っていました。現在の外務省に相当する機関で、外国奉行は外務大臣といったところでしょうか。

 

文久2年(1862年)に外国奉行の補佐役(次席)である「外国奉行並(がいこくぶぎょうなみ)」も置かれ、年々外国奉行の数が増えていったために、それを統括するため、慶応3年(1867年)に外国事務総裁職として若年寄格の「外国惣奉行(がいこくそうぶぎょう)」が設置されます。しかし、これも翌年の幕府崩壊とともに廃止されました。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京都心は朝から雨です。蒸し暑い上に、足元が濡れて決して快適とは言えない状態で出勤してきました。冷房の効いた部屋から外に出るのが、より面倒になりそうです。

 

さて、本日は遠国奉行の中で最も後の時代に設置された「神奈川奉行」について紹介したいと思います。この神奈川奉行も他の遠国奉行と同じで、老中支配の旗本役です。

 

幕末期の安政5年6月(1858年7月)、米国との間で日米修好通商条約が締結され、翌安政6年6月(1859年7月)をもって「神奈川」の開港が約束されます。同年中に英国、フランス、ロシア、オランダとも同じ内容の条約、いわゆる「安政五カ国条約」が結ばれることになりました。これによって実際には「横浜港」が開港されるのですが、このときに設置されたのが神奈川奉行です。安政6年から廃止される明治元年(1868年)までのわずか約9年間の短命でしたが、神奈川奉行の役割は極めて重要でした。

 

安政五カ国条約で神奈川の開港が定められたのですが、江戸幕府は東海道の宿場町として栄えていた神奈川湊を外国人居留地から遠ざけるために、対岸にある横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地と定めます。これが現在の横浜の発展の発端となった経緯です。今では横浜(中区・西区)が大きく発展していますが、江戸時代は神奈川宿(横浜市神奈川区)の方が栄えていたのです。

 

神奈川奉行に最初に任命されたのは、開港場建設の事務に当っていた外国奉行(幕末に新設された役職)の酒井忠行(さかいただゆき)、水野忠徳(みずのただのり)、村垣範正(むらがきのりまさ)、堀利熙(ほりとしひろ)、加藤則著(かとうのりあき)の5名で、当初は外国奉行との兼帯、5名のうち1~2名が輪番で出張勤務していました。その後、万延元年(1860年)に神奈川奉行は専任となり、松平康直(まつだいらやすなお)と都築峰暉(つづきみねあき)が任命され、定員は2~3名となります。神奈川奉行の役高は2,000石、役料は1,000俵でしたが、外国奉行との兼帯では役料の代わりに手当として300両が支給されていたようです。席次はその重要性から長崎奉行の上座とされ、属僚には支配組頭、調役、定役、同心、上番などが配されていました。

 

設置当初の神奈川奉行所は、青木町(横浜市神奈川区)に「会所」、戸部村宮ケ崎(横浜市西区)に「奉行役所」、横浜村(横浜市中区)に「運上所」が置かれ事務処理がなされていました。奉行役所は「戸部役所」とも呼ばれ、民政事務と外国人遊歩区域内取締りが主な任務で、運上所では領事事務、出入港手続き、関税徴収を取り扱っていました。

 

神奈川奉行所では治安維持や攘夷派による襲撃に備え、警察力・軍事力が整備されていました。幕臣から任命される士官としての「定番役(じょうばんやく)」と近隣からの徴募による歩兵の「番所附下番(ばんしょづきかばん)」とで組織されており、様式の兵制も取り入れていたようです。これらはいずれも武官でした。慶応

2年(1866年)、これら定番役と番所附下番は廃止され、関所・役所の警備は「支配役御用出役」と「役所附下番」という文官に任せられるようになり、神奈川奉行独自の軍事力はなくなりました。海外諸国との関係が安定するに従い、横浜港の警備強化の必要はなくなっていったのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。東京都心は朝から雨、全国的にも雨で、ところによっては暴風雨に注意が必要とのことです。週末にかけて雨が続き、しばらくは蒸し暑さに悩まされそうです。

 

さて、本日もまた遠国奉行で、特に港湾及び海上警固のために設置された「羽田奉行」、「新潟奉行」、「兵庫奉行」について紹介したいと思います。これらはいずれも老中支配の旗本役です。

 

先ず羽田奉行です。羽田といえば、今は「羽田空港」という空の玄関口として知られていますが、江戸時代は海防強化政策の一環として設置された「羽田御備場(はねだおそなえば)」がありました。場所は武蔵国荏原郡羽田村(現在の東京都大田区羽田)、設置時期は定かではありませんが、天保の改革(1830年~1843年)頃ではなかったかと思われます。天保14年(1843年)12月、西の丸小姓組を務めていた田中勝行が初代羽田奉行として任じられました。

 

羽田奉行は場所高1,000石、役料500俵のほか、引越拝領金200両、役所御備金300両で、下田奉行の次席、布衣、定員1名となっていました。羽田奉行の主な任務は、江戸付近の沿岸警備と外国船対策で、奉行が執務を行う仮番所、台場、火薬などを保管する仮焔硝蔵(かりえんしょうぐら)から成っていました。奉行の配下には、支配組頭1名、与力3名、与力勤方6名、与力見習・与力見習勤方4名、同心組頭10名、同心48名、足軽15名、主水頭取20名、足留主水40名がいました。

 

天保14年に設置された羽田奉行ですが、天保の改革を進めていた老中・水野忠邦が失脚すると、翌天保15年(1844年)に羽田御備場が廃止され、羽田奉行であった田中勝行は浦賀奉行へ異動となりました。

 

次は新潟奉行です。新潟奉行が越後国新潟町に設置されたのは天保14年(1843年)6月のことです。それまで新潟町は越後長岡藩領として譜代大名・牧野家の支配下にありました。牧野家10代藩主・忠雅の頃、新潟町で天保6年(1835年)と天保11年(1840年)に唐物(からもの)抜荷事件が発覚し、これを機に天保の改革の一環として天保14年に新潟町は上知されて江戸幕府の直轄領となりました。

 

初代新潟奉行に任じされたのは抜荷事件を密かに調査していた勘定吟味役の川村修就(かわかみながたか)で、役高1,000石、役料1,000俵で、佐渡奉行の次席とされていました。定員は1名で新潟町に常駐していました。主な任務は新潟町の民政と新潟港への出入船舶の監視、密貿易の取り締まり、海岸警備、海防強化でした。開国によって新潟が開港地となってからは、その重要性が増し、幕末の慶応3年(1867年)に奉行はその石高にかかわらず役金2,000両となりました。

 

そして兵庫奉行です。兵庫奉行は、元治元年(1684年)の兵庫開港に際して摂津国兵庫に設置された遠国奉行です。兵庫港は今の神戸港の一部で、昔から大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて、京都や奈良と日本の東西航路を結ぶ拠点として栄えてきました。

 

初代兵庫奉行に任じられたのは小笠原広業(おがさわらひろなり)で、1,000石高、役料現米600石でした。主な任務は兵庫市中の取り締まりと、開国に際しての外国貿易事務でした。しかし、慶応元年(1865年)に兵庫港の開港が中止となり翌慶応2年(1866年)に兵庫奉行は廃止されます。ところが、その翌年の慶応3年(1867年)に兵庫港が実際に開港されることになり、再び兵庫奉行が設置されました。その際のの役高は2,000石、役料1,500石とされているようです。配下には支配組頭がいました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝は特に蒸し暑さを感じます。そういえば、日テレの看板番組「笑点」でお馴染みの桂歌丸師匠が亡くなりました。81歳ということで、私の父が昨年84歳で亡くなったことを考えれば、少し早かったのではないかと思う次第です。戦前生まれの人たちは、まだ化学物質や放射性物質による汚染が少なかったこともあり、衛生状態が良くなった現代ではそれなりに長生きできているのではないかと思います。医療が発達したとしても、どこまで人の寿命を延ばすことができるのか? もう一度、生命とは何かを考える時期に来ているのではないでしょうか。

 

さて、本日は「蝦夷奉行」、「箱館奉行(はこだてぶぎょう)」、「松前奉行」について紹介したいと思います。この3つの遠国奉行は同時に説明することで、その時代の変遷とそれぞれの奉行の役割を知ることができます。

 

豊臣秀吉、徳川家康から蝦夷地(北海道)の支配権を認められていたのは清和源氏の流れを汲む松前氏(蠣崎氏)ですが、寛政期(1789年~1801年)から文化期(1804年~1818年)に南下政策を進めるロシアに対して幕府は警戒を強め、寛政11年(1799年)に「蝦夷地御用掛(えぞちごようがかり)」を置いて東蝦夷地を仮上知(かりあげち)します。享和2年(1802年)2月に仮上知から永久上知として蝦夷地御用掛を蝦夷奉行(または「蝦夷地奉行」とも)とし、同年5月に箱館奉行と改称しました。

 

この箱館奉行も他の遠国奉行と同じように老中支配の旗本役、定員は2名で、うち1名が1年交代で箱館に駐在していました。役料は1,500俵、席次は長崎奉行の次とされていました。初代蝦夷奉行(箱館奉行)は戸川安論(とがわやすのぶ、やすとも)と羽太正養(はぶとまさやす)です。

 

蝦夷地の本格的な経営に着手した幕府は、文化4年(1807年)に松前氏を陸奥国梁川に移封し、箱館に置かれていた奉行所を松前に移して名称も「松前奉行」と改めました。松前奉行の主な職務は蝦夷地の経営・開発及び警固、和人地の民政など蝦夷地の行政、北方の国境警備、更にはアイヌの懐柔や扶育政策などでした。その後、文政4年(1821年)、松前藩の復封に伴って蝦夷地支配を松前藩に返還し、松前奉行は廃止されます。

 

幕末に至り、箱館開港に対処するため、安政元年(1854年)に箱館奉行が再び設置されることになります。翌安政2年(1855年)、松前をはじめとする蝦夷地の大部分が箱館奉行の管轄に入りました。この時の箱館奉行の定員は2~4名で、うち1名が江戸詰めでした。役高は2,000石、役料は1,500俵で、在勤中の手当金700両が支給されたようです。箱館奉行の主要な任務は蝦夷地の警護と開拓のほか、開港場箱館にかかわる通商・外交なども管掌することになり、慶応4年(1868年)の明治維新まで存続しました。

 

明治元年(1868年)の戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となった「五稜郭」は、当初箱館山麓の港に近い宇須岸(うすけし)に置かれていた奉行所を内陸地に移転した際に造られた外堀で、元治元年(1864年)に完成しています。

 

ところでこの五稜郭について、有名なのは何といってもこの函館の五稜郭ですが、日本にある二つある五稜郭のうち、もう一つの五稜郭がどこにあるか知っていますか? 実は我が故郷の長野県佐久市(旧臼田町)にある龍岡城跡(現在の田口小学校)が同時代に建てられた五稜郭だったのです。現在でもその一部が五稜郭跡として残っていますので、興味のある方は行かれてみては如何でしょうか。

 

高見
 

おはようございます。ここ東京では暑い日が続きます。その一方、西日本では台風7号の影響で暴風や高波の危険性が高まっています。世界的にみれば、バリ島グアン山では溶岩を伴うマグマ噴火が起きています。地球規模での自然災害の発生は、ますますその頻度が増えているように思えます。

 

さて、本日は遠国奉行の「下田奉行」と「浦賀奉行」について紹介したいと思います。下田奉行、浦賀奉行共に老中支配の旗本役です。どちらも江戸湾に出入りする船舶の監視や江戸湾の海上防衛に係る重要な役割を担う役職で、時々の情勢の変化によって設置や廃止が頻繁に行われていました。

 

先ずは下田奉行について紹介します。伊豆国下田は江戸の南西に位置し、伊豆国は小国であったものの江戸を防御する自然立地をなしていたことから、特に海上交通の要衝でした。東海道箱根関を控える三島に代官陣屋が置かれるのとともに、下田には江戸/大坂間の海上交通の要所であったのです。俗に箱根の「陸の関所」に対して下田は「海の関所」としての機能を果たしていました。

 

下田奉行が設置されたのは元和2年(1616年)、初代奉行は今村重長です。「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる太平の世になって以来、江戸幕府の中央集権化が急速に進展、城下町江戸の建設・整備も本格的な取り組みが始まり、江戸湾に出入する船舶も増えてきたのが下田奉行設置の目的でした。

 

下田奉行の主な職務は下田湊の警護、江戸湾に出入りする船舶の監視・廻船積荷改などでした。下田奉行の定員は1~2名、役高は当初1,000石、役禄1,000俵で、布衣役となっていました。配下には下田奉行支配組頭と同支配調役、与力、同心、足軽、主水頭取(かことうどり)、足留主水などが配されていました。享保5年(1720年)に下田奉行の機能が相模国浦賀番所に移り、浦賀奉行が設置されて、下田番所は一時閉鎖されました。

 

海防の危機が顕在化してきた天保13年(1842年)に再び下田奉行が設置されますが、それも弘化元年(1844年)には再度閉鎖されます。嘉永7年(1854年)3月に日米和親条約(神奈川条約)の締結により下田が開港、それに伴って下田奉行が三度配置されました。幕末には外交上の重要な出張機関として外交事務を司っていたことから下田奉行の重要性が増し、役高も2,000石と加増、諸大夫となりました。この時期、下田奉行と浦賀奉行が併存していたわけです。

 

その後、安政5年(1855年)、日米修好通商条約の締結により横浜が開港されると、翌安政6年(1856年)に下田開港場は閉鎖、そして万延元年(1860年)に下田奉行所も廃止されることになりました。

 

次に浦賀奉行ですが、前述した通り、享保5年(1720年)に下田番所が閉鎖され、下田奉行が浦賀番所に転置されて浦賀奉行として従来の下田奉行の職務を引き継ぎます。初代浦賀奉行を務めたのは下田奉行から転じた堀利雄です。浦賀奉行は江戸湾の出入り船舶の監視・積荷改めのほか、相模国三浦郡内の天領(幕府領)と浦賀の町政支配、江戸湾防備の職務も管掌していました。

 

浦賀奉行の定員は1~2名、役高は1,000石、役料500俵で、配下に与力12騎、同心50人が配され、浦賀の廻船問屋が付属していました。当初、平時は属僚を浦賀に派遣して職務の遂行にあたらせ、浦賀奉行は江戸で執務を行っていました。天保8年(1837年)、「モリソン号事件」以降、浦賀奉行の任務は重要性を増し、嘉永6年(1853年)以降、石高は2,000石となり、外国との交渉が恒常的となる文久2年(1862年)からは奉行も浦賀に駐在するようになりました。安政年間(1854年~1860年)頃から要職としての格式も高くなって、遠国奉行首座の長崎奉行よりも上席に列することになりました。

 

おはようございます。昨日から7月、6月中に関東では梅雨が明けるという前代未聞の事態。日本各地で比較的大きな地震が続き、ここ東京も安心という状態ではないようです。沖縄地方では台風が接近しており暴風雨に注意が必要な一方、東京は今日も暑くなりそうです。

 

さて、本日は遠国奉行の中でも比較的早い時期に設置された「大津奉行」と「清水奉行」について紹介していきたいと思います。これらはいずれも他の遠国奉行と同じように老中支配の旗本役です。

 

先ずは大津奉行についてです。近江国大津は、天智天皇が「近江大津宮」に都を置いた(667年)こともある古き都です。琵琶湖の畔にあることから港町として栄え、さらに琵琶湖の東西の街道が合流する地点でもあったことから、昔から大津宿として東海道の重要な拠点でもありました。

 

室町時代、六角氏の支配下にあった天文2年(1534年)に六角定頼が奉行所を設置し、駒井清宗を大津奉行に任じたのが始まりとされていますが定かではありません。清宗はその後「大津氏」を名乗って子孫が代々大津奉行を継承しますが、六角氏が滅亡することで、大津は織田信長の支配下に置かれます。信長は大津に代官を派遣して、大津を支配させていました。

 

一方、比叡山焼き討ちのあった元亀2年(1571年)、信長は明智光秀に命じて近江滋賀郡坂本(大津市)に坂本城を建てます。京及び比叡山の抑えと、琵琶湖の守りという意味合いがあったようです。信長の死後、天正14年(1586年)に坂本城は廃城となり、浜大津(大津市)に大津城が建てられます。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いと時を同じくして「大津城の戦い」があり、大津城下は焼失、翌慶長6年に大津城も廃城となりました。

 

慶長5年、大津を支配下に置いた徳川家康は、摂津国の豪商・末吉勘兵衛を大津奉行に任じ、翌慶長6年に大久保長安を大津代官に任命して、奉行と代官の役割を分けました。その後、元和元年(1615年)に大津奉行が遠国奉行の一つとされ、大津代官をその指揮下として置くことになります。しかし、享保7年(1722年)に大津奉行と大津代官は京都町奉行所に統合され、大津代官所は廃止されました。明和9年(1772年)に大津代官所が復活、大津代官として石原氏が6代にわたって大津代官職を世襲していたようです。

 

次に清水奉行です。駿河国清水は天然の良港を有していることから、古くから海軍中継地として発展してきました。戦国時代、清水は今川氏の勢力下でしたが、武田氏が支配するようになると、武田軍の水軍基地として利用されるようになります。

 

江戸時代には、清水湊として西国の赤穂の塩などを江戸に運ぶ中継基地としての役割を担うとともに、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地として栄えました。また、旧清水市の中心部「江尻」は東海道の「江尻宿」が置かれ、重要な宿場町でもありました。

 

この重要な清水に置かれたのが清水奉行です。元和7年(1621年)に設置され、配下として主水50人が配され、主な任務は駿河湾の監視や警備でした。しかし、元禄9年(1696年)に清水奉行の職務は駿府町奉行に引き継がれ、清水奉行は廃止となりました。

 

高見澤

2018年7月

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