おはようございます。ここ数日は比較的涼しい日が続いています。東京は、今は曇っていますが、この後雨になる予報です。台風19号に続き、20号がまた西日本に向かうとの予測、更には世界各地で頻発している地震の動きも気になるところです。

 

さて、本日は武士の家格を決める際に重要な判断基準となる「武家官位」について紹介したいと思います。日本において官位とは、役人としての役職である「官職」と、その人の貴賤を序列で表す「位階」の双方を総称した呼び名です。それぞれの官職には相応の位階に叙位されていなければならず、それを「官位相当」といいます。この制度が「官位制(官位制度、官位相当制)」と呼ばれるものです。

 

日本の官位制は、もともとは中国の政治・行政制度の影響を受けたものですが、日本に伝来して以来、独自の発展を遂げてきました。官吏を序列化する制度の始まりは、推古天皇11年(603年)に聖徳太子が定めた冠位十二階だと言われています。その後、大宝元年(701年)に成立した「大宝令」と養老2年(718年)に成立した「養老令」に記された『官位令』によって官位制が確立しました。

 

官位制の本来の目的は、位階と官職を関連付けて任命することにより、官職の世襲を廃して適材適所の人材登用を図ることにありました。とはいえ、高位者の子孫には一定以上の位階に叙位する「蔭位の制(おんいのせい)」なるものが設けられるなど、実質的には形骸化していたのが実情です。結果的に官位は血脈的な尊卑を表すようになり、家柄、身分、家格を示す標準としての権威となっていました。

 

本来、官位は朝廷から叙任されるものでしたが、鎌倉時代に武家政権が誕生すると、御家人の統制のために将軍の許可なく任官することが禁じられます。武家の叙位任官は幕府から朝廷へ申請する「武家執奏(ぶけしっそう)」が制度化され、室町幕府へと引き継がれます。これが戦国時代から安土桃山時代にかけて武家官位として成立していくのですが、諸国の有力大名が相次いで高位の官位に任官されてしまうと、官位自体が不足することになり、公家の昇進体系が麻痺するという事態が生じてしまいました。

 

そこで徳川家康は、江戸幕府の開幕以降、官位を武士の統制手段として利用すべく制度改革に乗り出します。慶長11年(1606年)に武家官位は江戸幕府の推挙とすることが義務付けられ、慶長16年(1611年)に武家官位を「員外官(いんがいのかん)」として「公家官位」と切り離され、「禁中並公家諸法度」により制度化されました。これによって武士の官位保有が公家の昇進を妨げとなっていた事態を防止することができるようになりました。

 

江戸幕府においても武家の官位任命者は事実上は将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、必ず将軍の許可を受けなければなりませんでした。形式的な手続きになりますが、先ずは将軍が任じた官位を幕府から朝廷に申請して、天皇から勅許を得る形をとって、はじめて正式な官位が認められることになります。朝廷からの官位叙任を示す文書である「位記(いき)」、「口宣案(くぜんあん)」の発給にあたっては、「従五位下諸大夫」で金十両、「大納言」で銀100枚といったように、天皇に対して金子を進上することになっており、武家官位の授与は朝廷にとって重要な収入源の一つになっていたようです。

 

江戸幕府初期には武家官位を受けていない小大名も少なくありませんでしたが、寛文4年(1664年)の「寛文印知(かんぶんいんち)」によって大名の格式が整備されて以降、ほとんどの大名が官位を受けられるようになりました。

 

次回は、具体的な官位の中身について紹介していきましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は少し風もあり、いつになく涼しく感じました。とはいえ、まだまだ暑い日が続くようです。最近は突然の大雨や突風も各地で起きています。先日、長野に行く際にも二カ所で激しい雨に出会いました。

さて、本日は「御家人の家格」について紹介したいと思います。

徳川幕府直参の家臣の中でも、将軍に御目見えすることが許されない家格のものを御家人と称していたことは、以前にの紹介した通りです。御家人の俸給は、知行100石前後以下、或いは年俸として手当をもらう蔵米取りでした。幕府の上級職には就けず、基本的には中級職以下に就くか、無役となっていました。今でいえば、旗本がキャリア官僚、御家人がノンキャリといったところでしょうか。

御家人にも当然のことながら序列による家格がありました。以前、御家人の紹介で「譜代(ふだい)」、「二半場(にはんば)」、「抱席(かかえせき)」について少し紹介したことがありました。御家人のところでも紹介した通り、譜代は4代将軍・家綱より前の時代に将軍家に与力や同心として仕えた経験のある者、それ以降新たに御家人として登用された者が抱席で、その中間にある者が二半場と呼ばれていました。

由緒ある譜代は、江戸城内の「躑躅の間(つつじのま)」や「焼火の間(たきびのま)」に席が設けられ惣領に家督相続が認められる倅家督となっていました。御抱えが世襲となる二半場も譜代準席として、譜代同様の家督相続が認められていました。それに対して抱席は原則として一代限りの奉公でしたが、この原則もまた時代とともに次第に曖昧になっていったようです。

御家人は、基本的には徒士であり乗馬は認められていませんでしたが、「諸組与力」には江戸御府内では乗馬が許されていました。このため、与力は「騎」をもってその数を表します。与力の下に、徒士や足軽である「諸組同心」がおり、こちらは乗馬は許されていませんでした。徒士は身分ではなく職名であり、足軽については江戸幕府では正式名称として使われていません。武士として御家人の最下級の地位のものが同心ということです。

こうした御家人の下に「中間(ちゅうげん)」、「小者(こもの)」がいました。これらは武士(侍身分)ではなく、苗字や刀を持つことはできませんでした。持つことが許されたのは木刀1本です。中間は足軽と小者の間の身分のことを指し、中間も小物も職務は戦場や平時における雑用でした。

高見澤

 

おはようございます。 しばらくの間、お休みをいただきました。父親の一周忌と新盆を兼ねた法事も無事終わり、まさに長野までとんぼ返りで、その間も電話やメールで部下への指示と資料作りと気の休まることのない夏休みでした。今日からまた出勤で、朝から晩まで忙しい日々が続きます。

 

さて、本日は「旗本の家格」について紹介していきたいと思います。旗本は、徳川家直参で1万石未満の家臣のうち、御目見え以上であることは以前紹介した通りです。知行の最低ラインは100石前後であったようです。その旗本の中でも徳川氏に仕え始めた時代によって、分類されることがあります。古い時代からいえば次の通りです。

 

三河譜代(安城譜代、岡崎譜代)

遠州譜代

駿河譜代

甲州譜代

信州譜代

関東譜代

 

以上のような譜代については、譜代大名でも紹介しましたが、こうした仕え始めた時代によって家格が決まってくるのは旗本においても同様でした。もちろん、関ヶ原の戦い以降に家臣になった者のなかでも、才能や名家出身ということで旗本になった例もあります。そして、旗本から大名に昇進した例も多くはありませんがあります。

旗本は基本的に代々世襲が許されており、将軍から与えられた知行地の石高によっても家格が決まっていました。3,000石以上の上級旗本を「寄合」、この寄合と2,000石以上で守名乗りができた者を「大身旗本」と呼んでいたことは以前説明した通りです。また、これとは別に「高家」という家格があったことも既に説明した通りです。

 

旗本の家格を示す概念に「布衣(ほい)」というものがあります。本来、布衣というのは平安時代の中流階級の都人のお洒落着のことを指していたようですが、それが後に模様や裏地のない質素なものを指すようになったものです。これを江戸幕府が元和元年(1615年)に服制を定め、布衣が旗本の礼装に採用され、更には旗本の家格を示すようになりました。布衣は、追って説明する官位の「六位」に叙位された者の扱いとされ、武家官位では最下層となっていました。

 

官位については改めて紹介しますが、本来は幕府が朝廷に対して奏請し、朝廷からの口宣(くぜん)、位記(いき)授与等の正規な叙位手続きが必要です。しかしこの布衣については、幕府内において正規の手続きなしに六位に叙位された者として扱われていました。

 

布衣(六位)の上位に当たるのが「五位」の「諸大夫(しょだいぶ)」です。古来、「四位」までしか昇進できない低い家格の貴族のことを指していたようですが、江戸時代になると親王家や摂家の家政を司る家司(けいし)の職名となり、その官位が五位であったことから、五位に任じられた大名や旗本が諸大夫と呼ばれるようになりました。こちらは朝廷からの正規な手続きを受けた後に、叙位されることになっていました。

 

布衣の六位は武家官位の最下層とはいえ、官位ですから旗本の中でもその家格は決して低くはありません。幕府の重職に就くにも「布衣以上」という条件が付いていたほどですから、如何に布衣としての家格が重要視されていたかが分かります。一方、御目見え以上であっても、官位のない旗本は「平士(へいし)」と呼ばれており、幕府の重職に就くことはほとんどなかったものと思われます。

 

高見澤

 

おはようございます。台風が来て涼しさを感じたのもつかの間、また猛暑がぶり返しています。猛暑日を超える「酷暑日」なる言葉も飛び交うこの頃ですが、皆さんは夏休みはどう過ごされますか? 実は、来週少し夏休みをいただき、昨年亡くなった父親の一周忌と新盆を兼ねた行事が佐久の実家で行われるため、月曜の夜に東京を経って、火曜日の行事に参加、その夜にまた東京に戻ることになっています。仕事が忙しくて、のんびり温泉に浸かっている閑もありません。ということで、来週は月曜日から水曜日まで瓦版も休刊とさせていただきます。ご理解の程、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は具体的な家格制度のうちの「大名の家格-その一」について紹介していきたいと思います。江戸時代の大名については、徳川将軍家との関係によって親藩、譜代、外様の3つに分けることができること、さらに親藩の中でも御三家、御三卿、その他御家門など、家柄によって家格を示すことがあることは、すでに紹介した通りです。

 

大名については、これとは別に所領やその石高、居城の有無によって家格を示す制度がありました。一国以上、或いはそれに相当する広大な所領を持つ「国主(国持ち大名)」、国主に準ずる格式を与えられた「準国主(準国持ち大名)」、国主及び準国主以外で居城が認められていた「城主(城持ち大名)」、城は持たないが城主と同じ待遇を受ける「準城主(城主格大名)」、城を持たない「陣屋(無城)大名」の5段階に分けられていました。この他にも、「居館」に居住していた「交代寄合旗本」も陣屋大名と同格の地位が与えられていたようです。

 

国主大名は、一国一円の12家(当初は10家)と大領を有した大身国持6家の計18家がこれにあたります。一国一円12家とは、①加賀金沢前田家、②薩摩鹿児島島津家、③長門萩毛利家、④因幡鳥取池田家、⑤阿波徳島蜂須賀家、⑥筑前福岡黒田家、⑦安芸広島浅野家、⑧備前岡山池田家、⑨土佐高知山内家、⑩対馬府中宗家、⑪伊勢津藤堂家、⑫出雲松江松平家(親藩)を指します。大身国持6家とは、①陸奥仙台伊達家、②肥後熊本細川家、③肥前佐賀鍋島家、④筑後久留米有馬家、⑤出羽秋田佐竹家、⑥出羽米沢上杉家を指します。また、上記18家も時代によって変化し、越前福井松平家(親藩)、陸奥盛岡南部家、美作津山松平家(親藩)、大和郡山柳沢家(親藩)などが大身国持とされています。大身国持は表高20万石以上で半国以上の領地を知行としていました。

 

準国主としては、①伊予宇和島伊達家、②筑後柳川立花家、③陸奥二本松丹羽家の3家がこれにあたります。この3家はいずれも表石高10万石以上で、国主に準ずる家格とされていました。

 

国主、準国主は共に国許で城で居住すること、すなわち「居城」が許されていました。そして国主、準国主以外で居城が許されていたのが城主大名です。江戸幕藩体制下において「城」の定義は、「石垣の上に塀と櫓を有している」建築物で、それ以外は「陣屋」とされていました。城主大名としては、彦根井伊掃部頭(かもんのかみ)家、姫路酒井雅楽頭(うたのかみ)家、富山前田出雲守(いずものかみ)家、加賀大聖寺(だいしょうじ)前田飛騨守(ひだのかみ)家など150以上の大名が居城を認められていました。

 

居城を許されない大名のことを陣屋大名と呼び、陣屋で居住することを「在所」といって居城とは区別していました。在所でありながら城主に準ずる待遇を受ける大名を城主格大名といいます。元和元年(1615年)の「一国一城令」によって主城以外の城が破却されると、その後取り立てられた家や分知大名が出てくると与える城地が不足する事態が生じます。そこで長年幕府に貢献した家や旧家・名族に対して、居城ではないが城主待遇とする処置を施すことになります。越後井伊家与板藩、信州内藤家岩村田藩、越前酒井家敦賀藩など譜代の支藩や大藩の分家・支藩等がこれにあたり、幕末の慶応3年(1867年)には19家あったそうです。

 

そして、城主格大名以外の居城を許されない大名が本当の陣屋大名となるわけです。一口に大名といっても、こうした知行の大きさによったり、城が持てたり持てなかったりで家格が決まっていたのです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。台風13号の影響が心配されていたところですが、台風の進路が少し東側にずれたおかげで、東京都心はあまり大きな被害は出なかったようです。それでも千葉県や茨城県の一部が暴風域にありますので、まだまだ予断は許しません。それから今朝は話題をもう一つ。沖縄県の翁長雄志知事が亡くなりました。享年67歳、普天間基地の移設問題で日本政府と対立を続けてきた翁長知事の死もまた、今の日本を象徴しているように思えてなりません。

 

さて、江戸幕府の主な役職については一通り紹介してきました。他にもたくさんの役職がありこれを続けていると、正直言ってきりがありません。そろそろ次のシリーズに移りたいと思いますが、その前に、「武家の家格」について少し捕捉説明しておきたいと思います。江戸幕府の役職を決定する際に、家格が大きく係っていたことは、これまでも説明してきた通りです。

 

「家格」とは、読んで字の如く「家」の「格」を指します。大よそ人類社会が築かれてからその権威と役割によって身分制が敷かれ、その社会の秩序を維持するために制度化された評価体系ともいうべきものでしょうか。古代中国においては、紀元前1900年頃には「夏(か)王朝」の存在が認められており、その頃にはすでに身分制度があり、商(殷)、周と時代が下るに従って家格のようなものが次第に形成されていったものと思われます。

 

一方、日本においても天皇を中心とした政治体制が固められていく中で、同様に家格体系が構築されていったと考えられます。日本において家格に対する考え方が定着するのは、平安時代中頃の貴族の間であったと考えられます。古代の律令国家時代の官僚制度が職業として存在していましたが、その頃から特定の家柄の人たちによって代々世襲されるようになり、それが家格として定着していったものと思われます。

 

これが戦国時代から江戸時代になると、武家の家格ということで、武士の任官と深くかかわってきます。江戸時代の大名や直参は官位、知行国の石高、江戸城内の伺候席などで厳しく統制・区別されていたことは、これまでの数々の紹介からもご理解いただけたかと思います。次回以降、具体的にそれぞれの家格を示す制度について紹介していきましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、台風が近づいていることから雨を覚悟していたのですが、運良く濡れずに出勤することができました。それでも時々強い風が吹きますが、気温が低めで歩きやすい朝を迎えています。今日の昼間は強い雨の予報となっており、昼食に出るのがおっくうです。

 

さて、本日は時代劇でお馴染みの「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」について紹介したいと思います。火付盗賊改方は主に、江戸時代に重罪とされてきた火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職で、「火盗改(かとうあらため)」、或いは「火盗(かとう)」などと略して呼ばれることもあります。元々は先手弓頭や先手筒頭から選ばれた臨時の役職で、先手頭との兼職、いわゆる「加役(かやく)」として設置されました。

 

火付盗賊改方が設置されるきっかけとなったのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。明暦の大火後、江戸では放火犯や盗賊などの凶悪犯がはびこっていました。そこで幕府は、寛文5年(1665年)に先手頭の水野守正が関東強盗追捕に任じます。これが「盗賊改(とうぞくあらため)」加役の最初だと言われています。盗賊が武装集団であった場合、非武装の町奉行では対応できず、武力制圧するためにも武装組織が必要となっていたのです。中国の「武装警察(武警)」に相当するところでしょうか。その後、天和3年(1683年)には「火付改(ひつけあらため)」加役が設けられています。

 

元禄12年(1699年)、盗賊改と火付改は一度廃止され、その職務は三奉行の管轄に入りますが、赤穂事件のあった元禄15年(1702年)に盗賊改、翌元禄16年(1703年)に火付改めがそれぞれ復活し、更に正徳5年(1715年)に「賭博改(とばくあらため)」加役が設けられました。この3つの改加役を合わせる形で享保3年(1718年)に火付盗賊改が先手頭の加役として設置されることになります。この時、賭博改は町奉行の下に移管されたとの説もありますが、定かではありません。その後、火付盗賊改方は文久2年(1862年)に先手頭加役から独立して専任制になりますが、慶応2年(1866年)に廃職されました。

 

火付盗賊改方は、先手頭の加役でもあることから若年寄支配(後に老中支配に)で、任期1年の本役加役は2名、任期半年の当分加役が2名で、当分加役は火事の多い秋冬(9月~3月)に任命されていました。役高は百人扶持、1,500俵で、配下に与力1056騎、同心3050名のほか、町奉行と同様に「目明し(めあかし)」を使っていました。ただ、同じ江戸の町の治安を預かる者として、町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改は番方(武官)であったことから取締りは乱暴で、誤認逮捕や冤罪も多かったようです。

 

火付盗賊改方として有名なところでは、「鬼勘解由(おにかげゆ)」の名で知られている初代火付改・中山直守(息子の直房との説もある)や、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川宣以(はせがわのぶため)がいます。

 

高見澤

 

おはようございます。夏休みを取っている人がいるのか、普段に比べ電車が空いているように思えます。そうした中、台風13号が関東を直撃する可能性が高まっているようで、夏休みを計画している人にとってはとんだ災難かもしれません。

 

さて、本日は「奥右筆(おくゆうひつ)」と「表右筆(おもてゆうひつ)」について紹介したいと思います。そもそも「右筆(ゆうひつ)」とは「執筆(しゅひつ)」とも呼ばれ、中世から近世にかけて武家社会における秘書役を担う文官のことを指しています。最初は文章の代筆が本来の職務とされていましたが、次第に公文書や記録の作成など事務官僚としての役目を負うようになり、江戸時代には「祐筆」という表記も用いられていました。

 

織田信長や豊臣秀吉の時代には「右筆衆(ゆうひつしゅう)の制」が制定され、右筆衆は行政文書の作成のほか、奉行や蔵入地代官なども兼務していました。豊臣政権時代の五奉行であった石田三成、長束正家、増田長盛は秀吉の右筆衆出身でした。

 

戦国大名時代の徳川家にも右筆は存在していたと思われますが、家康の勢力拡大や天下掌握の過程で三河時代の右筆も奉行・代官等の行政職や譜代大名などに採用されるようになり、江戸幕府成立時には旧室町幕府奉行衆の子弟や豊臣政権の右筆、更には旧後北条家の右筆などが採用されていました。江戸幕府初期の右筆の職務は、将軍の側近として御内書(ごないしょ)・奉書の執筆や法度浄書などの実施、老中などの指示に従って公文書などの作成でした。

 

5代将軍・綱吉が館林藩主から将軍となった際に、綱吉は館林から右筆を連れて江戸城に入ります。綱吉は、従来の右筆に代わり彼らに自己の機密のことに関与させることになります。これにより従来の右筆は表右筆となり、館林から連れてきた右筆を奥右筆とする制度が確立しました。天和元年(1681年)のことです。その後、奥右筆に空席ができた場合には、表右筆から後任を選ぶのが慣例となりました。

 

表右筆の主な職務は、単なる幕府の書記役で、老中奉書や幕府日記、朱印状、判物の作成、幕府から全国に頒布する触書の浄書、大名の分限帳(ぶんげんちょう)や旗本など幕臣の名簿管理など限定されたものでした。表右筆の構成は、定員2~3名の表右筆組頭と30名前後(後に80名前後)の表右筆です。組頭の役高は300石、役料150俵、四季施代銀20枚で、表右筆の役高は蔵米150俵、四季施代銀20枚でした。

 

一方、奥右筆の主な職務は、幕府の機密文書の管理や作成、老中の諮問に基づく各種調査や意見具申などです。また、諸大名が将軍や幕府各所に書状を差し出す場合には、必ず事前に奥右筆がその内容を確認することになってました。つまり、書状が将軍や関係機関に届くか否かの判断を奥右筆が握っていたということです。ですから、諸大名は奥右筆の存在を恐れていたと言われています。このように、奥右筆の地位は低かったのですが、実務的には重職であったことが分かります。今でいうところの政策秘書に近い存在でしょう。

 

奥右筆は、当初は綱吉の側近数名でしたが、後に拡大され、宝暦年間(1751年~1764年)には17名程度まで増えています。また、奥右筆の待遇は表右筆よりも上で、奥右筆組頭は役高400石、役料200俵で、奥右筆の役高も蔵米ではなく200石高の領地の知行でした。

 

奥右筆、表右筆ともに若年寄支配の旗本役です。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日は、朝から当日の会議の準備で大忙し。瓦版をお送りすつ時間も取れず、失礼しました。今週も会議やその準備、経済界の訪中代表団派遣の準備などで大忙しで、どこまで瓦版をお届けできるか分かりませんが、できる限り努力していきたいと思います。

 

さて、本日は「巡見使(じゅんけんし)」について紹介していきましょう。巡見使は江戸幕府が諸国大名や旗本支配地、幕府直轄地の監視と情勢調査のために派遣した上使のことで、役職というよりは一種の制度と言えるかもしれません。巡見使は公儀御領(天領)及び旗本知行所を監察する「御料巡見使(ごりょうじゅんけんし)」と諸藩の大名を監察する「諸国巡見使(しょこくじゅんけんし)」の2種類がありました。

 

巡見使の始まりは、元和元年(1615年)に家康が3年に1度の諸国の監察を行う「国廻り派遣」の方針を打ち出したことにあるとされ、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光も同様に「国廻り派遣」を行っています。

 

巡見使の制度が正式に成立するのは、4代将軍・家綱の時で、寛文7年(1667年)に諸国巡見使の制が導入されてからです。その時の諸国巡見使は若年寄の指揮監督下とされ、使番1名を正使、小姓組番と書院番からそれぞれ1名ずつを副使とする3名に従者を合わせた総勢35名を定員とし、都合により数組に分かれて巡視を行いました。また、この時は江戸から大坂に至る浦々の陸路や西海道及び山陽道の国々の海辺を視察する「浦々」の巡見も同時に行われ、船手が巡見使に加えられたことはすでにお話ししている通りです。

 

5代将軍・綱吉は、将軍職に就いた翌年の天和元年(1681年)に諸国巡見使を派遣します。これ以降、例外はありますが新将軍就任1年以内の巡見使派遣が定着します。全国を8つの区域に分割して管轄地域を定め、各地の実態を「美政」、「中美政」、「中悪政」、「悪政」などと格付けして幕府の報告していました。中には悪政と評価され改易処分を下される者もあり、そのため巡見使に対する過度な接待が行われ、却って領民の負担が増えるなどの副作用も生じました。ただ、諸藩においては大名による自治が原則だったので、巡見使による監察にも限界があったようです。諸国巡見使による監察は、寛文7年以降幕末に至るまで8回行われています。

 

一方の御料巡見使については、寛文11年(1671年)に関東地方の代官及び農民支配を目的として関八州巡見使が独自に派遣されたのがその始まりで、正徳2年(1712年)に関八州から全国規模に拡大されています。それまでは諸国巡見使が公儀御領の巡見も行っていたようです。御料巡見使は、勘定奉行支配の勘定方と目付支配の徒目付から構成されていました。公儀御料は全国各地に散らばっており、11区域に分けて行われていました。正徳2年以降、天保9年(1839年)まで計7回の巡見が行われています。公儀御料や旗本領は幕府が直接管轄していることから、御領巡見使は諸国巡見使よりも強い権限が与えられていました。

 

高見澤

 

おはようございます。それにしても異常な暑さが続きます。早朝からの出勤も職場に着く頃には汗びっしょりで、まったくと言っていいほど涼しさの欠片もありません。この気候に身体が適応できない人も増えています。くれぐれもご注意ください。

 

さて、本日は、「徒歩組(かちぐみ)」について紹介したいと思います。徒歩組の「徒歩(かち)」とは「徒士(かち)」を表し、徒歩(とほ)で戦う下級武士のことを指し、職制は番方になります。江戸時代においては、士分に属し、士分格を持たない足軽とは峻別されていました。近代軍制に例えれば、馬上勤務が許される「馬廻り組」以上が士官とするならば、下士官といったところでしょうか。

 

徒歩組はこうした徒士から成る戦闘集団を指し、慶長8年(1603年)に徳川家康が9組をもって設置したとされていますが、その成り立ちは室町時代の「走衆(はしりしゅう)」にあるとされ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにはその存在が認められています。江戸幕府安定期には本丸15組、西の丸5組の計20組が設置されていました。

 

各組に頭1名、組頭2名、徒歩衆28名が配属され、徒歩組の長である徒頭(かちがしら)は若年寄支配、役高1,000石、布衣でした。徒歩衆は蔵米取りの御家人で、当初は抱席でしたが、文久2年(1862年)に譜代格になりました。

 

徒歩組の主な任務は、戦時においては将軍の親衛隊として前駆を務め、平時においては江戸城内の警備や支配勘定等の中間管理職的な行政職で、将軍が行幸の際には前駆して沿道の警備にあたっていました。また、日光奉行の手付等への出役も少なくなく、他の職に比べ昇格の機会に恵まれていたようです。普段は江戸城内の玄関、中ノ口に詰めていました。

 

この徒歩組が廃止されたのは慶応2年(1866年)のことです。

 

ところで山手線の駅名に「御徒町(おかちまち)」というのがあります。江戸時代、御徒町近辺には徒歩組の下級武士が多く住んでいたことから名付けられたそうで、長屋に住み、禄だけでは食べていけないので多くの者が内職をしていました。もちろん諸藩にも徒歩の職制があったので、城下町であればどこにでもある地名です。

 

高見澤

 

おはようございます。時の経つのも速いもので、今日から8月です。昨日の日中民商事法セミナーでのモデレーターの務めも何とか無事に終えることができました。自分がプレゼンするだけならば、他の人の講演の時間は比較的リラックスできるのですが、司会進行役となるとそうはいきません。それぞれの発表者に一言ぐらいはコメントしなければなりませんし、時間の管理もしないといけないので、中々気を抜くことができないからです。事前の準備もそれなりに大切です。

 

さて、本日は「定火消(じょうびけし)」紹介したいと思います。「火消(ひけし)」と一言でいっても、江戸時代には「大名火消(だいみょうびけし)」や「町火消(まちびけし)」など数多くのありました。火消についてはまた改めて紹介していきたいと思いますが、それだけでまた一つのシリーズができそうなほど、紹介することがたくさんあります。

 

火消の基本は大名による幕府への課役や町内の自治組織によるものでしたが、この定火消は幕府が設置した幕府直轄の消防組織で「定火消役」とも呼ばれていました。定火消が設置されるきっかけとなったのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。この経験から、それまでの大名火消程度では大火事には対処できないと痛感した幕府は、翌年の万治元年(1658)年に幕府直轄の消防組織を設置します。これが定火消です。若年寄支配の下、秋山正房、近藤用将、内藤政吉、町野幸宣の4名の旗本が「江戸中定火之番(定火消)」に任じられ、その配下にそれぞれ与力6騎、同心30名が置かれました。以来、定火消には3,000石以上の寄合旗本が任命されることになりました。与力・同心のほかにも、「臥煙(がえん)」と呼ばれる300人の火消人足おり、それらを雇う費用として300人扶持が加算されていました。

 

定火消に任命された旗本は、妻子とともに「火消屋敷」で居住することとされていました。火消屋敷は3,000坪の敷地があり、その中では緊急出動用の馬が用意され、高さ3丈(約9.1メートル)の火の見櫓、合図のための太鼓と半鐘などが備えられており、この火消屋敷が現在の消防署の原型だともいわれています。最初の火消屋敷は御茶之水、麹町半蔵門外、飯田町、小石川伝通院前に設けられていました。

 

当初4組で始まった定火消ですが、元禄8年(1695年)には15組に増え、その後宝永元年(1704年)には10組(定員1,280名)となります。このため「十人屋敷」、「十人火消」などとも呼ばれました。この時の火消屋敷は、赤坂溜池、赤坂門外、飯田町、市谷左内坂、小川町、御茶之水、麹町半蔵門外、駿河台、八重洲河岸、四谷門外にありました。その多くが江戸城の北西側に位置していますが、これは冬場に多い北西の風によって、火事が江戸城に延焼するのを防ぐためであったといわれています。

 

この定火消も、後に町火消の整備が進むとともに活躍の場を失っていき、寛政4年(1792年)には出動が限られ、消火範囲も小さくなりました。そして安政6年(1859年)には8組、慶応2年(1866年)には4組となりました。

 

定火消が設置された翌年万治2年(1659年)1月4日、老中・稲葉正則が定火消4組を率いて上野東照宮で気勢をあげて出初(でぞめ)を行いました。以降、毎年1月4日に出初式が行われるようになりますが、この万治2年の出初がその起源となったとされています。

 

高見澤

2018年8月

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