おはようございます。明後日、1216日(日)から北京出張です。経済産業省からの受託事業、中国内外一体化調査事業の一環として、17日(月)に北京で開催される「第2回日中スマート製造セミナー」に参加し、製造分野での日中スマート化協力に向けた政府への提言をまとめるものです。第四次産業革命の到来が叫ばれて大分経ちますが、依然として新たなビジネスモデルの構築に苦慮している状態です。次回の瓦版の発信は、来週水曜日19日になりますこと、ご了承ください。

 

さて、本日は「江戸の防火対策」について紹介したいと思います。前回、江戸の火事とその原因について説明しましたが、原因が分かれば、当然それに対する備えが可能となります。江戸幕府が主に講じた防火対策として挙げられるのは、消防組織である火消の制度化、放火を抑制するための厳罰化、大名屋敷や寺社の移転による「火除地(ひよけち)」或いは「広小路」の確保、そして瓦葺や土蔵造りの採用による不燃化の推進などです。このうち、火消の制度化についてはすでに詳細に紹介してきているので、ここで説明の必要はないでしょう。

 

先ずは、放火を抑制するための厳罰化です。放火は、江戸の火事の主な原因の一つになっていたことは、前回述べた通りです。幕府が放火犯の取締りに力を入れたことは当然のことで、江戸幕府の役職シリーズでも紹介した「火付改」、後に「火付盗賊改」が幕府によって設置され、犯人の捜査・捕縛を行っていたほか、町人に対しても放火犯の捕縛を奨励し、捕えた者には褒美が与えられました。

 

放火はもちろん重罪であり、原則として見せしめを目的として市中引き回しの上、公開での火罪(火焙り)でした。放火犯に家族がいる場合は縁座(家族・親族に対する連座)として、妻や娘が婢として下げ渡されたり、遠島となったりしたこともあったようです。放火が依頼に寄るものであった場合、依頼者は火罪、実行者が死罪で、放火犯が武士の場合は最高刑で獄門でした。とはいえ、こうした刑罰はあくまでも原則であって、特段の事情がある場合には減刑されることもあり、放火犯が15歳未満の幼年の場合には死罪にはならず、遠島や預置(あずけおき)となりました。

 

明暦の大火によって、江戸城天守や本丸を含む江戸市中の大半が焼失したことで、江戸の再建計画では防火対策を重視し、延焼を防ぐための火除地や広小路などの空間が設けられるようになりました。江戸城内にあった御三家の屋敷を城外に移転、他の大名や旗本の屋敷も移転することで、江戸市中の過密状態が次第に緩和されていきます。移転先の多くは江戸城から離れた場所で、元禄年間(1688年~1704年)以降、大名には中屋敷・下屋敷の用地が与えられました。築地や本所等の新たな埋立地が出来上がると、そこにも武家屋敷が設けられるようになり、町屋の移転も進みました。寺社の多くも浅草、駒込、小石川など外堀の外側に移され、吉原遊郭も今の人形町から浅草の北側に移転しました。

 

江戸市中再建にあたり、屋敷と屋敷の間に広場や空地を設け火除地としたほか、従来の街路を拡幅して広小路として、これもまた延焼防止の役に立ちました。こうした防火を前提とした都市計画の遂行により、江戸の市街地は次第に拡大していきました。

 

慶長6年(1601年)の大火をきっかけに、江戸では屋根を茅葺から板葺にするよう幕府が命じると同時に、大名屋敷をはじめとして瓦葺が流行ります。しかし、明暦の大火では火災の時には瓦の落下により怪我人が続出したことから、瓦葺が禁じられました。その代りに、延焼防止のために茅葺・藁葺の屋根に土を塗ったり、板葺が用いられたりしました。瓦葺の使用が本格的に命じられるようになったのは、8代将軍・吉宗の治世に入ってからでした。享保5年(1720年)に瓦葺の禁令を解き、享保7年(1722年)には、瓦葺、土蔵造り、塗り屋を命じるようになります。塗り屋とは、外側に土を塗った建物のことです。

 

非難の際に持ち出せないものを焼失から守るために、裕福な家では土蔵が造られ、庶民の間では、比較的費用の安い穴蔵が使われていました。土蔵は外側の壁を土で厚く塗り固め、漆喰などで仕上げたもので、屋根は瓦葺であったことから、火災のときでも焼失を免れることも少なくありませんでした。土蔵の一種で、「文庫蔵(ぶんごぐら)」と呼ばれる極めて火に強い構造もありましたが、建築費が普通の蔵の数倍にもなり、あまり普及しませんでした。また、「見世蔵」という店舗や住居そのものを蔵造りにした例もあります。穴蔵とは、読んで字の如く、地面に穴を掘って設けられた地下倉庫のことを指します。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は、また一段と風が冷たく感じます。次の日曜日から火曜日まで、北京出張となりますが、北京はまた一段と冷え込んでいることでしょう。今度のフライトも全日空を利用しますが、北京直行便なのでまずロストバゲージはないと思います。全日空からは、荷物は帰国後に一応出てきたものの、臨時で購入した代金の半分ほどが補償の対象として支払われるようです。本来、買わなくてよかったものまで購入したわけですが、それでも購入したモノは残るので、それで納得するしかないのでしょうか。

 

さて、前回までは江戸の火消について紹介してきましたので、そのついでに本日からは「江戸の火事」について紹介していきたいと思います。そこで、先ずは江戸の火事とその原因について、前置き的に解説してみましょう。

 

以前、火消のところでも紹介しましたが、江戸で発生した火事の回数は、他の都市に比べて圧倒的に多かったという研究成果があります。関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)から、大政奉還の行われた慶応3年(1867年)までの267年間に、江戸では「大火(たいか)」と呼ばれる大きな火災が49回、大火以外の火災も含めれば何と1,798回もの火事が発生しています。

 

他の都市について大火の発生回数を見てみると、京都が9回、大坂が6回、金沢が3回と、ケタそのものがまったく違います。

 

また、1,798回を数える江戸の火事を時代別にみると、慶長6年から元禄13年(1700年)までの100年間では269回、元禄14年(1701年)から寛政12年(1800年)までの100年間では541回、寛政13年・享和元年(1801年)から慶応3年までの67年間では986回と、時が過ぎるとともに火事の回数が極端に増加していることが分かります。

 

では、なぜこれだけ江戸に火事が多く、時代とともに増えていったのでしょうか? その原因として挙げられるのは、一口に言えば、人口の増加とそれに伴う建物の密集化が進んだからです。江戸の町が作られて以降、江戸で暮らす人が次第に増えていき、人口が100万人に達する世界最大の都市になったことは、皆さんご存知の通りです。人が増えれば、それに伴って都市も拡大するのですが、新たな都市が建設するまでは、町人は窮屈な思いをしながら密集した建物に住まわざるを得なかったのです。

 

元々、江戸時代には電気などありませんので、調理や照明に火を使うことは当たり前のことです。そのため、火の取り扱いや始末の不備による失火で火が燃え上がると、木造家屋、茅葺・藁葺の屋根、紙を使った障子などはあっという間に焼失してしまい、家屋が密集していれば、それだけ被害も広がってしまうというわけです。

 

また、江戸の気候条件も被害が広がる要因の一つになります。日本海から日本に流れ込む北、又は北西の風である冬の季節風は、中央にそびえる山脈によって湿気が遮られ、乾燥した「空っ風」とよばれる強風が江戸に流れ込みます。さらに春から秋にかけては、日本海を通過する低気圧によってフェーン現象が起こり、高温で乾燥した南又は南西の風が吹きます。こうした乾燥した風が、火の燃え広がりを酷くする役目を果たしてしまうのです。

 

もう一つ、「火付(放火)」による火事も少なくなかったようです。「火附」、「火を付候者」、「火賊」などと記され、放火犯の多くは生活に困窮した者でした。享保8年(1723年)から翌享保9年(1724年)までの2年間で捕えられた放火犯は102名で、その中には無宿者など下層民が多く含まれていたと言われています。放火の動機としては、火事騒ぎの紛れて盗みを働く「火事場泥棒」で、恋愛や怨恨など人間関係に起因する放火もあったようです。放火犯に対する処罰は厳しく、見せしめとして、市中引き回しのうえ、火あぶりが原則でした。これについては、また詳細に紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。12月も中盤を迎え、朝晩に限らず日中も風の冷たさが身に沁みる季節となりました。東京は今日の夕方頃から雨が降り始め、明日の明け方には止むとの予報です。日一日と寒くなりますので、体調など崩さないようお気を付けてお過ごしください。尚、明日は朝食懇談会のため、瓦版をお休みさせていただきます。

 

さて、本日は「江戸時代の消火道具」について紹介してみたいと思います。これまでも、何度も紹介してきたように、江戸の消火方法の主体は、火災の間近のまだ燃えていない建物から壊して延焼を防ぐ「破壊消防」でした。そのため、町火消では一般の町人よりも鳶職人が重んじられたことも、すでに紹介してきた通りです。

 

火災の早期発見のために、江戸の町には「火の見櫓」や「火の見梯子」が所々に設置されていました。火事を知らせたり、町火消の出動の合図として「半鐘」や「板木」が用いられ、叩き方によって火事場の遠近などが分かるように決められていたそうです。

 

火災が発生したことが分かると、先ず現場に最初に駆けつけた組の「纏持(まといもち)」が火事場に近い家の屋根に上り、そこを目安に取り壊しを行います。この「纏(まとい)」が江戸消火のシンボルとして、先ずはみられるようになります。当初この纏は、幟(のぼり)型の纏が使われていたようですが、その後に「陀志(だび)」と呼ばれる大きな頭部分と、「馬簾(ばれん)」と呼ばれる細長い厚紙や革を垂れ流したものに変わり、いろは組などそれぞれの組を象徴する纏となっていきます。

 

高い屋根に上るには「梯子」が必要です。梯子は、梯子持と呼ばれる平の鳶人足よりも上位の者が扱うことになっていて、水を運び上げる足場としても利用されました。梯子の材料は燃えにくいように、水を含んだ新しい青竹で造られていました。

 

破壊活動に必要な道具としては、「鳶口(とびぐち)」と呼ばれる棒の先に鳶の嘴の形に似た鉄製の鉤をつけた道具、捕物でも使われる「刺又(さすまた)」、鋸などが使われていました。

 

火消道具には、もちろん消火のための道具もありました。江戸の町中の各所には消火用の水桶が常設されていたほか、「竜吐水(りゅうどすい)」や「独竜水(どくりゅうすい)」と呼ばれる木製の手押しポンプ、「玄蕃桶(げんばおけ)」と呼ばれる二人で担ぐ大桶などは、直接火元や火消人足に水をかけることに使われていました。竜吐水は文字通り、龍が水を吐くように空気の圧力を使って口から水が勢いよく放出され、15メートルほど飛ばすことができましたが、継続的に水を補給できないのが難点でした。これは宝暦4年(1754年)に、オランダ人の指導を受けて長崎で作られたのが最初であったと言われています。

 

このほかにも、火の粉を吹き払って延焼を防ぐための「大団扇」や、水に浸して使う海草で作られた「水筵(みずむしろ)」、水筵を濡らすための「水箱」なども火事場で用いられていました。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日は、早朝からホテルニューオータニで朝食会を兼ねた会合があり、それに出席していたため、瓦版をお送りすることができませんでした。今週水曜日12日にも朝食懇談会が同じくホテルニューオータニで開催されることから、瓦版もお休みさせていただきます。年末も押し迫り、忘年会など会合が増えていきます。来週は出張もあり、年末年始も何かと仕事に追われそうです。

 

さて、本日はこれまで紹介してきた「江戸の火消の変遷」をまとめる形で説明してみたいと思います。江戸時代初期の火消は、武家、町人共に火災が起きた時の自衛組織であり、素人の集まりによる消防でした。

 

消防体制が江戸幕府によって最初に制度化されたのは、大名による武家火消で、これはあくまでも江戸城と武家屋敷を対象に消防が行われており、町人地は相変わらず町人の自衛組織による消防が行われていました。この町人地をも対象として消防活動が行われるようになったのが、明暦の大火をきっかけに、万治元年(1658年)に制度化された幕府直轄の定火消です。

 

しかし、度重なる江戸市中の火事と、その復興に伴う財政負担の大きさに耐えかねた8代将軍・徳川吉宗は、享保の改革の一環として町人主体の町火消を設置することになります。これ以降幕末にかけて、江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へとシフトしていきます。

 

享保3年(1718年)に設置された町火消は、享保5年(1720年)にいろは組47組及び本所深川16組として整備が進みます。設置当初、町火消の出動範囲は町人地に限定され、武家地への出動は行っていませんでした。しかし、この頃から町人地に隣接する武家地で火災が発生し、消し止められそうにない場合は消火活動が行われるようになりました。享保7年(1722年)には、2町(約218メートル)以内の武家屋敷での火事の際には消火活動が命じられ、各地の米蔵、金座、神社、橋梁等の重要地の消防も町火消が行うようになります。そして延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災では、初めて町火消が江戸城内まで出動して消火活動を行うことになりました。