おはようございます。今朝の東京は大分暖かく感じます。皇居田安門の周りの桜も開花の準備が整っているようで、もうしばらくしたら桜の花と花見客で大賑わいになりそうな雰囲気を感じています。明日は春分の日でお休み、明後日22日から出張で北京に行ってきます。週末を挟んで来週月曜日25日に帰国となりますので、次回の瓦版は来週火曜日26日以降になります。

 

さて、本日は「脇本陣(わきほんじん)」について紹介したいと思います。脇本陣とは、江戸時代に武士や公家の宿泊施設として宿場に設けられたもので、格式は本陣に次ぐものとされていました。

 

1宿1本陣が原則ではあったものの、大名の往来が激しい大きな宿場では本陣が2軒以上あり、その予備として脇本陣が数軒設けられていました。それでも足りない場合は、臨時の仮本陣が宿内の寺院などに置かれることもあったようです。

 

脇本陣の役割は、大きな藩の大名が宿泊する際に本陣だけでは泊まりきれない場合に、家老や奉行などの家臣が泊まったり、複数の藩が同じ宿場に泊まることになった場合に格式が低い大名が宿泊するなど、本陣が使えないときに利用されていました。本陣を利用する際の優先度からいうと、朝廷からの勅使→将軍の名代→大名(格式順)だったようです。

 

本陣が原則として一般客の宿泊が認められいませんでしたが、脇本陣は大名や勅使の利用がないときには、一般客の利用も認められていました(平常時には平旅籠として営業していた)。脇本陣の規模は本陣ほど大きくはありませんでしたが、本陣と同じく宿場の有力者が務め、諸式はすべて本陣に準じて上段の間などもありました。

現存している脇本陣としては、東海道舞坂宿(遠江国、現在の静岡県浜松市)、中山道妻籠宿(信濃国妻籠村、現在の長野県木曽郡南木曽町)、中山道太田宿(美濃国加茂郡、現在の岐阜県美濃加茂市)が公開されています。

 

高見澤

 

おはようございます。先日、ニュージーランドのクライストチャーチで50人もの人が亡くなる銃乱射事件が起きたばかりなのに、今度はオランダのユトレヒトで銃の発砲事件が起こり3人が亡くなっています。なぜこのような悲惨な事件が起きるのか、まさに狂気と言わざるを得ませんが、この地球に生まれた人々の「業」というものなのでしょうか。このような犯罪を撲滅するには、物事の発想を根本から変える必要があるのかもしれません。

 

さて、本日は「本陣(ほんじん)」について紹介したいと思います。横溝正史が書いた推理小説に『本陣殺人事件』がありますが、その本陣のことです。本陣とは、江戸時代以降の宿場で、大名や旗本、勅使、宮家、公家、幕府役人、門跡、朝鮮通信使など身分の高い旅行者のために指定された宿泊施設のことです。しかし、原則として一般の旅行者を泊めることは許されていませんでした。

 

本陣の起源は、南朝正平18年・北朝貞治2年(1363年)、室町幕府2代将軍・足利義詮が上洛の際に、その宿舎を本陣と称して宿札を掲げたことに始まるといわれていますが、これがそのまま近世にまで続いたとは考えにくいようです。近世初期には、大名たちが宿泊する施設は一定せず、宿駅の上等の家屋が宿舎としてあてられ、それが次第に本陣の役割を果たしていきました。本陣に先行するものとして、御殿や御茶屋などがあったようです。

 

江戸時代における本陣の由来とされているのは、寛永11年(1634年)に3第将軍・徳川家光が上洛の際に、宿泊予定の邸宅の主人を「本陣役」、「本陣職」に任命したことに始まります。そして、翌寛永12年(1635年)の参勤交代の導入によって制度化されました。

 

本陣は、旅程の都合などを踏まえて指定されていたので、宿泊のほか、小休止などに使われる本陣に指定されるものもありました。宿場町であっても前後の宿間距離が短い場合には本陣が置かれない宿場町があり、逆に同じ宿場町に宿泊する大名が多い場合には複数の本陣が指定されることもありました。また、大名家などが懇意にしている有力者の家を独自に本陣に指定することもあったようです。

本陣には宿泊者から謝礼が払われていましたが、それは必ずしも対価として十分といえるものではなく、コスト的にはかなり赤字だったようです。そのため、幕府は本陣と指定した際には、その家の主人には名字帯刀、門・玄関・上段の間を設けることができる特権を認めるなどのインセンティブを与えていました。また、非常時の逃走の細工や外部からの侵入者防止の設備が設けられている屋敷もありました。

 

こうした幕府からの特権を名誉なこととして歓迎する一方、幕府や定宿としている諸大名から幾ばくの保護や援助があったとはいえ、出費が嵩んで没落する家もありました。特に江戸時代後期には、藩財政の悪化により謝礼の減額や本陣の家業の不振による経営難がより深刻になったようです。

 

大名などが本陣を利用するときには、数日前に関札(せきふだ)が本陣に運ばれ、止宿一両日前にはこれが掲げられ、他の宿泊者は宿泊できなくなりました。本陣が空いていない場合には、追って説明する「脇本陣(わきほんじん)」が使われました。大名の中には、格式ばりを重んじ費用の掛かる本陣を敬遠して、本陣以外に休泊する者もあったようで、幕府はそれに対する禁令を出しています。

 

主要街道の本陣数は、天保14年(1843年)の調査で、東海道が111カ所、中山道が72カ所、日光街道が24カ所となっています。文久2年(1862年)の改革によって参勤交代が形骸化し、更に明治維新によって参勤交代が行われなくなると、本陣は有名無実化してしまいます。そして明治3年(1870年)の明治政府民部省布告により、本陣制度が廃止となりました。尚、東海道草津宿(近江国栗太郡、現在の滋賀県草津市)や甲州街道日野宿(武蔵国多摩郡、現在の東京都日野市)には、本陣が現存しています。

 

高見澤

 

おはようございます。先週、国の委託事業の報告書を提出しました。提出期限が迫る中、残業続きで睡眠も満足にとれず、それが終わったかと思うと、今週は金曜日から来週月曜日まで北京での中国発展ハイレベルフォーラムという国際会議に出席のために中国出張。更には来週火曜日には理事会があり、4月からの新たな年度に向けた事業計画及び予算議決のための資料作りを並行して行わなければなりません。また、3月5日から行われていた中国の国会に相当する全国人民代表大会で、外資企業にとって新たな重要法案「外商投資法」が制定され、会議全体の内容ととものその法律の分析もしなければなりません。息つく暇もなく、多忙な日が続きます。

 

さて、本日から暫くの間は宿場にあった諸々の施設について紹介していきたいと思います。先ずは「問屋場(といやば、とんやば)」について紹介してみましょう。問屋場とは、宿場運営を行うための宿役人が置かれていた事務所で、「駅亭(駅締)」、「伝馬所」などとも呼ばれていました。