おはようございます。先週の出張から帰って、最初の出勤日の昨日も、結局夜遅くまで残業してしまいました。疲れがとれないまま、次の事業に向けて実務的な作業に入りました。本当にブラックな仕事場だとつくづく感じる次第です。

 

さて、本日も引き続き江戸の治安部隊について解説していきたいと思います。

 

「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように、江戸では火事が割と頻繁に起こり、江戸では防火や消防に対する危機意識が幕府ばかりでなく、町民の間でも高まっていました。町の消防組織については、改めて紹介するシリーズを設けますが、ここでは「町火消人足改方(まちびけしにんそくあらためかた)」について紹介しておきましょう。

 

享保5年(1720年)に大岡忠相の答申に基づいて「いろは四十七組(後に四十八組)」で知られる「町火消」が設置されました。当初、町火消は威勢のよい典型的な江戸っ子で組織されていたものですから、中々統率をとるのが難しかったようです。そこで幕府は江戸町奉行所に町火消の防火体制の指揮・指導に当たる町火消人足改方を寛政9年(1797年)に新設します。町火消人足改方は町火消の指揮・指導のほか、町火消間の「消口争い(けしくちあらそい)〔消火活動時の巧妙争い〕」などの調停や取締りにあたりました。

 

「町火消人足改与力」の定員は南北奉行所にそれぞれ2騎でしたが、毎年冬の時期11月~3月は3騎体制になっていました。今でもそうですが、火を使う機会が増え、気候的に乾燥する冬場は特に火事の発生が多かったからでしょう。町火消人足改与力は、普段は継裃に槍持、草履取、若党(わかとう)、挟箱(はさみばこ)持を連れて出勤し、火事の時には挟箱に入れてある火事場頭巾、火事羽織、野袴に着替えて出動しました。

 

町火消人足改与力の配下としては、町火消人足改同心がおり、こちらの定員は南北奉行所それぞれ4名で、こちらも与力同様に11月~3月の間は6名体制になっていました。

 

町火消人足改方は町火消からの付け届けが多かったことから、生活は比較的楽だったようです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。先週1週間、経済界の訪中団に随行して北京、浙江省杭州へ行ってきました。安倍/プーチン会談の陰に隠れてしまい、ニュースの話題としては大きく取り上げられませんでしたが、それでも昨年以上に良好な雰囲気での李克強首相との会見、政府機関との会議が行われました。軍事的にはきな臭い動きもあるようですが、経済関係は新たな発展段階に入ったといえるかもしれません。

 

さて、今回も前回に続き江戸町奉行所の治安部隊について紹介していきましょう。本日は、「高積(たかづみ)見廻り方与力」、「風烈(ふうれつ)廻り昼夜廻り与力」、「非常取締掛与力」について紹介したいと思います。

 

先ずは高積見回り方与力です。高積見廻り方とは、江戸市中の木材や荷物などの高積みの取締りを行った町奉行所の役職です。河岸や町場の商品や薪炭木材などの積み重ねの状況を調査して、高さ・広さ・体裁等の制限を指導し、危険防止や悪用防止の取締りを行っていました。常時江戸市中を巡回し、将軍外出の時には特に厳重な取締りを行ったようです。高積見廻り方与力の定員は南北奉行所それぞれ1騎、同心は2名でした。

 

次に風烈廻り昼夜廻り与力です。風烈廻り昼夜廻り方とは、風が強い日の火災予防や不穏分子の暗躍の取締りを行った町奉行所の役職で、常時町中を巡回していました。風烈廻り昼夜廻り与力の定員は、南北奉行所それぞれ2騎で、出勤時には継裃(つぎかみみしも)で、槍持、草履取、挟箱、中間を連れていました。巡回の際には同心をつけて交替で見廻りを行っていました。同心の定員は南北奉行所それぞれ4名で、こちらも交替で巡回していました。

 

そして、非常取締掛与力です。この役職は読んで字の如く、非常事件の事務処理を行ったものです。定員は南北奉行所それぞれ与力8騎、同心16名でした。

 

高見澤

 

おはようございます。明後日からいよいよ日本経済界の大型訪中団「日中経済協会合同訪中代表団」が始まります。日中経済協会会長の宗岡新日鐵住金会長を始め、経団連会長の中西日立製作所会長、日本商工会議所の三村新日鐵住金相談役など、経済界のトップリーダー30名余を含む総勢240名が参加しています。昨夜も準備に追われ、帰宅したのは深夜12時近く、今朝もこうして朝早く出勤しています。私も事務局として1週間、北京及び浙江省杭州に行きますので、来週の瓦版はお休みします。

さて、本日は江戸町奉行所の治安機能について紹介したいと思います。一般庶民にとって最も馴染の深い町奉行所の役割といえば、犯罪捜査や犯罪者の逮捕のほか、法令の施行の視察・監査、巡回などの警察業務を行っていた「定町廻り(じょうまちまわり)同心」でしょう。

 

定町廻り同心の定員は南北合わせて12名で、交替で中間や小者を引き連れて各町にある自身番屋を見回り、自身番などから事件発生の報告を受けると、自身番屋で事情を聞き、捕縛の必要があると判断すれば、犯人が住む町の御用聞き(岡っ引き、下っぴき)を捕縛のために現場に向かわせました。もちろん、同心自身が赴く場合もありました。見回りには、法令違反の取り締まりや民情視察もその役目に含まれていました。

 

定町廻り同心のほかに、「臨時町廻り(りんじまちまわり)同心」がいました。臨時町廻り同心は、長年定町廻り同心を務めた古参の者がなります。こちらも定町廻り同心と同様に南北合わせて12名で、定町廻りの予備隊的な位置づけだったと考えられます。定町廻り同心の見回りコースは一定であるのに対し、臨時町廻り同心は彼らが見落としがちな場所を主に見回っていました。時には定町廻り同心の指導や相談にもあたっていました。

 

そして、もう一つが「隠密廻り同心(おんみつまわりどうしん)」です。隠密廻り同心は、定町廻り同心や臨時町廻り同心と異なり、犯人を逮捕することはせず、事件の裏付け捜査や証拠集めなどを専門に行っていました。変装したり、御用聞き等を使って非番月番に関係なく、管轄地域を巡回していました。定員は南北合わせて4名でした。「隠密同心心得の條。我が命我がものと思わず、武門之儀、あくまでも陰にて己の器量伏し、御下命如何にしても果す可し。尚、死して屍拾う者無し」でお馴染みの時代劇「大江戸捜査網」に登場する隠密同心というのがこれに当りますが、やはり時代劇と実際とはかなりその性質が異なっています。

 

定町廻り同心、臨時町廻り同心、隠密廻り同心の以上3役は、一般に「三廻り」、或いは「廻り方」とも呼ばれ、上司としての与力は置かれておらず、いずれも町奉行直属の同心として配置されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。 今朝未明、北海道で震度6強の地震が発生しました。土砂崩れや家屋倒壊等の被害も出ているようですが、被害の全容はまだ分かっていません。一昨日の台風21号によって関西地方が大きな被害を受けたばかりだというのに、今度は北海道で大打撃を受けた形となりました。一刻も早い災害対策の強化が急務です。東日本大震災から早7年、過去の教訓が活かされていない行政の甘さが浮き彫りになるかもしれません。

 

さて、本日も江戸町奉行所の裁判方の役職についてみていきたいと思います。前回は裁判官の役割を担った吟味方与力及び同心について紹介しました。現在の裁判所においても判事以外に、資料を作成したり、事務を行ったりなど数多くの業務が行われているように、江戸町奉行所でも吟味方以外にもいくつかの専門的な業務がありました。

 

まず、容疑者の犯罪の罪因や情状、過去の判決等の先例を調べて書類を作り、裁判の記録を行う「例繰方(れいくりかた)与力」です。例繰方与力は、事件内容と判例を記録する「機密書類御仕置裁許帳」を作成しますが、これが刑事事件の判決を決める基礎となりました。この与力の定員は2名で、その配下に「例繰方同心」4名がいました。

 

次に紹介するのは「赦帳撰要(しゃちょうせんよう)方人別帳掛与力」です。判決を受けた囚人に対して、刑の執行前に罪人の名簿と罪状を作成したり、恩赦が出された際に用いることができるよう恩赦該当名簿を作成し奉行に提出したりする職務です。また、判例集である「撰要類集」や江戸の名主から提出された人別帳も取か使っていました。この与力定員は4名で、その配下に「赦帳撰要方人別帳掛同心」8名がいました。

 

そして、もう一つが「御出座御帳掛同心」です。評定所の式日には、町奉行は老中に事件の名簿を提出することになっていました。その名簿作成の任にあたっていたのが御出座御帳掛同心でした。この役職に与力は置かれず、町奉行直属となっていました。定員は同心2名です。

 

次回は町の治安を担った町奉行所の役職について紹介していきましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。台風21号はすでに北海道の西側を北上しているようですが、近畿地方を中心に大きな被害をもたらしました。気候変動による台風の大型化が今後も懸念されるところですが、その気候変動の原因がどこにあるのか。政治的要素を一切排除して、真の科学的見地からつきとめて対策を講じる必要があります。対策を誤ると、被害は更に広がることになるのですから、そこは慎重に事を運ぶべきではないでしょうか。

 

さて、本日は江戸町奉行所の裁判に係る与力・同心について紹介したいと思います。町奉行所が今の地方裁判所の役割も果たしていたことは、以前にもお話しした通りです。町奉行所の裁判では、形式的には初審と結審(判決言い渡し)は町奉行が行い、実際の取り調べや判例の調査、文書作成等はそれぞれ担当の与力・同心が行っていました。

 

町奉行所の裁判実務の中で最も重要な役割を果たしたのが「吟味方(ぎんみがた)与力」です。「吟味与力」、「御詮議役与力」、「吟味詰番」とも呼ばれ、民事・刑事の両方の裁判の審理と裁判を行い、結審に向けた事務処理も担当していました。町奉行所玄関左側に3カ所ある「詮議所」で詮議を行っていました。吟味方与力は世襲で務めることが一般的で、まさに取り調べのプロといったところで、ほとんどの犯罪者は拷問をせずに自白させることができたと言われています。

 

死罪に相当する犯罪の容疑者が自白しない場合に限り拷問を用いることができましたが、拷問を行うには町奉行に申請して老中の許可を得なければなりませんでした。ですから、拷問を用いなければならないことは、吟味方役にとって失点という評価につながることもあったようです。老中から拷問の許可が下りると、吟味方役が直接牢屋敷まで出向き、拷問執行の監督を行いました。実際に拷問を行うのは牢屋奉行所の同心です。江戸時代の拷問には、笞打(むちうち)、石抱(いしだき)、海老責(えびぜめ)、釣責(つりぜめ)の4種類があり、このうち笞打と石抱は「責問(せめどい)」といって老中の許可は必要なく、海老責と釣責に対して老中の許可が必要でした。また、笞打、石抱、海老責の3種を指して「牢問(ろうどい)」と呼び、拷問としての釣責と分ける言い方もあるようです。拷問については、改めて説明の機会を設けますが、罪状が明白なのに自白しない容疑者に対しては、結審として刑罰の許可を取る「察斗詰(さっとづめ)」という制度もありましたが、極めて稀だったようです。

 

吟味方与力による詮議は「一事件一担当与力」が原則で、起訴から結審、判決、刑罰執行まで担当与力が一人で受け持っていましたが、稀に交替させられることもあったようです。吟味方与力の定員は、本役4名、助役4名、見習い2名の計10名でした。吟味方与力の配下として「吟味方同心」がおり、その定員は20名でした。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は小雨が降ったり止んだりの天気です。台風21号の上陸が予想されている西日本を中心に、東海地方など特に東側の地域では暴風雨に警戒が必要です。関東でも場所によっては大雨が予想されています。

 

さて、本日からは「江戸町奉行所の職務」について紹介していきたいと思います。今回は、江戸町奉行所の「事務方」について説明しましょう。町奉行所の各組織の基本は、町奉行の下は「与力-同心」で構成されていました。ただ、町奉行が直接同心を支配する場合も少なくありません。町奉行所の職務には、恒常的に行われる常設職と「出役(しゅつやく)」と呼ばれる臨時職がありました。

 

先ず紹介したいのは、町奉行の秘書官としての役割を担っていた「内与力(うちよりき)」です。一般に町奉行所の与力や同心は表向き一代限りの抱席でしたが、実際には新規採用ということで世襲されていたことは、これまで紹介してきた通りです。つまり、町奉行所の職員として町奉行個人に関わりなく業務に就いていたわけですが、この内与力は町奉行個人の家臣の中から選任した与力で、主人が町奉行を退くときは同時に内与力も退くことになっていました。とはいえ、ちゃんとした町奉行所の役職ですから、在任中は幕府から俸禄を受ける幕府勤番の幕臣の身分でした。公用人(執事役)6名と目安方(民事訴訟の調査役)4名の10名がおり、側用人、留守居、使番、右筆の役目を兼務していました。玄関脇の詰所に勤務し、挨拶取次も行っていました。出勤の供廻りとして槍持ち、草履取、挟箱(はさみばこ)、中間が従っていました。

 

内与力に所属する同心が「用部屋手付同心(ようべやてつきどうしん)」です。内与力について雑務をこなすほか、刑事事件の調査報告書の作成を行っていました。定員は10名でした。

 

町奉行所で最も重要な任務とされていたのが「年番方(ねんばんがた)」で、年番方与力は「同心支配役与力(どうしんしはいやくよりき)」とも呼ばれていました。当初は交代制でしたが、後に古参の有能な与力から選任されるようになり、町奉行所の事務全般から各種の取り締まり、闕所金(けっしょきん、没収された貨幣及び財産の売却金)の保管・出納、与力・同心各組の指導・監督、同心分課の任免、臨時事項の処理などを行っていました。年番方与力の定員は3名で、その下に「年番方同心」6名、「年番方物書同心」2名がいました。

 

町奉行所の庶務や受付を担っていたのが「当番方(とうばんがた)与力」です。分課のない与力3名が3交代で宿直して勤務しており、夜間でも受付が可能でした。主に新人与力が起用されることが多く、先ずはこの職に就いて与力としての仕事を学んでいったそうです。このほか、お白州で奉行が裁判する際の陪席や、捕物や検使の際の出役も当番方与力が担当していました。出役の時には、与力1騎につき同心3名が付き従ったそうです。当番方与力の支配下には、「当番方同心」として「年寄同心」3名、「物書同心」3名、その他「平同心」すべてが所属していました。

 

町奉行所の事務方に、「両組姓名掛同心(りょうぐみせいめいがかりどうしん)」という職務がありました。この同心の職務には与力は関与せず、町奉行が直接支配していました。この主な職務は南北奉行所の与力・同心の名簿の編纂と管理で、親任・退任等人事の姓名帳への記載をしていました。定員は同心1名でした。

 

次回は裁判関係の職務について紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ最近の週末は、家で原稿書きや翻訳などに勤しむほか、事務所に出勤して業務をこなす日も増えています。来週1週間は経済界の大型訪中団で中国に出張となりますので、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「御用聞き」、通称「岡っ引き」について紹介したいと思います。一般に馴染のある岡っ引きという呼び方は蔑称で、御用聞きというのが江戸では正式な呼び方でした。また、関八州では「目明し(めあかし)」、関西では「手先(てさき)」、「口問い(くちとい)」と呼んでいたそうです。御用聞きは、町奉行所や火付盗賊改方などの警察機能の末端を担った非公認の協力者です。

 

岡っ引きの「岡」とは脇の立場にある人を指し、御用聞きが同心の脇にいて罪人を拘引するところから、岡っ引きと呼ばれるようになったとのことです。また、目明しは「目証し」の意味で、宝永・正徳期(1704年~1716年)に京都で罪人が共犯者を密告させ、その犯罪を証明させることで、その罪人の罪を許したことに、目明しの呼称の由来があるそうです。

 

廻り方同心が江戸での犯罪を捜査する場合、犯罪者の一部を体制側に取り込み、情報収集等に使役する必要がありました。犯罪者側の社会に通じた者を使わなければ、捜査自体が困難な場合も少なくありませんでした。最初は軽犯罪者の罪を許して手先として使った「放免」がこの御用聞きの起源だったと言われています。もちろん、御用聞きの中には百姓や町人から選ばれる場合もありましたが、やくざ者や地域の顔役である「親分」が採用されることが多かったようです。まさに「蛇の道は蛇」だったのです。本来であれば、取り締まる側と取り締まられる側の両立し得ないはずの仕事を兼ねるという意味で、御用聞きの仕事が「二足のわらじ」の語源になったと言われています。当然、御用聞き稼業だけでは食べていけませんので、彼らは別に生業をもっていました。

 

もともと素行の良くない者が担っていた御用聞きなので、奉行所の威光を笠に着て恐喝まがいのことを行う者も少なくなく、18世紀に入ると幕府は御用聞きの利用を再三禁止する通達を出しますが、やはり実務上使わざるを得なかったため、幕末までなくなることはありませんでした。幕末には町奉行所配下で400人の御用聞きと、その下で働く「下っぴき」が1,000人ほどおり、最盛期には御用聞き500人、下っぴきを合わせて3,000人にも上ったそうです。

 

「半七捕物帳」や「銭形平次」などの時代劇でもお馴染みの御用聞きですが、十手の取り扱い方など実際とはかなり異なる部分があるようです。

 

高見澤

 

おはようございます。今日で8月も終わり、明日から9月です。今日は9月9日から始まる日本経済界の大型訪中代表団の結団式が、経団連会館で行われます。普段、同じ会社の人でもめったにお目にかかれないような経済界の重鎮が一堂に会するわけですから、ビジネスマンからすればその光景は圧巻といったところでしょうか。世の中を動かすには、古今東西、そうした権威付が必要なのかもしれません。それだけに、気の抜けない1日になりそうです。

 

さて、本日は町奉行所の中でも、前回の与力の支配の下で任に就いていた「町方同心」について紹介してきたいと思います。もともと同心とは、戦国時代に一致団結して主人につくす下級武士のことをこう呼んでいたようで、いわゆる「足軽」を指していました。江戸幕府成立後に、徳川家直参の足軽をすべて「同心」としたため、伊賀同心、甲賀同心、鉄砲百人組、八王子千人同心等の同心職が設置されました。

同心は、与力同様に諸奉行や所司代、城代、大番頭、書院番頭、火付盗賊改等の配下で、与力支配の下で庶務や見回り等の実務を担当していました。特に江戸町奉行所に置かれていた同心は「町方同心」と呼ばれ、南北奉行所にそれぞれ100人(後に140人に増員)の同心が配置されていました。与力が馬上格であったのに対し、同心は「徒歩(かち)格」で、俸禄は30俵二人扶持、一代限りの抱席でしたが、実際には新規採用の形で世襲されていました。能力によっては、稀に与力に昇格する例もありましたが、町奉行所以外への異動は認められていませんでした。

 

俸禄は低かったものの、「年番方」や「吟味方」、「廻り方」などの重要な職に就いた同心に対しては、大名、旗本、豪商などからの付け届けがあり、生活に困ることはなかったようです。また、与力同様に京橋八丁堀に100坪程度の組屋敷が与えられていたことから、「八丁堀」が彼らの通称となっていました。一方で、町方与力と同様に罪人を扱う汚れ仕事であったことから、不浄役人と蔑まれることもあったようです。

 

町方同心の中でも特に庶民に馴染が深かったのが廻り方です。「三廻り」とも呼ばれる警察業務を担当する同心で、通常同心の上には与力がいるのですが、廻り方は町奉行の直接の支配下に置かれていました。廻り方には、巡回・治安維持を担う「定(じょう)廻り同心」が南北それぞれに6名、臨時に各方面に出向く「臨時廻り同心」が各6名、秘密裏に探索を行う「隠密廻り同心」が各2名と、正規の江戸の警察部隊はわずか28名と極端に少なかったことは驚きです。このため、廻り方同心は自腹で非公認の協力者として「御用聞き」と呼ばれる「岡っ引き」と、その配下である「下っぴき」を雇うことで、江戸の治安を保っていたのです。

高見澤

 

おはようございます。昨日、一昨日は瓦版をお送りできなく、失礼しました。9月9日から始まる日本経済界の大型訪中代表団の準備に関して、新日鐵住金の宗岡会長と、日本商工会議所の三村会頭を朝一番で往訪し、ご進講していた関係で、瓦版も急遽休刊させていただきました。今後、しばらくはこのような事態が生じることもありますので、ご了承ください。

 

さて、前回に引き続いて本日も「江戸町奉行所」について紹介していきましょう。江戸町奉行所において、町奉行が唯一の旗本であったのに対し、その下で働く「与力」及び「同心」は御家人から登用されていたことは、前回お話しした通りです。

 

与力は、もともと「寄騎」とも書かれ、江戸時代に入る前は備(そなえ)を編制する際に、足軽大将などの中級武士が大身武士の指揮下に入る意味合いをもった言葉として用いられていたようです。江戸時代においては、同心とともに町奉行、遠国奉行、留守居、所司代等の役方や、大番頭、書院番組頭、先手頭等の番方に属し、主に庶務、警察、裁判事務などを担当し、下役の同心を指揮・監督していました。ここでは、主に江戸町奉行支配下の「町与力(町方与力)」について紹介したいと思います。

 

町与力は、江戸町奉行所においてその中枢を担う実力者で、職禄は200石、延享2年(1745年)以降、南北奉行所にそれぞれ25騎の与力が所属していました。与力を「騎」と数えるのは、馬上任務が許されていたことから馬も合わせて数えていたためです。身分としては、建前は一代限りの抱席でしたが、新規採用という形で世襲されていたのが実態で、このため町与力以外への移籍はできませんでした。

 

町与力は役宅として京橋八丁堀(現在の東京都中央区)に300坪程度の組屋敷が与えられ、八丁堀銀杏の髪型で羽織袴を纏っていたことから、「八丁堀の旦那衆」と呼ばれていました。職禄は決して多くはありませんでしたが、有力与力ともなると大名や旗本、富商等からの付け届けが年間3,000両にも上る者もいたようで、家計はかなり豊かであったようです。与力、力士、火消の頭を「江戸の三男(さんおとこ)」として粋な男の代名詞ともなっていた一方で、罪人を扱うことから「不浄役人」とも呼ばれることもありました。与力の家格は御家人、すなわち御目見え以下でしたから、将軍に謁見することはもちろん、江戸城に登城することも許されていませんでした。

 

与力の職掌としては、財政・人事を担当する「年番方(ねんばんがた)」、詮議役の「吟味方(ぎんみがた)」、判例の整理・調査を行う「例繰方(れいぐりがた)」など多くの定役のほか、臨時の際の分掌である出役(でやく)も少なくありませんでした。特に18世紀以降は更に業務が細分化したため、1人でいくつもの役掛を兼務することもありました。また、町奉行の家臣から任命される秘書役を務める「内与力」も奉行所に置かれていました。町奉行所の具体的な役職と業務内容については改めて紹介していきましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。相次ぐ台風の到来もあって、少し涼しくなってきたかと思いきや、また猛暑がぶり返している日本列島です。我が職場も来月9日からの経済界の大型訪中代表団の派遣に向け、殺気立つ張りつめた雰囲気の中での仕事が続きいています。

 

さて、本日からはもう少し江戸の庶民の生活に密着したシリーズにしていきたいと思います。とはいえ、江戸の町の治安や防火といった点では、幕府の関与が欠かせません。そこで、本日は江戸の行政、司法、立法、治安などを取り扱った「江戸町奉行所」について紹介していきたいと思います。以前、江戸幕府の役職のところで、町奉行については詳細に紹介したので、その点はなくべく重複を避けて説明したいと思います。

 

江戸町奉行所は、南町奉行所と北町奉行所が月番制でその任に当っていたことは、以前ご紹介した通りです。江戸町奉行所の構成員として、江戸町奉行の下、与力、同心がおり、その下に中間、小者といった雑用係がいました。南北それぞれ1名ずつであった町奉行は町奉行所で唯一旗本から任じられていました。それに対して与力と同心は御家人が務めており、与力の定員は南北合わせて50騎、同心は合計240人となっていました。

 

江戸町奉行は、就任時に諸大名当主と同格の従五位下諸大夫の官位を授かります。寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行と京都所司代及び大坂城代にしか閲覧を許されなかった「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」という法典によって、町奉行は裁きを行っていました。

 

町奉行には休日というものがありません。基本的に町奉行所内に居住し、毎日辰の刻(午前8時)に江戸城に登城して事案の報告や老中等からの指示を受け、未の刻(午後2時)に奉行所に戻り執務を行っていました。また、評定所の構成員として幕政にも関わるなど職務は相当な激務だったようで、在職中に過労死した者も少なくなかったことは、以前にも紹介した通りです。今で言えば、東京都知事、都議会議長、地方裁判所長、地方検察庁検事正、警視総監、消防総監等の職務を併せ持っていたのですから、月番制とはいえ常に心労は絶えなかったと思います。

 

町奉行所での裁判に関し、町奉行が行うのは初審と判決の言い渡しのみでした。実務は追って紹介する「吟味方与力」等が行っていました。裁判の判決は公事方御定書に基づいて行われるため、奉行の一存で決められるようなものではありません。刑事裁判では、遠島と死罪の判決は老中へ仕置伺いを出し、評定所での審議を基に老中が決め、形式的には将軍が容認し、老中から町奉行所に通達する形をとっていました。評定所は最高裁判所のような機能も備えていたといえます。ちなみに、示談や民事裁判での判決は町奉行の一存で決められていました。

 

次回も引き続き、江戸町奉行所について紹介していきます。

 

高見澤

2018年9月

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