おはようございます。今日は大寒です。東京都心も朝からかなり冷え込み、手袋なしで歩くにはすこし辛いと思うほどでした。新型コロナが猛威を振るう東京ですが、まだ幸いにも私の周辺で罹患した人は聞いていません。ワクチンが今年5月頃には接種できるとの想定ですが、果たしてその効果に期待はできるのでしょうか? 理屈から言えば、インフルエンザと同じように変異した場合に、効果がないことも十分に考えられます。理屈が通らないときは、根本的な考え方に問題があると思った方がいいかもしれません。(結局、今朝も配信してしまいました! しばらくは配信も続けます。)

 

さて、本日は「市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)」について紹介しようと思います。市谷亀岡八幡宮は、東京都新宿区市谷八幡町にある神社で、御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)〔応神天皇〕、気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)〔神功皇后〕、與登比売神(とよひめのかみ)〔応神天皇の姫神〕です。社格は郷社とされています。

 

この神社は、文明11年(1479年)に、太田道灌が江戸城築城の際に、西方の守り神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりとされています。鎌倉の「鶴岡」に対して、この神社は「亀岡」と称しました。分霊当初は現在の千代田区に属する市谷御門の内側に設置されていましたが、戦乱によって荒廃します。

 

江戸時代になり、寛永13年(1636年)ごろに江戸城の外堀が出来たのを機に、現在の場所に移転しました。市谷亀岡八幡宮は、三代将軍・徳川家光や家光の側室で五代将軍・綱吉の母である桂昌院などの信仰を得て再建されます。江戸時代には「市谷八幡宮」と呼ばれ、境内には茶屋や芝居小屋が立ち並び、特に例祭のときには多くの人で賑わっていたようです。

明治維新以降、神仏分離令により別当寺であった「東円寺」が廃寺となり、芝居小屋なども撤退、かつての賑わいは失われていきます。太平洋戦争の際には神木なども含め焼失しますが、昭和37年(1962年)に現在の社殿が再建され、今でも現地の人からは信仰を得ています。境内には、茶ノ木稲荷神社、金毘羅宮、出世稲荷神社がありますが、もともとは茶ノ木稲荷神社の地に市谷亀岡八幡宮が市谷御門内から遷座されたと言われています。

さて、本日は「市谷(いちがや)」について紹介ましょう。市谷は、現在の東京都新宿区にある地域名で、駅名などでは「市ヶ谷」と記されることもあります。JR市ヶ谷駅の西側に広がる台地を中心とした地域で、靖国通りや外苑東通り、大久保通りなどの大通りに接しています。ただ、市谷という地名は存在せず、市谷を冠した「市谷○○」という地名は数多く存在しています。

 

徳川家康が江戸入府後、江戸城の築城や街道整備に伴って、未開の地であった新宿辺りにも多くの武家屋敷が置かれるようになります。江戸城の西側の守りの要として、市谷は重要な地域とされました。市谷元村町には御三家の一つ尾張徳川家の広大な上屋敷があり、市谷加賀町はその名称からも分かるように金沢藩前田光高夫人・大姫の屋敷がありました。このほか、市谷仲之町や市谷甲良町などには下級武士の大縄地が置かれていました。

 

市谷の地名の由来には諸説あります。まず、「市谷孫四郎の領地」との記録が鎌倉時代の正和元年(1312年)の鶴岡八幡宮文書にあり、そこから市谷の地名となったという説です。ただ、市谷孫四郎という人物については、平安時代の守護代とも言われていますが、実際のところはよく分かりません。

 

次に、室町時代に、現在の市谷八幡町にある「市谷亀岡八幡宮」の門前で毎月6回開かれていた市に由来する「市買(いちがい)」がなまったという説です。そして、近くに四谷という地名があるように、この付近で「一番の谷」、「一の谷」に由来する説です。

 

市谷の周辺には武士の仕事にまつわる地名も多く、「箪笥町」の「御箪笥(おたんす)」は甲冑、弓矢や鑓などの武器のことで、それを取り扱う同心が住んでいました。「払方町」や「納戸町」は将軍家の金品を扱う「御納戸」の同心が拝領していた地域。「細工町」は江戸城内の建具や道具などの製作・修理を行う「御細工」の同心が住んでいた地域です。

 

明治11年(1878年)の郡区町村編制法により東京15区が成立した際には、市谷は牛込区に編入され、昭和22年(1947年)の地方自治体法制定による23区への再編まで続きます。市谷の地形が台地上からその縁の斜面まで続いており、元祖山の手の地域として現代においても高級住宅街となっています。

東藝術倶楽部会員各位


はようございます。新型コロナウイルス感染の拡大が止まりません。政府は1都3県に緊急事態宣言を出したものの、更に拡大に様相を示す日本全国に適用するには否定的です。今朝の通勤バスはいつもより乗車する人が多く、本当に緊急事態宣言が出されているのかと思うほどでした。国民の意識とかけ離れた政府の対応、そして政府の意思とは正反対の国民の行動。日本海側では雪に強い設計がなされている北陸新幹線でも運休を出すなど、今年は年初から災難続きの日本です。日本全体にとっては前途多難なようですが、その一方で明るい未来を感じている人もいるようです。


さて、本日は「行元寺(ぎょうがんじ)跡地」について紹介してきたいと思います。行元寺は、今は東京都品川区西五反田にありますが、もともとは肴町(さかなまち)〔東京都新宿区神楽坂〕にありました。創建は不明ですが、鎌倉時代にはあったようです。行元寺自体についは、別途紹介の機会を設けるとして、ここでは行元寺跡地にまつわる話をしたいと思います。


行元寺跡地は、現在は寺内公園(じないこうえん)となっていますが、文字通り行元寺が西五反田に移転する前はここに行元寺があったわけです。寺の門前には古くから町屋兵庫町があり、江戸時代に3代将軍・徳川家光が鷹狩りに来るたびに、兵庫町の肴屋が肴を提供したことから、行元寺周辺を肴町と呼ぶようになったとのことです。


天明8年(1788年)、行元寺の境内東側を武家の住まいとして貸し出すようになり、この中に「貸地通行道」という細い路地がありました。人がやっとすれ違いできるほどの小さな通りですが、安政4年(1857年)にこの一部が遊行の地となり、ここに神楽坂の花柳界が発祥したとされています。


明治4年(1871年)、行元寺と肴町を合わせて牛込肴町の町名ができます。明治40年(1907年)に行元寺が西五反田に移転し、大正元年(1915年)に大久保通りが設置されると、その跡地は「寺内(じない)」と呼ばれるようになりました。味わい深い路地のある粋な花柳街として、山の手随一の繁華街として賑わいをみせていくことになります。




江戸時代、この行元寺で百姓による初めての刃傷沙汰、いわゆる仇討事件が起きます。明和4年(1767年)9月、10代将軍・家治の頃ですが、下総国相馬郡早尾村(茨城県結城郡)で組頭の甚内と百姓の庄蔵が口論となり、甚内が庄蔵を殺してしまいます。しかし、甚内には何のお咎めがないばかりか、5カ月後に甚内は行方をくらましてしまいました。


それから16年の歳月が経ち、天明3年(1783年)に、庄蔵の長男・富吉が肴町の行元寺の境内でたまたま甚内を発見します。そのとき、甚内は御先手・浅井小右衛門組の同心・二見丈右衛門と称していました。一方の富吉は剣術家の戸賀崎熊太郎の下僕となっていました。富吉は柳の木の下で仇討を果たし、これが当時は「天明の仇討」として有名になりました。この事件があった後、「大崎富吉復讐の碑」が建てられ、現在この碑は西五反田の行元寺にあるそうです。


高見澤

おはようございます。コロナウイルス感染拡大を受け、首都圏の1都3県に緊急事態宣言が発せられました。中身のはっきりしない如何にもとってつけたような内容となっていますが、これで本当にコロナ収縮が叶うと思っているのでしょうか?それよりもコロナの正体が明確でないために、こうした措置が果たして正しいのかどうかも分かりません。国民に対していたずらに不安と恐怖を煽り、いざその対策となると科学的知見を無視するかのような政府の対応。何もかもがチグハグでお粗末に見えています。それを真面目に履行しようとする日本国民。何か間違っているように思えてなりません。

 

さて、本日は「築土神社(つくどじんじゃ)」について紹介しようと思います。現在の築土神社は東京都千代田区九段にある神社で、通称「築土明神(つくどみょうじん)」とも呼ばれています。一般に漢字表記の「築土」は「ちくど」と読まれることが多いのですが、この神社は「ちくど」と読まれます。主祭神は天津彦火邇邇杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)で、平将門と菅原道真を配祀しています。

 

天慶3年(940年)、江戸の「津久戸(つくど)村」〔千代田区大手町辺り〕に平将門の首を祀り、塚を築いたことから、当初は「津久戸明神(つくどみょうじん)」として創建さらたのが築土神社の始まりとされています。室町時代に太田道灌が江戸城建築のために津久戸明神を田安郷〔現在の千代田区九段坂上〕に移転し、それ以降は「田安明神」とも呼ばれ、江戸時代には日枝神社た神田明神とともに「江戸三社」の一つに数えられることもあったそうです。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事により田安明神は築土八幡神社隣接地〔新宿区築土八幡町〕へ移り、これ以降「築土明神」との名で人々に親しまれていきます。この築土神社が現在の九段北に建てられたのは昭和29年(1954年)のことで、昭和20年(1945年)の東京大空襲で築土明神が全焼したからでした。

 

もともと津久戸明神は平将門を主祭神として創建され、将門の頭蓋骨や髪の毛が安置されていたとの記録もあるようですが、その真偽のほどは明らかではありません。しかし、数ある将門所縁の神社の中でも、特に将門信仰が厚く象徴的だったのがこの津久戸明神でした。将門が主祭神を外れ、天津彦火邇邇杵尊が主祭神となったのは明治7年(1874年)のことで、明治政府の教部省の指示によるものだそうです。

 

津久戸、あるいは築土の名称の由来については、いくつかの説があります。津久戸の「戸」は「門」を意味し、江戸氏の館の門名の一つで、その付近が津久戸村と呼ばれていたから津久戸明神と付けられたという説。また、将門の首塚の近くに土を盛って築いたから「築土」になったという説。そしてもともとは「江戸明神」と呼ばれていたものが、「江」の字を「次」の字と誤記され、「次戸(つぎど)」が「築土」に転嫁したと説などがあります。江戸時代の文献からは、築土八幡町に移転する以前は「津久戸」と記され、移転後は「築土」と記されていつことから、津久戸村説が有力だとされています。「築土」は「筑土」や「筑戸」と記されていることもあるようです。

実際に牛込周辺の高台を「筑土山」と呼んでいたこともあり、表記はさまざまな形で誤記されていたのかもしれません。ちなみに筑土山の名称の由来は、筑紫国宇佐(大分県宇佐市)から土を運んできて作られた山という話もありますが、これもまた信憑性には欠ける話かもしれません。

 

東京都内にある将門所縁の首塚や神社が北斗七星の形に配置されているとの話があります。これは、将門の怨霊の力を使って江戸の街を守護させるために、徳川幕府と天海大僧正が作り上げた結界、あるいは魔法陣だとも言われています。こんな都市伝説を頭の片隅におきつつ、将門所縁の場所を歩いてみるもの面白いかもしれません。

おはようございます。新型コロナウイルス蔓延とそれに伴う緊急事態宣言発動への議論で始まった2021年、まさに今年1年を象徴する出だしです。コロナの抑え込みも経済対策も中途半端で、そのどちらにも明らかに失敗している日本政府のお粗末な対応に歯痒さを覚える有識者は少なくないかと思います。このままの状態が続けば、感染症は抑え込むことはできず、また日本の財政も破綻に至ることは明らかです。それでも人々は生きていかなければなりません。さて、この先日本は、そして世界はどうなっていくのでしょうか。

 

さて、本日は「神楽坂若宮八幡神社(かぐらざかわかみやはちまんじんじゃ)」を紹介したいと思います。神楽坂若宮八幡神社は東京都新宿区若松町にある神社で、御祭神は仁徳天皇(にんとく)と応神天皇(おうじんてんのう)です。

 

文治5年(1189年)7月、右大将・源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐する「奥州合戦」に向かう際に、この地で下馬して戦勝の宿願を行いました。同年9月に泰衡を討ち滅ぼした頼朝は、鎌倉に戻った後、ここに鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を勧請します。これが神楽坂若宮八幡神社の始まりとされています。当初ここに祀られていたのは若宮である仁徳天皇だけでしたが、後に八幡神の応神天皇も一緒に祀られることになったそうです。

 

その後、神楽坂若宮八幡神社は衰退しますが、文明年間(1469年~1487年)に太田道灌が築城した江戸城の鎮護を目的として再興されます。当時は別当寺として天台宗の光明山普門院があり、神領は広大であったようです。明治以降は、明治政府による神仏分離令により落飾して神職となったと言われています。

昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲で社殿を含む施設がすべて焼失、御神体だけは持ち出され無事でした。昭和22年(1947年)に仮殿を造営して復興を果たし、完全に再建されたのは昭和34年(1954年)のことです。現在の社殿は平成11年(1999年)に造営されたものです。今の社地はかなり狭くなっており、江戸時代とはかなり異なる姿になっています。

 

ここで「八幡神(はちまんしん/やはたのかみ/やわたのかみ)」について簡単に説明しておきましょう。八幡神は日本独自の神様で、「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」とも呼ばれており、神格化した応神天皇とも言われています。源氏や平氏など武家からの信仰が厚く、八万神を祀る「八幡神社(八幡宮)」は日本全国に4万4,000社あるとされ、全国最多の「稲荷神社」に次ぐ数となっています。八幡神社の総本社は大分県宇佐市にある「宇佐神宮(宇佐八幡宮)」です。「八幡」の文字の初見は天平5年(737年)の『続日本紀』で、当時は「やはた」と読まれていました。後に神仏習合の際に「はちまん」とも読まれるようになりました。

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。年始年末は、皆さんはどのように過ごされたのでしょうか。日本では新型コロナウイルスの新規感染者の増加しており、首都圏の1都3県には今週にも緊急事態宣言が発せられるようです。コロナで始まりコロナで終わった昨年でしたが、今年もまたコロナに翻弄される1年となるのでしょうか。我が職場もどのような措置がとられるのかはまだ分かりませんが、いずれせよ不自由な日々がまだ続きそうです。マスク着用による過呼吸には十分ご注意ください。

 

さて、本日は前回説明した穴八幡宮の別当寺として建てられた「放生寺(ほうしょうじ)」について紹介しましょう。放生寺は東京都新宿区西早稲田にある高野山真言宗の寺院で、山号は光松院、院号は威盛院と称し、聖観世音菩薩(融通虫封観世音菩薩)を本尊としています。寺格は準別格本山とされ、正式名称は「光松山威盛院放生會寺」となっています。江戸三十三箇所15番、御内府八十八箇所30番の札所にもなっています。

 

別当寺とは、江戸時代以前は神仏習合が当たり前のように行われており、神社を管理するための寺院を置くことがよくありました。神宮寺の一つとして神社の境内に建立され、神社管理のほか供奉僧(ぐぶそう)が祭祀・読経・加持祈祷を行う場所としても利用されていました。

 

放生寺が創建されたのは寛永18年(1641年)で、権大僧都法印威盛院・良昌上人(りょうしょうしょうにん)によって開創されました。寺号が示すように放生会(ほうじょうえ)を行うことで知られています。放生会とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放ち、殺生を戒める宗教儀式のことを指します。

穴八幡宮と同様に徳川将軍家より厚く保護され、慶安2年(1649年)に三代将軍・家光が参拝した際に「光松山威盛院放生會寺」の寺号が賜れ、徳川家代々の祈願所として「葵のご紋」を寺紋に用いることが許されたそうです。本尊の聖観世音菩薩像は虫封じに霊験があるとして、江戸時代より多くの尊信を集め親しまれてきています。

 

放生寺では、穴八幡宮で授与される「一陽来復御守」をもじって「一陽来福」のお札を授与しています。

おはようございます。今年も残すところあとわずかとなりました。コロナに翻弄された1年で、特に何かをしたわけでもないのですが、何かと忙しい日々を過ごしていました。その一方で、人々の知らない間に世の中は大きく変わり、昭和を彩ってきた人たちもこの世を去っていきました。これまでの常識が常識でなくなり、非常識が常識となる時代へと突入し、そうした感覚に着いていけない人たちはどんどん淘汰されていきます。その一方で、これまで地道な努力を続け、時代の流れをみながら冷静に対処してきた人たちは頭角を現してくることでしょう。悪しきスパイラルに向かう人と、好きスパイラルに入る人の差はどんどん広がるばかりです。さて、来年はそれがはっきりと目に見えてくるものと思います。ローマは1日にしてならず、後悔先に立たず! その時になって慌ててもすでに遅し! 本日の瓦版は本年最後になります。皆様、よいお年をお迎えください。

 

さて、本日は「穴八幡宮(あなはちまんぐう)」について紹介したいと思います。穴八幡宮は東京都新宿区西早稲田に鎮座する神社で、前々回紹介した赤城神社とともに牛込の総鎮守とされています。かつては高田馬場の守護神として「高田八幡宮(たかだはちまんぐう)」とも呼ばれていました。

 

康平5年(1062年)、源義家は父・頼義とともに前九年の役にて奥州の安倍氏を滅ぼします。その凱旋の折、日本武尊命(やまとたけるのみこと)の故事にならって、この地に兜と太刀を奉納し東北鎮護の社として八幡神を祀ったのが、穴八幡宮の始まりとされています。義家は頼義の嫡男として「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)」(京都府八幡市)で元服したことから、「八幡太郎(はちまんたろう)」とも称されています。

 

江戸時代の寛永18年(1641年)、「社守の庵」(当宮を管理する別当寺の放生会寺)を造営するために南側の山裾を切り開いたところ横穴が見つかり、そこから八幡神の本地仏である金銅の阿弥陀如来像が出てきます。これを瑞祥の神穴とし、穴八幡宮と称されるようになったとのことです。幕府祐筆であった大橋龍慶(おおはしりゅうけい)は方百間の地を献じ、壮大な社殿を造営し、この頃から神木の松が瑞光を放つなど奇瑞が生じたことから、三代将軍・徳川家光は穴八幡宮を江戸城北の総鎮守として総営繕を命ぜられました。

 

慶安元年(1648年)の社殿再興の際には、幕府から氏子として牛込郷三十六ケ町が定められ、翌慶安2年(1649年)には8,800坪を超える境内に社殿をはじめとする数々の殿舎が櫛比します。将軍家祈願所としての規模も整って、これ以降江戸屈指の大社として重んじられていきました。その後も幕府によって何度も造営・修繕が行われ、特に元禄16年(1703年)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めていたそうです。

 

享保13年(1728年)、八代将軍・吉宗は、世嗣(後の九代将軍・家重)の疱瘡平癒祈願のために穴八幡宮に流鏑馬を奉納します。この流鏑馬の奉納は将軍家の世嗣誕生や厄除け祈願として、その後も続いていきました。この将軍家の逸話から江戸庶民にも信仰が広がり、特に「虫封じ」の御利益があるとして人気を集めました。

 

安政元年(1854年)の青山火事によって社殿などが類焼し、幕府から造営料等が奉納されますが、幕末の混乱と物価高騰によって仮社殿のまま明治維新を迎えます。その後、昭和初期に旧事に盛観に復するものの、太平洋戦争で羅災します。しかし、戦後はいち早く仮社殿により再興し、現在は平成10年(1998年)に竣工した江戸権現造りの慶安・元禄当時を偲ぶ姿になっています。

穴八幡宮では、毎年、冬至から節分までの季節限定の「一陽来復御守」の授与が行われます。古来中国では、四書五経の一つ『易経』に基づいて6つの陰陽の数で旧暦月を表しています。「一陽来復(いちようらいふく)」の「一陽」は冬至を表す言葉で、6つすべてが陰となる旧暦10月から、冬至のある旧暦11月は陽が一つ現れることからそう呼ばれます。冬至には太陽の力が最も弱まり、その後回復していくから「来復」というわけです。これからは良い方向に向かうというポジティブな意味合いを持った言葉です。

 

穴八幡宮の名称の由来となった神穴は、一般公開されていませんが「出現殿」として今でも残っています。一説には穴八幡宮が鎮座する小高い丘は前方後円墳ではないかともいわれています。

おはようございます。コロナウイルスに始まり、コロナウイルスに終わる1年となった今年ですが、世界のトレンドも大きく変わろうとしています。学者によってはトレンドが変わるのではなく、これまでの流れがより先鋭化しただけとの見方のありますが、先鋭化したことがトレンドの変化だとも言えなくもありません。米国をはじめとする欧米先進国の凋落と、中国をはじめとする新興国の台頭が、よりはっきりと見えてくるようになりました。欧米先進国と新興国との狭間で、今後日本はどう立ち回ればよいのでしょうか。

 

さて、本日は「神楽坂(かぐらざか)」について紹介していきたいと思います。神楽坂は東京都新宿区の牛込地域西南部に位置する坂、及びその坂を中心とした地名です。内堀通りの田安門付近から北に入る早稲田通りの神楽坂下交差点(外堀通り交差点)から神楽坂上交差点(大久保通り交差点)までの短い区間で、比較的急な坂となっています。現在は神楽坂通りと呼ばれています。

 

この神楽坂は江戸時代以降に発展した街で、三代将軍・徳川家光の時代に牛込御門(九段坂下交差点付近)と若狭小浜藩酒井家下屋敷(東京メトロ東西線・神楽坂駅付近)を結ぶ形で開通しました。江戸幕府開府以降、この一帯には幕府旗本の武家屋敷や寺社が多く配置されていきましたが、もともとは町屋が多く存在していたそうです。江戸城の外堀が開削された際に「神楽坂河岸が設けられ、そこが水運の物流拠点となり、後の神楽坂の発展につながっていきました。八代将軍・吉宗の時代には、政治顧問であった荻生徂徠や戯作者の太田南畝などが牛込地域に住み、毘沙門天善国寺が麹町から神楽坂に移転してくると、寅の日の縁日には大いに賑わっていたそうです。また、行元寺や赤城神社の周りでは岡場所としても知られるようになりました。

明治維新以降は、武家屋敷から官庁の役人や企業の社員の居住地となり、神楽坂沿いには商店が立ち並び、東京で最初の夜店がこの地から生まれました。行元寺の岡場所は花街へと発展し、尾崎紅葉、夏目漱石、坪内逍遥など近代文学の祖と言われる文人たちが住むようになっていたことは、すでの紹介した通りです。大正12年(1923年)の関東大震災では被害はなかったものの、昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼け野原になってしまいます。戦後、神楽坂の花柳界はいち早く復興し、昭和30年代にはピークを迎えました。現在は、独特の江戸の風情を残す取り組みが行われ、格式高そうな料亭やお洒落なレストランなどで賑わっています。

 

神楽坂の名称の由来については、高田穴八幡の旅所があって祭礼で神輿が通る際に神楽を奏したという説、若宮八幡の社の神楽の音がこの坂まで聞こえたからという説、元和年間(1615年~1624年)に津久戸明神が牛込の地に移転した時に神楽を奏でると重い神輿がこの坂を上ることができたからという説があります。いずれにせよ、神楽坂の名称が付けられたのは、江戸時代初期のことと思われます。

 

神楽坂は一方通行の通りですが、時間によってその方向が変わる全国でも珍しい「逆転式一方通行」の道路です。午前中は早稲田側の坂上から飯田橋側の坂下に下る一方通行で、午後はその逆に坂下から坂上に上る一方通行となります。この方式が採用された理由として、故田中角栄元首相が目白台の自宅と勤務地である永田町との間の出勤(午前)と退勤(午後)に便宜を図ったからだという説がありますが、これはタクシー運転手の間で広められた都市伝説だそうです。実際は、車の交通量の増大に伴う大渋滞を緩和するために採用された措置とのことです。

おはようございます。早いもので、今夜はクリスマス・イヴです。クリスマス・イヴというと、日本ではクリスマスの前夜というように捉えている人が多いと思いますが、実はクリスマス当日でることを知っている人はどのくらいいるのでしょうか。一般の暦では、1日の始まりは午前0時ですが、イエス・キリストが使っていたユダヤ暦とそれを継承している教会暦では、1日の始まりを日没としており、教会暦の1225日は一般の暦の1224日の日没から始まるので、24日の夜はイエス・キリストの誕生した25日に属するというわけです。

 

さて、本日は「赤城神社(あかぎじんじゃ)」について紹介しようと思います。赤城神社は東京都新宿区赤城元町にある牛込総鎮守の神社で、上野国赤城神社の分霊を祀っています。祭神は磐筒雄命(いわつつおのみこと)、相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)が祀られています。境内には赤城出世稲荷神社、蛍雪天神、八目神社、葵神社があります。

 

鎌倉時代も終わりに近づく後伏見帝の御代の正安2年(1300年)、前回の牛込のところで紹介した上野国赤城山麓大胡の豪族・大胡彦太郎重治がこの地に移住した際、上野国赤城神社の分霊を勧請して早稲田鶴巻町に創建されました。最初に創建された場所は、現在は「元赤城神社」となっており、寛正元年(1460年)に太田道灌持資によって牛込見附近くへと遷座されます。その際、里人が旧地に元赤城大明神として祀ったのが、現在の元赤坂神社です。その後、弘治元年(1460年)に牛込氏を名乗った大胡宮内少輔が現在の場所に移したと言われています。

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江戸時代、五代将軍・徳川綱吉の頃の天和3年(1683年)、徳川幕府は江戸大社の列に「赤城明神社」を加え牛込郷の総鎮守とし、日枝神社、神田明神とともに「江戸の三社」と称されました。江戸末期の天保13年(1842年)に大火により社殿を含む施設が全焼します。翌年から再建に着手しますが、再建途中であった安政2年(1855年)の大地震なども重なり、社殿が復興したのは慶応元年(1865年)のことでした。明治維新以降は、郷社に列格しますが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失、最終的に再建されたのは昭和34年(1959年)のことでした。

おはようございます。先週は割と忙しく、瓦版の更新もままなぬまま、1週間が過ぎてしまいました。今日は冬至です。昨日は、東京と北京をオンラインで結んで「日中省エネ・環境総合フォーラム」が開催されました。東京会場は都内のホテルで梶山経済産業大臣や日中経済協会の宗岡会長が出席するなか、200名ほどが直接会場で参加したほか、ネット中継でも多くの人が聴講していました。コロナ禍で直接の交流が制限されており、こうしたオンライン形式での交流が新たなツールとして活用するため経験を積み重ねるよい機会になったかもしれません。もちろん、直接会って交流するに越したことはありません。

 

さて、 本日は「牛込(うしごめ)」について紹介しようと思います。牛込は東京都新宿区の北東部に位置する地名で、神楽坂や市谷、早稲田がこの牛込地域に属しています。牛込と言えば、お台場に移転する前のフジテレビが牛込郵便局内に私書箱を持っており、その案内を全国に向けて発信していたことから、長野県の田舎で育った私でも馴染みのある名称ではありました。

 

大宝元年(701年)に、大宝律令によって武蔵国に「神崎牛牧(かんざきぎゅうまき)」という牛の牧場が設けられ、飼育舎である「乳牛院(にゅうぎゅういん)」がこの地に建てられたそうです。東京都内には、「駒込(こまごめ)」や「馬込(まごめ)」といった馬にまつわる地名が残されており、こうした場所が馬の牧場であったとされていることから、牛込の地名はここに由来があるのではないかと言われています。

 

ただ、文献に残る牛込の地名の初見は北朝の歴応3年(1340年)に、室町幕府が「武蔵国荏原郡牛込郷闕所(けっしょ)」を江戸氏に預け置くとする内容の文書だそうです。それ以前の正安2年(1300年)に上野国の赤城山麓にある大胡の豪族・大胡彦太郎重治がこの地に移り住んだとの説が、牛込にある赤城神社に残されています。大胡氏は後に牛込の姓を名乗ることになりますが、この頃でもこの地では牛の飼育が盛んであったことは間違いないようです。

 

もともと関東管領の上杉氏の家臣であった大胡氏ですが、大胡重行の時代に北条氏康の家臣へと鞍替えをします。大永6年(1526年)頃に重行は氏康から武蔵国牛込から日比谷辺りにかけての領地をあてがわれ、息子の勝行が移封してきます。牛込氏を名乗るようになったのはこの頃で、天文24年(1555年)頃に勝行は牛込城を築いて居城としました。この城は牛込の高台にあり、領地を一望できるのと同時に、江戸湊に出入する船が監視できたと言われています。

北条氏滅亡後、徳川家康の江戸入府とともに牛込城は廃止されます。正保2年(1645年)、その跡地に神田光照寺が移転してきました。現在、その牛込城の遺構は一切残っていません。江戸時代の牛込地域は大名や旗本の武家屋敷が集中していたほか、町屋も少なからず形成されていました。伝統ある山の手の住宅街で、狭い路地などは今でも昔の姿が残っています。近代以降は夏目漱石や尾崎紅葉などの作家・文化人が数多く住んでいました。

2021年2月

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