おはようございます。清々しい朝を迎えた今日の東京都心ですが、朝からパソコンの調子が非常に悪く、まともに機能しません。何か悪い電磁波の影響があるのでしょうか? ウイルスに感染している可能性は低いと思いますが、一度精密にチェックする必要があるのかもしれません。

 

さて、本日は御三家、御三卿以外の「親藩」について紹介していきたいと思います。親藩の中でも、特に「徳川姓」を許されたのが御三家、御三卿でしたが、このほかにも「駿河徳川家(駿府藩)」、「甲府徳川家(甲府藩)」、「館林徳川家(館林藩)」がありました。これらは、将軍家の次子以降として親藩に立てられたものの、宗家継承や後嗣断絶のため、一時的なものになってしまいました。

 

駿河徳川家は、藩主は秀忠の三男・忠長で、駿河、遠江、甲斐の3国に跨る55万石を有していましたが、忠長が不行跡であったために家光によって改易され、忠長自身も自刃したために1代で断絶となりました。甲府徳川家は、初代藩主は家光の三男・綱重(家綱の弟)で、石高は25万石でした。綱重の子・綱豊が6代将軍「家宣」であることは、すでに説明した通りです。綱豊が将軍の世子となったことで、甲府徳川家は2代で断絶となりました。そして、館林徳川家は、家光の四男・綱吉が上野館林藩の藩主として25万石を賜ったことに始まりますが、綱吉が兄・家綱の養嗣子となり、その子・徳松が藩主となるものの、綱吉が5代将軍となったために徳松は綱吉の世子と定められた(のち夭折)ことから、館林領は幕府直轄領となって館林徳川家は2代で断絶となりました。

 

御三家や御三卿に次ぐ一門とされているのが、家康の次男である結城秀康を祖とする「越前松平家」、秀忠の四男である保科正之を祖とする「会津松平家」、綱重の次男である松平清武を祖とする「越智松平家」です。越前松平家の拠点の領地は福井藩(福井松平家)で、当初の67万石から廃藩時には32万石と紆余曲折の藩政が続きました。会津松平家の拠点の領地は、こちらもいろいろとありましたが、最終的には陸奥国会津藩23万石に落ち着いています。越智松平家は、当初は上野館林藩でしたが、後に石見浜田藩6万1千石に落ち着いています。これら一門は家格や官位などでは優遇されていたものの、幕政に参加することはほとんど許されなかったようです。もちろん、保科正之が家綱の補佐役になった例外はありますが、これはあくまでも特例措置でした。

 

一方、幕末になると、親藩大名の幕政への参政がみられるようになります。安政の改革では水戸徳川家の徳川斉昭が海防参与に任じられます。文久の改革では、越前松平家の松永慶永が政事総裁職に、一橋徳川家の一橋慶喜が将軍後見職に、そして会津松平家の松平容保が京都守護職にそれぞれ任じられています。また、松平慶永の後を継いで政事総裁職となったのは、同じ越前松平家で川越藩主であった松平直克でした。これらは、幕末期の幕府の危急存亡という特殊事情があったからだといわれています。

 

以上、これら一門のほかに、奥平信昌(家康の長女・亀姫の婿)を祖とする武蔵忍藩(おしはん)〔10万石〕の「奥平松平家」、江戸時代後期に御三卿の田安宗武の子を養嗣子とした伊予松山藩〔15万石〕と伊勢桑名藩〔11万石〕の「久松松平家」、家光の正室・孝子の弟の鷹司信平を祖とする上野吉井藩〔1万石〕の「鷹司松平家」なども親藩に含まれることもあります。

 

高見澤

 

おはようございます。東京都心は昨日から降り始めた雨が今朝も続いています。肌寒いかと思って上着を羽織っていけば蒸し暑く感じ、かといって上着を脱いで外に出れば肌寒さを感じるという、どっちつかずの天候には参ってしまいます。日々の気温の温度差で体調を崩している人もいますので、お気を付けください。

 

さて、本日は徳川幕府の「親藩」のうちでも「御三家」に次ぐ家格とされる「御三卿」について紹介したいと思います。御三家が初代将軍・家康の息子たちによって創設されたのに対し、御三卿は8代将軍・吉宗の息子・孫によって立てられた大名家です。先ずは吉宗の次男・宗武を始祖とする「田安徳川家(田安家)」、そして吉宗の四男・宗尹(むねただ)を始祖とする「一橋徳川家(一橋家)」、最後に9代将軍・家重の次男・重好を始祖とする「清水徳川家(清水家)」が御三卿です。この御三卿は、徳川将軍家に後嗣がない場合に、御三家と同じように将軍の後継者を提供したほか、徳川御三家へも後継者を出すことにもなりました。

 

日本の律令官制には「二官」と「八省」が設けられていました。二官は「神祇官(じんぎかん)」と「太政官(だじょうかん)」、八省はそれぞれ「中務(なかつかさ)」、「式部(しきぶ)」、「治部(じぶ)」、「民部(みんぶ)」、「兵部(ひょうぶ)」、「刑部(ぎょうぶ)」、「大蔵(おおくら)」、「宮内(くない)」で、現在の内閣を含む中央官庁のことです。田安家、一橋家、清水家の当主は、八省の長官である「卿」に任じられることがあったことから、御三卿と呼ばれていました。

 

御三卿は、それぞれの屋敷に最も近い城門の名前を通称としており、所領は各10万石、家老をはじめとする役人は幕臣が任じられていました。それぞれの領地は全国に分散していて、独自の代官所によって領地が治めれていました。御三卿は御三家と異なり、独立した藩が置かれていたわけではなく、徳川宗家の家族・身内として認識されており、経済的・社会的に幕府に大きく依存していたとされています。

 

従来、将軍家の後嗣を出す役割を担ってきた御三家ですが、8代将軍吉宗の頃になると、将軍家と御三家との血縁関係が大分疎遠になってきます。吉宗自身も尾張藩主・徳川宗春との対立を踏まえて、御三家とは別に将軍家につながる新たな藩屏を設ける必要があったといわけです。実際に、この御三卿から任じられた将軍としては、11代将軍・家斉と15代将軍・慶喜が一橋徳川家から選ばれています。もっとも慶喜は、血筋としては水戸徳川家であることは、前回説明した通りです。

11代将軍・徳川家斉

 

高見澤
 

おはようございます。先週末は相当に暑かった東京ですが、今週に入り一転して涼しい日が続きます。今朝は曇りですが、午後から雨が降るとの天気予報です。そろそろ冬服をクリーニングに出したいのですが、判断に迷うところです。とはいえ、連休明けには夏服での出勤に切り替えるつもりです。

 

さて、本日は「江戸の大名」の「親藩」、なかでも特に「御三家」について紹介していきたいと思います。江戸時代の大名は徳川将軍家とのつながりの深浅によって「親藩」、「譜代」、「外様」に分けられていたことは、以前お話しした通りです。親藩とは徳川将軍家の一門、すなわち徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている大名(藩)を指し、特に「御三家」、「御三卿」の当主は将軍家の血筋が絶えた後など、将軍を出す役割を担う家柄として、「三つ葉葵」の家紋使用のほか、「徳川」姓を名乗ることが許されていました。もっとも御三家、御三卿は特別な存在として、狭義の意味では親藩として扱われていませんが、御三家は親藩の最高位にあったことは間違いありません。

 

御三家、御三卿以外の親藩は、一般に「松平」姓を名乗っていました。家康の男系男子の子孫のほか、家康の女系男子子孫である「奥平松平家」、家康の異父弟子孫の「久松松平家」、徳川家光・綱吉の正室の実家・鷹司家の出身である「鷹司松平家」なども親藩に準ずる扱いとなっていたようです。

 

一般に御三家といえば、家康の九男・義直(よしなお)を始祖とする「尾張徳川家」62万石、十男・頼宣(よりのぶ)を始祖とする「紀州徳川家」56万石、十一男・頼房(よりふさ)を始祖とする「水戸徳川家」35万石を指すことは、歴史の教科書で習ったところです。しかし、水戸家は頼房が秀忠の三男・忠長の「駿河徳川家」55万石が改易となった後、寛永13年(1636年)に徳川姓を賜姓された家であり、尾張家や紀州家に比べると官位・官職の点では下位に置かれていました。とはいえ、朝廷に対する次期将軍の奏聞や江戸常勤であったことから、綱吉の頃から他の2家と合わせて御三家と呼ばれるようになりました。

 

確かに官位をみてみると、尾張家と紀州家は「従二位権大納言」ですが、水戸家は「正三位権中納言」で家格は下がります。ちなみに駿河徳川家は「大納言」でした。江戸初期には、徳川将軍家と尾張家、紀州家を指して御三家、あるいは大納言である尾張、紀州、駿河を指して御三家という場合もあったようです。

 

この御三家が配された場所は、江戸幕府にとって最も重要な地でした。尾張名古屋は江戸から上方に向かう東海道と中山道(東山道)が通っており、紀州和歌山は上方と江戸を海で行き交う菱垣廻船(ひがきかいせん)等が通過する紀淡海峡(きたんかいきょう)に面する場所でした。また、常陸水戸は江戸から陸奥国方面に向かう水戸街道の途上にあったのです。西側からの陸路と海路、北からの陸路を押さえることが江戸防衛の要であったわけです。

 

この御三家から出た将軍としては、8大将軍の吉宗がおり、以降14代将軍・家茂までは紀州家の血筋です。15代将軍・慶喜は御三卿の一橋徳川家(紀州家の血筋)から将軍になりましたが、元々は水戸家から養子となっていたので、血筋としてはあくまでも水戸徳川家です。将軍継承時には、尾張家から迎える案もありましたが、結果として尾張家から将軍が出ることはありませんでした。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日は失礼しました。朝から立ち寄りで日本商工会議所の三村明夫会頭のところに行くことになってしまい、本メルマガが発信できませんでした。日本経済界を代表する一人ですが、気さくに分かり易くご自分の意見を言われるので、よくテレビでもコメントを求められています。

 

さて、本日は「諸藩の石高」について紹介していきたいと思います。家康が政権を握った江戸時代当初から幕末まで、論功行賞による加封、処罰による減封や移封、改易による藩の断絶などによって、諸藩の石高が変わっているので、そのすべてを調べて紹介するわけにはいきません。そこで、どこかの時点での状況を紹介するのが適切ではないかと思い、ここでは「寛文印知(かんぶんいんち)」に記された寛文4年(1664年)当時の主な大名の石高について紹介します。

 

江戸時代、1万石以上の所領を有する藩の数についも開府当初から幕末まで変化していますが、概ね250から300ほどであったようです。明治を迎えたときには約270の藩が存在していました。ということで、一般には「江戸300藩」、「三百諸侯」などと呼ばれています。「寛文印知」には219の藩の状況が記されていますが、そこには将軍家、御三家など主な親藩の状況はありません。

 

この時の将軍は家綱ですが、徳川将軍家の石高は279万石余でした。このとき、将軍家以外で最も石高が大きかったのが加賀金沢(前田)藩の1025,000石で、二番目が陸奥仙台(伊達)藩の62万石余と外様が続き、三番目が御三家の尾張名古屋(徳川)藩の619,500石余、四番目が薩摩鹿児島(島津)藩の605,000石余とまた外様になります。島津藩にはこれに琉球首里の123,000石余が加わると73万石近くになってしまい、前田藩に次いで第2位となります。五番目は御三家の紀州和歌山(徳川)藩の555,000石余、六番目が外様の肥後熊本(細川)藩の54万石、七番目は親藩の越前福井(松平)藩の525,000石余です。50万石以上の所領を有する大名は、以上の7藩で、徳川将軍家が圧倒的に優位な財政を抱えていたことが分かります。それに加え、少し驚くのは外様の所領が大きいことです。これは、比較的江戸から離れたあまり重要でない場所を所領する代わりに、規模を大きくすることで納得してもらう意味合いがあったのではないかと思われます。もっとも石高が大きい分だけ、幕府のために供する賦役も大きくなるわけですが...。

 

次に30万石以上の大名を挙げると、大きい順に筑前福岡(黒田)藩の433,000石余(外様)、安芸広島(浅野)藩の376,500石(外様)、長州萩(毛利)藩の369,000石余(外様)、肥前佐嘉(鍋島)藩の357,000石余(外様)、伊勢津(藤堂)藩の329,000石余(外様)、因幡鳥取(池田)藩の32万石(外様)、備前岡山(池田)藩の315,000石余(外様)、近江彦根(井伊)藩の30万石(譜代)、出羽米沢(上杉)藩の30万石(外様)の9藩です。これに続くのが御三家の常陸水戸(徳川)藩の285,300石余ですが、水戸藩はその後加増されて幕末には35万石になります。譜代で一番大きかったのが彦根の井伊藩でした。このほか、酒井、本多、榊原など多く譜代は20万石未満の所領ではありましたが、比較的重要な場所に配されていました。

 

こうした江戸時代の各藩の領地、石高を追っていくだけでも何冊もの本になるくらい、その情報と変化は相当な量になります。

 

高見澤

 

おはようございます。最近のニュースの1面の話題といえば、財務省次官のセクハラ発言に代表される政治家や官僚の女性問題です。経済や外交で大きな問題を抱え、適切な対処をしていかなければならない時期に、なぜこのような問題に国民の目を向けさせなければならないのでしょうか?もちろん、女性にとっては無視できない問題であることは分かりますが、シリアや北朝鮮を巡る地政学的問題や米国との貿易摩擦などの経済問題は、国民生活を根本から揺るがせかねない問題であることを、国民全員に理解してもらいたいところです。

 

さて、前回、徳川将軍家の石高は最盛期で450万石を超えていたことをご紹介しましたが、それでは将軍家以外の大名の石高はどうだったのでしょうか? と、この疑問に答える前に、まずは「石高制」について、少し説明をしておかなければなりません。

 

太閤検地によって石高制が採用されるようになる前、戦国大名は「貫高制(かんだかせい)」によって検地を行い、軍役を定めていました。この貫高制というのは、土地の面積と大よその土地の質によって年貢高が定められ、実際の収穫量とは乖離したものだったようです。石高制の導入によって全国で統一された土地評価の基準が作られ、それに基づいて年貢高が定められ、諸大名への恩賞や懲罰にも適用されることになります。原則として検地丈量によって「石盛(こくもり)」という一反当りの平均収穫量が定められて、土地の広さと合わせて石高が決まります。これが、大名の領地の基準になるわけです。

 

江戸時代初期に定められ、将軍家から諸大名に分け与えられた所領の額面上の石高を「表高(おもてだか)」と呼び、幕末まで変わることはほとんどありませんでした。しかし、実際には新田開発や検地の徹底、生産性向上などによって実際の生産量は大きく変わってきます。諸藩では、この「内高(うちだか)」と呼ばれる実際の収穫量によって年貢が納められていました。表高は、大名の知行や家格を表す名目上の数字でしか過ぎなくなりましたが、幕府としては大名の所領規模を把握できるようになり、加封・減封・転封などの論功行賞や処罰などが容易にできるようになりました。この石高については、米のみならず、その他の農産物や製塩・加工食品などの工業製品も含まれていたことは、前回お話しした通りです。

 

江戸時代中期の日本の総石高は約3,000万石であったことは前回述べた通りです。このうち、約75%の2,250万石を占めていたのが大名領(藩領)、次いで約13%の400万石を占めていたのが幕府直轄領でした。その他は旗本知行が約300万石、寺社領が40万石、公家領が7万石、天皇の禁裏御料が3万石であったと言われています。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日夜遅くに中国上海から帰ってきました。2カ月連続で国際会議に参加するのは疲れますが、そう簡単に経験できることではなく、上司のお付とはいえメンバーの一人として参加できることに感謝したいと思っています。そうそう、先週日曜日の湖南省長沙から北京に向かう飛行機の中で、ボールペンを使って客室乗務員を羽交い絞めにした男がいた事件が発生しました。我々の乗ったのは上海行きだったので何の問題もなかったのですが、一緒に会議に参加していた国務院発展研究センターの友人がその飛行機に乗り合わせていました。幸いなことにケガ人などは出ず、犯人は拘束されましたが、午前中に北京に着くはずのところが、そのトラブルのせいで夜遅くになったようです。

 

さて、本日は「徳川将軍家の石高」について紹介したいと思います。太閤検地以降江戸時代を通じて、諸大名や旗本の規模を示す基準として、所領の面積ではなく「石高」が使われていたこと、1石が米150キログラムに相当することはすでに述べた通りです。石高には、米ばかりでなく、麦や大豆等の穀物、野菜・果物、綿などの農産物、加工食品や製塩などの工業製品も含まれていました。ですから、江戸時代、全国の石高は生産性の向上に伴って増えていきました。

 

太閤検地によって示された慶長3年(1598年)頃の全国の石高は1,850石であったした。それが江戸時代初めの慶長年間後期〔慶長9年(1604年)~慶長15年(1610年)〕には2,200万石、寛永10年(1633年)には2,250万石、正保・慶安年間(1644年~1652年)には2,400万石、元禄年間(1688年~1704年)には2,600万石、天保年間(1831年~1845年)には3,000万石になりました。

 

それでは、徳川将軍家の石高はいったいどのくらいだったのでしょうか? 豊臣政権時代、豊臣家の蔵入地が約220万石といわれており、全国の石高の約1割を占めていたことが分かります。そのときの家康の石高は約250万石と、豊臣家を上回っており、その力の大きさが分かります。ちなみに、三番目に大きかったのが毛利家で、分家を含め約200万石、続いて上杉家の約120万石、前田家の100万石弱でした。家康の250万石といっても、家康自身が直接支配できたのは100万石で、残りは配下の武将に分け与えられていました。

 

その後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は西軍についた大名の領地を没収、或いは減封して東軍の大名に与えると同時に、自らの領地を増やします。家康の晩年には幕府直轄地が200万石となり、その後改易大名の領地を加えて、5代将軍・綱吉の時代には400万石、8代将軍・吉宗の頃には450万石を超えて最大の463万石に達したといわれています。

 

この幕府が直接支配していた直轄地を「天領」と呼んでいました。その領地は日本全国にわたり、大坂・京都・堺・長崎などの重要都市や伊豆・佐渡など資源の豊富な場所が多く含まれていました。内訳は関東では103万石、畿内68万石、東海道73万石、北陸28万石、東北37万石、中国41万石、四国・九州12万石など広く分布していました。こうした天領には、幕府から代官を派遣し、統治していました。こうした天領に、旗本領約300万石、その他大名に貸し付けてある領地と奉行支配地を加えて、大よそ800万石が徳川家の石高とされています。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ2、3日は涼しい日が続きます。冬物を仕舞い込むのをためらっていましたが、正解だったようです。ところで、明日からまた中国出張です。今回は上海経由で湖南省長沙で、16日に上海から戻ってくる予定です。長沙では、日中の有識者が集まり、世界経済、日中経済、イノベーションについて議論する会議が行われ、日本側代表は元・日銀総裁で現在はキヤノングローバル戦略研究所理事長の福井俊彦氏、中国側代表は国務院発展研究センター主任(閣僚級)の李偉氏です。これもまたハイレベルな会議で、テレビでコメンテーターとして活躍する人たちが参加しています。ということで、またしばらく瓦版も休刊させていただければと思います。

 

さて、前回の続きですが、13代将軍・家定は、正室として公家の鷹司政熙(たかつかさまさひろ)の娘・任子(あつこ、天親院有君)や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えましたがいずれも早世します。その後、薩摩・島津家から近衛忠熙の養女となった敬子(天璋院篤姫)を正室に迎えますが、彼女との間にも実子は生まれませんでした。このため、将軍在職中から後継者争いが生じ、家定の病状が悪化した安政4年(1857年)頃からそれが激化します。ちょうど今、NHKの大河ドラマ「西郷どん」の舞台となっている時代ですね。

 

家定の後継者候補として挙がったのが、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の14代将軍・家茂)と、薩摩藩主・島津斉彬や御三家の水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(後の15代将軍・慶喜)です。慶喜は斉昭の七男として生まれましたが、家慶の意向により、弘化4年(1847年)に一橋家を継ぎます。結果的に、家定は慶福を将軍後嗣とすることを決め、安政5年(1858年)に35歳で亡くなりました。これにより、家慶の血筋は絶えることになります。

 

安政5年に14代将軍となった慶福は名を家茂と改めます。家茂の実父・徳川斉順(とくがわなりあき)は12代将軍・家慶の異母弟で、家定の従弟に当たります。血筋からいえば、実子のない家定に最も近かった存在ですので、譜代筆頭の井伊直弼ら南紀派が推すのは自然の流れでしょう。家茂が将軍に就いたのは13歳、その後見人となったのが田安徳川家5代当主の徳川慶頼(とくがわよしより)で、その後慶喜に代わります。文久2年(1862年)、幕府の公武合体によって孝明天皇の皇妹・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)と結婚します。幕末の尊王攘夷の風が吹き荒れる中、慶応2年(1866年)、家茂は第2次長州征伐の途上、大坂で病に倒れ亡くなります。享年21歳の若さでした。