おはようございます。昨日、日比谷の帝国ホテルで開催された全国規模での勉強会で、1,000人以上の人が集まりました。ホテルの従業員は全員マスク着用での対応、至るところにアルコール消毒液が置かれ、物々しい雰囲気の中で行われた会合でした。現在、新型コロナウイルス感染防止のために、社員に会合出席を禁止する企業も増えてきており、我が職場が主催するセミナーや会議では、座席に余裕をもたせて、マスク着用を認め、消毒用のアルコールを設置しています。本当にこれで感染が防げるのかは疑問ですが、こうした措置を講じておくことが、来場者に対する「安心」を提供する配慮なのかとも思ってしまいます。本質的なところで何か間違っていないか、何となく違和感を感じるところです。

 

さて、本日は「仙台堀川(せんだいぼりがわ)」について紹介したいと思います。仙台堀川は、東京都江東区を流れ、隅田川と旧中川を結ぶ運河の一つです。以前紹介した神田川の御茶ノ水付近も、仙台藩が開削工事を請け負ったことから「仙台堀(せんだいぼり)」と呼ばれていますが、これとはまた別の運河を指しています。

 

仙台堀川は、清住町(江東区清澄)と深川佐賀町(江東区佐賀)との間で隅田川から分流し、東に流れて海辺新田(江東区千石)と石小田新田(江東区東陽)の間を経て、横十間川に合流しました。大横川と交差する辺りから下流は「三十間川(さんじゅっけんがわ)」とも呼ばれていました。横十間川との合流地点〔平井新田(江東区南砂)〕から東は「砂村川(すなむらがわ)」となり、その先で旧中川に合流します。現在、河川法では砂町運河と併せて仙台堀川となっています。

 

仙台堀川が開削されたのは寛永(1624年~1644年)以後とされ、主に運河として利用されてきました。江戸時代、仙台堀川の北岸に仙台藩邸の蔵屋敷があり、米などの特産物を運び入れていたことから、この名称で呼ばれていました。港区東新橋にあった仙台藩の芝口上屋敷の跡地には船着場の遺構が発見されており、仙台から蔵屋敷へ送られた物資は、そこから上屋敷に届けられていたものと思われます。

明治に入り、仙台藩の蔵屋敷は日本初のセメント工場「官営深川工場」が建てられ、現在「本邦セメント工場発祥之地」記念碑が残されています。現在、仙台堀川は大横川との合流地点から東側が埋め立てられ、延長3.7キロメートルの親水公園「仙台堀川公園」となっています。

おはようございます。今日は、中国人弁護士による新型コロナウイルス感染拡大に対する企業の対処方法に関するセミナーがあります。緊急セミナーということで、1週間前に参加募集案内を出したところ、アッという間に定員80名に達してしまいました。多くの人が集まるので、消毒用アルコールを準備しようと近所の薬局、ドラッグストアなどを回ったところ、すべて売り切れで在庫がなく、入荷するとすぐに売れてしまうとのこと。マスクにしてもそうですが、何かあるとすぐに買い占めが行われ、ネットで高額で取引がされるという、何とも醜い行為が横行します。次元の低さに何とも言えない焦燥感を覚えます。所用により、明日の瓦版はお休みします。ご了承ください。

 

さて、本日は「境川(さかいがわ)」について紹介してみようと思います。境川の川筋はほぼ現在の清洲橋通りにあたり、八郎右衛門新田(東京都江東区扇橋)で小名木川から分かれて東側に流れ、途中で横十間川と交差し、中田新田(江東区東砂)で合流していました。現在では周辺の田畑や舟運の減少によって水路の必要性がなくなり廃川、昭和5年(1930年)に道路となりました。

 

江戸時代、境川の周辺は「砂村新田(すなむらしんでん)」と呼ばれていました。万治2年(1659年)、相模国三浦郡(神奈川県葉山町)の砂村新左衛門が武蔵国葛飾郡「宝六島(ほうろくじま?)」〔江東区南砂〕を中心に436石の新田開発を行います。開拓当初は「宝六島新畠」と呼ばれていましたが、後に開拓者の名前をとって砂村新田と言われるようになりました。

 川の川幅は約19メートル、沢村新田の中央を流して田畑に用水を提供していました。北側の大塚新田・亀高村・治兵衛新田・久右衛門新田(江東区東砂、北砂)と南側の砂村新田・永代新田飛地(江東区南砂)の境を流れていたことから、境川と呼ばれました。

 

延宝9年(1681年)、江戸市中から排出されたごみの捨て場として永代島新田と砂村新田が指定され、低地の埋め立てが行われます。近郊農業としての促成栽培には、江戸の町から排出されるごみや堆肥が欠かせなかったのです。当時は難解性の化学物質や重金属などの有害物質がごみに含まれていませんので、砂村新田では江戸に野菜を供給するための近郊農業が盛んになります。砂村葱、茄子、胡瓜、西瓜などが栽培されていました

おはようございます。三寒四温というには変化があまりにも激しい今の日本列島の気温の変化です。強い寒気の影響で、西日本では雪が降っていて夕方にかけて降り続くとの予報です。立春も過ぎ、明日2月19日は二十四節気の正月の中気「雨水」です。暦の上では春、今日の東京は比較的寒い朝を迎えています。ただ、暖冬であることは間違いなく、平年より早い桜の開花が予想されています。

 

さて、本日は「小名木川(おなきがわ)」について紹介しようと思います。小名木川は東京都江東区の北部を東西に横断する全長4.9キロメートルの人工の運河で、旧中川〔小名木村(江東区大島)と又兵衛新田(江東区東砂の間)〕と隅田川〔深川西元町(江東区常盤)と深川西大工町(江東区清澄)〕を結んでいます。途中、横十間川と大横川と交差しています。運河の川幅は最大で約50メートル、最小で約26メートルとなっており、潮位の変調によって水位が変化し、どちらの方向に流れているかは定かではないと言われています。現在の河川法上では荒川水系に属し、荒川(中川)側を上流、隅田川側を下流としています。

 

小名木川は、江東地域で比較的早い段階で開削された運河です。天正18年(1590年)に徳川家康が江戸入府すると、江戸の建設が始まります。それと同時に関東各地から物資を運ぶための交通網の整備が必要となりました。特に江戸城下の市民にとって重要だったのは、塩の確保でした。当時、行徳(千葉県市川市行徳)では製塩を行う農家が多く、「行徳塩田」と呼ばれていました。

 

しかし、当時の行徳から江戸湊(日比谷入江)までの江戸湾北部は、江戸前島が江戸湾にせり出して砂州や浅瀬が広がり、船は座礁を避けるために大きく迂回せざるを得ず、前島を越えても隅田川、中川、江戸川が流れ込むために、潮流や河流などによる波や渦が発生し、航行が困難な場所が少なくありませんでした。そこで、江戸から行徳までの安全な航路の確保のための運河として開削されたのが、この小名木川です。家康の命によって、この開削に携わったのは「小名木四郎兵衛」ですが、この人物がどのような人だったのかはよく分かっていません。小名木川の名称もこの小名木四郎兵衛の名前からとられています。

 

小名木川が開削されると、行徳からの塩が安全に運べるようになり、輸送時間も大幅に短縮されました。その後、塩以外の荷物や成田参詣の人々も運ばれるようになり、交通は盛んになります。寛永6年(1629年)に小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅されました。また、新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で獲れた野菜や東北地方の年貢米なども運ばれるようになりました。更に、小名木川を中心に堅川、大横川、横十間川、仙台堀川などの整備も進み、運河としての重要性は一層高まりました。

 名木川と旧中川、船堀川の合流点である中川口には「中川船番所」が置かれ、行き交う船舶の積荷や人々の監視が行われていました。江戸時代初期には、赤穂浪士たちが渡ったとされる萬年橋の北側に「川船番所」が置かれており、その付近一帯を元番所と呼んでいました。明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い、寛文元年(1661年)に中川口に移転しました。

 

江戸時代の記録によると、小名木川の名称が使われるようになったのは大分後のことのようで、政保年間(1645年~1648年)には「ウナギサヤホリ川」、元禄年間(1688年~1704年)には「ウナキサハホリ川」、享保年間(1716年~1736年)になってやっと「オナキ川」と記載されています。

 

また小名木川は、物資輸送以外にも、小名木川以北の干拓地の排水路としての役割も担っていたようです。

おはようございます。明けても暮れても新型コロナウイルス感染のニュースでもちきりです。予想外の出来事によって日中間の行き来が途絶え、仕事にならないどころか、予定が狂ってその対応に追われる日々です。とはいえ、年度末に向けた作業を終わらせなければならず、昨日の日曜日もまた休日出勤でした。北京から東京に戻ったある中国機関の首席代表は中国政府から2週間の自宅待機を命じられ、電話での対応しかできないとのこと。本来業務に支障が出る日が続きます。

 

さて、本日は「六間堀(ろっけんぼり)」と「五間堀(ごけんぼり)」について紹介しようと思います。六間堀、五間堀ともに隅田川の東側に開削された運河で、現在はどちらも埋め立てられて消失しています。一部公園になっており、所々に昔を偲ばせる跡地もあるようですが、多くは道路に沿って住宅が立ち並んでいます。

まず六間堀ですが、これは堅川から本所松井町(墨田区千歳)辺りで南に分流し、現在の新大橋通りや深川芭蕉通りを超えて、西元町と常磐町(いずれも江東区常盤)の間で小名木川に合流していました。堀の名称は、文字通り川幅が6間(約10.9メートル)だったので名付けられました。

 

本所松井町と西森下町(江東区森下)の間、現在では小さな公園となっている六間堀児童公園辺りで六間堀より東側へ分かれていたのが五間堀です。この堀は、六間堀より分かれた後に東森下町(江東区森下)を流れて東元町(江東区森下)で堀留となっていました。五間堀の名称も、文字通り川幅が5間(約9メートル)であったことからその名が付けられました。五間堀は「瓢箪堀(ひょうたんぼり)」とも呼ばれていたようです。明治に入り、付近の地主であった元尾張藩主・徳川義宜(よしのり)によって五間堀の開削が進められ、明治10年(1877年)頃に小名木川まで貫通します。ただ昭和に入ると五間堀自体がすべて埋め立てられてしまいました。

 

この二つの堀の開削については、小名木川が慶長年間(1596年~1615年)、堅川が万治2年(1659年)の開削であったことから、ほぼ堅川の開削時期と同時期、或いは数年後であったものと思われています。江戸時代の書物、『府内誌残篇』によると、「六間堀、堅川の支流にして、堅川と同時に疎通す」とあるほか、『備考』には「五間堀、右は万治二年亥年中本所御奉行徳山五兵衛様、山崎四郎左衛門様御掛にて割堀に成りにて相成り申し候」とあります。このため、この二つの堀は万治2年頃に堅川と同時に整備されていたとも考えられます。六間堀、五間堀の開削の目的は、主に船の係留や補修のためであったものと考えられています。

おはようございます。新型コロナウイルス感染による死者が、いよいよ日本でも出てしまいました。中国渡航歴もなく、中国人との接触も見当たらなく、感染経路が特定できない状況での肺炎発症とのことです。それはそれでニュースにはなり、亡くなられた方は気の毒といわざるを得ませんが、私としては最近のこのニュースの裏で密かに動いている「何か」が気になって仕方ありません。

 

さて、本日は「横十間川(よこじゅっけんがわ)」について紹介したいと思います。横十間川は、以前紹介した「北十間川」から柳島村(墨田区業平・江東区亀戸)で分かれて南側に流れる運河で、現在では一級河川に指定されています。「天神川」、「釜屋堀」、「横十間堀」、「横十間堀川」、「南十間川」などとも呼ばれています。

 

北十間川から分かれた横十間川は、北割下水と南割下水を合わせた後、堅川、小名木川、境川、仙台堀川と交差し、石小田新田(いしおだしんでん)〔江東区東陽七丁目〕で西側に向かい、豊住町(東陽五丁目・六丁目)で平野川(大横川)に合流します。竪川と交差する地点までは墨田区と江東区の境を流れる形になっています。

この横十間川も他の隅田川東側の水路と同じように、万治2年(1659年)に、本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政によって開削されたものです。江戸城に対して横、すなわち南北に流れ、川幅が十間(約18メートル)であったことから横十間の名称が付けられました。別名で天神川と呼ばれるのは、亀戸天神の横を流れることに由来しています。開削当初は天神川と呼ばれ、その後、横十間川と称されるようになったと言われています。

おはようございます。連日連夜報道される中国発新型コロナウイルス感染のニュース。横浜港に停泊しているクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の船内で広がる感染者数は尋常ではありません。非常に感染力が強いウイルスであることは分かります。報道をみていると、重症者の多くは既往症を抱えているようですが、中国では健常者でも重篤に陥る場合もみられ、一番の不安はウイルスの正体がはっきり分からないということでしょうか。これほどまでに大騒ぎになる理由が、今一つ分からないところですが、現在の推計では致死率は2%とSARSの5分の1ほど。インフルエンザが0.1%ほどですから、その20倍と考えると、確かに恐怖を覚えるのは当たり前でしょうか。感染防止の措置も必要でしょうが、先ずはそれぞれの人が抵抗力を落とさないよう健康でいることが大事かと思います。

 

さて、本日は「本所割下水(ほんじょわりげすい)」について紹介してみましょう。墨田区の南側に位置する本所は、江戸時代初期は水田が広がる農村地帯でした。明暦の大火をきっかけに、大川(隅田川)に両国橋が架けられ、大川の東側の開発が進んだことは、以前に何回も説明している通りです。前回の竪川と同様に、この水はけの悪い地域の排水路として整備されたのが本所割下水です。

本所割下水は、もともと水田の用水路として使われていた溝を改造して割下水としていました。割下水には、現在の両国の江戸東京博物館から錦糸町方面に伸びる「北斎通り」を通っていた「南割下水(みなみわりげすい)」と、本所一丁目から錦糸四丁目辺りまでの「春日通り」を流れていた「北割下水(きたわりげすい)」の二本の割下水がありましたが、一般的に本所割下水と呼ばれるのは南割下水を指していたようです。

 

本所割下水が整備されたのは万治3年(1660年)、他の本所界隈の用水路とほぼ同じ時期です。南北両割下水ともに「大横川」と交差し、「横十間川(よこじゅっけんがわ)」に合流しており、直接大川には流れ込んでいませんが、この横十間川が最終的に大川に合流していました。本所割下水の川幅は一間(1.8メートル)から二間(3.6メートル)足らずで、道路の真ん中を掘り割った「堀割」であったことから割下水と呼ばれていました。

 

割下水は確かに排水路ではありましたが、生活用水等の汚水を流すわけではなく、主に雨水など自然水の排水路であり、川魚や沢蟹、蛙など多くの生物が棲んでいました。江戸時代に「井出よりも蛙の多い割下水」という川柳がありますが、京都の井出の玉川より蛙が多いといって、その蛙の多さを風刺しています。この割下水も今では暗渠となって姿を消してしまいました。

おはようございます。先週の日曜日から昨日の建国記念日の祝日まで、本来は月曜日の代休取得も含めて4連休のはずが、結果として出勤するほどの忙しさでした。さすがに土曜日は出勤はしませんでしたが、家でパソコンと向き合い作業に勤しんでいたことは事実です。我々のような組織は、中国が動きを止めている今は、本来は休み時なのですが、調査部はそんな悠長なことは言っていられません。情報の収集・分析・発信はもちろんのこと、各所からの問い合わせにも対応せざるを得ず、それに加えて委託事業の年度末報告書が二本、外部から依頼のあった原稿、毎月の月刊誌の編集、そして中国の新たな外資政策の法律施行に伴うハンドブックの作成と、3月末を控えてすべてを完成させなければなりません。私を含め調査部員は7名、それぞれ担当がいるとはいえ、そのすべてを統括する部長としての仕事は楽ではありません。日々刻々と情報が舞い込んでくる新型コロナウイルス感染、その経済への影響も我々の重要な仕事の一部として重く圧し掛かってきています。

 

さて、本日は「竪川(たてかわ)」について紹介していきたいと思います。竪川は東京都墨田区と江東区を流れる人工の河川で、江戸城に向かって縦(東西)に流れていることから、この名称となりました。

 

本所元町(墨田区両国一丁目)と本所千歳町(墨田区千歳一丁目)の間で隅田川から分かれた竪川は、真っ直ぐ東に流れ、亀戸村(江東区亀戸九丁目と大島九丁目)で旧中川に合流していました。現在もその流れは変化していませんが、全区間で上空には首都高7号線が走っており、大横川との交差地点から東側はほぼ暗渠となっています。

 

竪川は、他の隅田川東側の河川と同様に、明暦の大火を契機として、万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の命により開通させた河川です。途中、大横川、横十間川(南十間川)などの河川と交差しています。竪川は、主に低湿地帯の排水路としての役割を担っていました。また、翌万治3年(1660年)の天下普請によって、神田川の拡幅工事も同じ時期に行われており、小名木川などとともに河川舟運としての補助的な役割も果たし、深川地域の発展にも大きく貢献したものと思います。

 川が流れる江東地域は、江戸時代に整備された竪川などの水運に優れていたことから、明治以降は工業地域として発展していきます。その一方で、工業用水に地下水を利用したため、地盤沈下などの問題も発生しました。

おはようございます。昨日は急用により瓦版がお送りできず、失礼しました。一昨日5日(水)、夕方5時からのテレビ東京の「夕方サテライト」というニュース番組で、前日の夕方に新型コロナウイルスの日本企業への影響について取材を受けた私が出演しました。インタビューを受けた中でほんのわずかな時間でしたが、日本の全国版のメディアで放映されたのは初めてのことかと思います。中国メディアやNHKの地方版での放映は過去ありましたが...。中国発の新型コロナウイルスによる感染拡大は、拡大する一方で収束する気配はいまだ見えません。当然、経済への影響は、長引けば長引くほど大きくなります。日本経済、ひいては世界経済が大きく後退する事態にもなりかねません。中国が開発中の生物兵器が漏れ出した、中国の発表する数字は信用できないなどといった噂も飛び交い、いったいどの情報が正しいのか見当もつかない中では対策を打つ手立てはありません。今は悪者探しをするよりも、一刻も早い解決方法を見つけ出すのが先決です。勝手な憶測に惑わされず、正しい情報発信の把握に努めることが大切です。来週から今月末にかけては、今まで以上に多忙が続くため、瓦版の発信も十分にできないこと、ご容赦ください。取り急ぎ来週月曜日2月10日は休刊です。ご理解の程、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は「大横川(おおよこがわ)」について紹介しようと思います。大横川は東京都墨田区から江東区を流れる運河であり、延長7.11キロメートルの一級河川で、かつては「大島川(おおしまがわ)」と呼ばれていた部分も含まれています。現在は、昭和40年(1965年)の河川法の改正で大横川に統一されていますが、派流として「大島川西支川」、「大島川東支川」、「大島川水門」等の名称は依然として残っています。




墨田区の業平橋付近、江戸時代の地名では中之郷八軒町(なかのごうはちけんちょう)〔墨田区吾妻橋三丁目〕と中之郷村(なかのごうむら)〔墨田区業平一丁目〕辺りで、前回紹介した北十間川から分離して南に流れるのがこの大横川です。「竪川(たてかわ)」、「小名木川(おなぎがわ)」、「仙台堀川」と交差し、「横十間川(天神川)」と合流し、江東区木場付近で西に流路を変えます。「大横川南川支川」を分流し、「平久川(へいきゅうがわ)」と交差します。江東区永代で「大島川西支川」を合わせ、その先で隅田川に合流します。以前は、仙台堀川を過ぎると、「平野川」と呼ばれていました。

大横川は、もともと江戸時代に埋め立てられた場所にできた運河で、竪川と大川(隅田川)の間の「十万坪」と呼ばれる葦原を流れていました。その後、竪川との交差地点から北十間川まで延長されました。これもまた明暦の大火後の本所・深川開発に伴って、万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政により開削されたものです。

 

大横川の名称は、江戸城から見て横(南北)に流れることに由来しています。竪川を境として北側を「北横川」、南側を「南横川」と呼び、更に小名木川より南は元禄8年(1695年)、乙亥(きのとい)に開削されたことから、「亥の堀」とも称されていました。

 

その後、周辺の地域が地下水汲み上げによる地盤沈下のために海抜ゼロメートル地帯となって、今では堰き止められて常時排水することで水位が下げられています。


おはようございます。おはようございます。ニュースを見れば明けても暮れても新型コロナウイルスの話ばかりで、昨日も某民放テレビ局から急遽今回の感染症が日中経済関係にどう影響するのかについてのインタビューを受けました。まだまだ感染が拡大し続けていて収束の気配が見えない中で、その影響を明言することはできませんが、当然のことながら収束が遅ければ遅いほど、経済に対する悪影響は大きくなります。2003年のSARSの時は、中国がWTOに加盟し、経済情勢も上り調子であったために、発生から収束までに8カ月余りかかったにもかかわらず、経済が落ち込むことはありませんでした。しかし、今回は状況が違います。中国経済も減速傾向が顕著になる中で、更なる減速を加速させる可能性は大きく、日本企業にとっても先行きが見えない状況であることは間違いありません。とはいえ、状況が状況だけに今後どう推移するのかは分かりません。早期の収束を祈るばかりですが、冷静に対処するためにも、正しい情報把握に努め、適宜適切な対応策を検討しておくことが大事です。性急な判断は禁物です。

 

さて、本日は「北十間川(きたじっけんがわ)」について紹介したいと思います。北十間川は、江戸時代初期に開削された運河で、現在では荒川水系の一級河川となっています。総延長3.24キロメートルで、西側の隅田川と東側の旧中川をつないでいます。横十間川との合流点より西側は墨田区、東側は墨田区と江東区の区界になっています。北十間川の名称は、本所の北を流れる川幅が十間(約18.18メートル)の川であったことに由来しています。

 

明暦の大火後の万治元年(1658年)、本所開発の一環として木材輸送のために、隅田川の新小梅町(しんこうめちょう)〔墨田区向島一丁目〕と中ノ郷瓦町(なかのごうかわらちょう)〔墨田区吾妻橋一丁目〕の間から東に入る堀が開削されます。これが「源森川(げんもりがわ)〔源兵衛堀〕」です。この源森川に続く形で、寛文3年(1663年)に、東南に向かって開削されたのが北十間川です。北十間川の開削の目的は、主に農業用水確保のためでした。両河川の結節点からは南に向かって「大横川(おおよこがわ)」が流れており、北からは曳舟川が合流していました。源森川から続く北十間川は、請地村(うけじむら)〔墨田区押上・文化〕と柳島村(やなぎしまむら)〔墨田区業平(なりひら)〕の間を東に流れ、亀戸村〔江東区亀戸八丁目〕で旧中川に合流していました。

当初、源森川と北十間川はつながっていましたが、隅田川の増水時には両河川流域の洪水被害が著しいことから、寛文12年(1672年)に堤が築かれ分断されてしましました。その後、明治18年(1885年)に住民の要請により源森川と北十間川が再び接続されます。これによって隅田川と旧中川が最短距離で結ばれ、鉄道貨物との連携などで下町の物流に大きな役割を果たしていました。

 

現在は大横川との分流点に北十間川樋門が設置され再び東西が分断されているほか、大横川や曳舟川などのかつての接続河川の多くが埋め立てられおり、水運の機能はほとんで果たされていません。北十間川には、隅田川の寺島村〔墨田区堤通一丁目〕と須崎町〔墨田区向島五丁目〕との境界付近から南東に分流し、曳舟川と交差した後、押上村〔墨田区押上一丁目〕で北十間川に合流した「古川(ふるかわ)」も接続していました。

おはようございます。中国の新型コロナウイルス感染に対して、いよいよWHOが「国際緊急事態」宣言を発表しました。ここ数日は1,000人規模で増え続ける中国での感染者数は8,000人を超え、171人が死亡、日本でも感染者が14人に達しています。米中対立や香港のデモの話題は影が薄くなり、中国関連のニュースはこのウイルス問題で持ち切りです。このニュースの裏で一体何が起きているのでしょうか? 来週月曜日、火曜日は朝から所用があり、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「上下之割用水(かみしものわりようすい)」について紹介しようと思います。江戸時代、隅田川東側の用水確保のために、「小合溜井(こあいためい)」を水源とする用水路が開削されました。これが上下之割用水で、「大用水」、「大井堀(おおいぼり)」とも呼ばれています。

 

小合溜井は、享保14年(1729年)に八代将軍徳川吉宗の命により、紀州藩士・井沢弥忽兵衛(いざわやそべい)が古利根川の一部を堰き止めて作った用水池です。今の東京都葛飾区と埼玉県三郷市の県境〔葛飾区水元〕に位置しています。江戸川区近辺の村々は、江戸時代を通じて羽生領川俣用水組に属していましたが、流末であったため、そもそも用水供給が安定していませんでした。この用水池を作ったきっかけは、前年の享保13年(1728年)に発生した水害で、灌漑用水確保とともに水害防止も設置する目的の一つとなっていました。

 

下小合村にある小合溜井の圦樋(水門)から引かれた上下之割用水は南側に流れ、新宿(にいじゅく)〔葛飾区新宿四丁目〕で東側に「小岩用水」を振り分け、本流は少し下った曲金村(まがりかねむら)〔葛飾区高砂七丁目〕で「東井堀(ひがしいぼり)」〔東用水〕を分水します。その後、細田字三角〔葛飾区細田三丁目付近〕で「中井堀(なかいぼり)」と「西井堀(にしいぼり)」に分かれます。

小岩用水は、江戸川区内で上小岩、中小岩、下小岩に至り江戸川に合流していました。東井堀は松本、鹿骨(ししぼね)を貫いて谷河内(やごうち)、南篠崎などの境界を下って、前野から江戸川に合流していました。中井堀は本一色(ほんいっしき)を二分しながら大杉を経て春江と一之江の境界を流れて新川(しんかわ)につながり、西井堀は西小松川から逆井(さかさい)へと南下して中川に注いでいました。しかし、これらの用水は供給が十分であったとはいえず、渇水期には水不足になやまされていたようです。

 

主として農業用排水路としても利用されていた上下之割用水も今ではその役割を終え、ほとんどが暗渠になっています。

2020年2月

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