東藝術倶楽部瓦版 20201225:【江戸の町その52】逆転式一方通行は田中角栄への配慮?-「神楽坂」

おはようございます。コロナウイルスに始まり、コロナウイルスに終わる1年となった今年ですが、世界のトレンドも大きく変わろうとしています。学者によってはトレンドが変わるのではなく、これまでの流れがより先鋭化しただけとの見方のありますが、先鋭化したことがトレンドの変化だとも言えなくもありません。米国をはじめとする欧米先進国の凋落と、中国をはじめとする新興国の台頭が、よりはっきりと見えてくるようになりました。欧米先進国と新興国との狭間で、今後日本はどう立ち回ればよいのでしょうか。

 

さて、本日は「神楽坂(かぐらざか)」について紹介していきたいと思います。神楽坂は東京都新宿区の牛込地域西南部に位置する坂、及びその坂を中心とした地名です。内堀通りの田安門付近から北に入る早稲田通りの神楽坂下交差点(外堀通り交差点)から神楽坂上交差点(大久保通り交差点)までの短い区間で、比較的急な坂となっています。現在は神楽坂通りと呼ばれています。

 

この神楽坂は江戸時代以降に発展した街で、三代将軍・徳川家光の時代に牛込御門(九段坂下交差点付近)と若狭小浜藩酒井家下屋敷(東京メトロ東西線・神楽坂駅付近)を結ぶ形で開通しました。江戸幕府開府以降、この一帯には幕府旗本の武家屋敷や寺社が多く配置されていきましたが、もともとは町屋が多く存在していたそうです。江戸城の外堀が開削された際に「神楽坂河岸が設けられ、そこが水運の物流拠点となり、後の神楽坂の発展につながっていきました。八代将軍・吉宗の時代には、政治顧問であった荻生徂徠や戯作者の太田南畝などが牛込地域に住み、毘沙門天善国寺が麹町から神楽坂に移転してくると、寅の日の縁日には大いに賑わっていたそうです。また、行元寺や赤城神社の周りでは岡場所としても知られるようになりました。

明治維新以降は、武家屋敷から官庁の役人や企業の社員の居住地となり、神楽坂沿いには商店が立ち並び、東京で最初の夜店がこの地から生まれました。行元寺の岡場所は花街へと発展し、尾崎紅葉、夏目漱石、坪内逍遥など近代文学の祖と言われる文人たちが住むようになっていたことは、すでの紹介した通りです。大正12年(1923年)の関東大震災では被害はなかったものの、昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼け野原になってしまいます。戦後、神楽坂の花柳界はいち早く復興し、昭和30年代にはピークを迎えました。現在は、独特の江戸の風情を残す取り組みが行われ、格式高そうな料亭やお洒落なレストランなどで賑わっています。

 

神楽坂の名称の由来については、高田穴八幡の旅所があって祭礼で神輿が通る際に神楽を奏したという説、若宮八幡の社の神楽の音がこの坂まで聞こえたからという説、元和年間(1615年~1624年)に津久戸明神が牛込の地に移転した時に神楽を奏でると重い神輿がこの坂を上ることができたからという説があります。いずれにせよ、神楽坂の名称が付けられたのは、江戸時代初期のことと思われます。

 

神楽坂は一方通行の通りですが、時間によってその方向が変わる全国でも珍しい「逆転式一方通行」の道路です。午前中は早稲田側の坂上から飯田橋側の坂下に下る一方通行で、午後はその逆に坂下から坂上に上る一方通行となります。この方式が採用された理由として、故田中角栄元首相が目白台の自宅と勤務地である永田町との間の出勤(午前)と退勤(午後)に便宜を図ったからだという説がありますが、これはタクシー運転手の間で広められた都市伝説だそうです。実際は、車の交通量の増大に伴う大渋滞を緩和するために採用された措置とのことです。

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このページは、システム管理者が2020年12月25日 09:15に書いたブログ記事です。

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