東藝術倶楽部瓦版 20210201:【江戸の町その62】外堀兼上水源として-「溜池」

 
東藝術倶楽部会員各位


はようございます。今朝の東京は曇り、通勤途中でポツリポツリと雨が少し降ってきましたが、傘をさすほどの雨ではありませんでした。新型コロナ感染者は減ってはきているものの、まだ油断はできません。今週は明日から3日間は在宅勤務、会議や打ち合わせも自宅からオンラインで参加です。普段家庭では目にしない中国語で仕事をしている姿を、娘が羨望の目でみていたのは嬉しかったですね。


さて、本日は「溜池(ためいけ)」について紹介してみたいと思います。溜池は、江戸時代に江戸城の外堀と上水源を兼ねて造られた細長い瓢箪型の池で、今の赤坂見附から虎ノ門に至る場所に存在していました。現在は外堀通りの一部で、ちょうど千代田区と港区の境目になっています。

慶長11年(1606年)、徳川二代将軍・秀忠の命を受けた和歌山藩主・浅野幸長(あさのよしなが)〔後に広島藩主〕が、家臣の矢島長雲(やじまちょううん)に命じて、現在の虎ノ門にある特許庁前交差点付近に堰を設けて水を堰き止め、赤坂御門に至る大きな人造湖を造ったのが溜池の始まりです。長さ1.4キロメートル、幅45~190メートルといわれており、かなり大きな池であったことが分かります。その形から「ひょうたん池」とも呼ばれていました。

堰を越えて流れ落ちる水の音がかなり大きかったようで、当時は「赤坂のドンドン」とも呼ばれており、その後、琵琶湖の鮒や淀川の鯉を取り寄せて放したり、蓮の花を植えて花を観賞したり、あるいは蓮根を採取したりしたと言われています。一時は上野の不忍池にも匹敵する江戸の名所として知られるようになりました。


矢島長雲は自分の功績を後世に伝えるため、池の堤に紋所となっている榎を植えます。今の米国大使館から赤坂ツインタワー側に下る坂を「榎坂」と呼ぶのは、これに由来しています。また、溜池の南岸に池の土手を補強する目的から桐の木も多く植えられ、その辺りは「桐畑」と呼ばれていました。

宝永4年(1707年)、そして享保年間(1716年~1736年)には溜池の一部が埋め立てられ、町屋や馬場、紺屋物干場が設置されます。その頃から水質も次第に悪化し、明治8年(1875年)から本格的な埋め立てが始まり、やがて干潟となりました。明治以降、溜池としての役割を終え、現在では外堀通りの一部となっています。山王神社の下の鳥居のそばにあったかつての溜池を偲ばせる暗渠の水の流れも、今はなくなっています。溜池の名称も、交差点名や駅名などで残っている程度です。

高見澤

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