東藝術倶楽部瓦版 20210120:【江戸の町その59】鎌倉鶴岡八幡宮から分霊-「市谷亀岡八幡宮」

 
東藝術倶楽部会員各位


はようございます。今日は大寒です。東京都心も朝からかなり冷え込み、手袋なしで歩くにはすこし辛いと思うほどでした。新型コロナが猛威を振るう東京ですが、まだ幸いにも私の周辺で罹患した人は聞いていません。ワクチンが今年5月頃には接種できるとの想定ですが、果たしてその効果に期待はできるのでしょうか? 理屈から言えば、インフルエンザと同じように変異した場合に、効果がないことも十分に考えられます。理屈が通らないときは、根本的な考え方に問題があると思った方がいいかもしれません。


さて、本日は「市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)」について紹介しようと思います。市谷亀岡八幡宮は、東京都新宿区市谷八幡町にある神社で、御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)〔応神天皇〕、気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)〔神功皇后〕、與登比売神(とよひめのかみ)〔応神天皇の姫神〕です。社格は郷社とされています。

この神社は、文明11年(1479年)に、太田道灌が江戸城築城の際に、西方の守り神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりとされています。鎌倉の「鶴岡」に対して、この神社は「亀岡」と称しました。分霊当初は現在の千代田区に属する市谷御門の内側に設置されていましたが、戦乱によって荒廃します。

江戸時代になり、寛永13年(1636年)ごろに江戸城の外堀が出来たのを機に、現在の場所に移転しました。市谷亀岡八幡宮は、三代将軍・徳川家光や家光の側室で五代将軍・綱吉の母である桂昌院などの信仰を得て再建されます。江戸時代には「市谷八幡宮」と呼ばれ、境内には茶屋や芝居小屋が立ち並び、特に例祭のときには多くの人で賑わっていたようです。

明治維新以降、神仏分離令により別当寺であった「東円寺」が廃寺となり、芝居小屋なども撤退、かつての賑わいは失われていきます。太平洋戦争の際には神木なども含め焼失しますが、昭和37年(1962年)に現在の社殿が再建され、今でも現地の人からは信仰を得ています。境内には、茶ノ木稲荷神社、金毘羅宮、出世稲荷神社がありますが、もともとは茶ノ木稲荷神社の地に市谷亀岡八幡宮が市谷御門内から遷座されたと言われています。

高見澤

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