東藝術倶楽部瓦版 20210118:【江戸の町その58】江戸城西の守りの要-「市谷」

東藝術倶楽部会員各位

おはようございます。先般、瓦版を東藝術倶楽部ホームページのブログに直接貼り付けるようお知らせしましたが、本日は皆様に会員に関する事項(詳細略)をお伝えする必要があることから、取り急ぎ瓦版をお送りしたいと思います。次回以降は、前回お伝えした通り、ホームページでご覧ください。


さて、本日は「市谷(いちがや)」について紹介ましょう。市谷は、現在の東京都新宿区にある地域名で、駅名などでは「市ヶ谷」と記されることもあります。JR市ヶ谷駅の西側に広がる台地を中心とした地域で、靖国通りや外苑東通り、大久保通りなどの大通りに接しています。ただ、市谷という地名は存在せず、市谷を冠した「市谷○○」という地名は数多く存在しています。

徳川家康が江戸入府後、江戸城の築城や街道整備に伴って、未開の地であった新宿辺りにも多くの武家屋敷が置かれるようになります。江戸城の西側の守りの要として、市谷は重要な地域とされました。市谷元村町には御三家の一つ尾張徳川家の広大な上屋敷があり、市谷加賀町はその名称からも分かるように金沢藩前田光高夫人・大姫の屋敷がありました。このほか、市谷仲之町や市谷甲良町などには下級武士の大縄地が置かれていました。

市谷の地名の由来には諸説あります。まず、「市谷孫四郎の領地」との記録が鎌倉時代の正和元年(1312年)の鶴岡八幡宮文書にあり、そこから市谷の地名となったという説です。ただ、市谷孫四郎という人物については、平安時代の守護代とも言われていますが、実際のところはよく分かりません。

次に、室町時代に、現在の市谷八幡町にある「市谷亀岡八幡宮」の門前で毎月6回開かれていた市に由来する「市買(いちがい)」がなまったという説です。そして、近くに四谷という地名があるように、この付近で「一番の谷」、「一の谷」に由来する説です。


市谷の周辺には武士の仕事にまつわる地名も多く、「箪笥町」の「御箪笥(おたんす)」は甲冑、弓矢や鑓などの武器のことで、それを取り扱う同心が住んでいました。「払方町」や「納戸町」は将軍家の金品を扱う「御納戸」の同心が拝領していた地域。「細工町」は江戸城内の建具や道具などの製作・修理を行う「御細工」の同心が住んでいた地域です。

明治11年(1878年)の郡区町村編制法により東京15区が成立した際には、市谷は牛込区に編入され、昭和22年(1947年)の地方自治体法制定による23区への再編まで続きます。市谷の地形が台地上からその縁の斜面まで続いており、元祖山の手の地域として現代においても高級住宅街となっています。

高見澤

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-tb.cgi/460

コメントする

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このアーカイブについて

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ