おはようございます。先週の出張から帰って、最初の出勤日の昨日も、結局夜遅くまで残業してしまいました。疲れがとれないまま、次の事業に向けて実務的な作業に入りました。本当にブラックな仕事場だとつくづく感じる次第です。
さて、本日も引き続き江戸の治安部隊について解説していきたいと思います。
「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように、江戸では火事が割と頻繁に起こり、江戸では防火や消防に対する危機意識が幕府ばかりでなく、町民の間でも高まっていました。町の消防組織については、改めて紹介するシリーズを設けますが、ここでは「町火消人足改方(まちびけしにんそくあらためかた)」について紹介しておきましょう。
享保5年(1720年)に大岡忠相の答申に基づいて「いろは四十七組(後に四十八組)」で知られる「町火消」が設置されました。当初、町火消は威勢のよい典型的な江戸っ子で組織されていたものですから、中々統率をとるのが難しかったようです。そこで幕府は江戸町奉行所に町火消の防火体制の指揮・指導に当たる町火消人足改方を寛政9年(1797年)に新設します。町火消人足改方は町火消の指揮・指導のほか、町火消間の「消口争い(けしくちあらそい)〔消火活動時の巧妙争い〕」などの調停や取締りにあたりました。
「町火消人足改与力」の定員は南北奉行所にそれぞれ2騎でしたが、毎年冬の時期11月~3月は3騎体制になっていました。今でもそうですが、火を使う機会が増え、気候的に乾燥する冬場は特に火事の発生が多かったからでしょう。町火消人足改与力は、普段は継裃に槍持、草履取、若党(わかとう)、挟箱(はさみばこ)持を連れて出勤し、火事の時には挟箱に入れてある火事場頭巾、火事羽織、野袴に着替えて出動しました。
町火消人足改与力の配下としては、町火消人足改同心がおり、こちらの定員は南北奉行所それぞれ4名で、こちらも与力同様に11月~3月の間は6名体制になっていました。
町火消人足改方は町火消からの付け届けが多かったことから、生活は比較的楽だったようです。
高見澤