東藝術倶楽部瓦版 20201214:【江戸の町その49】創作物語で祟り?-「四谷怪談」

おはようございます。ここ東京都心でも朝晩はだいぶ冷え込むようになりました。新型コロナウイルスが広がる前は、毎年インフルエンザの予防接種が推奨されていたわけすが、正直なところ私自身は1回も受けたことはありません。北京駐在中も外国人がよく受診する医療機関に委託し、海外からワクチンを取り寄せて接種するよう職場が手配し、そのコストも職場負担になっていたにもかかわらず、受けませんでした。ですが、それでもインフルエンザに罹った兆候もなければ、熱を出して寝込んだことはありません。逆に予防接種を受けた人がインフルエンザに罹患するというハプニングもありました。何が正しくて何が間違っているのか、よく分からない世の中になりました。

 

さて、本日は「四谷怪談(よつやかいだん)」について紹介したいと思います。四谷怪談は、元禄時代(1688年~1704年)に実際にあったとされる事件を基に創作された怪談話です。四谷怪談と言えば、鶴屋南北が書いた歌舞伎狂言の『東海道四谷怪談』が有名で、これが江戸中村座で初めて演じられたのが文政8年(1825年)のことです。ただ、それ以前には文化3年(1806年)の曲亭馬琴による『勧善常世物語(かんぜんつねよものがたり)』や文化5年(1808年)の柳亭種彦(りゅうていたねひこ)による『近世怪談霜夜星(きんせいかいだんしもよのほし)』などの作品があることから、『東海道四谷怪談』はこれらの作品を基にして書かれたのではないかと言われています。

 

現在の新宿区四谷左門町には、四谷怪談に所縁のある「御岩稲荷田宮神社」と「御岩稲荷陽運寺(よううんじ)〔通称:御岩稲荷〕」が道を挟んであります。この田宮神社は田宮家の跡地とされ、明治12年(1879年)に火災で焼失、中央区新川に移され、その後戦災で新川の田宮神社が焼失したのちに、戦後新川に再建されるのと同時に、四谷左門町にも再興されました。一方の陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院で、境内には「お岩様縁の井戸」や「お岩様縁の祠」があったと伝えられています。

 

こうした事実をみれば、『東海道四谷怪談』の舞台があたかも四谷左門町にあったかと思うのですが、実はその舞台は雑司ヶ谷四谷町という場所で、現在の豊島区雑司ヶ谷とされています。これがなぜ四谷左門町に所縁のある神社や寺院が建てられたのかといえば、お岩様の父親が赤穂藩士(塩冶藩士)の「四谷左門」という実在の人物だったとされ、その屋敷が今の左門町にあったとのことから、ここにお岩様が祀られたものと思われます。この四谷左門が『東海道四谷怪談』に登場するお岩様の父で、御先手鉄砲組同心の「田宮又左衛門」という設定です。

 

又左衛門の一人娘の岩は容姿性格ともに難があり、婿を迎えることがなかなかできないことから、浪人の伊右衛門を半ば騙した形で田宮家の婿養子として迎え岩を妻にします。しばらくして伊右衛門は上司の与力・伊藤喜兵衛の孫・梅に惹かれ、伊右衛門は喜兵衛と結託して岩を騙して付議密通の罪をきせて田宮家から追い出しにかかるます。毒を盛られて容貌が崩れた岩は狂乱して死に、付議密通の相手も伊右衛門の手によって殺され、岩の死体と一緒に戸板にくくりつけて川に流します。その後、田宮家には不幸が続き、伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられ狂乱して、非業の死を迎えるというストーリーです。

『東海道四谷怪談』が初めて演じられた2年後の文政10年(1827年)に町年寄の孫右衛門と茂八郎が幕府に提出した調査報告書『文政町方書上(ぶんせいまちかたかきあげ)』には、『東海道四谷怪談』を基に作られたと思われる「御岩稲荷由来書上」が記されています。四谷左門町に伝わる逸話として記されたもので、同じような話が書かれています。この話の時代設定は貞享年間(1684年~1688年)で、岩は発狂して失踪、その後岩の祟りにより伊右衛門を含む18人が非業の最後を遂げ、田宮家は断絶するというものです。

 

実際には、田宮家は現在まで続いており、田宮家に伝わる話としては、同家所縁の女性の失踪事件が怪談として改変され、当時話題となった不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという話や、以前瓦版でも紹介した砂村隠亡堀に心中者の死体が流れついたとの話なども加味されて、怪談話として仕上げられたということでしょう。

 

『東海道四谷怪談』の「東海道」については諸説あり、この怪談話が忠臣蔵と関連した話に仕上げられていることから、赤穂と江戸とをつなげたイメージを持たせたとか、藤沢の四谷という地名を表向きとして見せかけたとかの、よく分からない解説がみられます。余談ですが、歌舞伎や演劇などで「四谷怪談」を演じる際に、御岩稲荷陽運寺にお参りしておかないと何らかの事故が起きるとの噂があります。これがお岩様の祟りだということなのでしょうが、創作話の主人公が祟るというのも理解を超えた世界の話です。

 

ちなみに、『東海道四谷怪談』が文政8年に初めて演じられた日が7月26日だったそうで、この日は「幽霊の日」とされているとのことです。

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このページは、システム管理者が2020年12月14日 09:47に書いたブログ記事です。

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