東藝術倶楽部瓦版 20201204:【江戸の町その46】細くて急勾配の九段坂-「九段」

おはようございます。だいぶ寒くなりました。二十四節気の小雪の時期が過ぎ、来週月曜日12月7日からは大雪の時期になります。やっと冬らしい寒さになったのですが、気温と湿度の低下で新型コロナウイルスやインフルエンザの感染拡大が懸念されているところです。現在の日本の感染症対策を含むすべての政策が科学的根拠ではなく、政治的配慮が最優先されていることに不安を覚えるばかりです。経済を回すことと国民の健康を守ることは、本来は両立するものなのですが、現在の貨幣経済の下では矛盾するものとなっています。

 

さて、本日は「九段(くだん)」について紹介しようと思います。九段は東京都千代田区の北西部に位置する地域で、麹町台地から下町に下る「九段坂(くだんざか)」にその地名の由来があります。現在は九段北1~4丁目及び九段南1~4丁目という行政区分になっていますが、駅名や交差点名に使われている九段下や九段上、或いは九段坂下や九段坂上といった呼称の方が親しみやすいかもしれません。

 

江戸時代、九段坂はその名の通り9段の石垣を築き、9層の階段式の道路になっていました。現在よりも急勾配で徒歩でしか通行できなかったようで、これが明治期に階段をなくして坂道になりました。この坂に沿って、「九段屋敷」と呼ばれる江戸城に勤める役人のための長屋が置かれていました。

 

古くは「飯田町坂」、「飯田坂」などとも呼ばれ、九段坂上からの眺望は素晴らしく、江戸湾はもとよりその先の房総半島まで見渡せることができたそうです。ただ、当時の九段坂は牛ヶ淵(うしがふち)の崖っぷちを通る細い道で、その一本北側を登る「中坂(なかざか)」の方が広く、町屋が建ち並ぶ賑やかな通りだったようです。

 

江戸初期からこの辺りは「元飯田町(もといいだまち)」と呼ばれ、戯作者の曲亭馬琴も住んでいたことがあり、彼が硯を洗ったといわれる井戸が残っています。また、幕府が江戸末期に設けた洋学研究機関の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)などもあったようです。

現在は九段坂沿いに靖国神社があります。毎年3月下旬には桜が満開を迎え、道を挟んだ江戸城北の丸の田安門から千鳥ヶ淵辺りまでは多くの花見客で賑わいます。また、北の丸にある武道館では有名校の卒業式・入学式が行われています。

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このページは、システム管理者が2020年12月 4日 09:11に書いたブログ記事です。

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