東藝術倶楽部瓦版 20160117 :頒暦は朝廷(土御門家)から江戸幕府天文方(渋川家)へ

 

おはようございます。昨日は朝から業務多忙のため、瓦版をお送りすることができず、失礼しました。また、来週は所用のため瓦版をお送りすることができませんので、ご了承ください。

 

それにしても寒い日が続きますね。各地では大雪で困った方も少なくなかったかと思いますが、東京は少し雪がちらついただけで、積もるまでには至りませんでした。今日は寒さも緩むようですが、引き続き意識をもって行動することが大事です。

 

さて、それでは前回の続きといきましょう。

貞享元年(1684年)3月、800年の長きにわたって使われてきた宣明暦が廃止され、貞享2年(1685年)から貞享暦(大和暦)が採用されることになったことは、前回お話しした通りです。この辺りのやりとりは、V6の岡田准一主演(「二代目安井算哲」こと「渋川春海」役)の映画「天地明察」に詳しく描かれているので、ご覧になっては如何でしょうか。

 

近松門左衛門の浄瑠璃で『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』という物語があります。これは京都の大経師家の若妻おさんと手代の茂兵衛の姦通を扱ったものです。浄瑠璃では、京都烏丸通りの大経師・浜岡権之助の妻おさんがひょんなことから手代の茂兵衛と関係をもってしまうことになるのですが、最終的にこの二人の命は救われます。しかし、この物語は「浜岡権之助改易事件」という実際に起きた事件を題材にしており、姦通した二人は磔となり、大経師・浜岡家は断絶となっています。

この事件は天和3年(1683年)に起きています。改暦を目前に浜岡権之助は、暦の板行権(出版権)の独占を江戸奉行所に直接願い出ましたが、本来であれば本業務の所管は京都所司代です。つまり京を所管する京都所司代を差し置いて江戸奉行所に板行権を願い出たことに対する京都所司代の怒りが、表向きは姦通事件として浜岡家断絶に至ったというのが事実であったようです。

 

中国でもそうですが、本来「暦」というのは「天子」が司り、民衆に下知するものとして取り扱われてきていました。綿密な計算と長きにわたる計測値の結果から、日食や月食を含む天文の動きを予測して吉凶を占い、人々の生活や生産活動に大きな影響を与えます。その天文の動きが長い時間の誤差が積み重なり、古い暦による予測とはズレが生じます。だからこそ「改暦」が必要になるのですが、民衆の支配権に直接かかわる事柄なので、当然そこには京の朝廷と江戸の幕府との間で暦をめぐって主導権争いが生じることになったのです。

 

貞享暦への改暦の功により、渋川春海は江戸幕府が新たな職制として設けた「天文方」に任命され、以降、渋川家が幕末まで天文方を世襲することになります。もっとも天文方は渋川家独占ではなく、猪飼家や西川家など数家が併存していました。

 

こうして頒暦の主導権は幕府天文方へと移り、以降、編暦は天文方、暦注は土御門家がそれぞれ担当するようになりました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年1月17日 16:23に書いたブログ記事です。

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