おはようございます。一昨日のトランプ次期大統領の新聞記者会見、皆さんはご覧になってどう思われたでしょうか?確かにグローバル化を推進している現体制下で政権運営を担っている人や、唯物史観に染まっている人たちからすれば、トンデモ発言と捉えられても仕方ないかと思うような話です。しかしよくよく考えてみると、米国民の雇用確保が第一、米国を豊かにすること優先という主張はごく当たり前のことであり、一家の主であれば誰もが先ずは家のことを大事に考えるでしょう。それがグローバル化だといって、他の家のことまで口出しするのは余計なお世話というものです。
さて、本日は暦の原稿を彫りつけて印刷・出版する専門業者であった「大経師(だいきょうじ)」についてご紹介したいと思います。
この大経師が印刷・出版した暦を「大経師暦」と呼びます。大経師は造暦に当っていた賀茂・幸徳井両家から新暦を受け、大経師暦を発行する権利が与えられ、すなわち宮中御用を務めていることから、諸役を免除されるなどの特権をもっていました。
貞享2年(1685年)に貞享暦に改暦されるまでは公式的には宣明暦に基づいて暦が作成されていたわけですが、この暦は天皇の命を受けて暦家が原案を作り、それを基に大経師をはじめとする特定の暦屋が印刷頒布・販売する体制がとられていました。すなわち建前上、暦は朝廷の下に管理されていたことになります。ところが実際には各地で暦師が勝手に暦を推算していたようで、各地の暦本には相違がみられます。朝廷は地方暦師による勝手な開版の取り締まりを大経師・浜岡権之助に命ずる(明暦4年:1658年)など、朝廷による造暦・頒暦の管理に努めていました。
一方江戸幕府は、天正18年(1590年)の関東入府以来、大経師の刷る京暦ではなく、地方暦の一つである三島暦(三島大社頒布)を使っていたようで、貞享改暦まではこれが幕府の公式の暦とされていたようです。つまり、公式的な造暦をめぐって朝廷と幕府との間で熾烈な指導権争いが行われていたということになります。
貞享元年(1684年)3月、800年の長きにわたって使われてきた宣明暦が廃止されることになります。宣明暦に代わり、当初は明の「大統暦」が採用されようとしましたが、結果的には実測に基づく貞享暦が翌貞享2年から採用されることになりました。
この貞享の改暦に伴い、暦の印刷・出版の独占を狙ったのが大経師・浜岡権之助です。このやり取りを巡って、浜岡は当時の京都所司代・稲葉丹後守の怒りを買い、浜岡家断絶となるのですが、この続きは次回にさせていただきます。
高見澤