東藝術倶楽部瓦版 20180607:朝廷と公家の監察-「禁裏付」と「仙洞付」

 

おはようございます。昨日の雨も止み、東京都心は雲が広がっているものの、落ち着いた朝を迎えています。昨日、関東甲信地方も梅雨入りしたとの宣言があり、いよいよ本格的な夏に向けた準備期間に入ります。一方、日本国内の社会情勢をみると、見聞きするのに耐えることができないような凄惨な事件が起き、政治は政治であさっての方向の議論で力を使い果たし、行政も事なかれの発想ばかりが優先されるために、却って墓穴を掘る結果に陥る、といったように、混迷というか、カオスの状態になっているような気がします。

 

さて、本日は「禁裏付(きんりづき)」と「仙洞付(せんどうづき)」について紹介していきましょう。禁裏付、仙洞付ともに朝廷、公家に対する江戸幕府の職制です。

 

先ず禁裏付です。「禁裏」とは、「禁中」とも呼ばれ、天子、すなわち天皇が住む宮中を指します。古くは「内裏(だいり)」とも呼ばれ、江戸時代には禁裏という呼称が使われていたようです。禁裏付は禁裏御所の会計・警衛や朝廷・公家衆・女官の監察などを司っていました。

 

禁裏付は老中支配で1,000石高の旗本役、役料は1,500俵、定員は2名で、配下としてそれぞれ与力10騎、同心40名が配されていました。勤務は当番制で毎日御所に参内、御所内にある御用部屋が詰所になっていました。官位は昇殿を許されない地下官人(じげかんにん、じげかんじん)の従五位下でしたが、朝廷内での幕府代表の立場として相当な権威・権勢があったとされています。

 

武家からの奏請を朝廷に取り次ぐ「武家伝奏」との折衝、京都所司代・京都町奉行と武家伝奏との取り次ぎ、天皇をはじめとする禁裏における諸事の記録などを行い、異常事態が起これば京都所司代に報告していました。また、朝廷の経理・総務業務部門の「口向(くちむき、くちむけ)」や食料品調達役の「禁裏賄頭(きんりまかないがしら)」の統括、禁裏における経理・会計の監督、禁裏内の警衛、朝廷内部で生じた事件の捜査、内裏普請の奉行など禁裏に関わる事項のほか、公家衆の行跡も監督していました。

 

禁裏付が初めて設けられたのは寛永20年(1643年)で、明正天皇の譲位と御光明天皇の即位に合わせて、高木守久(たかぎもりひさ、後に大目付)と天野長信(あまのながのぶ)の2名が任じられました。また、口向役人の経理会計不正発覚を機に、安永3年(1774年)に「京都御入用取調役」と「御所勘使御買物方(ごしょかんづかいおかいものかた)」を新設、禁裏付の支配下としました。慶応3年(1867年)に禁裏付は廃止されました。

 

次に仙洞付です。「仙洞」とは、元々は仙人の住む清浄界のことで、仙人が俗世を離れて深山に隠遁している理想的な人間を意味することから、そこから転じて退位した天皇、すなわち上皇や法皇の住まいを「仙洞御所」と称していました。

 

仙洞付は上皇在世中のみに設けられる臨時職で、仙洞御所に係る諸事を監督する役目を負っていました。老中支配で1,000石高の旗本役、役料1,000石でした。

 

禁裏付、仙洞付ともに老中支配ではあったものの、京都に在番中は京都所司代の配下として万事において指示を受けていたようです。現在でいえば、宮内庁といったところでしょうか。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月 7日 09:55に書いたブログ記事です。

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