東藝術倶楽部瓦版 20180612:東海道の要衝を押さえる「駿府城代」

 

おはようございます。昨日の雨も、夜9時半頃に帰宅の途についたときには止んで、今朝も曇ってはいますが雨に濡れることはありませんでした。今週は梅雨の間の晴れ間も見られるようですが、湿度は高く、気温以上に暑く感じる日が続きそうです。先週末の新幹線での殺傷事件、毎週大阪から新幹線で通っている同僚がいることもあり、逃げ場のない凶行を耳にするたびに、気の抜けないこの世界の異常さに違和感を感じる次第です。

 

さて、本日は「駿府城代(すんぷじょうだい)」について紹介していきたいと思います。駿府城代は、追って紹介する「甲府勤番支配(こうふきんばんしはい)」とともに、職制上は「遠国奉行(おんごくぶぎょう)」の上に置かれていた重職でした。

 

先ず駿河国の首府として栄えた駿府ですが、ここは室町幕府によって駿河守護に任じられた今川氏の館が置かれていたところです。その後、武田氏が今川氏を追放、一時駿河国を領有しますが、天正10年(1582年)に織田・徳川氏によって武田氏が滅亡すると、駿河国は徳川家康の支配下に置かれます。天正18年(1590年)に御北条家が滅亡し、家康が関東に移封されると、駿府には秀吉に仕えていた大名・中村一氏(なかむらかずうじ)が入城することになりました。

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、駿府は再び徳川家が支配することになり。慶長6年(1601年)に家康の異母弟・内藤信成(ないとうのぶなり)が駿河城主に任じられ、4万石の領主となります。その後、信成は近江4万石の長浜城主に移封され、秀忠に将軍職を譲った家康が大御所として駿府に隠居することになりました。

 

慶長14年(1609年)、家康の10男・頼宣(よりのぶ)が駿府城主として駿府藩50万石を与えられます。とはいえ、これは名目上のことで、家康が実権を握っていました。元和2年(1616年)に家康が死去、元和5年(1619年)に頼宣が紀伊和歌山城主に移封されます。その後、寛永元年(1624年)に家康の次男・忠長が駿府城主となるまで、一時的ながら駿府城代が置かれました。この間、渡辺茂、松平重勝、松平重忠の3名が城代を務めていました。

 

寛永8年(1631年)の忠長改易・蟄居、翌同9年(1632年)の忠長自刃によって、寛永10年(1633年)以降、駿府は江戸幕府直轄の天領となります。その際に大番頭を務めていた松平勝政が駿府城代に任じられ、以降幕末まで合計43名が城代を務めることになりました。その間、駿府支配の体制が徐々に構築されていきました。

 

駿府城代は老中支配で、普段は駿府に駐在していました。大坂城代が譜代大名職であったのに対し、駿府城代は大身旗本の役であり、老中支配の中では最高位の格式をもつ役職の一つで、大番頭から転じられた者も少なくありません。定員は1名で、役高は2,000石、諸大夫から任じられました。

 

駿府城代の主な任務は、駿府城の警護、修繕、管内の巡見のほか、毎年正月・4月・9月には将軍に代わって久能山(くのうざん)東照宮に参詣することでした。5~6年に1度は、将軍に御目見えのために出府していたようです。

 

駿府城代の下には、補佐役として「駿府定番(すんぷじょうばん)」〔老中支配、役高1,000石、役料1,500俵、慶安2年(1649年)設置〕、主力軍として「駿府在番」・「駿府勤番」〔在番としては江戸初期には大番、寛永16年(1639年)からは書院番が江戸から駿府にそれぞれ派遣、寛政2年(1790年)以降は常駐の駿府勤番組頭(駿府城代支配)が置かれた〕、駿府御武具奉行(駿府城内の武器・弾薬管理、駿府城代支配)、久能山総門番(久能山東照宮の管理、代々交代寄合の榊原宗家世襲、駿府城代支配)等がありました。

 

また、駿府城外の警護役として「駿府加番(すんぷかばん)」(老中支配)が置かれていました。大名1名の「大加番」、寄合旗本2名からなる「平加番」の3名が交代で務めていました。駿府加番は駿府城外に広大な役宅を有し、当初は「一加番(町口)」と「二加番(鷹乃森)」の2カ所でしたが、慶安4年(1651年)の慶安の変で首謀者であった由井正雪が駿府城下で自害した事件をきっかけに城外警備が強化され、「三加番(草深)」が増設されています。このほか、駿府の庶政を管掌する役方として「駿府町奉行」(老中支配、遠国奉行の一)も置かれていました。

 

駿府は東海道の要衝であり、江戸幕府にとっても押さえるべき重要な地であったわけです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月12日 07:01に書いたブログ記事です。

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