東藝術倶楽部瓦版 20180221:勉強会に向けてその⑥ー武断政治から文治政治へ、江戸城天守は再建されず

 

おはようございます。昨日、黒木さん、青盛さんと一緒に江戸城の下見をしてきました。天気も良く、まさに散歩日和で、城内は梅の花が見ごろでした。当日は、かなり歩く予定ですが、江戸のお話満載の勉強会にしたいと思っています。

 

さて、本日のテーマは江戸城の「天守」について紹介したいと思います。天守は俗称「天守閣」と称され、日本の城郭の本丸における中心となる櫓を指し、象徴的な建造物となるものです。室町時代末期、戦国時代以降の城に建てられました。明治6年(1873年)に廃城令が交付されて以降、多くの城が取り壊され、第二次世界大戦の際の空襲などもあって、現存している江戸期以前からの天守は、松本城、彦根城、犬山城、姫路城など12カ所となっています。

 

現在、江戸城には天守はありませんが、太田道灌が築城した際には、「静勝軒」という寄棟造の三重の天守があり、徳川家康が改築して以降は、慶長11年(1606年)から同12年(1607年)、元和8年(1622年)から同9年(1623年)、寛永13年(1636年)から同14年(1637年)の3回にわたって天守が築かれました。

 

慶長の天守は、慶長11年に高さ8間(約14.6m)の天守台が完成、翌12年に連立式層塔型五重五階地下一階の棟高22間半(約41m)の天守が黒田長政によって築かれたと言われていますが、外観や構造については諸説あり、詳しいことは分かっていませんが、このときの天守台及び天守は現在の天守台遺構の南側、富士見多門の辺りに位置していたと考えられています。

 

その後、二代将軍秀忠は、元和8年に本丸拡張工事を実施します。天守台や御殿を修築し、天下普請により元和9年(1623年)に、独立式層塔型五重五階地下一階の天守を建設しました。本丸改造の際に慶長の天守を撤去し、新たに天守台を築いて、その上に天守を建てました。加藤広忠、浅野長晟(あさのながあきら)によって築かれましたが、天守台の規模は慶長の時の三分の一、高さも7間(約12.7m)に縮小され、天守台と天守を合わせた高さは30間(約54.6m)だったと言われています。

 

さらに、三代将軍家光は、寛永14年に天守台と御殿を修築します。寛永15年(1638年)には元和の時と同じ独立式層塔型五重五階地下一階の天守が、黒田忠之と浅野長晟によって再建されました。高さは元和との時と同じ本丸地上から天守台を含め30間で、下総からも眺望できたと言われています。現存する天守台は、寛永期の天下普請の遺構がベースになっており、寛永の天守は元和の天守台に建てたものと思われます。

 

この寛永の天守ですが、四代将軍家綱の時、明暦3年(1657年)の明暦の大火で類焼してしまいました。明暦の大火では、本丸、二の丸、三の丸もほぼ全焼したようです。明暦4年(1658年)、加賀藩四代藩主の前田綱紀(まえだつなのり)の普請によって高さ18mの花崗岩の天守台が築かれますが、これが現在も東御苑に残る天守台になっています。


天守台は築かれたものの、近世の城郭にとって天守はあまり意味をもたなくなっていました。政務や居住のスペースとしては御殿がその役割を果たし、実際に将軍が天守に足を踏み入れる機会はほとんどなかったようです。

 

三代将軍家光の異母弟にあたる会津藩主の保科正之は、家光の死後、家綱の後見人として幕政に強い発言権を持っていました。明暦の大火の時、将軍家綱はまだ数え17歳で、大火の後の復興の陣頭指揮を執ったのがこの保科正之でした。正之は「天守はもはや無用の長物」として莫大な建設費と維持管理費が必要な天守の建設に反対します。その費用を城下の復興・再建にあてようという英断を下しました。

 

そもそも天守の主な用途は、戦の際の物見、武器庫、籠城の拠点で、日常的な使い道はほとんどありません。もう一つ、天守は巨大な軍事力、権力の象徴でもあります。徳川家に反感を持つ大名を牽制する意味でも、家康、秀忠、家光の時には天守を築く必要があったのかもしれませんが、家綱の頃には国内も安定し、大名統治の体制もほぼ固まっていました。まさに戦のない天下泰平の世が到来したと言えるでしょう。徳川幕府による統治の方針が、軍事力にものをいわせた「武断政治」から、法制を充実させることによって社会秩序を安定させる「文治政治」に移行したことを表すものであったのかもしれません。

 

家康が天守を築いてから明暦の大火までちょうど50年。以後、天守は再建されることはなく、城内にある三層の富士見櫓が天守閣の代用として用いられました。

 

高見澤

 

 

 



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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年2月21日 11:05に書いたブログ記事です。

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