東藝術倶楽部瓦版 20180222:勉強会に向けてその⑦ー江戸城の本丸御殿

 

おはようございます。昨日は、外出先からi-phonで送付したので、画像がうまく貼り付けられませんでした。今朝もまた朝立ち寄りがありますが、何とかパソコンで送付できますので、画像はちゃんと張り付けられているものと思います。

 

さて、本日のテーマは「江戸城の本丸御殿」です。

 

一般に将軍や大名ともなれば、天守に住んでいるかと思う人が多いかと思いますが、天守に住むことは稀で、通常は御殿と呼ばれる居住に適した建物に住んでいます。高層の天守は物見や籠城には便利ですが、生活するには部屋も狭く、上がったり下がったりと移動には不便で、住むには適した環境であるとは言えません。

 

当然、江戸城にも多くの御殿がありました。本丸御殿、二の丸御殿、三の丸御殿、西の丸御殿などです。本丸御殿は将軍の居住、政務、儀礼のほか、諸役人の執務の場として江戸城の中心的な役割を担う場所でした。二の丸御殿は将軍の別邸、西の丸御殿は隠居した将軍や将軍世継の住まいとして用いられていました。三の丸も将軍の別邸ではありましたが、文久3年(1738年)に撤去されています。これら御殿は、火事で焼失、その後再建されるなど、何回か建て替えられています。

 

本丸御殿が最初に建てられたのは慶長11年(1606年)です。その後元和8年(1622年)、寛永14年(1637年)に建て替えられましたが、同16年(1639年)に焼失、同17年(1640年)に再建が行われています。しかし、これもまた明暦3年(1657年)の明暦の大火で再度焼失、万治2年(1659年)に再び立て直しされました。その後は185年の間使われることになりますが、天保15年(1844年)焼失、弘化2年(1845年)再建、安政6年(1859年)焼失、万延元年(1860年)再建、文久3年(1863年)焼失と、再建と焼失を繰り返しています。文久3年の焼失以降は、本丸御殿は再建されず、従来の本丸御殿の機能は西の丸御殿に移されることになりました。

 

この本丸御殿は、諸役人が執務を行う幕府行政の中心機関としての表御殿、将軍の生活空間である中奥、そして将軍の夫人や女中が生活する大奥で構成されていました。

 

上の図は表御殿と中奥の配置図です。先ずは表御殿から。

1.中雀門(ちゅうじゃくもん):本丸表御殿の正門

2.能舞台:公的儀式の際に能を上演

3.大広間:400畳の巨大な広間、儀式・公式行事を執り行う

4.松之廊下(松之大廊下):忠臣蔵で有名な吉良上野介殺傷事件で有名

5.柳之間:大名登城時の控えの間

6.蘇鉄間(そてつのま):大名登城時の供侍の待機場所

7.虎之間:本丸警備の書院番の詰所

8.遠侍(とおさむらい):御徒(おかち、将軍警備の下級武士)の詰所

9.目付衆御用所:目付衆(旗本・御家人を監督する役人)の執務所

10.帝鑑之間:大名登城時の詰所

11.白書院:公式行事用の部屋

12.菊之間:警備護衛役のトップ「番頭」の詰所

13.雁之間:大名登城時の詰所

14.芙蓉之間:勘定奉行、寺社奉行、町奉行の詰所

15.黒書院:公式行事用の部屋

16.御用部屋:老中・若年寄の詰所

17.台所:将軍の食事を用意

18.台所前三重櫓:表御殿台所前にあった三重櫓

 

次は中奥です。

19.地震之間(じなえのま):堅牢な耐震建築

20.御休息:将軍の寝室

21.湯殿:将軍の風呂

22.囲炉裏之間:将軍が従者と憩う場所

23.御座之間:将軍の日常生活の部屋

24.奥能舞台:将軍上覧の能の場

25.御用人部屋:将軍の身の回りの世話をする側用人の控部屋

26.奥坊主部屋:将軍に茶を入れたり、大名の接待役をしたりする坊主の部屋

 

そして最後が本丸大奥です。大奥は将軍の私邸で、正妻である御台所(みだいどころ)を中心に、将軍の子、奥女中の生活の場でした。中奥とは仕切られており、御鈴廊下で結ばれていました。御台所の生活エリアである大奥御殿向(おおおくごてんむき)、役所機能の御広敷(おひろしき)、奥女中が生活する長局向(ながつぼねむき)に分かれていました。

 

新座敷:将軍の母の住居

御殿:多くの部屋が置かれている部分

対面所:大奥に外部からやってくる客を接待する場

御座之間:将軍と御台所が対面するための部屋

御休息之間・御化粧之間:御台所の生活の部屋

長局:奥女中たちの部屋

 

次回は、本丸以外の御殿について紹介します。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年2月22日 09:59に書いたブログ記事です。

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