東藝術倶楽部瓦版 20180223:勉強会にむけてその⑧ー別邸としての二の丸、隠居した後の西の丸

 

おはようございます。こう毎日朝から外出が続くと、なかなか実務が進みませんが、いろいろと勉強になることは確かです。今目の前で起きている現象もまた、自分にとって何かしらの意味があるのだと、ポジティブに解釈しています。

 

さて、本日も「江戸城の御殿」の続きをテーマにしたいと思います。前回は本丸御殿でしたので、本日は「二の丸御殿」、「三の丸御殿」、「西の丸御殿」について紹介致します。

 

まず二の丸御殿ですが、そもそも二の丸は本丸と同じく家康の入府時に三の丸との間にあった空堀を埋めたもので、本丸の東側に沿った細長い帯曲輪のような存在でした。時代が過ぎるにつれて、その空堀を埋めて三の丸に拡張するなど、次第に敷地が大きくなっていきました。寛永7年(1630年)、遊行のための庭園が小堀遠州の手によって造成されました。どのような形だったのかは分かりませんが、秀忠と家光との茶会が催されたとの記録が残っているようです。

 

寛永13年(1636年)、三の丸に向けて拡張工事が始まり、本格的な御殿が造営されます。通常の格式ばった御殿とは異なり、一種独特な雰囲気の建物だったようで、玄関や書院は汐見坂、すなわち西側を表にしていて、黒書院、御座之間、小座敷、学問所を長い廊下でつなげ、東側に庭園を配置していました。南側にある銅御門は、庭園と数奇屋風建築となっていて、水舞台、御茶屋を点在させるなど、将軍の別荘のように使用されていました。しかし、そのわずか7年後には解体されてしまいます。

 

寛永20年(1643年)、家光は嫡子の竹千代(後の家綱)のために、御殿を新たに立て直します。南側の銅御門を正面に据え、表、奥の御殿を設けるなど本丸御殿を簡略化した御殿に仕上げました。これ以降、二の丸御殿は将軍の隠居場所、或いは将軍生母の居場所など、本丸御殿に準拠する館として機能することになります。しかし、明暦の大火で二の丸御殿は焼失、越谷別殿をそこに移築しています。この家光の改築御殿の形体が基本となり、以後何度も焼失と再建を繰り返すことになりますが、江戸時代を通して同じ形で再建されてきました。記録に残っている二の丸御殿の造営は、宝永元年(1704年)、宝暦9年(1759年)、天保4年(1833年)です。慶応3年(1867年)に焼失した後、御殿は再建されていませんが、今では当時の庭園が復元されています。

 

江戸城三の丸は、家康入府時は外郭とされ、日比谷入江と接していました。平川を濠として堤防を兼ねた土塁には、いくつか木戸が設けられていたそうです。その後、三の丸は屋敷地として御殿が建てられましたが、二の丸の拡張の煽りを受けて敷地が大幅に減少します。内郭に組み込まれた小さな御殿と勘定所以外は空地となって、登城した大名の家臣の控え場になりました。この時、大手門が二の丸から三の丸に移転しています。そして、三の丸御殿は元文3年(1738年)に撤去されることになりました。

 

家康が入府した頃、現在の西の丸一帯は丘原で、田圃があって、春になれば桃、桜、ツツジなどが咲いて、遊覧の地であったようです。西の丸が創建されたのは文禄元年(1592年)から翌年にかけてのことで、創建当時は新城、新丸、御隠居城、御隠居曲輪などと呼ばれていました。西の丸大手門(現在の皇居正門)の内側、すなわち西の丸内は特に「的場曲輪」と呼ばれています。西側には山里馬場があり、後門が坂下門になります。今は一般には通行することはできませんが、かつては坂下門から紅葉山下を経て半蔵門に抜けられたそうです。

 

西の丸御殿は、隠居した将軍や世継の御殿として用いられたようで、本丸御殿と同じく表、中奥、大奥と仕切られていました。主な部屋としては、遠侍、殿土間、虎之間、大広間、大廊下、溜間、白木書院、帝鑑之間、連歌歌間、山吹之間、菊之間、雁之間、竹之間、芙蓉之間、中之間、桔梗之間、焼火之間、柳之間、梅竹之間、檜之間、蘇鉄之間などがありました。御殿や櫓などは、江戸時代においては寛永11年(1634年)、嘉永5年(1852年)、文久3年(1863年)の3度にわたって焼失しました。明治維新以降は明治6年(1873年)に焼失し、その後明治21年(1888年)に明治宮殿が建設されました。

 

尚、本丸御殿が文久3年に焼失した後は、本丸御殿は再建されずに、その機能は西の丸御殿に移されて幕府運営が行われていました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年2月23日 09:37に書いたブログ記事です。

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