東藝術倶楽部瓦版 20180226:勉強会に向けてその⑨ー江戸城北の丸

 

おはようございます。平昌オリンピックが終わり、連日連夜の賑わいも平昌パラリンピックが始まる3月9日までは一段落といったところでしょうか。

 

さて、本日は江戸城の「北の丸」について紹介していきたいと思います。家康が築いた頃の江戸城は、今の皇居東御苑にあたる本丸、二の丸、三の丸からなっていました。西の丸吹上御苑は、当初は尾張、紀伊、水戸の御三家の屋敷となっていました。しかし、明暦3年(1657年)の明暦の大火を契機に江戸の都市改造が進み、御三家の屋敷が江戸城外に転出し、西の丸は隠居した将軍や継嗣の御殿と用いられる西の丸御殿が建てられました。

 

江戸当初の北の丸は、竹藪を整備し、関東代官となった内藤清成〔弘治元年(1555年)~慶長13年(1608年)〕の屋敷や旗本屋敷に割り当てられ、代官町と呼ばれていました。今でもその名残りで「代官通り」が皇居東御苑と北の丸公園の間を通りぬけています。その後、江戸城の整備が進み、秀忠の三男・徳川忠長〔慶長11年(1606年)~寛永10年(1634年)〕、家光の三男・徳川綱重〔正保元年(1644年)~延宝6年(1678年)〕等の屋敷を経て、大奥に仕えた女性たちの近居所となりました。家康の側室であった「阿茶の局(一位様)」、秀忠の長女「千姫(天樹院)」、家光の乳母「春日の局(お福)」などがここで余生を過ごしました。

 

八大将軍吉宗は、家康の「御三家」に倣い、子や孫で「御三卿」を興します。享保15年(1730年)、吉宗の次男「宗武(むねたけ)」が田安家を興し、北の丸の西半分1万3,841坪の屋敷を拝領します。続いて元文2年(1737年)、四男「宗尹(むねただ)」が一橋家を興し、江戸城外郭の一橋門内に屋敷を構えました。宝暦9年(1759年)には、吉宗の孫で九代将軍家重の次男「重好(しげよし)」が清水家を興し、北の丸東半分の1万4,510坪の屋敷を拝領しました。

 

御三家、御三卿については、またあらためてご紹介しますが、ここでは簡単に触れておきたいと思います。御三家が将軍家と血縁が薄まっていくなかで、御三卿は、家格は御三家に継ぐものとして、将軍家の後継ぎがいないときにこの御三卿から選ばれる資格を持つ家柄となります。御三卿とも古くからある田安門、一橋門、清水門に屋敷が隣接していることから、それぞれその門名を家名とし、田安家、一橋家、清水家としたわけです。十一代将軍家斉以降は、一橋徳川家が将軍を排出しており、江戸幕府最後の十五代将軍慶喜は水戸徳川家の出身ではありますが、一橋家の養子となってから将軍となりました。

 

現在この北の丸は、環境省が管理する国民公園の一つ「北の丸公園」になっており、多くの小鳥や植物の生育を楽しむことができます。また、武道館もこの北の丸にあり、コンサートやイベントの際には大勢の人で賑わいます。また北の丸から内堀にかけて、桜の名所「千鳥ヶ淵」もあります。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年2月26日 09:43に書いたブログ記事です。

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