おはようございます。今朝の東京は少し暖かく感じています。昨日も昼食で外に出た際も、コートを着なかったのですが、それほど寒さを感じませんでした。その分、花粉が舞う季節が近づいてるようで、花粉症の方には辛い時期になってきます。
さて、本日は徳川家康以降の「江戸城の歴史」について紹介していきたいと思います。天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、徳川家康は北条氏の旧領である関八州(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野の一部、常陸の一部)に移封され、同年8月1日に家康は江戸に入府しました。
北条氏時代の江戸城は、道灌が築城したまま利用していたものと考えられていますが、その後、家康が江戸城に入ることによって大改修が施されます。家康は、道灌時代の子城、中城、外城に分かれていた曲輪(くるわ)を一つにまとめて本丸とし、高台の下に二の丸、三の丸を設け、さらに隠居城として西の丸を設置しました〔文禄元年(1592年)〕。
慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍になると、江戸城は単なる居城ではなく、政治・経済上での中心地としても位置付けられ、更なる整備が必要となりました。以後、各地の大名を動員して天下の普請が行われます。家康の代では終わらず、2代将軍秀忠、3代将軍家光へと引き継がれ、慶長11年(1606年)から寛永13年(1636年)まで大工事が7回行われました。万治3年(1660年)から神田川お茶の水の拡幅工事が行われ、一連の天下普請は終わりますが、最終的には、宝永7年(1710年)、6代将軍家宣のときに芝口門(しばぐちもん)が建てられ、東西約5㎞、南北3.9㎞に及ぶ日本最大の城が出来上がりました。
高見澤